翌朝、坂田から届いた帳面を広げると、最初に目に留まったのは年貢の数字ではなく、村ごとに添えられた細かな注記だった。浅井の頃の取り決めを当面残す村、年貢米の納入先を改めて確かめたい村、寺社領との境を巡って申し出のある村。同じ坂田郡でも事情はそれぞれ異なり、帳面の端には現地の役人が聞き取った話まで小さな文字で書き込まれている。中には余白が足りず、別の紙を継ぎ足したものまであった。昨夜、弥太郎から明日に回すよう言われた帳面の一つだったが、こうして開いてみれば、目を通すだけでも思いのほか時間が掛かりそうだった。
坂田を受け取ってから数か月が過ぎ、城や村の引き渡しそのものは終わっている。六角から遣わした者たちも現地で仕事を始めていたが、領主が替わったからといって、村々の暮らしまで一度に変わるわけではない。以前の約束がそのまま通るのか確かめたい者もいれば、この機会に古い負担を改めてほしいと願い出る者もいる。双方の申し出を並べれば、同じ取り決めについて正反対のことを望んでいる場合さえあった。どちらにもそれなりの事情があるのだろうが、観音寺で帳面を読むだけでは分からないことも多い。今のところ大きな混乱が起きていないのは、後藤但馬守たちが現地の話を聞き、結論を急がずに進めてくれているからだろう。
その中で俺の目が止まったのは、年貢米の納入先についての訴えだった。これまでは近くの城へ運んでいた米を、六角の役人が別の蔵へ集めるよう命じたという。ところが、新しく指定された蔵へ向かう道は雨が降るとぬかるみ、荷車を通すには難儀するらしい。米を一か所へ集めれば、役人にとっては数を確かめるのも保管するのも楽になる。しかし村の側から見れば、それまでより遠くへ運ばなければならず、道の状態によっては人足を増やす必要も生じる。納める米の量が変わらなくとも、運ぶための手間まで同じとは限らなかった。
俺は地図を引き寄せ、申し出のあった村と新しい蔵の位置を確かめた。紙の上ではさほど離れていないものの、途中で川を迂回し、小さな坂を越える道筋になっている。渡し場の印もあったが、荷車をそのまま渡せるのか、荷を下ろして運び直さなければならないのかまでは分からない。仮に荷馬なら通れる道であっても、米俵を積んだ荷車が同じように進めるとは限らなかった。現地の役人がその事情を承知した上で納入先を決めているのならよいが、帳面の記載だけでは判断が付かない。
「この村の道について、別に報告は来ているか?」
脇で書状を整理していた小姓が文箱を探し、ほどなく一枚の紙を差し出した。村からの申し出と、それに対する役人の返答は記されているものの、肝心の道の状態については何も書かれていない。俺はその書付を帳面へ挟み、後藤へ確認したいことを余白に書き加えた。こちらで納入先を元へ戻すと決めてしまえば、今度は別の村が遠くまで米を運ぶことになるかもしれない。蔵をまとめること自体にも理由はあるはずだ。まずは現地で事情を確かめ、その結果を聞いてから考えればよいだろう。
他の帳面にも似たような話があった。市へ荷を運ぶ道の手入れを誰が引き受けるのか、寺社へ納める米と領主へ納める米を何処で分けるのか。中には以前から続けてきた取り決めを確認したいというだけの申し出もあり、必ずしも問題が起きているわけではなかった。坂田を得て年貢が増えたと喜ぶのは簡単だが、集めるにも運ぶにも人の手が要る。書き付けられた数字だけでは、そうした手間まではなかなか見えてこない。幾つかの箇所へ印を付け終えたところで、弥太郎が朝の用向きを済ませて戻ってきた。
「若様。後藤様がお越しになるのは昼前と伺っておりますが、それまでに全部お読みになるおつもりですか?」
「全部ではない。気になるところだけだ。この村など、蔵を替えたせいで米を運ぶのが大変になったらしい」
弥太郎は地図を覗き込み、帳面の記載と見比べた。村から蔵までの道を目で追い、川の位置を確かめると、何か納得したように頷く。それから俺の手元に積んであった読み終えた帳面を取り上げ、空いた文箱へ一冊ずつ収めていった。
「なるほど。ですが、実際の道を見ておらぬ以上、若様にも決めようがございませぬな」
「だから後藤に聞く。こちらで勝手に決めてしまっては、現地の者が困るだろう」
「それなら安心いたしました。また御自身で確かめに行くなどと仰り出すかと思いましたので」
