十一月に入ると、近江の朝は目に見えて冷たくなった。観音寺城を発った頃には東の空も明るくなっていたが、山裾にはまだ薄い靄が残り、街道脇の草には夜露が細かな粒となって張り付いている。馬が息を吐くたびに白いものが鼻先へ浮かび、歩みを進めるうちに後ろへ流れていった。澄んだ空気は心地よいものの、馬上で風を受け続けていると頬や指先が冷える。供の者たちも夏の頃より衣を厚くしており、朝のうちは誰もが少し肩をすぼめながら馬を進めていた。
夏から秋にかけて、坂田のこと、兵のこと、遠く川中島で起きた戦のことと、目の前の出来事を追い続けてきた。稲が青かった頃からそれほど経っていないつもりでいたのに、街道の左右に広がる田はすでに刈り終えられ、束ねられた藁が朝日に長い影を落としている。村の軒下には冬へ備えた薪が積まれ、畦道を歩く百姓たちの姿も夏とは違っていた。毎日届く帳面へ目を通している間に季節は進んでいたのだと、城を離れて改めて実感した。
供には弥太郎をはじめ、近習や小姓を何人か連れ、篠も同行させている。遊びに行くという言葉から想像するには少々大袈裟な一行だったが、父上からは供を連れて行けと念を押されていたし、俺自身も今さら一人や二人で朽木領へ入れるとは考えていなかった。
六角の嫡男が何を目的に城を出ようと、道行く者には相応の立場を持つ武家の一行として映る。まして行き先は坂田のさらに北、浅井との戦を終えて領地を広げた朽木家のもとである。小夜の顔を見て、弥五郎と話し、少しばかり仕事から離れるための旅だと説明したところで、それを知らぬ者にまで同じ受け取り方を求めるのは無理があった。
それでも後ろへ目を向ければ供回りが続き、その後には荷を載せた馬までいる。弥五郎から気軽に来ればよいと返事をもらった時には、もっと身軽に出掛けられる気がしていたのだが、実際にはそうもいかないらしい。
「若様。先ほどから供の者を気にしておられますが、今さら後ろを御覧になっても減りませぬよ。これ以上減らせば、御屋形様から某が叱られます。若様だけが身軽になって、代わりに叱られるのでは割に合いません」
隣で馬を進めていた弥太郎は、俺が振り返ったのを見てそんなことを言った。
数えていたわけではないと返しかけたものの、供の多さを気にしていたのは事実なので黙っておく。弥太郎の後ろでは若い小姓が二人、こちらの会話を聞いていないふりをしながら馬を進め、そのさらに後ろには荷馬と供の者たちが続いていた。
以前、父上から三日間の休みを命じられた時にも、自分が休まないことで周囲まで休みにくくしていたと弥太郎から指摘されたばかりだ。今度は俺が気楽に出掛けたいからという理由で必要な供を減らし、残った者へ余計な負担を押し付ければ、結局やっていることは変わらない。
何より、護衛を務める者たちにも役目があり、その人数を決めるには理由がある。俺が気に入らないというだけで減らしてよいものではなかった。
「分かっておる。父上にも似たようなことを言われた。ただ、遊びに行くのにこれだけ連れていると、どうしても遊びに行くようには見えなくてな」
「若様がどう見えるかまで気になさっていたら、何処へも遊びには行けません。それに今回は小夜の顔を見に行くのでしょう。着いてから仕事を始めなければ、それで十分ではございませぬか。御屋形様からも、若様が塩津で余計なものを見付けても煽るなと言われております」
「……父上は何を心配しておられるのだ」
「それを某に尋ねられましても。ですが、御屋形様がそのように仰るだけのことを、若様がこれまで何度なさったかなら数えられます」
弥太郎の口元が僅かに緩んだ。
父上が俺の知らないところで何を吹き込んだのか確かめてもよかったが、答えを聞けば余計に腹が立ちそうなのでやめておく。前へ向き直って手綱を握り直すと、朝日が少し高くなったことで、先ほどまで影になっていた道の凹凸がはっきり見えるようになっていた。
