淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/22 文章整理


幕間「友と呼ぶには、まだ遠く」

 四郎たちの一行が塩津浜城の大手門を出てからも、俺はしばらくその場に残っていた。

 

 朝の冷え込みは厳しかったが、空はよく晴れている。湖から吹き上げる風が衣の裾を揺らし、街道の向こうでは馬の蹄が乾いた地面を打つ音が次第に遠ざかっていった。四郎を先頭に弥太郎や近習たちが続き、その後ろを荷馬と供の者たちが進んでいる。やがて道の曲がりへ差し掛かると、一人、また一人と姿が見えなくなり、最後尾の供まで街道の先へ消えた。

 

 隣に立つ小夜も、ずっと同じ方角を見つめていたらしい。俺が声を掛けると少し驚いたように顔を向け、それから名残惜しそうに笑った。

 

「行ってしまいましたね」

 

「ああ。随分と楽しそうにしていたな。四郎も弥太郎も、あれなら少しは休めただろう」

 

「はい。四郎様があんなにゆっくりなさっているところを見たのは、久しぶりでございます。兄上も楽しそうでしたし、お越しいただいて本当によかったと思います」

 

 小夜はそう答えると、もう一度街道へ目を向けた。

 

 嫁いでから初めて迎えた、観音寺からの気安い客人である。もっとも、門前では六角家の嫡男と朽木家の正室として挨拶を交わさなければならず、以前と同じように振る舞える場面ばかりではなかった。

 

 小夜自身も、これまで使っていた若様という呼び方を改め、今は公の場では右衛門督様、内輪では四郎様と呼ぶことに決めたらしい。

 

 最初は少しぎこちなさもあったが、食事の席で昔話が始まれば、そんなものはすぐに消えていた。弥太郎へ遠慮なく言い返し、四郎が釣りの勝負で途中から決まりを変えた話を聞けば、声を立てて笑う。今回の訪問をどれほど楽しみにしていたのかは、その姿を見るだけでも十分に伝わってきた。

 

 俺としても、妻があれほど嬉しそうにしているところを見られたのは喜ばしかった。

 

「年が明ければ、また会える。それまでに四郎へ話しておきたいことでも考えておくといい」

 

「そうですね。今度は観音寺でお会いすることになるのでしょうか」

 

「おそらくな。年始の挨拶ともなれば、いつまでも塩津に籠もっているわけにはいかん」

 

 小夜は頷いたが、そこで何か思い出したように俺を見た。

 

「殿。新年のお挨拶でも、四郎様と御仕事のお話ばかりなさるのですか?」

 

「……どうしてそうなる」

 

「お二人とも、少し目を離すとすぐに難しいお話を始めてしまわれますから。今回も随分と楽しそうにしておられたのに、領内の決まりのお話になった途端、お顔が変わっておりました」

 

 どうやら、分国法について話した時のことをまだ覚えていたらしい。

 

 俺は苦笑したが、反論はできなかった。実際、四郎と話しているうちに、もう少し詳しく意見を聞いてみたいと思ったことは確かである。今川仮名目録を参考にしていることや、旧浅井領の取り決めをどこまで残すべきかという話を始めれば、互いに聞きたいことなど幾らでも出てくる。あのまま続けていたら、食事が終わってからも法や領地の話をしていただろう。

 

 もっとも、せっかく四郎が遊びに来ているのに、こちらから仕事へ引き込むのも違う。そう考えて途中で切り上げたのだが、小夜にはそれでも十分だったらしい。

 

「年始くらいは気を付けるさ。もっとも、四郎の方から話を振ってきたら分からんがな」

 

「その時は、私からも四郎様へ申し上げます」

 

「それなら、こちらが言われずに済むようにしてくれ」

 

 小夜が笑い、俺もつられて口元を緩めた。

 

 御爺も別の用向きがあるらしく、見送りを終えると一足先に城内へ戻っている。門前に控えていた近習たちも、出立の支度が片付くにつれてそれぞれの持ち場へ戻り始めていた。

 