「そなたは随分と信用しておらぬな」
「少し目を離すと、新しい御仕事を見付けておられる御方ですから。これまでのことを考えれば、心配するのも仕方ございません」
悪びれもせず答えるあたり、相変わらずである。塩津でも小夜と揃って休め休めと言っていたことを思い出し、反論しかけたがやめておいた。弥太郎には、こちらが何を言っても別の返しが用意されているらしい。もっとも、以前ならここで自分の目で道を見ておきたいと考え、そのまま坂田へ向かう支度を始めていたかもしれない。今は現地を預かる後藤がいるのだから、まず本人の説明を聞けばよい。そう考えて帳面へ目を戻すと、弥太郎は満足そうに茶を替え、次の書付を手の届くところへ置いてくれた。
昼前、後藤但馬守が坂田の報告に訪れた。
父上を交えた評定ではなく、すでに決まっている方針に従って進めている仕事の確認である。後藤は持参した帳面を広げ、村々からの申し出を、現地で処置できるものと観音寺で裁可を仰ぐものに分けて説明した。年貢の収納に関わるものから寺社領との境を巡る争いまで、扱っている話は多岐にわたるが、今のところ急いで方針を改める必要があるようなものはないらしい。
俺が朝から気に掛けていた年貢米の納入先についても、すでに道が悪いとの申し出を受け、別の経路が使えるか現地の役人に確かめさせているという。村へ新しい蔵を指定した理由についても、後藤は承知していた。幾つかの村から集まる米を一か所で管理する方が都合はよいものの、そのために運ぶ側の負担が増えるのであれば、改めて考える必要があると判断したらしい。
「それなら、こちらから何か申し上げる必要はなさそうですね。今朝、帳面を読んで気になっていたところでした」
「はい。村の者からも話を聞いております。蔵を一つにまとめれば都合のよいこともございますが、運ぶ者の難儀を増やしては長続きいたしませぬ。道を確かめてから決めるつもりにございます」
「お願いします。村によって事情も違うでしょうし、無理に揃える必要はありません」
後藤は頷き、別の帳面を開いた。
今度は寺社の所領についてだった。以前からの権利をそのまま認めるか、改めて確かめ直すかで、村と寺社の言い分が分かれるところがあるという。中には双方が古い書付を持ち出し、どちらも自分たちの主張が正しいと訴える例もあった。古い書付が残っていること自体はありがたいが、それが現在も有効な取り決めなのかどうかまでは、紙があるだけでは判断できない。後藤は書付がいつ出されたものなのかを調べるとともに、近隣の者からも以前の扱いを聞いているらしかった。
「但馬守は、どちらの言い分が正しいと見ているのですか?」
「今はまだ決めかねております。古い書付が残っていても、その後に取り決めを改めたことがあるやもしれませぬ。申す者によって記憶も違いますからな」
「急ぐ必要がないなら、確かめてからで構いません。父上の判断が必要な時は、そのまま知らせてください」
「承知いたしました。拙速に決めては、後々まで遺恨を残しかねませぬので」
後藤はさらに、寺社の側へ事情を尋ねる際には、村の者からも同じ出来事について話を聞くよう心掛けていると説明した。双方から別々に聞けば、同じ取り決めについてまるで違う説明が返ってくることもあるらしい。かといって、最初から互いを疑っている者たちを同じ座敷へ集めれば、それだけで口論になりかねない。まずはそれぞれの書付と証言を揃え、食い違っているところを明らかにする。その上で必要な者を同席させ、改めて確かめるようにしているという。
話を聞くだけでも、随分と手間の掛かる仕事だった。俺が観音寺で帳面を読んで疑問に思うことの多くは、すでに現地で確かめられているか、調べが進められている。頼もしい反面、朝から帳面を睨んでいた自分が少し間抜けにも思えた。しかし、後藤は俺の気に掛けた箇所を一つずつ聞き取り、何故そのように処置しているのかを丁寧に説明してくれた。仕事を任せるからといって、何も知らずにいてよいわけではない。後藤がどのような理由で判断を下しているのかを知っておくことは、今後のためにも無駄ではないだろう。
後藤が調べの済んだ箇所へ印を付け終えたところで、俺は坂田の地図を広げた。
