第七十四話「責を問う書状」
永禄五年四月下旬、稲葉山城。
不破の城を攻め落としたという知らせが届いた時、儂はようやく一つ面倒事が片付いたと胸を撫で下ろしていた。
こちらへの出仕を拒み、使者を傷付け、挙げ句には軍勢へ夜襲まで仕掛けた国人である。城を失ったのは自らの振る舞いが招いた結果だ。もっとも、当主や主だった家臣の中には逃れた者もいるらしく、現地の将には残党の行方を確かめるよう命じてある。逃亡者を放置すれば、周囲の国人を頼って再び騒ぎを起こしかねない。追捕を続けさせたのも、そのためだった。
ところが、次に届けられた報告を読んだ途端、儂は思わず書状を握り潰しかけた。
城から逃れた一族を追っていた兵が、不破郡を越えて近江の坂田郡へ入り、そこで逃亡者の家臣たちを討ち取ったという。女や子供も捕らえ、不破へ連れ戻したとある。そこまでは、まだ事情を聞く余地があった。逃亡者を追ううちに境を越えてしまったのであれば、現地の将にも言い分はあるだろう。
しかし、その先に記された一文を読んだところで、儂は書状を机へ叩き付けた。
「六角の百姓を斬っただと! 誰がそのような真似を許した!」
控えていた家臣が肩を震わせた。
報告によれば、逃亡者を追って村へ入った兵が、行く手を遮った若い百姓を斬り伏せたという。百姓はそこから先が六角領であることを告げ、役人へ知らせるまで待つよう求めたらしい。それを聞き入れずに斬ったというのだから、呆れてものも言えない。
儂が命じたのは一色家に背いた国人を従わせることであって、六角の領民へ刀を向けることではない。しかも相手は、武具を持った兵ですらなかった。
「この報告を寄越した者を呼び戻せ! それから不破へ使者を走らせよ。誰が兵を率い、誰の命で境を越えたのか、残らず調べさせるのだ!」
声を荒らげながら、儂は机に広げた書状へ再び目を落とした。
読み違いであってほしいと思ったが、文字は先ほどと何も変わらない。一色の兵が六角領へ入り、六角の百姓を殺した。その事実ばかりが目に付き、ほかの報告へ考えを向けることさえできなくなっていた。
六角左京大夫が黙っているはずがない。
坂田郡は今や六角の領地であり、そこへ一色の兵が踏み込んで領民を斬ったとなれば、向こうが兵を動かす理由として十分ではないか。儂は慌てて地図を引き寄せ、不破と坂田の境を確かめた。関ヶ原から今須へ続く道、その先の柏原。見慣れた地名を指で追ううちに、六角の軍勢がこの道を逆に進んでくる光景が頭に浮かんだ。
「六角からは何か知らせが届いておらぬか。坂田で兵を集めているという話はないのか!」
傍らの家臣は、まだ何も届いていないと答えた。
一度は安堵しかけたものの、すぐに顔をしかめた。知らせがないからといって、向こうが動いていないとは限らない。こちらへ事件の報告が届いた頃には、六角も既に事情を知っているのではないか。
「何も届いておらぬでは済まされぬ! 境の城へ人を出せ。六角の兵が動いたなら、何を差し置いても知らせさせるのだ!」
家臣が慌てて退出していく。
儂はその背を見送ってから、机の端に置いた書状へ手を伸ばした。だが、指先が紙に触れたところで止まった。
今の命令だけでは足りない気がする。かといって西美濃の国人たちへ大軍の動員を命じれば、今度は何を始めるつもりかと騒ぎになるだろう。ようやく不破の討伐を終えたところで、六角との戦に備えろなどと申し渡せば、家中の者たちもただでは済むまい。
報告を持参した使者を呼び戻し、現地で何が起きたのか詳しく話させた。
追っ手は三十人余りで、逃亡者の武装した家臣を討った後、女や子供を縄で拘束して不破へ連れ戻したという。使者自身は現場に居合わせておらず、将から聞かされた話を伝えているに過ぎなかったが、百姓を斬ったことについては報告を受けた将も認めているらしい。
「何故その場で止めなかった! 兵を率いた者は、六角領へ入ったことを承知しておったのか!」
「そ、それが……追撃に熱中していた者も多く、境を越えたことに気付かなかった者もいたと……」
「熱中しておったから何だというのだ! 境を越えたことも分からぬほど、一色の兵は愚か者ばかりなのか!」
使者が畳へ額を擦り付けた。
儂はさらに怒鳴り付けようとしたが、喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。この男を責めても事態は変わらない。それくらいは分かっている。だからこそ、何処へ怒りを向ければよいのかも定まらなかった。
儂は立ち上がり、部屋の中を何度か歩いた。
城を落としたことで一色家の命令に背けばどうなるかを示したはずが、今度は六角へ余計な口実を与えてしまったのである。不破の国人を従わせるために兵を出したというのに、その結果として六角との戦を招くようなことになれば、何のための討伐だったのか。
父上が亡くなられてから、儂は一色家の当主として家臣たちを従えようとしてきた。命令に従わぬ国人を放置すれば、ほかの者まで勝手な振る舞いを始める。だから兵を出した。それが間違いだったとは思わない。
だが、六角がこれを機に攻めてくるとなれば話は違う。ようやく収めたはずの不破が、今度は他国との戦の入り口になりかねないのだ。
「……捕らえた女や子供はどうなっておる」
「不破へ連れ戻し、現地の役人が預かっております」
「勝手に処分するなと伝えよ。身元を確かめ、当主に近い者から順に報告させるのだ。傷を負った者がいれば手当てもさせろ。よいな、兵が勝手に手を出すようなことは許さぬ!」
使者が承知して退出すると、儂は再び腰を下ろした。
