奈津も篠も、甲賀の者として役に立とうと考えていたことに違いはないのだろう。ただ、篠は自分に命じられたところで止まり、奈津はさらに先へ進んだ。奈津にとっては、小夜の様子を見るついでに湊のことを知り、湊を見ているうちに船の動きが気になっただけだったのかもしれない。最初から朽木の内情を探るつもりがあったのか、それとも少しずつ調べるものが増えていったのか。そのあたりも本人に聞かなければ分からない。
考えているうちに、廊下の向こうから聞き慣れた声が近づいてきた。小夜と弥太郎が戻ってきたらしい。何やら言い合っているようで、弥太郎が少し困ったような調子で返事をし、小夜がそれに笑いながら何かを言っている。
俺は弥五郎と顔を見合わせた。先ほどまでの話を知らない二人が、この部屋へ戻ってくる。せっかく久しぶりに顔を合わせ、楽しく食事をしたばかりなのに、早々に面倒な話を聞かせることになるとは思わなかった。
やがて襖の外で足音が止まった。
「四郎様。お待たせいたしました」
小夜の声に続き、襖が開いた。弥太郎は篠が座っていることに気付くと、僅かに眉を寄せた。小夜も部屋の様子が先ほどまでと違うことを察したのか、笑みを収めて俺と弥五郎を見比べている。
「何かございましたか?」
小夜が尋ねると、弥五郎は座り直し、落ち着いた声で答えた。
「少しな。小夜にも聞いておいてもらいたい話がある。奈津のことだ」
「奈津、ですか?」
小夜は意外そうに目を瞬かせた。隣では弥太郎が篠へ視線を向けたが、篠は何も言わずに頭を下げるだけだった。
弥五郎は小夜が座るのを待ってから、今夜のうちに奈津本人から話を聞こうと思っていることを伝えた。小夜はまだ事情を知らないため、何があったのか分からない様子だったが、夫の言葉を遮ることなく耳を傾けている。
俺も姿勢を正した。ここから先は、奈津が実際に何をしていたのかだけでなく、なぜそうしようと思ったのかを確かめなければならない。篠が聞いた話と八門が掴んでいることを並べるだけでは、まだ分からない部分が残っていた。
「小夜。先に言っておくが、お前を責めるための話じゃない。奈津について、少し確かめたいことが出来たんだ」
小夜は俺の顔を見てから、静かに頷いた。
「分かりました。奈津を呼べばよろしいのですね」
「ああ。頼めるか」
「はい」
小夜は立ち上がりかけたが、すぐに思い直したように座り直し、廊下に控えていた侍女へ声を掛けた。奈津を呼んでくるよう頼むと、侍女は頭を下げて足早に去っていった。
その足音が遠ざかるのを聞きながら、俺は弥五郎へ目を向けた。弥五郎も小さく頷き、火鉢の傍へ置いていた茶碗を少し脇へ寄せる。小夜はまだ落ち着かない様子だったが、余計なことを尋ねようとはせず、奈津が来るのを待っていた。
やがて廊下の向こうから、二人分の足音が近づいてきた。
やがて襖の向こうで足音が止まり、侍女の取り次ぐ声が聞こえた。弥五郎が入るよう促すと、奈津が静かに姿を現した。部屋にいる顔触れを見て少し驚いた様子だったが、すぐに姿勢を正し、弥五郎と俺へ順に頭を下げた。篠の姿を認めたところで、その目が僅かに細くなる。何のために呼ばれたのか、ある程度は察したのかもしれない。
「奈津。今夜は少し確かめたいことがある。そこへ座ってくれ」
「はい、殿」
奈津が小夜の少し後ろへ座ると、弥五郎は篠から報告を受けた内容を簡潔に伝えた。湊で船の出入りや積荷について尋ねていたこと、兵の動きまで気に掛けていたこと。そして、それらが三雲対馬守から命じられた仕事ではなかったという話である。
奈津は途中で口を挟まなかった。小夜は夫の話を聞きながら、時折奈津へ目を向けている。話し終えた弥五郎が本人へ確かめると、奈津は膝の上で揃えていた手を僅かに握り直した。
「篠へ話したことに、偽りはございません。対馬守様から仰せつかったのは、小夜様がこちらでどのように暮らしておられるか、時折お知らせすることにございます。船や兵について調べるような御命令は受けておりませぬ」
「なら、どうしてそこまで調べようと思った?」
「……少しでもお役に立てればと考えたからにございます」