琵琶湖に面した村々から内陸へ入る道が描かれ、その東には美濃へ通じる街道が延びている。昨日父上から聞いた商人たちの話を持ち出すと、後藤はすでに承知していると頷いた。坂田の市へ来る者の中にも、以前より道中の扱いを気にしている商人がいるという。
「美濃へ向かう者の中には、以前と違う道を選ぶ者もおります。通れなくなったわけではございませぬが、荷を改められたり、余計な銭を求められたりするのを嫌っているようです」
「実際に銭を取られた者がいるのですか?」
「そのような話は聞きますが、誰が何処で求めたのかまでは確かめられておりませぬ。一色家からの命なのか、国人が勝手に始めたことなのか、それも分からぬままにございます」
後藤はそう答え、地図の東側へ視線を移した。
道を変える理由は一つとは限らない。市の賑わいや取引相手の都合で行き先が変わることもあるし、危ういと噂されるだけで荷主が別の経路を望むこともある。そもそも、以前から同じ道を使っていなかった商人まで含めてしまえば、実際にどれほど変化が生じているのかさえ分からなくなる。現地で仕事をしている後藤にとっても、確かなことと噂を分けなければならないのは同じだった。
ただ、坂田の役人たちが美濃の噂を追い始めれば、本来の仕事へ差し障る。今は年貢の収納や村々の取り決めについて確認を進めているところであり、隣国の情勢まで詳しく調べさせるのは負担が大きいだろう。俺は昨日父上と相談し、不破については別に調べを進めることになったと伝えた。
「但馬守には、坂田のことを優先してもらいたい。商人から普段の付き合いの中で聞こえてくる話があれば知らせてください。こちらから調べのために人を使ってもらうつもりはありません」
「それならば助かります。道のことで確かめておきたいところは、こちらからも申し上げましょう。年貢米を運ぶ者にも関わりますからな」
後藤が指し示した道の中には、俺が今朝眺めていた村の近くを通るものもあった。荷車が通る道と、馬に荷を負わせて通る道は必ずしも同じではないらしい。川の渡り方や途中の坂によっては、少し遠回りでも荷車を通しやすい経路を選ぶことがあるという。村で米を集める仕事と、美濃へ荷を運ぶ商人の話が思いがけないところで繋がり、俺は地図へ小さく印を加えた。弥七から道について報告が届いた時には、この辺りも確かめてもらえばよいだろう。
後藤はその印を確認すると、帳面を閉じて立ち上がった。午後にも用向きがあり、父上へ報告しなければならないことが残っているという。昼餉の時刻はとうに過ぎていたが、後藤は特に気にする様子もなく、書付を近習へ預けて座敷を辞していった。
俺も見送りのため廊下へ出たが、後藤は礼を交わすとすぐに歩みを進め、ほどなく角を曲がって見えなくなった。坂田から来たばかりだというのに、まだ幾つも仕事が残っているらしい。
忙しい方だと呟くと、傍にいた小姓が苦笑した。
俺が戻る前から、後藤は現地で幾つもの仕事を進めてくれていた。その上、観音寺へ来れば父上や俺へ報告し、必要な判断を仰がなければならない。俺が自分で何もかも確かめる必要はなくなったが、その分、後藤たちに掛かる負担まで軽くなったわけではないのだろう。
もっとも、だからといって俺が仕事を取り戻せばよいというものでもない。現地を預かる者が判断できることは任せ、必要な時にこちらが答える。そのためにも、後藤からの報告をきちんと受け取っておくことが大切なのだと思った。
部屋へ戻ると、弥太郎が新しい茶を運ばせていた。
朝から広げていた帳面の大半は、すでに文箱へ片付けられている。俺が礼を言うと、弥太郎は少し得意そうに胸を張った。
「若様の気に掛けておられたことは、片付きましたか?」
「ああ。後藤がすでに調べさせていた。こちらからあれこれ口を出す必要はなさそうだ」
「それは何より。では、午後はお休みになれますな」
「いや、美濃の地図を見ておきたいのだが」
「……やはり、そう仰ると思っておりました」
弥太郎の呆れ顔に笑いながら、俺は文箱から地図を二枚取り出した。
坂田の村々を描いたものと、美濃の西側を描いたものを机へ並べる。描いた者が違うため川の曲がり方や道の位置には多少のずれがあったが、目印となる村や峠を確かめれば、近江から不破へ続く道筋はおおよそ繋がった。
以前は近江の外側にある土地として見ていた不破も、今では六角の領地から直接向き合う場所になっている。境を接するようになったからといって、すぐに兵を進めるつもりはないが、人や荷の往来がある以上、その先の事情を知らずにいるわけにもいかない。
