淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

68 / 79
第六十五話「東へ向けた備え」ー前編ー

 塩津浜城から観音寺城へ戻って数日が過ぎた。十一月も半ばを越え、朝夕は火鉢が恋しいほど冷え込むようになっている。城内では冬支度が進み、廊下を行き交う小姓たちも厚手の衣を重ね始めていた。庭の木々は葉を落とし、掃き集めたばかりの落葉が風に散らされている。湖岸で釣り糸を垂らしていたのはつい先日のことなのに、観音寺へ戻れば、机の上にはいつものように書付が並んでいた。

 

 留守中の政務は父上や後藤但馬守たちが進めてくれていた。坂田の年貢や寺社の所領、市の取り決めについても、差し迫った揉め事は起きていない。もっとも、それぞれの村が長く続けてきた仕組みは一様ではなく、帳面を開けば確認を要するところはいくらでも出てくる。今は旧来の扱いを大きく変えず、現地で判断に迷うことがあれば後藤から知らせてもらうことにしていた。俺が数日城を空けたからといって、すべての仕事が止まるわけではない。戻ってみれば、返事を待つものと既に片付いたものがきちんと分けられていた。

 

「若様。こちらは御覧いただかなくてもよろしい書付にございます。後藤様から、処置を終えたとの知らせが添えられておりますので」

 

「分かった。なら、今朝届いた分を先に見せてくれ」

 

 弥太郎は俺の手元から一冊を取り、別の文箱を寄せた。塩津にいる間は仕事を忘れろと散々言っていた男も、観音寺へ戻ってからは手際よく書状を差し出してくる。ただし、夜になれば容赦なく文箱を閉じるようになった。小夜に頼まれたわけではないだろうが、兄妹揃って妙なところが似ている。

 

 帰城した日のうちに父上へ挨拶は済ませてある。小夜が弥五郎と仲睦まじく暮らし、家中の者にもよく馴染んでいたことを伝えると、父上は食事の様子や普段の振る舞いまで尋ねられた。少し細か過ぎるのではないかと思ったが、あれほど気に掛けて嫁がせた娘なのだから当然なのだろう。弥太郎も平井加賀守へ妹の近況を知らせたそうで、加賀守は安堵していたという。塩津で小夜が笑っていた顔を思い出すと、訪ねてよかったと改めて思う。

 

 ただし、あの数日間には、まだ片付いていない話も残っていた。小夜の供として朽木へ来ていた奈津が、命じられた役目を越えて湊の船や積荷、兵の動きについて尋ねていた件である。篠が気付いて報告し、弥五郎の前で本人から事情を聞いた。奈津は対馬守の役に立ちたい一心だったと話していたが、他家の領内で勝手に調べを広げてよいことにはならない。

 

 弥五郎はその場で奈津を捕らえることも、観音寺へ送り返すこともしなかった。当面は小夜の身の回りの仕事に専念させ、湊や蔵へ勝手に近づかないよう申し付けている。対馬守へは塩津から文を出してあり、本人が何を命じたのか、その返事を待つことになっていた。奈津の説明がすべて正しいかどうかも、届いた文に何が書かれていたかも、まだ六角の側では確かめられていない。帰城の折には父上へ概要を伝えたが、その時も詳しい処置は返書を待つことにした。

 

 机上の書付を一通読み終えた頃、弥太郎が新しい封を差し出した。俺が差出人を尋ねるより先に、塩津の件でございます、と告げる。

 

「対馬守様からの返書にございます。御屋形様には既に御覧いただいており、若様へも回すよう仰せつかりました」

 

「ああ、来たか。父上からは何か?」

 

「対馬守様をお呼びになり、若様とも話をなさるおつもりだそうです。お急ぎではないものの、今日のうちに一度お越しくださればと」

 

 俺は頷いて封を解いた。書状には奈津へ与えた役目が、思っていたより詳しく書かれていた。小夜が嫁ぎ先で不自由なく暮らしているか、家中の者と折り合いよく過ごしているか。困ったことがあればその様子を知らせること。それが命じた仕事のすべてで、朽木の兵や船を調べさせたことはないという。奈津から届いた文には湊の賑わいや見慣れない商人について書き添えられたものもあったが、対馬守は暮らしの周りの話として受け取り、詳しい調査を求めたことはなかったらしい。