奈津は一度顔を伏せたが、やがて自分から続きを話し始めた。小夜に付き従って塩津へ来てから、城内だけでなく湊へ出る機会も増えたという。人や荷が行き交う様子を見ているうちに、以前の朽木とは随分変わったのだろうと思い、近くにいた者へ話を聞くようになったらしい。初めは何気ない世間話だったが、次第に船の行き先や積荷まで気にするようになり、兵の動きについても耳を傾けるようになったそうだ。
「小夜様の御様子だけでなく、朽木のことも分かれば、対馬守様にお知らせする際の役に立つと思いました。ですが、どこまで調べてよいのか、確かめようとはいたしませんでした」
「それで、これまで何を文に書いて送った?」
「小夜様の御様子のほかには、湊に人が増えたことや、見慣れぬ商人が来ていたことを幾度か書き添えました。兵の数や船の積荷について、詳しく書いて送ったことはございませぬ」
弥五郎は奈津の返事を聞き、少し間を置いてから、他に誰かの命令を受けていないかと尋ねた。奈津はそれを否定し、調べたことを別の者へ伝えたこともないと答えた。すべてが事実かどうかは、今この場だけで確かめられるものではない。それでも奈津は質問を避けようとはせず、覚えている範囲で一つずつ答えていた。
その時、それまで黙っていた小夜が口を開いた。
「奈津。私のために、そこまでしようと思ったのですか?」
「……はい。小夜様が朽木へ嫁がれた以上、私も以前より多くのことを知っておいた方がよいと思いまして」
「でも、私は奈津にそのようなことをお願いしていません」
小夜の声は静かだった。責め立てるような響きはなかったが、奈津は顔を上げられずにいる。
「私は、奈津がこちらへ来てくれたことを嬉しく思っています。観音寺の頃から知っている人が側にいてくれるのは心強いですし、今も随分と助けてもらっています。けれど、殿の御仕事について勝手に調べられては、私も困ります。奈津が誰かから疑われるようなことになれば、なおさらです」
「申し訳ございませぬ、小夜様」
奈津が深く頭を下げると、小夜はすぐには返事をしなかった。少し俯いたまま夫へ視線を向け、それから俺を見た。奈津をどう扱うべきか、自分だけでは決められないと承知しているのだろう。
俺は弥五郎へ目を向けた。
「弥五郎。奈津が話したことについては、対馬守にも確かめたい。本人の説明だけで全て済んだことには出来んからな。ただ、今すぐ処分を決める必要もないと思う」
「ああ。俺もそう考えている。奈津には、当面小夜の身の回りの仕事に専念してもらおう。湊や蔵の方へ用向きがある場合には、家中の者を通してもらう。それで構わんな?」
「はい。以後、勝手なことはいたしませぬ」
奈津は伏せていた顔を上げ、弥五郎へ頭を下げた。弥五郎はさらに、これまで見聞きしたことを書き留めているなら、その内容を申し出るよう伝えた。ただし、今夜のうちに全てを思い出して説明する必要はなく、対馬守からの返事も待ったうえで改めて扱いを決めるという。
俺もその方針に頷き、弥太郎へ対馬守宛ての文を用意するよう頼んだ。こちらで確認したことを伝え、奈津へ何を命じていたのかを確かめてもらう。父上にも帰国後に報告する必要はあるだろうが、まずは朽木側が承知している内容と食い違いのないようにしておきたかった。
「奈津。対馬守への文はこちらから出す。お前が自分で事情を説明する必要があれば、その時に改めて話を聞く。それまでは弥五郎の言った通り、小夜の側で仕事をしていてくれ」
「承知いたしました。右衛門督様、殿、小夜様。このたびは御心配をお掛けし、申し訳ございませぬでした」
奈津は改めて頭を下げた。弥五郎が退出を許すと、侍女に付き添われて部屋を出ていく。その背を見送り、小夜は小さく息を吐いた。奈津を気に掛けているのだろうが、今は何も言わず、膝の上へ手を戻していた。
篠にも今夜の報告への礼を伝え、それ以上の調査は必要ないと改めて命じた。篠は承知して退出し、残った弥太郎も対馬守への文を整えるために席を立った。先ほどまで多くの者がいた部屋には、俺と弥五郎、小夜の三人だけが残った。
