永禄五年四月下旬、稲葉山城。
不破の城を攻め落としたという知らせが届いた時、俺はようやく一つ面倒事が片付いたと胸を撫で下ろしていた。こちらへの出仕を拒み、使者を傷付け、挙げ句には軍勢へ夜襲まで仕掛けた国人である。城を失ったのは自らの振る舞いが招いた結果だ。もっとも、当主や主だった家臣の中には逃れた者もいるらしく、現地の将には残党の行方を確かめるよう命じていた。逃亡者を放置すれば、周囲の国人を頼って再び騒ぎを起こしかねない。追捕を続けさせたのも、そのためだった。
ところが、次に届けられた報告を読んだ途端、俺は思わず書状を握り潰しかけた。城から逃れた一族を追っていた兵が、不破郡を越えて近江の坂田郡へ入り、そこで逃亡者の家臣たちを討ち取ったという。女子供も捕らえ、不破へ連れ戻したとある。そこまでは、まだ事情を聞く余地があった。逃亡者を追ううちに境を越えてしまったのであれば、現地の将にも言い分はあるだろう。だが、その先に記された一文を読んだところで、俺は書状を机へ叩き付けた。
「六角の百姓を斬っただと! 誰がそのような真似を許した!」
控えていた家臣が肩を震わせた。報告によれば、逃亡者を追って村へ入った兵が、行く手を遮った若い百姓を斬り伏せたという。百姓は、ここから先が六角領であることを告げ、役人へ知らせるまで待つよう求めたらしい。それを聞き入れずに斬ったというのだから、呆れてものも言えない。俺が命じたのは一色家に背いた国人を従わせることであって、六角の領民へ刀を向けることではない。しかも、相手は武具を持った兵ですらなかった。
「この報告を寄越した者を呼び戻せ! それから不破へ使者を走らせろ。誰が兵を率い、誰の命で境を越えたのか、一人残らず調べさせるのだ!」
声を荒らげながら、俺は机の上に広げた書状へ再び目を落とした。読み違いであってほしいと思ったが、文字は先ほどと何も変わらない。一色の兵が六角領へ入り、六角の百姓を殺した。その事実だけが、何度読んでも目に飛び込んでくる。胸の内がざわつき、座っていることさえ落ち着かなくなった。
六角左京大夫が黙っているはずがない。坂田郡は今や六角の領地であり、そこに一色の兵が入り込んで領民を斬ったとなれば、向こうが兵を動かす理由として十分ではないか。俺は慌てて地図を引き寄せ、不破と坂田の境を確かめた。関ヶ原から今須へ続く道、その先の柏原。見慣れた地名を指で追ううちに、六角の軍勢がこの道を逆に進んでくる光景が頭に浮かんだ。
「六角からは何か知らせが届いておらぬか。坂田で兵を集めているという話はないのか!」
傍らの家臣は、まだ何も届いていないと答えた。俺はその返事に一度は安堵しかけたものの、すぐに顔をしかめた。知らせがないからといって、向こうが動いていないとは限らない。こちらに事件の報告が届いた頃には、六角も既に事情を知っているのではないか。
「何も届いておらぬでは済まされぬ! 境の城へ人を出せ。六角の兵が動いたなら、何を差し置いても知らせさせるのだ!」
家臣が慌てて退出していく。俺はその背を見送ってから、机の端に置いた書状へ手を伸ばした。だが、指先が紙に触れたところで手を止めた。今の命令だけでは足りない気がする。かといって、西美濃の国人たちへ大軍の動員を命じれば、今度は何を始めるつもりかと騒ぎになるだろう。
報告を持参した使者を呼び戻し、現地で何が起きたのか詳しく話させた。追っ手は三十人余りで、逃亡者の武装した家臣を討った後、女子供を縄で拘束して不破へ連れ戻したという。使者自身は現場に居合わせておらず、将から聞かされた話を伝えているに過ぎなかったが、百姓を斬ったことについては報告を受けた将も認めているらしい。
「何故その場で止めなかった! 兵を率いた者は、六角領へ入ったことを承知しておったのか!」
「そ、それが……追撃に熱中していた者も多く、境を越えたことに気付かなかった者もいたと……」
「熱中しておったから何だというのだ! 境を越えたことも分からぬほど、俺の兵は愚か者ばかりなのか!」
使者が畳へ額を擦り付けた。俺はその姿を見て、さらに怒鳴り付けようとしたが、喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。この男を責めても事態は変わらない。それくらいは分かっている。分かっているのに、何かを言わずにはいられなかった。
俺は立ち上がり、部屋の中を何度か歩いた。城を落としたことで一色家の命令に背けばどうなるかを示したはずが、今度は六角へ余計な口実を与えてしまったのである。不破の国人を従わせるために兵を出したというのに、その結果として六角との戦を招くようなことになれば、何のための討伐だったのか。
