淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第六十一話「遠国から届く報せ」

 朝、書院の机の上には思っていたほど多くの書付が積まれていなかった。坂田から届いた報告は既に担当する者の手で仕分けられ、先日の動員に参加した家々からの書付も、家中で直せるものと六角全体で考えるべきものとに分けられている。近習が運んできた箱の中身を一つずつ確かめても、急ぎ俺の判断を必要とするものは僅かだった。

 

 机の向こうで書付を並べている小姓たちの手は淀みなく動き、廊下からは使者を取り次ぐ声や足音が途切れず聞こえてくる。

 

「若様。こちらが後藤殿より届いたもの、こちらが目賀田殿より届いたものにございます。三雲殿からの書付につきましては、御屋形様の方にも同じものが上がっております」

 

 小姓が差し出した書付を受け取り、まず後藤但馬守からのものを開いた。先日の動員で荷駄が遅れた理由と、その後家中で話し合った改善について簡潔に記されている。以前の俺なら、その方法で本当に足りるのかと考え、別の家のやり方と比べ、こちらから更に細かな指示を返していたかもしれない。だが今は、書かれた内容に明らかな問題がないことだけを確かめ、そのまま次へ移った。目賀田家の書付も同じように読み、家を跨ぐ問題だけを別の紙へ抜き出していく。

 

 自分で考えなくなったわけではない。むしろ、何処まで考え、何処から先を相手へ返すのかを決める方が難しかった。書付を読むたびに、こうした方が早いのではないかという案は浮かぶ。それでも筆を取る前に一度止まり、その問題が本当に俺から答えを出すべきものなのかを考える。先日の動員で見たかったのは、俺が道端に立って指図しなくても次には動きが変わるかどうかだった。ならば、動かす前から答えを渡してしまっては意味がない。

 

 何枚か読み終えたところで、廊下から足音が近付いた。襖の向こうで取り次ぎの声があり、入ってきた近習が一通の書状を差し出す。朽木からではないと分かると、ほんの僅かに肩の力が抜けた。

 

 弥五郎へ文を出してから、まだそれほど日は経っていない。急いで返事を求めるような内容でもなかったのだから当然なのだが、使者が来るたびに一瞬だけ期待してしまう。政治の書状なら返事が数日遅れようが、その間に別の仕事を進めればいい。ところが「遊びに行ってもよいか」と尋ねた文の返事を待つというのは、どうにも勝手が違った。

 

「また朽木からかと思われましたか」

 

 書付を抱えて戻ってきた弥太郎が、こちらの顔を見るなり口元を緩めた。

 

「何も言っていないだろう」

 

「ええ。ですから私も何も申し上げておりませぬ」

 

 言いながら笑っているのだから同じことである。俺は相手をせず、届いた書状へ視線を戻した。

 その日の昼過ぎ、城内へ別の報せが入った。

 

 最初に聞いた時には、まだ何処まで信じてよいのか分からない話だった。甲斐の武田と越後の上杉が信濃で激しく戦い、双方に大きな損害が出たという。遠国の出来事だけに、誰か一人が直接見て持ち帰った報告ではない。京を経てきた者の話、東国から戻った商人が聞いた話、さらにその者から聞いた者の話まで混ざっている。夕刻までには別の筋からも似た報せが届いたが、細部はむしろ食い違っていた。

 

 一つの話では、上杉勢が武田の陣深くまで攻め込んだという。別の話では、武田がこれを押し返して上杉勢へ大きな損害を与えたとされる。武田方の名ある将が討たれたという話もあれば、上杉方こそ多くの兵を失ったという話もあり、聞けば聞くほど「どちらが勝った」という簡単な形から遠ざかっていった。

 

 それでも、川中島という地名を聞いた瞬間、胸の奥に引っ掛かるものがあった。

 

