奈津も篠も、甲賀の者として役に立とうと考えていたことに違いはないのだろう。ただ、篠は命じられた範囲で止まり、奈津はその先へ進んでしまった。
小夜の供として朽木へ来た奈津が、日々の暮らしの中で湊へ目を向け、船や兵の動きまで気にするようになったのか。それとも、最初から朽木の内情を探るつもりだったのか。本人は対馬守の役に立ちたかっただけだと話しているが、篠にも弥五郎にも、まだ確かなところまでは分かっていない。
俺自身、何か気になるものを見付ければ、その理由まで知りたくなる性分だ。調べるうちに新しい疑問が浮かび、いつの間にか最初の目的から外れてしまうこともある。しかし、与えられた役目を越えてよいかどうかは別の問題だった。まして今回は、奈津が仕えている小夜だけでなく、朽木と六角の関係にまで影響しかねない。対馬守の役に立とうとしただけだとしても、弥五郎の城で勝手に情報を集めてよい理由にはならなかった。
そんなことを考えているうちに、廊下の向こうから聞き慣れた声が近付いてきた。
小夜と弥太郎が戻ってきたらしい。何やら言い合っているようで、弥太郎が少し困った調子で返事をし、小夜が笑いながら何かを言っている。先ほど呼び出された用件について、兄妹の間でまた何かあったのだろう。
俺は弥五郎と顔を見合わせた。
久しぶりに顔を合わせ、食事をしながら昔の話をしていたばかりである。小夜が朽木で楽しく暮らしていることも、ようやく自分の目で確かめられた。その晩のうちに身近な者の問題を知らせることになるとは思わなかったが、奈津を呼んで事情を聞く以上、小夜に隠して進めるわけにはいかない。
やがて襖の外で足音が止まった。
「四郎様。お待たせいたしました」
小夜の声に続き、襖が開いた。
先に入ってきた弥太郎は篠の姿を認めると、僅かに眉を寄せた。小夜も部屋の様子が先ほどまでと違うことを察したらしく、笑みを収めて俺と弥五郎を見比べている。火鉢を囲んでいた席に篠が加わり、弥五郎まで改まった姿勢で座っているのだから、何かあったと思うのは当然だろう。
「何かございましたか?」
小夜が尋ねると、弥五郎は座り直し、落ち着いた声で答えた。
「少しな。小夜にも聞いておいてもらいたい話がある。奈津のことだ」
「奈津、ですか?」
小夜は意外そうに目を瞬かせた。隣では弥太郎が篠へ視線を向けたが、篠は何も言わずに頭を下げるだけだった。
弥五郎は小夜が腰を下ろすのを待ち、奈津が湊で船の出入りや積荷について尋ね、兵の動きまで気に掛けていたことを伝えた。三雲対馬守から命じられたのは小夜の近況を知らせることだったはずだが、奈津はそれ以外のことも調べていたらしい。本人は自分の判断で始めたと話しているものの、まだ確かめなければならないことがあると説明した。
小夜は最初こそ戸惑っているようだったが、夫の言葉を遮らず、最後まで聞いていた。奈津が命じられた範囲を越えていたと聞くと、僅かに表情が曇る。それでも、すぐに庇ったり責めたりすることはなかった。
俺も姿勢を正した。
篠が奈津本人から聞いた話と、朽木の側で把握していることはおおむね重なっている。しかし、それだけで奈津の考えまで分かったわけではない。まずは本人から改めて話を聞く必要があった。
「小夜。先に言っておくが、そなたを責めるための話ではない。奈津について、少し確かめたいことができたのだ」
小夜は一度こちらへ目を向け、静かに頷いた。
「分かりました。奈津を呼べばよろしいのですね」
「ああ。頼めるか」
「はい」
小夜は立ち上がりかけたが、すぐに座り直し、廊下に控えていた侍女へ声を掛けた。奈津を呼んでくるよう頼むと、侍女は頭を下げて足早に去っていった。
小夜自身が呼びに行こうとしたのかもしれない。だが、奈津を問いただすために主人がわざわざ出向けば、かえって本人を身構えさせることにもなるだろう。普段通り侍女を通じて呼ぶ方がよいと考えたのなら、その判断はもっともだった。