父上が亡くなられてから、俺は一色家の当主として家臣たちを従えようとしてきた。命令に従わぬ国人を放置すれば、他の者まで勝手な振る舞いを始める。だから兵を出した。それが間違いだったとは思わない。だが、六角がこれを機に攻めてくるとなれば、話はまるで違ってしまう。
「……捕らえた女子供はどうなっておる」
「不破へ連れ戻し、現地の役人が預かっております」
「勝手に処分するなと伝えよ。身元を確かめ、当主に近い者から順に報告させるのだ。傷を負った者がいれば手当てもさせろ。よいな、兵が勝手に手を出すようなことは許さぬ!」
使者が承知して退出すると、俺は再び腰を下ろした。だが、落ち着いて考えようとしても、次から次へと別の心配が浮かんでくる。六角が兵を集めていたらどうする。不破の国人たちがそれを知れば、こちらへ従うどころか六角に通じ始めるのではないか。尾張の織田も、こちらが西へ兵を動かすと知れば黙っているとは限らない。
俺は机の上の地図を畳みかけ、思い直して再び広げた。六角の領地になった坂田郡が、先ほどまでよりもずっと近くに感じられた。
*
その夜、俺は遅くまで眠れなかった。
寝所へ入ってからも、六角が軍勢を動かしているのではないかという考えが離れない。城の外で人馬の音がすると、思わず耳を澄ませてしまう。稲葉山城へ敵が迫っているわけでもないのに、夜番の足音まで普段とは違って聞こえた。
何度か起き上がり、境から新たな報告が届いていないか確かめさせた。返ってくる答えは、まだ知らせはないというものばかりだった。三度目に同じことを尋ねた時には、控えていた小姓が返事をするまでに少し間を置いた。俺はそれに気付き、もうよいと手を振った。
六角が兵を動かすには、それなりの支度が要るはずだ。領内各地の兵を集め、兵糧を用意し、諸将を動かさなければならない。明日にも大軍が不破へ押し寄せるなど、普通に考えればあるはずがない。
それでも、六角がいつから兵を集めているかなど、こちらには分からないではないか。坂田の警固を固めていたところへ今回の報告が届き、そのまま軍を動かすことも考えられる。
俺は寝具の上へ腰を下ろし、額を押さえた。
そもそも、たかが三十人余りの兵が起こした騒ぎである。現地の将がもう少し考えて動いていれば、何事もなく済んだはずだった。それなのに、どうして俺が六角との戦まで心配せねばならないのか。
腹が立った。だが、怒りに任せて現地の将を罰したところで、六角が納得する保証はない。かといって、何もせずにいれば一色家は領内で兵の乱暴を許す家だと思われる。
考えれば考えるほど、選べる道が狭くなっていくようだった。
*
翌日、安藤守就、稲葉良通、氏家直元が揃って登城した。三人とも既に事件のことを知っており、特に守就は厳しい表情をしていた。半兵衛も守就に伴われていたが、今日は珍しく末席へ座るなり視線を伏せ、こちらから話を向けるまで口を開こうとはしなかった。
守就は事件の経緯を確かめると、まず六角へ早急に使者を送るべきだと進言した。領内へ兵が踏み込んだだけでも問題なのに、百姓を殺したとなれば、六角左京大夫が黙っているはずがないという。良通も、ようやく不破の争いが片付いたところで六角と戦になれば、西美濃の国人たちが動揺すると述べた。直元は境の備えを確かめる必要があると申し出たが、その際にも大軍の動員は慎重に行うべきだと付け加えた。
俺は三人の話を聞きながら、次第に落ち着かなくなっていった。誰も六角が既に兵を動かしたとは言っていない。それなのに、まるで戦が始まることを前提に話が進んでいるように聞こえる。
「待て。そなたたちは、六角が本当に攻めてくると考えておるのか。百姓一人のために、わざわざ軍勢を動かすというのか!」
「一人であるか十人であるかの問題ではございませぬ。一色の兵が六角領へ入り、領民を討ったことが問題なのでございます。六角が何もせずに済ませれば、自らの領内で他家の兵が人を斬ることを認めたも同然となりましょう」
守就は落ち着いた口調で答えた。その様子が、かえって俺の苛立ちを募らせた。こちらは昨夜からほとんど眠れず、何度も境の知らせを確かめていたというのに、守就はまるで他人事のように話している。
「その程度のことは分かっておる! だからこそ、兵を率いた者と百姓を斬った者を調べさせているのだ。それで足りぬと申すのか!」
「足りるかどうかを決めるのは、こちらだけではございませぬ。六角へ事情を伝え、相応の償いを示す必要がございます」
「償い、償いと……。こちらが先に非を認めれば、六角はそれを口実に何を求めてくるか分からぬではないか!」