しかし、落ち着いて考えようとしても、次から次へと別の心配が浮かんでくる。
六角が兵を集めていたらどうする。不破の国人たちがそれを知れば、こちらへ従うどころか六角に通じ始めるのではないか。尾張の織田も、こちらが西へ兵を動かすと知れば黙っているとは限らない。
机の上の地図を畳みかけ、思い直して再び広げた。
六角の領地になった坂田郡が、先ほどまでよりもずっと近くに感じられた。
*
その夜、儂は遅くまで眠れなかった。
寝所へ入ってからも、六角が軍勢を動かしているのではないかという考えが離れない。城の外で人馬の音がすると、思わず耳を澄ませてしまう。稲葉山城へ敵が迫っているわけでもないのに、夜番の足音まで普段とは違って聞こえた。
何度か起き上がり、境から新たな報告が届いていないか確かめさせた。返ってくる答えは、まだ知らせはないというものばかりだった。
三度目に同じことを尋ねた時には、控えていた小姓が返事をするまでに少し間を置いた。儂はそれに気付き、もうよいと手を振った。
六角が兵を動かすには、それなりの支度が要るはずだ。領内各地の兵を集め、兵糧を用意し、諸将を動かさなければならない。明日にも大軍が不破へ押し寄せるなど、普通に考えればあるはずがない。
それでも、六角がいつから兵を集めているかなど、こちらには分からないではないか。
坂田の警固を固めていたところへ今回の報告が届き、そのまま軍を動かすことも考えられる。以前から不破の国人たちと使者を往来させていたことも気になった。六角がこちらの動きを何処まで承知しているのか、今となっては確かめようもない。
儂は寝具の上へ腰を下ろし、額を押さえた。
そもそも、三十人余りの兵が起こした騒ぎである。現地の将がもう少し考えて動いていれば、何事もなく済んだはずだった。それなのに、どうして一色家の当主である儂が、六角との戦まで心配せねばならないのか。
腹が立った。
だが、怒りに任せて現地の将を罰したところで、六角が納得する保証はない。かといって何もせずにいれば、一色家は領内で兵の乱暴を許す家だと思われる。
事の始まりは不破の国人が命令に従わなかったことだったはずなのに、今ではその話さえ遠くなり、六角へ何と説明するかを考えなければならなくなっていた。
考えれば考えるほど、選べる道が狭くなっていくようだった。
*
翌日、安藤守就、稲葉良通、氏家直元が揃って登城した。
三人とも既に事件のことを知っており、特に安藤は厳しい表情をしていた。竹中重治も安藤に伴われていたが、今日は珍しく末席へ座るなり視線を伏せ、こちらから話を向けるまで口を開こうとはしなかった。
安藤は事件の経緯を確かめると、まず六角へ早急に使者を送るべきだと進言した。
領内へ兵が踏み込んだだけでも問題なのに、百姓を殺したとなれば六角左京大夫が黙っているはずがないという。稲葉も、ようやく不破の争いが片付いたところで六角と戦になれば、西美濃の国人たちが動揺すると述べた。氏家は境の備えを確かめる必要があると申し出たが、その際にも大軍の動員は慎重に行うべきだと付け加えた。
儂は三人の話を聞きながら、次第に落ち着かなくなっていった。
誰も六角が既に兵を動かしたとは言っていない。それなのに、まるで戦が始まることを前提に話が進んでいるように聞こえる。家臣たちが真剣に事態を案じていることは分かるが、その言葉を聞くほど、自分が恐れていたことが現実になりつつあるように思えてならなかった。
「待て。そなたたちは、六角が本当に攻めてくると考えておるのか。百姓一人のために、わざわざ軍勢を動かすというのか!」
「一人であるか十人であるかの問題ではございませぬ。一色の兵が六角領へ入り、領民を討ったことが問題なのでございます。六角が何もせずに済ませれば、自らの領内で他家の兵が人を斬ることを認めたも同然となりましょう」
安藤は落ち着いた口調で答えた。
その言葉には反論し難いものがあった。儂自身、昨夜から六角が兵を動かすのではないかと心配していたのだ。それでも安藤から改めて指摘されると、こちらが何も分かっていないと諭されているように感じられ、苛立ちを抑えられなかった。
「その程度のことは分かっておる! だからこそ、兵を率いた者と百姓を斬った者を調べさせているのだ。それで足りぬと申すのか!」
「足りるかどうかを決めるのは、こちらだけではございませぬ。六角へ事情を伝え、相応の償いを示す必要がございます」
「償い、償いと……。こちらが先に非を認めれば、六角はそれを口実に何を求めてくるか分からぬではないか!」
安藤は何か言い掛けたが、儂は手を上げて制した。
六角を刺激するなと言われれば、それはもっともだと思う。だが、そのために頭を下げろと言われると、どうしても納得できなかった。
こちらが弱腰を見せれば、不破の国人たちまで一色家を侮るのではないか。命令に従わぬ者を討伐したばかりだというのに、その直後に他国へ詫びを入れるようでは、何を示すために兵を動かしたのか分からなくなってしまう。
稲葉が口を開き、西美濃の国人について懸念を述べた。
既に一色家への不満を抱く者はおり、六角軍が不破へ進んでくれば、その動きに乗じる家が出てくる恐れがあるという。六角は坂田郡を得ている上、朽木家とも結んでいる。浅井が間にいた頃とは違い、美濃へ直接軍勢を向けられるのだと指摘した。
その言葉に、儂は思わず地図へ目を向けた。
昨夜も何度となく確かめた不破と坂田の境が、また頭に浮かぶ。六角の軍勢が関ヶ原へ進んできたら、不破の国人たちはどう動く。そもそも、今の一色家にどれだけの兵がすぐ集まるのか。
嫌な考えを振り払うように、儂は声を荒らげた。