坂田へ入ってからは、夏の終わりに自分の目で見た景色がところどころに現れた。同じ道を通っているはずなのに、季節が変わるだけで随分と印象が違う。青さを残していた田には今は土の色が広がり、村の軒下には薪や藁が積まれている。市へ向かうらしい荷馬の列とすれ違えば、背に載せられた品へ自然と目が向いた。
少し先では荷車の車輪が古い轍をなぞり、その脇を旅人が避けて歩いている。以前ここを見た時、晴れていれば荷馬は通れるが、雨が降れば荷車が難儀すると聞いた道の一つだった。
数日前に雨が降ったらしく、日当たりの悪い窪みにはまだ水が残っている。轍の底には薄く泥が溜まり、荷車がそこを通るたび、車輪が重たそうに土を押し退けていた。引いている馬も足場を確かめながら進み、車輪が深い轍へ入ると、荷を運ぶ男が横から車体を支えている。
前に来た時なら、俺はそこで馬を止めていただろう。
雨の後は何日ほどこの状態が続くのか。何処から来た荷車なのか。別の道へ回ることはできないのか。聞きたいことは幾らでも浮かんだし、今も車輪が泥を跳ね上げるのを見れば、以前弥七へ命じた調べがどうなっているのか確かめたくなる。
だが、手綱を引きかけたところで止めた。
ここで一つ聞けば、その先でも別のものが目に付く。市を通れば商人の数を確かめたくなり、村を通れば収穫後の様子が気になり、役人を呼べば帳面まで見たくなる。そうして一つずつ拾っていけば、塩津へ着く頃には日が傾いているだろう。
坂田を見る必要がないわけではない。しかし、それはすでに弥七たちへ任せてある仕事だった。必要なら改めて報告を受ければよいし、俺自身が行かなければ分からないことなら、その時に足を運べばよい。
今日は小夜と弥五郎に会うために城を出たのだ。俺は轍から前方へ視線を戻した。
「止まられないのですか?」
弥太郎の声に横を見ると、こちらではなく轍の方を見ていた。どうやら俺が何を気にしたのかまで分かっていたらしい。
「今日はやめておく。気になるなら帰ってから弥七の報告を見ればよい。ここで聞かなくとも、道は逃げぬだろう」
「それなら今日は本当に遊びに行けそうですね。坂田へ入って半日も経たぬうちに役人を呼び付けられたら、御屋形様へ何と申し開きをすればよいか考えていたところです」
「そなたは随分と信用しておらぬな」
「坂田へ様子を見に行ったはずなのに、帰ってきた時には道と市と村の話を始める御方ですから」
今度こそ反論できず、俺は前を向いた。後ろから小さな笑い声が聞こえた気がしたが、振り返れば余計に面倒なので聞かなかったことにした。
坂田を北へ進むにつれて、道を行き交う者の顔触れも少しずつ変わっていった。農具を担いだ村人だけでなく、荷を積んだ馬を引く商人や、湖岸へ向かうらしい者たちが増える。遠くに見える琵琶湖の水面は晩秋の空の色を映して鈍く光り、北へ目を向ければ山々の色も観音寺周辺より深かった。冷たい風が湖の方から吹き抜けるたび馬の鬣が揺れ、供の者たちが衣の合わせを押さえている。
坂田を得たことで、六角が治める土地は以前より北へ広がった。その先には朽木が押さえた浅井郡と伊香郡があり、今通っている道も、やがて別の家が治める土地へ入ることになる。
地図の上なら境を線で示せるが、実際の街道には人や荷が絶えず行き交っていた。浅井が滅びたからといって商人の付き合いが一度に変わるわけではないし、村々の暮らしも続いている。俺が以前坂田で見たものと、朽木が新たに治める土地の様子には、共通するところも多いのだろう。
朽木の領分へ入る少し前だった。
列のやや後ろを進んでいた篠が馬を寄せてきた。弥太郎とは反対側へ並び、前を向いたまま声を落とす。
「若様。少し前から見られています」
俺は顔を動かさなかった。
「何人だ?」
「確かめられたのは二人です。一人は街道から少し離れた高み、もう一人は先ほど通った林の近くに。ただ、最初にこちらを見ていた者とは別に、先へ走った者がいるかもしれません」
