食事が終わり、膳が下げられる頃には、障子の向こうもすっかり薄暗くなっていた。給仕の侍女が火鉢へ炭を足し、別の者が灯明を運んでくる。湖から吹く風は夜になるにつれて冷たさを増し、庭木の葉が擦れ合う音を部屋まで届けていた。小夜に勧められた茶を受け取ると、温かな湯気が顔に触れる。朝早く観音寺を発ち、長い道のりを馬に揺られてきたせいか、食事が済んで気が緩んだところで、ようやく身体の疲れを感じ始めていた。
もっとも、眠くなるほど静かな席ではなかった。先ほどから弥太郎が俺の釣りの腕を散々に言い、小夜は昔のことまで持ち出して兄に加勢している。弥五郎も初めは面白がって聞いているだけだったが、次に釣りへ行くなら勝負の決まりを先に書いておこうなどと言い出した。
俺としては三人を相手にしたところで勝ち目がない。最初は魚の数で勝負していたとしても、最後に釣れた大きな魚くらい評価してほしいものだが、どうやら誰も認めるつもりはないらしい。これ以上何を言ってもからかわれるだけだと諦め、残っていた茶菓子へ手を伸ばした。
「四郎様。そうやって黙っておられると、兄上の話が本当だったと認めたことになりますよ」
「別に認めたわけではない。皆が好き勝手に言うから、口を挟むところがないだけだ」
「ならば、次は小夜にも来てもらいましょう。どちらが勝ったか、きちんと見てもらえばよろしい」
弥太郎が澄ました顔で言うと、小夜は頷きかけ、ふと弥五郎へ目を向けた。
今は朽木の正室である。昔のように兄や俺と釣りへ出掛ける話を進めてよいものか、少し迷ったのかもしれない。その視線に気付いた弥五郎は、俺たちだけで楽しむつもりかと笑い、自分も連れていけと言った。
「殿も御一緒してくださるのですか?」
「無論だ。話を聞いているだけでは面白くないからな。それに、四郎が本当に途中で勝負の決まりを変えるのか確かめてみたい」
「弥五郎まで弥太郎の話を信じるのか」
「本人が否定し切れていないからな」
小夜が嬉しそうに顔を綻ばせ、弥太郎は得意そうに笑った。
日取りも決まっていない釣りの話ではあるが、こうして四人で出掛ける機会があってもよいだろう。もっとも、六角の嫡男と朽木の当主が揃って湖へ出るとなれば、供の者たちの支度だけでも随分大袈裟なことになりそうだ。今日の道中で供の人数を気にしていたことを思い出し、そこだけは少々気が重くなった。
そんな話がひとしきり続いた後、話題は塩津での暮らしへ移った。
小夜が観音寺とは勝手の違う家中の習わしを覚えたこと、港から届く荷の多さに初めは驚いたこと、侍女たちと顔を合わせるうちに少しずつ名前を覚えたこと。どれも大きな出来事ではないが、実際にこの城で暮らしている者でなければ話せないことばかりだった。
弥五郎は時折横から口を挟み、小夜が慣れない仕事に戸惑っていた頃の話をしようとして、そのたびに本人から止められている。小夜も黙って聞いているわけではなく、弥五郎が仕事を始めると食事の時刻さえ忘れてしまうことや、侍女から何度も声を掛けられてようやく筆を置くことなどを話した。弥五郎は少し困ったような顔をしていたが、本気で嫌がっている様子ではなかった。
そのやり取りを聞いているうちに、以前、弥太郎から聞いた小夜の文のことを思い出した。
弥五郎が新しい領地の決まりを整えるため、夜遅くまで書付へ向かっているという話である。朽木で法を定めようとしているらしいという報告も届いていたし、出立前には父上から、遊びに行った先で帳面ばかり見ようとするなと釘を刺されていた。
今日は仕事をしないつもりで来たのだが、こうして弥五郎本人を前にすると、以前から気になっていたことを少し尋ねてみたくなる。
「そういえば、弥太郎から聞いたぞ。小夜の文に、弥五郎が領内の決まりをまとめていると書いてあったらしいな。夜更かしの原因もそれなのか?」
「ああ、それもある。以前とは抱えている土地が違うからな。高島を中心に治めていた頃と違って、今は伊香や浅井にも目を配らねばならん。家中へ一言伝えれば済んだことが、土地が違えば同じようには通じなくなった」
弥五郎は茶碗を置き、先ほどより少し真面目な顔になった。
浅井との戦が終わり、朽木が伊香郡と浅井郡を押さえてから、まだ半年ほどしか経っていない。旧浅井臣の中には従来の所領や役目を引き続き認めてほしいと望む者もいれば、浅井の頃から続く争いを新しい領主に裁いてほしいと願い出る者もいるらしい。年貢や土地の境については現地で確かめなければならないことが多く、同じ朽木の領内となったからといって、これまでの慣習を一度に揃えられるものでもなかった。