 

 奈津の説明と大きく食い違うところはない。ただ、対馬守は自分の命じ方にも曖昧なところがあったと認めていた。小夜の様子を知るには周囲の者との付き合いも必要になる。どこまで聞いてよいか、反対に何へ踏み込んではならないかを、その都度細かく申し渡してはいなかったという。対馬守ほど経験を積んだ者なら自然に引くところでも、奈津には見えなかったのかもしれない。だからといって、本人の判断が消えるわけでもなかった。

 

「少なくとも、対馬守が朽木を探らせていたという話ではなさそうだな」

 

「はい。届いている文とも、奈津が塩津で申したことは概ね合っているようにございます」

 

「だが、まだ本人へ確かめたわけじゃない。何を聞き、何を書き留めたのかまでは分からないからな」

 

 俺は書状を畳み、弥太郎へ渡した。奈津を今すぐ観音寺へ呼び戻そうとは思わない。小夜に仕えている者を六角の都合で動かせば、弥五郎にも小夜にも迷惑を掛ける。まずは対馬守から詳しく話を聞き、こちらで分かったことを朽木へ伝える。それから先をどうするかは、弥五郎とも相談するべきだろう。

 

 父上のもとへ向かうと、座敷には既に対馬守が控えていた。俺が席に着くのを待ち、父上は机の上の書状を脇へ寄せられた。帰城した日に小夜のことを話した時とは違い、今は三雲家の当主を前にしている。父上も当主としての顔に戻っておられた。

 

「右衛門督。返書には目を通したな」

 

「はい。先ほど拝見いたしました」

 

「対馬守、そなたの口からも話してやれ。まず奈津へ何を命じておったのか、それを聞こう」

 

 対馬守は父上へ一礼し、奈津に命じたことを順に説明した。内容は書状に記されていたものと変わらない。小夜の暮らしについては以前から父上も気に掛けておられたため、表向きに届く文だけでなく、身近にいる者からも様子を聞いておきたかったのだという。一方で、湊へ出向いて船の数を数えたり、兵の動きを探ったりする仕事は一度も命じていないと明言した。

 

「御屋形様、右衛門督様。奈津の文に湊のことが記されていたのは事実にございます。ですが、詳しく調べよと返したことはございませぬ。私が受け取ったものにも、兵の数や船の積荷を細かく記した文は見当たりませぬ」

 

「ならば、本人が勝手に調べ始めたということか」

 

「そのように考えております。ただ、私の伝え方にも至らぬところがございました。小夜様のことを知らせよと命じる際、朽木の内情へ踏み込むなとは申し渡しておりませなんだ」

 

 対馬守は言い訳を重ねず、静かに頭を下げた。父上はそのまま何も言わず、俺へ目を向けられた。塩津で直接奈津と話したのは俺たちである。俺は彼女が自分の判断で調べを広げたと認めたこと、詳しい兵の数や船の積荷を送ったことはないと話したことを伝えた。ただ、それが事実かどうかを確かめたわけではないことも付け加える。

 

「篠は奈津からそこまで聞いておりますが、荷や文を改めたわけではありません。朽木の八門も奈津の動きには気付いていたそうですが、何もかも見聞きしていたわけではないようです」

 

「ふむ。では、分かっておることと、まだ確かめられておらぬことを混ぜてはならんな」

 

 父上は机へ置いた書状を指で揃えられた。それから対馬守へ向き直り、奈津へ命じたことに偽りがないなら、その内容を朽木へ伝えるべきだと仰った。奈津の処遇についても、六角だけで決めるのではなく、まず弥五郎の考えを聞く。小夜の供として引き続き置くかどうかは、当の小夜にも関わる話だからだ。

 

「奈津は今も塩津におる。こちらの都合で呼び戻し、罰して済むというものでもあるまい。まして、弥五郎殿がまず事情を確かめる道を選んでくれたのじゃ。その厚意を軽んじてはならん」