守就は何か言い掛けたが、俺は手を上げて制した。今は六角を刺激するなと言われれば、それはもっともだと思う。だが、そのために頭を下げろと言われると、どうしても納得できなかった。こちらが弱腰を見せれば、不破の国人たちまで一色家を侮るのではないか。
良通が口を開き、西美濃の国人について懸念を述べた。既に一色家への不満を抱く者はおり、六角軍が不破へ進んでくれば、その動きに乗じる家が出てくる恐れがあるという。六角は坂田郡を得ているうえ、朽木家とも結んでいる。浅井が間にいた頃とは違い、美濃へ直接軍勢を向けられるのだと指摘した。
その言葉に、俺は思わず地図へ目を向けた。昨夜も何度となく確かめた不破と坂田の境が、また頭に浮かぶ。六角の軍勢が関ヶ原へ進んできたら、不破の国人たちはどう動く。そもそも、今の一色家にどれだけの兵がすぐ集まるのか。
嫌な考えを振り払うように、俺は声を荒らげた。
「六角、六角と……! そなたたちは、まるで六角の軍勢が明日にでも稲葉山へ押し寄せるような物言いをするな! 美濃には城も兵もある。そう容易く攻め取られるものか!」
良通が口を閉ざした。守就もすぐには答えず、直元は手元の書付へ目を落としている。誰も美濃が容易く奪われるとは言っていない。それは分かっていたが、三人が揃って慎重な対応を求めてくることが我慢ならなかった。
俺は当主だ。一色家を守るために考え、命令を下す立場にある。ところが、実際には家臣たちから次々と心配事を突き付けられ、どうするべきか答えを求められている。父上が亡くなられてから、何か起こるたびに同じようなことが続いていた。
「直元、不破の備えはどうなっておる。城に置いた兵は足りているのか。六角が兵を動かした場合、何処で食い止めるつもりだ」
「境に近い城へは警固を怠らぬよう命じております。ただ、不破の討伐に出た兵もまだすべては戻っておりませぬ。大軍を迎える備えとなれば、周辺の国人にも動員を命じる必要がございましょう」
「ならば、すぐに集めさせよ!」
言い終えたところで、守就が顔を上げた。
「御屋形様、今はまだ六角が兵を動かしたという知らせもございませぬ。田植えを控えたこの時期に大軍を集めれば、領内の負担が大きくなります。まずは境の物見を増やし、六角の動きを確かめてからでも遅くはございませぬ」
「では、六角が不破へ踏み込んでから兵を集めよと申すのか!」
「そのようなことは申しておりませぬ。備えは必要にございます。ただ、今ここで国人たちへ総動員を命じることが、かえって六角を刺激する恐れもございます」
俺は口を開きかけ、そのまま閉じた。守就の言うことは分かる。季節は既に四月の終わりへ差し掛かっており、村々では苗代の世話や田の支度が進んでいる。今から大軍を集めれば、秋の実りにも影響するだろう。長く兵を留めれば兵糧も馬の飼葉も必要になるし、尾張の織田へ備える兵まで西へ移すわけにはいかない。
それでも、何もせずに待っていることが恐ろしかった。
「……よい。大軍の動員はまだ命じぬ。ただし、境の城へは直ちに知らせよ。見張りを増やし、六角の兵が動いたならば一刻も早く報告させるのだ。よいな、知らせが遅れたでは済まさぬぞ!」
直元が深く頭を下げた。俺はその返事を聞いてようやく息を吐いたが、胸の内の重苦しさは消えなかった。
半兵衛が口を開いたのは、俺が守就へ越境した兵をどう扱うべきか尋ねた時だった。まず現地の将から事情を聞き、百姓を斬った者を明らかにすべきだという。既にそれは命じてあると答えると、半兵衛は僅かに頭を下げ、続いて六角へ送る使者について意見を述べた。
「六角へは、越境した兵の振る舞いが御屋形様の命によるものではないと、早く伝えるべきかと存じます。そのうえで、領民を斬った件については申し開きを避けず、相応の償いを示すのがよろしいかと」
「そなたまで頭を下げよと申すのか。こちらが国人を追ったことまで非と認めよというのではあるまいな」
「非を認めることと、相手の求めをすべて受け入れることは別にございます。こちらから事情を伝えれば、六角も直ちに兵を動かす理由は薄くなりましょう」
半兵衛は淡々と答えた。その言葉に筋が通っていることが、余計に癪に障った。以前、不破の国人へ兵を差し向ける前にも、半兵衛は慎重に進めるよう進言していた。今になって同じ男から償いを示すべきだと言われれば、最初の判断から間違っていたと責められているように聞こえてしまう。
「では、俺は初めから不破へ兵を出すべきではなかったと申すのか!」
「そのようなことは申しておりませぬ。今は六角との間に新たな争いを起こさぬことが肝要かと」
「分かっておる! そのようなことは、そなたに言われずとも分かっておる!」