 俺たちもいつまでもここへ立っているわけにはいかない。最後にもう一度街道へ目を向けてから、大手門を潜った。

 

 城内へ戻る途中、小夜は朝の支度を手伝ってくれた侍女たちのことを話していた。四郎たちへ持たせた食事が足りただろうかと気にしているらしい。供の人数まで確かめて用意したのだから心配する必要はないと言うと、ようやく安心したように頷いた。

 

 こうした細かなところまで気を配るのは、観音寺にいた頃から変わらない。今ではそれを朽木の正室として行っているのだと思えば、少し感慨深いものがあった。

 

 奥へ戻る小夜を見送ると、俺は近習へ重蔵を呼ぶよう命じた。

 

 四郎たちが来る前から、重蔵には幾つか確かめさせていたことがある。

 

 朽木の領内へ入った一行が道中でどのような様子だったか。供の者たちが何処へ目を向け、何を気にしていたか。そして、奈津の件で四郎へ報告に来た篠という女が、どのように動いていたか。

 

 それらを、こちらから接触することなく確かめるよう、八門へ命じていたのである。無論、客人に不快な思いをさせるつもりはなかったし、六角の者を必要以上に探ることも禁じていた。

 

 六角と朽木は同盟を結び、互いに協力する関係にある。しかし、だからといって自分の領内へ誰が入り、何をしているのかを知らずにいてよいわけではない。相手が四郎であっても、それは変わらなかった。

 

 むしろ親しい相手だからこそ、家として必要な警戒を怠り、後になって疑いを生むようなことは避けたい。

 

 もちろん、四郎が訪問の目的を偽っていると決め付けていたわけでもない。本人は小夜の顔を見て、久しぶりにゆっくり話をしたいと申し入れてきた。その言葉を疑う理由はなかったが、実際に何をするのかは別に確かめておく必要がある。何もなければ、それでよいのだ。

 

 やがて襖の向こうから声が掛かり、重蔵が姿を現した。

 

 八門の頭領だけあって、こうした報告の場でも余計な言葉は少ない。俺の前へ進み出ると静かに頭を下げ、勧めた場所へ腰を下ろした。長い付き合いになるが、仕事の話をする時の態度は昔からほとんど変わっていなかった。

 

「御苦労、重蔵。四郎たちは無事に出立した。帰りの道中も見ておくようには命じてあるが、まずは今回の報告を聞こう」

 

「はっ。右衛門督様の一行については、坂田から塩津へ入られるまでの間も、こちらの者に様子を見させておりました。街道沿いの村や市へ目を向けておられたものの、長く足を止めることはなく、特に不審な動きもございませんでした」

 

「篠という女はどうだった?」

 

「こちらの者が見ていることには気付いていたものと思われます。ただ、探し出そうとする様子はなく、周囲を確かめた後は一行の警護を続けておりました」

 

 俺は一度頷いた。

 

 四郎たちの訪問は事前に知らされていたし、こちらとしても領内へ入ったことを確かめる必要があった。六角の嫡男が供を伴って訪れる以上、道中で何か起きてからでは遅い。しかし、見張る者が近付き過ぎれば、今度は客人の方が余計な疑いを抱くことになる。だからこそ、姿を見せずに様子を確かめるよう命じていた。

 

「こちらの者に気付いた後も、追おうとはしなかったのか」

 

「はい。何度か周囲へ目を向けていたそうですが、それだけにございます。こちらの動きを探ろうとする様子はなく、供の者へ何かを命じることもなかったとのことです」

 

「見付けられなかったというわけではなさそうだな」

 

「恐らくは。腕前については実際に手を合わせたわけではございませんが、こちらの気配に気付くのは早かったようです。少なくとも、何も分からずに通り過ぎたとは考えにくいかと」

 

 その報告には少し興味を引かれた。

 