父上からも、商人の動きだけでなく、実際にどの程度の荷を通せる道なのか確かめておくよう言われている。地図を眺めながら後藤の示した場所へ印を付けていくと、これまで別々に聞いていた道の話が、少しずつ繋がって見えてきた。
不破には前世から知っている名前もある。
竹中半兵衛などはその一人だったが、今の美濃でどのような立場にあるのか、俺はまだ十分に知らなかった。読んだことのある歴史と、目の前の情勢が同じように進むとも限らない。まして坂田の領主が替わった今、国人たちが六角をどう見ているのかについては、実際に話を集めてみなければ分からなかった。
弥太郎は俺の隣から地図を覗き込んでいたが、やがて何も言わずに茶碗を取り替え、午後の用向きを記した紙を机の端へ置いた。
今すぐ返事を出さなければならない書状はなく、日が暮れる前に確かめればよいものばかりだった。どうやら地図を見る時間くらいは許してくれるらしい。もっとも、時折こちらへ向けられる視線からすると、長く続ければすぐに声を掛けられそうだった。
机の端には、昨日篠へ伝えた調べの控えがある。
弥七には道筋と渡し場、宗兵衛には商人の往来、篠には不破の国人たちの所領や縁組について、それぞれ引き続き確かめてもらうつもりだった。三人とも別の仕事を抱えているのだから、返事を急かす必要はない。
俺は後藤から聞いた道の話だけを控えに加え、元の文箱へ収めた。
そこへ近習がやって来て、篠が書付を持参したと告げた。
以前から集められていた不破の情報を整理したものらしい。昨日、新しい調べを頼んだばかりなのだから、その結果がもう届いたわけではないだろう。
俺が部屋へ通すよう命じると、ほどなく篠が薄い文箱を抱えて姿を現した。
「右衛門督様。先日仰せつかった不破の件にございます。新たに人を遣わす前に、これまで届いた知らせをまとめてまいりました」
「ああ、助かる。まずは今分かっているところから聞かせてくれ」
篠は頷き、書付を机の上へ丁寧に並べた。
最初の一枚には不破の国人たちの名と所領が記され、余白には家同士の縁組や以前からの付き合いについて短い注記が添えられている。
俺は坂田の地図を少し脇へ寄せ、篠の説明に耳を傾けた。
篠の書付には、それぞれの話をいつ、何処から得たのかまで添えられていた。いずれも六角が以前から集めていた知らせを整理したもので、今回新しく判明したことではないという。それでも、別々の書付に記されていた情報を一つにまとめてみると、これまで見落としていた家同士の繋がりも見えてきた。
不破の国人たちは、それぞれに所領を持ちながら美濃の一色家へ従っている。しかし、家々の関係は決して単純ではなかった。婚姻によって縁を結んでいる家もあれば、昔から土地を巡って争ってきた家もある。近隣の国人同士で結び付きが強くとも、当主の代替わりや所領の移り変わりによって関係が変わることもあるだろう。篠の書付にはそうした事情が簡潔に記されていたが、今の当主たちが互いをどのように見ているのかまでは、まだ分からなかった。
「竹中氏についても、幾つか知らせがあるのだな」
「はい。ただ、所領や縁組については以前から知られていることが多く、近頃の様子についてはまだ確かな話を得ておりませぬ」
篠は書付の一か所を指し、竹中氏と周辺の国人との関係について説明した。
俺も竹中という家の名くらいは知っていたが、今の美濃でどのような立場にあるのかを十分に把握しているわけではない。前世の知識からは竹中半兵衛の名が真っ先に浮かぶものの、それだけで他の国人より重く扱う理由にはならなかった。そもそも本人が今どのような役目を担い、家中で何を任されているのかさえ分かっていない。今はまず、竹中氏も含めた不破の家々がどのような関係にあるのかを知っておけばよいだろう。
篠が次に示したのは、一色家との折り合いについての書付だった。
以前から不満を抱いていると噂される家が幾つかあるらしい。ただし、何に不満を持っているのかについては話が一致していない。家中の人事に関わるものもあれば、所領を巡る争いが原因だというものもある。中には一色家からの命へ従わなかったという話まであったが、実際に命を拒んだのか、単に使者が到着するまで時間が掛かっただけなのかも確かめられていなかった。