その話を聞けば、坂田の様子と重なるところが多い。
六角でも後藤但馬守や目賀田次郎左衛門尉、三雲対馬守たちが手分けして調べを進めているが、未だに判断を保留しているものは残っている。まして弥五郎は、俺のように父上の下で仕事の一部を見ている立場ではない。朽木の当主として最後には自分で決めなければならないのだから、その苦労も大きいだろう。
「分国法を作るつもりか?」
「そういうことになるな。今川仮名目録を参考にしている。今川氏親が定め、後に義元が条目を加えたものだ。土地を巡る争いや家臣同士の揉め事について、何を禁じ、どう裁くかが書かれている。もちろん、あれをそのまま朽木へ持ち込むつもりはないが」
今川仮名目録なら、俺も名は知っている。前世で戦国時代の法について学んだ時にも目にしたもので、今川家が領国内の秩序を保つために定めた法として知られている。
もっとも、駿河を中心に長く勢力を築いてきた今川と、浅井の旧領を新たに得たばかりの朽木では事情が違う。参考になる条目があっても、それをそのまま領内へ行き渡らせられるとは限らなかった。
「今までの決まりで困っていないところもあるだろう。新しいものを作るからといって、全部変えるわけにもいかないか」
「そうだな。村や寺が長く守ってきたものまで取り上げれば、法を作る前に争いが起きる。ただ、誰が裁くかで同じ訴えの扱いが変わったり、力のある者が勝手に取り立てを増やしたりするのを放っておくわけにはいかん。まずは朽木として許すことと、許さぬことを示しておきたい」
弥五郎の考えは、新しい土地へ朽木のやり方を押し付けるというものではないらしい。土地ごとの取り決めは残しながらも、領主として見過ごせないことには明確な線を引く。そのための法を整えようとしているのだろう。
俺自身、坂田を受け取った直後には、六角の仕組みへ揃えた方が早いのではないかと考えたこともあった。しかし実際に道や市を見て、現地から届く帳面を読むうちに、それまでの取り決めにも理由があることが分かってきた。一方、以前から続いているというだけで、不当な取り立てまで認めるわけにもいかない。
「坂田でも似たようなものだ。新しい決まりを作る前に、今あるものを確かめるだけで随分と時間が掛かっている。市で集める銭も、誰かが勝手に取っているのか、橋や道を直すために使っているのかで話が変わるからな」
「なら、四郎には分かるだろう。戦で領地を得るまでは目の前の敵をどう退けるかでよかったが、得てからは毎日違う訴えが届く。九万石だ十万石だと一言で済ませられるなら楽なんだがな」
「それを言われると、父上にも同じような話をした覚えがある。互いに、しばらくは帳面と縁が切れそうにないな」
弥五郎と顔を見合わせ、思わず苦笑した。
朽木と六角では家の仕組みも抱える領地も違うが、新しく従うことになった土地の者たちを治めるという点では、似た苦労もあるらしい。
今川仮名目録のどの条目を参考にしているのか、旧浅井領では何を優先して定めようとしているのか。詳しく聞きたいことはあったが、ここで話を広げれば、せっかくの和やかな席が政の相談へ変わってしまう。
何より、小夜と弥太郎の前で延々と法について議論するのは、少々場違いだった。
そう考えていると、小夜が弥五郎の茶碗へ茶を注ぎ足しながら、その手元を見ていることに気付いた。話に興味がないわけではなさそうだが、今は法の出来より夫の身体の方が気になるらしい。
弥五郎もその視線に気付いたようだったので、俺は話を最初へ戻すことにした。
「事情は分かった。だが、だからといって毎晩遅くまで起きていてよい理由にはならぬだろう。小夜が心配しているぞ」
「随分と話したのに、結局そこへ戻るのか。それに、四郎にだけは言われたくないな」
「某もそう思います。若様は御屋形様から休むよう命じられたばかりでしょう」
弥太郎が間を置かずに加わると、小夜まで静かに頷いた。二人とも、今度は弥五郎ではなく俺の方を見ている。
確かに書付をあと一通だけ読もうとして夜を更かしたことは何度もあるし、父上に休みを命じられた経緯まで知られている以上、この話題で優位に立つのは難しそうだった。弥五郎の身体を心配したつもりが、自分まで同じ立場へ引きずり込まれてしまったらしい。