「八門か?」
「おそらくは。ただ、そこまでは確かめておりません」
篠は断言しなかった。自分の目で見たことと、そこから推測したことを分けている。
以前なら、俺もすぐに人数や位置を知りたくなったかもしれない。何処に誰がいて、どのように連絡を取り合っているのか。探ろうと思えば、篠ならもう少し詳しいところまで確かめられるだろう。
しかし、これから入るのは朽木領である。
六角の嫡男が供を連れて近付いてくれば、誰が来たのかを確かめ、先へ知らせるのは当然だった。俺たちだって、観音寺へこれほどの一行が近付けば、まず何処から来た者なのかを確かめさせる。弥五郎へ訪問の予定を知らせてあるとはいえ、実際に誰がどれほどの供を連れて来たのかは、向こうでも確認する必要があるだろう。
「こちらへ近付いてきたか?」
「いいえ。荷にも供の者にも近付いておりません。こちらを見て、先へ知らせているだけに見えます」
「ならば放っておけ。追う必要もない。何処にいるのか、全部で何人いるのかも調べなくてよい。こちらが気付いたことも知らせるな。近付いてくるとか、荷や人へ手を出すとか、動きが変わった時だけ教えてくれ」
篠が一瞬だけこちらを見た。
「よろしいのですか?」
「ここから先は向こうの領分だ。誰が入ってくるのかを見るのは当たり前だろう。観音寺へ同じような一行が近付けば、こちらも確かめさせる。見張ることと、害を加えることは別だ」
「承知しました」
篠はそれ以上尋ねず、馬を少し落として元の位置へ戻った。弥太郎も話が聞こえていたらしく俺の方を一度見たが、特に何か言うことはなかった。
俺は前方へ視線を戻した。
誰が見ているのか、どのように先へ知らせているのか。知ろうと思えば、確かめられることもあるのかもしれない。だが、知ることができるという理由だけで、何でも探る必要はない。篠へ同行を命じた時にも、朽木の内情を探る必要はないと伝えてある。今ここで、その指図を自分から曖昧にするつもりはなかった。
俺たちは歩みを変えることなく、塩津へ向かって進んだ。
*
塩津へ着く頃には、日はすでに西へ傾き始めていた。
湖から吹き上げる風は坂田で感じたものより冷たく、水辺特有の湿り気を含んでいる。港へ続く道には荷を担いだ者や馬が行き交い、その向こうでは帆柱が何本も空へ伸びていた。
岸へ繋がれた船の傍では荷を積み下ろす者たちが忙しく働き、船頭らしい男が岸から声を掛けている。塩津が北近江の水運に関わる場所であることは以前から知っていたが、こうして港の様子を見ると、その賑わいを実感できた。
思わず船の数を追いそうになり、俺は意識して視線を前へ戻した。
湖上の往来については以前から調べさせている。今日この場で船を数えたところで、普段の出入りまで分かるわけではない。まして今回は朽木の港を視察しに来たのではなかった。
塩津浜城の大手門が近付くにつれて供の列にも自然と緊張が戻り、先を行く近習が歩みを整え始めたので、俺もそちらへ意識を向けた。
ここまでの道中は私的な訪問であっても、門前に着けば六角家と朽木家の者として挨拶を交わすことになる。俺は門の少し手前で馬を下り、弥太郎たちもそれに続いた。
供の者が馬を引き、荷を扱う者たちが後方で支度を整える。その間に衣服を軽く正して門前へ進むと、そこにはすでに人が待っていた。
中央にいるのは弥五郎。その傍らには小夜がおり、少し後ろには朽木民部少輔稙綱と近習たちが控えている。
弥五郎は当主としての装いを整えていたが、俺の姿を認めると僅かに表情を和らげた。小夜もその横で静かに立っている。観音寺で顔を合わせていた頃とは衣装も身のこなしも少し違って見えたが、懐かしい顔立ちは何も変わっていなかった。
小夜の姿を見付けた瞬間、胸の奥にあった力が少し抜けた。
朽木からの文も届いているし、弥太郎へ宛てた手紙から元気に暮らしているらしいことは聞いていた。それでも、実際に自分の目で顔を見るのは別だった。