 甲賀の者であれば、自分たちを見ている相手が何者なのか気になるだろう。しかも今回は敵地へ忍び込んだわけではなく、六角の嫡男に付き従って同盟相手の領内へ入っている。怪しい者が近くにいると分かれば、護衛の立場から正体を確かめようとすることも不自然ではなかった。

 

 それでも篠は、周囲を警戒するだけで追跡まではしなかった。

 

 重蔵の報告が正しければ、相手を見付けられなかったのではなく、追う必要がないと判断したことになる。四郎が命じたのか、篠自身の判断なのかは分からないが、少なくとも不用意に動く女ではなさそうだった。

 

「城へ入ってからはどうだ?」

 

「供の者としての役目を果たすほか、特に目立った動きはございませんでした。右衛門督様の居場所を確かめたり、道中で見聞きしたことを報告したりしておりましたが、蔵や兵の詰所へ近付くようなことはなく、朽木の者へ必要以上に話を聞くこともしておりません」

 

「奈津の件を除けば、か」

 

「はい。その件については、すでに御報告した通りにございます」

 

 俺は頷き、奈津について改めて聞くことにした。

 

 重蔵から最初に報告が上がってきた時は、小夜の供として来た者が、湊や蔵の近くで妙なことを尋ねているという話だった。六角の命令によるものと決め付けるつもりはなかったが、放置してよいことでもない。そこで奈津が何を見るのか、誰と話すのかを確かめさせていたのである。

 

 報告によれば、奈津の行動は少しずつ広がっていたらしい。初めは湊で働く者との世間話だったものが、いつしか船の行き先や積荷へ及び、兵の移動についても尋ねるようになっていた。

 

 とはいえ、兵の詰所へ入り込んだり、蔵の中を調べたりしたわけではない。重蔵の配下も、何かを書き留めて持ち出したところまでは確認していなかった。

 

 本人は小夜の近況を知らせるため、少しでも対馬守の役に立とうと考えたのだと説明していた。それが事実なら、初めから朽木を探るつもりで動いていたわけではないのだろう。しかし、役に立ちたいという気持ちがあったからといって、勝手に軍勢や船の情報を集めてよいことにはならない。

 

「奈津が篠に声を掛けられた時は、どうだった?」

 

「二人が話しているところは確認しております。ただ、会話の全てを聞き取れたわけではございません。しばらく話した後、篠はその場を離れ、奈津を追うこともなく元の仕事へ戻っております」

 

「それから奈津へ何か確かめようとはしなかったのか」

 

「ございません。右衛門督様へ報告するまで、特に動きは見られなかったとのことです」

 

 俺は腕を組み、しばらく考えた。

 

 篠は奈津へ直接話を聞き、対馬守から何を命じられていたのかを確かめている。その時点で奈津の行動に疑問を持ったはずだが、それ以上は探らず、四郎へ報告するところで止まった。

 

 四郎の説明によれば、篠へ与えたのは道中の様子を見ておく役目であり、朽木の内情を調べることではなかったという。重蔵が見た篠の行動とも、その説明は矛盾しなかった。

 

「重蔵。あの女をどう見る?」

 

 俺が尋ねると、重蔵はすぐには答えなかった。少し考えるように目を伏せ、それからゆっくりと口を開いた。

 

「相応に腕の立つ者かと存じます。ただ、今回のことで評価すべきは、腕前そのものよりも判断の方でしょう。こちらの監視に気付いても追わず、奈津に疑わしいところがあっても、自分の判断だけでは調べを広げておりません」

 

「慎重なだけではないのか?」

 

「それだけではございませぬ。奈津の行動に疑問を持てば、本人へ直接確かめております。何もせずに済ませたわけではなく、必要なところまでは踏み込んでいるのです。その上で、右衛門督様へ報告することを選んだのでしょう」

 

 重蔵はそこで一度言葉を切り、俺の顔を見た。

 

「特に、奈津を調べることより先に、主人へ知らせることを選んだ点は見過ごせませぬ。相手が甲賀の者であり、しかも同じ六角に関わる者であれば、自分で確かめたくなるのが普通でしょう。ですが、あの女はそれをいたしませんでした」