侍女の足音が遠ざかると、部屋には静けさが戻った。弥五郎は火鉢の傍へ置いていた茶碗を脇へ寄せ、篠も姿勢を崩さず控えている。弥太郎は事情を詳しく尋ねたそうだったが、今は口を挟まず、奈津が来るのを待っていた。
やがて廊下の向こうから二人分の足音が近付いてきた。
襖の前で足音が止まり、侍女の取り次ぐ声が聞こえる。弥五郎が入るよう促すと、奈津が静かに姿を現した。
部屋にいる顔触れを見て少し驚いた様子だったが、すぐに姿勢を正し、弥五郎と俺へ順に頭を下げた。篠を認めたところで、その目が僅かに細くなる。何のために呼ばれたのか、ある程度は察したのかもしれなかった。
「奈津。今夜は少し確かめたいことがある。そこへ座ってくれ」
「はい、殿」
奈津が小夜の少し後ろへ座ると、弥五郎は篠から報告を受けた内容を伝えた。
湊で船の出入りや積荷について尋ねていたこと。兵の動きまで気に掛けていたこと。そして、それらが三雲対馬守から命じられた仕事ではなかったという話である。
奈津は途中で口を挟まなかった。小夜は時折奈津へ目を向けていたが、口元を引き結んだまま何も言わない。
弥五郎が話を終えて本人へ確かめると、奈津は膝の上で揃えていた手を僅かに握り直した。
「篠へ話したことに偽りはございません。対馬守様から仰せつかったのは、小夜様がこちらでどのように暮らしておられるか、時折お知らせすることにございます。船や兵について調べるような御命令は受けておりませぬ」
「ならば、どうしてそこまで調べようと思った?」
「……少しでもお役に立てればと考えたからにございます」
奈津は一度顔を伏せたが、やがて自分から続きを話し始めた。
小夜に付き従って塩津へ来てから、城内だけでなく湊へ出る機会も増えたという。小夜の用向きに関わることもあり、人や荷が行き交う様子を見ているうちに、浅井との戦の後で朽木の領地が大きく広がったことを実感したらしい。
以前から知っていた朽木とは随分変わっているのだろうと思い、近くにいた者へ何気なく話を聞くようになった。最初は普段の世間話だったものが、次第に船の行き先や積荷の話へ移り、兵が動いていると聞けば、そのことも覚えておこうと考えるようになったそうだ。
「小夜様の御様子だけでなく、朽木のことも分かれば、対馬守様にお知らせする際の役に立つと思いました。ですが、何処まで調べてよいのか、確かめようとはいたしませんでした」
奈津の説明を聞きながら、俺はその顔を見ていた。
話し始めた時には幾分緊張していたものの、今は自分が何を考え、何をしていたのかを伝えようとしているように見える。
甲賀の者として働いてきた奈津にとって、何かに気付けば確かめるというのは、身に付いた習慣だったのかもしれない。しかし、朽木の領内でそれをしてよいかどうか、誰に許しを得るべきかまでは考えが及ばなかったのだろう。
無論、それも本人の話が事実であればのことだ。
弥五郎はすぐには叱責せず、これまで実際に何を知らせていたのかを尋ねた。
「それで、何を文に書いて送った?」
「小夜様の御様子のほかには、湊に人が増えたことや、見慣れぬ商人が来ていたことを幾度か書き添えました。兵の数や船の積荷について、詳しく書いて送ったことはございませぬ」
弥五郎は少し間を置き、ほかに誰かの命令を受けていないかと確かめた。
奈津はそれを否定し、調べたことを別の者へ伝えたこともないと答えた。質問を避けようとする様子はなく、聞かれたことへ一つずつ返事をしている。
ただ、その態度だけで言葉の全てが事実だと決められるわけではない。弥五郎もそこは承知しているらしく、聞き終えてもすぐには口を開かなかった。
その時、それまで黙っていた小夜が口を開いた。
「奈津。私のために、そこまでしようと思ったのですか?」
「……はい。小夜様が朽木へ嫁がれた以上、私も以前より多くのことを知っておいた方がよいと思いまして」
「でも、私は奈津にそのようなことをお願いしていません」
小夜の声は静かだった。
責め立てるような響きはないが、奈津は顔を上げられずにいる。
