淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第六十三話「越えてはならぬ一線」ー中編ー

## 再構成版・前半

 

 食事が終わり、膳が下げられる頃には、障子の向こうもすっかり薄暗くなっていた。給仕の侍女が火鉢へ炭を足し、別の者が灯明を運んでくる。湖の方から吹いてくる風は夜になるにつれて冷たさを増し、庭木の葉が擦れ合う音を部屋まで届けていた。小夜に勧められた茶を受け取ると、温かな湯気が顔に触れた。朝早く観音寺を発ち、長い道のりを馬に揺られてきたせいか、身体の奥に残っていた疲れがようやく出てきたらしい。

 

 もっとも、眠くなるほど静かな席ではなかった。先ほどから弥太郎が俺の釣りの腕を散々に言い、小夜は昔のことまで持ち出して兄に加勢している。弥五郎も初めは面白がって聞いているだけだったが、次に釣りへ行くなら勝負の決まりを先に書いておこうなどと言い出した。俺としては三人を相手にしたところで勝ち目がないので、最後の茶菓子に手を伸ばし、聞こえないふりを決め込んでいた。

 

「四郎様。そうやって黙っておられると、兄上の話が本当だったと認めたことになりますよ」

 

「別に黙っているわけじゃない。皆が好き勝手に言うから、口を挟むところがないだけだ」

 

「ならば、次は小夜にも来てもらいましょう。どちらが勝ったか、きちんと見てもらえばよろしい」

 

 弥太郎が澄ました顔で言うと、小夜は頷きかけ、ふと何かを思い出したように弥五郎へ目を向けた。夫を置いて湖へ出掛ける話を進めてよいものか迷ったのだろう。弥五郎はその視線に気付くと、俺たちばかり楽しむつもりかと笑い、自分も連れていけと言った。小夜が嬉しそうに顔を綻ばせたので、俺は日取りも決まっていない釣りの約束を、いつか本当に果たしてやらねばなるまいと思った。

 

 そんな話がひとしきり続いた後、話題は自然と塩津での暮らしへ移った。小夜が観音寺とは勝手の違う家中の習わしを覚えたこと、港から届く荷の多さに初めは驚いたこと、侍女たちと顔を合わせるうちに少しずつ名前を覚えたこと。弥五郎は時折横から口を挟み、小夜が慣れない仕事に戸惑っていた頃の話をしようとして、本人から止められていた。その気安いやり取りを聞いているうちに、以前小夜から届いた文の一節を思い出した。近頃、弥五郎が新しい領地の決まりを整えるため、夜遅くまで仕事をしているという話である。

 

「そういえば、小夜の文に書いてあったな。弥五郎が領内の決まりをまとめていると。夜更かしの原因もそれなのか?」

 

「ああ、それもある。朽木谷だけを治めていた頃と違って、今は伊香や浅井にも目を配らねばならん。家中へ一言伝えれば済んだことが、土地が違えば同じようには通じなくなった」

 

 弥五郎は茶碗を置き、先ほどより少しだけ真面目な顔になった。浅井との戦が終わってから新たに従った者の中には、それまでの扱いを残してほしいと望む家もあれば、逆に旧来の争いを裁いてほしいと願い出る者もいるらしい。年貢や土地の境については現地で確かめるしかないことも多く、同じ朽木の領内であっても、これまでの慣習を一度に揃えるわけにはいかないという。

 

「分国法を作るつもりか?」

 

「そういうことになるな。今川仮名目録を参考にしている。今川氏親が定めて、後に義元が条目を加えたものだ。土地を巡る争いや家臣同士の揉め事について、何を禁じ、どう裁くかが書かれている。もちろん、あれをそのまま朽木へ持ち込むつもりはないが」

 

 今川仮名目録なら、俺も名は知っている。家臣同士の争いや土地に関わる決まりを明らかにすることは、家が大きくなればなるほど必要になるのだろう。ただ、駿河の今川と朽木では領地の広さも成り立ちも異なる。参考になる条目があっても、実際に守らせられるかどうかは別の話だった。

 

「今までの決まりで困っていないところもあるだろう。新しいものを作るからといって、全部変えるわけにもいかないか」

 

「そうだな。村や寺が長く守ってきたものまで取り上げれば、法を作る前に争いが起きる。ただ、誰が裁くかで同じ訴えの扱いが変わったり、力のある者が勝手に取り立てを増やしたりするのを放っておくわけにはいかん。まずは朽木として許すことと、許さぬことを示しておきたい」

