翌朝、俺たちは観音寺城を下り、琵琶湖へ向かった。
空は昨日の夕暮れから予想した通りよく晴れていた。まだ日はそれほど高くないが、東から差し込む朝の光が山の木々を照らし、葉の隙間から伸びた光が道の上にまだらな模様を作っている。夜の間に冷えた空気も少しずつ温まり始めているものの、今のところ歩いていて暑いというほどではない。道端の草には朝露が残り、時折吹き抜けていく風には土と草の匂いが混じっていた。
俺の少し後ろを千代丸が歩き、その隣には猿夜叉丸がいる。小夜も当然のようについてきていた。昨日あれほど行きたがっていたのだから、朝から機嫌が良い。もっとも本人は釣りをするつもりはないらしく、魚が釣れるところを見たいのだという。さらにその後ろには父上から付けられた供の者たちが続いていた。俺たちだけならもう少し身軽に動けるのだろうが、猿夜叉丸と小夜まで一緒となれば仕方がない。父上からも遠くへ行くなと言われている以上、今日は大人しく言いつけを守るつもりだった。
山を下るにつれて、木々の間から見える景色が少しずつ広がっていく。やがて視界の先に朝日を反射する大きな湖面が現れた。琵琶湖だ。
何度見ても大きい。
前世でも琵琶湖そのものは知っていたし、釣り好きだったこともあって何度か足を運んだことがある。だが、今こうして山の上から眺める琵琶湖は、俺の記憶にあるものとはどこか違って見えた。湖そのものが違うわけではない。周囲の景色がまるで違うのだ。湖岸を走る舗装された道路もなければ、遠くからでも目立つ建物もない。視界を遮るものが少ないせいか、水面と空がそのまま繋がっているようにも見える。遠くには薄く霞んだ山々が重なり、その手前に広がる田畑では、朝から人が働いている姿が小さく見えた。
「若様」
「なんじゃ」
「今日は、どこまで行くのでございます?」
千代丸に聞かれ、俺は湖の方を見ながら答えた。
「もう少しじゃ。あまり遠くまで行けば父上に叱られるからな」
「若様がそれを気にされるとは珍しゅうございます」
「俺を何だと思っておる」
「一度釣りを始めたら、魚が釣れるまで帰らぬ方かと」
否定しようとして、口を閉じた。
前世では実際に何度かやったことがある。朝早くから竿を出し、昼になっても釣れず、ここまで来たのだから一匹くらい釣るまでは帰れないと意地になり、そのまま夕方まで粘った。だからといって最後まで釣れないこともあったのだから、今になって考えれば何をしていたのかと思わなくもない。
「今日は昼には戻る。父上と約束したからな」
「それなら安心にございます」
「どういう意味じゃ」
「そのままの意味にございます」
千代丸は何でもないことのように答えた。こいつはこの三年で本当に遠慮がなくなったと思う。最初に会った頃は俺の顔色を窺っていたはずなのに、今ではこうして平然と言い返してくる。
そのやり取りを聞いていた小夜が笑った。猿夜叉丸も口元を僅かに緩めている。昨日なら俺と目が合っただけで笑みを引っ込めていたが、今日はそのままだった。ほんの一日で何かが大きく変わったわけではない。それでも昨日初めて会った時よりは、少なくとも俺を必要以上に警戒しなくなっているように見える。
「猿夜叉丸は、どれほど釣るつもりじゃ?」
歩きながら何気なく尋ねてみると、猿夜叉丸は少し考えてから俺を見た。
「まだ分かりませぬ」
「随分と慎重じゃな」
「釣ったことがございませぬので、どれほど釣れるものなのかも分かりませぬ」
「……そうなのか?」
「はい」
少し意外だった。
猿夜叉丸が釣りをしたことがあるかどうかなど、昨日まで考えたこともなかった。浅井の嫡男なのだから、一度くらい経験があるような気がしていたのだ。しかし考えてみれば、猿夜叉丸は幼い頃から母親と共に六角のもとで暮らしている。俺と違って、好きな時に好きな場所へ遊びに行けるわけでもない。釣りをする機会がなかったとしても何も不思議ではなかった。
「ならば、着いたら教えてやる」
「よろしいのでございますか?」
「そのために一緒に行くのであろう。餌の付け方も分からぬままでは釣れぬぞ」
「ありがとうございます」
猿夜叉丸が頭を下げる。昨日ほど固い礼ではなかった。