「私は、奈津がこちらへ来てくれたことを嬉しく思っています。観音寺の頃から知っている人が側にいてくれるのは心強いですし、今も随分と助けてもらっています。けれど、殿の御仕事について勝手に調べられては、私も困ります。奈津が誰かから疑われるようなことになれば、なおさらです」
「申し訳ございませぬ、小夜様」
奈津が深く頭を下げると、小夜はすぐには返事をしなかった。
膝の上で揃えた手へ目を落とし、それから弥五郎へ視線を向ける。奈津を信じたい気持ちはあるのだろう。だが、彼女のしたことを自分だけの判断で許してよいとは考えていないらしい。
小夜自身が命じたことではないにせよ、連れてきた身近な者が問題を起こしたのだから、何も感じずにはいられないはずだった。
俺は弥五郎へ目を向けた。
「弥五郎。奈津が話したことについては、対馬守にも確かめたい。本人の説明だけで全て済んだことにはできぬからな。ただ、今すぐ処分を決める必要もないと思う」
「ああ。こちらもそう考えている。奈津には、当面小夜の身の回りの仕事に専念してもらおう。湊や蔵の方へ用向きがある場合には、家中の者を通してもらう。それで構わんな?」
「はい。以後、勝手なことはいたしませぬ」
奈津は伏せていた顔を上げ、弥五郎へ頭を下げた。
「それと、これまで見聞きしたことを書き留めているなら、その内容も申し出てくれ。今夜全てを思い出して話す必要はない。対馬守殿からの返事も待った上で、改めて扱いを決める」
「承知いたしました」
弥五郎は静かに頷いた。
兵や船について詳しい報告を送ったことはないという奈津の言葉も、今は本人の説明として受け取るに留めるらしい。
俺もその方針に異存はなかった。奈津が自分の判断で動いていたのなら、そのことを対馬守にも知らせておく必要がある。一方で、対馬守が実際にどのような命を出していたのかを確かめなければ、奈津だけの問題として片付けるわけにもいかない。
今夜ここで答えを急いだところで、観音寺にいる対馬守から話を聞けるわけではなかった。
俺は弥太郎へ、対馬守宛ての文を整えるよう頼んだ。
奈津から聞いたことと朽木の側で把握していることを伝え、どのような命を出していたのかを確かめる。父上にも帰国後に報告しなければならないが、まずは弥五郎と認識を揃えておく必要があった。
「奈津。対馬守への文はこちらから出す。向こうから事情を確かめるよう話があれば、その時に改めて聞く。それまでは弥五郎の言った通り、小夜の側で仕事をしていてくれ」
「承知いたしました。右衛門督様、殿、小夜様。このたびは御心配をお掛けし、申し訳ございませぬでした」
奈津は改めて頭を下げた。
弥五郎が退出を許すと、侍女に付き添われて部屋を出ていく。その背を見送り、小夜は小さく息を吐いた。奈津のことが気に掛かっているのだろうが、今は何も言わず、膝の上へ手を戻している。
篠にも今夜の報告への礼を伝え、それ以上の調査は必要ないと改めて命じた。篠は承知して退出し、弥太郎も対馬守への文を整えるために席を立った。
先ほどまで多くの者がいた部屋には、俺と弥五郎、小夜の三人だけが残った。
しばらくして、小夜が申し訳なさそうに口を開いた。
「四郎様。せっかく遊びに来ていただいたのに、初日からこのようなことになってしまって……」
「小夜が謝ることではない。奈津のことは、本人と命じた者に確かめればよい。それに、弥五郎がきちんと対応してくれたのだ。今夜これ以上考えても仕方あるまい」
「四郎の言う通りだ。小夜まで気に病む必要はない。それより、明日はどうする? せっかく来てもらったのだ。城の中に閉じ込めておくつもりはないぞ」
弥五郎が普段の調子でそう言うと、小夜は少し驚いたように顔を上げた。
俺も急に話が変わったので、一瞬返事が遅れた。しかし弥五郎は何事もなかったようにこちらを見ている。
奈津の件を軽く考えているわけではない。今夜できることは済ませたのだから、ひとまずそこで区切ろうということなのだろう。