 

 俺も同じように考えていた。

 

 忍びにとって情報を集めることは大切な仕事である。相手の動きを知らなければ、主人へ危険を知らせることもできない。しかし、知ることのできるものを全て知ろうとすれば、いずれ主人が望んでいないことにまで手を出す。奈津は恐らく、その違いを十分に考えていなかったのだろう。

 

 対して篠は、奈津を怪しいと感じても、調べを広げる前に四郎へ知らせている。こちらの監視に気付いた時も、八門を探し出そうとはしなかった。

 

 六角には、なかなか良い者がいるらしい。

 

「もし、あの女が奈津を追っていたらどうしていた?」

 

「まずは殿へ御報告するつもりでございました。小夜様の供と右衛門督様の供とはいえ、六角の者が朽木の領内で互いを探り始めれば、こちらも黙って見ているわけには参りませぬ」

 

「そうだろうな」

 

 俺は苦笑した。

 

 奈津が自分の判断で動いていたとしても、それを調べる者まで勝手に動き始めれば、朽木の家中は何が起きているのか分からなくなる。下手をすれば六角が朽木を探っているのか、それとも六角の内輪で何か問題が起きているのかさえ判断できなくなっただろう。

 

 だが、今回はそうならなかった。

 

 重蔵の配下が奈津の動きを見ている一方で、篠は本人へ事情を確かめただけで止まり、四郎へ知らせている。その判断によって、こちらも余計な対応を取らずに済んだわけだ。

 

「右衛門督の忍びとしては、なかなか良い判断だったということか」

 

「はい。右衛門督様がどこまで細かく命じておられたかは分かりませぬが、あの女は主人の命を越えて動くことを好まぬように見えます」

 

 俺は小さく頷いた。

 

 最初は奈津と同じ甲賀の女として見ていたが、今回の動きを知る限り、篠は明らかに四郎の配下として働いている。自分が知りたいことより、主人が何を求めているかを優先しているのだろう。

 

 四郎が直接どこまで教えたのかは分からない。だが、そうした者を身近に置いているというのは、あいつの家臣の扱い方を知る上でも興味深かった。

 

「他には?」

 

「右衛門督様御自身について、少し気になることがございました」

 

 重蔵がそう言ったので、俺は顔を上げた。

 

「何だ?」

 

「道中において、街道や村の様子をよく御覧になっておりました。特に荷車の通る場所や道幅の狭いところでは、馬上から何度も目を向けておられます。ただ、供の者へ何か調べさせるようなことはなく、そのまま通り過ぎておられました」

 

 それを聞き、俺は思わず笑いそうになった。

 

 いかにも四郎らしい。

 

 坂田を六角が受け取ってから、あいつが領内の道や市を気にしていることは聞いている。荷車の通りにくい場所を見付ければ、何が原因なのか確かめたくなったのだろう。しかも先日の動員では、兵と荷駄の進み方まで調べていたらしい。今まで以上に道の様子が気になっていても不思議ではなかった。

 

「供の者は何か言っていたか?」

 

「詳しい話までは分かりませぬが、近習の弥太郎殿が何度か声を掛けておりました。その後、右衛門督様は笑って答え、馬を進めておられます」

 

 今度こそ笑いが漏れた。

 

 恐らく弥太郎に、遊びに来たのだから仕事はやめろとでも言われたのだろう。塩津へ着いてからも、少し仕事の話になれば小夜と弥太郎が揃って四郎をからかっていた。本人も言い返してはいたが、本気で嫌がっている様子ではなかった。

 

「他に気になるところは?」

 

「特にはございません。御滞在中も、右衛門督様から朽木の兵や蔵について尋ねられたという話は聞いておりませぬ。湊を案内するよう求められることもなく、湖へ出た日も釣りを楽しまれておりました」

 

「そうか。なら、四郎は本当に遊びに来たわけだな」

 

「そのように見受けられます」

 

