淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/22 文章整理


第六十九話「裁定の書状と残された懸念」

 六角からの使者が塩津浜城へ到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 

 左京大夫殿からの書状を預かっているというので、すぐに通すよう命じた。年が明けてからも観音寺との書状のやり取りは続いており、坂田の統治や北近江の街道について知らせが届くことも珍しくない。ただ、今回の使者が何のために遣わされたのかは、おおよそ見当が付いていた。

 

 正月に観音寺を訪れた際、左京大夫殿は奈津の一件について二月中に結論を出すと約束されている。すでに事実関係の確認は済んでいると聞いていたから、そろそろ正式な回答が届いてもおかしくはなかった。

 

 使者から書状を受け取り、まずは封を確かめた。左京大夫殿の名で届けられたものに間違いはない。

 

 使者には返書を用意するまで休んでいるよう伝え、俺は書状を持って奥の部屋へ戻った。

 

 机の上には朝から目を通していた伊香郡の帳面が広がっていたが、それらを脇へ寄せてから文を開く。

 

 昨年の戦で新たに得た土地では、村々の年貢や寺社との取り決めを確かめる仕事が続いている。報告の中には浅井の頃の取り決めを当面残してほしいという申し出もあり、現地へ遣わした者たちが一つずつ事情を聞いていた。今日もその続きを確かめるつもりだったが、奈津の件を後回しにするわけにもいかなかった。

 

 書状にはまず、奈津本人と三雲対馬守への聞き取りを終え、朽木から届けた報告とも照らし合わせた結果が記されていた。

 

 対馬守が命じたのは、小夜の暮らしぶりを時折知らせることまでであり、朽木の船や兵、蔵について調べるよう命じた事実はないという。奈津自身も独断で動いたことを認めており、詳しい軍事情報を六角へ送る前に発覚したことも確認できたらしい。

 

 ここまでは塩津で聞き出した話と大きな違いはなく、対馬守の知らぬところで奈津が役目を広げていたという説明にも、不自然なところはなかった。

 

 問題は、その後に記されていた処分だった。

 

 奈津は小夜の側仕えから正式に解かれ、当面の謹慎を命じられた。謹慎が明けた後は対馬守の配下へ戻さず、四郎の下で働く篠へ預けるという。

 

 独断で調べを進めることや、許しなく書状を送ることは禁じられ、朽木に関わる事柄については今後一切の関与を認めない。その旨を誓紙にも認めさせたとあった。

 

 対馬守についても監督責任を認め、今後は配下へ与える命の範囲を明確にするよう申し渡したという。最後には、此度の不始末について六角側の責任を認め、同じことを繰り返させぬよう家中へ申し付けたことが書き添えられていた。

 

 読み終えたところで、俺は書状を机へ置いた。

 

 左京大夫殿が此度の件を軽く扱っていないことは、文面からも十分に伝わってくる。

 

 奈津の独断を認め、対馬守の監督責任にも触れた上で、朽木に関わる仕事から外すと約束している。処分を二月中に決めるという正月の約束も守られていた。朽木として求めるべき説明は、ひとまず揃っていると考えてよいだろう。

 

 それでも、奈津本人の処分については、どうにも納得し難いものが残った。

 

 甘いな。

 

 奈津を死罪にせよと求めたわけではないし、塩津で事情を確かめた後、六角へ送り返した時点で処分は左京大夫殿へ委ねている。だから、六角から追放しなかったこと自体を咎めるつもりはない。

 

 だが、一度は命を越えて他家の軍事に関わる事柄を調べた者を、今度は情報を扱う者の下へ置くという。

 

 しかも、その相手は篠だった。

 

 奈津の不審な動きに気付き、四郎へ報告した甲賀者である。監督する者として適任なのは分かるが、それだけで奈津が再び同じことをしないと保証されるわけではなかった。

 

 そもそも、奈津が塩津でしていたことは、単に仕事の手順を間違えたという話ではない。

 

 小夜の供として城に出入りする立場を利用し、船や兵の動向を独断で確かめていたのだ。本人は六角の役に立つと考えていたらしいが、こちらからすれば、六角が小夜の供を使って朽木の内情を探らせているようにも見える。

 