「この辺りは、まだ噂の域を出ないわけか」
「左様にございます。以前から同じような話は聞こえておりますが、誰が最初に申したことなのか、分からぬものも少なくございませぬ。商人の間で繰り返されるうちに、少しずつ内容が変わっているものもありましょう」
「ならば、今は確かなことと分けておけばよい。ところで、最近になって実際に兵を動かした家はあるのか?」
「今のところ、そのような知らせは得ておりませぬ。国人同士の争いが近いうちに起きると申す者もおりますが、裏付けになる話はございません」
俺は頷き、書付を一枚めくった。
そこには不破を通る商人たちの間で、道中の扱いが厳しくなったという噂も記されていた。だが、先ほど後藤から聞いた話と同じように、何処で何が変わったのかは曖昧だった。
篠によれば、ある市で聞いた話が別の市へ伝わり、それを坂田へ来た商人が話したというものもあるらしい。何人もの口を経ている以上、最初の話と同じ内容とは限らない。別々の者から同じ噂を聞いたとしても、元を辿れば一人の商人が話したことだったという場合もあるだろう。
それを考えれば、今ある情報だけで不破の国人たちに何か起きていると判断するのは早い。家中に不満を抱えている者がいるという話と、商人が道を変えているという話は、どちらも以前から耳にしている。しかし、その二つを繋ぐものはまだ見付かっていなかった。
篠は今後、以前から付き合いのある者を通じて、不破の国人たちの近況を確かめたいと話した。
ただし、すぐに美濃へ人を入れるのではなく、まずは近江へ来る商人や寺社に関わる者から聞こえてくる話を整理したいという。こちらが不破へ関心を持っていると知られれば、相手も六角の意向を探ろうとするかもしれない。その点は昨日も話した通り、こちらから余計な約束をせず、何か持ち掛けられた時には一度知らせることになっていた。
「分かった。その方針で続けてくれ。急いで答えを出す必要はないし、向こうから話があった時も、まずは誰の考えなのかを確かめたい」
「承知いたしました。新しい知らせが入りましたら、改めて御報告いたします」
篠は書付をまとめ、静かに頭を下げた。
俺は持参したものを預かり、調べの続きを頼んで下がらせた。部屋を出る際、篠は机の上に広げた地図へもう一度目を向けたが、それ以上何かを尋ねることはなかった。
俺も地図を畳み、書付と一緒に文箱へ収める。
今の段階では、不破の家々について、これまで別々に集めていた情報が整理されたに過ぎない。それでも、何処の家と何処の家が縁を結び、どの土地を治めているのかが分かれば、これから届く報告を確かめる際にも役立つだろう。
新しい知らせが届いた時、以前からの事情と照らし合わせることができる。そのための下地が整ったと思えば、篠がわざわざ書付をまとめてきてくれた意味は十分にあった。
*
それから数日、観音寺城では普段通りの仕事が続いた。
朝になれば各所から届いた書状が仕分けられ、家臣たちが父上へ領内の様子を報告する。坂田からは年貢の収納について新しい帳面が届き、目賀田次郎左衛門尉たちからも蔵や市の扱いについて幾つか確認を求められた。
俺も必要なところへ目を通し、判断を要するものは父上へ相談したが、大半は現地の役人たちが以前からの方針に沿って処置を進めていた。塩津へ出掛ける前と大きく変わったところはなく、日々届く報告から必要なものを確かめていけばよかった。
兵の訓練についても、各家から報告が揃いつつある。
兵が集まるまでに掛かった時間や、荷駄の支度に手間取ったところなどがまとめられ、中には次の訓練ではこうした方がよいという意見も添えられていた。
家ごとに事情が違うのは以前から分かっていたが、こうして報告を並べてみると、同じ命を出していても準備の進み方にはかなりの差があるらしい。もっとも、それらを今すぐ全て揃える必要があるとも思わなかった。俺は内容ごとに書付を分け、急いで改める必要のないものについては、後日まとめて話し合うことにした。
冬を迎えようとしている今、何もかも一度に進めれば、家中の負担も大きくなる。坂田では年貢米の収納が続いており、領内の村々でも冬支度を進めなければならない。新しい取り組みを始めるにしても、それぞれが今何を抱えているのかを考えずに命じるわけにはいかなかった。