横から千代丸が、自分にも教えてほしいと言ってきた。以前にも一緒に行ったことがあるだろうと返すと、餌の付け方がどうにも苦手なのだという。それは教わる以前の問題ではないかと思ったが、本人が妙に真剣なので、仕方なく見てやることにした。すると小夜まで自分にも教えてほしいと言い出したので、釣りをするのかと聞けば、やはり見るだけだという。ならば何を教えればいいのだと返すと、魚が釣れそうな時の見分け方を知りたいらしい。
そんな話をしながら歩いていると、道は次第に平らになり、湖面が近付いてきた。水の匂いを含んだ風が頬を撫で、どこからか鳥の鳴き声が聞こえる。湖岸近くでは葦が風に揺れ、その向こうで朝の光を受けた水面が細かく煌めいていた。
俺は供の者とも相談しながら、足場の良さそうな場所を探した。自分一人なら多少足場が悪くても構わないが、今日は小夜もいるし、猿夜叉丸は初めての釣りだ。水深が急に深くなるような場所も避けたい。何より父上から遠くへ行くな、供を付けろと言われたばかりなのだから、わざわざ危ない場所を選ぶ理由はない。
しばらく湖岸を歩いたところで、水辺まで比較的緩やかに下りられ、周囲も開けた場所を見つけた。供の者たちからも俺たち全員の姿が見える。ここなら問題ないだろう。
「ここにするか」
そう言って荷を下ろした。
持ってきた道具を広げると、猿夜叉丸と小夜がすぐ近くまで寄ってきた。千代丸は何度か見ているので珍しくもないらしく、自分の竿を先に手に取っている。
当然ながら、前世で使っていた道具とは比べものにならないほど単純だ。竿があり、糸があり、その先に針がある。リールなどないし、前世で釣具店へ行けば棚一面に並んでいたような仕掛けもない。それでも魚を釣るという目的だけなら、これで十分だ。
一本の竿を手に取り、軽く感触を確かめる。
懐かしいな。
釣りそのものは、この世界に生まれてからも何度かしている。それでも竿を持って湖を前にすると、時折、前世のことを思い出す。
あの頃は休日になると一人で釣りへ出掛けていた。
まだ外が暗いうちに起き、道具を車へ積み込む。途中で食べ物と飲み物を買い、釣り場へ着く頃にようやく空が明るくなり始める。釣れる日もあれば、まったく釣れない日もあった。隣に誰かがいることはほとんどなく、話し相手もいない。ただ水面を見ながら竿を振り、腹が減れば適当に食べ、飽きるか日が暮れれば帰る。それで十分だった。
一人でいることには慣れていた。
両親も兄弟も親戚もいなかった。施設を出てからは、自分のことは自分で決め、自分で生活してきた。教師になってからは同僚もいたし、生徒たちに囲まれて過ごしていたから、決して孤独だったわけではない。それでも仕事が終われば一人だった。家へ帰っても誰かが待っているわけではないし、休日にどこへ行こうと、何時に帰ろうと気にする者はいない。
それを寂しいと思ったことは、あまりなかった。
むしろ気楽だったのだと思う。
誰かに予定を合わせる必要もなく、釣れなければ好きなだけ粘れる。突然別の場所へ移りたくなれば移ればいい。腹が減ったら食べ、眠ければ帰る。全部、自分一人で決められた。
今は違う。
「若様、これはどうするのでございます?」
声に振り向くと、千代丸が仕掛けを手にしていた。
「……お前、それでは餌が落ちるぞ」
「やはり駄目でございますか」
「どう見ても駄目じゃ」
千代丸の手から仕掛けを受け取る。そのすぐ横では猿夜叉丸が興味深そうに俺の手元を見つめ、小夜も何をしているのか見ようと身体を寄せていた。少し離れたところには供の者たちがいて、こちらの様子を見守っている。
前世なら、ここには俺一人しかいなかった。
好きな時に始め、好きな時に帰った。
今は昼を過ぎる前に帰らなければ父上に叱られる。千代丸の仕掛けも直さなければならないし、初めてだという猿夜叉丸には一から教える必要がある。小夜まで横から何か聞いてくるだろう。
面倒と言えば、面倒なのかもしれない。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
「猿夜叉丸。こちらへ来い」
「はい」
「千代丸のついでじゃ。最初から見ておけ」