 

 その話には覚えがあった。坂田でも、後藤但馬守や目賀田次郎左衛門尉、三雲対馬守がそれぞれ古い帳面を確かめ、村や寺社から話を聞いている。郡の名も石高も一つにまとめられるが、そこに暮らす者が従ってきた決まりは一様ではない。俺も一度は六角の仕組みへ揃える方が早いと考えたものの、実際に道や市を見てからは、残した方がよい取り決めもあると考えるようになっていた。

 

「坂田でも似たようなものだ。新しい決まりを作る前に、今あるものを確かめるだけで随分と時間が掛かっている。市で集める銭も、誰かが勝手に取っているのか、橋や道を直すために使っているのかで話が変わるからな」

 

「なら、四郎には分かるだろう。戦で領地を得るまでは目の前の敵をどう退けるかでよかったが、得てからは毎日違う訴えが届く。九万石だ十万石だと一言で済ませられるなら楽なんだがな」

 

「それを言われると、父上にも同じような話をした覚えがある。お互い、しばらくは帳面と縁が切れそうにないな」

 

 互いに苦笑したところで、小夜が茶を注ぎ足しながら、弥五郎の手元へ目を向けた。先ほどの話に興味がないわけではなさそうだが、今は法の出来より夫の身体の方が気になるらしい。その視線に気付いた弥五郎が何か言う前に、俺は話を最初へ戻すことにした。

 

「事情は分かった。だが、だからといって毎晩遅くまで起きていていい理由にはならんだろう。小夜が心配しているぞ」

 

「随分と話したのに、結局そこへ戻るのか。それに、四郎にだけは言われたくないな」

 

「私もそう思います。四郎様は、御屋形様からも休むよう命じられたばかりでしょう」

 

 弥太郎が間を置かずに加わると、小夜まで静かに頷いた。二人とも、今度は弥五郎ではなく俺の方を見ている。確かに俺も、書付をあと一通だけ読もうとして夜を更かしたことが何度もある。父上に休みを命じられた経緯まで知られている以上、この話題で優位に立つのは難しそうだった。

 

「……この話はやめよう。俺と弥五郎のどちらが先に二人から叱られるかという話にしかならん」

 

「そうしよう。相手が四郎なら、俺にも勝ち目がありそうだ」

 

「何の勝負だ、それは」

 

 弥五郎が笑い、弥太郎も肩を揺らした。小夜は呆れたように溜息をついたものの、その口元まで緩んでいる。給仕に入っていた侍女が笑いを堪えようと顔を伏せたので、俺はそれ以上言い返すのを諦めた。

 

 やがて侍女の一人が小夜へ何かを告げに来た。明日の支度について確かめたいことがあるらしく、小夜は俺たちへ断ってから立ち上がった。廊下へ出かけたところで振り返り、弥太郎にも見てもらいたいものがあると言う。弥太郎は何のことか聞き返したが、小夜は行けば分かると答えるばかりで、結局は兄を連れて部屋を出ていった。襖が閉じると急に話し声が減り、庭の木々を揺らす風の音が耳へ戻ってきた。

 

「ようやく静かになったな」

 

「弥太郎が戻ってきたら、そのまま言ってやろうか。小夜と二人で文句を言われるぞ」

 

「それは勘弁してくれ。小夜だけでも言い負かされることがあるのに、兄まで加わったら敵わん」

 

 弥五郎は茶碗を持ち上げながら笑った。俺もつられて口元を緩めたが、視線は自然と、小夜が先ほどまで座っていた場所へ向いた。火鉢の近くには彼女の座布団が残り、侍女たちもその周りを普段通りに行き来している。訪ね慣れない城だというのに、俺が妙に落ち着いていられるのは、ここに小夜の暮らしが根付いているからかもしれない。

 

「小夜のことなら、心配しなくていいぞ」

 

 不意に弥五郎からそう言われ、俺は顔を上げた。

 

「……顔に出ていたか?」

 

「ここへ着いてから、何度も小夜の方を見ていただろう。本人には分からんようにしていたつもりかもしれんが、俺には分かった。弥太郎も似たようなものだったがな」

 

 俺としては何かを探っていたつもりはない。ただ、観音寺から文が届くたびに元気だとは聞いていても、実際にどう暮らしているかまでは知りようがなかった。以前の婚姻で小夜が辛い思いをしたことを知っているだけに、本人が望んだ縁組だと分かっていても、今日ここで顔を見るまでは気掛かりが残っていたのだ。