その間にも城内では年末へ向けた支度が始まり、台所や蔵の周りでは人の出入りが増えていた。
ある日の午後、書付を届けに来た弥太郎から、次郎が馬場でまた年長の者へ手合わせを申し込んでいたと聞かされた。以前から武芸の稽古には熱心だったが、近頃は槍の扱いにも力を入れているらしい。
俺が稽古相手の名を尋ねると、弥太郎は笑いながら、兄上にも一度見てもらいたいと次郎が申していたことを教えてくれた。
「それなら、今度少し見に行くか。以前から次は見てほしいと言っていたしな」
「喜ばれるでしょうな。ただ、若様へも手合わせを申し込まれるかもしれませぬぞ」
「見に行くと言っただけだ。どうしてこちらまで槍を持つことになるのだ」
「次郎様のことでございますからな。兄上がいらっしゃれば、御自分の上達したところをお見せしたくなるのでしょう」
それは十分にありそうだった。
次郎は何かと俺へ張り合おうとするところがある。以前、弓の勝負で一矢差の負けを喫した時も、次こそは勝つと随分悔しがっていた。今度は槍を手に、その時の借りを返したいと考えていても不思議ではない。
もっとも、武芸については弟の方が熱心であり、俺もわざわざ勝負を受けてやるつもりはなかった。稽古の様子を見に行くことと、自分まで槍を持つことは別の話だろう。
そう伝えると、弥太郎はどこか残念そうな顔をした。
どうやら次郎と同じく、俺が槍を持つところを見たいらしい。だが、そんな期待に応えなければならない理由もないので、それ以上は何も言わずに書付へ目を戻した。
十一月も終わりに近付いた頃、弥七と宗兵衛から最初の報告が届いた。
弥七がまとめたのは、坂田から不破へ通じる道筋についてだった。商人や荷運びの者から聞いた話をもとに、川の渡し場や荷を休ませる村、途中で道幅が変わる場所などが記されている。
まだ全ての道を確かめたわけではないが、普段は通れても雨が続けば使いにくくなる場所や、荷車を通すには遠回りしなければならないところが幾つか挙げられていた。以前に坂田へ赴いた際、俺自身が見た道についても、季節や荷の重さによって通りやすさが変わるらしい。
一方、宗兵衛の報告には、坂田の市へ来る商人たちから聞いた話がまとめられていた。
美濃から運ばれてくる品には大きな違いがないものの、道中の通行を気にする者は以前より増えているという。ただし、誰もが同じ道を避けているわけではなかった。ある商人は余計な銭を求められたと話し、別の商人は何も変わっていないと言っている。
何処から来て、どの道を通ったかによっても事情は異なるため、不破全体で通行が難しくなっているとは言えそうになかった。
俺は二人の書付を並べ、地図へ幾つか印を付けた。
渡し場や荷を休ませる村の位置を確かめると、商人たちの話が集まりやすい場所も見えてくる。往来の多いところには、それだけ多くの者が立ち寄るのだろう。
ただ、同じ噂を何人もの商人が口にしたからといって、それが別々の出来事を示しているとは限らない。宗兵衛もその点は承知しているらしく、実際に見聞きした者の話と、別の商人から伝え聞いた話を分けて記していた。
弥七の報告で特に気になったのは、地図では近道に見えるのに、荷を運ぶ者があまり使わない道があったことだった。
途中の坂が急で、雨の後には足元が悪くなるらしい。人が歩くだけならさほど難しくなくとも、米俵を積んだ荷車や、荷馬を連ねて通るには向かないという。
坂田の年貢について読んだ帳面でも似た問題があっただけに、俺はその道へ小さく印を加え、後藤にも知らせておくことにした。
商人が使う道と、村から年貢米を運び出す道は、必ずしも別々に考える必要はない。同じ渡し場を使い、同じ坂を越えるのであれば、一方で問題になったことがもう一方にも関わるだろう。
ただし、それを理由にすぐ普請を始めるつもりはなかった。まずは後藤たちに現地の事情を確かめてもらい、何処にどの程度の不便があるのかを知っておけばよい。
報告を読み終えると、俺は三人から届いた書付を一つにまとめ、父上へ見せることにした。
調査を進めることについてはすでに許しを得ているが、不破の国人について篠が整理した情報も含め、今どこまで分かっているのかを一度伝えておきたかった。
弥太郎へ父上の都合を確かめてもらうと、翌日の夕刻なら時間を取れるとの返事があった。
*
翌日の夕刻、父上の私室を訪ねると、火鉢には新しい炭が足され、部屋の中は暖かくなっていた。