猿夜叉丸が俺の隣へしゃがみ込んだ。小夜も当然のように反対側へ座る。
朝の風が湖面を渡り、俺たちの間を吹き抜けていく。
俺は千代丸の針へ餌を付け直しながら、隣から覗き込んでいる猿夜叉丸へ手元が見えるよう、少しだけ仕掛けを持ち上げた。
餌を付け直した千代丸の仕掛けを見せながら、猿夜叉丸にも分かるように一つずつ説明していく。餌が簡単に外れないよう針へ付けること、糸を絡ませないこと、仕掛けを水へ入れたら余計なことをせずに待つこと。前世なら釣り方だけでもいくらでも細かく話せたが、初めて竿を持つ相手に最初からあれこれ教えても混乱するだけだ。まずは魚を掛けるために必要なことだけを覚えてもらい、細かな話は実際に釣りをしながら教えればよい。
「まずはこれだけ覚えればよい。魚が食えば分かる」
「本当に分かるのでございますか?」
「竿を持っておれば手に伝わるし、糸の動きも変わる。最初は俺が見ていてやる」
「はい」
猿夜叉丸は真剣な顔で頷いた。遊びなのだからそこまで構えなくてもよいと思うのだが、初めてすることだからこそ失敗したくないのかもしれない。何事にも真面目に取り組む性格なのだろう。昨日会ったばかりの俺に対しても、教えられたことを一つも聞き漏らすまいとしているように見えた。
俺が餌を付けるところを見せると、猿夜叉丸は自分でもやってみたいと言った。仕掛けを渡すと、ぎこちない手つきながらも、先ほどの千代丸より丁寧に餌を付けていく。針先を隠すように餌を押し付け、糸を引いて外れないか確かめる姿は、初めてにしては悪くなかった。
「千代丸より上手いな」
「若様、それは聞き捨てなりませぬ」
「事実であろう」
「某も最初から出来なかったわけではございませぬ」
「ならば今は何故出来ぬ」
「……久しぶりゆえにございます」
随分と都合のよい言い訳だ。
横で聞いていた小夜が笑い、猿夜叉丸も小さく笑った。千代丸は不満そうだったが、本気で怒っているわけではないらしい。こういうところも三年前とは随分変わった。俺が六角の嫡男であることに変わりはないのに、千代丸にとって俺はそれだけの存在ではなくなっているのだろう。身分を意識して遠慮するよりも、幼い頃から共に過ごしてきた友として接する方が自然になっている。
猿夜叉丸の仕掛けを確認し、竿の扱いを教える。湖へ向かって無理に遠くへ飛ばす必要はない。仕掛けが届く程度の場所へ落とせば十分だ。魚がいる場所へ正確に投げ込む技術など、今の猿夜叉丸にはまだ必要ない。まずは竿を折らず、糸を絡ませず、餌を落とさずに水へ入れられればそれでよかった。
俺が一度やってみせてから竿を渡すと、猿夜叉丸は教えた通り慎重に仕掛けを水へ入れた。小さな音を立てて水面が揺れる。仕掛けが沈み、糸が水面へ伸びていくのを確認すると、猿夜叉丸は竿を両手で持ち直した。
猿夜叉丸は、何かがすぐに起こるのを待つように水面を見つめていた。魚が餌へ食い付けば、すぐに竿先が大きく動くと思っているのかもしれない。だが、釣りというのは魚が来るまでの時間の方が長い。魚がいるからといって、こちらの餌を都合よく見つけてくれるとは限らないのだ。
「それで、どうすればよいのでございます?」
「待つ」
猿夜叉丸は少し驚いた顔をした。竿を動かすでもなく、糸を引くでもなく、ただ水面を見ているだけというのが不思議なのだろう。
「釣りというのは、そういうものじゃ。魚がこちらの都合に合わせて食ってくれるわけではない」
それでも納得しきれないのか、猿夜叉丸は竿先と水面を何度も見比べている。俺は自分の仕掛けを水へ入れ、千代丸も少し離れた場所で竿を構えた。小夜は俺たちの後ろに腰を下ろし、三人の様子を眺めている。供の者たちは少し離れた場所で周囲を警戒していたが、こちらの様子にも時折目を向けていた。
しばらくは誰も釣れなかった。
湖面を渡る風が細かな波を作り、葦の葉を揺らしていく。遠くでは鳥が水面近くまで降りては飛び上がり、その向こうを小さな舟がゆっくり進んでいた。朝の光を受けた湖面は眩しく、波が揺れるたびに白い光が細かく砕けている。
こうして黙って竿を持っていると、先ほどまでの会話が嘘のように静かだった。聞こえるのは風の音と水の音、それから時折、遠くで鳴く鳥の声だけだ。釣り場へ来ると、普段なら気にも留めないような小さな音までよく聞こえる。