しばらくして、小夜が申し訳なさそうに口を開いた。
「四郎様。せっかく遊びに来ていただいたのに、初日からこのようなことになってしまって……」
「小夜が謝ることじゃない。奈津のことは、本人と命じた者に確かめればいい。それに、弥五郎がきちんと対応してくれたんだ。今夜これ以上考えても仕方ないだろう」
「四郎の言う通りだ。小夜まで気に病む必要はない。それより、明日はどうする? せっかく来てもらったんだ。城の中に閉じ込めておくつもりはないぞ」
弥五郎が普段の調子でそう言うと、小夜は少し驚いたように顔を上げた。俺も予想していなかったので、思わず聞き返した。
「明日か? 何か考えているのか?」
「塩津を案内してもよいし、湖へ出てもいい。四郎が仕事を始めないのなら、行けるところはいくらでもある」
「なら、湖へ出たいな。先日も弥太郎と釣りへ行ったばかりだが、こちらの湖岸では随分と勝手が違うだろう」
「また釣りですか?」
小夜が呆れたように言ったので、俺は笑って頷いた。
「今度は弥五郎もいる。弥太郎ばかりに勝たせておくわけにもいかんからな」
「四郎。先に言っておくが、勝負の決まりは途中で変えさせんぞ」
「まだその話をするのか」
弥五郎が笑うと、小夜もようやく口元を緩めた。先ほどまでのことをすぐに忘れられるわけではないだろう。それでも、明日の予定を話すくらいは出来る。俺たちは釣りへ出るならどこがよいか、弥太郎も連れていくかなどと話し始め、やがて小夜が、兄上だけ置いていけば後で何を言われるか分かりませんと笑った。
夜も更け、用意された客間へ案内された頃には、廊下を行き交う者の姿も少なくなっていた。弥太郎は対馬守への文を明朝の使者に託せるよう整えたと知らせてくれたので、俺はそのまま任せることにした。奈津の件については、後日改めて確かめなければならないことも残っている。しかし、今夜すべきことは済んでいた。
部屋へ入ると、火鉢には新しい炭が入れられ、寝具も整えられていた。障子の向こうからは湖の方を渡る風の音が聞こえる。観音寺を出る前、父上からは朽木へ遊びに行くのだから余計な仕事を持ち帰るなと言われていた。まさか初日からこんな話をすることになるとは思わなかったが、幸いなことに、明日は予定通り休めそうだった。
俺は弥太郎へ明日の支度を頼み、今度こそ寝具へ身体を横たえた。明朝は少し早く起きて、湖へ出ることになるだろう。弥五郎がどの程度釣りをするのかは知らないが、弥太郎と組まれては面倒だ。小夜を味方に付けられないかと考えているうちに、昼間の馬旅の疲れが出たのか、いつの間にか眠りに落ちていた。
*
塩津で過ごす日々は、思っていた以上に早く過ぎていった。
翌朝は弥五郎の案内で湖へ出た。前夜に話していた釣りを本当にすることになり、弥太郎は朝から張り切って道具を確かめていた。小夜も一緒に来ると言い出したので、結局は四人揃って湖岸へ向かうことになった。もちろん、それぞれの供も付いている。六角の嫡男と朽木の当主が連れ立って魚を釣りに行くというだけでも妙な話だが、護衛の者たちが周囲を固める中で竿を出す光景は、傍から見れば何をしているのか分からなかったかもしれない。
もっとも、釣りを始めてしまえば、そんなことは気にならなくなった。湖の水は夏に訪れた時より冷たく、岸辺を渡る風にも冬の気配が混じっている。陽の当たる場所ならまだ過ごしやすいものの、日陰へ入れば指先が冷えた。弥五郎はこの辺りでよく釣れる魚や、季節によって場所を変える必要があることを教えてくれたが、俺も弥太郎も最初から真面目に聞いていたわけではなかった。どちらが先に釣るかという話になった途端、互いの浮きを気にするようになり、小夜から呆れた目を向けられたからだ。
「四郎。先に言っておくが、今日は途中で勝負の決まりを変えるなよ」
「分かっている。そもそも、この前は弥太郎が先に釣ったから少し面白くなかっただけだ」
「それを負けたと言うのではないのですか?」
小夜が横から口を挟み、弥太郎が大きく頷いた。俺が言い返すより先に弥五郎まで笑い始めたので、早々に不利な立場へ追い込まれてしまったらしい。
