淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

63 / 109
2026/10/22 文章整理


第六十一話「遠国から届く報せ」

 朝、書院の机へ向かうと、思っていたほど多くの書付は積まれていなかった。坂田から届いた報告はすでに担当する者の手で仕分けられ、先日の動員に参加した家々からの書付も、それぞれの家中で直せるものと、六角全体で考えなければならないものとに分けられている。近習が運んできた文箱の中身を一つずつ確かめても、急いで俺の判断を必要とするものは僅かだった。

 

 机の向こうでは小姓たちが書付を並べ、廊下からは使者を取り次ぐ声や足音が聞こえてくる。城の中で仕事が減ったわけではない。坂田の統治も兵の動員についての見直しも、それぞれの役目を与えられた者たちが進めている。以前なら報告が届くたびに自分で細かなところまで確かめようとしていたが、今は必要なものだけが俺のところへ上がってくるようになっていた。

 

「若様。こちらが後藤殿より届いたもの、こちらが目賀田殿より届いたものにございます。三雲殿からの書付につきましては、御屋形様の方にも同じものが上がっております」

 

 小姓が差し出した書付を受け取り、まず後藤但馬守からのものを開いた。先日の動員で荷駄が遅れた理由と、その後に家中で話し合った改善について簡潔に記されている。荷を運ぶ馬を集めるまでの手順を確かめ、兵を出す際の命の伝え方も見直すつもりらしい。以前の俺なら、その方法で本当に足りるのかと考え、別の家のやり方と比べて、さらに細かな指図を返していたかもしれない。しかし今回は、書かれた内容に明らかな問題がないことを確かめ、そのまま次へ移った。

 

 目賀田次郎左衛門尉からの書付も同じように読み、家中だけでは解決出来ないところを別の紙へ抜き出していく。武具の支度や兵を集める順番については各家に任せればよいが、複数の家の兵が同じ場所へ集まった時の指揮や、街道を通る順番については、それぞれが勝手に決めても仕方がない。そうしたものだけをまとめ、後日父上へ相談出来るようにしておいた。

 

 自分で考えなくなったわけではない。むしろ、何処まで考え、何処から先を相手へ返すのかを決める方が、以前より難しく感じられた。書付を読むたびに、こうした方が早いのではないかという案は浮かんでくる。それでも筆を取る前に一度止まり、その問題が本当に俺から答えを出すべきものなのかを確かめる。先日の動員で見たかったのは、俺が道端に立って一つずつ指図しなくても、次に兵を動かした時には何かが変わるかどうかだった。ならば、各家が考える前から答えを渡してしまっては意味がない。

 

 何枚か読み終えたところで、廊下から足音が近付いてきた。襖の向こうで取り次ぎの声があり、入ってきた近習が一通の書状を差し出す。使者の口から差出人を聞き、朽木からではないと分かると、ほんの僅かに肩の力が抜けた。

 

 弥五郎へ文を出してから、まだそれほど日は経っていない。急いで返事を求めるような内容でもなかったのだから、届いていなくても当然だろう。政に関わる書状なら、返事が数日遅れたところで、その間に別の仕事を進めればよい。ところが、今回は政治の話ではなかった。

 

 遊びに行ってもよいか。

 

 ただそれだけのことを尋ねた文なのに、返事を待つというのはどうにも勝手が違う。弥五郎が嫌がるとは思っていないし、小夜の顔も見たい。それでも、こちらから私的な訪問を申し入れた以上、相手の都合を確かめるまでは勝手に日取りを決めるわけにもいかなかった。

 

「また朽木からかと思われましたか」

 

 書付を抱えて戻ってきた弥太郎が、こちらの顔を見るなり口元を緩めた。

 

「何も言っておらぬだろう」

 

「ええ。ですから某も、何も申し上げておりませぬ」

 

 言いながら笑っているのだから、結局同じことではないか。俺は相手をせず、届いた書状へ視線を戻した。弥太郎もそれ以上からかうことなく、小姓が運んできた紙を受け取って机の端へ並べ始める。俺も残っていた報告へ目を通し、父上へ回すものを選んでいるうちに、いつの間にか昼を過ぎていた。

 

 その日の午後、城内へ別の報せが入った。

 

 最初に聞いた時には、何処まで信じてよいのか分からない話だった。甲斐の武田と越後の上杉が信濃で激しく戦い、双方に大きな損害が出たという。遠国の出来事だけに、誰か一人が戦場を見て持ち帰った報告ではない。京を経てきた者の話もあれば、東国から戻った商人が聞いた話もある。さらに、その者から話を聞いた別の者の言葉まで混ざっており、伝わってくるまでに何人の口を経たのか分からないものも少なくなかった。

 

 夕刻までには別の筋からも似た報せが届いたが、細かなところはむしろ食い違っていた。

 

 一つの話では、上杉勢が武田の陣深くまで攻め込んだという。別の話では、武田がこれを押し返して上杉勢へ大きな損害を与えたとされる。武田方の名ある将が討たれたという話もあれば、上杉方こそ多くの兵を失ったという話もあった。どちらも激しく戦ったことだけは共通しているものの、聞けば聞くほど、どちらが勝ったという単純な形から遠ざかっていく。

 

 それでも、川中島という地名を聞いた瞬間、胸の奥に引っ掛かるものがあった。

 

 前世で戦国時代に興味を持っていた者なら、知らない方が難しい戦いだろう。武田信玄と上杉謙信が幾度も争った川中島。その中でも、特に激しい戦いとして後世まで語られるものが、確かこの頃にあったはずだった。

 

 武田の軍勢がどのように動き、上杉謙信が信玄の本陣へ斬り込んだ。啄木鳥戦法によって敵の背後へ回ろうとしたが、上杉方に見破られた。そうした話なら覚えている。前世で読んだ本にも、戦国を題材にした物語にも、川中島については様々な描写があった。しかし、それらのどこまでが確かな史料に基づくもので、どこからが後世に整えられた話なのかとなれば、俺も専門に研究していたわけではない。知っているつもりでいたことの中には、物語として覚えているだけのものもあるはずだった。