 前世で戦国を好んでいた者なら、知らない方が難しい戦いだ。武田信玄と上杉謙信が幾度も争った川中島。その中でも特に激しい戦いとして後世まで語られたものが、確かこの頃にあったはずだった。武田の軍師がどう動いた、上杉謙信が信玄の本陣へ斬り込んだ、啄木鳥戦法がどうしたといった話は覚えている。だが、それらのどこまでが後世に整えられた話で、どこまでが実際に起きたことだったのかとなれば、前世の俺も史料を専門に研究していたわけではない。

 

 何より、目の前にあるのは歴史の本ではなく、今この時代を通ってきた人間たちの言葉だった。

 

 俺は机の上へ二つの書付を並べた。片方には上杉が武田の陣へ深く攻め込んだとあり、もう片方には武田が上杉を退けたとある。どちらも嘘を書こうとしているようには見えない。伝わってきた道が違い、話を聞いた場所も違えば、見えている戦の姿まで変わるのだろう。坂田で同じ道について「荷馬なら通れる」と「雨の後は荷が進みにくい」という二つの報告が並んだ時と似ている。どちらかを間違いとして捨てれば簡単だが、それでは見えるものまで減ってしまう。

 

 第四次川中島――おそらく、そうなのだろう。

 

 だが、その名前を知っていることと、今ここで何が起きたのかを知っていることは同じではなかった。俺は前世の記憶を確かめるように頭の中を探ったものの、すぐにやめた。今必要なのは、記憶の中にある合戦図へ目の前の報せを無理に当てはめることではない。

 

 翌日、父上から呼び出しがあった。

 

 通された部屋には父上だけがいて、庭に面した障子が半ばまで開けられていた。九月に入っても昼には暑さが残るが、吹き込んでくる風は少しずつ乾き始めている。庭木の葉が擦れる音を聞きながら座ると、父上は手元に置いていた数枚の書付をこちらへ滑らせた。内容を確かめれば、やはり川中島についてのものだった。

 

「四郎。そなたも既に聞いておろう。武田と上杉が随分派手にやったらしい。もっとも、こちらへ届く頃には話が膨らんでおるかもしれんがな」

 

「はい。昨日から幾つか見ましたが、上杉が武田の本陣近くまで押し込んだという話もあれば、最後には武田が退けたという話もあります。今のところ、どれか一つだけを信じるのは難しいかと」

 

 父上は俺の返事を聞きながら、一枚の紙を指先で軽く叩いた。そこには武田方の損害について書かれているが、数については俺が昨日見たものとも違っている。父上もそれを承知しているのだろう。正しい数字を探すような顔ではなく、むしろ俺がどこを見るのかを待っているようだった。

 

「城では既に、どちらが勝ったかで話しておる者もいる。そなたはどう見る?」

 

 以前なら、知識の中にある「第四次川中島の勝敗」を引き出そうとしたかもしれない。だが、机に並んだ紙の上では、上杉が武田の陣を崩したという話と、武田が戦場へ残ったという話が同時に存在している。仮にどちらもある程度正しいとしても、それだけでは足りない。先日の動員で、最初の兵が着いた時刻だけを見ても軍全体が到着したことにはならなかったように、戦場の一場面だけを切り取って勝敗を決めても、その後まで同じ形が続くとは限らない。

 

「今届いている話だけなら、決めない方がよいと思います。上杉が武田の陣へ深く入ったのが事実でも、その後に兵をどれだけ残して越後へ戻れたのかが分かりません。武田も戦場に残ったから勝ちというなら、失った家臣や兵がどれほどで、次に信濃へどれだけ力を向けられるのかを見なければならないでしょう。少なくとも、遠く離れた近江から今すぐ片方へ勝ちと書き込めるほど、話は揃っておりません」

 

「勝った方を当ててみせようとはせぬか」

 

「外したところで困るのは私ですから」

 

 父上の口元が僅かに動いた。

 

「それもあるが、そなたは昔なら、知っておることを全部並べてから答えを作ろうとしたであろうな。まあよい。甲斐や越後が明日こちらへ攻めてくるわけでもない。遠国の戦ほど、人は早く勝ち負けを決めたがるものよ。近くの戦なら、その後始末まで自分たちの目に入るからな」

 

