淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

64 / 66
第六十二話「越えてはならぬ一線」ー前編ー

 十一月に入ると、近江の朝は目に見えて冷たくなった。観音寺城を発った頃には東の空こそ明るくなっていたものの、山裾にはまだ薄い靄が残り、街道脇の草には夜露が細かな粒となって張り付いていた。馬が息を吐くたびに白いものが鼻先へ浮かび、それも歩みを進めるうちにすぐ後ろへ流れていく。坂田のこと、兵のこと、遠く川中島で起きた戦のことと、夏から秋にかけて目の前の出来事を追い続けていたせいだろうか。稲が青かった頃からそれほど経っていないつもりでいたのに、街道の左右に広がる田はすでに刈り終えられ、束ねられた藁が朝日に長い影を落としていた。

 

 供には弥太郎をはじめ、近習や小姓を何人か連れ、篠も同行させている。遊びに行くという言葉から想像するには少々大袈裟な一行だったが、父上からは供を連れて行けと念を押されていたし、俺自身も今さら一人や二人で朽木領へ入れるとは考えていなかった。俺が何を目的に城を出ようと、道行く者の目には六角家の嫡男として映る。まして行き先は坂田のさらに北、浅井との戦を終えて領地を広げた朽木家のもとである。小夜の顔を見て、弥五郎と話し、少しばかり仕事から離れるための旅だと俺が説明したところで、それを知らぬ者にまで同じ見え方を求めるのは無理があった。

 

「若様。先ほどから供の者を気にしておられますが、今さら後ろを御覧になっても減りませぬよ。これ以上減らせば、御屋形様から私が叱られます。若様だけが身軽になって、私が代わりに叱られるのでは割に合いません」

 

 隣で馬を進めていた弥太郎は、俺が後ろを振り返ったのを見てそんなことを言った。数えていたわけではないと否定しかけたものの、供の多さを気にしていたのは事実なので言葉を飲み込む。弥太郎の後ろでは若い小姓が二人、こちらの会話を聞いていないふりをしながら馬を進め、そのさらに後ろには荷を載せた馬と供回りが続いている。三日間の休みを父上から命じられた時にも、自分が休まないことで周囲まで休みにくくしていたと弥太郎から指摘されたばかりだ。今度は自分が気楽に出掛けたいからという理由で必要な供を減らし、残った者へ余計な負担を押し付ければ、結局やっていることは大して変わらない。

 

「分かっている。父上にも似たようなことを言われた。ただ、遊びに行くのにこれだけ連れていると、どうしても遊びに行くようには見えなくてな」

 

「若様がどう見えるかまで気にしていたら、どこへも遊びには行けません。それに今回は小夜の顔を見に行くのでしょう。着いてから仕事を始めなければ、それで十分ではありませんか。御屋形様からも、若様が塩津で余計なものを見つけても煽るなと言われております」

 

「……父上は俺を何だと思っているんだ」

 

「それを私に聞かれましても。ですが、御屋形様がそう仰るだけのことを、若様がこれまで何度なさったかなら数えられます」

 

 弥太郎の口元がわずかに緩んだ。父上が俺の知らないところで何を吹き込んだのか問い詰めてもよかったが、答えを聞けば余計に腹が立ちそうなのでやめておく。代わりに前へ向き直って手綱を握り直すと、朝日が少し高くなったことで、先ほどまで影になっていた道の凹凸がはっきり見えるようになっていた。

 

 坂田へ入ってからは、夏の終わりに自分の目で見た景色がところどころに現れた。同じ道を通っているはずなのに、季節が変わるだけで随分と印象が違う。以前は青さを残していた田も今は土の色が広がり、村の軒下には薪が積まれ、家々の間では冬を迎えるための仕事が進んでいる。市へ向かうらしい荷馬の列とすれ違えば、背に載せられているものへ自然と目が向いた。少し先では荷車の車輪が古い轍をなぞり、その横を旅人が避けて歩いている。以前ここを見た時、乾いている日なら荷馬は通れるが、雨が降れば荷車が難しくなると聞いた道の一つだった。