「……この話はやめよう。どちらが先に二人から叱られるかという話にしかならぬ」
「そうしよう。相手が四郎なら、俺にも勝ち目がありそうだ」
「何の勝負だ、それは」
弥五郎が笑い、弥太郎も肩を揺らした。小夜は呆れたように息を吐いたものの、その口元まで緩んでいる。給仕に入っていた侍女が笑いを堪えようと顔を伏せたので、俺もそれ以上言い返すのを諦めた。
せっかく休みを取って朽木へ来たのだから、ここで仕事の話を続け、二人から叱られる理由を増やす必要もないだろう。
やがて、侍女の一人が小夜へ何かを告げに来た。明日の支度について確かめたいことがあるらしく、小夜は俺たちへ断ってから立ち上がった。廊下へ出掛けたところで振り返り、弥太郎にも見てもらいたいものがあると言う。
弥太郎は何のことか聞き返したが、小夜は行けば分かると答えるばかりで、結局は兄を連れて部屋を出ていった。
*
襖が閉じると、先ほどまで賑やかだった室内も随分静かになった。給仕の侍女たちも必要な支度を済ませて下がり、火鉢の炭が時折小さく音を立てるばかりになる。庭を吹き抜ける風が木々の葉を揺らし、障子へ映る枝の影が灯明の光の中でゆっくり動いていた。
「ようやく静かになったな」
「弥太郎が戻ってきたら、そのまま言ってやろうか。小夜と二人で文句を言われるぞ」
「それは勘弁してくれ。小夜だけでも言い負かされることがあるのに、兄まで加わったら敵わん」
弥五郎は茶碗を持ち上げながら笑った。
俺もつられて口元を緩めたが、視線は自然と小夜が先ほどまで座っていた場所へ向いた。火鉢の近くには彼女の座布団が残り、侍女たちもその周りを普段通りに行き来している。
小夜は明日の支度を確かめるために席を外しただけで、弥五郎もそれを気に留めていない。ごく当たり前のことなのだろうが、そうした様子からも、ここに小夜自身の暮らしがあることを感じられた。
観音寺で知っていた小夜と、朽木の正室として振る舞う小夜。その二つの姿が、ようやく俺の中で繋がった気がした。
「小夜のことなら、心配しなくていいぞ」
不意に弥五郎からそう言われ、俺は顔を上げた。
「……顔に出ていたか?」
「ここへ着いてから、何度も小夜の方を見ていただろう。本人には分からんようにしていたつもりかもしれんが、俺には分かった。弥太郎も似たようなものだったがな」
俺としては、何かを探っていたつもりはなかった。
観音寺へ届く文には元気だと書かれていても、実際にどう暮らしているのかまでは知りようがない。以前の婚姻で小夜が辛い思いをしたことを知っているだけに、今回の縁組を本人が望んだと分かっていても、今日ここで顔を見るまでは気掛かりが残っていた。
それに、俺はあの時、小夜へ何をしてやればよいのか分からなかった。
父上からは余計なことをするなと言われ、結局、婚儀の日には遠くから行列を見送っただけだった。それが間違っていたとは思っていないが、だからといって小夜のことを気にしなくなったわけではない。
「心配はしていた。弥五郎のことを疑っていたわけではない。ただ、前のことがあるからな。観音寺では元気そうな文を読めても、こちらでの毎日までは分からぬ」
「分かっている。だから俺の言葉だけで安心しろとは言わん。今日も明日も、好きなだけ見ていけばいい。小夜が家中の者とどう話すか、皆が小夜にどう接しているか。四郎なら、説明されるより見た方が早いだろう」
弥五郎は、自分を信用しろとは言わなかった。ただ、見ていけばよいと言う。
その言い方に、むしろ安心した。
小夜を大切にしていると口で言われれば、それはそれでありがたい。だが、先ほどの食事でも、小夜は弥五郎へ遠慮なく注意し、弥太郎には昔と変わらぬ調子で言い返していた。侍女へ声を掛ける時にも気負いはなく、朽木へ来てから覚えたことを話す様子も明るかった。
少なくとも今夜の小夜は、観音寺にいた頃と変わらずよく笑っていた。
「そうさせてもらう。もっとも、今日見た限りでは、あまり心配する必要もなさそうだ。小夜が弥五郎を叱っているところまで見られたしな」
「そこは見なくてもよかっただろう。しかも今日は、四郎と弥太郎が来ているからいつもより容赦がない」
「ならば、明日になれば少しは手加減してくれるかもしれぬぞ」
「どうだかな。朝から二人が着くのを楽しみにしていたから、明日も似たようなものだと思うが」