 

「心配はしていた。弥五郎のことを疑っていたわけじゃない。ただ、前のことがあるからな。観音寺では元気そうな文を読めても、こちらでの毎日までは分からん」

 

「分かっている。だから俺の言葉だけで安心しろとは言わん。今日も明日も、好きなだけ見ていけばいい。小夜が家中の者とどう話すか、皆が小夜にどう接しているか。四郎なら、説明されるより見た方が早いだろう」

 

 弥五郎は自分を信用しろとは言わなかった。ただ見ていけばいいと言う。その言い方に、むしろ安心した。今日の食事でも、小夜は夫へ遠慮なく注意し、弥太郎へは昔と変わらぬ調子で言い返していた。侍女へ声を掛ける時にも不自然な気負いはなく、誰かの顔色を確かめてから笑うようなこともない。少なくとも今夜の小夜は、観音寺にいた頃と変わらずよく笑っていた。

 

「そうさせてもらう。もっとも、今日見た限りでは、あまり心配する必要もなさそうだ。小夜が弥五郎を叱っているところまで見られたしな」

 

「そこは見なくてもよかっただろう。しかも今日は、四郎と弥太郎が来ているからいつもより容赦がない」

 

「なら、明日になれば少しは手加減してくれるかもしれんぞ」

 

「どうだかな。朝から二人が着くのを楽しみにしていたから、明日も似たようなものだと思うが」

 

 小夜が朝から何度も支度を確かめ、門前でも街道の方を気にしていたと聞かされ、俺は出迎えの時の改まった挨拶を思い出した。あの時は「右衛門督様」と呼ばれて少し戸惑ったが、部屋へ入ってからは「四郎様」と呼び直し、昔と変わらぬ顔で笑っていた。立場が変わったことを受け入れながら、以前からの付き合いも大切にしているのだろう。

 

「その話は本人の前でするなよ。せっかく朽木の奥方らしく出迎えてくれたんだからな」

 

「分かっている。もっとも、門で待っていた家臣たちには、朝から楽しみにしていたことなど大体知られていたと思うが」

 

 弥五郎が笑ったので、俺もそれ以上追及しなかった。灯明の火が揺れ、障子に映る枝の影がゆっくり形を変える。二人きりになっても話題を探す必要はなかった。互いに茶を飲み、風の音を聞いているだけでも居心地が悪くないのは、出会ってから何度も顔を合わせ、くだらない話もしてきたからだろう。

 

 その静けさを破ったのは、襖の向こうから掛かった若い近習の声だった。

 

「殿。湊より本日分の報せが届いております。急ぎではございませぬが、明朝までに御覧いただきたいとのことにございます」

 

「分かった。後で見る。今日は客がいるからな。急ぎでなければ、こちらへ持ってこなくていい」

 

 近習が去ると、弥五郎は何事もなかったように茶へ手を伸ばした。湊からの報せなら船の出入りや荷のことかもしれない。塩津へ着いた時にも、港に並ぶ帆柱の数へつい目が向いたばかりである。どんな報告が届いたのか聞きたくはなったが、今日は小夜と弥五郎の顔を見に来たのだ。俺はそのまま茶碗を傾けた。

 

「聞かないのか?」

 

「何をだ?」

 

「今の報せだ。四郎なら、湊から何が届いたのか尋ねると思っていた」

 

「朽木の湊から弥五郎へ届いた報せだろう。俺が聞く理由はない。それに、今日は仕事をしないと決めている。ここで話を始めたら、また小夜や弥太郎に笑われる」

 

「左京大夫殿が休ませようとしたわけだな。四郎は休むことにも随分と苦労しているらしい」

 

「放っておけ。俺なりに努力しているんだ」

 

 弥五郎は声を立てて笑った。俺もつられて笑い、火鉢へ手を近づける。指先が少し冷えていたらしく、炭の熱が心地よかった。小夜と弥太郎が戻ってくれば、また騒がしくなるだろう。それまではこうして過ごしていてもよいと思っていたところへ、廊下を近づいてくる足音が聞こえた。

 

「右衛門督様。少しよろしいでしょうか」

 

 篠の声だった。俺は茶碗を置き、襖へ目を向ける。道中の報告ならすでに聞いている。わざわざ俺の居場所を確かめて訪ねてきたとなれば、何か別の用件が出来たのだろう。弥五郎へ視線を向けると、了承の頷きが返ってきた。