 

 数日前に雨が降ったらしく、日当たりの悪い窪みにはまだ水が残っていた。轍の底には薄く泥が溜まり、荷車がそこを通るたび、車輪が重たそうに土を押し退けている。前に来た時なら、俺はそこで馬を止めていただろう。雨の後は何日ほどこの状態が続くのか、どこから来た荷車なのか、別の道へ回ることは出来ないのか。聞きたいことはいくらでも浮かんだし、今も目の前で車輪が泥を跳ね上げるのを見れば、以前弥七へ命じた調べがどうなっているのか確かめたくなる。

 

 だが、手綱を引きかけたところで、その手を止めた。ここで一つ聞けば、その先でも別のものが目につく。市を通れば商人の数を確かめたくなり、村を通れば収穫後の様子が気になり、役人を呼べば帳面まで見たくなる。そうして一つずつ拾っていけば、塩津へ着く頃には日が傾いているだろう。坂田を見る必要がないわけではない。必要なら改めて人を出せばよいし、俺自身が来なければ見えないことなら、その時に来ればいい。今日は小夜と弥五郎に会いに来たのだと、轍から前方へ視線を戻した。

 

「止まられないのですか?」

 

 弥太郎の声に横を見ると、こちらではなく轍の方を見ていた。俺が気にしたことまで分かっていたらしい。

 

「今日はやめておく。気になるなら帰ってから弥七の報告を見ればいい。俺がここで聞かなくても、道は逃げんだろう」

 

「それなら今日は本当に遊びに行けそうですね。坂田へ入って半日も経たぬうちに役人を呼びつけられたら、私は御屋形様へ何と申し開きをすればよいか考えていたところです」

 

「お前は俺を何だと思っているんだ」

 

「坂田へ様子を見に行ったはずなのに、帰ってきた時には道と市と村の話を始める方です」

 

 今度こそ反論出来ず、俺は前を向いた。後ろから小さな笑い声が聞こえた気がしたが、振り返れば余計に面倒なので聞かなかったことにした。

 

 坂田を北へ進むにつれて、道を行き交う者の顔触れも少しずつ変わっていった。農具を担いだ村人だけでなく、荷を積んだ馬を引く商人や、湖岸へ向かうらしい者たちが増える。遠くに見える琵琶湖の水面は冬を前にした空の色を映して鈍く光り、北へ目を向ければ山々の色も観音寺周辺より深い。冷たい風が湖の方から吹き抜けるたび、馬の鬣が揺れ、供の者たちが肩をすぼめた。

 

 朽木の領分へ入る少し前だった。俺たちの列からやや後ろを進んでいた篠が馬を寄せてきた。弥太郎とは反対側へ並び、前を向いたまま声を落とす。

 

「若様。少し前から見られています」

 

 俺は顔を動かさなかった。

 

「何人だ?」

 

「私が確かめられたのは二人です。一人は街道から少し離れた高み、もう一人は先ほど通った林の近くに。ただ、最初にこちらを見ていた者とは別に、先へ走った者がいるかもしれません」

 

「八門か?」

 

「おそらくは。ただ、そこまでは確かめておりません」

 

 篠は断言しなかった。見たことと、そこから推測したことを分けている。以前なら俺もすぐに人数や位置を知りたくなったかもしれないが、これから入るのは朽木領である。六角の嫡男がそれなりの供を連れて近づいてくれば、誰が来たのかを確かめ、先へ知らせるのは当然だった。

 

「こちらへ近づいてきたか?」

 

「いいえ。荷にも供の者にも近づいておりません。こちらを見て、先へ知らせているだけに見えます」

 

「なら放っておけ。追う必要もない。どこにいるのか、全部で何人いるのかも調べなくていい。こちらが気付いたことも知らせるな。近づいてくるとか、荷や人へ手を出すとか、動きが変わった時だけ教えてくれ」

 

 篠が一瞬だけこちらを見た。

 

「よろしいのですか?」

 