小夜が朝から何度も支度を確かめ、門前でも街道の方を気にしていたと聞かされ、俺は出迎えの時の改まった挨拶を思い出した。
右衛門督様と呼ばれて少し戸惑ったが、部屋へ入ってからは四郎様と呼び直し、昔と変わらぬ顔で笑っていた。自分の立場が変わったことを受け入れながら、以前からの付き合いも大切にしているのだろう。
「その話は本人の前でするなよ。せっかく朽木の奥方らしく出迎えてくれたのだからな」
「分かっている。もっとも、門で待っていた家臣たちには、朝から楽しみにしていたことなど大体知られていたと思うが」
弥五郎が笑ったので、俺もそれ以上追及しなかった。
明日もこの城にいるのだから、小夜と顔を合わせる機会はある。今夜のうちに、これまでの暮らしを根掘り葉掘り尋ねる必要もなかった。
灯明の火が小さく揺れ、障子に映る枝の影が形を変える。弥五郎は茶碗を手に庭の方へ目を向け、俺も温かな茶を飲みながら、しばらく黙っていた。
二人きりになっても、無理に話題を探す必要はない。
出会ってから何度も顔を合わせ、政や戦だけでなく、くだらないことも話してきた。互いに当主と嫡男という立場になり、以前より気軽には会えなくなったものの、こうした時間まで失われたわけではないらしい。
その静けさを破ったのは、襖の向こうから掛かった若い近習の声だった。
「殿。湊より本日分の報せが届いております。急ぎではございませぬが、明朝までに御覧いただきたいとのことにございます」
「分かった。後で見る。今日は客がいるからな。急ぎでなければ、こちらへ持ってこなくてよい」
近習が承知したと答え、廊下を遠ざかっていった。
弥五郎は何事もなかったように茶へ手を伸ばした。
湊からの報せなら、船の出入りや荷のことかもしれない。塩津へ着いた時にも港に並ぶ帆柱へつい目が向いたばかりだし、浅井の旧領を得てから湖上の往来がどう変わったのかには、以前から興味があった。
だが、それは弥五郎が朽木の当主として受け取る報告である。今の俺が確かめなければならないものではないし、そもそも今日は遊びに来たのだ。
せっかく弥五郎が急ぎでない仕事を後回しにしたというのに、こちらから何が届いたのかと尋ねれば、結局は仕事の話を始めることになる。
俺はそのまま茶碗を傾けた。
「聞かないのか?」
「何をだ?」
「今の報せだ。四郎なら、湊から何が届いたのか尋ねると思っていた」
「朽木の湊から弥五郎へ届いた報せだろう。こちらが聞く理由はない。それに、今日は仕事をしないと決めている。ここで話を始めたら、また小夜や弥太郎に笑われる」
弥五郎は少し意外そうな顔をした後、口元を緩めた。
「左京大夫殿が休ませようとしたわけだな。四郎は休むことにも随分と苦労しているらしい」
「放っておいてくれ。それなりに努力しているのだ」
弥五郎は声を立てて笑った。
俺もつられて笑い、火鉢へ手を近付ける。長い道中で冷えた指先には、炭の熱が心地よかった。
以前なら、今の報告について聞かなかったことが気になり、後から何が届いたのか尋ねたくなったかもしれない。だが、弥五郎が急ぎではないと判断し、後で見ると答えたのだから、今ここで俺が口を挟む理由はない。
小夜と弥太郎が戻ってくれば、また賑やかになるだろう。それまではこうして過ごしていてもよいと思っていたところへ、廊下を近付いてくる足音が聞こえた。
「右衛門督様。少しよろしいでしょうか」
篠の声だった。
俺は茶碗を置き、襖へ目を向けた。
道中についての報告なら、すでに必要な話は聞いている。朽木領へ入る前にこちらを見ていた者たちについても、追う必要はないと伝えたはずだった。
わざわざ居場所を確かめて訪ねてきたとなれば、別の用件ができたのだろう。
弥五郎へ視線を向けると、静かに頷きが返ってきた。
「入れ」
襖が開き、篠が姿を見せた。
俺へ一礼した後、弥五郎にも深く頭を下げる。先ほどまでの和やかな席へ入ることを気にしているのか、すぐには話し始めず、俺たちの顔を一度ずつ確かめた。
篠は普段から必要なことを簡潔に伝える方だが、今回は少し言葉を選んでいるように見えた。
「右衛門督様に御報告したいことがございます。ただ、朽木殿にも関わる話にございますので、この場で申し上げてもよろしいでしょうか」
弥五郎へ視線を向けると、向こうも静かに頷いた。
「ああ。構わぬ。話してくれ」
篠は膝を進め、城内で奈津を見掛けたことから話し始めた。