婚儀の日に遠くから行列を見送り、弥五郎が戦へ向かったと聞いた時には、新しい暮らしが始まったばかりの小夜を案じたこともある。今こうして弥五郎の傍らに立っている姿を見ると、無事にこの場所へ馴染んでいるのだろうと思えた。
「右衛門督様。遠いところをよく来てくれた」
弥五郎が一歩進み出た。
「弥五郎殿こそ、わざわざ門まで出迎えてもらってすまない。今日は世話になる」
「こちらから来いと返事をしたのだから当然だ。道中はどうだった?」
「問題ない。坂田で何度か馬を止めたくなったが、何とか我慢した」
弥五郎の口元が僅かに動いた。
「それなら左京大夫殿も安心なされるだろう」
どうやら父上の心配は朽木まで伝わっているらしい。
否定するほどのことでもないので苦笑すると、その横で小夜が一歩進み、俺へ向かって丁寧に頭を下げた。
「右衛門督様。ようこそお越しくださいました。お待ちしておりました」
一瞬、耳に馴染まないものを聞いた気がした。
小夜の口から俺へ向けられた右衛門督様という呼び方は、決しておかしくない。むしろ今この場では、それが正しい。ここは塩津浜城の大手門であり、当主である弥五郎や民部少輔、近習たちまでいる。俺も六角家の嫡男として訪ねている以上、相応の呼称を使うのは当然だった。
それでも、昔から聞き慣れた若様ではなかった。
小夜は亀松丸だった頃から、弥太郎とともに俺の近くにいた。観音寺の廊下でも、川へ出掛けた時でも、何か用事があって部屋へ来た時でも、ずっと若様と呼ばれていた。
その声が今は違う言葉を選んでいる。婚儀の日には小夜が朽木へ嫁ぐことを十分に受け止めたつもりでいたが、こうした何気ないところにも、立場が変わったことは表れるらしい。
「……ああ。久しぶりだな、小夜。元気そうで何よりだ」
「はい。おかげさまで」
小夜は顔を上げると、ほんの僅かに笑った。その笑い方だけは観音寺にいた頃と変わらず、俺も自然に笑みを返すことができた。
続いて民部少輔が前へ出た。
「右衛門督様。朽木民部少輔稙綱にございます。このたびは御来訪、よくぞお越しくださいました」
「民部少輔殿、出迎え痛み入る。今日は公の用向きではない。あまり気を遣わないでもらえると助かる」
「承知いたしました。とは申せ、右衛門督様を粗略にお迎えしたとあっては、後で殿から叱られましょう」
民部少輔が僅かに笑うと、弥五郎が横から口を挟んだ。
「何故こちらのせいになる。右衛門督様を粗略に扱ってよいとは申さぬが、今日は気楽に来てもらうつもりだったのだぞ」
「そのように仰るからこそ、こちらも失礼のないようにせねばなりませぬ」
民部少輔は何食わぬ顔で答え、弥五郎が小さく息を吐いた。
先ほどまでの改まった空気が少し緩み、俺も自然と肩の力が抜けた。
そこで弥太郎が前へ進み、弥五郎へ頭を下げた。
「弥五郎様。御無沙汰しております」
「弥太郎もよく来た。小夜が文の返事が遅いと何度も言っていたぞ」
「それは小夜が細かなことまで書いて寄越せと言うからです。返事をするにも時間が掛かります」
「兄上」
小夜が低く名を呼び、弥太郎が口を閉じた。
「……何だ」
「返事が遅いのと、何を尋ねているかは別のお話でしょう」
「分かった。分かったから、今ここで始めるな」
兄妹のやり取りを聞き、俺は思わず笑った。
観音寺にいた頃、小夜が弥太郎へ何かを言い、弥太郎が言い返そうとして結局引き下がる光景を何度見たことか。今は小夜が朽木の正室となり、弥太郎が六角家の近習として訪ねている。それでも顔を合わせれば、昔と変わらない調子で言葉を交わしているのが可笑しかった。
門前で長話を続ける必要もない。挨拶が済むと、俺たちは弥五郎に導かれて城内へ入った。
民部少輔が供の者たちの案内を引き受け、弥太郎も必要な支度について近習たちと短く話している。俺は小夜が弥五郎の少し後ろを歩く姿を眺めながら、ようやく朽木へ来たのだと実感していた。
*