 今回は八門が動きを把握していたため、奈津を問いただし、六角へ知らせることができた。しかし、別の家で同じようなことをすれば、間者として捕らえられてもおかしくはない。そうなれば奈津一人の命だけでは済まず、六角と相手方の関係そのものが損なわれていただろう。

 

 左京大夫殿も対馬守殿も、その程度のことが分からぬ方々ではない。

 

 左京大夫殿は長く六角を率いておられ、配下の不始末が他家との関係へ及ぼす影響も御存じだ。対馬守殿にしても調略に携わる者として、命じた範囲を越えて動く危うさは十分に理解しているはずだった。

 

 その二人が揃って、奈津を再び働かせることを認めた。能力が惜しいというだけで、そこまでの判断を下したとは考えにくい。

 

 俺はもう一度書状を広げ、篠の名が記されている箇所を読み直した。

 

 篠は対馬守殿の配下ではなく、四郎の下で働いている。奈津を見付けたのも篠であり、今回その篠が監督を引き受けることになった。

 

 となれば、この処分には四郎が関わっているのかもしれない。少なくとも、あいつが知らぬところで自分の配下へ奈津を預ける話が決まったとは考えにくかった。

 

 正月に観音寺を訪れた時、四郎は奈津の一件について余計なことを言わなかった。左京大夫殿が二月中に処分を決めると約束された際も、静かに話を聞いていた。

 

 あの時点ではまだ結論が出ていなかったのだろうが、その後に四郎が何らかの意見を述べたとしても不思議ではない。

 

 あいつは以前から、人を使う際に何ができるのかをよく見ている。失敗した者であっても、別の仕事なら力を発揮できるのではないかと考えるところがあった。

 

 そうした考え方が今回の処分にも表れているのだとすれば、篠へ預けるという決定にも納得がいく。

 

 もっとも、書状には誰が奈津を残すよう申し出たのかまでは記されていない。四郎が関わったと断定することはできないし、最終的に処分を決められたのは左京大夫殿だ。

 

 俺がそこへ口を挟むのであれば、相応の理由が必要になる。単に甘いと思ったからというだけでは、六角の家中へ干渉することになりかねない。左京大夫殿が朽木へ正式な回答を送られた以上、まずはその対応を受け入れるべきだろう。

 

 ただ、四郎には少しばかり気になるところがあった。

 

 あいつが奈津へもう一度機会を与えたいと考えたのなら、その判断を最後まで引き受けるつもりなのだろうか。

 

 人を生かして使うことは、決して悪いことではない。俺も使える者を無闇に失いたいとは思わないし、一度の失敗だけで全てを決めるつもりもなかった。

 

 しかし、働く機会を与えるということは、次に同じ過ちを犯した時の責任も引き受けるということだ。奈津が改めればよいが、そうならなかった時には、篠だけでなく四郎自身も判断を迫られるだろう。

 

 俺は四郎という人間を、それなりに理解しているつもりだ。

 

 朽木を害そうとしているなどとは思っていないし、今後も良い関係を続けたいと考えている。だが、四郎が正しいと思うことと、朽木にとって都合がよいことは必ずしも一致しない。

 

 今回の処分についても、六角から見れば人を育てるための判断なのだろうが、朽木から見れば、一度こちらの内情を探った者が再び情報を扱う立場へ置かれたことになる。

 

 その違いを忘れてしまえば、今後も似たような問題が起きるかもしれなかった。

 

 書状を畳み、しばらく考えてから小夜を呼ぶことにした。

 

 奈津の一件は、俺だけの問題ではない。小夜の供として朽木へ来た者が起こした不始末であり、小夜自身も奈津の処遇を気に掛けている。六角から正式な回答が届いた以上、小夜にも伝えておくべきだった。

 

 近習へ声を掛け、手が空き次第こちらへ来てもらうよう伝えると、俺は書状を机の上へ置き直した。

 

 ほどなく小夜が部屋へやって来た。

 

 昼の用向きを終えたところだったのか、普段と変わらぬ様子で入ってきたが、机の上に置かれた書状を見ると僅かに表情を改めた。

 

「殿。何かございましたか」

 

「ああ。観音寺から書状が届いた。奈津の処分が決まったそうだ」

 