 重蔵の返事に、俺は口元を緩めた。

 

 こちらが警戒していたほど、四郎は何かを確かめようとはしていなかったらしい。もっとも、だからといって八門の報告が無駄だったとは思わない。四郎が余計なことをしなかったと分かっただけでも、十分だった。

 

「御苦労だった。奈津の件は引き続き見ておいてくれ。ただし、小夜の側にいる間は余計なことをするな。新しい動きがあれば、まずこちらへ知らせるように」

 

「はっ。承知いたしました」

 

 重蔵は深く頭を下げたが、退出する前にもう一度俺へ目を向けた。

 

「殿。一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」

 

「何だ?」

 

「今回の右衛門督様の御滞在についてでございます。あの方の御振る舞いを見る限り、朽木を探るためにお越しになったとは考えにくいかと存じます。ただ、あれほど周囲へ目を配られる方が、御自身の興味を全て抑えておられたというのも、少々珍しいことに思えます」

 

「……つまり、どういうことだ?」

 

「右衛門督様は、見えていないのではなく、見ないことを選んでおられたのではないかと。そうであるならば、朽木を独立した家として扱うことについても、よく考えておられるのでしょう」

 

 俺はしばらく重蔵を見た。

 

 重蔵が何かを言い切る時には、それなりの根拠がある。今回も四郎の行動を実際に見た者たちの報告を聞き、その上でそう考えたのだろう。

 

 ただ、四郎本人へ確かめたわけではない。そこから先は、あくまで行動を見た上での推測だった。

 

 それでも、見えていないのではなく、見ないことを選んでいたという言葉には、考えさせられるものがあった。

 

「分かった。覚えておこう。御苦労だったな、重蔵」

 

「はっ」

 

 重蔵は頭を下げ、静かに退出していった。

 

 廊下を歩く足音が遠ざかり、部屋には再び静けさが戻った。庭の方からは、風に揺れる木々の音が聞こえてくる。

 

 俺はしばらく座ったまま、今聞いた報告を思い返していた。

 

 八門が掴んだことの中に、特別驚くようなものはない。四郎たちは道中でも城内でも余計なことをせず、篠についても慎重な働きぶりが目立っていたという。

 

 ただ、今回の滞在で知りたかったのは、六角の者が朽木を探っているかどうかだけではなかった。

 

 四郎自身が、どのような男なのか。

 

 そのことを、もう少し確かめてみたかったのである。

 

 あいつと初めて顔を合わせた頃、俺にとって六角は、まず近江守護として大きな力を持つ家だった。南近江に勢力を持ち、京の政にも深く関わる六角とどう付き合うかは、朽木の行く末を考える上で避けて通れない。

 

 味方に付ければ頼もしいが、敵に回せば厄介な相手である。こちらが高島の一角を治めていた頃なら、なおさらだった。

 

 だからこそ、六角との関係については慎重でありたいと思っていた。

 

 実際、浅井との戦を経て両家の関係は随分と深まった。必要なところで協力し、朽木も以前より広い領地を得ることができた。しかし、土地を得ればそれで終わりというわけではない。新しく従った者たちを治め、旧来の家臣との関係を整え、その土地を守るための備えもしなければならない。俺が近頃、分国法を定めるために書付へ向かう時間を増やしているのも、そのためだった。

 

 六角も坂田を受け取り、今では美濃と直接向き合っている。以前より互いの領地が広がったことで、両家の間には新しい利害も生まれていた。

 

 今は協力することに十分な利がある。だが、それが将来まで同じ形で続くとは限らない。こちらが望むものと、六角が求めるものが食い違う時も来るだろう。

 

 そうなった時、六角は朽木をどう扱うのか。

 

 以前の俺なら、まずそこを考えていたはずだ。相手がどれほど親しく接してくれようと、家と家の関係は別の話である。四郎が個人的に気の合う相手だとしても、それだけで六角という家を信用するわけにはいかない。

 

 その考えは今も変わっていない。

 