通された部屋は庭に面していた。
障子越しの光はすでに夕方の色を帯び、庭木の葉が風に揺れるたび、その影が白い紙の上をゆっくり動いている。火鉢には炭が入れられ、外の冷たさに慣れた身体には室内の温もりが心地よかった。廊下からは侍女たちが支度を整える気配が聞こえ、部屋の隅には茶器が用意されている。
門前では互いに家を背負って挨拶を交わしたが、部屋へ入って供の人数も減ると、空気は自然と柔らかくなった。
民部少輔は俺たちを案内した後、必要な用向きを済ませると席を外し、残ったのは弥五郎と小夜、それに弥太郎たち身近な者だけになった。弥五郎も門前での改まった態度を解き、いつもの調子で声を掛けてくる。
「四郎、まずは身体を温めるとよい。食事も用意させている。大したものではないが、塩津なら魚には困らぬ」
「十分だ、弥五郎殿。今日は食事をしに来たようなものだからな」
そう返すと、弥五郎が妙な顔をした。
「どうした?」
「いや。門前ならともかく、ここでも弥五郎殿かと思ってな」
「何かおかしいか?」
「おかしくはない。ただ、小夜と弥太郎までいるところで呼ばれると、随分と堅い。公方様の御帰京の折にも顔を合わせ、その後も何度も話してきたのに、今さらこうした場でまで殿を付けられると、かえって落ち着かぬ」
言われてみれば、俺も似たものを感じていた。
弥五郎は朽木家の当主であり、俺の家臣ではない。公の場なら弥五郎殿と呼ぶのが自然だし、他家の者がいる前で気安く振る舞うわけにもいかない。だが、こうして小夜と弥太郎を交え、身内に近い空気の中でまで同じ呼び方を続ける必要があるのかと言われれば、確かに少し堅かった。
竹若丸と呼ばれていた頃の弥五郎を知っている俺にとっても、相手が朽木の当主となり、浅井を滅ぼすほどの力を持つようになったことは大きな変化だった。だからこそ公私の区別を付けようとしてきたのだが、そのことばかり意識して、昔からの付き合いまで必要以上に改まっていたのかもしれない。
「なら、ここでは弥五郎でよいか?」
「ああ。その方がよい」
「そうか。弥五郎は四郎と呼んでいるのに、片方だけ改まっていても妙だな」
「まったくだ。今さら遠慮されても困る」
弥五郎が笑ったので、俺もつられて口元を緩めた。
公の場では互いの立場に応じた呼び方をする。それは必要なことだが、こうして気兼ねなく話せる時まで、昔とは違う振る舞いをしなければならないわけではない。呼び方を一つ変えただけで、門前から続いていた堅苦しさが少し和らいだ気がした。
そこで、先ほどから静かに聞いていた小夜が僅かに姿勢を正した。
「では、一つよろしいでしょうか」
「どうした?」
小夜は少しだけ迷うように俺を見てから、口を開いた。
「これからは、若様とお呼びするのを改めようと思います」
思いがけない言葉に、俺は小夜を見返した。
「急にどうした」
「急ではありません。朽木へ来てから、ずっと考えておりました」
小夜は膝の上で両手を揃えた。門前で官途を呼んだ時より声は柔らかいが、その言葉には迷いがなかった。
「もう、観音寺で平井の娘として若様のお側にいた頃とは立場が違います。御屋形様の養女となり、今は朽木家へ嫁いで、殿の妻になりました。公の場で六角家の御嫡男を昔と同じように若様とお呼びするわけにはまいりません。今日のように人前でお会いする時は、右衛門督様とお呼びします」
「それは分かる。だが、今のような時まで変える必要があるのか?」
「はい。今までのように若様とお呼びするのは、もう違うと思っております」
その言葉に、俺を遠ざけようとする響きはなかった。小夜自身が今の立場を受け入れた上で、昔との境目をきちんと置こうとしているように聞こえる。
六角の家臣の娘として俺の近くにいた頃と、朽木の当主の妻となった今とでは、人前での振る舞いが変わるのは当然だろう。そのことを誰かから命じられるのではなく、小夜自身が考えて決めたらしい。