 

「入れ」

 

 襖が開くと、篠が姿を見せた。俺へ一礼した後、弥五郎にも深く頭を下げる。先ほどまでの和やかな席へ入ることを気にしているのか、すぐには話し始めず、俺たちの顔を一度ずつ確かめた。

 

「右衛門督様に御報告したいことがございます。ただ、朽木殿にも関わる話にございますので、この場で申し上げてもよろしいでしょうか」

 

 弥五郎へ視線を向けると、向こうも静かに頷いた。

 

「ああ。構わん。話してくれ」

 

 篠は膝を進め、城内で奈津を見掛けたことから話し始めた。

 

 奈津が小夜の供として朽木へ来ていることは、俺も知っていた。小夜が嫁ぐ際、観音寺から付き従った者の一人であり、今はその身の回りを助けている。また、三雲対馬守から小夜の近況を時折知らせるよう頼まれていることも承知していた。娘が嫁ぎ先でどのように暮らしているのか、困っていることはないか。対馬守が気に掛けるのは当然のことであり、そのために奈津を頼ったことにも異存はなかった。

 

 ただ、篠がわざわざ弥五郎の前で報告したいと言い出した以上、小夜の近況だけでは済まない話なのだろう。俺は続きを促し、弥五郎も茶碗を置いて篠へ目を向けた。

 

「奈津が湊の近くで荷を運ぶ者と話しているのを見掛けました。最初は小夜様に関わる用向きかと思いましたが、船がどこから戻ったのか、何を積んでいたのかと尋ねておりました。それだけではなく、近頃の兵の動きについても聞いていたようにございます」

 

「兵の動きまでか。それは奈津が自分で尋ねていたのか?」

 

「はい。私が見聞きした範囲では、そのように見えました。ただ、誰かから命じられていた可能性もございますので、本人へ確かめました」

 

 篠の話によれば、奈津は声を掛けられた時、特に隠そうとする様子もなかったらしい。篠が右衛門督の供として来たことを知ると、むしろ久しぶりに顔を合わせたことを喜び、朽木での暮らしについても気安く話していたという。小夜が元気でいることや、家中の者たちにもよくしてもらっていることなど、最初のうちは昔からの知り合い同士として、ごく普通の話をしていたそうだ。

 

「それで、船や兵のことを尋ねていた理由を聞いたわけか」

 

「はい。奈津は、ここにいれば様々なことが分かるので、小夜様の御様子と併せて知らせれば、対馬守様のお役に立つと考えたと申しておりました。浅井との戦が終わってから朽木の領地は広がり、塩津を行き交う船や人も増えております。そうした変化を知っておいた方がよいと思ったそうです」

 

 俺は思わず眉を寄せた。奈津の考えが全く理解出来ないわけではない。甲賀の者として仕えている以上、目にしたことを覚え、必要とあれば知らせるのが役目だと考えているのだろう。小夜の近況だけでなく、嫁ぎ先の家中がどのような様子なのかまで伝えれば、対馬守も安心すると思ったのかもしれない。

 

 しかし、船の積荷や兵の動きとなれば話は別だった。小夜が不自由なく暮らしているかを確かめることと、朽木がどこへ兵を動かしているかを調べることには、明らかな違いがある。ましてここは六角の領地ではない。小夜の供として来た者が、朽木の者に疑われるような行動をしていたとなれば、本人の考えだけで済ませられる話ではなかった。

 

「対馬守からは、どこまで調べるよう命じられていたんだ?」

 

「小夜様の御様子を知らせることだけだったそうです。弥五郎様との仲や、家中で困っておられないかを確かめるようにと。船や兵について調べるよう命じられたのかとも尋ねましたが、それは否定いたしました」

 

「なら、奈津が自分の判断で調べるものを増やしたということか」

 

「本人はそのように申しております。ただ、それが事実かどうかまでは確かめておりません」

 

 篠はそこで一度言葉を切った。俺が次の質問をする前に、これまで奈津が対馬守へ何を知らせていたのかについても聞いたと付け加える。奈津は小夜の様子を伝える文の中で、湊に人が増えたことや、見慣れない者が来ていたことなどを書き添えたことがあるという。ただし、兵や船について詳しくまとめた文を送ったことはなく、今のところは見聞きしたことを覚えていただけだと話したそうだ。

 