 

 何より、目の前にあるのは歴史の本ではない。

 

 今この時代を生き、実際に東国を行き来した人々から伝わってきた話なのだ。

 

 俺は机の上へ二つの書付を並べた。片方には上杉が武田の陣へ深く攻め込んだとあり、もう片方には武田が上杉を退けたとある。どちらも嘘を書こうとしているようには見えない。話を聞いた場所が違い、伝わってきた道筋も違えば、同じ戦について語っていても見えているものは変わるのだろう。

 

 坂田で街道を調べた時にも、似たことがあった。荷馬なら問題なく通れるという報告と、雨の後には荷が進みにくいという報告が、同じ道について届いたのである。どちらか一方が間違っていたわけではない。荷を運ぶ者が何を使い、どのような天候の下で通ったかによって、見えていたものが違っていただけだった。

 

 川中島についても、上杉が武田の陣を崩したことと、その後に武田が上杉を退けたことが、必ずしも両立しないとは限らない。もっとも、だからといって両方とも正しいと決められるだけの材料もなかった。

 

 第四次川中島の戦い。

 

 おそらく、今回届いた報せはそれなのだろう。

 

 だが、その名を知っていることと、今ここで何が起きたのかを知っていることは同じではない。前世の記憶を探れば、幾つもの合戦図や戦の経過が頭へ浮かぶ。しかし、それを目の前の書付へ無理に当てはめたところで、実際の戦況が明らかになるわけではなかった。

 

 俺は二通の書付を重ね、別の筋から確かな話が届くまでは結論を出さないことにした。

 

 翌日、父上から呼び出しがあった。

 

 通された部屋には父上だけがおられ、庭に面した障子が半ばまで開けられていた。九月に入っても昼には暑さが残っているが、吹き込んでくる風は少しずつ乾き始めている。庭木の葉が擦れる音を聞きながら座ると、父上は手元に置いていた数枚の書付をこちらへ滑らせた。内容を確かめれば、やはり川中島についてのものだった。

 

「四郎。そなたも既に聞いておろう。武田と上杉が随分派手にやったらしい。もっとも、こちらへ届く頃には話が膨らんでおるかもしれぬがな」

 

「はい。昨日から幾つか報告を見ましたが、上杉が武田の本陣近くまで押し込んだという話もあれば、最後には武田が退けたという話もございます。今のところ、どれか一つだけを信じるのは難しいかと」

 

 父上は俺の返事を聞きながら、一枚の紙を指先で軽く叩かれた。そこには武田方の損害について記されているが、数については昨日俺が見たものとも違っている。父上もそのことは承知しているのだろう。正しい数字を探そうとしている様子ではなく、むしろ俺がどのように答えるのかを見ておられるようだった。

 

「城では既に、どちらが勝ったかで話しておる者もいる。そなたはどう見る?」

 

 以前なら、前世の知識にある第四次川中島の勝敗を思い出し、その結果から目の前の報告を判断しようとしたかもしれない。だが、机に並んだ書付の中では、上杉が武田の陣を崩したという話と、武田が最後まで戦場に残ったという話が同時に存在している。仮にどちらもある程度正しいとしても、それだけで戦の結果まで決められるわけではなかった。

 

 先日の動員でも、最初の兵が到着した時刻だけを見ていれば、軍全体がどれほど早く動けたのかを見誤るところだった。戦場の一場面だけを切り取って勝敗を決めても、その後まで同じ形が続くとは限らない。今知りたいのは、一時どちらが優勢だったのかより、その戦の後で両家がどうなったのかということだった。

 

「今届いている話だけなら、決めない方がよいと思います。上杉が武田の陣へ深く入ったのが事実でも、その後に兵をどれだけ残して越後へ戻れたのかが分かりませぬ。武田も戦場に残ったから勝ちというのであれば、失った家臣や兵がどれほどで、次に信濃へどれだけ力を向けられるのかを見なければならないでしょう。少なくとも、遠く離れた近江から今すぐ片方へ勝ちと書き込めるほど、話は揃っておりませぬ」

 

「勝った方を当ててみせようとはせぬか」

 

「外したところで困るのはこちらでございますから」

 

 父上の口元が僅かに動いた。

 

「それもあるが、そなたは昔なら、知っておることを全部並べてから答えを作ろうとしたであろうな。まあよい。甲斐や越後が明日こちらへ攻めてくるわけでもない。遠国の戦ほど、人は早く勝ち負けを決めたがるものよ。近くの戦なら、その後始末まで自分たちの目に入るからな」

 

 父上はそう言うと、川中島の書付を一つにまとめ、脇へ寄せられた。話はそれで終わりらしい。俺もそれ以上、自分の記憶にある信玄や謙信の話を持ち出すことはしなかった。

 

 確かに、浅井が滅びた時には勝敗だけを見て終わることなど出来なかった。捕らえられた一族の処分があり、残された土地を誰が治めるのかという話があり、坂田を受け取った後には村や寺社の取り決めを確かめる仕事まで続いている。だが川中島は遠い。今の俺たちに届いているのは、戦場から幾つもの道を経て運ばれてきた話だけだった。

 

 いずれ東国から戻る者が増え、別々の筋から届く話が重なれば、今よりも戦の輪郭は見えてくるだろう。それまでは、分からないものを分からないまま置いておけばよい。俺は父上へ一礼して部屋を辞し、普段の仕事へ戻ることにした。

 

 *

 

 川中島の報せが届いてから数日が過ぎると、城内でその話を耳にする回数も少しずつ減っていった。新しい情報が途絶えたわけではない。武田方の損害について以前とは違う数字が伝わってきたり、上杉勢がどのように兵を退いたのかという話が届いたりはしていた。しかし、それぞれの報告に食い違いがあることは変わらず、近江にいる俺たちには、遠国の戦だけを追い続けている暇もなかった。

 