半兵衛が頭を下げた。俺はなおも何か言おうとしたが、守就の厳しい表情が目に入り、言葉を飲み込んだ。三人衆も半兵衛も、一色家を守るために進言している。そのことは理解しているつもりだった。
しかし、彼らの口から六角の名が出るたびに、自分が追い詰められているような気がした。
評定は結局、境の警固を強める一方で大軍の動員は見送り、六角へ使者を送る方針を確認して終わった。守就は使者をできるだけ早く立てるべきだと重ねて進言したが、俺は文面を考える必要があるとして返答を保留した。
家臣たちが退出していく中、俺は最後まで座ったままだった。守就が部屋を出る前に一度振り返ったが、俺は目を合わせなかった。誰もいなくなってから、ようやく机の上へ肘を突く。
使者を送る。それ自体はよい。だが、何を書けばよいのだ。
こちらの非をすべて認めれば、六角はそれに付け込むかもしれない。反対に、非を認めなければ兵を動かされる恐れがある。どちらを選んでも、相手の出方次第で事態が悪くなるように思えた。
俺は拳を握り、机を一度だけ叩いた。
*
評定を終えた後、俺は不破から連れ戻された者たちについての報告を改めて読んだ。捕らえられたのは、落城した国人の妻や子供、一族の女たちである。何人かは道中で傷を負っていたらしく、現地の役人が手当てをさせているという。身柄は一箇所へ集められ、勝手に外へ出さぬよう見張りが付けられていた。
俺は食糧を不足させぬよう命じたうえで、当主に近い者から順に身元を確かめさせることにした。捕らえた者が逃亡した国人の一族である以上、今後の処置を決めるためにも身柄を確保する必要がある。だが、その者たちを巡って六角から引き渡しを求められたらどうする。いったい何処まで応じれば、今回の騒ぎは収まるのか。
報告の中には、逃亡者が六角領へ入った理由についても記されていた。捕らえられた者の話によれば、城を脱出した時から坂田を目指していたらしい。六角ならば一色の兵が追ってこないと考えた者がおり、実際に境を越えれば助かると思っていたという。ただし、誰がその考えを言い出したのかについては、話が揃っていなかった。
俺はそこで、以前から耳にしていた話を思い出した。不破の国人たちの中には、六角と使者を往来させている家があるという。商いのためとも、境目の争いについて相談するためとも聞いていたが、本当にそれだけだったのだろうか。
もしかすると、六角は最初から不破の国人たちへ働き掛けていたのではないか。
そう考えると、今まで気に留めていなかったことまで妙に引っ掛かり始めた。一色家の命令を拒んだことも、使者を傷付けたことも、夜襲を仕掛けてきたことも、背後に六角の支えがあったのなら説明が付く。城を失った者たちが迷わず坂田を目指したのも、六角に迎えてもらえるという見込みがあったからではないか。
もちろん、そのような約束があったという証はない。だが、今回の騒ぎで六角が一色家を責める口実を手に入れたことは確かである。
俺は急いで祐筆を呼び、不破の国人と六角の間で使者が往来していたという報告を集めさせた。祐筆は少し戸惑った様子を見せたものの、すぐに書付を探しに下がった。
夕刻までに幾つかの文が集まったが、どれにも六角が国人を唆したと断言できることは記されていなかった。それでも、俺は紙を置くことができなかった。何か一つでも証があれば、こちらの立場も違ってくる。そう思って何度も読み返したが、使者の往来があったこと以上の話は見付からなかった。
「……何故、肝心なことを誰も確かめておらぬのだ」
独り言が漏れた。だが、今まで俺自身がその往来を深く気にしていなかったことも事実だった。
夜になり、境からの報告がまだ届いていないと聞かされると、再び落ち着かなくなった。何も起きていないから知らせがないのか。それとも、何か起きていても伝わってこないだけなのか。使者を急がせたばかりだから、そう簡単に報告が戻るはずもない。それでも、俺は何度も廊下へ目を向けてしまった。
*
翌朝、守就が再び登城した。
六角の使者がまだ到着していないことを確かめたうえで、こちらから先に書状を送るべきだと進言してきた。俺は前夜に考えたことを話し、不破の国人と六角の関係について尋ねた。
「不破の国人が六角と使者を往来させていたことは、そなたも知っておろう。しかも、城から逃げた者たちは坂田を目指しておった。六角が何も知らなかったなど、簡単には信じられぬ」
「境目に近い国人が他国と使者を往来させること自体は珍しくございませぬ。ただ、それをもって六角が国人を唆したと申されるのであれば、何より証が必要にございます」
「証、証と……。ならば何故、逃げた者たちは坂田を目指したのだ。六角の庇護を当てにしていなければ、わざわざ近江へ向かうはずがなかろう!」