奈津が小夜の供として朽木へ来ていることは、俺も知っていた。
小夜が嫁ぐ際に観音寺から付き従った者の一人であり、今はその身の回りを助けている。また、三雲対馬守から小夜の近況を時折知らせるよう頼まれていることも承知していた。
小夜が嫁ぎ先でどのように暮らしているのか、困っていることはないか。対馬守が気に掛け、そのために奈津を頼ったことにも異存はなかった。
ただ、篠がわざわざ弥五郎の前で報告したいと言い出した以上、小夜の近況だけでは済まない話なのだろう。
奈津と篠はともに甲賀と繋がりがあるが、今回、篠へ命じたのは道中の人の動きや土地の様子を見ることであり、朽木の城内を探らせることではなかった。まして小夜の身近にいる者について、何かを調べさせた覚えもない。
俺は続きを促し、弥五郎も茶碗を置いて篠へ目を向けた。
「奈津が湊の近くで、荷を運ぶ者と話しているのを見掛けました。最初は小夜様に関わる用向きかと思いましたが、船が何処から戻ったのか、何を積んでいたのかと尋ねておりました。それだけではなく、近頃の兵の動きについても聞いていたようにございます」
「兵の動きまでか。それは奈津が自分で尋ねていたのか?」
「はい。見聞きした範囲では、そのように見えました。ただ、誰かから命じられていた可能性もございますので、本人へ確かめました」
篠の話によれば、奈津は声を掛けられた時、特に隠そうとする様子もなかったらしい。
篠が右衛門督の供として来たことを知ると、むしろ久しぶりに顔を合わせたことを喜び、朽木での暮らしについても気安く話していたという。小夜が元気でいることや、家中の者たちにもよくしてもらっていることなど、最初のうちは昔からの知り合い同士として、ごく普通の話をしていたそうだ。
俺も奈津とは観音寺で何度か顔を合わせている。小夜の供として働いていた頃から、与えられた役目を疎かにするような者ではなかったし、甲賀の者としても心得はあると思っていた。それだけに、何故この城で船や兵の動きまで尋ねていたのかが気になった。
「それで、船や兵のことを尋ねていた理由を聞いたわけか」
「はい。奈津は、ここにいれば様々なことが分かるので、小夜様の御様子と併せて知らせれば、対馬守様のお役に立つと考えたと申しておりました。浅井との戦が終わってから朽木の領地は広がり、塩津を行き交う船や人も増えております。そうした変化を知っておいた方がよいと思ったそうです」
俺は思わず眉を寄せた。
奈津の考えが全く理解できないわけではない。甲賀の者として仕えている以上、目にしたことを覚え、必要とあれば知らせるのが役目だと考えているのだろう。小夜の近況だけでなく、嫁ぎ先の様子まで伝えれば、対馬守の役に立つと思ったのかもしれない。
しかし、船の積荷や兵の動きとなれば話は別だった。
小夜が不自由なく暮らしているかを確かめることと、朽木が何処へ兵を動かしているのかを調べることには明らかな違いがある。船が何処から戻り、何を積んでいるのかについても、商いの様子を眺めるだけでは済まない場合があるだろう。
塩津は朽木が押さえる港であり、そこを行き交う荷の中には、家中の政や軍勢の動きに関わるものもあるかもしれない。
ましてここは六角の領地ではない。小夜の供として来た者が、朽木の者に疑われるような行動をしていたとなれば、本人が善意のつもりだったとしても、それだけで済ませられる話ではなかった。
「対馬守からは、何処まで調べるよう命じられていたのだ?」
「小夜様の御様子を知らせることだけだったそうです。弥五郎様との仲や、家中で困っておられないかを確かめるようにと。船や兵について調べるよう命じられたのかとも尋ねましたが、それは否定いたしました」
「ならば、奈津が自分の判断で調べるものを増やしたということか」
「本人はそのように申しております。ただ、それが事実かどうかまでは確かめておりません」
篠はそこで一度言葉を切った。
俺が次の質問をする前に、これまで奈津が対馬守へ何を知らせていたのかについても尋ねたと付け加える。
奈津は小夜の様子を伝える文の中で、湊に人が増えたことや、見慣れない者が来ていたことなどを書き添えたことがあるという。ただし、兵や船について詳しくまとめた文を送ったことはなく、今のところは見聞きしたことを覚えていただけだと話したそうだ。
少なくとも奈津本人の説明では、積極的に朽木の軍勢や船の動きを調べ、対馬守へ報告するようなことはしていないらしい。