 

「はっ。すぐに返書を整えまする」

 

「それと、奈津が自分の役目をどう受け取っていたかも、いずれ本人へ確かめよ。勝手をしたことは看過出来ぬが、命じ方に問題があったなら、そこも改めねばなるまい」

 

対馬守は承知したと答えた。話が一段落したところで、父上が俺にも考えを尋ねられたので、今すぐ罰を決める必要はないと思うと答えた。奈津の行動が許されるわけではないが、朽木へどこまで迷惑を掛けたのか、何を観音寺へ知らせたのかを確かめないまま重い処置を決めるのも違う。弥五郎が小夜の側に置くことを認めている間は、その扱いを尊重したかった。

 

「それに、弥五郎殿は奈津だけを責めていたわけではありません。俺や篠からも話を聞き、朽木で確認していたことと照らし合わせていました。こちらからも、確かなことを伝えておきたいと思います」

 

「うむ。それでよい。朽木と六角は縁を結んだが、別の家じゃ。こちらに悪意がなかったと言い張るだけでは、あちらも困るであろう」

 

父上は頷かれ、対馬守へ必要な文を整えるよう改めて命じられた。俺もその方針に異存はない。対馬守が持ち帰る書状をまとめ始めたところで、以前から気に掛かっていたもう一つのことを口にした。

 

「父上。篠の働きについても、一つ申し上げてよろしいでしょうか」

 

「何じゃ、右衛門督」

 

「奈津の行動に気付いた時、篠は本人へ事情を尋ねただけで、勝手に調べを広げませんでした。朽木の者たちを疑うこともなく、まず俺へ知らせてきた。そのおかげで弥五郎殿とも直接話せたのです」

 

 父上は対馬守を見た。対馬守も考えるように一呼吸置いてから、篠の判断は妥当だったと答えた。奈津のしたことを確かめようとするあまり、六角の者が朽木の湊や蔵を探り始めていれば、向こうからどう見られたか分からない。命じられた範囲を守り、疑問があれば主人へ報告する。その判断は評価してよいという。

 

「ならば、その働きはそなたから認めてやれ。奈津の扱いとは別の話じゃ。よく働いた者へ礼を言うのに、返書を待つ必要はなかろう」

 

「はい。後ほど篠を呼んで、直接伝えておきます」

 

 対馬守が退出すると、父上は肩の力を抜き、火鉢へ手をかざされた。先ほどまでの改まった空気が少し和らぐ。俺も茶を一口飲み、書状の束がようやく片付いたことに小さく息を吐いた。朽木から次の返事が来るまで奈津の件は動かせないが、こちらで確かめるべきことはひとまず済んだらしい。

 

「四郎。塩津では休めたか」

 

「はい。釣りもしましたし、小夜ともゆっくり話せました。弥五郎にも世話になりました」

 

「そうか。奈津のこともあったが、遊びに行った甲斐はあったようじゃな」

 

「ええ。もっとも、弥太郎と小夜には何度も仕事をするなと釘を刺されましたが」

 

 父上は声を立てて笑われた。俺が少し不満そうな顔をすると、ますます面白そうにしておられる。そんな顔を見られるのも、人払いをした後の父子の席だからだろう。やがて笑いを収めた父上は、机の端から別の帳面を引き寄せられた。表紙には坂田の村々の名が並んでいる。

 

「さて、休んだところで一つだけ。留守の間に坂田から報せが来ておる。年貢と市の扱いは後藤に任せてあるが、東へ通じる道について、少し気になる話があってな」

 

「美濃へ向かう道でございますか」

 

「うむ。商人の話じゃ。まずはこれを読んでみよ」

 

 父上は帳面に挟まれていた一通の書状を抜き、俺の前へ滑らせた。坂田の役人を通じて届けられたもので、東へ向かう商人たちが道中で見聞きしたことが記されているという。俺はその書状を受け取り、折り目を開いた。

 