それでも、しばらく竿を出していれば誰もが浮きの動きへ夢中になった。最初に魚を掛けたのは弥五郎だったが、その後は弥太郎が立て続けに釣り、俺もどうにか数を揃えた。小夜は昔と同じように自分では竿を持たず、三人の間を行き来しながら魚が掛かるたびに声を上げている。途中、弥五郎から一度やってみないかと誘われたものの、本人は見ている方が楽しいと笑って断っていた。
昼を過ぎる頃には、釣った魚の数などどうでもよくなっていた。持参した食事を広げ、風を避けられる場所へ腰を下ろす。弥五郎が塩津での暮らしについて話し、小夜が観音寺の近況を尋ね、弥太郎が余計な昔話を持ち出しては俺をからかう。話題が尽きれば湖を眺め、誰かが思い出したように口を開く。そんなことを繰り返しているうちに、午後の陽が少しずつ西へ傾いていった。
翌日は塩津浜城で過ごした。小夜が普段どのように暮らしているのかを見せてもらい、庭を歩いたり、家中の者と顔を合わせたりする。城下へ出ようという話もあったが、弥五郎が急ぎの用向きに呼ばれたため、その日は無理に出掛けなかった。仕事をしている弥五郎の邪魔をするつもりもなく、小夜と弥太郎に案内されて城内を歩くうち、俺はここでの小夜の暮らしが以前よりよく見えるようになっていた。
観音寺にいた頃、小夜は俺や弥太郎の側にいることが多かった。用向きがあれば自分から動き、困っている者がいれば声を掛ける。その気の回し方は今も変わらないが、塩津では侍女たちが自然に小夜へ相談を持ち掛け、家中の者も必要なことがあれば彼女の判断を仰いでいる。初めは分からなかったことも多かったのだろう。今でも時折、侍女から習わしを教わることがあるようだったが、それを恥じたり、取り繕ったりする様子はなかった。
昼過ぎ、庭に面した部屋で茶を飲んでいると、小夜がふと俺へ顔を向けた。
「四郎様。こちらへ来てから、ずっと私のことを気に掛けてくださっていますね」
「……そんなに分かりやすかったか?」
「はい。兄上も同じです。私が少し席を外すだけでも、何か困っていることがあるのではないかと聞いてくるのですから」
小夜が笑うと、弥太郎は困ったように眉を寄せた。
「お前が以前、何でも自分で抱え込もうとしていたからだろう。少しくらい心配するのは当たり前じゃないか」
「それは分かっています。ですから、心配してくださることが嫌なのではありません。ただ、私は今、ここで楽しく暮らしています。それだけは、きちんとお伝えしておきたかったのです」
小夜の声は穏やかだった。俺は茶碗を置き、その顔を見た。弥五郎と一緒になると決めた時から、本人の意思が変わっていないことは分かっている。それでも、こうして直接言葉にされると、観音寺を発つ前まで胸のどこかに残っていた心配が少し薄れたようだった。
「分かった。弥五郎とも上手くやっているようだし、家中の者とも馴染んでいるみたいだからな。安心したよ」
「ありがとうございます。ですが、これからも時折はお文をくださいね。兄上からは届きますけれど、それだけでは観音寺の様子が分かりませんから」
「お前が何でも細かく尋ねるから、返事を書くのに時間が掛かるんだ」
弥太郎がすぐに反論すると、小夜は兄へ向き直った。
「でしたら、もう少し早く返事をくださればよいのです。前のお文など、こちらから二通送ってようやく届いたではありませんか」
「若様の仕事が立て込んでいたんだ。俺ばかり責めるな」
「兄上のお仕事が忙しいことと、私への返事が遅いことは別でしょう?」
どうやら、この話は俺が口を挟まない方がよさそうだった。二人が言い合っている間に茶を飲み、庭へ目を向ける。葉を落とし始めた木々の間からは弱い陽が差し込み、石の上に細かな影を作っていた。観音寺にいた頃も、こうして二人が言い合うことは珍しくなかった。その光景を久しぶりに見られただけでも、ここへ来た甲斐はあったと思う。