「奈津は、どうなりましたか」

 

「小夜の側仕えからは正式に外された。当面は謹慎を命じられ、その後は篠の下で働くことになるそうだ。朽木に関わる事柄には今後一切関わらせず、そのことを誓紙にも認めさせたという」

 

 小夜はすぐには答えず、俺が差し出した書状へ目を落とした。

 

 文字を追ううちに僅かに眉を寄せる。奈津が六角から追い出されるわけではないと分かった時には、幾分表情が和らいだようにも見えたが、小夜の側仕えへ戻らないと記された箇所では、しばらく目を留めていた。

 

「篠殿の下にございますか。塩津で奈津のことを調べてくださった方ですね」

 

「ああ。四郎の下で働く甲賀者だ。奈津を預かり、仕事を教え直すつもりらしい」

 

「そうでございますか……」

 

 小夜は書状を読み終えると、丁寧に畳んで机へ戻した。

 

 何か言い掛けたようだったが、すぐには言葉にならなかった。

 

 奈津は小夜の暮らしを支えていた者であり、朽木へ来てから頼りにすることも多かったはずだ。その奈津が自分の知らぬところで朽木の内情を探り、今後は側へ置くこともできなくなった。簡単に割り切れるものではないだろう。

 

「奈津は、もう朽木へ戻ることはないのですね」

 

「少なくとも、小夜の側仕えへ戻すつもりはないとはっきり書いてある。左京大夫殿も、そこは変えられぬと判断されたのだろう」

 

「……私は、奈津がこれからも働けると聞いて、少し安心いたしました。ですが、あの者がしたことまで許されたわけではございませんね」

 

「そうだ。謹慎も命じられているし、今までと同じ立場には戻れない。対馬守殿も監督責任を認めておられる。何もなかったことにするつもりはないのだろう」

 

 小夜は小さく頷いたものの、すぐに顔を上げようとはしなかった。

 

 奈津が六角へ送り返されてから、すでに幾月かが過ぎている。正月に観音寺を訪れた時にも、奈津とは顔を合わせていなかったはずだ。

 

 以前のように側へ置けないと分かっていても、正式にその決定を聞けば思うところはあるだろう。篠が預かるという話に安心した部分はあっても、奈津がこれからどのような仕事をするのかまでは、まだ分かっていないのだ。

 

「小夜。奈津がしたことについて、そなたが責を感じる必要はないぞ。あの者は自分の判断で動いたのだ。小夜が命じたわけではないし、六角もそのことは認めている」

 

「はい。それは分かっております。ただ、奈津は私の供として参りましたから。もっと早く気付いていれば、あの者がこのようなことをせずに済んだのではないかと、考えることはございます」

 

「それを言い始めれば、こちらも八門から報告を受けた時点で、すぐに奈津を問いただすべきだったという話になる。だが、何を命じられていたのか分からぬうちに動けば、かえって騒ぎを大きくしたかもしれん。そなたが奈津の行く先まで一つずつ確かめる必要はなかったし、できることでもなかっただろう」

 

 少し強い言い方になったが、小夜は俺を見て困ったように笑った。

 

 自分にも何かできたのではないかと考える気持ちは分かる。しかし、奈津の不始末まで小夜が背負う必要はない。

 

 小夜が朽木へ来てから、家中の者たちとの付き合いにも随分と慣れてきた。今では自分から仕事を見付けて動くこともあり、俺が知らぬうちに助けられていることも多い。その小夜が、奈津のことでいつまでも気を落としているのは見たくなかった。

 

「殿は、此度の処分をどのように思われますか」

 

 書状を机へ戻した小夜が、改めて尋ねてきた。

 

 俺は少し考えたが、ここで取り繕う必要もないだろう。

 

「正直に言えば、甘いとは思う。奈津を死罪にせよという話ではない。だが、命じられた範囲を越えて他家の軍事を調べた者を、再び情報を扱う仕事へ就けるというのは、危うく見える」

 

「篠殿がおられても、でございますか」

 

「篠の腕を疑っているわけではない。むしろ、あの女なら厳しく監督するだろう。だが、奈津が何を考えて動くかまで、全て見抜けるわけではないからな。今回も本人は六角の役に立つと思っていたらしい。それで朽木の内情を調べられたのでは、こちらとしては堪らん」