「六角、六角と……! そなたたちは、まるで六角の軍勢が明日にでも稲葉山へ押し寄せるような物言いをするな! 美濃には城も兵もある。そう容易く攻め取られるものか!」
稲葉が口を閉ざした。安藤もすぐには答えず、氏家は手元の書付へ目を落としている。
誰も美濃が容易く奪われるとは言っていない。それは分かっていたが、三人が揃って慎重な対応を求めてくることが我慢ならなかった。
儂は当主だ。一色家を守るために考え、命令を下す立場にある。
ところが実際には、家臣たちから次々と心配事を突き付けられ、どうするべきか答えを求められている。父上が亡くなられてから、何か起こるたびに同じようなことが続いていた。
「直元、不破の備えはどうなっておる。城に置いた兵は足りているのか。六角が兵を動かした場合、何処で食い止めるつもりだ」
「境に近い城へは警固を怠らぬよう命じております。ただ、不破の討伐に出た兵もまだ全ては戻っておりませぬ。大軍を迎える備えとなれば、周辺の国人にも動員を命じる必要がございましょう」
「ならば、すぐに集めさせよ!」
言い終えたところで、安藤が顔を上げた。
「御屋形様。今はまだ六角が兵を動かしたという知らせもございませぬ。田植えを控えたこの時期に大軍を集めれば、領内の負担が大きくなります。まずは境の物見を増やし、六角の動きを確かめるべきかと存じます」
「では、六角が不破へ踏み込んでから兵を集めよと申すのか!」
「そのようなことは申しておりませぬ。備えは必要にございます。ただ、今ここで国人たちへ総動員を命じることが、かえって六角を刺激する恐れもございます」
儂は口を開きかけ、そのまま閉じた。
安藤の言うことは分かる。季節は既に四月の終わりへ差し掛かっており、村々では苗代の世話や田の支度が進んでいる。今から大軍を集めれば、秋の実りにも影響するだろう。長く兵を留めれば兵糧も馬の飼葉も必要になるし、尾張の織田へ備える兵まで西へ移すわけにはいかない。
それでも、何もせずに待っていることが恐ろしかった。
「……よい。大軍の動員はまだ命じぬ。ただし、境の城へは直ちに知らせよ。見張りを増やし、六角の兵が動いたならば一刻も早く報告させるのだ。よいな、知らせが遅れたでは済まさぬぞ!」
氏家が深く頭を下げた。
儂はその返事を聞いてようやく息を吐いたが、胸の内の重苦しさは消えなかった。
竹中が口を開いたのは、儂が安藤へ越境した兵をどう扱うべきか尋ねた時だった。
まず現地の将から事情を聞き、百姓を斬った者を明らかにすべきだという。既にそれは命じてあると答えると、竹中は僅かに頭を下げ、続いて六角へ送る使者について意見を述べた。
「六角へは、越境した兵の振る舞いが御屋形様の命によるものではないと、早く伝えるべきかと存じます。その上で、領民を斬った件については申し開きを避けず、相応の償いを示すのがよろしいかと」
「そなたまで頭を下げよと申すのか。こちらが国人を追ったことまで非と認めよというのではあるまいな」
「非を認めることと、相手の求めを全て受け入れることは別にございます。こちらから事情を伝えれば、六角も直ちに兵を動かす理由は薄くなりましょう」
竹中は淡々と答えた。
その言葉に筋が通っていることが、余計に癪に障った。
以前、不破の国人へ兵を差し向ける前にも、竹中は慎重に進めるよう進言していた。今になって同じ男から償いを示すべきだと言われれば、最初の判断から間違っていたと責められているように聞こえてしまう。
「では、初めから不破へ兵を出すべきではなかったと申すのか!」
「そのようなことは申しておりませぬ。今は六角との間に新たな争いを起こさぬことが肝要かと」
「分かっておる! そのようなことは、そなたに言われずとも分かっておる!」
竹中が頭を下げた。
儂はなおも何か言おうとしたが、安藤の厳しい表情が目に入り、言葉を飲み込んだ。
三人衆も竹中も、一色家を守るために進言している。そのことは理解しているつもりだった。しかし、彼らの口から六角の名が出るたびに、自分が追い詰められているような気がした。
評定は結局、境の警固を強める一方で大軍の動員は見送り、六角へ使者を送る方針を確認して終わった。
安藤は使者をできるだけ早く立てるべきだと重ねて進言したが、儂は文面を考える必要があるとして返答を保留した。
家臣たちが退出していく中、儂は最後まで座ったままだった。
安藤が部屋を出る前に一度振り返ったが、目を合わせる気にはなれなかった。
使者を送ること自体に異存はない。問題は何を伝えるかだ。
こちらの非を全て認めれば、六角はそれに付け込むかもしれない。反対に非を認めなければ、兵を動かされる恐れがある。どちらを選んでも、相手の出方次第で事態が悪くなるように思えた。
儂は拳を握り、机を一度だけ叩いた。
*
評定を終えた後、儂は不破から連れ戻された者たちについての報告を改めて読んだ。
捕らえられたのは、落城した国人の妻や子供、一族の女たちである。何人かは道中で傷を負っていたらしく、現地の役人が手当てをさせているという。身柄は一か所へ集められ、勝手に外へ出さぬよう見張りが付けられていた。
儂は食糧を不足させぬよう命じた上で、当主に近い者から順に身元を確かめさせることにした。
捕らえた者が逃亡した国人の一族である以上、今後の処置を決めるためにも身柄を確保する必要がある。だが、その者たちを巡って六角から引き渡しを求められたらどうする。いったい何処まで応じれば、今回の騒ぎは収まるのか。
報告の中には、逃亡者が六角領へ入った理由についても記されていた。