 父上はそう言うと、川中島の書付を一つに纏め、脇へ寄せた。話はそれで終わりらしい。俺もそれ以上、自分の記憶にある信玄や謙信の話を掘り返すことはしなかった。いずれ東から人が戻り、話が重なれば今より輪郭は見えてくる。それまでは、分からないものを分からないまま置いておけばいい。

 

 *

 

 川中島の報せが届いてから数日が過ぎると、城内でその話を耳にする回数も少しずつ減っていった。新しい情報が途絶えたわけではないが、近江にいる俺たちには、遠国の戦だけを眺め続けている暇はない。坂田からは村境についての確認が届き、目賀田からは市と道に関する書付が上がってくる。先日の動員に参加した家々も、それぞれ次に備えて動いている。九月の陽射しが少しずつ柔らかくなるのと同じように、川中島という大きな名も、日々届く紙の中へゆっくり埋もれていった。

 

 その日の午後も、俺は坂田から届いた書付に目を通していた。庭側の障子から差し込む光は既に傾き始め、机の上に積まれた紙の端を黄色く照らしている。最後の一枚を畳み、次へ手を伸ばそうとしたところで、廊下を急ぐ足音が聞こえた。

 

 襖の向こうで声が止まり、取り次ぎを経て一通の書状が運ばれてくる。

 

「若様。朽木より使者にございます」

 

 今度は、手を伸ばすまでに間を置かなかった。

 

使者から受け取った文は、俺が弥五郎へ送ったものへの返書だった。政治の話なら先に父上へ通すべきものもあるが、今回は最初から私的な文である。封を解き、紙を開いて目を通すと、思わず最初からもう一度読み直した。難しいことが書かれていたからではない。むしろ逆だった。

 

「……これだけか」

 

 向かいで別の書付を纏めていた弥太郎が顔を上げた。俺が差し出した紙を受け取り、目を走らせる。その口元が少しずつ緩んでいくのを見て、渡さなければよかったとすぐに後悔した。

 

「十分ではございませぬか。若様が都合のよい時に来ればよい、小夜も喜ぶであろう、と。これ以上何が必要なのでございます?」

 

「いや、必要なことは書いてある。書いてあるんだが……俺はあれを書くのに随分悩んだぞ」

 

「それは弥五郎様のせいではございませぬ。若様が『遊びに行ってよいか』というだけの文を、何か重大な申し入れのように考えておられたからでしょう」

 

 否定出来ないのが腹立たしい。俺は返書を取り戻し、もう一度紙面へ目を落とした。弥五郎の文は短い。こちらが訪ねることに異存はなく、小夜も喜ぶだろうから都合が決まれば知らせてほしい。それだけで、余計な探りもなければ、何のために来るのかと問い返してもいない。俺が政治とは関係なく訪ねたいと書いたから、その言葉をそのまま受け取ったのだろう。

 

 小夜も喜ぶ。その一文で、出立の日を早く決めたい気持ちが強くなった。婚儀の後に小夜を見送ってから、まともに顔を合わせていない。朽木でどう暮らしているのか、弥五郎との生活には慣れたのか、文では伝わらないこともあるだろう。もっとも、それを尋ねるためだけなら俺が行かなければならない理由はない。だからこそ今回は、理由を作る必要もないのだと思えた。

 

「父上にも伝えて、日を決めるか。十月のうちに何日か空けられれば――」

 

 そこまで口にした時、襖の向こうから別の声がした。取り次ぎを許すと、先ほどとは別の近習が入ってきて、今度は数枚の書付を差し出す。急ぎというほどではないらしいが、朽木方面から入った話が含まれているという。

 

 弥太郎と顔を見合わせた。

 

「今日は朽木からよく来るな」

 

「若様が行きたいと仰っているのを、向こうも知っているのでございましょうか」

 

「そんなわけがあるか」

 

 受け取って中身を確かめる。最初の一枚は塩津方面を行き来する者から入った話で、船や市についての簡単な記述がある。次も似たような内容だった。ところが最後の一枚へ移ったところで、俺の指が止まった。

 