 書状に記されていたのは、坂田から美濃へ向かう商人たちの間で、近頃になって使う道を変える者が出ているという話だった。以前から通っていた街道を避け、多少遠回りになっても別の道を選ぶ者がいるらしい。もっとも、道が崩れたわけでも、通行を禁じられたわけでもない。今までと変わらず荷を運んでいる者もおり、話を聞いた商人によって事情が異なるようだった。書状を送ってきた役人も理由までは掴めておらず、確かめられたことと商人から聞いた話を分けて記している。

 

 俺は書状にある地名を確かめながら、父上の机に広げられた坂田の地図へ目を向けた。坂田から東へ進めば、美濃へ入る道が幾つかある。その先にあるのが不破郡だった。以前から美濃の情勢には関心を持っていたが、坂田を六角が受け取ったことで、隣国の出来事が以前より身近な問題になっている。商人にとっては、どの道を使えば無事に荷を運べるのか、途中でどれほど銭を払わねばならないのかが重要なのだろう。領主が替わったことで往来に変化が生じているのなら、こちらも事情を知っておく必要があった。

 

「父上。このような話は、他にも届いているのでしょうか」

 

「似たようなものは幾つかある。ただ、同じ商人から広まった話かもしれぬ。後藤にも確かめさせておるが、まだ詳しいことは分かっておらん」

 

「道を変える理由についても、はっきりしていないのですか」

 

「うむ。道中で銭を求められるようになったとも聞くが、どこの誰が取っておるのかも分からぬ。商人同士の都合ということもあろう。今のところは、何とも言えんな」

 

父上はそう仰ると、地図の東側を指先でなぞられた。坂田から不破へ通じる道は一つではなく、途中には村や市もある。商人たちがどこから来て、どこへ向かっているのかによっても、選ぶ道は違うだろう。俺が書状の地名を追っていると、父上はそのうちの一つを指し、以前から荷馬が通っている道だと教えてくださった。だが、その道で何か起きたという確かな知らせまでは届いていないらしい。

 

 美濃の西に位置する不破は、近江から東へ向かううえで重要な土地である。前世の知識から思い浮かぶ人物や出来事もあるが、今の美濃で何が起きているかを、それだけで判断するつもりはなかった。浅井が滅び、坂田の領主が六角へ替わったことで、周辺の国人たちも以前とは異なる考えを持つようになっているかもしれない。そもそも、俺の知る歴史と今の状況はすでに違っている。名前を知っているからといって、その人物が何を考えているのかまで分かるわけではなかった。

 

「もう少し詳しく調べてもよろしいでしょうか。まずは坂田から不破へ通じる道と、そこを使っている商人たちの様子を確かめたいと思います」

 

「構わぬ。だが、調べることと向こうの国人へ手を伸ばすことは別じゃぞ。美濃の様子を知ろうとして、余計な疑いを招くことは避けねばならん」

 

「承知しております。こちらから誰かへ働きかけるつもりはありません。商人から聞ける話を集め、道の様子を確かめるところから始めます」

 

 父上は頷かれた。今のところ、不破の国人たちへこちらから近づく理由はない。六角が坂田を得たことを快く思わない者がいるかもしれないし、反対に何らかの思惑から六角へ近づこうとする者が現れる可能性もある。だが、それを今から考えていても仕方がなかった。まずは相手がどのような立場にあり、誰と繋がっているのかを知らなければ、話を聞くことさえ難しいだろう。

 

「そういえば四郎。先日、兵を動かした時のことは覚えておろうな」

 

「もちろんです。何かございましたか?」

 

「いや、あの時にそなたが確かめておったことを思い出したのじゃ。兵を集めることが出来ても、道が悪くて荷駄が通れねば先へ進めぬ。坂田から美濃へ通じる道についても、商人の話だけでなく、実際にどの程度の荷を運べるのか見ておくとよい」

 

 俺は頷いた。以前の訓練では、兵が集まるまでの時間だけでなく、兵糧や荷駄の支度、集合してからの行軍についても確かめている。思っていた以上に家ごとの違いが大きく、兵だけなら通れる道でも、荷馬が続けば途中で詰まることがあった。今回は商人の往来を調べることが目的だが、道の広さや川の位置を確かめておけば、後々役に立つこともあるだろう。