 坂田からは村境についての確認が届き、目賀田次郎左衛門尉からは市と道に関する書付が上がってくる。先日の動員に参加した家々も、それぞれ次に備えて家中の支度を見直していた。こちらから新たに命じなくとも、後藤但馬守や蒲生下野守たちが報告をまとめ、必要なところを父上へ上げている。九月の陽射しが少しずつ柔らかくなっていく中で、川中島という大きな名も、日々届く書付の中へゆっくりと埋もれていった。

 

 俺の机の上でも、それは同じだった。

 

 遠い戦についての書付は一つにまとめて文箱へ収め、その上には坂田や京、六角家中から届いた新しい紙が重なっていく。どの報告も目を通す必要はあるが、以前のように一つの話へいつまでも考えを巡らせることは少なくなっていた。今の六角が何を決めなければならないのかを考えれば、川中島の勝敗より、坂田で実際に困っている村があるかどうかを確かめる方が先だった。

 

 その日の午後も、俺は坂田から届いた書付に目を通していた。庭側の障子から差し込む光はすでに傾き始め、机の上に積まれた紙の端を黄色く照らしている。最後の一枚を畳み、次へ手を伸ばそうとしたところで、廊下を急ぐ足音が聞こえてきた。

 

 襖の向こうで声が止まり、取り次ぎを経て一通の書状が運ばれてくる。

 

「若様。朽木より使者にございます」

 

 今度は、手を伸ばすまでに間を置かなかった。

 

 差し出された文は、俺が弥五郎へ送ったものへの返書だった。政に関わる話なら、先に父上へ通すべきものもある。しかし今回は最初から私的な文であり、差出人も弥五郎本人だった。使者へ労いの言葉を掛け、下がらせてから封を解く。紙を開いて一通り目を通したところで、俺は思わず最初からもう一度読み直してしまった。

 

 難しいことが書かれていたからではない。むしろ逆だった。

 

「……これだけか」

 

 向かいで別の書付をまとめていた弥太郎が顔を上げた。何を書かれていたのかと尋ねられたので、俺は返書を渡した。弥太郎は紙へ目を走らせ、読み進めるにつれて少しずつ口元を緩めていく。それを見て、渡さなければよかったとすぐに後悔した。

 

「十分ではございませぬか。若様の都合のよい時に来ればよい、小夜も喜ぶであろう、と。これ以上、何が必要なのでございます?」

 

「いや、必要なことは書いてある。書いてあるのだが……あの文を書くのに、随分悩んだのだぞ」

 

「それは弥五郎様のせいではございませぬ。若様が『遊びに行ってもよいか』というだけの文を、何か重大な申し入れのように考えておられたからでしょう」

 

 否定出来ないのが腹立たしい。

 

 俺は返書を取り戻し、もう一度紙面へ目を落とした。弥五郎の文は短い。こちらが訪ねることに異存はなく、小夜も喜ぶだろうから、都合が決まれば知らせてほしい。それだけで、余計な探りもなければ、何のために来るのかと問い返してもいなかった。俺が政治とは関係なく訪ねたいと書いたから、その言葉をそのまま受け取ったのだろう。

 

 考えてみれば、こちらが気にしていたことの多くは、弥五郎にとっては最初から問題ではなかったのかもしれない。六角と朽木の関係は以前とは変わり、今では互いに広い領地を持つ家同士になっている。俺も六角の嫡男という立場にある以上、気軽に訪ねることが相手へどのように受け取られるのか、つい考えてしまった。しかし弥五郎は、ただ遊びに来たいという俺の言葉へ、来ればよいと返してきたのだ。

 

 小夜も喜ぶ。

 

 その一文を読むと、出立の日を早く決めたいという気持ちが強くなった。婚儀の後に小夜を見送ってから、まともに顔を合わせていない。朽木での暮らしには慣れただろうか。弥五郎との生活はどうなのだろう。兄である弥太郎のところには時折文が届いているようだが、実際に顔を合わせれば、文では分からないことも見えてくるかもしれなかった。

 

 もっとも、それを確かめるためだけなら、俺自身が出向かなければならない理由はない。小夜に文を送ることも出来るし、弥太郎から様子を聞くことも出来る。それでも今回は、そうした理由を一つずつ並べる必要はなかった。久しぶりに小夜の顔を見て、弥五郎ともゆっくり話をしたい。それで十分なのだろう。

 

「父上にも伝えて、日を決めるか。十月のうちに何日か空けられれば──」

 

 そこまで口にした時、襖の向こうから別の声がした。取り次ぎを許すと、先ほどとは違う近習が入ってきて、今度は数枚の書付を差し出す。急ぎの判断を求めるものではないらしいが、朽木方面から入った話が含まれているという。

 

 弥太郎と顔を見合わせた。

 

「今日は朽木からよく来るな」

 

「若様が行きたいと仰っているのを、向こうも知っているのでございましょうか」

 

「そんなわけがあるか」

 

 受け取って中身を確かめる。最初の一枚は塩津方面を行き来する者から入った話で、船や市について簡単な記述があった。次も似たような内容であり、北近江の人や荷の動きについて記されている。朽木が浅井の旧領を得てから、湖上の往来にも少しずつ変化があるのだろう。ただ、今すぐ六角が何かを判断する必要があるようなものではなかった。

 

 ところが、最後の一枚へ目を移したところで、俺の指が止まった。

 

 弥五郎が、領内を治めるための法を定めたらしい。

 

 書かれているのはそれだけではなかったが、俺の目はその部分からなかなか離れなかった。法の細かな中身までは記されていない。朽木家中や領内へ示す決まりを整えているという話があり、すでに一部は触れ回られているらしい。誰が最初に聞いた話なのかも明確ではなく、これだけなら噂に近いものだった。

 

 しかし、弥五郎が浅井を滅ぼした後に何をしてきたのかを考えれば、荒唐無稽な話とも思えなかった。

 

 俺は先ほどの返書を机の上へ置き、その隣へ新しい書付を広げた。

 