「ただ、公の場でない時まで官途でお呼びするのは、少し堅いと思います。ですから、これからは……四郎様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「四郎様、か」
口に出してみる。
若様と呼ばれなくなることに寂しさがないと言えば嘘になる。亀松丸だった頃から、小夜は弥太郎とともに俺の近くにいた。川へ行った時も、釣りをした時も、観音寺の廊下で顔を合わせた時も、ずっと若様だった。
その呼び方が一つ消えるのは、昔の時間まで少し遠ざかるような感覚があった。
だが、目の前の小夜はもう、あの頃と同じ立場ではない。六角家の養女となり、朽木へ嫁ぎ、こうして当主の傍らで客を迎えている。以前の婚姻を思えば、本人が新しい暮らしと自分の立場について考え、納得した上で前へ進んでいることは、むしろ喜ぶべきなのだろう。
「分かった。それでよい」
「ありがとうございます、四郎様」
初めてそう呼ばれた。
「……やはり少し変な感じがするな」
「私もです」
小夜は小さく笑った。
「ですが、そのうち慣れると思います。呼び方が変わったからといって、兄上とともに昔から存じ上げている四郎様でなくなるわけではありませんから」
その言葉を聞いて、俺も自然と頷いた。
小夜が何処へ嫁ごうと、昔からの付き合いがなかったことになるわけではない。今の立場を大切にしながら、以前のように言葉を交わせるのなら、それで十分だった。
「弥太郎はどうする?」
俺が横を見ると、突然話を振られた弥太郎が目を瞬かせた。
「某は今まで通りでございます。公の場では右衛門督様、こうして内輪でお話しする時は若様とお呼びいたします」
「朽木でも変わらぬのか」
「何故変える必要がございましょう。観音寺でも京でも、同じようにしておりましたでしょう」
弥五郎が吹き出し、小夜も口元を押さえた。
「ならば、弥太郎は昔から変わらぬわけか」
「はい。某は六角家の家臣ですから。お仕えする相手が変わったわけではございませぬ」
「それはそうだが、何だか妙なことを聞いたようだな」
「若様からお尋ねになったのでしょう」
弥太郎は平然と返し、弥五郎がまた笑った。小夜も楽しそうに二人を見比べている。
こちらは呼び方一つで随分と考えたというのに、弥太郎にとっては以前から当たり前のことらしい。もっとも、彼も六角の近習として場に応じて振る舞うことに慣れているのだから、それも当然なのだろう。
そんなやり取りをしているうちに、夕餉の膳が運ばれてきた。
食事が始まってしばらくは、本当に仕事らしい話をしなかった。
膳には焼いた魚や温かな汁物が並び、湖の近くならではの品も幾つか用意されていた。長い道中で身体が冷えていたこともあり、火鉢の温もりを感じながら食事を取れるのはありがたい。弥五郎は大したものではないと言っていたが、少なくとも俺には十分だった。
話題も自然と身近なものになった。
小夜が塩津へ来てから覚えたこと、観音寺にいた頃とは違う暮らし、弥太郎から届く文が必要以上に細かいこと。弥太郎がそれに反論すれば、小夜は兄上が聞くから答えているだけだと返し、弥五郎が横から余計な一言を挟んでは二人に睨まれる。俺は焼いた魚の身を箸でほぐしながら、そのやり取りを眺めていた。
朽木へ来てからの暮らしについて、小夜は思っていたより多くのことを話してくれた。
観音寺とは勝手の違うところもあり、最初は戸惑ったこともあったらしい。しかし今では屋敷の者たちの顔も覚え、弥五郎の仕事の具合を見ながら日々のことを進められるようになったという。
本人はまだ覚えなければならないことが多いと話していたが、その表情は明るかった。新しい暮らしについて語る言葉にも、どこか楽しげな響きがある。
小夜が朽木へ嫁ぐと決まった時、心配がなかったわけではない。以前の婚姻で何があったのかを知っていたからこそ、今度は大丈夫だと言葉だけで決め付けることもできなかった。父上からは余計なことをせずに見送れと言われ、俺もそうしたつもりだったが、だからといって気に掛からなくなったわけではない。