奈津の件については、その後も大きな動きはなかった。弥五郎からは、本人を小夜の身の回りの仕事へ戻し、湊や蔵へ勝手に出向かないよう申し付けたと聞いている。八門にも引き続き様子を見てもらうそうだが、奈津を改めて問い詰めるようなことはしていないらしい。対馬守へ出した文についても、まだ返事は届いていなかった。塩津と観音寺の間を使者が往復することを考えれば、滞在中に全て片付くとは俺も思っていない。
小夜は奈津のことを気に掛けているようだったが、必要以上に態度を変えることはなかった。奈津も以前と同じように仕事をしており、少なくとも俺が見ている範囲では、城内の者たちとの間に目立った変化はない。今後どう扱うかは、対馬守の返事も聞いてから弥五郎と相談すればよいだろう。
そうして三日目の夕刻、俺は翌朝に観音寺へ戻るつもりだと弥五郎へ伝えた。
「もう帰るのか。せっかく来たんだから、もう二、三日くらいゆっくりしていけばいいだろう」
「そうしたいのは山々だが、あまり長く留守にしているわけにもいかん。父上からは遊んでこいと言われたが、いつまでも遊んでいていいというわけではないからな」
「左京大夫殿なら、四郎がもう少し休んで帰ってきても喜ばれると思うが」
「それはどうだろうな。帰った途端、何をしていたのかと細かく聞かれそうだ」
弥五郎は笑ったが、俺としては十分にありそうな話だった。父上には三日間休むよう命じられ、その後も朽木へ遊びに行くことを許してもらっている。これ以上休みを延ばせば、今度は弥太郎から何を言われるか分からない。
「まあ、無理に引き留めるつもりはない。次に会うのは年が明けてからになりそうだな」
「ああ。年始の挨拶の折には、また顔を合わせることになるだろう。その時は、今度こそお互いに仕事の話をせずに済むといいんだが」
「それは難しい相談だな。年始の挨拶ともなれば、嫌でも公の話が出る。それに四郎が大人しくしていられるとも思えん」
「弥五郎まで父上や弥太郎と同じことを言うのか」
「この数日で、二人がそう言う理由は十分に分かったからな」
弥五郎が笑うので、俺も苦笑するしかなかった。それでも新年になれば再び顔を合わせられると思えば、今ここで別れることもそれほど寂しくはない。小夜にもその話を伝えると、次に会える時期がはっきりしたことが嬉しいらしく、年始の挨拶の折には観音寺の話をもっと聞かせてほしいと笑っていた。
翌朝は少し早く発つことになり、小夜が道中の食事を用意させたいと申し出た。弥太郎がそれくらいはこちらで出来ると断ったものの、せめて帰りの分だけでも持っていってほしいと譲らない。結局、弥太郎が折れる形となり、俺はその様子を眺めながら、明日の朝も賑やかになりそうだと思った。
*
翌朝、塩津浜城の大手門へ出ると、湖から吹く風が思いのほか冷たかった。
十一月に入ってから朝の冷え込みは日ごとに増しているが、湖に近い塩津ではそれが一層強く感じられる。空はよく晴れていたものの、遠くの山々には薄い靄が掛かり、街道脇の草には夜露が残っていた。供の者たちはすでに支度を整えており、荷を積んだ馬も門の外で待っている。弥太郎が人数を確かめ、篠は道中の案内をする者と何やら話していた。
見送りには弥五郎と小夜、それに朽木民部少輔稙綱が来ていた。門前には近習たちも控えており、到着した時と同じように、互いの立場に応じた挨拶を交わすことになる。数日間、内輪では四郎と呼び合っていた弥五郎も、家臣たちを前にすると朽木の当主としての態度へ戻っていた。
「右衛門督様。此度はゆっくりしていただけただろうか」
「ああ、弥五郎殿。おかげで随分と楽しませてもらった。三日では少し足りないくらいだったな」
「それなら何よりだ。次は年始の挨拶の折になるだろうが、その時もゆっくり話そう」
「ああ、楽しみにしている。もっとも、年始は互いに忙しくなるだろうから、今回ほどのんびりは出来ないかもしれんがな」
「それでも、顔を合わせる時間くらいは作れるだろう。今度は小夜も一緒にな」
弥五郎がそう言うと、傍らの小夜が嬉しそうに微笑んだ。俺も頷き、年始には改めて顔を合わせることを約束した。民部少輔も僅かに笑みを見せたが、すぐに姿勢を正し、道中の無事を祈る言葉を述べてくれた。俺は礼を返し、今回の滞在で世話になったことを改めて伝えた。