 浅井との戦が終わってから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。伊香郡や浅井郡には、昨日まで浅井の下で生きていた者たちがいる。村も寺も市も消えたわけではなく、それぞれが以前からの決まりや権利を抱えたまま、新しい支配の下へ入っている。城を落とし、敵の当主を捕らえれば戦は終わる。だが、その翌日から土地に住む者たちが一斉に新しい領主の考えへ従うわけではない。

 

 坂田を受け取ってから、俺自身そのことを嫌というほど見てきた。年貢を何処へ納めるのかという話だけでも、村によって事情は違う。寺社の所領については以前からの取り決めを確かめなければならず、市についても、誰が何を理由に銭を取っていたのかを調べる必要があった。九万石という土地を受け取っただけでこれほど仕事が増えるのだから、伊香と浅井を得た朽木でも、同じような問題が起きているはずだった。

 

 弥五郎も、そうしたものを見ているのだろう。

 

 ただし、選んだやり方が俺たちと同じとは限らない。六角には六角として長く積み重ねてきた家臣や仕組みがあり、坂田についても後藤但馬守、目賀田次郎左衛門尉、三雲対馬守たちの目を借りながら、まず以前からあるものを大きく壊さず、その内実を確かめている。一方の弥五郎は、朽木という家を率いながら、一気に広がった土地を自分の下へ組み込まなければならない。浅井の旧臣をどう扱うのか、家中にどのような命を行き渡らせるのか。そうした問題へ向き合う中で、法という形を選んだのだろうか。

 

 もしそうなら、何を残し、何を改めようとしているのか。

 

 そこまで考えて、俺は紙から顔を上げた。

 

「弥太郎。朽木で法を定めたという話を、何か聞いておるか?」

 

「いえ、詳しくは存じませぬ。ただ、弥五郎様が近頃随分と書付を集めておられるという話なら、小夜からの文にも少しございました。政のことまで細かく書いてきたわけではございませぬが」

 

「小夜から?」

 

「はい。少し前に届いたものです。某宛ての文でしたので、若様にはお見せしておりませぬ」

 

 それは当然だ。兄妹の文まで俺へ見せる必要はないし、小夜も俺に知らせるつもりで書いたわけではないだろう。弥太郎の話では、近頃の弥五郎は夜遅くまで書付を広げていることが多いらしい。食事の時刻になっても区切りを付けず、小夜が声を掛けてようやく筆を置くこともあるという。

 

 政の中身を伝えるための文ではなく、夫が働き過ぎていることを兄へ零しただけなのだろう。小夜がどのような言葉で書いてきたのかまでは聞かなかったが、少なくとも夫の暮らしぶりを気に掛けている様子は伝わってきた。

 

 弥太郎は話しながら、机に置かれた返書と俺の顔を順に見た。

 

「弥五郎様も、若様とよく似たことをなさっているようでございますな。小夜も、こちらにいた頃は若様が書付ばかり読んでいるのを見ておりましたから、朽木へ嫁いでも似たような御方を見ることになるとは思っていなかったでしょう」

 

 返す言葉を探しているうちに、弥太郎は素知らぬ顔で別の紙をまとめ始めた。

 

 まったく、余計なことを言う男だ。俺と弥五郎では置かれている立場も、抱えている仕事も違う。しかし、食事の時刻になっても筆を置かず、周囲から声を掛けられてようやく仕事を切り上げるという話には、確かに覚えがある。弥太郎から見れば、俺が何かへ夢中になっている時と似ているのかもしれなかった。

 

 それでも、小夜の文について聞いたことで、机の上に記された法という文字が少し違って見えた。

 

 領主が法を定めたと聞けば、何か大きな政策を始めたように感じられる。だが、その裏では弥五郎が夜まで机に向かい、幾つもの書付を読み直し、小夜に食事を促されている。俺が坂田の帳面を前にしていたのと、それほど違わない光景なのかもしれない。前世の知識では、法が制定されたという一行で済む出来事も、実際には人が時間を掛けて考え、周囲と相談しながら形にしていくものなのだろう。

 

 知りたい、という気持ちは強くなった。

 

 どのような条文なのかだけではない。何故その決まりを必要だと考えたのか。浅井の旧領へ何を求め、朽木の家臣たちには何を守らせようとしているのか。新しく得た土地を従わせるためのものなのか、それとも以前から治めていた高島も含め、朽木全体の仕組みを整えるためのものなのか。出来上がった紙だけを読んでも、その全部が見えるとは限らない。

 

 弥五郎本人から聞けば、書かれていないところまで話せるかもしれなかった。

 

 そこまで考えたところで、俺は廊下へ声を掛けかけて止まった。

 

 呼ぼうとしたのは、朽木方面の話を集める者だった。

 

 別に不自然なことではない。隣接する勢力がどのような決まりを作ったのかを知ることは、六角にとって無駄ではないだろう。公に触れられている法なら、いずれその内容も伝わってくるはずだ。必要があれば写しを手に入れるよう命じることも出来る。

 

 だが、今の俺が知りたいのは、六角の政に必要なことだからではなかった。

 

 弥五郎が何を考えて、その法を作ったのか。

 

 そこを知りたいだけなのだ。それを理由に人を動かし、条文の写しを探させるのは、何か違うように思えた。そもそも弥五郎へ遊びに行ってもよいかと尋ね、その返事を受け取ったばかりではないか。

 

 視線を落とすと、法についての書付のすぐ横に、弥五郎からの短い返書が置かれていた。

 

 本人に聞けばよい。

 

 近いうちに会いに行こうとしている相手なのだから、なおさらだった。

 

「若様?」

 

 呼び掛けようとして止めた俺を、弥太郎が不思議そうに見ている。

 

「いや、何でもない。今の話について、こちらから誰かを動かす必要はない。公になったものが入ってくるなら見せてくれ。それ以上は要らぬ」

 

「承知いたしました」

 