だが、こうして目の前にいる小夜は、夫の顔色を窺って言葉を選んでいるようには見えなかった。
弥五郎の夜更かしを本人の前で堂々と咎め、弥太郎へは昔と変わらぬ調子で言い返し、給仕の侍女が膳を下げる際にも自然に声を掛けている。何より、笑う時に周囲の様子を窺い、誰かの許しを求めるような仕草がない。
その一つ一つを見ているうちに、観音寺を発つ小夜を遠くから見送った時に胸の奥へ残ったものが、ようやく少し軽くなった。
小夜がこちらへ顔を向けた。
「四郎様は、今も随分とお忙しいのですか。兄上から届く文には、四郎様が何をなさっているのか、ほとんど書いていないのです。自分のことばかり尋ねてくるのに、観音寺のことは少ししか教えてくださらないのですから、不公平だと思いませんか?」
まだ呼び慣れていないのだろう。小夜は四郎様と口にする時だけ、ほんの僅かに間を置いた。俺の方も、その呼び方へすぐ返事をするには少し慣れが必要らしい。
「小夜、元気にしているか確かめるための文なのだから、それでよいだろう。観音寺で何があったかまで一つずつ書いていたら、文が幾らあっても足りぬ。それに若様のことなら、坂田へ行ったり兵を動かしたり、相変わらずだ」
弥太郎がそう答えると、小夜は少し不満そうに兄を見た。
「相変わらずで済ませるな。少しは変わったぞ。父上から三日も休めと命じられて、実際に休んだのだからな」
「休むことを左京大夫殿から命じられる時点で、あまり胸を張れる話ではないと思うが」
弥五郎が横から口を挟んだので、俺は箸を止めて向かいを見る。
「弥五郎も人のことを言えぬだろう。さっき小夜から聞いたばかりだ。夜遅くまで仕事をしているらしいではないか」
「朽木の場合は領地が増えたからだ。好きで夜更かしをしているわけではない。それに最近は以前より早く切り上げている」
「以前より、では困ります。殿は一つ終わると、もう一つだけと仰るのです。そのもう一つが何度も続くのですから、結局いつまで経っても終わりません」
小夜がすぐに言葉を重ねると、弥五郎は反論しかけた口を閉じた。
その様子に弥太郎が笑い、俺もつられて口元を緩めたものの、よく考えれば自分も似たようなことをしている。
帳面を一冊だけ。届いた文を一通だけ。地図を少し見るだけ。
そう言いながら夜が更けたことなど、一度や二度ではない。しかも、それを止める役目は大抵弥太郎か父上だった。
小夜が弥五郎へ向けている言葉も、以前なら弥太郎が俺へ言っていたことと大して変わらない。そこへ気付いてしまうと、これ以上弥五郎をからかうのも難しかった。
「……この話はやめよう。弥五郎とどちらが先に小夜や弥太郎から叱られるかという話にしかならぬ」
「それがよさそうだ。四郎が相手なら、朽木の方にも勝ち目がある」
「何の勝負だ、それは」
笑い声が重なり、給仕をしていた侍女まで俯きながら口元を隠した。小夜も弥五郎へ何か言い返そうとしていたが、結局自分でも可笑しくなったらしく、笑いながら箸を取り直している。
その後は観音寺の話へ移った。
次郎が相変わらず馬場へ通っていること、休みの最後に俺へ弓の勝負を挑み、一矢差で負けたことを未だに悔しがっていることを話すと、小夜は容易にその姿を想像できたらしく、声を立てて笑った。
次郎の負けず嫌いなところは昔から変わらず、弥太郎もその時の様子を思い出したのか、あれから何度も兄上へ勝負を挑むと言っていたと付け加える。
そこへ弥太郎が余計なことを思い出し、休みの間に釣りへ出た話まで持ち出した。
「そういえば小夜、そなたも覚えているだろう。昔、若様と釣りをしている横で、ずっと見ていたことがあった」
「覚えています。兄上と四郎様が、どちらが多く釣れるかと言い争って、横で応援していたではありませんか」