捕らえられた者の話によれば、城を脱出した時から坂田を目指していたらしい。六角領まで逃れれば一色の兵も追ってこないと考えた者がおり、実際に境を越えれば助かると思っていたという。ただし、誰がその考えを言い出したのかについては話が揃っていなかった。
儂はそこで、以前から耳にしていた話を思い出した。
不破の国人たちの中には、六角と使者を往来させている家があるという。商いのためとも、境目の争いについて相談するためとも聞いていたが、本当にそれだけだったのだろうか。
もしかすると、六角は最初から不破の国人たちへ働き掛けていたのではないか。
そう考えると、今まで気に留めていなかったことまで妙に引っ掛かり始めた。
一色家の命令を拒んだことも、使者を傷付けたことも、夜襲を仕掛けてきたことも、背後に六角の支えがあったのなら説明が付く。城を失った者たちが坂田を目指したのも、六角に迎えてもらえるという見込みがあったからではないか。
無論、そのような約束があったという証はない。
しかし、六角が以前から不破に関わっていたことは確かである。その上で今回の騒ぎが起き、六角は一色家を責める理由を得た。そこまで考えが及ぶと、単なる偶然として済ませてよいのか疑わしくなってきた。
儂は急いで祐筆を呼び、不破の国人と六角の間で使者が往来していたという報告を集めさせた。祐筆は少し戸惑った様子を見せたものの、すぐに書付を探しに下がった。
夕刻までに幾つかの文が集まったが、どれにも六角が国人を唆したと断言できることは記されていなかった。
使者が往来していたことは分かる。商人を通じて話が伝わったという報告もある。だが、その場でどのような約束を交わしたのか、六角が国人へ何を求めたのかについては、はっきりしなかった。
それでも儂は紙を置くことができなかった。
何か一つでも証があれば、こちらの立場も違ってくる。そう思って何度も読み返したが、使者の往来があったこと以上の話は見付からなかった。
「……何故、肝心なことを誰も確かめておらぬのだ」
独り言が漏れた。
だが、今まで儂自身がその往来を深く気にしていなかったことも事実だった。
父上の代から続く国人たちの付き合いを一つずつ調べるより、まず一色家への軍役を明らかにする方が先だと考えていた。その判断が今になって別の不安を生んでいる。
夜になり、境からの報告がまだ届いていないと聞かされると、再び落ち着かなくなった。
何も起きていないから知らせがないのか。それとも、何か起きていても伝わってこないだけなのか。
使者を急がせたばかりだから、そう簡単に報告が戻るはずもない。それでも儂は何度も廊下へ目を向けてしまった。
*
翌朝、安藤が再び登城した。
六角からの使者がまだ到着していないことを確かめた上で、こちらから先に書状を送るべきだと進言してきた。儂は前夜に考えたことを話し、不破の国人と六角の関係について尋ねた。
「不破の国人が六角と使者を往来させていたことは、そなたも知っておろう。しかも、城から逃げた者たちは坂田を目指しておった。六角が何も知らなかったなど、簡単には信じられぬ」
「境目に近い国人が他国と使者を往来させること自体は珍しくございませぬ。ただ、それをもって六角が国人を唆したと申されるのであれば、何より証が必要にございます」
「証、証と……。ならば何故、逃げた者たちは坂田を目指したのだ。六角の庇護を当てにしていなければ、わざわざ近江へ向かうはずがなかろう!」
「一色の追っ手から逃れようとすれば、他家の領地を目指すことは考えられます。六角が迎える約束をしていたかどうかは、別に確かめねばなりませぬ」
安藤は慎重に言葉を選んでいた。
それでも儂の考えに頷く様子はなく、むしろ六角の関与を疑うこと自体を危うく見ているようだった。儂は机の脇に置いた書付を取り上げ、安藤の前へ押し出した。
「では、この使者の往来は何だ。何のために何度も六角へ人を出していたのだ。今まで誰も気にせずにいたが、最初から裏で話を付けていたとは考えられぬか!」
「その可能性を調べることには異存ございませぬ。しかし、御屋形様。今は六角の領民が斬られたことへの返答が先にございます。証のない疑いを持ち出せば、かえって話がこじれましょう」
儂は書付を引き戻し、強く握った。
安藤の言うことは理解できる。調べもせずに六角が国人を唆したと決め付ければ、向こうが反発するのは当然だろう。
だが、六角には既に一色家を責める理由があり、こちらはその非を認めて償いを示さなければならない。それだけでは、あまりにも一方的ではないか。
せめて六角にも何らかの責任があると示せなければ、向こうの求めを受けるばかりになってしまう。
「……六角との往来については、引き続き調べよ。ただし、使者は立てる。これ以上返答を遅らせて、六角に余計な口実を与えるわけにはいかぬ」
「御意。書状の文面については、どうか慎重に御判断くださいますよう」
安藤が頭を下げた。
儂は返事をせず、祐筆を呼ぶよう命じた。
*
書状には、まず不破で起きた争いについて記させた。
一色家の命令に従わず、使者を傷付け、兵を挙げて抵抗した国人を討伐したことは、領内を治める当主として当然の処置である。その後、逃亡者を追った兵が六角領へ入り、百姓を斬ったことについては、本意ではなく遺憾であるとする。
祐筆がそこまで書き進めたところで、儂は筆を止めさせた。
これだけでは六角の言い分を全て認めたのと同じではないか。
一色家の兵が越境したことは事実だとしても、そもそも不破の国人たちが六角へ逃れようとした理由について、向こうにも説明を求めるべきだろう。