 

 小夜は俺の言葉を聞いて、しばらく考え込んでいた。やがて書状へもう一度目を向け、静かに口を開いた。

 

「私は奈津に、もう一度働く機会が与えられたことを嬉しく思います。ですが、殿のお考えも分かります。あの者がまた同じことをすれば、今度こそ取り返しのつかぬことになるかもしれませぬ」

 

「ああ。もっとも、六角が決めたことへ、今さらこちらから口を出すつもりはない。左京大夫殿は約束通り結論を出し、その内容を知らせてくださった。朽木に関する仕事から奈津を外すとも明言されている。それ以上を求めれば、今度はこちらが六角の家中へ口を出すことになる」

 

 小夜は頷いた。

 

 今回の件では、六角と朽木が別の家であることを改めて意識させられた。

 

 小夜が六角の養女だからといって、朽木が六角に従うわけではない。反対に、奈津が朽木で不始末を起こしたからといって、俺が六角の家臣を自由に処分できるわけでもなかった。

 

 互いに守るべき立場があり、その上で関係を続けていかなければならないのだ。

 

「では、この件はこれで終わりになるのでしょうか」

 

「六角との話としては、ひとまずな。左京大夫殿へは、処分を承知したことと礼を伝える。ただ、奈津が今後どうするかについては、こちらでも気に掛けておきたい」

 

「奈津が、また朽木のことを調べるとお考えなのですか」

 

「そうと決め付けているわけではない。だが、一度あったことだからな。奈津が今後きちんと命を守るのであれば、それに越したことはない。同じ過ちを繰り返してほしいと思っているわけではないのだ」

 

 小夜はその言葉を聞いて、僅かに表情を和らげた。

 

 俺がいつまでも奈津を疑い続けるのではないかと案じていたのかもしれない。

 

 実際には、奈津一人を警戒するために大勢の者を動かすつもりもなければ、六角との関係を損ねるつもりもなかった。ただ、朽木の内情を守る立場にある以上、全てを左京大夫殿の判断へ委ねて安心するわけにもいかない。

 

「奈津が、今度こそ自分の役目を間違えぬよう願っております」

 

「ああ。それに、小夜がいつまでも奈津のことで気を落としていても、あの者が喜ぶわけではあるまい。今は篠の下で働くことになったのだから、まずはその仕事を覚えてもらわんとな」

 

「そうですね。……篠殿には、随分とご苦労をお掛けすることになりそうです」

 

「全くだ。もっとも、四郎の下で働いているのだから、あいつも何か考えているのだろう。奈津が大人しく教えを受けるなら、案外上手くいくかもしれん」

 

 小夜はそこで小さく笑った。

 

 ようやく普段に近い表情へ戻ったので、俺もそれ以上奈津の話を続けることはしなかった。

 

 代わりに今日の用向きについて幾つか尋ねると、小夜は城内で預かっている仕事について話し始めた。奈津がいなくなってからも、小夜の周囲には世話をする者たちがいる。何もかも一人で抱え込まぬようにとは以前から伝えているが、本人はできることなら自分で確かめたいらしい。そのあたりは、なかなか変わらないようだった。

 

 話を終えると、小夜は書状を俺へ返し、静かに頭を下げた。

 

 奈津の処分が決まった以上、以前のような主従関係へ戻ることはないだろう。それでも奈津が生きて働けると知ったことは、小夜にとって一つの救いになったのかもしれない。

 

 部屋を辞す際、小夜は戸口で一度だけ振り返り、奈津のことで何か分かれば知らせてほしいと告げた。俺が承知すると、安心したように頷き、そのまま部屋を出ていった。

 

 俺は返された書状を文箱へ収め、左京大夫殿への返書を用意するため、文机の上に新しい紙を広げた。

 

 今回の処分を承知したことと、事情を丁寧に知らせていただいた礼を記せばよい。

 

 余計な条件を付け加えるつもりはなかったが、だからといって奈津への警戒まで解くわけではない。今後どのような働きをするにせよ、それを監督するのは左京大夫殿と四郎である。朽木として求めるのは、誓紙に記された通り、こちらの内情へ二度と手を伸ばさぬことだった。