「ここから先は向こうの領分だ。誰が入ってくるのかを見るのは当たり前だろう。俺たちだって観音寺へこれだけの一行が近づけば確かめさせる。見ることと、害を加えることは別だ」

 

「承知しました」

 

 篠はそれ以上尋ねず、馬を少し落として元の位置へ戻った。

 

 その背を見送りながら、俺は前方へ視線を戻した。知ろうと思えば、どこから見られているのかまで調べられるのかもしれない。だが、知ることが出来るという理由だけで、何でも知ろうとする必要はない。今日の俺は朽木の内情を探りに来たのではなかった。

 

 *

 

 塩津へ着く頃には、日はすでに西へ傾き始めていた。

 

 湖から吹き上げる風は坂田で感じたものより冷たく、水辺特有の湿り気を含んでいる。港へ続く道には荷を担いだ者や馬が行き交い、その向こうでは帆柱が何本も空へ伸びていた。思わず船の数を追いそうになり、俺は意識して視線を前へ戻す。

 

 塩津浜城の大手門が近づくにつれて、供の列にも自然と緊張が戻った。ここまでの道中は私的な訪問であっても、門前に着けば六角家と朽木家の者として挨拶を交わすことになる。俺は門の少し手前で馬を下り、弥太郎たちもそれに続いた。

 

 門前にはすでに人が待っていた。中央にいるのは弥五郎。その傍らには小夜がおり、少し後ろには朽木民部少輔稙綱と近習たちが控えている。小夜の姿を見つけた瞬間、無事にここで暮らしているのだと頭では分かっていたはずなのに、胸の奥にあった力が少し抜けた。

 

「右衛門督様。遠いところをよく来てくれた」

 

 弥五郎が一歩進み出る。

 

「弥五郎殿こそ、わざわざ門まで出迎えてもらってすまない。今日は世話になる」

 

「こちらから来いと返事をしたのだから当然だ。道中はどうだった?」

 

「問題ない。坂田で何度か馬を止めたくなったが、何とか我慢した」

 

 弥五郎の口元が僅かに動いた。

 

「それなら左京大夫殿も安心なされるだろう」

 

 その横で小夜が一歩進み、俺へ向かって丁寧に頭を下げた。

 

「右衛門督様。ようこそお越しくださいました。お待ちしておりました」

 

 一瞬、耳に馴染まないものを聞いたような気がした。

 

 小夜の口から俺へ向けられた「右衛門督様」という呼び方は、決しておかしくない。むしろ今この場では、それが正しい。ここは朽木の大手門であり、朽木の当主や民部少輔、近習たちまでいる。俺は六角家の嫡男としてここへ来ている。

 

 それでも、昔から聞き慣れた「若様」ではなかった。

 

「……ああ。久しぶりだな、小夜。元気そうで何よりだ」

 

「はい。おかげさまで」

 

 小夜は顔を上げると、ほんの僅かに笑った。その笑い方だけは観音寺にいた頃と変わらない。

 

 続いて民部少輔が前へ出た。

 

「右衛門督様。朽木民部少輔稙綱にございます。このたびは御来訪、よくぞお越しくださいました」

 

「民部少輔殿、出迎え痛み入る。今日は公の用向きではない。あまり気を遣わないでもらえると助かる」

 

「承知いたしました。とは申せ、右衛門督様を粗略にお迎えしたとあっては、後で殿から叱られましょう」

 

 そう言って僅かに笑うと、弥五郎が横から「俺のせいにするな」と返した。張っていた空気が少し緩む。

 

 弥太郎も前へ進み、弥五郎へ頭を下げた。

 

「弥五郎様。御無沙汰しております」

 

「弥太郎もよく来た。小夜が文の返事が遅いと何度も言っていたぞ」

 

「それは小夜が細かいことまで書いて寄越せと言うからです」

 

「兄上」

 

 小夜が低く名を呼び、弥太郎が口を閉じる。昔と変わらぬやり取りに、俺は思わず笑った。

 

 門前で長話を続ける必要もない。挨拶を終えると、俺たちは弥五郎に導かれて城内へ入った。

 