だが、その言葉を何処まで信用してよいのかは、まだ分からなかった。
人の出入りが増えたという程度の話なら、小夜の暮らしぶりを知らせる文へ自然に書き添えることもあるだろう。しかし船の積荷や兵の行き先まで集めていたとなれば、単なる近況報告とは受け取られまい。
奈津自身がその違いをどの程度意識していたのかも、今の話だけでは判断できなかった。
俺は篠へ目を戻した。
「それで、そなたはどうした?」
「奈津へは、命じられたことと、自分で役に立つと思ったことは同じではないと伝えました。それ以上は尋ねず、こちらへ参りました」
「文を確かめたり、誰から話を聞いていたのかを調べたりはしなかったのか?」
「しておりません。右衛門督様から、そのような命は受けておりませんので」
篠の答えに迷いはなかった。
ここまでの報告を聞く限り、奈津がどのような行動をしていたのか、さらに詳しく調べることはできただろう。甲賀の者同士であれば、普段誰と接しているかを辿る手立てもあるのかもしれない。文を送っているのであれば、その内容を確かめたいと思う者もいるはずだ。
しかし篠は、本人へ命じられた内容を確かめたところで止め、それ以上は俺の判断を仰ぐことにした。
奈津の行動を詳しく知りたい気持ちはある。だが、それを篠へ命じれば、今度は六角の者が朽木の城内で、別の甲賀の者の動きを探ることになる。
奈津に問題があるからといって、その調べを口実にこちらまで勝手なことを始めれば、何を正そうとしているのか分からなくなってしまう。
「分かった。そこで止めてくれてよかった」
「ありがとうございます。ただ、奈津が話したことだけでは、まだ分からないこともございます」
「ああ。そこは承知している。本人がそう言ったからといって、それが全てとは限らぬからな」
篠は小さく頭を下げた。
道中で朽木の者らしい監視に気付いた時も、俺が追う必要はないと伝えると、それ以上のことはしなかった。今回も、自分へ与えられた役目を越えるところで止まっている。
気になることを見付けた時、何処まで自分で確かめ、何処から先を報告するか。その判断を任せられるのは、俺にとってありがたいことだった。
ただし、奈津の件をどう扱うかは、俺だけで決められるものではない。
篠が報告している間、向かいに座る弥五郎はほとんど口を挟まなかった。先ほどまでの気安い表情は消え、静かに話を聞いている。
朽木の城内で起きていることなのだから、当然気になるはずだ。まして奈津は小夜の供として観音寺から来た者であり、弥五郎にとっては妻の身近に置いている者でもある。
俺が何と切り出すべきか考えていると、弥五郎の方から茶碗を置いて口を開いた。
「奈津のことなら、こちらでも把握している」
思わず顔を向けた。
「知っていたのか?」
「ああ。報せが来ている。小夜の供として来た女が、近頃になって湊や蔵の周りで余計なものを見ているとな。船の出入りを尋ね、兵が動けば行き先を気にし、人の出入りまで覚えようとしているらしい」
「それなら、随分と前から気付いていたわけか」
「最初に報せを受けた時点で、奈津が何者かは分かっていた。小夜に付き従って観音寺から来た者で、甲賀とも繋がりがある。だからこそ、すぐには手を出さなかった」
弥五郎はそう言って、少し冷めた茶へ口を付けた。
俺は続きを待った。
奈津が何をしているか知っていながら止めなかったということは、弥五郎にも考えがあったのだろう。
小夜の供として城内へ入った者である以上、疑いを掛けるだけでも小夜の立場に関わりかねない。まして奈津が甲賀の者であり、六角との繋がりを持っているとなれば、扱いを誤ることで両家の間に余計な問題を生む可能性もある。
だが、だからといって、六角から来た者なら何をしても見過ごすというわけにはいかない。塩津浜城は朽木の城であり、その中で起きたことについて判断を下すのは、当主である弥五郎なのだから。
「奈津が誰の命で動いているのかを見たかった。六角から探るよう命じられたのか、それとも本人が勝手に動いているのか。すぐに問い詰めれば、そこから先は分からなくなる。こちらから手を出さず、何を見るか、誰と話すかだけ確かめさせていた」
「泳がせていたわけか」
「そういうことだ。もっとも、何かを持ち出そうとしたり、危うい場所へ入り込んだりすれば止めるつもりだった。今のところ、そこまではしていない。湊で働く者に話を聞き、見えるものを覚えている程度だな」