 弥五郎が領内を治めるための法を定めたらしい。

 

 書かれているのはそれだけではなかったが、俺の目はその部分からなかなか離れなかった。法の細かな中身までは記されていない。家中や領内へ示す決まりを整えているという話があり、既に一部は触れ回られているらしい。誰が最初に聞いた話なのかも明確ではなく、これだけなら噂に近い。けれど、弥五郎が浅井を倒した後に何をしてきたかを考えれば、荒唐無稽な話とも思えなかった。

 

 俺は先ほどの返書を机の上へ置き、その隣へ新しい書付を広げた。

 

 浅井との戦が終わってから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。伊香や浅井の土地には、昨日まで浅井の下で生きていた者がいる。村も寺も市も消えたわけではなく、それぞれが以前からの決まりや権利を抱えたまま、新しい支配の下へ入っている。城を落とし、敵の当主を捕らえれば戦は終わる。しかし、その翌日から土地に住む者すべてが同じ考えになるわけではない。坂田へ入ってから俺自身、それを嫌というほど見てきた。

 

 弥五郎も同じものを見ているはずだ。

 

 ただし、選んだやり方が俺と同じとは限らない。六角には六角として長く積み重ねてきた家臣や仕組みがあり、坂田についても後藤や目賀田、三雲たちの目を借りながら、まず以前からあるものを壊さず確かめている。一方、弥五郎は朽木という家を率いながら、一気に広がった土地を自分の下へ組み込まなければならない。そのために法という形を選んだのだとすれば、何を残し、何を変えようとしているのか。

 

 そこまで考えて、俺は紙から顔を上げた。

 

「弥太郎。朽木で法を定めたという話を、何か聞いているか?」

 

「いえ、詳しくは。ただ、弥五郎様が近頃随分と書付を集めておられるという話なら、小夜からの文にも少しございました。政のことまで細かく書いてきたわけではございませぬが」

 

「小夜から?」

 

「はい。少し前に届いたものです。私宛ての文でしたので、若様にはお見せしておりませぬ」

 

 それは当然だ。兄妹の文まで俺へ見せる必要はない。だが、弥太郎の話では、小夜は弥五郎が夜遅くまで紙を広げていることを気にしていたらしい。食事の時刻になっても区切りを付けず、声を掛けてようやく筆を置くことがあるという。政治の中身を知らせるための文ではなく、夫が働き過ぎていることを兄へ零しただけなのだろう。

 

 弥太郎は話しながら、机に置かれた返書と俺の顔を順に見た。

 

「弥五郎様も、若様とよく似たことをなさっているようでございますな。小夜も、こちらにいた頃は若様が書付ばかり読んでいるのを見ておりましたから、朽木へ嫁いでも似たような者を見ることになるとは思っていなかったでしょう」

 

 返す言葉を探しているうちに、弥太郎は素知らぬ顔で別の紙を纏め始めた。これ以上相手をすれば負けたような気がして、俺も口を閉じる。

 

 それでも、小夜の文について聞いたことで、机の上にある「法」という文字が少し違って見えた。領主が法を定めたと聞けば、大きな政策のように見える。だが、その裏では弥五郎が夜まで机に向かい、何度も書付を見直し、小夜に食事を促されている。俺が坂田の帳面を前にしていたのと、それほど違わない光景なのかもしれない。

 

 知りたい、という気持ちは強くなった。

 

 どのような条文なのかだけではない。なぜその決まりを必要だと考えたのか、浅井の旧領へ何を求め、朽木の者には何を守らせようとしているのか。出来上がった紙だけを読んでも、その全部が見えるとは限らない。弥五郎本人から聞けば、書かれていないところまで話せるかもしれない。

 

 そこまで考えたところで、俺は廊下へ声を掛けかけて止まった。

 

 呼ぼうとしたのは、朽木方面の話を集める者だった。

 

 別に不自然なことではない。隣接する勢力がどのような決まりを作ったのか知ることは、六角にとって無駄ではない。公に触れられている法なら、いずれ内容も伝わってくるだろう。だが、今の俺が知りたいのは六角の判断に必要だからではなく、弥五郎が何を考えて作ったのかという部分だった。それを理由に人を動かし、写しを探させるのは何か違う。