 

 返書を書き終えると、一度読み返してから筆を置いた。

 

 奈津の処分を承知したこと、此度の不始末について丁寧に調べていただいたことへの礼、そして今後も両家の関係を大切にしていきたいという考えを簡潔に記してある。

 

 書き加えようと思えば、奈津の今後の扱いについて確かめたいことは幾つもあった。だが、左京大夫殿がすでに決められた処分について、こちらから細かな注文を付けるのは得策ではない。朽木に関わる事柄から奈津を外すという約束が明記されている以上、今はその言葉を受け取るべきだろう。

 

 文を畳んで封を施し、近習へ渡した。

 

 観音寺から来た使者には十分に休息を取らせ、帰路の支度が整い次第、返書を持たせるよう申し付ける。

 

 使者が急ぎの返答を求めているわけではなかったが、こうした話を長く手元へ留めておく理由もない。左京大夫殿も、朽木が今回の処分をどう受け止めるか気に掛けておられるだろう。少なくとも、こちらに異議を申し立てるつもりのないことは、早めに知らせておきたかった。

 

 近習が文を持って下がると、部屋には朝から広げていた帳面だけが残った。

 

 伊香郡の村々から寄せられた申し出について、現地の役人が聞き取った事情が書き添えられている。

 

 年貢の納入先を改めて確かめたいという村もあれば、浅井の頃から続く取り決めを当面残してほしいという村もあった。中には、以前の領主から認められていた権利を、この機会に改めて確かめてもらいたいという申し出もある。

 

 領地を得たからといって、それまでの仕組みを全て変える必要はない。むしろ何を残し、何処へ手を入れるべきかを見極める方が手間の掛かる仕事だった。

 

 現地へ遣わした者たちも少しずつ事情を掴んでいるようだが、村ごとに事情が異なる以上、同じ扱いで済ませられるものばかりではない。

 

 幾つかの報告へ目を通したところで、俺は筆を止めた。

 

 奈津については六角の判断を受け入れると決めたものの、今後の動きを全く確かめずにいるのも落ち着かない。篠が監督すると約束したからといって、奈津が再び勝手なことをしないという保証にはならなかった。

 

 もっとも、そのために六角の家中へ人を潜り込ませれば、今度はこちらが同じ過ちを犯すことになる。

 

 奈津が塩津でしたことを問題にしておきながら、こちらが六角の内情を探るような真似をしては筋が通らない。何を知る必要があり、何処から先へ踏み込んではならないのか。その範囲を明らかにした上で、重蔵へ話しておくべきだろう。

 

「誰かある。重蔵を呼んでくれ。手が空き次第で構わん」

 

 廊下へ向けて声を掛けると、控えていた近習が返事をして下がっていった。

 

 重蔵には奈津の一件についても以前から報告を受けている。今回の処分が決まった以上、今後どのように扱うかを伝えておく必要があった。

 

 俺としては奈津を害するつもりも、六角の内情を探るつもりもない。ただ、あの女が再び朽木に関わる事柄へ手を伸ばそうとしていないか。それだけは引き続き気に掛けておきたかった。

 

 重蔵が姿を見せたのは、それからしばらくしてのことだった。

 

 部屋へ入ると一礼し、俺が座るよう促すのを待って腰を下ろした。普段と変わらぬ落ち着いた様子だったが、奈津の名を出すと僅かに姿勢を正した。

 

「六角から奈津の処分について回答が届いた。小夜の側仕えからは正式に外され、当面の謹慎を命じられたそうだ」

 

「左様にございますか。では、今後は六角で別の役目に就くことになるのでしょうか」

 

「ああ。対馬守殿の配下には戻さず、四郎の下にいる篠へ預けるという。もっとも、初めから自由に調べをさせるわけではないらしい。命じられた範囲の仕事だけを行わせ、勝手な調査や文のやり取りは禁じるそうだ。朽木に関わることについても、一切関与させないと誓わせている」

 

 重蔵は篠の名を聞くと、小さく頷いた。

 

 塩津で奈津の動きを把握していた八門と、四郎へ報告していた篠は、互いの働きをある程度知っている。

 