 *

 

 通された部屋は庭に面していた。障子越しの光はすでに夕方の色を帯び、庭木の葉が風に揺れるたび、その影が白い紙の上をゆっくり動いている。火鉢には炭が入れられ、外の冷たさに慣れた身体には室内の温もりが心地よかった。

 

 門前では互いに家を背負って挨拶を交わしたが、部屋へ入って供の人数も減ると、空気は自然と柔らかくなった。弥五郎も門前での改まった態度を解き、いつもの調子で俺に声を掛けてきた。

 

「四郎、まずは身体を温めるといい。食事も用意させている。大したものではないが、塩津なら魚には困らん」

 

「十分だ、弥五郎殿。今日は食事をしに来たようなものだからな」

 

 そう返すと、弥五郎が妙な顔をした。

 

「どうした?」

 

「いや。門前ならともかく、ここでも『弥五郎殿』かと思ってな」

 

「何かおかしいか?」

 

「おかしくはない。ただ、小夜と弥太郎までいるところで呼ばれると、随分と堅い。義輝様の帰京の折に初めて顔を合わせてから何度も話してきたのに、今さら二人きりに近いところでまで『殿』を付けられると、かえって落ち着かん」

 

 言われてみれば、俺も似たものを感じていた。弥五郎は朽木家の当主であり、俺の家臣ではない。公の場なら「弥五郎殿」と呼ぶのが自然だが、こうして小夜と弥太郎を交え、身内に近い空気の中でまで同じ呼び方を続ける必要があるのかと言われれば、確かに少し堅い。

 

「なら、ここでは弥五郎でいいか?」

 

「ああ。その方がいい」

 

「そうか。弥五郎は俺を四郎と呼んでいるのに、俺だけ改まっていても妙だな」

 

「まったくだ。今さら遠慮されても困る」

 

 弥五郎が笑ったので、俺もつられて口元を緩めた。公の場では互いの立場に応じた呼び方をする。それは必要なことだが、こうして気兼ねなく話せる時まで同じように振る舞う必要はないのだろう。呼び方を一つ変えただけで、門前から続いていた薄い膜のようなものが一枚取れた気がした。

 

 そこで、先ほどから静かに聞いていた小夜が僅かに姿勢を正した。

 

「では、私も一つよろしいでしょうか」

 

「どうした?」

 

 小夜は少しだけ迷うように俺を見てから、口を開いた。

 

「私も、これからは若様とお呼びするのを改めようと思います」

 

 思いがけない言葉に、俺は小夜を見返した。

 

「急にどうした」

 

「急ではありません。朽木へ来てから、ずっと考えておりました」

 

 小夜は膝の上で両手を揃えた。門前で官位を呼んだ時より声は柔らかいが、その言葉には迷いがなかった。

 

「私はもう、観音寺で平井の娘として若様のお側にいた頃とは立場が違います。御屋形様の養女となり、今は朽木家へ嫁いで、殿の妻になりました。公の場で六角家の御嫡男を昔と同じように『若様』とお呼びするわけにはまいりません。今日のように人前でお会いする時は『右衛門督様』とお呼びします」

 

「それは分かる。だが、今みたいな時まで変える必要があるのか?」

 

「はい。今までのように『若様』とお呼びするのは、もう出来ないと思っています」

 

 その言葉には、拒むような響きはなかった。むしろ小夜自身が今の立場を受け入れたうえで、昔との境目をきちんと置こうとしているように聞こえた。

 

「ただ、公の場でない時まで官位でお呼びするのは、私も少し堅いと思います。ですから、これからは……四郎様とお呼びしてもよろしいでしょうか」

 

「四郎様、か」

 

 口に出してみる。

 

 若様と呼ばれなくなることに、寂しさがないと言えば嘘になる。亀松丸だった頃から、小夜は弥太郎とともに俺の近くにいた。川へ行った時も、釣りをした時も、観音寺の廊下で顔を合わせた時も、ずっと若様だった。それが一つ消えるのは、昔の時間まで少し遠ざかるような感覚がある。