机の上には読み終えた書状が幾つか重ねられていたが、俺が持参した地図を広げられるだけの場所は空けてくださっている。父上は俺を迎えると、まず道筋についての書付へ目を通された。弥七が確かめた渡し場や荷を休ませる場所には、父上も以前から御存じのところがあるらしく、時折地図の上で位置を確かめておられた。
「随分と細かく調べたな、四郎。これは坂田の者にも役立つであろう」
「はい。米を運ぶ道については、後藤からも幾つか話を聞きました。美濃へ向かう商人のためだけでなく、坂田の年貢を集める際にも使えると思います」
「うむ。道を整えるにしても、まずは何処が使いにくいのか知らねばならんからな。もっとも、今すぐ普請を始める話ではあるまい」
「ええ。まずは現地の役人へ知らせておくつもりです。実際に改める必要があるところについては、後藤からも話が来るでしょう」
父上は頷くと、今度は宗兵衛の報告へ目を移された。
商人たちが以前とは違う道を選び始めていることは、父上も聞いておられる。しかし、何が起きているのかは依然としてはっきりしない。父上は話を聞いた相手によって内容が異なることを確かめ、通行そのものが禁じられているわけではないのだなと念を押された。
「今のところ、そのような話はございません。荷を改められたり、余計な銭を求められたりしたという話はありますが、誰が命じたことなのかまでは分かっておりません」
「ならば、まだ様子を見るべきじゃな。一色家が命じたことなのか、国人が勝手に始めたことなのか。それによって話は随分と違ってくる」
俺が頷くと、父上は篠の書付を手に取られた。
不破の国人たちの名が並んだ紙を一通り眺め、幾つかの家について以前から知っていることを教えてくださる。所領の位置や家同士の縁組については、父上も承知しているところがあるようだった。
ただ、その中に気になる家があるからといって、すぐに何かを始めようとはされない。むしろ、それぞれの家がどのような関係にあるのかを確かめた後、書付を静かに机へ戻された。
「一色家との折り合いがよくない者もおるのだろうが、不満があるからといって六角へ近付くとは限らん。こちらが坂田を得たことで、かえって警戒しておる者もおろう。今は無理に話を進める必要はない」
「そのように考えております。篠には、向こうから何か持ち掛けられたとしても、その場で約束はせず、まず話を持ち帰るよう命じてあります」
「それでよい。ただし、誰が話を持ってきたかはよく確かめよ。家中の者が勝手に動いておるのか、当主の考えなのかによって、こちらの扱いも変わるからな」
父上はそう仰ると、茶碗を手に取られた。
俺も自分の茶を飲みながら、篠から同じようなことを尋ねられたのを思い出した。
相手から話を持ち掛けられた時、何を答えてよいのか。こちらから働き掛けるつもりがなくとも、向こうが六角へ関心を持つことはある。
その時、話を持ってきた者が本当に家を代表しているのか、それとも本人の考えだけで動いているのかは、確かめなければならない。家中の一人が口にしたことを、そのまま当主の意向として受け取れば、後で思わぬ行き違いを生むことになるだろう。
「ところで四郎。竹中氏の名もあるが、そなたはこの家が気になるのか?」
父上は篠の書付の一か所を指された。
俺が思わず顔を上げると、父上はその反応を面白そうに見ておられる。
確かに竹中半兵衛という名を前世から知っているだけに、多少気に掛けていたのは事実だった。しかし、今の段階で父上へ詳しく話せることなど何もない。本人がどのような立場にあり、家中で何を任されているのかについても、まだ十分な情報は得られていなかった。
「名前は以前から聞いておりましたので。ただ、今の家中でどのような立場にあるのかも、まだよく分かっておりません。他の国人と同じように調べてもらっています」
「そうか。ならば、それでよい。名を知っておることと、相手を知っておることは違うからな」
父上はそれ以上尋ねず、書付を俺へ返された。
俺も何か言い足すことはせず、受け取った紙を元の順番へ重ねた。
前世の知識があるからといって、今の半兵衛が何を考えているのかまで分かるわけではない。そもそも、まだ本人と会ったこともないのだ。