 

「弥七には道の様子を見てもらおうと思います。宗兵衛には普段から付き合いのある商人へ話を聞いてもらい、篠には不破の国人たちについて調べてもらうつもりです」

 

「それぞれ役目を分けるのか」

 

「はい。同じ話を幾度も聞くだけでは仕方ありませんので。ただ、報告が重なることもあるでしょうから、誰から聞いた話なのかは分けて知らせるようにします」

 

「それでよかろう。後藤にも話を通しておけ。坂田の中で動く以上、現地を預かる者が何も知らぬというわけにはいくまい」

 

 俺は承知したと答え、書状を畳んだ。後藤は坂田の統治だけでも忙しいはずだから、調査のために余計な人手を求めるつもりはない。ただ、六角の者が領内を調べていることを知らず、現地の役人たちが不審に思うようなことは避けたかった。道についても、すぐに普請を始めるわけではない。必要になった時に何を改めるべきか判断出来るよう、今の状態を知っておけば十分だった。

 

 話が一段落したところで、父上は坂田の年貢や寺社との取り決めについても幾つか尋ねられた。俺が留守中に届いた帳面を読んだ範囲で答えると、父上は後藤たちからも同じ報告を受けていると仰った。新しく得た土地だけに確認することは多いが、今すぐ大きく手を入れなければならないところはないらしい。最後に父上は朽木から持ち帰った土産についても尋ねられ、小夜が用意してくれたものと聞くと、少し嬉しそうにされた。

 

「小夜も随分と気が利くようになったものじゃな。塩津では、そなたたちの世話を焼いておったのであろう?」

 

「はい。弥太郎と一緒になって、俺が休まずに仕事を始めないかと見張っておりました」

 

「ははは。それはよいことじゃ。小夜も嫁ぎ先で元気にしておるようだし、弥太郎も役目を果たしておるな」

 

「父上までそのようなことを仰るのですか」

 

 思わず言い返すと、父上は楽しそうに笑われた。俺としては、塩津では十分に休んでいたつもりなのだが、どうも周囲の者たちにはそう見えていなかったらしい。これ以上何か言えば、また余計な話が増えそうだったので、黙って茶を飲むことにした。父上はそんな俺を見てもう一度笑われた後、今日はこれでよいと仰った。坂田の帳面については明日以降に改めて確認することとなり、俺は書状を受け取って座敷を辞した。

 

 廊下へ出ると、先ほどまで曇っていた空から少し陽が差していた。庭では小姓が落葉を掃き集めており、その向こうでは薪を運ぶ者たちが忙しく動いている。歩いているうちに冷たい風が袖口から入り込み、俺は思わず襟元を合わせた。自室へ戻る途中で弥太郎へ使いを出し、篠を呼んでもらうことにした。奈津の件については父上と対馬守から話を聞き、今後の扱いを決めるための文を朽木へ送ることになっている。篠に改めて調べさせるつもりはないが、塩津での働きについては本人へ直接伝えておきたかった。

 

*

 

 篠が部屋へ来たのは、それからしばらくしてのことだった。俺が机の上に置いていた書付を片付けていると、廊下から取り次ぎの声が聞こえ、篠が静かに姿を現した。塩津から戻った後は別の用向きを片付けていたらしく、旅の疲れもすっかり抜けたように見える。俺の前へ進み出ると、いつものように姿勢を正して頭を下げた。

 

「右衛門督様。お呼びと伺いました」

 

「ああ。忙しいところ悪いな。塩津でのことについて、少し話しておきたかった」

 

 篠は一度頷き、勧めた場所へ腰を下ろした。奈津の件だと思ったのだろう。表情に大きな変化はなかったが、俺が話し始めるのを待っている。

 

「対馬守から返事が届いた。奈津へ命じていたのは小夜の近況を知らせることで、朽木の兵や船について調べさせるつもりはなかったそうだ。これから弥五郎とも相談することになるが、ひとまずこちらで確認出来たことは伝えておく」

 