「一色の追っ手から逃れようとすれば、他家の領地を目指すことは考えられます。六角が迎える約束をしていたかどうかは、別に確かめねばなりませぬ」
守就は慎重に言葉を選んでいた。それでも俺の考えに頷く様子はなく、むしろ六角の関与を疑うこと自体を危うく見ているようだった。俺は机の脇に置いた書付を取り上げ、守就の前へ押し出した。
「では、この使者の往来は何だ。何のために何度も六角へ人を出していたのだ。今まで誰も気にせずにいたが、最初から裏で話を付けていたとは考えられぬか!」
「その可能性を調べることには異存ございませぬ。しかし、御屋形様。今は六角の領民が斬られたことへの返答が先にございます。証のない疑いを持ち出せば、かえって話がこじれましょう」
俺は書付を引き戻し、強く握った。守就の言うことは理解できる。だが、どうしても納得できなかった。
六角には一色家を責める理由がある。こちらは、その非を認めて償いを示さなければならない。それだけでは、あまりにも一方的ではないか。せめて六角にも何らかの責任があると示せなければ、向こうの求めを受けるばかりになってしまう。
「……六角との往来については、引き続き調べよ。ただし、使者は立てる。これ以上返答を遅らせて、六角に余計な口実を与えるわけにはいかぬ」
「御意。書状の文面については、どうか慎重に御判断くださいますよう」
守就が頭を下げた。俺は返事をせず、祐筆を呼ぶよう命じた。
*
書状には、まず不破で起きた争いについて記させた。一色家の命令に従わず、使者を傷付け、兵を挙げて抵抗した国人を討伐したことは、領内を治める当主として当然の処置である。その後、逃亡者を追った兵が六角領へ入り、百姓を斬ったことについては、本意ではなく遺憾であるとする。
祐筆がそこまで書き進めたところで、俺は筆を止めさせた。
これだけでは、六角の言い分をすべて認めたのと同じではないか。一色家の兵が越境したことは事実だとしても、そもそも不破の国人たちが六角へ逃れようとした理由について、向こうにも説明を求めるべきだろう。
「不破の国人が以前から六角と往来していたことも記せ。城を失った者たちが坂田を目指したこともだ。六角がその者たちを受け入れようとしていたのか、こちらも確かめたいと伝えるのだ」
祐筆は少し迷った様子を見せたが、俺が促すと筆を動かした。六角が国人を唆したと断定する文は避けたものの、その疑いがあることは示す。これならば、一色家だけが責められる立場にはならないはずだった。
だが、清書を読み返しているうちに、今度は別の心配が生まれた。六角がその一文を読んで怒り、かえって兵を動かしたらどうする。いや、既に怒っているからこそ、こちらも事情を説明しなければならないのではないか。
俺は一度書状を置き、再び取り上げた。六角の関与を疑う部分を削ろうかとも考えたが、それでは何のために調べさせたのか分からない。
祐筆が次の指示を待っている。
「……そのままでよい。いや、待て。百姓を斬ったことについては、現地の将へ調べを命じていると書き加えよ。何もしておらぬと思われては困る」
「承知いたしました」
「それから、捕らえた者についても……いや、そのことはまだよい。まずは身元を確かめさせてからだ」
祐筆は頷いたが、書状へ筆を置くまでに少し間があった。俺はその様子を見て、ようやく自分が何度も指示を変えていることに気付いた。
腹立たしくなったが、今度は何も言わなかった。
清書された文を守就へ見せると、六角の関与を疑う一文について、もう一度考え直すよう求められた。六角が国人を受け入れようとしていた証拠はなく、まして百姓を斬ったこととは直接関係がないという。
「こちらの兵が境を越えたことは認めておる。百姓が斬られたことも隠してはおらぬ。だが、六角に何の責任もないと、どうして言い切れるのだ。国人が六角を頼ろうとしたからこそ、追撃が境まで及んだのであろう」
「御屋形様。仮に六角が逃亡者を受け入れようとしていたとしても、それだけで領内の百姓を斬ったことが許されるわけではございませぬ。今はその件について誠意を示し、六角が兵を動かす理由を減らすべきかと存じます」
俺は守就の顔を見た。何度も同じことを言われているように感じ、思わず言い返しかけたが、相手の表情があまりに真剣だったため、そこで言葉を止めた。
守就は一色家の重臣である。六角を利するために話しているわけではない。俺がそれを疑っていると思われることだけは避けたかった。
だが、守就の進言を受け入れれば、俺が恐れていることまで認めなければならない気がした。
六角は強い。坂田を手に入れ、朽木とも結んでいる。その六角を相手に、今の一色家がどこまで戦えるのか。