 弥太郎は理由を尋ねなかった。俺も説明を足さず、二枚の紙を重ねようとして手を止める。弥五郎からの返書は政治の書付とは別にしておいた方がよい。そう考えて私的な文だけを手元へ残したところで、今度は別のことを思い出した。

 

 父上から朽木へ遊びに行く許しを得た時、何と言われたか。

 

 向こうの帳面を見せろなどと言うな。

 

 あの時は冗談交じりに聞いていたが、まさか出立する前から見たいものが出来るとは思わなかった。もちろん、法について尋ねることと、朽木の帳面を見せてもらうことは同じではない。しかし、俺のことだから話を聞くうちに疑問が増え、気付けば弥五郎を政務の話へ引き込んでしまう可能性は十分にあった。

 

「……弥太郎」

 

「何でございましょう」

 

「父上には、この話はまだするな」

 

 弥太郎の手が止まった。

 

 ゆっくりとこちらへ顔を向け、その目が細くなる。

 

「若様。まさかとは思いますが、弥五郎様が法を定めたと聞いた途端、朽木へ行く理由が変わったなどとは仰いませんよね?」

 

「変わっておらぬ。小夜の顔を見に行く。弥五郎とも話す。それは最初から同じだ。ただ、会った時に少し聞いてみたいことが増えただけだ」

 

「少し、で済めばよろしいのですが」

 

 そこまで言われると弱い。

 

 俺は返書を畳みながら、父上に知られたところで止められるような話ではないと自分に言い聞かせた。遊びに行くことと、会った相手に話を聞くことは両立する。政の話を一切してはならないというわけでもないだろう。問題は、俺がそれを口実に朽木の政について調べ始めないことだった。

 

 それなら、まず日を決めなければならない。

 

 俺は予定を確かめるための書付を引き寄せたが、九月から十月にかけての欄には、すでに幾つか外せないものが入っていた。坂田から上がってくる確認も残っている。各家の動員後の見直しについても、俺が全てを考える必要はないとはいえ、六角全体に関わるところは父上と相談しなければならない。さらに京から届く文も増えており、数日まとめて観音寺を空けられるところを探すと、思っていたほど簡単ではなかった。

 

 弥五郎からの返書には、いつでも来いという意味の言葉がある。

 

 だからといって、本当に明日出立してよいわけではない。こちらにも向こうにも、それぞれの日々がある。小夜も朽木での暮らしがあり、弥五郎は新しく得た土地を治めるために忙しくしているはずだった。俺が勝手に都合を決め、向こうの仕事を止めてしまっては、遊びに行くつもりがかえって迷惑を掛けることになる。

 

「すぐには無理だな」

 

「弥五郎様は逃げませぬ。小夜も朽木におります。焦らずともよろしいでしょう」

 

「ああ。十月の仕事を見てから決める。無理に空けて行けば、結局向こうでもこちらのことが気になる」

 

 弥太郎は頷き、今後の予定が記された書付をまとめ直した。俺も弥五郎からの返書を机の端へ置き、先ほどまで読んでいた坂田の報告へ手を戻した。

 

 今すぐ会いに行けないのは少し残念だが、都合のつく時に来ればよいと返してもらえたのだから、焦る必要はないだろう。朽木でどのような法を作ったのかについても、いずれ弥五郎と顔を合わせた時に尋ねればよい。それまでは、こちらで片付けなければならない仕事を進めておけばよかった。

 

 *

 

 それからしばらく、朽木へ向かう日は決まらなかった。

 

 九月が深まるにつれて朝夕の空気は目に見えて冷たくなり、観音寺の山肌にも少しずつ秋の色が混じり始めた。夏の間は開け放していた障子も、朝には閉じたままのことが増えている。坂田から届く書付には稲刈りや年貢に関わる話が多くなり、城へ出入りする者の中にも、衣を一枚余計に重ねる者が目立つようになった。川中島については新しい話が時折届いていたが、最初の頃のように城中がその話ばかりしているということもなく、遠国の戦として少しずつ落ち着きを取り戻していた。

 

 俺の机の上でも、届く書付の内容は季節とともに変わっていった。

 

 坂田では稲の刈り入れが進み、年貢米を何処へ集めるのか、以前の取り決めをどこまで残すのかについて確認が続いている。後藤但馬守たちの仕事も、土地の引き渡しそのものから、六角の領地として実際に治めていく段階へ移り始めていた。先日の動員についても、各家から見直した内容が届き、六角全体で揃えるべきところを父上と相談することになっている。すぐに俺が判断しなければならないものは多くないが、報告を読み、必要なものを振り分ける仕事までなくなったわけではなかった。

 

 遠い川中島の戦についての書付は一つにまとめて箱へ収め、その上には坂田や京、家中から届いた新しい紙が重なっていく。しかし、弥五郎から届いた私的な返書だけは、その箱へ入れなかった。政務の書付と混ぜる必要がないというだけの理由で机の端へ置いていたはずなのに、日が経つにつれて、それがまだ果たしていない約束のように見えてくる。

 

 弥五郎は都合のよい時に来ればよいと返してくれた。小夜も喜ぶだろうと書いてあった。こちらも行くつもりでいるのだから、日取りさえ決めればよい。しかし、九月の間は予定が上手く合わず、十月へ入ってからも、外せない用件が幾つか重なった。無理に数日を空けることも出来なくはなかったが、そのために別の者へ急な仕事を押し付ければ、休みを取るために周囲を忙しくすることになる。以前の俺なら、どうにか日を作ろうとして余計な指図を増やしていたかもしれないが、今回は予定が落ち着くのを待つことにした。

 

 十月も半ばを過ぎた頃、ようやく先の予定にまとまった空きが見え始めた。

 

 その日の夕刻、最後の書付を閉じて顔を上げると、障子越しの光はすでに薄く、庭の木々は輪郭だけを残していた。遠くから聞こえる人の声も昼間より少なく、廊下を歩く足音がやけに鮮明に響く。夏の頃なら、まだ蝉の声が聞こえていた時刻だったが、今は庭から吹き込む風に冷たさがあり、日が落ちるのも随分早くなっている。