 あの時、どちらかが勝手に動いていれば、奈津本人から詳しい事情を聞く前に騒ぎが大きくなっていたかもしれない。少なくとも篠が慎重に仕事を進める者であることは、重蔵にも伝わっているはずだった。

 

「あの者が引き受けるのであれば、奈津を容易には動かしますまい。あの女は、調べるべきことと手を出してはならぬことをよく弁えております」

 

「篠の腕を疑っているわけではない。ただ、奈津が一度命を越えて動いたことは変わらん。今後どうするのか、こちらでも確かめておきたいと思っている」

 

「承知いたしました。どの程度まで調べましょうか」

 

 重蔵はすぐに動くとは言わず、こちらの考えを尋ねてきた。

 

 俺は頷き、机の端へ置いていた書状を文箱へ戻した。

 

 こうして調べる範囲を先に確かめてくれるのはありがたい。奈津のように良かれと思って役目を広げられては困るし、何より今度の相手は朽木にとって大切な関係を持つ六角なのだ。

 

 重蔵なら命じられたことの意味を理解してくれるだろうが、それでもこちらが曖昧な指図をしてよい理由にはならない。

 

「六角の家中を探る必要はない。知りたいのは奈津の動きだ。あの者が再び朽木のことを調べようとしていないか、こちらと関わりのある者へ近付いていないか。そうしたことを、できる限り確かめておきたい」

 

「では、観音寺の内情については調べず、奈津が朽木に関わる動きを見せた場合に限って、報告を集めるということでございましょうか」

 

「それだけではない。何も起きていない時も、奈津が今後どのように働いているのか、分かる範囲で構わんから動向を掴んでおけ。ただし、奈津の仕事を一つ残らず調べろということではないぞ。六角の家中へ勝手に踏み込むことも、篠がどのような仕事を任せているのかを探ることも認めん」

 

 重蔵は少し考えた後、正当な用向きで六角領へ出入りする者たちから、無理のない範囲で話を集めることはできると答えた。

 

 坂田を六角が治めるようになってからも、朽木と六角の間を行き来する商人は少なくない。塩津から荷を運ぶ者もいれば、観音寺へ用向きがあって出向く者もいる。その中には八門が以前から付き合いを持っている者もおり、そうした伝手から奈津の名を耳にすることもあるだろうという。

 

 もっとも、奈津が今後どのような場所で働くのかは分からない。

 

 篠の下に置かれるからといって、必ずしも人目に付くところで仕事をするとは限らず、むしろしばらくは城内で書付を整理するような役目を与えられる可能性が高い。その場合、外から動向を確かめるのは難しくなるだろう。重蔵もその点は承知しているらしく、確かな報告が得られぬ時期もあると断った。

 

「それで構わん。何も分からぬからといって、無理に人を動かす必要はない。大切なのは、奈津が朽木に関わる事柄へ再び手を伸ばさぬか、それを見ておくことだ。篠があの者を城内で働かせるのであれば、こちらから確かめられることは限られる。それを承知の上で命じている」

 

「承知いたしました。ただ、奈津の名を出して尋ねることが増えれば、六角の耳へ入ることも考えられます。如何いたしましょう」

 

「そこはそなたの判断に任せるが、奈津の名を無闇に広めることは避けろ。此度の不始末があったからといって、あの者について良からぬ噂を立てたいわけではないからな。事情を知る者から話が入れば確かめればよいし、わざわざ知らぬ者へ奈津のことを教えて回る必要はない」

 

 重蔵は頷いた。

 

 奈津が朽木の内情を探っていたことは、関わった者たちの間では知られているが、広く触れ回るような話ではない。

 

 まして商人たちの間で噂が広まれば、事実とは異なる話まで混じりかねない。奈津が六角の命令で朽木を探っていたなどという話になれば、せっかく左京大夫殿が事情を明らかにされた意味も薄れてしまう。こちらの調べが新たな疑いを生むようなことは避けなければならなかった。

 

「ところで、殿。奈津が朽木に関わる者と接すること自体を禁じられているのでしょうか。それとも、朽木の内情を調べることを禁じられているのでしょうか」

 

 重蔵の問いに、俺は文箱から先ほどの書状を取り出し、該当する箇所を確かめた。

 