「不破の国人が以前から六角と往来していたことも記せ。城を失った者たちが坂田を目指したこともだ。六角がその者たちを受け入れようとしていたのか、こちらも確かめたいと伝えるのだ」
祐筆は少し迷った様子を見せたが、儂が促すと筆を動かした。
六角が国人を唆したと断定する文は避けたものの、その疑いがあることは示す。これならば一色家だけが責められる立場にはならないはずだった。
だが、清書を読み返しているうちに、今度は別の心配が生まれた。
六角がその一文を読んで怒り、かえって兵を動かしたらどうする。いや、既に怒っているからこそ、こちらも事情を説明しなければならないのではないか。
儂は一度書状を置き、再び取り上げた。六角の関与を疑う部分を削ろうかとも考えたが、それでは何のために調べさせたのか分からない。
祐筆が次の指示を待っている。
「……そのままでよい。いや、待て。百姓を斬ったことについては、現地の将へ調べを命じていると書き加えよ。何もしておらぬと思われては困る」
「承知いたしました」
「それから、捕らえた者についても……いや、そのことはまだよい。まずは身元を確かめさせてからだ」
祐筆は頷いたが、書状へ筆を置くまでに少し間があった。
儂はその様子を見て、ようやく自分が何度も指示を変えていることに気付いた。腹立たしくなったものの、今度は何も言わなかった。
清書された文を安藤へ見せると、六角の関与を疑う一文について、もう一度考え直すよう求められた。
六角が国人を受け入れようとしていた証拠はなく、まして百姓を斬ったこととは直接関係がないという。
「こちらの兵が境を越えたことは認めておる。百姓が斬られたことも隠してはおらぬ。だが、六角に何の責任もないと、どうして言い切れるのだ。国人が六角を頼ろうとしたからこそ、追撃が境まで及んだのであろう」
「御屋形様。仮に六角が逃亡者を受け入れようとしていたとしても、それだけで領内の百姓を斬ったことが許されるわけではございませぬ。今はその件について誠意を示し、六角が兵を動かす理由を減らすべきかと存じます」
儂は安藤の顔を見た。
何度も同じことを言われているように感じ、思わず言い返しかけたが、相手の表情があまりに真剣だったため、そこで言葉を止めた。
安藤は一色家の重臣である。六角を利するために話しているわけではない。儂がそれを疑っていると思われることだけは避けたかった。
だが、安藤の進言を受け入れれば、儂が恐れていることまで認めなければならない気がした。
六角は強い。
坂田を手に入れ、朽木とも結んでいる。その六角を相手に、今の一色家が何処まで戦えるのか。
六角が国人たちを唆したという証を見付けたいと思うのも、結局はその問いに答えたくないからなのかもしれない。
儂は一度目を伏せた後、書状を安藤の前から引き戻した。
「書き直す必要はない。六角が何もしておらぬというなら、そのように答えてくればよい。こちらも事実を確かめているところだ。初めから六角の言い分だけを正しいものとして扱うつもりはない」
安藤はそれ以上言葉を重ねず、静かに頭を下げた。
儂は祐筆に命じて文を整えさせ、六角左京大夫へ届ける使者を選ばせた。
口上には、越境した兵の振る舞いを一色家として軽く扱っていないことを伝えるよう加えた。ただし、今回の事件について一色家のみが責を負うという考えはないことも、はっきり申し渡した。
使者が出立の準備を始める頃、稲葉山城には西美濃の警固について新たな報告が届いていた。
不破の城を落とした軍勢は一部を残して引き揚げ始めており、境に近い城では見張りの人数を増やしているという。
儂は報告を受け取るなり、六角の兵を見た者はいないかと尋ねた。
「今のところ、そのような知らせは届いておりませぬ」
その返事を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
しかし、続けて報告を読み進めるうちに、また胸が騒ぎ始めた。
境の警固を増やしたとあるが、それで十分なのか。六角が大軍を動かせば、僅かな見張りなど容易く押し退けられてしまう。やはり国人たちへ動員を命じるべきではないか。
儂は氏家を呼ぼうとして、手を止めた。
田植えを控えた今、兵を集めれば別の不満が生まれる。しかも六角が実際に兵を動かしたという知らせはない。自分から大軍を集めてしまえば、今度はこちらが戦を望んでいるように見えるではないか。
「……境の警固は、そのまま続けさせよ。新たな動きがあれば、直ちに知らせるのだ」
家臣が退出すると、儂は深く息を吐いた。
ほんの数日前までは、不破の城を落としたことを喜んでいたはずだった。それが今では、何も起きていないという報告を聞くたびに安堵している。
城を一つ落とすまでは、どうして命令に従わぬのかと腹を立てていた。それなのに、今は六角がこちらの望む通りに動いてくれることを願うほかなかった。
夕刻、祐筆が清書を終えた書状を持ってきた。
儂は最後まで読み返し、六角が不破の国人と往来していたことに触れた箇所で筆を止めた。安藤の言葉が頭を過ぎったが、その一文を削ることはしなかった。
儂は一色家の当主だ。
こちらが全て悪かったと頭を下げるわけにはいかない。家臣たちにも、国人たちにも、一色家を守ることのできる当主だと示さなければならない。
そう自分へ言い聞かせながら、儂は花押を据えた。
書状を受け取った祐筆が退出すると、急に部屋が静かになった。
開け放たれた戸の向こうから、城下へ帰る者たちの声が聞こえてくる。儂は机の上に残された安藤の進言書へ目を向けた。六角への使者を急がせるべきだという言葉が、そこにも記されている。
「……六角から返事が届いたら、ほかの文より先に持ってこい」