俺はその問いから目を背けたかった。
「書き直す必要はない。六角が何もしておらぬというなら、そのように答えてくればよい。こちらも事実を確かめているところだ。初めから六角の言い分だけを正しいものとして扱うつもりはない」
守就はそれ以上言葉を重ねず、静かに頭を下げた。俺は祐筆に命じて文を整えさせ、六角左京大夫へ届ける使者を選ばせた。口上には、越境した兵の振る舞いを一色家として軽く扱っていないことを伝えるよう加えた。ただし、今回の事件について一色家のみが責を負うという考えはないことも、はっきり申し渡した。
使者が出立の準備を始める頃、稲葉山城には西美濃の警固について新たな報告が届いていた。不破の城を落とした軍勢は一部を残して引き揚げ始めており、境に近い城では見張りの人数を増やしているという。俺は報告を受け取るなり、六角の兵を見た者はいないかと尋ねた。
「今のところ、そのような知らせは届いておりませぬ」
その返事を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
しかし、続けて報告を読み進めるうちに、また胸が騒ぎ始めた。境の警固を増やしたとあるが、それで十分なのか。六角が大軍を動かせば、わずかな見張りなど容易く押し退けられてしまう。やはり国人たちへ動員を命じるべきではないか。
俺は直元を呼ぼうとして、手を止めた。
田植えを控えた今、兵を集めれば別の不満が生まれる。しかも六角が実際に兵を動かしたという知らせはない。自分から大軍を集めてしまえば、今度はこちらが戦を望んでいるように見えるではないか。
「……境の警固は、そのまま続けさせよ。新たな動きがあれば、直ちに知らせるのだ」
家臣が退出すると、俺は深く息を吐いた。ほんの数日前までは、不破の城を落としたことを喜んでいたはずだった。それが今では、何も起きていないという報告を聞くたびに安堵している。
夕刻、祐筆が清書を終えた書状を持ってきた。俺は最後まで読み返し、六角が不破の国人と往来していたことに触れた箇所で筆を止めた。守就の言葉が頭を過ぎったが、その一文を削ることはしなかった。
俺は一色家の当主だ。こちらがすべて悪かったと頭を下げるわけにはいかない。家臣たちにも、国人たちにも、俺が一色家を守ることのできる当主だと示さなければならない。
そう自分へ言い聞かせながら、俺は花押を据えた。
書状を受け取った祐筆が退出すると、急に部屋が静かになった。開け放たれた戸の向こうから、城下へ帰る者たちの声が聞こえてくる。俺は机の上に残された守就の進言書へ目を向けた。六角への使者を急がせるべきだという言葉が、そこにも記されている。
「……六角から返事が届いたら、他の文より先に持ってこい」
控えていた小姓が承知した。
俺はそのまま立ち上がり、廊下へ出た。使者が既に出立したか確かめようとしたのだが、途中で足を止めた。今さら急がせたところで、近江までの道が短くなるわけではない。そう分かっていても、何かをしていなければ落ち着かなかった。
結局、俺はもう一度部屋へ戻り、畳んだばかりの不破の地図を広げた。
今須、関ヶ原、柏原。
指で道筋を追いながら、六角の軍勢がまだ動いていないことを願っていた。
*
永禄五年五月上旬、観音寺城。
一色家の使者が到着したのは、坂田で百姓が斬られてから十日余りが過ぎた頃だった。こちらから事情を問い質す文は既に送っていたが、使者が携えてきた書状は、それに対する返答とは少し違っていた。一色家の兵が坂田へ踏み込んだことは認めながら、不破の国人が六角と通じていた疑いを持ち出し、今回の騒ぎが大きくなった原因は六角にもあると記している。
使者の口上にも同じ趣旨が含まれており、俺は父上へ取り次ぐ前に、念のため文面をもう一度読んだ。先方が何を言いたいのかは分かる。領内で起きた討伐を正当なものとし、その後の越境についても一色家だけの責任ではないと主張したいのだろう。
六角が不破の国人と使者を往来させていたのは事実だ。父上から任された役目の中にも、その交渉を取りまとめることが含まれている。しかし、国人へ一色家に背くよう命じた覚えはないし、城から逃れた者を坂田で迎える約束も交わしていない。まして、村の百姓が追っ手を止めようとして斬られたことと、国人が何処へ逃げようとしたかは別の話である。
一色家の書状には、越境を本意ではなかったとする言葉があったものの、百姓を斬った兵について何を調べ、どう扱うのかは記されていなかった。連れ戻された女子供についても、現在何処にいるのかすら明らかにしていない。