 朽木に関わる事柄には一切関与させないと記されているが、誰とも口を利いてはならぬとまで書かれているわけではない。

 

 奈津には以前から朽木へ出入りしていた者との付き合いもあるだろうし、小夜の側仕えとして知り合った者もいるはずだった。そうした相手と偶然顔を合わせたことまで問題にするのであれば、今後の監督は随分と厄介になる。

 

 確かに、その違いは明らかにしておく必要があった。

 

「奈津が偶然朽木の者と顔を合わせたからといって、それだけで誓いを破ったと判断するつもりはない。例えば以前から知っている商人と道で行き会い、言葉を交わしたというだけなら、こちらが口を出すような話ではないだろう。だが、朽木の船や兵について尋ねたり、城の内情を探ったりしているとなれば別だ。その時は何を聞いたのか、相手がどう答えたのかを確かめる必要がある」

 

「では、奈津が何処へ出向いたかという話だけでなく、何をしていたのかまで確かめる必要がございますな」

 

「ああ。ただし、疑わしいというだけで奈津を問いただすなよ。確かなことが分からぬうちから動けば、今度はこちらが騒ぎを起こすことになる。話を集めるのは構わんが、奈津本人へ接触したり、誰かを使って探りを入れさせたりすることは避けろ」

 

 重蔵はそこで少し難しい顔をした。

 

 八門にとって人の動向を確かめること自体は珍しい仕事ではない。しかし今回は相手の領内で自由に調べられるわけではなく、しかも六角との関係を損ねることは許されない。普段と同じように動けばよいというものではなかった。

 

「殿のお考えは分かりました。ただ、それでは奈津が何をしているのか、詳しく確かめることは難しゅうございます。八門の者が自然に耳へ入れた話だけでは、判断できぬことも多いでしょう」

 

「それでよい。奈津の一日を全て知りたいわけではない。篠の監督まで疑い始めれば、きりがなくなるからな。六角の側で誓いを守らせるというのだから、普段の監督は任せるしかあるまい」

 

 俺がそう答えると、重蔵は納得したように頷いた。

 

 相手の仕事を全て確かめようとすれば、結局は六角の内情まで調べることになる。それでは奈津が塩津でしたことと変わらない。

 

 重蔵はしばらく考えた後、普段から八門が集めている報告の中に奈津に関わるものがあれば、分けて届けるようにすると述べた。

 

 必要以上に人を増やさず、すでに各地で働いている者たちへ、奈津について気になる話があれば知らせるよう申し付けるという。確かなことが分からない場合には、その旨も明らかにするそうだ。

 

 俺としても、そのやり方なら異存はなかった。

 

「それと、重蔵。奈津が何もしていないのであれば、無理に疑わしい話を探す必要はないぞ。報告がないこと自体を咎めるつもりはない。こちらが警戒しているからといって、何か見付けなければならぬと思われても困る」

 

「心得ております。確かなことと、そうでないことは分けて報告いたします」

 

「ああ。もし奈津が朽木に関わる事柄を調べていると分かった場合も、まずは知らせろ。相手を問い詰めたり、勝手に止めようとしたりする必要はない。六角へ申し入れるべきかどうかは、その時に考える」

 

「右衛門督様へ直接お知らせすることも、お考えでございますか」

 

「場合によってはな。篠を預かっているのは四郎だ。奈津の不始末が再び起きれば、あいつにも責任が及ぶことになるだろう。ただし、確かなことが分からぬうちに知らせれば、余計な疑いを招く。まずは事実を確かえることが先だ」

 

 重蔵は深く頷いた。

 

 以前の奈津の一件では、八門が動向を把握していたにもかかわらず、俺はすぐに本人を捕らえることをしなかった。

 

 誰から何を命じられていたのか分からぬうちに動けば、六角との関係を損ねるおそれがあったからだ。結果として篠も奈津の動きに気付き、四郎たちと事情を確かめることができた。

 

 今回も、何かあればまず確かな話を集める必要があるだろう。

 

 もっとも、奈津が今後も朽木を探ろうとするとは限らない。

 

 六角で処分を受け、謹慎まで命じられたのだから、本人も自分がしたことの重さを理解しているかもしれない。篠の下で一から仕事を覚え直すのであれば、以前とは違う働き方を身に付けることもできるだろう。