控えていた小姓が承知した。
儂はそのまま立ち上がり、廊下へ出た。使者が既に出立したか確かめようとしたのだが、途中で足を止めた。
今さら急がせたところで、近江までの道が短くなるわけではない。そう分かっていても、何かをしていなければ落ち着かなかった。
結局、儂はもう一度部屋へ戻り、畳んだばかりの不破の地図を広げた。
今須、関ヶ原、柏原。
指で道筋を追いながら、六角の軍勢がまだ動いていないことを願っていた。
*
永禄五年五月上旬、近江国観音寺城。
一色家の使者が到着したのは、坂田で百姓が斬られてから十日余りが過ぎた頃だった。
こちらから事情を問い質す文は既に送っていたが、使者が携えてきた書状はそれに対する返答とは少し違っていた。一色家の兵が坂田へ踏み込んだことは認めながら、不破の国人が六角と通じていた疑いを持ち出し、今回の騒ぎが大きくなった原因は六角にもあると記している。
使者の口上にも同じ趣旨が含まれており、俺は父上へ取り次ぐ前に、念のため文面をもう一度読んだ。
先方が何を言いたいのかは分かる。領内で起きた討伐を正当なものとし、その後の越境についても一色家だけの責任ではないと主張したいのだろう。
だが、それならばこちらから尋ねたことに答えた上で、改めて六角の関与について問い掛ければよいはずだ。少なくとも今回の文面は、こちらが知りたいことを明らかにするものではなかった。
六角が不破の国人と使者を往来させていたのは事実だ。
父上から任された役目の中にも、その交渉を取りまとめることが含まれている。しかし、国人へ一色家に背くよう命じた覚えはないし、城から逃れた者を坂田で迎える約束も交わしていない。国人同士の争いや街道の往来について話を聞くことと、一色家へ反旗を翻すよう働き掛けることは別の話である。
まして村の百姓が追っ手を止めようとして斬られたことと、国人が何処へ逃げようとしたかは関係がない。仮に六角が逃亡者を迎えるつもりだったとしても、それを理由に一色家の兵が六角領内で勝手に人を殺してよいことにはならないだろう。
一色家の書状には、越境を本意ではなかったとする言葉があったものの、百姓を斬った兵について何を調べ、どう扱うのかは記されていなかった。
連れ戻された女や子供についても、現在何処にいるのかすら明らかにしていない。現地で調査を続けているのかもしれないが、こちらへ知らせなければ何も分からないことに変わりはなかった。
使者を待たせ、父上のもとへ向かうと、既に坂田から届いた聞き取りの書付が置かれていた。
父上は一色からの書状を最後まで読まれ、しばらく黙っておられた。やがて紙を畳み、机の端へ置かれた。
「儂らが不破の国人を唆したと申すか。ならば、そう考えた証を示してもらわねばならぬな。こちらから尋ねたことには、何一つ答えておらぬ」
父上は声を荒らげられなかった。ただ、書状を置かれた手つきが普段よりも幾分硬かった。
一色家は越境の事実そのものを否定できないため、国人が六角領へ逃れようとした理由を問題にしたいらしい。
俺がそう申し上げると、父上は頷き、六人衆へ書状を回すよう命じられた。
使者には返書を待つ間、城内の一室で休んでもらうこととした。相手の書状に腹を立てたからといって、使者を冷遇する必要はない。
こちらが求めるのは、一色家としての正式な説明である。使者を責めたところで、坂田で起きたことが明らかになるわけではなかった。
*
翌日の評定には、後藤但馬守賢豊、進藤山城守賢盛、蒲生下野守定秀、三雲対馬守定持、平井加賀守定武、目賀田次郎左衛門尉忠朝の六人が揃った。
一色の文を読み終えた但馬守は、まず殺された百姓の家族について報告した。
村の者が田の世話を手伝っており、当面の食糧も用意したが、働き手を失った家に米を渡すだけでは済まない。今後も耕作を続けられるよう、現地の役人と相談しているという。
俺のところへ最初に届いた報告には、斬られた若者の名さえ記されていなかった。その後の聞き取りで身元が明らかになり、家族や村の者たちがどのように暮らしているのかも少しずつ分かってきている。
しかし、事情が分かったからといって、失われた働き手が戻るわけではない。残された者たちが今年の田をどうするのかは、村にとっても切実な問題だった。
父上は但馬守の処置を認め、遺族へ届けるものは六角の負担として扱わせるよう命じられた。
続いて山城守が、坂田で一色の兵が越境した道筋を指し示した。
山間の小道ばかりではなく、村々の往来に使われる道からも入り込める。境に近い村へ兵を置き過ぎれば住民の負担になるため、警固の持ち場を入れ替え、見張りから城へ知らせが届く道を整える方がよいという。
既に幾つかの道については見張りの配置を改めており、今後も人の往来を妨げぬよう注意して進めるとのことだった。
下野守は、再び一色の兵が領内で武具を振るうならば、現地の者にそれを防げるだけの備えが必要だと主張した。報復のために不破へ入る話ではなく、六角領にいる者を守るための兵である。
「百姓が止めたところを斬られたのじゃ。次に同じことが起これば、村の者だけで兵を相手にさせるわけには参りませぬ。境の番には、何処まで命じられておるかを明らかにしておくべきかと」
父上は下野守の言葉に頷かれた。
逃れてきた者の身元を確かめることと、他家の兵が領民を襲うのを防ぐことは別であり、後者について現地の者に迷いを生じさせてはならない。
ただし、逃げ帰る一色の兵を境の向こうまで追ってはならず、六角領内での乱暴を止めることを第一とする。この点については山城守が具体的な指図を整え、坂田へ送ることになった。