「明日か? 何か考えているのか?」
「塩津を案内してもよいし、湖へ出てもよい。四郎が仕事を始めないのなら、行けるところはいくらでもある」
「ならば、湖へ出たいな。先日も弥太郎と釣りへ行ったばかりだが、こちらの湖岸では随分と勝手が違うだろう」
「また釣りですか?」
小夜が呆れたように言ったので、俺は笑って頷いた。
「今度は弥五郎もいる。弥太郎ばかりに勝たせておくわけにもいかぬからな」
「四郎。先に言っておくが、勝負の決まりは途中で変えさせぬぞ」
「まだその話をするのか」
弥五郎が笑うと、小夜もようやく口元を緩めた。
奈津の件について、すぐに気持ちを切り替えられるわけではないだろう。小夜も身近な者の行動を知ったばかりなのだから、気になることは残っているはずだった。
それでも、明日の予定を話すくらいはできる。
釣りへ出るなら何処がよいか、弥太郎も連れていくかと話しているうちに、小夜が兄上だけ置いていけば後で何を言われるか分かりませんと笑い、結局は四人で出掛けることになった。
夜も更け、用意された客間へ案内された頃には、廊下を行き交う者の姿も少なくなっていた。
弥太郎は対馬守への文を明朝の使者に託せるよう整えたと知らせてくれたので、俺はそのまま任せることにした。奈津の件については、後日改めて確かめなければならないことも残っている。しかし今夜すべきことは済んでおり、返事が届く前から考えを巡らせても新しいことが分かるわけではなかった。
部屋へ入ると、火鉢には新しい炭が入れられ、寝具も整えられていた。障子の向こうからは湖を渡る風の音が聞こえる。
観音寺を出る前、父上からは朽木へ遊びに行くのだから余計な仕事を持ち帰るなと言われていた。まさか初日からこんな話をすることになるとは思わなかったが、少なくとも今日の俺が勝手に仕事を増やしたわけではない。
そう考えても、帰った時に父上から何か言われそうな気はしたが、今夜は考えないことにした。
俺は弥太郎へ明日の支度を頼み、寝具へ身体を横たえた。
明朝は少し早く起きて、湖へ出ることになるだろう。弥五郎がどの程度釣りをするのかは知らないが、弥太郎と組まれては面倒だ。小夜を味方に付けられないかと考えたものの、先ほどの様子ではあまり期待できそうにない。
そんなことを思い浮かべているうちに、昼間の馬旅の疲れが出たらしく、いつの間にか眠りに落ちていた。
*
塩津で過ごす日々は、思っていた以上に早く過ぎていった。
翌朝は弥五郎の案内で湖へ出た。
前夜に話していた釣りを本当にすることになり、弥太郎は朝から張り切って道具を確かめていた。小夜も一緒に来ると言い出したので、結局は四人揃って湖岸へ向かうことになる。
もちろん、それぞれの供も付いている。
六角の嫡男と朽木の当主が連れ立って魚を釣りに行くというだけでも妙な話だが、護衛の者たちが周囲を固める中で竿を出す光景は、傍から見れば何をしているのか分からなかったかもしれない。
もっとも、釣りを始めてしまえば、そんなことは気にならなくなった。
湖の水は夏に訪れた時より冷たく、岸辺を渡る風にも冬の気配が混じっている。陽の当たる場所ならまだ過ごしやすいものの、日陰へ入れば指先が冷えた。湖面は穏やかに見えたが、時折吹く風が細かな波を立て、浮きが揺れるたびに誰かが竿へ目を向ける。
弥五郎はこの辺りでよく釣れる魚や、季節によって場所を変える必要があることを教えてくれたが、俺も弥太郎も最初から真面目に聞いていたわけではなかった。
どちらが先に釣るかという話になった途端、互いの浮きばかり気にするようになり、小夜から呆れた目を向けられたからだ。
「四郎。先に言っておくが、今日は途中で勝負の決まりを変えるなよ」
「分かっている。そもそも、この前は弥太郎が先に釣ったから少し面白くなかっただけだ」
「それを負けたと言うのではないのですか?」
小夜が横から口を挟み、弥太郎が大きく頷いた。俺が言い返すより先に弥五郎まで笑い始めたので、どうやら今日も最初から不利な立場へ追い込まれてしまったらしい。