「承知いたしました。奈津について、私の方で改めて確かめることはございますか?」

 

「いや、今のところはない。奈津は塩津にいるし、向こうでも様子を見てくれている。必要があれば改めて頼むが、こちらから調べを広げるつもりはない」

 

 篠は短く返事をした。自分から何かを申し出る様子もなく、こちらの話を静かに聞いている。塩津で奈津へ声を掛けた時も、恐らく同じような態度だったのだろう。篠自身がどこまで詳しく調べられたのかは分からないが、与えられた役目を越えようとしなかったことは確かだった。

 

「それと、今回の働きについては礼を言っておきたい。奈津の様子がおかしいと気付いた時、勝手に調べを広げず、先に俺へ知らせてくれたのは助かった。おかげで弥五郎とも直接話をすることが出来たからな」

 

「恐れ入ります。ただ、私が確かめられたのは奈津の話までにございます。実際に何を見聞きしていたのか、全てを知ることが出来たわけではございませぬ」

 

「それでいい。あの場で奈津の持ち物まで調べたり、朽木の者へ話を聞き回ったりしていたら、余計に面倒なことになっていたかもしれない。そのほうがどこまでを自分の役目と考えていたのか、それを確かめたかったんだ」

 

篠は少し意外そうに俺を見たが、やがて小さく頷いた。

 

「右衛門督様から命じられたのは、道中の様子を確かめ、御身の安全に気を配ることにございました。奈津の行動は気に掛かりましたが、朽木の領内で勝手に調べを進めれば、かえって御迷惑をお掛けすることになります。まず御報告するのがよいと考えました」

 

「その判断で間違っていなかったと思う。父上も、よく働いた者にはきちんと伝えてやれと仰っていた。だから、改めて礼を言っておきたかったんだ」

 

「ありがたき御言葉にございます」

 

 篠はそう言って頭を下げた。普段からあまり表情を変えない女だが、顔を上げた時には僅かに口元が和らいでいた。俺としては、それだけでも直接話した甲斐があったと思う。

 

 ただ、今日のうちに篠へ伝えておきたいことがもう一つあった。先ほど父上から聞いた、美濃へ通じる道についての話である。俺は机の端に置いてあった書状を取り、篠の前へ差し出した。

 

「それから、近いうちに別の仕事を頼みたい。不破の国人たちについて、少し調べてほしいんだ」

 

「不破でございますか」

 

「ああ。坂田から美濃へ通じる道で、商人たちの動きが少し変わっているらしい。ただ、何が原因なのかは分かっていない。弥七と宗兵衛にもそれぞれ確かめてもらうつもりだが、篠には不破の国人同士の関係について調べてほしい」

 

 篠は地名を確かめながら話を聞き、途中で幾つか質問をした。調べる範囲や、どの程度のことまで知る必要があるのかといったものだった。俺は今のところ国人たちへ直接接触する必要はなく、所領や縁組、家同士の付き合いについて分かる範囲で確かめてほしいと伝えた。噂があれば知らせてもらいたいが、確かなことと分けて報告してくれればよい。

 

「承知いたしました。まずは、これまでに知られている国人たちの所領や縁組から確かめ、その後に最近の動きを調べることにいたします」

 

「それで頼む。分からないことがあれば、無理に調べを進めなくてもいい。誰から聞いた話なのかを分けて知らせてくれれば十分だ」

 

 篠は頷いた後、書状をもう一度確かめた。塩津でのことがあったため、俺も今回の命については普段より少し詳しく説明していたが、それを篠が気にしている様子はなかった。必要なことを聞き終えると、静かに頭を下げて退出していく。俺はその背中を見送り、机に残った書状を取り上げた。不破について分からないことは多いが、篠が調べ始めれば、今よりは事情が見えてくるだろう。

 

*

 

 夕刻になると、弥太郎が留守中の書付をまとめて持ってきた。坂田から届いた帳面や、領内の普請に関する報告、父上の判断を待っている案件などが、用向きごとに分けられている。俺が出掛けていた間も仕事が滞らなかったのは、後藤たちだけでなく、弥太郎や小姓たちがこうして書付を整理してくれていたからだろう。