続いて対馬守が、連れ戻された女や子供について報告した。
まだ全員の名は分からないが、一色軍が不破の城へ連れていった後、別の場所へ移したらしい。生きている者がいることは確かめられたものの、親子が離されていないか、今後どのように扱われるのかまでは掴めていない。
対馬守は一色家の使者に直接問い、文として答えさせることを提案した。
捕らえた者を返せと求める以前に、相手が何処にいて、誰の管理下にあるのかを明らかにする必要がある。六角領から連れ去られたとはいえ、元々は不破の国人に属する者たちだ。身柄の扱いについて何を求めるのかは、まず事実を揃えてから考えるべきだった。
加賀守と目賀田からは、坂田の警固を増やした場合の兵糧や人足について意見が出た。
田の支度が進み、早いところでは植え付けに向けた仕事も忙しくなっている。村から人を集めて長く留めれば、年貢に関わる仕事まで滞る。国境の守りを固めることは必要だが、そのために村々が田を耕せなくなっては困るだろう。
加賀守は、警固を担う者の役目を明らかにしておけば、現地でも人の差配がしやすくなると述べた。目賀田も必要な兵糧や人足を見積もり、既に坂田で行っている仕事へ余計な負担を重ねぬよう確かめるという。
山城守や下野守が兵の配置を考えても、それを支える者たちの暮らしを無視しては続けられない。
父上は四人の意見を聞いた上で、必要な備えを整える一方、村々へ過分な負担を掛けぬよう念を押された。
最後に父上から俺へ意見を求められた。
一色家への返書に何を書くかについては、既に考えをまとめている。俺は対馬守が持参した報告と、坂田の役人が記した証言を並べ、確認できた事実から順に申し上げた。
「一色が不破の国人を追うこと自体について、我らが指図する筋合いはございませぬ。ですが、六角領で百姓が斬られたことは認められませぬ。兵を率いた者と斬った者を明らかにし、遺族への償いを求めるべきと考えます。連れ去られた女や子供の所在と扱いについても、文で答えてもらいたく存じます」
さらに、六角が国人を唆したという主張には証を求めること、証のない疑いを理由に百姓の死を曖昧にさせないことを付け加えた。
父上は俺の言葉を遮らずに聞かれ、対馬守に一色との往来を示す書状を揃えておくよう命じられた。後に何を問われても、交わした約束と交わしていない約束を区別できるようにするためだった。
六角が不破の国人と付き合いを持っていたこと自体を隠す必要はない。しかし、その付き合いを理由に一色家へ背くよう命じたと主張するのであれば、先方にも相応の根拠を示してもらわなければならない。
「儂らが問うておるのは、坂田で何をしたかじゃ。一色が美濃を治めるために兵を出したことまで、今ここで裁くつもりはない。返書はその筋を外すな」
返書の文面は、その日のうちに整えられた。
六角領への越境と領民殺害について責任の所在を明らかにすること、遺族への償いについて申し開きを求めること、連れ去られた女や子供の身元と処遇を知らせること。加えて、一色家が疑う六角の働き掛けについては、具体的な証があるなら示すよう記した。
加賀守にも文面を確かめてもらい、要求していることと説明を求めていることが混同されぬよう言葉を整える。
こちらとしては、今すぐ一色家と戦を始めたいわけではない。だが、今回の件を曖昧にしたまま、以前と同じ付き合いへ戻ることもできなかった。
父上が花押を据えられた文は、使者へ丁重に渡された。
俺は出立する背を見送りながら、次の返書でどの項目に答えがあるのかを考えていた。
越境した兵の扱いも、遺族への償いも、連れ去られた者たちの処遇も、まだ何一つ決着していない。一色家が今回の返書をどう受け止めるかによって、今後の話も変わってくるだろう。
*
五月も半ばに近付くと、坂田の村々からは田の支度に関する報告が増えた。
雨が続けば苗代の世話に人が要り、畦の補修を終えていない村では役人が人手を融通している。後藤但馬守は境の番を増やした村へ余計な人足を重ねて求めぬよう指図していた。
一色家から大軍が出てくる気配はまだない。こちらも警固を解いたわけではないが、村人を長く兵の役に留めずに済むことはありがたかった。
一色からは、その間に一度だけ返事が届いた。
使者の持参した文は、越境した兵についてなお調べていると記す一方、六角が不破の国人とどのような書状を交わしていたのかを問い返していた。父上は一通り読まれた後、対馬守に必要な範囲で返答を整えさせた。
連れ戻された者の処遇については答えがなく、こちらからの要求はまだ残っている。互いに使者を追い返すことはないが、話が進んでいないのは明らかだった。
一色家が本当に調べを続けているのであれば、いずれ何らかの結果が届くだろう。しかし、いつまでも調べているという返答だけでは済ませられない。こちらも引き続き説明を求める必要があった。
俺のところには、坂田から別の報告も届いていた。
殺された百姓の家族へ渡した米は村の役人が確かめ、残された弟は近所の者に手伝われながら田へ出ているという。事件について問うために集めた証言の中には、村人たちが現場に小さな石を据え、手を合わせていることまで記されていた。
俺は報告を読み、しばらくその箇所へ目を留めた。
最初の知らせでは、殺された若者がどのような者だったのかも分からなかった。今では家族のことも、村でどのように暮らしていたのかも少しずつ明らかになっている。残された弟が田へ出られるよう、村の者たちが力を貸してくれていることはありがたかった。
米を届けただけで解決する話ではないが、俺にできることを考える上でも、現地の様子を知っておく必要がある。