少なくとも今回は、釣れた数で勝負することを始める前から決めている。後で何を言われようと、その決まりを変えなければ文句はないはずだった。
それでも、しばらく竿を出していれば、誰もが浮きの動きへ夢中になった。
最初に魚を掛けたのは弥五郎だった。こちらがまだ当たりを待っている間に竿を上げ、さも当然のような顔で魚を取り込んだものだから、弥太郎が随分悔しそうにしていた。
しかし、その後は弥太郎が立て続けに釣り、俺もどうにか数を揃えることができた。弥五郎が場所を変えた方がよいと教えてくれた時には、先ほどまで互いを気にしていた俺と弥太郎も素直に従ったのだから、勝負に拘っているようでいて、釣れないままでいることの方が嫌だったのかもしれない。
小夜は昔と同じように自分では竿を持たず、三人の間を行き来しながら、魚が掛かるたびに声を上げていた。
途中、弥五郎から一度やってみないかと誘われたものの、本人は見ている方が楽しいと笑って断っている。観音寺にいた頃も、小夜は俺と弥太郎が釣る様子を眺めていることが多かった。今はそこに弥五郎が加わり、三人を相手に笑っている。
昼を過ぎる頃には、釣った魚の数など誰も気にしなくなっていた。
持参した食事を広げ、風を避けられる場所へ腰を下ろす。小夜が道中の支度を整えてくれたらしく、温かなものも用意されていた。朝から冷たい風に当たっていた身体にはありがたく、弥太郎も先ほどまでの勝負を忘れたように食事へ手を伸ばしている。
弥五郎が塩津での暮らしについて話し、小夜が観音寺の近況を尋ね、弥太郎が余計な昔話を持ち出しては俺をからかう。話題が尽きれば湖を眺め、誰かが思い出したように口を開く。
そんなことを繰り返しているうちに、午後の陽は少しずつ西へ傾いていった。
何処かへ急ぐ必要もなく、何を決めなければならないわけでもない。久しぶりに、その日のうちに片付けるべき仕事を考えずに過ごせた気がした。
翌日は塩津浜城で過ごした。
小夜が普段どのように暮らしているのかを見せてもらい、庭を歩いたり、家中の者と顔を合わせたりする。城下へ出ようという話もあったが、弥五郎が急ぎの用向きに呼ばれたため、その日は無理に出掛けなかった。
仕事をしている弥五郎の邪魔をするつもりもなかったし、塩津へ来たからといって、港や城下の全てを見て回る必要もない。
小夜と弥太郎に案内されて城内を歩くうちに、俺はここでの小夜の暮らしが以前よりよく見えるようになっていた。
観音寺にいた頃、小夜は俺や弥太郎の側にいることが多かった。用向きがあれば自分から動き、困っている者がいれば声を掛ける。その気の回し方は今も変わらないが、塩津では侍女たちが自然に小夜へ相談を持ち掛け、家中の者も必要なことがあれば彼女の判断を仰いでいる。
小夜も一つ一つの話を聞き、分かることはその場で答え、確かめる必要があることは侍女へ任せていた。
初めから全てできたわけではないのだろう。今でも時折、侍女からこの家での習わしを教わることがあるようだったが、それを恥じたり、取り繕ったりする様子はなかった。
相手の話を聞き、必要なら尋ね、その上で自分の判断を伝える。そうした姿を見ていると、小夜が朽木の正室として少しずつ自分の居場所を築いてきたことが分かった。
昼過ぎ、庭に面した部屋で茶を飲んでいると、小夜がふと俺へ顔を向けた。弥五郎はまだ用向きを済ませているらしく、今は俺と小夜、弥太郎の三人で腰を落ち着けている。
「四郎様。こちらへ来てから、ずっと私のことを気に掛けてくださっていますね」
「……そんなに分かりやすかったか?」
「はい。兄上も同じです。私が少し席を外すだけでも、何か困っていることがあるのではないかと聞いてくるのですから」
小夜が笑うと、弥太郎は困ったように眉を寄せた。
「そなたが以前、何でも自分で抱え込もうとしていたからだろう。少しくらい心配するのは当たり前ではないか」