使者を待たせ、父上のもとへ向かうと、既に坂田から届いた聞き取りの書付が置かれていた。父上は一色からの書状を最後まで読まれ、しばらく黙っておられた。やがて紙を畳み、机の端へ置かれた。
「儂らが不破の国人を唆したと申すか。ならば、そう考えた証を示してもらわねばならぬな。こちらから尋ねたことには何一つ答えておらぬ」
父上は声を荒らげなかった。ただ、書状を返された手つきが普段よりも幾分硬かった。一色家は越境の事実そのものを否定できないため、国人が六角領へ逃れようとした理由を問題にしたいらしい。俺がそう申し上げると、父上は頷き、六人衆へ書状を回すよう命じられた。
使者には返書を待つ間、城内の一室で休んでもらうこととした。相手の無礼に腹を立て、使者を冷遇する必要はない。
*
翌日の評定には、後藤但馬守、進藤山城守、蒲生下野守、三雲対馬守、平井加賀守、目賀田次郎左衛門尉が揃った。一色の文を読み終えた後藤但馬守は、まず殺された百姓の家族について報告した。村の者が田の世話を手伝っており、当面の食糧も用意したが、働き手を失った家に米を渡すだけでは済まない。耕作を続けられるよう、現地の役人と相談しているという。父上は後藤の処置を認め、遺族へ届けるものは六角の負担として扱わせるよう命じられた。
進藤山城守は、坂田で一色の兵が越境した道筋を指し示した。山間の小道ばかりではなく、村々の往来に使われる道からも入り込める。境に近い村へ兵を置き過ぎれば住民の負担になるため、警固の持ち場を入れ替え、見張りから城へ知らせが届く道を整える方がよいという。蒲生下野守は、再び一色の兵が領内で武具を振るうならば、現地の者に退かせるだけの備えが必要だと主張した。報復のために不破へ入る話ではなく、六角領にいる者を守るための兵である。
「百姓が止めたところを斬られたのじゃ。次に同じことが起これば、村の者だけで兵を相手にさせるわけには参りませぬ。境の番には、何処まで命じられておるかを明らかにしておくべきかと」
父上は蒲生の言葉に頷かれた。逃れてきた者の身元を確かめることと、他家の兵が領民を襲うのを防ぐことは別であり、後者について現地の者に迷いを生じさせてはならない。ただし、逃げ帰る一色の兵を境の向こうまで追ってはならず、六角領内での乱暴を止めることを第一とする。この点については進藤が具体的な指図を整え、坂田へ送ることになった。
続いて三雲対馬守が、連れ戻された女子供について報告した。まだ全員の名は分からないが、一色軍が不破の城へ連れていった後、別の場所へ移したらしい。生きている者がいることは確かめられたものの、親子が離されていないか、今後どのように扱われるのかまでは掴めていない。対馬守は一色家の使者に直接問い、文として答えさせることを提案した。捕らえた者を返せと求める以前に、相手が何処にいて、誰の管理下にあるのかを明らかにする必要があった。
平井加賀守と目賀田次郎左衛門尉からは、坂田の警固を増やした場合の兵糧や人足について意見が出た。田の支度が進み、早いところでは植え付けに向けた仕事も忙しくなっている。村から人を集めて長く留めれば、年貢に関わる仕事まで滞る。六角の兵は戦のためだけにいるのではない。今の坂田で大勢を動かすなら、誰が田へ出て、誰が荷を運ぶのかまで考えなければならなかった。
父上は最後に俺へ意見を求められた。一色家への返書に何を書くかについては、既に考えをまとめている。俺は対馬守が持参した報告と、坂田の役人が記した証言を並べ、確認できた事実から順に申し上げた。
「一色が不破の国人を追うこと自体について、我らが指図する筋合いはございませぬ。ですが、六角領で百姓が斬られたことは認められませぬ。兵を率いた者と斬った者を明らかにし、遺族への償いを求めるべきと考えます。連れ去られた女子供の所在と扱いについても、文で答えてもらいたく存じます」
さらに、六角が国人を唆したという主張には証を求めること、証のない疑いを理由に百姓の死を曖昧にさせないことを付け加えた。父上は俺の言葉を遮らずに聞かれ、対馬守に一色との往来を示す書状を揃えておくよう命じられた。後に何を問われても、交わした約束と交わしていない約束を区別できるようにするためだった。
「儂らが問うておるのは、坂田で何をしたかじゃ。一色が美濃を治めるために兵を出したことまで、今ここで裁くつもりはない。返書はその筋を外すな」
返書の文面は、その日のうちに整えられた。六角領への越境と領民殺害について責任の所在を明らかにすること、遺族への償いについて申し開きを求めること、連れ去られた女子供の身元と処遇を知らせること。加えて、一色家が疑う六角の働き掛けについては、具体的な証があるなら示すよう記した。父上が花押を据えられた文は、使者へ丁重に渡された。