小夜が昔の話でも四郎様と呼んだことで、妙なところで本気なのだと分かった。まだ呼び慣れていない様子はあるが、本人はもう若様へ戻すつもりがないらしい。
「そうだったな。だが今回は小夜がいなかったから、若様が途中で勝負の決まりを変えても止める者がいなかった」
「待て。どうしてそうなる」
嫌な方向へ話が進み始めたので止めようとしたが、弥太郎は俺を見ながら楽しそうに続けた。
「最初は釣った数で勝負していたのです。ところが某が先に一匹釣りましたら、若様は途中から大きさで勝負すると仰いましてな。最後には某より少し大きな魚を釣って、勝ったと」
小夜の視線がゆっくりこちらへ向いた。隣では弥五郎まで箸を止めている。
「……それは勝ったと言ってよいのか?」
「最後に決めた勝負では勝った。それで十分だろう」
「途中で決まりを変えた者が言う台詞ではないな」
「弥太郎が先に釣ったのが悪い」
「若様、それでは某が魚を釣ったことまで悪事になってしまいます」
小夜が堪え切れずに笑い出し、弥五郎まで肩を揺らした。
こちらとしては最後に一番大きな魚を釣ったのだから、少しくらい勝った気分になってもよいと思うのだが、どうやらこの場に味方はいないらしい。
もっとも、こうして昔の話をする時、そこに弥五郎自身の思い出はない。
俺と弥太郎、小夜、それに猿夜叉丸が一緒に出掛けていた頃、弥五郎とはまだ知り合っていなかった。後になって竹若丸と出会い、互いに元服してからも付き合いが続き、今ではこうして同じ膳を囲んでいる。
弥五郎は無理に自分を昔話へ混ぜようとはせず、知らない出来事として面白がって聞いていた。小夜も夫に分かるよう細かなところを話すが、昔からの付き合いをことさらに強調するようなことはない。
俺が知らない朽木での暮らしについても、小夜は自然に話してくれる。互いに知らない時間があることを、そのまま受け入れていられるのが心地よかった。
「ならば、今度は弥五郎も一緒に行くか。もっとも、六角の嫡男と朽木の当主が揃って釣りへ出るとなれば、今日以上に供が増えそうだが」
「面白そうではあるな。ただし、勝負をするなら最初に決まりを紙へ書いておこう。途中で四郎に変えられては敵わぬ」
「まだ言うのか」
「兄上も四郎様も、昔から変わりませんね」
小夜がそう言ったところで、弥太郎がすぐに首を振った。
「小夜、某まで一緒にするな。勝負の決まりを変えたのは若様だけだ」
「そなたは少し黙っておれ」
弥太郎は返事の代わりに頭を下げたが、口元は笑ったままだった。
弥五郎もその様子を眺めながら笑い、隣の小夜へ何か言葉を掛けている。小夜はすぐに顔を向け、少し呆れたような表情を見せてから、また楽しそうに笑った。
朽木へ来る前には、小夜がどのように暮らしているのか気になっていた。
実際に会ってみれば、今の小夜は朽木の正室として振る舞いながら、俺や弥太郎の前では昔と変わらぬ顔も見せてくれる。弥五郎もそのことを自然に受け入れているらしく、二人の間に余計な気遣いがあるようには見えなかった。
観音寺で暮らしていた頃の小夜に、もう戻ることはないのだろう。だが、今こうして弥五郎の隣で笑っている姿を見る限り、それを惜しむ理由もなかった。
俺は残っていた魚の身を箸で取り、温かな汁物へ手を伸ばした。朝から続いた道中の疲れも、いつの間にか随分薄れている。朽木へ着いたら何を話そうかと考えていたが、今のところ政についての話題など一つも出ていなかった。
それでも、こうして四人で食事を取り、昔の話をしているだけで、今日ここへ来た目的は十分に果たせているように思えた。
弥太郎がまた何か言い掛け、小夜がそれを聞き返す。弥五郎も興味を持ったらしく、俺の方へ顔を向けてきた。
どうやら、釣りの話はまだ終わらないらしい。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
-
このまま
-
5000文字前後
-
15000文字前後
-
1~5000文字