 

 俺が奈津への処分を甘いと思ったのは、そうなると決め付けられないからであって、改めることまで否定するつもりはなかった。

 

 今後、命じられた範囲を守り、問題なく働くようになれば、それは六角にとっても朽木にとっても悪いことではない。一度の不始末で両家の間に生じた疑いを、それ以上広げずに済むのだからな。

 

 ただ、そうした結果になるかどうかは、今の時点では分からない。だからこそ重蔵には、無理のない範囲で気に掛けておいてもらいたかった。

 

 重蔵は改めて姿勢を正し、今後の報告について幾つか確認してきた。

 

 奈津に関わる話が入った場合、それが普段の仕事の範囲で知り得たことであれば、他の報告と合わせて届ける。朽木との関係に直接関わる動きが見付かった時には、急ぎ知らせる。

 

 ただし、六角の家中へ人を潜り込ませることや、奈津を試すために偽の話を流すようなことはしない。そのように整理すると、重蔵は特に異論を唱えなかった。

 

 俺は机の上の書状を畳み、文箱へ戻した。

 

 左京大夫殿からの回答はすでに受け取ったし、返書も整えてある。両家の間では、これで一応の決着が付いたことになる。

 

 奈津が今後どのような働きをするのかは六角の問題であり、朽木がそこへ口を出すつもりはない。しかし、あの一件が起きた以上、全く気に掛けずにいることもできなかった。

 

 だからといって、六角への警戒を強めればよいというものでもない。

 

 朽木と六角は昨年の戦を経て関係を深め、互いに協力してきた。小夜が嫁いだことで家同士の縁も結ばれている。俺にとって四郎は、家の立場を離れても気兼ねなく話せる相手だった。

 

 そうした関係を、奈津一人の不始末によって損なうつもりはない。

 

 今回の処分については甘いと思うところもあるが、左京大夫殿は朽木からの報告を受け、家中で事情を確かめた上で判断された。その決定を尊重すると返事をした以上、こちらも自分の言葉に従わなければならないだろう。

 

「重蔵。最後に一つ、よく覚えておいてくれ」

 

「何でございましょう」

 

「六角は敵ではない。左京大夫殿も四郎も、今後も良い関係を保つべき相手だ。今回の件で奈津を警戒するのは構わんが、そのために朽木が何か企んでいると六角から疑われるようでは話にならん。少しでも危ういと判断したなら、そこで調べを止めろ。そなたたちだけで無理に進める必要はない」

 

「承知いたしました」

 

「こちらが疑われるような動きをすれば、奈津のしたことを責める資格もなくなる。命じられたからといって、何処までも調べてよいということではないぞ」

 

 重蔵は静かに頭を下げた。

 

 八門を率いる者として、命じられた仕事の難しさは十分に分かっているはずだ。先ほどから調べる範囲について繰り返し確かめていたのも、そこを曖昧にしないためだったのだろう。

 

 今後、奈津が何処で働くことになるのかは分からない。篠の下でどのような仕事を与えられるのかについても、こちらが詳しく知る必要はなかった。

 

 自然に耳へ入ってくる話があれば確かめる。それ以上のことを求めて六角の家中へ踏み込めば、今回の一件を収めようとした左京大夫殿の判断まで無駄にしかねない。

 

 俺は重蔵の返事を確かめてから、改めて命を伝えた。

 

「では、重蔵。奈津については、今後も動向を気に掛けておけ。ただし、六角から敵対行動と受け取られるようなことは一切するな。こちらへ自然に入ってくる情報を集め、朽木に関わる不審な動きがあれば報告しろ。必要なら調べを続けてもよいが、そなたの判断で範囲を広げることは許さん。判断に迷うことがあれば必ず知らせろ」

 

「はっ。六角との関係を損なわぬことを第一とし、奈津の動向について、可能な限り継続して確かめてまいります」

 

「頼む。今度はこちらが、奈津と同じ過ちを犯すわけにはいかんからな」

 

「心得ております。御命令の範囲を越えることなく、慎重に進めてまいります」

 

 重蔵はそう答えると、深く頭を下げた。

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