 

 俺は机の端へ置いてあった弥五郎の返書を手に取った。

 

「弥太郎」

 

「はい」

 

「父上に、十一月の初めに数日観音寺を離れてよいか聞いてくる。今度こそ朽木へ行こう」

 

 弥太郎は手元の紙から顔を上げ、俺が持っている文を見ると、小さく頷いた。

 

「では、小夜にも一筆送っておきます。若様が突然現れたら、あれも驚くでしょうから」

 

「弥五郎には?」

 

「若様がお書きください。今度は『いつ行く』だけなのですから、前のように半刻も筆を止めることはございますまい」

 

「……あれは半刻も悩んでおらぬ」

 

「では、そういうことにしておきます」

 

 弥太郎は笑いながら新しい紙を取り出した。俺も筆を取り、弥五郎への文を書き始める。今度は最初の一文字で手が止まることもなかった。十一月の初めに数日ほど都合がつきそうなこと、その頃に訪ねても差し支えないかを尋ね、問題がなければ改めて日を知らせてほしいと記す。余計な言葉を足す必要はなく、書き終えて読み返しても、以前のように何度も考え直したくなるところはなかった。

 

 それでも、弥太郎が書き上げた紙を覗こうとしたので、俺は先に畳んでしまった。どうせまた何か言われるに決まっている。弥太郎は残念そうな顔をすることもなく、小夜への文を書き終えると、俺のものとは別に封をした。兄妹の間でどのようなことを書き交わしているのかは知らないが、弥太郎が小夜へ訪問の予定を知らせるのなら、それで十分だろう。

 

 翌朝、父上の部屋を訪ねた時には、山の上を渡る風が障子を僅かに鳴らしていた。夏の間なら開け放されていた庭側の障子も今は半ばまで閉じられ、差し込む朝の光もどこか淡い。廊下を行き交う者の衣擦れの音を背に襖を閉め、父上の前へ座ると、こちらが口を開くより先に父上の視線が俺の手元へ向いた。

 

「四郎。その文を見る限り、ようやく日を決めたようだな」

 

「十一月の初めなら、数日ほど空けられそうです。弥五郎殿にもその頃で構わないか、改めて文を出しました。返事を頂いて問題がなければ、そのまま向かおうかと思っております」

 

 父上は頷き、傍らに置いていた書付を一枚ずつ重ねられた。俺が本当に数日観音寺を離れても問題ないかを確かめるように、坂田や家中の予定について幾つか尋ねてこられる。俺も、今のところ自分がいなければ進まない仕事は残っていないこと、急ぎの判断が必要になれば使者を出してもらえばよいことを伝えた。坂田については後藤たちが引き続き仕事を進めており、先日の動員についても各家から報告が上がっている。俺が数日留守にしたところで、急に何もかも止まるようなものではなかった。

 

 以前、父上から三日の休みを命じられた時には、自分がいない間に何かあったらどうするのかと考えてしまった。しかし今は、必要なところを任せておけば、数日城を離れても仕事は進むと分かっている。それが当然のこととして受け止められるようになっただけでも、あの頃とは随分考え方が変わったのかもしれない。

 

「ならば構わぬ。前にも申したが、供は連れて行け。弥太郎だけ連れて気軽に出掛ける、などとは考えるなよ。そなたが遊びに行くつもりでも、六角の嫡男であることまで休みには出来ぬからな」

 

「分かっております。近習も何人か連れて行くつもりです。それと──」

 

 そこで言葉を止めると、父上が眉を僅かに上げられた。

 

 別に隠すほどのことではない。むしろ黙ったまま行き、後で知られた方が面倒になるだろう。俺は一度考えてから、先日届いた朽木方面の報告について話すことにした。

 

「朽木で、領内の法を定めたらしいという話が入っております。まだ詳しい中身までは分かりませぬが、弥五郎殿が浅井の旧領を含めて治めるために、何か形を整え始めているようです」

 

 父上はすぐには返事をされなかった。俺の顔を見た後、手元の書付へ視線を落とし、指先で紙の角を揃える。その動きが妙にゆっくりだったので、次に何を言われるのかは大体予想出来た。

 

「それで、朽木へ遊びに行く話が、いつの間にか弥五郎の政を調べに行く話へ変わったわけか」

 

「変わっておりませぬ。小夜の顔を見たいのも、弥五郎殿とゆっくり話したいのも最初から同じです。ただ、会うのであれば、その法について本人から聞いてみたいとは思っております」

 

「ほう。本人から、か」

 

 父上の口元が僅かに緩んだ。

 

 俺が何を言わなかったのかまで見られたような気がした。朽木の法について知りたいだけなら、三雲対馬守や甲賀の者へ命じて調べさせることも出来る。公に示された内容なら、こちらから動かずともいずれ伝わってくるだろう。だが、弥五郎が何を考えて定めたのかまで知りたいのであれば、本人と話す方が早い。

 

 そう考えて、あえて調べを命じなかったことまで父上へ説明する必要はないと思っていたが、どうやら最初から見抜かれていたらしい。

 

「それなら好きにせよ。弥五郎が話したくないと申せば、そこで止めればよいだけのことじゃ。もっとも、遊びに来た義兄がいきなり法の話ばかり始めれば、小夜に追い出されるかもしれぬがな」

 

「そこまで小夜も酷くありません」

 

「どうであろうな。そなたも弥五郎も、放っておけば書付を前にいつまでも話していそうではないか。小夜が止める役になる姿は、容易に浮かぶぞ」

 

 反論しようとして、弥太郎から聞いた小夜の文を思い出した。

 

 すでに弥五郎は食事の時刻まで書付と向き合い、小夜に声を掛けられているらしい。そこへ俺まで加わり、朽木で定めた法について尋ね始めれば、父上の言う光景が本当に出来上がりかねない。そもそも今回の訪問は、俺が休みを取って小夜と弥五郎に会いに行くためのものだ。弥五郎の仕事を増やし、小夜にまで呆れられて戻ってくるようでは、何のために遊びに行ったのか分からなくなってしまう。