 

 だが、目の前の小夜はもう、あの頃と同じ立場ではない。

 

「分かった。それでいい」

 

「ありがとうございます、四郎様」

 

 初めてそう呼ばれた。

 

「……やはり少し変な感じがするな」

 

「私もです」

 

 小夜が笑った。

 

「ですが、そのうち慣れると思います」

 

「若様と呼ばなくなったからといって、兄上と私が昔から知っている四郎様でなくなるわけではありませんから」

 

 それなら十分だった。

 

「弥太郎はどうする?」

 

 俺が横を見ると、突然話を振られた弥太郎が目を瞬かせた。

 

「私は今まで通りでございます。ここは朽木領ですから、こうして内輪でお話しする時は四郎様とお呼びします。観音寺へ戻れば若様ですが」

 

「そういえば、お前は場所によって呼び分けていたな」

 

「今さら何を仰るのですか。京でもそうしておりましたでしょう」

 

 弥五郎が吹き出し、小夜も口元を押さえた。

 

「なら、弥太郎は昔から変わらないわけか」

 

「はい。私は六角家の家臣ですから。呼び方が変わったからといって、お仕えする相手まで変わるわけではございません」

 

「それはそうだが、何だか俺だけ妙なことを聞いたようだな」

 

「四郎様からお尋ねになったのでしょう」

 

 弥太郎は平然と返し、弥五郎がまた笑った。小夜も楽しそうに二人を見比べている。そんなやり取りをしているうちに膳が運ばれてきた。

 

 食事が始まってしばらくは、本当に仕事らしい話をしなかった。小夜が塩津へ来てから覚えたこと、観音寺にいた頃とは違う暮らし、弥太郎から届く文が必要以上に細かいこと。弥太郎がそれに反論すれば、小夜は兄上が聞くから答えているだけだと返し、弥五郎が横から余計な一言を挟んでは二人に睨まれる。俺は焼いた魚の身を箸でほぐしながら、そのやり取りを眺めていた。

 

 小夜が朽木へ嫁ぐと決まった時、心配がなかったわけではない。以前の婚姻で何があったのかを知っていたからこそ、今度は大丈夫だと言葉だけで決めつけることも出来なかった。だが、こうして目の前にいる小夜は、夫の顔色を窺って言葉を選んでいるようには見えない。弥五郎の夜更かしを本人の前で堂々と咎め、弥太郎へは昔と変わらぬ調子で言い返し、給仕の侍女が膳を下げる際には自然に声を掛けている。何より、笑う時に一度こちらの様子を確かめるような仕草がない。その一つ一つを見ているうちに、観音寺を発つ小夜を遠くから見送った時に胸の奥へ残ったものが、ようやく少し軽くなった。

 

「四郎様は、こちらでも随分とお忙しいのですか。兄上から届く文には、四郎様が何をなさっているのかほとんど書いていないのです。自分のことばかり尋ねてくるのに、観音寺のことは少ししか教えてくださらないのですから、不公平だと思いませんか?」

 

 まだ呼び慣れていないのだろう。小夜は「四郎様」と口にする時だけ、ほんの僅かに間を置いた。

 

「小夜、お前が元気にしているか確かめるための文なのだから、それでいいだろう。観音寺で何があったかまで一つ一つ書いていたら、文がいくらあっても足りん。それに四郎様のことなら、坂田へ行ったり兵を動かしたり、相変わらずだ」

 

「相変わらずで済ませるな。俺だって少しは変わった。父上から三日も休めと命じられて、実際に休んだんだぞ」

 

「休むことを左京大夫殿から命じられる時点で、あまり胸を張れる話ではないと思うが」

 

 弥五郎が横から口を挟んだので、俺は箸を止めて向かいを見る。

 

「弥五郎も人のことを言えないだろう。さっき小夜から聞いたばかりだ。夜遅くまで仕事をしているらしいじゃないか」

 

「俺の場合は領地が増えたからだ。好きで夜更かしをしているわけではない。それに最近は以前より早く切り上げている」

 