 そこまで聞いたところで、俺は篠へ目を戻した。

 

「それで、お前はどうした?」

 

「奈津へは、命じられたことと、自分で役に立つと思ったことは同じではないと伝えました。それ以上は尋ねず、こちらへ参りました」

 

「文を確かめたり、誰から話を聞いていたのかを調べたりはしなかったのか?」

 

「しておりません。右衛門督様から、そのような命は受けておりませんので」

 

 篠の答えに迷いはなかった。ここまでの報告を聞く限り、奈津がどのような行動をしていたのか、さらに詳しく調べることは出来ただろう。甲賀の者同士であれば、普段誰と接しているかを辿る手立てもあるのかもしれない。しかし、篠は本人へ命じられた内容を確かめたところで止め、それ以上は俺の判断を仰ぐことにしたらしい。

 

「分かった。そこで止めてくれてよかった」

 

「ありがとうございます。ただ、奈津が話したことだけでは、まだ分からないこともございます」

 

「ああ。そこは俺も承知している。本人がそう言ったからといって、それが全てとは限らんからな」

 

 篠は小さく頭を下げた。道中でも朽木の者らしい監視に気付いていたが、あの時も俺が追う必要はないと伝えると、それ以上のことはしなかった。今回も同じように、自分へ与えられた役目を越えるところで止まっている。気になることを見つけた時、どこまで自分で確かめ、どこから先を報告するか。その判断を任せられるのは、俺にとってありがたいことだった。

 

 ただし、奈津の件をどう扱うかは、俺だけで決められるものではない。篠が報告している間、向かいに座る弥五郎はほとんど口を挟まなかった。先ほどまでの気安い表情は消え、静かに篠の話を聞いている。俺が何と切り出すべきか考えていると、弥五郎の方から茶碗を置いて口を開いた。

 

「奈津のことなら、こちらでも把握している」

 

 思わず顔を向けた。

 

「知っていたのか?」

 

「ああ。報せが来ている。小夜の供として来た女が、近頃になって湊や蔵の周りで余計なものを見ているとな。船の出入りを尋ね、兵が動けば行き先を気にし、人の出入りまで覚えようとしているらしい」

 

「それなら、随分と前から気付いていたわけか」

 

「最初に報せを受けた時点で、奈津が何者かは分かっていた。小夜に付き従って観音寺から来た者で、甲賀とも繋がりがある。だからこそ、すぐには手を出さなかった」

 

 弥五郎はそう言って、少し冷めた茶へ口を付けた。俺は続きを待った。奈津が何をしているか知っていながら止めなかったということは、弥五郎にも考えがあったのだろう。小夜の供として城内に入った者である以上、疑いを掛けるだけでも小夜の立場に関わりかねない。かといって、六角から来た者だからと見過ごすわけにもいかなかったはずだ。

 

「奈津が誰の命で動いているのかを見たかった。六角から探るよう命じられたのか、それとも本人が勝手に動いているのか。すぐに問い詰めれば、そこから先は分からなくなる。こちらから手を出さず、何を見るか、誰と話すかだけ確かめさせていた」

 

「泳がせていたわけか」

 

「そういうことだ。もっとも、何かを持ち出そうとしたり、危うい場所へ入り込んだりすれば止めるつもりだった。今のところ、そこまではしていない。湊で働く者に話を聞き、見えるものを覚えている程度だな」

 

 どこまで把握しているのか気にはなったが、ここで詳しく尋ねるつもりはなかった。奈津の行動が朽木に知られていることは分かったし、弥五郎がすぐに六角の命令だと決めつけていないことも分かった。それだけでも、今の俺には十分だった。

 

「奈津が対馬守へ送った文についてはどうなんだ?」

 

「小夜の様子を知らせる文があることは知っている。そこへ湊のことを書き添えているらしいという話もな。ただ、兵や船について詳しくまとめたものを送ったとは聞いていない。こちらが確認していないだけという可能性はあるが、今のところはそこまでだ」

 

 弥五郎はそう答えると、今度は篠へ顔を向けた。

 

「篠殿。奈津は、対馬守殿から船や兵を調べるよう命じられたわけではないと、自分で申したのだな?」

 

「はい。ただし、その言葉が事実かどうかまでは確認しておりません」

 

「それでよい。確かめていないことまで、無理に答えてもらう必要はないからな」

 