俺は遺された家の田が今年も耕されるよう取り計らってくれた但馬守へ、礼を伝える文を添えた。
書付を片付けていると、弥太郎が畳んだ地図を持って入ってきた。
坂田の警固について、山城守から新しい配置が届いたのだという。
俺は地図を受け取り、境に近い見張りの印を確かめた。以前よりも連絡の道筋が明瞭になっており、村人が兵のところまで駆け付ける必要は減りそうだった。各所の持ち場も整理され、何かあれば何処へ知らせるべきか分かるようになっている。
山城守たちが現地の事情を確かめながら進めてくれたおかげで、警固を固めるために村々へ過分な負担を求めずに済んでいる。
俺が地図を見ながら幾つかの場所を確かめていると、弥太郎が傍らの膳へ目を向けた。
「若様が書状に睨みを利かせても、美濃からの返事は早くなりませぬ。先ほどから膳に手を付けておられないでしょう」
「睨んでなどいない。読んでいただけだ」
「では、読めぬほど難しい文だったのでしょうか。いっそ某が代わって眺めておきましょうか」
相変わらず遠慮のない言い方である。
俺が箸を取ると、弥太郎はようやく満足したように笑い、地図を元の棚へ戻した。
忙しいのは弥太郎も同じなのに、こういう時だけ人の食事をよく見ている。言い返そうとしたところで、小姓が父上からの呼び出しを告げに来た。
弥太郎は俺の膳を見て小さく首を振り、俺は箸を置いて立ち上がった。
父上の部屋へ入ると、机の上に見慣れぬ上質な料紙が置かれていた。京から届いた文だという。
美濃とのやり取りが続いているため、俺は最初、朝廷から何か伝えることでもあるのかと考えた。京から知らせが届くこと自体は珍しくないが、今日の呼び出しについては用向きも聞かされていない。
だが、父上の口元には、評定で見せるものとは違う穏やかな笑みが浮かんでいた。
「四郎。近衛家から、寿殿との縁談を正式に進めたいと申し入れがあった。以前より話はあったが、今度は日取りや迎え方についても相談したいとのことじゃ」
寿。
久しぶりにその名を聞き、以前、京で顔を合わせた時のことが浮かんだ。
近衛家の姫として育った人であり、俺とは生まれ育った場所も日々の暮らしも違う。あの時は、このような日が来る可能性を考えていたものの、実際に父上から婚姻の話を告げられると、思っていたほど落ち着いてはいられなかった。
近衛家との縁組は、六角にとっても大きな意味を持つ。公家の中でも重きをなす家から姫を迎えるとなれば、婚儀の進め方や今後の付き合いについて、考えなければならないことも多いだろう。父上が以前から話を進めておられたのも、そのために違いない。
しかし、頭では家同士の縁組だと理解していても、実際に寿を妻として迎えると聞けば、それだけで割り切れるものではなかった。
父上は文を俺の前へ置き、急かすことなく返事を待っておられる。
「家同士の縁組であることは承知しておろう。儂も近衛家との縁を結ぶことに異存はない。だが、夫婦となって暮らすのはそなたと寿殿じゃ。四郎、そなた自身はどう考えておる」
俺はもう一度、文に目を落とした。
近衛家からの丁寧な言葉の向こうに、京で交わした短いやり取りが思い出される。あの時の寿は、俺が近江でどのような暮らしをしているのか、興味深そうに尋ねていた。
京で暮らしてきた寿にとって、観音寺城での日々は慣れないことも多いだろう。近衛家と六角家では家中の仕組みも違えば、日々顔を合わせる者たちも変わる。俺自身、寿が何を好み、どのようなことを考えているのか、まだ十分に知っているわけではない。
それでも、以前に顔を合わせた時、もっと話をしてみたいと思ったことは覚えている。
あの短い時間だけで互いを知ったとは言えないが、これから夫婦として暮らすのであれば、その機会はいくらでもあるはずだった。
俺は顔を上げ、父上へ向き直った。
「寿殿をお迎えすることに、異存はございませぬ。京でお会いした折、もっとお話ししてみたいと思う方でございました。こちらの事情で慣れぬ暮らしをお願いすることにはなりますが、できる限り心を配りたいと存じます」
父上はしばらく俺を見てから、ゆっくりと頷かれた。
そして近衛家へ返書を認めるよう申し付けられ、寿を迎えるための部屋についても近いうちに相談すると仰った。婚儀の日取りや迎え方については、近衛家と改めて話を進めていくことになるのだろう。
俺もそのつもりで頷き、預かった文をもう一度確かめた。
近頃は坂田や不破の書状ばかり読んでいたせいか、同じ料紙でもそこに記されている内容が違うだけで、随分と印象が変わるものだと思った。
退出する時、俺が文を机へ置き忘れかけると、父上は珍しく声を立てて笑われた。
慌てて文を受け取り直し、もう一度一礼する。
廊下へ出てからも、手にした料紙の感触が妙に気になった。俺は折り目を崩さぬよう両手で持ち直し、先ほど父上から聞いた話を思い返した。
寿を迎える。
以前から可能性のあった縁談が、ようやく正式に動き始めたのだ。不破の件がまだ片付かぬ中、今度は婚儀についても考えることになる。
もっとも、こちらは父上や近衛家の意向を確かめながら進める話であり、俺一人で日取りを決められるわけではない。
まずは寿を迎えることになったと、弥太郎にも伝えなければならないだろう。きっと驚くに違いない。いや、父上から既に何か聞いている可能性もある。
そう考えながら歩き始めたものの、京で顔を合わせた時の寿の様子が何度も思い出され、俺は自室へ戻るまで文を懐へ収めることさえ忘れていた。
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