続いて小夜が前へ進み出る。初日に出迎えられた時と同じく、朽木の奥方としての装いを整え、俺へ丁寧に頭を下げた。
「右衛門督様。此度はお越しいただき、ありがとうございました。どうか道中、お気を付けてお帰りくださいませ」
「ああ。小夜も元気でな。年が明ければまた会える。それまで弥五郎殿とも仲良く暮らしてくれ」
「はい。年始にお目に掛かれるのを楽しみにしております」
小夜は顔を上げると、ほんの僅かに笑った。それから弥太郎へ視線を向け、兄上も身体に気を付けてくださいねと付け加える。弥太郎はその言葉に頷いたが、すぐに小夜から文の返事を忘れないよう念を押され、少し困ったような顔をした。
「分かった。今度は早めに返事を書く。だからお前も、返事が遅いからといって何通も寄越すなよ」
「兄上がきちんと返事をくだされば、そんなことはいたしません」
「……どうやら、これからも文が増えそうだな」
弥太郎が小さく息を吐くと、俺も思わず笑った。小夜は満足そうに頷き、弥五郎の傍へ戻っていった。昔から変わらぬ兄妹のやり取りに、民部少輔まで僅かに口元を緩めている。
出立の時刻が近づき、俺は馬へ乗る前にもう一度弥五郎へ向き直った。今回の滞在は本当に遊ぶことが目的だったが、奈津の件だけは今後も確認しなければならない。もっとも、ここで長々と話すようなことでもなかった。
「弥五郎殿。奈津のことは、対馬守から返事が届いたら改めて知らせる。こちらで確かめなければならないことがあれば、遠慮なく言ってほしい」
「ああ。その件はまた文で話そう。今は帰りの道中を気にしてくれ。十一月の北近江は、朝の冷え込みが思ったより厳しいからな」
「分かった。それでは、また新年に」
「ああ。年始に会えるのを楽しみにしている」
弥五郎と最後の挨拶を交わし、俺は近習から手綱を受け取って馬へ跨がった。弥太郎たちもそれぞれ馬へ乗り、荷を積んだ馬が動き出す。供の者が全員揃ったことを確かめてから、俺はもう一度門前へ顔を向けた。
弥五郎と小夜は並んで立っていた。小夜は俺と目が合うと僅かに笑みを浮かべ、隣の弥五郎も小さく頷いている。初めて塩津浜城を訪れた時には、二人がどのように暮らしているのか気に掛かっていたが、この数日でその心配も随分と薄れた。小夜は朽木の奥方として家中に馴染み、弥五郎とも上手くやっている。それを自分の目で確かめられただけでも、ここまで来た甲斐があった。
年が明ければ、また二人に会える。今度はどんな話をすることになるのか、それはその時になってみなければ分からない。少なくとも小夜と弥太郎の文の話は、それまでにもう一度くらい聞くことになりそうだった。
「若様。そろそろ参りましょう」
弥太郎に声を掛けられ、俺は頷いた。
「ああ。帰るか」
手綱を軽く引くと、馬がゆっくりと歩き始めた。大手門を抜ける際、背後から小夜の声が聞こえたので、一度だけ振り返る。
「四郎様。また新年にお会いしましょう」
先ほどまでの改まった挨拶とは違う、昔からよく知っている小夜の声だった。俺は思わず笑い、片手を上げて応える。
「ああ。またな、小夜」
小夜が嬉しそうに笑い、その隣で弥五郎も手を上げた。俺は二人へ軽く頷くと、今度こそ前へ向き直った。
冷たい朝の風が頬を撫で、馬の蹄が乾いた地面を打つ音が響く。弥太郎たちを伴い、俺は塩津浜城の大手門を後にした。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
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このまま
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5000文字前後
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15000文字前後
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1~5000文字