俺は出立する背を見送りながら、次の返書でどの項目に答えがあるのかを考えていた。
*
五月も半ばに近付くと、坂田の村々からは田の支度に関する報告が増えた。雨が続けば苗代の世話に人が要り、畦の補修を終えていない村では役人が人手を融通している。後藤但馬守は、境の番を増やした村へ余計な人足を重ねて求めぬよう指図していた。一色家から大軍が出てくる気配はまだない。こちらも警固を解いたわけではないが、村人を長く兵の役に留めずに済むことはありがたかった。
一色からは、その間に一度だけ返事が届いた。使者の持参した文は、越境した兵についてなお調べていると記す一方、六角が不破の国人とどのような書状を交わしていたのかを問い返していた。父上は一通り読まれた後、対馬守に必要な範囲で返答を整えさせた。連れ戻された者の処遇については答えがなく、こちらからの要求はまだ残っている。互いに使者を追い返すことはないが、進むべき話が進んでいないのは明らかだった。
俺のところには、坂田から別の報告も届いていた。殺された百姓の家族へ渡した米は村の役人が確かめ、残された弟は近所の者に手伝われながら田へ出ているという。事件について問うために集めた証言の中には、村人たちが現場に小さな石を据え、手を合わせていることまで記されていた。俺は報告を読み、遺された家の田が今年も耕されるよう、後藤へ礼を伝える文を添えた。
書付を片付けていると、弥太郎が畳んだ地図を持って入ってきた。坂田の警固について、進藤から新しい配置が届いたのだという。俺は地図を受け取り、境に近い見張りの印を確かめた。以前よりも連絡の道筋が明瞭になっており、村人が兵のところまで駆け付ける必要は減りそうだった。
「若様が書状に睨みを利かせても、美濃からの返事は早くなりませぬ。先ほどから膳に手を付けておられないでしょう」
「睨んでなどいない。読んでいただけだ」
「では、読めぬほど難しい文だったのでしょうか。いっそ私が代わって眺めておきましょうか」
相変わらず遠慮のない言い方である。俺が箸を取ると、弥太郎はようやく満足したように笑い、地図を元の棚へ戻した。忙しいのは弥太郎も同じなのに、こういう時だけ人の食事をよく見ている。言い返そうとしたところで、小姓が父上からの呼び出しを告げに来た。弥太郎は俺の膳を見て小さく首を振り、俺は箸を置いて立ち上がった。
父上の部屋へ入ると、机の上に見慣れぬ上質な料紙が置かれていた。京から届いた文だという。父上は俺が座るのを待ち、差出人が近衛家であると告げられた。美濃とのやり取りが続いているため、俺は最初、朝廷から何か伝えることでもあるのかと考えた。だが父上の口元には、評定で見せるものとは違う穏やかな笑みが浮かんでいた。
「四郎。近衛家から、寿殿との縁談を正式に進めたいと申し入れがあった。以前より話はあったが、今度は日取りや迎え方についても相談したいとのことじゃ」
寿。久しぶりにその名を聞き、以前、京で顔を合わせた時のことが浮かんだ。近衛家の姫として育った人であり、俺とは生まれ育った場所も日々の暮らしも違う。あの時はこのような日が来る可能性を考えていたものの、実際に父上から婚姻の話を告げられると、思っていたほど落ち着いてはいられなかった。
父上は文を俺の前へ置き、急かすことなく返事を待っておられる。
「家同士の縁組であることは承知しておろう。儂も近衛家との縁を結ぶことに異存はない。だが、夫婦となって暮らすのはそなたと寿殿じゃ。四郎、そなた自身はどう考えておる」
俺はもう一度文に目を落とした。近衛家からの丁寧な言葉の向こうに、京で交わした短いやり取りが思い出される。あの時の寿は、俺が近江でどのような暮らしをしているのか、興味深そうに尋ねていた。今度はこちらが、観音寺城での暮らしを実際に見てもらう番になるのだろう。
俺は顔を上げ、父上へ向き直った。
「寿殿をお迎えすることに、異存はございませぬ。京でお会いした折、もっとお話ししてみたいと思う方でございました。こちらの事情で慣れぬ暮らしをお願いすることにはなりますが、できる限り心を配りたいと存じます」
父上はしばらく俺を見てから、ゆっくりと頷かれた。そして近衛家へ返書を認めるよう申し付けられ、寿を迎えるための部屋についても近いうちに相談すると仰った。
退出する時、俺が文を置き忘れかけると、父上は珍しく声を立てて笑われた。慌てて文を受け取り直し、もう一度一礼する。廊下へ出てからも、手にした料紙の感触が妙に気になり、俺は折り目を崩さぬよう両手で持ち直した。
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