 

 視線を落とすと、法についての書付のすぐ横に、弥五郎からの短い返書がある。

 

 本人に聞けばいい。

 

 近いうちに会いに行こうとしている相手なのだから、なおさらだった。

 

「若様?」

 

 呼びかけようとして止めた俺を、弥太郎が不思議そうに見ている。

 

「いや、何でもない。今の話について、こちらから誰かを動かす必要はない。公になったものが入ってくるなら見せてくれ。それ以上は要らない」

 

「承知いたしました」

 

 弥太郎は理由を尋ねなかった。俺も説明を足さず、二枚の紙を重ねようとして手を止める。弥五郎の返書は政治の書付とは別にしておいた方がいい。そう考えて一方だけを手元へ残したところで、今度は別の問題が頭へ浮かんだ。

 

 父上から朽木へ遊びに行く許しを得た時、何と言われたか。

 

 向こうの帳面を見せろなどと言うな。

 

 あの時は冗談交じりに聞いていたが、まさか出立する前から見たいものが出来るとは思わなかった。

 

「……弥太郎」

 

「何でございましょう」

 

「父上には、この話はまだするな」

 

 弥太郎の手が止まった。ゆっくりとこちらへ顔を向け、その目が細くなる。

 

「若様。まさかとは思いますが、弥五郎様が法を定めたと聞いた途端、朽木へ行く理由が変わったなどとは仰いませんよね?」

 

「変わっていない。小夜の顔を見に行く。弥五郎とも話す。それは最初から同じだ。ただ、会った時に少し聞いてみたいことが増えただけだ」

 

「少し、で済めばよろしいのですが」

 

 そこまで言われると弱い。俺は返書を畳みながら、父上に知られたところで止められるような話ではないと自分に言い聞かせた。遊びに行くことと、会った相手に話を聞くことは両立する。問題は、俺がそれを口実に朽木の政を調べ始めないことだ。

 

 日を決めよう。

 

 そう考えて予定を確かめるための書付へ手を伸ばしたが、九月から十月にかけての欄には既に幾つか外せないものが入っていた。坂田から上がってくる確認も残っている。各家の動員後の改めも、俺が全てを見る必要はないとはいえ、六角全体に関わる部分だけは父上へ上げなければならない。さらに京から届く文も増えており、数日まとめて観音寺を空けられるところを探すと、思ったより簡単ではなかった。

 

 弥五郎からの返書には、いつでも来いという意味の言葉がある。だからといって、本当に明日出てよいわけではない。こちらにも向こうにも、それぞれの日々がある。

 

「すぐには無理だな」

 

「弥五郎様は逃げませぬ。小夜も朽木におります。焦らずともよろしいでしょう」

 

「ああ。十月の仕事を見てから決める。無理に空けて行けば、結局向こうでこちらのことが気になる」

 

 そう答えて返書を机の端へ置いた。

 

 *

 

 それからしばらく、朽木へ向かう日は決まらなかった。

 

 九月が深まるにつれて朝夕の空気は目に見えて冷たくなり、観音寺の山肌にも少しずつ秋の色が混じり始めた。坂田から届く紙には稲刈りや年貢に関わる話が増え、城へ出入りする者の衣にも一枚余計に重ねる者が目立つようになる。川中島についても新しい話が時折入ってきたが、最初の頃のように城中がその話一色になることはなかった。

 

 俺の机の上でも同じだった。

 

 遠い戦についての書付は纏めて箱へ収められ、その上には坂田や京、家中から届いた新しい紙が重なっていく。けれど、弥五郎から届いた私的な返書だけは、その箱には入れなかった。政務の紙と混ぜる必要がないというだけの理由で机の端に置いていたはずなのに、日が経つにつれて、それがまだ果たしていない約束のように見えてくる。

 

 十月も半ばを過ぎた頃、ようやく先の予定にまとまった空きが見え始めた。

 