 篠が頭を下げるのを見て、弥五郎は静かに頷いた。声に怒りはなかったが、先ほどまで冗談を交わしていた時とは明らかに違う。当主として、自分の城内で起きていることを確かめている。その姿を前に、俺も自然と背筋が伸びた。

 

 奈津に悪意があったのかどうかは、まだ分からない。本人は対馬守の役に立ちたかったと言っているらしいし、本当にそれだけのつもりだったのかもしれない。しかし、朽木から見れば、六角から来た女が船や兵の動きを調べていることに変わりはなかった。たとえ奈津自身が大したことではないと思っていても、その行動を知った者が同じように受け取るとは限らない。

 

「弥五郎。奈津が勝手にやったことだと、今ここで決めるつもりはない。本人がそう言っていても、対馬守に確かめる必要がある。それに、小夜の供として朽木へ来た者のことだ。六角の側だけで話を片付けるわけにもいかん」

 

「ああ。俺もそのつもりだ。対馬守殿が本当に小夜の近況だけを命じていたのなら、そのことは確かめればよい。六角が朽木を探らせていたと決めるのも、それからで十分だろう」

 

「すまない。小夜の供として迎えてもらった者が、こんなことをしていたとは」

 

 俺が頭を下げかけると、弥五郎は軽く手を上げて止めた。

 

「四郎が命じたわけでもないのに、今ここで謝られても困る。それに、俺も奈津の動きを知りながら、今日まで話さなかった。いずれは確かめるつもりだったが、四郎が来たことで少し早まっただけだ」

 

「そう言ってもらえると助かる。だが、何もなかったことには出来んだろう」

 

「もちろんだ。奈津が何を考え、どこまで調べていたのかは聞かなければならん。ただし、今すぐ大勢を集めて問い詰めるようなことは考えていない。まずは本人から落ち着いて話を聞こう」

 

 その言葉に俺も頷いた。奈津が自分の判断で動いたのなら、なぜそれを必要だと思ったのか聞いておくべきだし、誰かの命令があったのなら、その相手を確かめる必要がある。対馬守へも事情を尋ねなければならないが、今夜のうちに返事を得ることは出来ない。順序を考えれば、まず奈津本人から話を聞き、今分かっていることを整理するのがよさそうだった。

 

「小夜には、どう話す?」

 

 俺が尋ねると、弥五郎は少し考えるように視線を落とした。小夜は奈津を自分の供として連れてきている。日頃から身近に置いている者が、知らないところで船や兵について尋ね回っていたと聞けば、驚くだろう。それが夫の城で起きたことだと知れば、なおさら気にするかもしれない。

 

「隠しておくわけにはいかんだろうな。奈津を呼んで話を聞くとなれば、小夜の耳にも入る。後から人づてに知るより、俺たちから話した方がよいだろう」

 

「俺もそう思う。ただ、小夜まで責められるようなことにはしたくない。奈津が自分の判断で動いていたのなら、それを小夜の責任にするのは違うだろう」

 

「ああ。小夜が船や兵を調べろと命じたわけではない。それは俺からも伝える。ただ、奈津が何をしていたのかを知ったうえで、小夜自身がどう考えるかまでは決められん。まずは話してみるしかないな」

 

 弥五郎の答えはもっともだった。俺や弥五郎が小夜の責任ではないと言ったところで、本人がどう受け止めるかは分からない。奈津が身近にいる者である以上、何か気付けなかったかと考える可能性もあるだろう。だからといって、何も知らせずに済ませるわけにもいかなかった。

 

 俺は篠へ視線を戻した。報告を終えた篠は静かに控えており、こちらの話へ余計な口を挟むこともない。先ほど、本人の判断で奈津を調べ始めなかった理由を聞いた時と同じだった。

 

「篠。奈津にはまだ何も言わなくていい。これ以上、誰と話していたのかを追う必要もない。ここから先は弥五郎と相談して進める」

 

「承知いたしました。奈津から何か尋ねられた場合はいかがいたしましょう?」

 

「今のところ、こちらから新しく伝えることはない。もし向こうから話があれば、その内容だけ聞いておいてくれ。ただし、奈津を試すようなことはしなくていい」

 

「はい」

 

 篠は深く頭を下げた。俺はその姿を見ながら、道中で朽木の者らしい監視に気付いた時のことを思い出した。あの時も篠は、誰がどこから見ているのかを確かめることが出来たのかもしれない。しかし、俺が追う必要はないと伝えれば、それ以上は踏み込まなかった。

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