 ただ、四郎については、以前ほど身構える必要もないのかもしれないと思い始めていた。

 

 あいつは今回、本当に遊びに来た。

 

 最初は多少疑っていた。坂田を得た直後であり、美濃の動きも落ち着いたとは言い難い。塩津の湊も、朽木にとって以前より重要な場所になっている。そんな時に六角の嫡男が数日間滞在したいと言ってくれば、何か確かめたいことがあるのではないかと考えるのも無理はないだろう。

 

 だからこそ重蔵へ命じ、一行がどのように動くのかを見させていた。

 

 しかし、実際に四郎がしていたことといえば、釣りをして、食事をして、小夜や弥太郎と昔話をすることがほとんどだった。分国法について話した時には興味を示したものの、細かな条文や家中の事情までは尋ねてこなかった。

 

 湊から報告が届いた時も同じだ。

 

 近習が報告を持ってきたと告げた瞬間、四郎はこちらへ目を向けた。恐らく何が届いたのか気になったのだろう。普段のあいつなら、何処から船が戻ったのか、どのような荷が増えているのかと尋ねても不思議ではない。

 

 それでも、聞かなかった。

 

 朽木の仕事だからと、それ以上は話を広げようとしなかったのだ。

 

 休むことに慣れていないあいつが、どこまで意識していたのかは分からない。だが、興味がないから聞かなかったのではないことくらいは、顔を見ていれば分かった。

 

 重蔵が言った、見ないことを選んでいたという話も、案外的を射ているのかもしれない。

 

 無論、八門が見たのは今回の滞在中の振る舞いである。四郎が何を考えながら朽木へ来たのか、その全てを知ったわけではない。それでも、こちらが警戒しなければならないような動きは見られなかった。

 

 小夜のことについても同じだった。

 

 あいつが心配しているのは初めから分かっていたし、俺としても当然のことだと思っている。以前の婚姻で辛い思いをした娘を、もう一度嫁がせたのだからな。しかも今度の相手は、四郎にとっても親しい俺だ。観音寺で交わした文だけでは安心できず、自分の目で確かめたくなったのだろう。

 

 俺が小夜のことを信用してほしいと言えば、四郎も表向きは頷いたかもしれない。だが、今回は小夜の暮らしぶりを見せるだけで済んだ。

 

 小夜が侍女たちへ指図を出し、家中の者と自然に言葉を交わし、俺へ遠慮なく物を言う。その様子を見ているうちに、四郎の表情からも気掛かりが薄れていった。

 

 帰り際の顔を思い出せば、それはよく分かる。

 

 小夜が四郎様と呼ぶことにした時には、少し寂しそうな顔もしていた。しかし、それ以上に小夜が朽木での暮らしを自分のものとして受け入れていることを喜んでいたように見えた。

 

 無理に昔と同じ関係へ戻そうともせず、変わったところは変わったものとして受け止めている。

 

 その振る舞いは、朽木という家に対する四郎の態度にも通じるところがあった。

 

 今回の奈津の件でも、六角から連れてきた者だからと、身内だけで処理しようとはしなかった。

 

 篠から報告を受けた時点で、奈津が何をしていたのかさらに調べさせることもできただろう。しかし四郎はそうせず、俺へ話を通した上で、朽木の城内で起きた問題として扱うことを選んでいる。

 

 俺が奈津の動きを把握していたと告げても、何処で誰が見張っていたのかを尋ねることはなかった。対馬守への確認は必要だと認めたが、奈津の扱いについて、こちらの判断を飛び越えて命じるようなこともしなかった。

 

 同盟相手であることと、相手の家中へ口を出してよいことは違う。

 

 四郎も、そこは弁えているようだった。

 

 六角に対する俺の考えも、このところ随分と変わってきていた。

 

 以前は、六角と手を結ぶことが朽木にとってどれほどの利になるかを第一に考えていた。だが、浅井との戦を経て互いに領地を広げた今では、それだけでは足りない。

 