 その日の夕刻、最後の書付を閉じて顔を上げると、障子越しの光は既に薄く、庭の木々は輪郭だけを残していた。遠くから聞こえる人の声も昼間より少なく、廊下を歩く足音がやけに鮮明に響く。

 

 俺は机の端に置いてあった弥五郎の返書を手に取った。

 

「弥太郎」

 

「はい」

 

「父上に、十一月の初めに数日観音寺を離れてよいか聞いてくる。今度こそ朽木へ行こう」

 

 弥太郎は手元の紙から顔を上げ、俺が持っている文を見ると、小さく頷いた。

 

「では、小夜にも一筆送っておきます。若様が突然現れたら、あれも驚くでしょうから」

 

「弥五郎には?」

 

「若様がお書きください。今度は『いつ行く』だけなのですから、前のように半刻も筆を止めることはございますまい」

 

「……あれは半刻も悩んでいない」

 

「では、そういうことにしておきます」

 

 弥太郎が笑いながら新しい紙を取り出す。その横で俺も筆を取り、弥五郎への文を書き始めた。今度は最初の一文字で手が止まることはなかった。

 

 翌朝、父上の部屋を訪ねた時には、山の上を渡る風が障子を僅かに鳴らしていた。夏の間なら開け放されていた庭側の障子も今は半ばまで閉じられ、差し込む朝の光もどこか淡い。廊下を行き交う者の衣擦れの音を背に襖を閉め、父上の前へ座ると、こちらが口を開くより先に父上の視線が俺の手元へ向いた。

 

「四郎。その文を見る限り、ようやく日を決めたようだな」

 

「十一月の初めなら、数日ほど空けられそうです。弥五郎殿にもその頃で構わないか、改めて文を出しました。返事を頂いて問題がなければ、そのまま向かおうかと思っています」

 

 父上は頷き、傍らに置いていた書付を一枚ずつ重ねた。俺が本当に数日観音寺を離れても問題がないかを確かめるように、坂田や家中の予定について幾つか尋ねてきた。俺も自分がいなければ進まないものが残っていないこと、急ぎの判断が必要になれば使者を出してもらえばよいことを伝える。三日の休みを命じられた時とは違い、今度は「自分がいなくても大丈夫なのか」と考えることに抵抗はなかった。

 

「ならば構わぬ。前にも申したが、供は連れて行け。弥太郎だけ連れて気軽に出掛ける、などとは考えるなよ。そなたが遊びに行くつもりでも、六角の嫡男であることまで休みには出来ぬからな」

 

「分かっています。近習も何人か連れて行きます。それと――」

 

 そこで言葉を止めると、父上が眉を僅かに上げた。隠すほどのことではない。むしろ黙ったまま行けば、後で知った時の方が面倒になる。

 

「朽木で、領内の法を定めたらしいという話が入っています。まだ詳しい中身までは分かりませんが、弥五郎殿が浅井の旧領を含めて治めるために、何か形を整え始めているようです」

 

 父上はすぐには返さなかった。俺の顔を見た後、視線を手元の書付へ落とし、指先で紙の角を揃える。その動きが妙にゆっくりだったので、次に何を言われるかはだいたい予想出来た。

 

「それで、朽木へ遊びに行く話が、いつの間にか弥五郎の政を調べに行く話へ変わったわけか」

 

「変わっていません。小夜の顔を見たいのも、弥五郎殿とゆっくり話したいのも最初から同じです。ただ、会うのであれば、その法について本人から聞いてみたいとは思っています」

 

「ほう。本人から、か」

 

 父上の口元が僅かに緩んだ。俺が何を言わなかったのかまで見られたような気がする。朽木の法について知りたいだけなら、三雲や甲賀の者へ命じて調べさせることも出来る。公に示された内容なら、こちらから動かずともいずれ伝わってくるだろう。それでも、弥五郎が何を考えて定めたのかまで知りたいなら、本人と話す方が早い。

 