「それは分かっています。ですから、心配してくださることが嫌なのではありません。ただ、私は今、ここで楽しく暮らしています。それだけは、きちんとお伝えしておきたかったのです」
小夜の声は穏やかだった。
俺は茶碗を置き、その顔を見た。
弥五郎と一緒になると決めた時から、本人の意思が変わっていないことは分かっている。婚儀の日に見送った時も、弥五郎を信じていなかったわけではない。それでも、以前の婚姻で小夜がどのような思いをしたのかを知っているだけに、今度は幸せになってほしいという気持ちが、いつの間にか心配へ変わっていたのだろう。
だが、それは俺が勝手に抱えていたものだ。
小夜が今の暮らしをどう感じているのかは、本人の言葉を聞かなければ分からない。そして小夜は、こうして自分から伝えてくれた。
「分かった。弥五郎とも上手くやっているようだし、家中の者とも馴染んでいるみたいだからな。安心した」
「ありがとうございます。ですが、これからも時折はお文をくださいね。兄上からは届きますけれど、それだけでは観音寺の様子が分かりませんから」
俺が返事をするより先に、弥太郎が口を開いた。
「そなたが何でも細かく尋ねるから、返事を書くのに時間が掛かるのだ」
「でしたら、もう少し早く返事をくださればよいのです。前のお文など、こちらから二通送ってようやく届いたではありませんか」
「若様の仕事が立て込んでいたのだ。こちらばかり責めるな」
「兄上のお仕事が忙しいことと、私への返事が遅いことは別でしょう?」
弥太郎が何か言い返そうとしていたが、小夜は涼しい顔で茶へ手を伸ばした。
どうやら、この話は俺が口を挟まない方がよさそうだった。
そもそも小夜への返事が遅れた理由を、全て俺の仕事のせいにされても困る。弥太郎自身、書付の整理や使者への指図で忙しくしていることは多いが、妹への文を毎回後回しにしてよい理由にはならないだろう。
俺は二人の言い合いを聞きながら、庭へ目を向けた。
葉を落とし始めた木々の間から弱い陽が差し込み、石の上に細かな影を作っている。
観音寺にいた頃も、こうして二人が言い合うことは珍しくなかった。今では小夜が朽木の正室となり、弥太郎も六角の近習として以前より多くの仕事を任されている。それでも顔を合わせれば昔と変わらない調子で話していることが、何とも可笑しかった。
奈津の件については、その後も大きな動きはなかった。
弥五郎からは、本人を小夜の身の回りの仕事へ戻し、湊や蔵へ勝手に出向かないよう申し付けたと聞いている。八門にも引き続き様子を見てもらうそうだが、改めて問い詰めるようなことはしていないらしい。
対馬守へ出した文についても、まだ返事は届いていなかった。塩津と観音寺の間を使者が往復することを考えれば、滞在中に全て片付くとは俺も思っていない。
小夜は奈津のことを気に掛けているようだったが、必要以上に態度を変えることはなかった。奈津も以前と同じように仕事をしており、少なくとも俺が見ている範囲では、城内の者たちとの間に目立った変化はない。
今後の扱いについては、対馬守の返事を聞き、本人の説明とも照らし合わせてから弥五郎と相談すればよいだろう。ここで俺が先に結論を出してしまえば、朽木の当主として判断する弥五郎の立場を損ねることにもなりかねなかった。
そうして三日目の夕刻、俺は翌朝に観音寺へ戻るつもりだと弥五郎へ伝えた。
「もう帰るのか。せっかく来たのだから、もう二、三日くらいゆっくりしていけばよいだろう」
「そうしたいのは山々だが、あまり長く留守にしているわけにもいかぬ。父上からは遊んでこいと言われたが、いつまでも遊んでいてよいというわけではないからな」
「左京大夫殿なら、四郎がもう少し休んで帰ってきても喜ばれると思うが」
「それはどうだろうな。帰った途端、何をしていたのかと細かく聞かれそうだ」
弥五郎は笑ったが、俺としては十分にありそうな話だった。
父上には三日間休むよう命じられ、その後も朽木へ遊びに行くことを許してもらっている。だからといって、帰国後の仕事がなくなるわけではない。