ただ、猿夜叉丸だけは落ち着かない。
水面を見ては竿先を見て、少し動いたような気がするたびにこちらへ視線を向ける。魚が来たのか、それとも風で揺れただけなのか、自分では判断がつかないのだろう。竿を握る手にも少し力が入り過ぎている。
「今、動きませなんだか?」
「風じゃ」
少しして、また竿先が揺れた。
「今度は」
「まだじゃ」
猿夜叉丸は難しそうに水面を見つめた。竿先の動きは僅かで、魚が餌を突いているのか、波に揺らされているだけなのか、初めての者には見分けがつきにくい。
初めてなら仕方がない。俺も前世で釣りを始めたばかりの頃は、僅かな変化にも反応していた。そのうち何となく違いが分かるようになるのだが、それを言葉だけで教えるのは難しい。魚が餌を突いた時の感触は、魚の大きさや水の流れによっても変わる。結局のところ、何度も竿を持って覚えるしかないのだ。
そんな猿夜叉丸を見ているうちに、一つ思い付いた。
「では、三人で勝負するか」
千代丸と猿夜叉丸が同時にこちらを見る。
「ただ釣るだけではつまらぬであろう」
猿夜叉丸はすぐに頷いた。先ほどまでの不安そうな顔が、少しだけ引き締まる。
「某も負けませぬ」
初めてなのに随分と強気だ。
「やってみなければ分かりませぬ」
その言葉に、俺は思わず笑った。昨日会ったばかりの時なら、俺に向かってこんな言葉を返しただろうか。少なくとも今は、俺が六角の嫡男だからという理由だけで遠慮しているわけではなさそうだ。
「その通りじゃ」
俺がそう返すと、猿夜叉丸は僅かに胸を張った。
千代丸も勝負に加わることになった。小夜は猿夜叉丸を応援すると言い、千代丸が不満を漏らしていたが、俺たちはそれ以上気にせず竿へ意識を戻した。勝負とはいっても、何匹釣った者が勝ちなのか、どれほどの大きさなら勝ちなのか、まだ決めてはいない。ただ三人で釣りをして、誰が一番多く釣れるかを比べるだけの、子供じみた遊びだった。
勝負を始めたからといって、魚が都合よく食ってくるわけではない。
再び静かな時間が続いた。
猿夜叉丸は先ほどよりも真剣に竿先を見つめ、千代丸も負けじと水面へ目を凝らしている。俺も自分の仕掛けへ意識を戻し、風による揺れと魚の動きを見分けようとした。こうして三人で並んで竿を出していると、前世で一人きりだった釣りとは違う時間が流れているように感じる。
やがて指先に僅かな感触が伝わった。
来た。
すぐには動かさず、もう一度待つ。魚が餌を突いているだけなら、ここで合わせても針が掛からない。竿先が再び引かれたところで、俺は竿を上げた。
手元に確かな重みが伝わる。
水面が小さく跳ね、魚が姿を見せた。大した大きさではないが、一匹目だ。魚は水から上がった途端に身体を激しく振り、針に掛かった餌を外そうとしている。俺は暴れる魚を手早く押さえ、針を外して魚籠へ入れた。
その様子を見ていた小夜が、嬉しそうに声を上げた。
「まずは俺じゃな」
猿夜叉丸は魚籠へ目を向けたが、すぐに自分の竿へ視線を戻した。悔しそうではあるものの、焦っている様子はない。初めて釣り上げたばかりの俺の魚を見て、自分も早く釣りたいと思っているのだろう。
その直後だった。
猿夜叉丸の竿先が僅かに動いた。
本人は気付いていない。
「猿夜叉丸、竿を見ろ」
言われて初めて気付いたらしい。竿先が先ほどまでとは違う動きをしている。風に揺れている時は細かく上下するだけだが、今は水面へ引かれるように、一定の間隔で沈んでいた。
俺は手を出さず、猿夜叉丸の様子を見守った。ここで俺が竿を取ってしまえば、猿夜叉丸が釣ったことにはならない。初めての一匹だからこそ、自分の手で魚を掛け、自分の力で引き上げてほしかった。
もう一度、竿先が引かれる。
「今じゃ」
猿夜叉丸が竿を上げた。
一瞬遅れたかと思ったが、次の瞬間、竿が大きくしなった。魚が水中で身を翻したのか、糸が水面を走る。
猿夜叉丸は驚きながらも、両手でしっかり竿を握っている。竿を立てたまま、魚の動きに合わせて身体を少しずつ動かしていた。教えたことを忘れて慌てるかと思ったが、思いのほか落ち着いている。