「それなら好きにせよ。弥五郎が話したくないと申せば、そこで止めればよいだけのことじゃ。もっとも、遊びに来た義兄がいきなり法の話ばかり始めれば、小夜に追い出されるかもしれんがな」

 

「そこまで小夜も酷くありません」

 

「どうであろうな。そなたも弥五郎も、放っておけば書付を前にいつまでも話していそうではないか。小夜が止める役になる姿は容易に浮かぶぞ」

 

 反論しようとして、弥太郎から聞いた小夜の文を思い出した。既に弥五郎は食事の時刻まで紙と向き合い、小夜に声を掛けられているらしい。そこへ俺まで加われば、父上の言う光景が本当に出来上がりかねない。

 

「……気を付けます」

 

 父上はそこで話を切り、俺が持ってきた日取りへもう一度目を通した。十一月上旬。弥五郎から了承が届けば、その頃に観音寺を出る。季節を考えれば、往来に雪を心配するほどではないが、山へ近付けば朝夕はかなり冷えるだろう。供の人数や道中の宿については近習に任せればよく、俺が一つ一つ決める必要はない。

 

 ただ、坂田から北へ向かう道を通るなら、一つだけ見ておきたいことがあった。

 

「父上。篠も連れて行ってよいでしょうか」

 

「篠を?」

 

 今度は父上の目から笑いが消えた。反対しているわけではない。ただ、遊びに行く話の中で甲賀の女の名を出した以上、その理由を確かめようとしているのだろう。

 

「小夜を見張らせるつもりはありません。以前と同じです。坂田から北へ抜け、塩津へ向かう途中で、人の出入りや土地の様子を見てもらいたいと思っています。旧浅井領が朽木と六角に分かれてから、まだ日も浅い。道を行く者が何を話しているのか、市や村で六角と朽木がどう見られているのか。私が供を連れて通れば、こちらを意識して普段とは違う顔を見せる者もいるでしょうから」

 

 父上は黙って聞いていた。俺もそこで言葉を足すのをやめる。篠に期待するのは、人の顔や声から拾えるものだ。軍勢の数を数えさせるわけでも、朽木の城内へ潜らせるわけでもない。まして、小夜が夫と何を話しているかを探らせるつもりはなかった。

 

「そこまでなら構わぬ。ただし、何を見てよいかは先に伝えておけ。『様子を見よ』という命ほど、受ける者によって広がるものはない。そなたが人の様子だけを求めているつもりでも、相手が役に立とうとして余計なところまで覗けば、同じことにはならぬからな」

 

 その言葉に俺は少しだけ考えてから頷いた。篠ならこちらの意図を汲むだろうという考えが頭のどこかにあった。しかし、それは命じる側が曖昧でよい理由にはならない。相手が優秀だからこそ、出来ることの範囲は広い。何を求め、何を求めていないのかをこちらが示さなければ、その広さそのものが危うくなる。

 

「人の出入りと、道中で耳にする話。それから、六角や朽木に対して土地の者がどのような顔をするか。その程度に留めます。城内のことを探らせるつもりはありません」

 

「ならば、そのように命じよ」

 

 父上はそれ以上口を挟まず、今度こそ話を終えた。

 

 *

 

 篠へ話をしたのは、その日の午後だった。

 

 庭の木々はところどころ葉の色を変え始め、風が吹くたびに乾いた葉が縁側の先を転がっていく。篠はいつものように目立たぬ装いで現れ、俺の前へ座ると、こちらが用件を話し始めるまで静かに待っていた。

 

「十一月の初めに朽木へ行くことになった。小夜の顔を見て、弥五郎と話すためだ。お前にも同行してほしい」

 

 篠の目が僅かに動いたが、口を挟むことはなかった。俺は机の上へ簡単な道筋を書いた紙を広げ、坂田から北へ向かう道を指で辿った。

 

「見てほしいのは、この道を行き来する者と、途中の村や市の様子だ。旧浅井の土地が分かれてから、六角と朽木を土地の者がどう見ているのか、旅人や商人がどんな話をしているのか。その程度でいい。朽木の兵の数や蔵、船の数を調べる必要はない。城へ入ってからも同じだ。小夜の周りを探る必要もない」