 

 俺は礼を言って帳面を受け取ったが、弥太郎は机へ置くなり、すぐにその一部を文箱へ戻してしまった。

 

「若様。こちらは明日以降で構いませぬ。御屋形様からも、今日はお休みになるよう仰せつかっております」

 

「分かっている。少し中を確かめようと思っただけだ」

 

「その少しが、いつも長くなるのでございます」

 

「そなたは塩津へ行ってから、ますます小夜に似てきたな」

 

「小夜が私に似たのでございましょう。何しろ、兄は私なのですから」

 

 平然と答えられ、俺は思わず笑ってしまった。確かに兄が弥太郎で妹が小夜なのだから、言っていることは間違っていない。もっとも、二人が揃って俺へ休めと言い始めるところなどは、どちらが似たのか分からない気もする。

 

「それで、明日見るものだけは分けておいてくれたか?」

 

「はい。坂田の帳面と、美濃へ通じる道についての報告はこちらにございます。それ以外は急ぎのものではありませんので、後からでもよろしいかと」

 

「ああ、それでいい。美濃の件は弥七と宗兵衛にも話を通しておきたい。後藤には、坂田で調べを進めることを知らせておいてくれ」

 

「承知いたしました。ただし、今夜は書状を増やさないでいただきとうございます」

 

「……まだ何も書いていないだろう」

 

「だからこそ、先に申し上げているのでございます」

 

 弥太郎はそう言って文箱の蓋を閉じた。そこまで言われてしまえば、今から書付へ手を伸ばすのも気が引ける。俺は仕方なく筆を置き、運ばれてきた茶を飲むことにした。

 

 障子の向こうでは、夕暮れが近づくにつれて庭の影が長くなっていた。落葉を掃き集めていた者たちも仕事を終えたらしく、廊下を行き交う足音が次第に少なくなる。代わりに、台所の方から夕餉の支度をする音が聞こえてきた。火鉢には新しい炭が足されており、部屋の中も随分と暖かくなっている。

 

 次に弥五郎たちと顔を合わせるのは、年が明けてからになるだろう。塩津を発つ時にも、新年の挨拶の折にはまた会おうと約束している。小夜も観音寺へ戻ることを楽しみにしていたようだし、弥太郎や加賀守たちにとっても嬉しい正月になりそうだった。

 

「若様、どうかなさいましたか?」

 

 弥太郎に声を掛けられ、俺は顔を上げた。どうやら、しばらく茶碗を手にしたまま考え事をしていたらしい。

 

「いや、年が明ければ弥五郎と小夜が来るだろうと思ってな」

 

「そうでございますな。小夜も久しぶりの観音寺ですから、きっと楽しみにしていることでしょう」

 

「そなたも楽しみなんだろう?」

 

「もちろんでございます。妹が元気に暮らしていると聞くのは嬉しゅうございますが、やはり顔を見て話せるのが一番ですからな」

 

 弥太郎はそう答えて、少し照れたように笑った。普段は何かと俺をからかってくる男だが、妹のことになると素直なところもあるらしい。俺も頷き、茶碗を置いた。

 

 その夜は、夕餉を済ませると早めに休むことにした。父上からも弥太郎からも休むよう言われていたし、明日になればまた仕事が待っている。美濃や不破のことは気に掛かるが、篠たちに命じた調査がすぐに終わるわけでもない。今はそれぞれの返事を待つしかなかった。

 

 寝所へ入る頃には、外の風も幾分弱まっていた。灯明を消す前、机の脇へ積まれた書付が少し気になったものの、今夜は手を伸ばさないことにした。塩津で散々休むよう言われたことを思い出し、誰も見ていないところで苦笑する。横になると、馬旅の疲れがまだ少し残っていたのか、思いのほか早く眠気が訪れた。庭の方から乾いた葉が風に転がる音が聞こえていたが、それもいつしか遠くなり、俺はそのまま眠りに落ちた。

一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?

  • このまま
  • 5000文字前後
  • 15000文字前後
  • 1~5000文字
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。