坂田からは今も報告が届いているだろうし、先日の兵の動員についても、各家が考えた改善案を確認する必要がある。もっとも、弥太郎はもう少し休めと父上に言われたなら、迷わずそちらへ賛成するのかもしれない。
「まあ、無理に引き留めるつもりはない。次に会うのは年が明けてからになりそうだな」
「ああ。年始の挨拶の折には、また顔を合わせることになるだろう。その時は、今度こそ互いに仕事の話をせずに済むとよいのだが」
「それは難しい相談だな。年始の挨拶ともなれば、嫌でも公の話が出る。それに四郎が大人しくしていられるとも思えぬ」
「弥五郎まで父上や弥太郎と同じことを言うのか」
「この数日で、二人がそう言う理由は十分に分かったからな」
弥五郎が笑うので、俺も苦笑するしかなかった。
確かに初日の夜には、遊びに来たはずなのに分国法の話を尋ね、その後には奈津の件まで起きた。俺が仕事を始めたわけではないにせよ、完全に政から離れて過ごせたとは言い切れない。
それでも湖で釣りをし、小夜や弥五郎と食事を取り、昔のようにくだらない話をする時間が持てたのだから、今回の訪問は十分に楽しかった。
年が明ければまた顔を合わせられると思えば、別れを惜しむ気持ちも幾分薄れる。小夜にもその話を伝えると、次に会える時期がはっきりしたことが嬉しいらしく、年始の挨拶の折には観音寺の話をもっと聞かせてほしいと笑っていた。
翌朝は少し早く発つことになり、小夜が道中の食事を用意させたいと申し出た。
弥太郎がそれくらいはこちらでできると断ったものの、せめて帰りの分だけでも持っていってほしいと譲らない。今ではすっかり朽木の奥方として客を迎える側になっているらしく、こうしたところも以前とは違って見えた。
結局、弥太郎が折れる形となり、俺はその様子を眺めながら、明日の朝も賑やかになりそうだと思った。
*
翌朝、塩津浜城の大手門へ出ると、湖から吹く風が思いのほか冷たかった。
十一月に入ってから朝の冷え込みは日ごとに増しているが、湖に近い塩津ではそれが一層強く感じられる。空はよく晴れていたものの、遠くの山々には薄い靄が掛かり、街道脇の草には夜露が残っていた。
供の者たちはすでに支度を整えており、荷を積んだ馬も門の外で待っている。弥太郎が人数を確かめ、篠は道中の案内をする者と何やら話していた。帰りの道筋については任せてあるので、俺が一つずつ確かめる必要はないだろう。
見送りには弥五郎と小夜、それに朽木民部少輔稙綱が来ていた。
門前には近習たちも控えており、到着した時と同じように互いの立場に応じた挨拶を交わすことになる。数日間、内輪では四郎と呼び合っていた弥五郎も、家臣たちを前にすると朽木の当主としての態度へ戻っていた。俺もそれに合わせて姿勢を正す。
「右衛門督様。此度はゆっくりしていただけただろうか」
「ああ、弥五郎殿。おかげで随分と楽しませてもらった。三日では少し足りないくらいだったな」
「それなら何よりだ。次は年始の挨拶の折になるだろうが、その時もゆっくり話そう」
「ああ、楽しみにしている。もっとも、年始は互いに忙しくなるだろうから、今回ほどのんびりはできないかもしれぬがな」
「それでも、顔を合わせる時間くらいは作れるだろう。今度は小夜も一緒にな」
弥五郎がそう言うと、傍らの小夜が嬉しそうに微笑んだ。
俺も頷き、年始には改めて顔を合わせることを約束した。民部少輔も僅かに笑みを見せたが、すぐに姿勢を正し、道中の無事を祈る言葉を述べてくれた。俺は礼を返し、今回の滞在で世話になったことを改めて伝えた。
続いて小夜が前へ進み出る。
初日に出迎えられた時と同じく、朽木の奥方としての装いを整え、俺へ丁寧に頭を下げた。
「右衛門督様。此度はお越しいただき、ありがとうございました。どうか道中、お気を付けてお帰りくださいませ」
「ああ。小夜も元気でな。年が明ければまた会える。それまで弥五郎殿とも仲良く暮らしてくれ」