水面が揺れ、やがて魚が姿を見せた。
「そのままじゃ。慌てるな」
俺が横から手を出す必要もない程度の大きさだ。猿夜叉丸が慎重に竿を上げると、魚が水面から離れた。魚は空中で身体をくねらせ、朝の光を受けた鱗が一瞬だけ輝いた。
「釣れた……」
本人が一番信じられないような顔をしている。
「釣れたぞ、猿夜叉丸」
「はい!」
先ほどまでの固い表情はどこにもなかった。驚きと喜びがそのまま顔に出ている。俺はその表情を見て、初めて魚を釣った時の自分も、きっと同じような顔をしていたのだろうと思った。
針から魚を外してやると、猿夜叉丸はしゃがみ込み、間近から魚を見つめた。特別大きな魚ではない。それでも本人にとっては、初めて自分で釣った一匹だ。魚が小さいかどうかなど、今の猿夜叉丸には関係ないのだろう。
「これを、某が?」
「他に誰がおる」
猿夜叉丸は何度も魚を見ていた。手の中で魚が跳ねるたびに驚きながらも、落とさないよう慎重に持ち直している。その顔には、先ほどまでの緊張とは違う、満足そうな笑みが浮かんでいた。
その様子を見ていると、何となく昔の自分を思い出す。初めて魚を釣った時のことなど、もう細かなところまでは覚えていない。それでも針の先で魚が暴れた時の驚きと、自分にも釣れたという嬉しさだけは残っている。あの時の魚も、決して大きなものではなかった。それでも自分にとっては、何よりも大きな一匹だった。
猿夜叉丸にとっても、この一匹はしばらく記憶に残るのかもしれない。
「猿夜叉丸様、これで亀松丸様と同じですね」
小夜に言われ、猿夜叉丸は俺を見た。俺の魚籠と自分の魚を見比べ、同じ数であることを確かめる。
「すぐに二匹にしてやる」
その言葉に、猿夜叉丸の目が再び鋭くなる。初めて釣った喜びに浸っていた顔が、今度は勝負へ向けた真剣なものへ変わった。
そこからは、先ほどまでとは少し空気が変わった。
俺が一匹釣れば猿夜叉丸がこちらの魚籠を気にし、猿夜叉丸の仕掛けに動きがあれば俺もそちらを見る。互いに相手の釣果を意識しながら、それでも自分の竿から目を離すことはできない。魚を釣るという単純な遊びなのに、勝負だと思うだけで妙に気持ちが引き締まる。
千代丸も負けじと場所を少し変えたり餌を付け直したりしているが、何故かこいつだけは一向に釣れない。餌を替えれば釣れるというものでもないし、場所を変えれば必ず魚がいるというわけでもない。それでも千代丸は諦めず、何度も仕掛けを水へ入れ直していた。
やがて俺が二匹目を釣った。
猿夜叉丸は魚籠を見たが、焦る様子はなかった。先ほど一匹目を釣った時よりも、竿先の動きを注意深く見ている。魚が餌を突いた時と、風で仕掛けが揺れた時の違いも、少しずつ分かってきたようだった。
それから少し経って、今度は猿夜叉丸の竿先が動いた。猿夜叉丸は先ほどより落ち着いて竿を上げ、二匹目を釣り上げた。魚が水面から上がると、今度は驚くこともなく、手早く竿を置いて魚を押さえた。
「これで同じにございます」
得意げな顔をしている。
どうやら思っていた以上に負けず嫌いらしい。初めての釣りで俺と同じ数まで追い付いたことが嬉しいのか、魚を魚籠へ入れる動作にも勢いがあった。
小夜が千代丸へ目を向けた。
「兄様はまだでございますね」
「分かっておる!」
千代丸だけが露骨に不機嫌になり始めた。俺と猿夜叉丸は顔を見合わせ、どちらからともなく笑う。千代丸は自分だけが取り残されていることを気にしているらしい。普段なら俺たちの世話を焼いている立場なのだから、こういう時くらいは自分が一番になりたいのだろう。
「笑わないでいただきとうございます!」
千代丸の声が湖岸に響いた。
「まだ終わっておらぬ」
そう言いながらも、千代丸の竿先には何の変化もない。俺は笑いを堪えながら自分の竿へ目を戻した。猿夜叉丸も口元を緩めていたが、すぐに真剣な顔へ戻っている。
それからも三人で竿を出し続けた。日が少しずつ高くなり、湖面から反射する光も強くなってきている。朝は涼しかった風にも温かさが混じり始め、時折額に浮かぶ汗を袖で拭った。湖岸の葦は風に揺れ続け、遠くを進む舟の位置もいつの間にか変わっている。
魚は相変わらず、こちらの都合など考えてくれない。