 

 篠は紙へ目を落とし、俺が示した道筋をしばらく眺めていた。やがて顔を上げると、確認するようにゆっくり口を開いた。

 

「道と人を見て、聞こえてくる話を拾う。朽木家の内側へ手を入れる必要はない、ということでよろしいですか」

 

「ああ。今回はそれで十分だ。何か気になるものがあっても、勝手に奥へ入らず俺へ知らせてくれ。そこから先が必要かどうかは、その時に決める」

 

「承知しました」

 

 返事は短かったが、篠はもう一度紙へ視線を落としてから畳んだ。命じた範囲を自分の中で確かめているように見えたので、それ以上細かな方法までは指定しなかった。どの村で誰に声を掛けるか、どの道を先に見るかまで俺が決めれば、結局は彼女の目を借りる意味がなくなる。

 

 篠が退出した後、入れ替わるように弥太郎が部屋へ入ってきた。何の話をしていたかまでは聞いていなかったらしいが、机に残った道筋を見ると、おおよその見当はついたようだった。

 

「若様。遊びに行かれるのでございましたよね?」

 

「遊びに行く。これは道中で見るだけだ」

 

「御屋形様が仰っていた帳面は見なくとも、道はご覧になると」

 

「目を閉じて朽木まで行けというのか」

 

 弥太郎は笑いを噛み殺すように口元へ手を当てた。俺も言い返しながら、今回ばかりは自分でも境目が危ういことは分かっていた。仕事のために朽木へ行くわけではない。だが六角の嫡男である以上、道を通りながら何も見ないというのも不自然だ。ならば、見るものを決め、その先へ勝手に広げない。それくらいが俺に出来る休み方なのだろう。

 

「それより弥太郎。小夜へ文は出したのか?」

 

「既に。若様が十一月の初め頃に行かれるかもしれぬと書いておきました。小夜から返事が来ればお見せしますが、私宛てのところまで勝手に読まれては困りますぞ」

 

「読まん。兄妹の文まで読むほど暇ではない」

 

 弥太郎の笑い声を聞きながら、俺は机に残った紙を畳んだ。

 

 数日後、弥五郎から日取りについて了承する返書が届いた。今度の文も短く、十一月上旬なら問題ないことと、道中気を付けて来るようにという程度しか書かれていない。小夜から弥太郎へ届いた文の方がよほど長かったらしく、受け取った弥太郎は俺の前で読みながら何度か笑っていたが、中身を尋ねても「兄妹の文でございます」と言うだけで見せようとはしなかった。

 

 それでいい。

 

 小夜が兄へ書く言葉まで、俺が知る必要はなかった。

 

 十月の終わりが近付くにつれ、机の上から朽木へ行く前に片付けるべき書付が少しずつ減っていった。川中島について最後に纏められた報告もその中にあり、武田も上杉も大きな損害を受けたらしいこと、有力な者が幾人も討たれたらしいことが以前よりはっきりしていた。それでも、紙の最後まで読んだところで、勝者の名を余白へ書き込む気にはならなかった。

 

 俺はその書付を畳み、他の東国の報告と一緒に箱へ収めた。

 

 蓋を閉じると、机の上に残ったのは朽木へ向かう日取りを記した紙と、弥五郎から届いた二通の返書だった。最初の一通を手に取れば、こちらが散々悩んで書いた文への答えは、今見ても拍子抜けするほど簡潔だ。

 

「若様、そちらはお持ちになりますか?」

 

 旅支度を確かめていた小姓の声に、俺は少し考えてから首を振った。

 

「いや、置いていく。弥五郎に会うのに、送ってきた本人の文を持っていく必要もないだろう」

 

 返書を机へ戻し、代わりに日取りを書いた紙を小姓へ渡す。廊下の向こうでは供の者たちが荷について話しており、庭から吹き込む風には、九月にはなかった冷たさがあった。

 十一月上旬。

 

 俺は小夜の顔を見て、弥五郎と話すため、朽木へ向かう。

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