 

「……気を付けます」

 

 父上はそこで話を切り、俺が持ってきた日取りへもう一度目を通された。十一月上旬。弥五郎から了承が届けば、その頃に観音寺を出ることになる。季節を考えれば、往来に雪を心配するほどではないが、山へ近付けば朝夕はかなり冷えるだろう。供の人数や道中の宿については近習に任せればよく、俺が一つずつ決める必要はない。

 

 ただ、坂田から北へ向かう道を通るのであれば、一つだけ見ておきたいことがあった。

 

「父上。篠も連れて行ってよろしいでしょうか」

 

「篠を?」

 

 今度は父上の目から笑いが消えた。反対しているわけではない。ただ、遊びに行く話の中で甲賀の女の名を出した以上、その理由を確かめようとしているのだろう。俺も最初から説明するつもりでいたので、持参した道筋の書付を広げながら口を開いた。

 

「小夜を見張らせるつもりはございませぬ。以前と同じでございます。坂田から北へ抜け、塩津へ向かう途中で、人の出入りや土地の様子を見てもらいたいと思っております。旧浅井領が朽木と六角に分かれてから、まだ日も浅うございます。道を行く者が何を話しているのか、市や村で六角と朽木がどう見られているのか、その辺りを知っておきたいのです」

 

 父上は黙って聞いておられた。俺もそこで言葉を足すのを止める。

 

 篠に期待するのは、人の顔や声から拾えるものだった。軍勢の数を数えさせるわけでも、朽木の城内へ潜らせるわけでもない。まして、小夜が夫と何を話し、どのように暮らしているのかを探らせるつもりなどなかった。俺が供を連れて通れば、土地の者たちは六角の一行としてこちらを見るだろう。そうなれば、普段通りの様子を見せてくれるとは限らない。篠には、俺たちが通る道の周辺で、土地の者が普段どのように振る舞っているのかを確かめてもらいたかった。

 

「そこまでなら構わぬ。ただし、何を見てよいかは先に伝えておけ。『様子を見よ』という命ほど、受ける者によって広がるものはない。そなたが人の様子だけを求めているつもりでも、相手が役に立とうとして余計なところまで覗けば、同じことにはならぬからな」

 

 その言葉を聞き、俺は少し考えてから頷いた。

 

 篠ならこちらの意図を汲むだろうという考えが、頭のどこかにあった。しかし、それは命じる側が曖昧でよい理由にはならない。相手が優秀だからこそ、出来ることの範囲は広い。何を求め、何を求めていないのかをこちらが示さなければ、その広さそのものが危うくなる。以前も、調べを命じた時には必要なところを確かめるよう心掛けてきたが、今回は朽木との私的な訪問が絡んでいる。普段以上に、仕事との境をはっきりさせておく必要があるだろう。

 

「人の出入りと、道中で耳にする話。それから、六角や朽木に対して土地の者がどのような顔をするか。その程度に留めます。城内のことを探らせるつもりはございませぬ」

 

「ならば、そのように命じよ」

 

 父上はそれ以上口を挟まず、今度こそ話を終えられた。

 

 *

 

 篠へ話をしたのは、その日の午後だった。

 

 庭の木々はところどころ葉の色を変え始め、風が吹くたびに乾いた葉が縁側の先を転がっていく。夏には青々としていた枝にも黄や赤が混じり、観音寺の山も少しずつ秋の深まりを見せていた。篠はいつものように目立たぬ装いで現れ、俺の前へ座ると、こちらが用件を話し始めるまで静かに待っている。

 

「十一月の初めに朽木へ行くことになった。小夜の顔を見て、弥五郎と話すためだ。そなたにも同行してほしい」

 

 篠の目が僅かに動いたが、口を挟むことはなかった。俺は机の上へ簡単な道筋を書いた紙を広げ、坂田から北へ向かう道を指で辿った。

 

「見てほしいのは、この道を行き来する者と、途中の村や市の様子だ。旧浅井の土地が分かれてから、六角と朽木を土地の者がどう見ているのか、旅人や商人がどのような話をしているのか。その程度でよい。朽木の兵の数や蔵、船の数を調べる必要はない。城へ入ってからも同じだ。小夜の周りを探る必要もない」

 

 篠は紙へ目を落とし、俺が示した道筋をしばらく眺めていた。普段なら、どこまで調べればよいかを確かめた後、すぐに動き始めることも多い。しかし今回は朽木へ向かうという事情があるためか、俺の言葉を一つずつ確かめているように見えた。

 

 やがて顔を上げ、確認するようにゆっくり口を開いた。

 

「道と人を見て、聞こえてくる話を拾う。朽木家の内側へ手を入れる必要はない、ということでよろしいですか」

 

「ああ。今回はそれで十分だ。何か気になるものがあっても、勝手に奥へ入らず知らせてくれ。そこから先が必要かどうかは、その時に決める」

 

「承知しました」

 

 返事は短かったが、篠はもう一度紙へ視線を落としてから畳んだ。命じた範囲を自分の中で確かめているようだったので、それ以上細かな方法までは指定しなかった。どの村で誰に声を掛けるか、どの道を先に見るかまで俺が決めてしまえば、結局は彼女の目を借りる意味がなくなる。必要なものを示した以上、その先は篠へ任せればよいだろう。

 

 篠が退出した後、入れ替わるように弥太郎が部屋へ入ってきた。何の話をしていたかまでは聞いていなかったらしいが、机に残っていた道筋を見ると、おおよその見当はついたようだった。

 

「若様。遊びに行かれるのでございましたよね?」

 

「遊びに行く。これは道中で見るだけだ」

 

「御屋形様が仰っていた帳面は見なくとも、道は御覧になると」

 

「目を閉じて朽木まで行けというのか」

 