弥五郎の答えを聞き、俺は僅かに息を吐いた。
奈津の動きは、すでに朽木の側へ知られていた。弥五郎は六角との繋がりを承知しながらも、最初から俺たちの命令だと決め付けず、本人が何処まで動くのかを見ていたらしい。
今のところ危うい場所へ入り込んだり、何かを持ち出そうとしたりしていないという話も、篠が聞き取ったものとは別に、朽木の側で確かめた結果なのだろう。
どのように見張っていたのか、何人の者が関わっていたのか。そうしたことを聞こうと思えば、幾つも疑問は浮かんでくる。しかし今は、奈津の行動について双方が把握しているところを確かめる方が先だった。
「奈津が対馬守へ送った文についてはどうなんだ?」
「小夜の様子を知らせる文があることは知っている。そこへ湊のことを書き添えているらしいという話もな。ただ、兵や船について詳しくまとめたものを送ったとは聞いていない。こちらが確認していないだけという可能性はあるが、今のところはそこまでだ」
弥五郎はそう答えると、今度は篠へ顔を向けた。
「篠殿。奈津は、対馬守殿から船や兵を調べるよう命じられたわけではないと、自分で申したのだな?」
「はい。ただし、その言葉が事実かどうかまでは確認しておりません」
「それでよい。確かめていないことまで、無理に答えてもらう必要はないからな」
篠が頭を下げるのを見て、弥五郎は静かに頷いた。
声に怒りはなかったが、先ほどまで冗談を交わしていた時とは明らかに違う。当主として自分の城内で起きていることを確かめている。その姿を前に、俺も自然と背筋が伸びた。
奈津に悪意があったのかどうかは分からない。
本人は対馬守の役に立ちたかったと言っているらしいし、本当にそれだけのつもりだったのかもしれない。しかし朽木から見れば、六角から来た女が船や兵の動きを調べていることに変わりはない。
しかも、弥五郎は今日までその動きを把握していた。奈津がどこかで見咎められ、捕らえられていてもおかしくなかったのだ。
小夜のことを考え、六角との関係にも配慮したからこそ、すぐには手を出さずにいたのだろう。そう思えば、弥五郎が今まで何も言わなかったことを責める気にはなれなかった。
それだけに、こちらが軽々しく奈津を庇うわけにもいかない。
小夜の供として来た者であっても、朽木へ入った以上は朽木の決まりに従わなければならない。俺たちの付き合いが長いからこそ、こうしたところを曖昧にしてはいけないのだろう。
「弥五郎。奈津が勝手にやったことだと、今ここで決めるつもりはない。本人がそう言っていても、対馬守に確かめる必要がある。それに、小夜の供として朽木へ来た者のことだ。六角の側だけで話を片付けるわけにもいかぬ」
「ああ。俺もそのつもりだ。対馬守殿が本当に小夜の近況だけを命じていたのなら、そのことは確かめればよい。六角が朽木を探らせていたと決めるのも、それからで十分だろう」
「すまない。小夜の供として迎えてもらった者が、こんなことをしていたとは」
俺が頭を下げかけると、弥五郎は軽く手を上げて止めた。
「四郎が命じたわけでもないのに、今ここで謝られても困る。それに、俺も奈津の動きを知りながら、今日まで話さなかった。いずれは確かめるつもりだったが、四郎が来たことで少し早まっただけだ」
「そう言ってもらえると助かる。だが、何もなかったことにはできぬだろう」
「もちろんだ。奈津が何を考え、何処まで調べていたのかは聞かなければならん。ただし、今すぐ大勢を集めて問い詰めるようなことは考えていない。まずは本人から落ち着いて話を聞こう」
その言葉に俺も頷いた。
奈津が自分の判断で動いたのなら、何故それを必要だと思ったのか聞いておくべきだし、誰かの命令があったのなら、その相手を確かめる必要がある。対馬守へも事情を尋ねなければならないが、今夜のうちに返事を得ることはできない。
それに、問い詰めることが目的になってはいけなかった。
最初から誰かの命令で動いていたに違いないと決めてしまえば、奈津が何を話しても疑いの目で見ることになる。反対に、本人が善意だったと言えばそれで済むという話でもない。何を命じられ、実際に何をしていたのか。その二つを確かめなければ、誰の責任なのかさえ判断できなかった。
弥五郎が落ち着いて本人から話を聞くと言ってくれたことは、俺にとってもありがたかった。