名前だけを知っているという理由で期待を膨らませれば、実際の姿を見る前から自分の中で勝手な人物像を作ることになる。それでは、せっかく集めた報告まで都合よく読んでしまいかねなかった。
最後に父上は、冬の間は坂田の統治を優先し、不破については今の調べを続けるよう仰った。
俺としても異存はない。
坂田ではまだ確認しなければならない取り決めが多く、現地の役人たちも年貢の収納や村々の仕事に追われている。美濃については商人や国人の動きに何か変化があれば知らせてもらい、それを確かめればよいだろう。
今すぐ兵を動かすような話ではないのだから、必要以上に人を使うこともなかった。
父上のもとを辞した後、俺は自室へ戻り、三人から届いた報告をそれぞれ文箱へ収めた。
弥七には道筋の確認を続けさせ、宗兵衛には商人の話を集めてもらう。篠には不破の国人たちについて、今ある情報の裏付けを取るよう伝えることにした。いずれも急がせる必要はなく、確かな話が得られたところから知らせてもらえば十分だろう。
必要な書状を整え、明朝届けるよう手配を済ませたところで外を見ると、日はすでに傾き、庭の木々が長い影を落としていた。
その時、廊下から夕餉の支度を知らせる声が聞こえ、弥太郎が部屋へ入ってきた。
机の上が片付いているのを見るなり、珍しいものでも見たように目を丸くする。
「若様。今日はもうお終いでございますか?」
「ああ。続きは明日でよい」
「それは結構なことでございます。塩津へ行かれた甲斐がありましたな」
「どういう意味だ。以前から、休む時はちゃんと休んでいるぞ」
「左様でございますか。小夜へも、そのようにお伝えしておきましょう」
弥太郎は澄ました顔で答えた。
俺が何か言い返そうとすると、先に文箱の蓋を閉じてしまう。こういうところは本当に昔から変わらない。少しでも隙を見付ければ、すぐにからかってくるのだ。
もっとも、こちらが言い返しても楽しそうに笑うだけなので、まともに相手をするのも馬鹿らしかった。
俺は机の端へ置いていた茶碗を取り上げ、残っていた茶を一口飲んだ。
塩津で過ごした数日間を思えば、弥太郎が以前より休むことへ口を出すようになったのも分からなくはない。小夜まで同じように言っていたのだから、兄妹の間で何か話したのかもしれなかった。
「年が明ければ、小夜も観音寺へ来るのだったな」
「はい。弥五郎様と御一緒に年賀へお越しになると伺っております。父上も母上も楽しみにしておられますから、今から待ち遠しゅうございます」
「そなたもだろう。塩津では、あれだけ小夜と話していたのに」
「妹とは何度会っても話すことがございます。それに、若様のお世話ばかりでは、兄としての務めも果たせませぬので」
「こちらの世話は関係ないだろう」
思わず笑うと、弥太郎も声を立てて笑った。
小夜が嫁いでから、こうして兄妹の話をする機会は以前より少なくなった。それでも弥太郎が妹のことを気に掛けているのは、塩津での様子を見ればよく分かる。
小夜も兄へ文を送ることを楽しみにしているらしいし、返事が遅いことについては今でも遠慮なく文句を言っているようだった。
正月に小夜が戻れば、また二人で昔の話をしているのだろう。
俺もその席へ加わるつもりではいるが、塩津で釣りの話を持ち出され、散々からかわれたことはまだ覚えている。あまり余計なことを話されないよう、今から少し用心しておいた方がよいかもしれなかった。
弥太郎に促されて立ち上がると、廊下には冷たい風が入り込んでいた。
庭では落葉を掃き集めていた者たちが仕事を終え、箒を抱えて奥へ戻っていく。冬が近付くにつれ、日が暮れるのも随分と早くなった。俺は文箱の蓋が閉まっているのを確かめ、灯明を一つ消してから部屋を出た。
先を歩いていた弥太郎が振り返り、夕餉には温かな汁物が出るそうだと教えてくれた。
昼餉を簡単に済ませていたことを思い出し、途端に腹が減ってくる。そういえば、後藤の報告を聞いてから地図や書付へ向かっていたせいで、昼からほとんど何も口にしていなかった。
俺が少し早足になると、弥太郎は何がおかしいのか、小さく笑いながら後をついてきた。
廊下の先からは、夕餉の支度をする者たちの声と、器の触れ合う音が聞こえてくる。俺は冷えた指先を袖の中へ引っ込め、明かりの灯る奥の間へ足を向けた。
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