 弥太郎は笑いを噛み殺すように口元へ手を当てた。俺も言い返しながら、今回ばかりは自分でも境目が危ういことは分かっていた。仕事のために朽木へ行くわけではない。だが六角の嫡男である以上、道を通りながら何も見ないというのも不自然だろう。ならば、見るものを決め、その先へ勝手に広げない。それくらいが今の俺に出来る休み方なのかもしれなかった。

 

「それより弥太郎。小夜へ文は出したのか?」

 

「すでに。若様が十一月の初め頃に行かれるかもしれぬと書いておきました。小夜から返事が来ればお見せしますが、某宛てのところまで勝手に読まれては困りますぞ」

 

「読まぬ。兄妹の文まで読むほど暇ではない」

 

 弥太郎の笑い声を聞きながら、俺は机に残っていた道筋の紙を畳んだ。小夜からの返事は楽しみだが、俺が知りたいのは本人が朽木で元気に暮らしているかどうかであって、兄へ何を話しているのかではない。弥太郎が見せたいと思ったところだけ教えてくれれば、それで十分だろう。

 

 数日後、弥五郎から日取りについて了承する返書が届いた。

 

 今度の文も短く、十一月上旬なら問題ないことと、道中気を付けて来るようにという程度しか書かれていなかった。相変わらず余計な言葉の少ない返事である。小夜から弥太郎へ届いた文の方がよほど長かったらしく、受け取った弥太郎は俺の前で読みながら何度か笑っていたが、中身を尋ねても兄妹の文でございますと言うだけで見せようとはしなかった。

 

 それでいい。

 

 小夜が兄へ書く言葉まで、俺が知る必要はない。弥太郎が笑って読んでいたのだから、少なくともすぐに何かを心配しなければならないような話ではなかったのだろう。それ以上は実際に会った時、本人から聞けばよい。

 

 十月の終わりが近付くにつれ、机の上から朽木へ行く前に片付けるべき書付が少しずつ減っていった。坂田の統治については後藤但馬守たちの仕事が続いており、先日の動員についても、各家が見直したものの中から六角全体に関わるものを父上へ回してある。俺がいない間に新しい問題が起きたとしても、必要なら使者を出してもらえばよいだろう。数日の間だけ仕事を離れるために、今から何もかも自分で片付けようとする必要はなかった。

 

 川中島について最後にまとめられた報告も、その頃に届いた書付の一つだった。

 

 以前よりは話が揃い、武田も上杉も大きな損害を受けたらしいこと、有力な者が幾人も討たれたらしいことが分かってきている。しかし、依然として細かな数字や戦の経過には食い違いがあり、どちらが勝ったのかについても、伝えてくる者によって見方が違っていた。

 

 俺は最後まで目を通したが、勝者の名を余白へ書き込む気にはならなかった。父上が仰っていた通り、遠国の戦は結果だけを急いで知りたくなる。だが、武田も上杉も、それぞれの領国へ戻れば失った家臣や兵の後始末をしなければならないはずだった。信濃を巡る争いも、それで全て終わったとは限らない。今の近江にいる俺が、届いた話だけで勝敗を決めても仕方のないことだろう。

 

 俺はその書付を畳み、他の東国の報告と一緒に文箱へ収めた。

 

 蓋を閉じると、机の上に残ったのは朽木へ向かう日取りを記した紙と、弥五郎から届いた二通の返書だった。最初の一通を手に取れば、こちらが散々悩んで書いた文への答えは、今見ても拍子抜けするほど簡潔だった。都合のよい時に来ればよい。小夜も喜ぶだろう。改めて読み返してみても、それ以上の意味を探す必要などなさそうだった。

 

 考えてみれば、弥五郎からすれば幼い頃から付き合いのある相手が訪ねてくるだけの話なのだろう。浅井を滅ぼした当主として、今では朽木の抱えるものも随分大きくなっているはずだが、それでも俺が遊びに行きたいと申し出たことへ、何か特別な理由を求めることはなかった。そのことが、今になって少し嬉しく思えた。

 

「若様、そちらはお持ちになりますか?」

 

 旅支度を確かめていた小姓の声に、俺は少し考えてから首を振った。

 

「いや、置いていく。弥五郎に会うのに、送ってきた本人の文を持っていく必要もないだろう」

 

 返書を机へ戻し、代わりに日取りを書いた紙を小姓へ渡した。供の人数や道中の宿については弥太郎たちが手配を進めており、篠にも予定は伝わっている。今回は俺が一つずつ支度を確かめる必要はなく、出立の日までに必要なものが揃うよう、それぞれが仕事を進めてくれていた。

 

 廊下の向こうでは供の者たちが荷について話しており、庭から吹き込む風には、九月にはなかった冷たさがあった。観音寺の山々も秋の色を深め、朝には薄い霧が掛かる日も増えている。朽木へ向かう道も、以前通った時とは随分景色が違っているだろう。坂田から北へ進めば、浅井が滅びた後に領主の替わった村々を通ることになる。さらにその先では、朽木の治める土地が広がっているはずだった。

 

 道中の様子は篠に見てもらえばよい。俺自身も目に入るものまで見ないようにするつもりはないが、今回の目的は変わらない。朽木で新しく定めたという法についても、弥五郎が話してくれるのであれば聞けばよいし、そうでなければ無理に尋ねる必要はないだろう。少なくとも、仕事の書付を抱えて訪ねるつもりはなかった。

 

 十一月上旬。

 

 弥五郎の了承も得られ、こちらの支度も整いつつある。後は予定の日を迎えれば、観音寺を発つだけだった。

 

 婚儀の時には遠くから見送ることしか出来なかった小夜とも、ようやく顔を合わせられる。弥五郎とも、戦や政のためではなく、落ち着いて話をする時間が持てるだろう。

 

 俺は二通の返書を重ねて机の端へ置き、残っていた書付を片付けた。

 

 今度こそ、小夜の顔を見て、弥五郎と話すために朽木へ向かう。

一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?

  • このまま
  • 5000文字前後
  • 15000文字前後
  • 1~5000文字
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。