 朽木が強くなれば、六角にとっても見過ごせない存在となる。今は同盟相手でも、いずれ利害が食い違う時が来るかもしれない。その時、六角が朽木を独立した一つの家として扱うのか、それとも力の差を理由に従わせようとするのか。その違いは大きかった。

 

 少なくとも四郎には、今のところ朽木を自分たちの思い通りに動かそうとする様子がない。むしろ、こちらが独立した家であることを承知した上で話しているように見える。坂田を六角が受け取ることになった時も、朽木の得たものまで当然のように求めてくることはなかった。

 

 ただし、四郎個人の考えと六角家の方針が常に同じであるとは限らない。左京大夫殿や家臣たちには、それぞれの立場がある。四郎が六角の家督を継いだとしても、家中の意向を無視して何でも決められるわけではないだろう。

 

 そして、俺にも朽木の当主として守らなければならないものがある。

 

 四郎と親しくしているからという理由だけで、家中の者に不利なことを押し付けたり、朽木の利を損なう約束をしたりするわけにはいかない。互いに気心が知れていることはありがたいが、それで家同士の関係まで何の問題もなく進むとは考えていなかった。

 

 それでも、いずれ六角を背負う男が、相手の立場を考え、踏み込むべきではないところで止まれるというのは心強い。

 

 今後、両家の間に何か問題が起きた時にも、四郎となら話し合える余地があるだろう。

 

 今回の滞在を終えた今は、そう思っていた。

 

 もっとも、四郎については、以前から別に気になっていることがある。

 

 あいつは時折、この時代の人間としては少し変わった考え方をする。

 

 もちろん、それだけなら不思議でも何でもない。生まれつき頭の回る者はいるし、他の者が思い付かないことを考える者もいる。知識の多い者が必ずしも良い考えを持つとは限らず、経験の少ない者が思いがけないところへ目を向けることだってある。

 

 俺自身、幼い頃から周囲の者に妙なことを言うと思われた経験があるのだからな。

 

 ただ、四郎の考え方には、妙に馴染みのあるものが混じっていることがあった。

 

 最初に気になった時は、偶然だと思った。

 

 同じ問題へ向き合えば、似たような結論に辿り着く者がいてもおかしくない。俺が以前から知っていることを、四郎が別の道筋で思い付いたとしても、それ自体は何も不思議ではなかった。

 

 あいつが何を学び、誰からどのような話を聞いているのか、俺が全て把握しているわけでもない。

 

 しかし、顔を合わせる機会が増えるにつれ、その違和感は簡単には消えなくなっていた。

 

 気になるのは、答えそのものより、そこへ辿り着くまでの考え方だった。

 

 物事へ向き合う時、まず何を確かめ、何処を問題として捉えるのか。俺がこの時代で暮らすうちに覚えたものとは、少し違うところから話を始めているように感じることがある。

 

 例えば、土地を得た時に何を確かめようとするか。

 

 普通なら年貢や所領の境、誰がその土地を治めていたのかといったところへ目を向けるだろう。四郎もそれらを軽んじているわけではない。しかし、あいつは道を通る荷の量や、命を受けてから兵が実際に動けるまでの時間など、少し違ったところを気にしている。

 

 どれも政や戦に関わることであり、調べておいて損はない。俺自身も必要だと思うことばかりだ。だが、それらを何故最初から問題として捉えられるのかと考えると、時折妙な親しみを覚えるのだった。

 

 無論、何か一つの言葉や考えを取り上げ、それを根拠に決め付けられるようなものではない。

 

 四郎は幼い頃から書物を読み、政にも関心を持っていたという。父親は左京大夫殿であり、周囲には六角を支えてきた家臣たちもいる。そうした環境で育った者が、他の若者とは違う考え方を身に付けたとしても、説明の付かない話ではなかった。

 

 だから今回も、何か分かるのではないかと思っていた。

 