「『以前より』では困ります。殿は一つ終わると、もう一つだけと仰るのです。その『もう一つ』が何度も続くのですから、結局いつまで経っても終わりません」

 

 小夜がすぐに言葉を重ねると、弥五郎は反論しかけた口を閉じた。その様子に弥太郎が笑い、俺もつられて口元を緩めたものの、よく考えれば自分も似たようなことをしている。帳面を一冊だけ、届いた文を一通だけ、地図を少し見るだけ。その積み重ねで夜が更けたことなど一度や二度ではない。

 

「……この話はやめよう。弥五郎と俺のどちらが先に小夜や弥太郎から叱られるかという話にしかならない」

 

「それがよさそうだ。四郎が相手なら、俺にも勝ち目がある」

 

「何の勝負だ、それは」

 

 笑い声が重なり、給仕をしていた侍女まで俯きながら口元を隠した。

 

 その後は観音寺の話へ移った。義定が相変わらず馬場へ通っていること、休みの最後に俺へ弓の勝負を挑み、一矢差で負けたことを未だに悔しがっていることを話すと、小夜は容易にその姿を想像出来たらしく、声を立てて笑った。そこへ弥太郎が余計なことを思い出し、休みの間に釣りへ出た話まで持ち出した。

 

「そういえば小夜、お前も覚えているだろう。昔、四郎様と俺が釣りをしている横で、お前がずっと見ていたことがあった」

 

「覚えています。兄上と四郎様がどちらが多く釣れるかと言い争って、私は横で応援していたではありませんか」

 

 小夜が昔の話の中まで「四郎様」と言い換えたことで、妙なところで本気なのだと分かった。

 

「そうだったな。だが今回は小夜がいなかったから、四郎様が途中で勝負の決まりを変えても止める者がいなかった」

 

「待て。どうしてそうなる」

 

 嫌な方向へ話が進み始めたので止めようとしたが、弥太郎は俺を見ながら楽しそうに続けた。

 

「最初は釣った数で勝負していたのです。ところが私が先に釣りましたら、四郎様は途中から大きさで勝負すると仰いましてな。最後には私より少し大きな魚を釣って、勝ったと」

 

 小夜の視線がゆっくりこちらへ向いた。隣では弥五郎まで箸を止めている。

 

「……それは勝ったと言ってよいのか?」

 

「最後に決めた勝負では俺が勝った。それで十分だ」

 

「途中で決まりを変えた者が言う台詞ではないな」

 

「弥太郎が先に釣ったのが悪い」

 

「四郎様、それでは私が魚を釣ったことまで悪事になってしまいます」

 

 小夜が堪え切れずに笑い出し、弥五郎まで肩を揺らした。こうして昔の話をする時、そこに弥五郎自身の思い出はない。俺と弥太郎、小夜、それに猿夜叉丸が一緒に出掛けていた頃、弥五郎とはまだ知り合っていなかった。それでも弥五郎は無理に自分を話へ混ぜようとはせず、知らない昔話として面白がって聞いている。その距離がかえって心地よかった。

 

「なら、今度は弥五郎も一緒に行くか。もっとも、六角の嫡男と朽木の当主が揃って釣りへ出るとなれば、今日以上に供が増えそうだが」

 

「面白そうではあるな。ただし、勝負をするなら最初に決まりを紙へ書いておこう。途中で四郎に変えられては敵わん」

 

「まだ言うのか」

 

「兄上も四郎様も、昔から変わりませんね」

 

 小夜がそう言ったところで、弥太郎がすぐに首を振った。

 

「小夜、俺まで一緒にするな。勝負の決まりを変えたのは四郎様だけだ」

 

「お前は少し黙っていろ」

 

 弥太郎は返事の代わりに頭を下げたが、口元は笑ったままだった。

 

今後の『双流の近江』本文でも、地の文は段落ごとに一行空け、台詞は必ず独立した行に置き、その前後にも空行を入れる書式で統一するね。

一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?

  • このまま
  • 5000文字前後
  • 15000文字前後
  • 1~5000文字
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。