「はい。年始にお目に掛かれるのを楽しみにしております」
小夜は顔を上げると、ほんの僅かに笑った。
それから弥太郎へ視線を向け、兄上も身体に気を付けてくださいねと付け加える。弥太郎はその言葉に頷いたが、すぐに小夜から文の返事を忘れないよう念を押され、少し困ったような顔をした。
「分かった。今度は早めに返事を書く。だからそなたも、返事が遅いからといって何通も寄越すなよ」
「兄上がきちんと返事をくだされば、そのようなことはいたしません」
「……どうやら、これからも文が増えそうだな」
弥太郎が小さく息を吐くと、俺も思わず笑った。
小夜は満足そうに頷き、弥五郎の傍へ戻っていった。昔から変わらぬ兄妹のやり取りに、民部少輔まで僅かに口元を緩めている。
出立の時刻が近付き、俺は馬へ乗る前にもう一度弥五郎へ向き直った。
今回の滞在は遊ぶことが目的だったが、奈津の件だけは今後も確認しなければならない。もっとも、ここで長々と話すようなことでもなかった。
「弥五郎殿。奈津のことは、対馬守から返事が届いたら改めて知らせる。こちらで確かめなければならないことがあれば、遠慮なく言ってほしい」
「ああ。その件はまた文で話そう。今は帰りの道中を気にしてくれ。十一月の北近江は、朝の冷え込みが思ったより厳しいからな」
「分かった。それでは、また新年に」
「ああ。年始に会えるのを楽しみにしている」
弥五郎と最後の挨拶を交わし、俺は近習から手綱を受け取って馬へ跨がった。
弥太郎たちもそれぞれ馬へ乗り、荷を積んだ馬が動き始める。小夜が持たせてくれた道中の食事も、弥太郎がきちんと積ませたらしい。供の者が全員揃ったことを確かめてから、俺はもう一度門前へ顔を向けた。
弥五郎と小夜は並んで立っていた。
小夜は俺と目が合うと僅かに笑みを浮かべ、隣の弥五郎も小さく頷いている。
初めて塩津浜城を訪れた時には、二人がどのように暮らしているのか気に掛かっていた。小夜は元気でいるのか、弥五郎との生活に馴染めているのか。文では知ることのできない部分を、実際に顔を合わせて確かめたいという思いがあった。
この数日で、その心配は随分と薄れた。
小夜は朽木の奥方として家中に馴染み、弥五郎とも上手くやっている。侍女から仕事を相談される姿も見たし、弥五郎を叱り、弥太郎へ言い返し、昔と変わらぬ顔で笑うところも見られた。
何より本人から、ここで楽しく暮らしていると聞くことができた。その言葉を聞いてなお心配ばかりしていては、かえって小夜に呆れられるだろう。
年が明ければまた二人に会える。今度はどんな話をすることになるのか、それはその時になってみなければ分からない。少なくとも、小夜と弥太郎の文の話は、それまでにもう一度くらい聞くことになりそうだった。
「若様。そろそろ参りましょう」
弥太郎に声を掛けられ、俺は頷いた。
「ああ。帰るか」
手綱を軽く引くと、馬がゆっくりと歩き始めた。
供の者たちもそれに続き、蹄の音が大手門の前へ重なっていく。門を離れる際、背後から小夜の声が聞こえたので、一度だけ振り返った。
「四郎様。また新年にお会いしましょう」
先ほどまでの改まった挨拶とは違う、昔からよく知っている小夜の声だった。
俺は思わず笑い、片手を上げて応えた。
「ああ。またな、小夜」
小夜が嬉しそうに笑い、その隣で弥五郎も手を上げた。俺は二人へ軽く頷くと、今度こそ前へ向き直った。
冷たい朝の風が頬を撫で、馬の蹄が乾いた地面を打つ音が響く。遠くの山々にはまだ薄い靄が残っていたが、東から差す陽は少しずつ高くなり、街道の先まで明るく照らし始めていた。
帰れば坂田や家中の仕事が待っているだろうし、奈津の件についても対馬守からの返事を確かめなければならない。しかし、それは観音寺へ戻ってから考えればよいことだった。
弥太郎たちを伴い、俺は塩津浜城の大手門を後にした。
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