 数日間一緒に過ごせば、仕事の席では見せない顔も見られる。気を抜いた時の言葉遣いや、何気ない話題への反応に、普段とは違うものが現れるかもしれない。少なくとも、これまで俺が知っていた四郎とは別の一面を見られるだろうと考えていた。

 

 実際、その通りにはなった。

 

 四郎は思っていた以上に負けず嫌いで、弥太郎にからかわれれば年相応に言い返し、小夜の前では兄のような顔をする。仕事の話を始めれば途端に真面目になるくせに、自分が休まされていることを指摘されると、どうにも居心地が悪そうだった。

 

 釣りの勝負では途中で決まりを変えたことを最後まで認めようとせず、弥太郎に昔の話を持ち出されれば、何とか言い返そうとして小夜にまで笑われている。

 

 ああしている姿だけを見れば、六角の嫡男として京へ上り、帝や公方様に拝謁してきた男とは思えないほど気安い。

 

 それでも、仕事の話が出れば目付きが変わる。

 

 分国法について話した時もそうだった。今川仮名目録の名を出せばすぐに反応し、旧浅井領で何を残し、何を改めるつもりなのかを聞いてきた。

 

 もっとも、こちらが説明している途中で、それ以上踏み込むことを止めたらしい。小夜たちがいる席で、延々と政について話すべきではないと考えたのだろう。

 

 以前の四郎なら、あそこで話を切り上げられただろうか。

 

 そのこと自体も、今回初めて知ったところだった。

 

 人は成長するし、立場が変われば考え方も変わる。俺が初めて出会った頃の四郎と、今の四郎が全く同じである必要はない。あいつが家臣へ仕事を任せるようになり、知りたいことを全て調べようとしなくなったとしても、それは六角の嫡男として経験を積んだ結果なのかもしれなかった。

 

 そこへ無理に別の理由を探す必要はないのだろう。

 

 しかし、俺が本当に確かめたかったことについては、結局何も分からなかった。

 

 四郎が、俺と同じように、かつて別の時代を生きた記憶を持っているのかどうか。

 

 その答えだけは、今回の滞在でも見付けられなかった。

 

 もちろん、本人へ直接尋ねたわけではない。

 

 そのようなことを突然聞かれれば、普通は何を言っているのか分からないだろう。仮に四郎が俺と同じ記憶を持つ者であったとしても、簡単に認めるとは限らない。

 

 互いに何を知り、何を覚えているのかさえ分からないまま問いを向けたところで、相手を困惑させるだけに終わる可能性もあった。

 

 何より、今の四郎と付き合う上で、その答えがすぐに必要なわけではない。

 

 四郎は六角の嫡男であり、俺は朽木の当主だ。

 

 その立場で互いに協力し、時には意見を交わし、気の置けない話もできる。今回も小夜や弥太郎を交えて数日を過ごし、仕事の話ばかりではない時間を持てた。

 

 あいつが以前にどのような人生を送っていたのかを知らなくとも、今の付き合いが損なわれるわけではなかった。

 

 ただ、時折感じるあの奇妙な親しみの正体については、やはり気になっている。

 

 もし四郎も同じような記憶を持っているのなら、これまで見えていたものの意味が変わってくるかもしれない。反対に、全て俺の思い違いであったとしても、それはそれで構わなかった。

 

 今はまだ、どちらとも決められない。

 

 俺は火鉢へ手を伸ばし、冷えた指先を炭の熱で温めた。

 

 障子の向こうでは、冬を迎える支度をする者たちの声が聞こえている。塩津の朝は日に日に冷たくなり、湖から吹き上げる風にも冬の気配が濃くなっていた。

 

 四郎が出立してから、まだ半日も経っていない。次に顔を合わせるのは、年が明けてからになるだろう。

 

 その時も、あいつはいつもの調子で話し掛けてくるに違いない。俺も今までと変わらず迎えるつもりだった。

 

 ただ、いずれ本当に確かめたいと思う日が来たなら、どのように切り出すべきか。

 

 そのことだけは、次に会うまでに少し考えておこうと思った。

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