「小夜には、どう話す?」
俺が尋ねると、弥五郎は少し考えるように視線を落とした。
小夜は奈津を自分の供として連れてきている。日頃から身近に置いている者が、知らないところで船や兵について尋ね回っていたと聞けば、驚くだろう。それが夫の城で起きたことだと知れば、なおさら気にするかもしれない。
小夜が奈津へそのようなことを命じたとは考えにくいが、本人は身近な者の行動に気付けなかったことを悔やむかもしれなかった。
「隠しておくわけにはいかんだろうな。奈津を呼んで話を聞くとなれば、小夜の耳にも入る。後から人づてに知るより、俺たちから話した方がよいだろう」
「そうだな。ただ、小夜まで責められるようなことにはしたくない。奈津が自分の判断で動いていたのなら、それを小夜の責任にするのは違うだろう」
「ああ。小夜が船や兵を調べろと命じたわけではない。それは俺からも伝える。ただ、奈津が何をしていたのかを知った上で、小夜自身がどう考えるかまでは決められん。まずは話してみるしかないな」
弥五郎の答えはもっともだった。
俺や弥五郎が小夜の責任ではないと言ったところで、本人がどう受け止めるかは分からない。奈津が身近にいる者である以上、何か気付けなかったかと考える可能性もあるだろう。
だが、心配を掛けたくないからといって、身近な者に関わる話を本人だけ知らないまま進めるのもおかしい。
つい先ほどまで、小夜は弥五郎の隣で笑い、明日の支度を確かめるために席を外していた。朽木へ来てからの暮らしを自分のものとして受け入れ、当主の妻として日々を過ごしている。
その小夜へ何も知らせず、俺たちだけで奈津の扱いを決めてしまえば、かえって本人の立場を軽んじることになるだろう。
俺は篠へ視線を戻した。
報告を終えた篠は静かに控えており、こちらの話へ余計な口を挟むこともない。先ほど、本人の判断で奈津を調べ始めなかった理由を聞いた時と同じだった。
篠にしてみれば、さらに詳しく確かめたいこともあったのかもしれない。しかし、今ここで俺と弥五郎が相談している以上、そこから先へ勝手に動くつもりはないようだった。
「篠。奈津にはまだ何も言わなくてよい。これ以上、誰と話していたのかを追う必要もない。ここから先は弥五郎と相談して進める」
「承知いたしました。奈津から何か尋ねられた場合はいかがいたしましょう?」
「今のところ、こちらから新しく伝えることはない。もし向こうから話があれば、その内容だけ聞いておいてくれ。ただし、奈津を試すようなことはしなくてよい」
「はい」
篠は深く頭を下げた。
俺はその姿を見ながら、道中で朽木の者らしい監視に気付いた時のことを思い出した。あの時も篠は、誰が何処から見ているのか、さらに詳しく確かめることができたのかもしれない。しかし俺が追う必要はないと伝えれば、それ以上は踏み込まなかった。
今回も、奈津へ本人の行動について確かめたところで止まり、文や人の繋がりを勝手に調べることはしていない。
篠には、できることが幾つもあるのだろう。だが、できるからといって何でもしてよいわけではない。命じる側が何処までを求めているのか示さなければ、役に立とうとする者ほど、よかれと思って余計なところへ手を伸ばしてしまうこともある。
父上からも、出立前に似たようなことを言われていた。何を求めているのかだけでなく、何処から先は求めていないのかまで伝えておけ、と。
奈津の件も、それと無縁ではないのだろう。
本人の説明が事実なら、対馬守から小夜の近況を知らせるよう命じられたことを、自分なりに広く受け取ってしまったのかもしれない。だが、その判断によって朽木から疑われるような行動をしていたのであれば、どれほど善意であっても見過ごすことはできない。
そして俺が今ここで、奈津の動きをもっと詳しく探れと篠へ命じてしまえば、同じことを繰り返すことになる。
奈津が何を考えていたのか、対馬守が実際に何を命じていたのか。その答えはまだ出ていない。弥五郎が当主として本人へ話を聞き、六角の側でも対馬守へ事情を確かめる必要がある。
今夜のうちに結論を急ぐ理由はなかった。
篠は頭を下げたまま静かに控えている。俺はその姿を見ながら、奈津へ声を掛けたところで調べを止め、まずこちらへ報告してくれたことを、改めてありがたく思った。
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