淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/22 文章整理


第七十六話「祝言」

 永禄五年六月下旬、観音寺城。

 

 寿殿を迎える日が近付くにつれ、観音寺城の奥では普段とは違った賑わいが続いていた。近衛家から届いた調度や衣装が運び込まれ、女房たちは寿殿が暮らす部屋の支度に追われている。祝言の日取りや輿入れの手順については既に両家の間で話がまとまっており、俺が改めて何かを決める必要はほとんどなかった。それでも自分の婚姻に関わることだけに、何も知らずに任せきりにしておくのは落ち着かない。政務を終えた後、奥を預かる女房に案内され、寿殿のために整えられた部屋を見せてもらうことにした。

 

 部屋には新しい畳が敷かれ、几帳や屏風も置く場所が決められていた。京から届いた調度の中には、俺では用途の分からないものもある。女房から説明を受けながら一通り見て回ったが、結局のところ寿殿が気に入るかどうかは本人に尋ねるしかなかった。近衛家からも好みについて幾つか知らせが届いており、必要なものは揃えてあるという。俺は足りないものがあれば遠慮なく申し出るよう伝え、それ以上は口を挟まないことにした。京での暮らしに慣れた寿殿を迎えるのだから、女房たちも気を遣うことが多いだろう。そこへ婚姻する本人まで細かな注文を付けては、かえって迷惑になる。

 

 廊下へ出ると、待っていた弥太郎が妙に楽しそうな顔をしていた。俺が奥へ足を運ぶたびに何か言いたげな様子を見せるのは以前からだが、婚姻が近付いてからは特に遠慮がなくなった気がする。こちらが声を掛けるより早く、弥太郎は部屋の支度について尋ねてきた。

 

「若様、奥の支度はいかがでございました。何かお気に召さぬところでもございましたか」

 

「いや、よく整っていた。特に口を出すようなこともなかった。あとは寿殿がお着きになってから、好みを聞いてもらえばよいだろう」

 

「それは何よりにございます。奥の者たちも安心いたしましょう。若様がお越しになるたび、何か不都合があったのではないかと気を揉んでおりましたから」

 

 そんなことを言われると、次から足を運びにくくなる。別に支度を急がせたつもりはないのだが、女房たちにとっては婚姻する本人が様子を見に来るだけでも気になるらしい。弥太郎は、これからは寿殿が暮らす場所なのだから、細かなことは奥の者たちへ任せた方がよいと諭してきた。その言い方があまりにも慣れているので、思わず苦笑してしまった。

 

「そなたはこの婚姻がよほど嬉しいらしいな。最近は何かにつけて楽しそうにしている」

 

「当然でございましょう。幼い頃からお仕えしてきた若様が、いよいよ奥方様をお迎えになるのです。これほど喜ばしいことはございませぬ」

 

「そうか。それなら寿殿には、幼い頃にどれほど聞き分けのよい子供だったか、よく話しておいてくれ」

 

「承知いたしました。夜更けまで書物を読んでおられたことも、お食事を忘れて書状に向かっておられたことも、余すところなくお伝えいたしましょう」

 

 聞き分けのよい子供だったという話は何処へ行ったのだろう。睨んでみたところで、弥太郎は平然としている。幼い頃から俺の面倒を見てきただけに、こうした時は何を言っても勝てる気がしない。話を打ち切って自分の部屋へ向かうことにしたが、弥太郎は後ろから、奥方様にも若様のお世話をお願いしなければなりませんな、と余計なことを付け加えた。

 

 部屋へ戻る途中、今度は次郎と顔を合わせた。太刀の稽古を終えたところらしく、額には汗が残っている。俺を見るなり寿殿を迎える支度は済んだのかと尋ねてきたので、ほぼ整ったと答えた。すると次郎は、兄上が婚姻したら今までのように手合わせをする時間が減るのではないかと、少し不満そうに言い出した。

 

「何故そうなる。寿殿を迎えたからといって、そなたと太刀を合わせるのをやめるつもりはないぞ」

 

「それならよいのですが。最近の兄上は書状と婚姻の支度ばかり気にしておられるようですから。稽古場へ来ても、以前ほど長く相手をしていただけませぬ」

 

「それはそなたが長く付き合わせ過ぎるからだ。昨日も日が暮れるまで木太刀を打ち合わせていただろう」

 

「兄上が最後の勝負で負けを認めなかったからではありませんか」

 

 よく覚えているものだ。確かに昨日は次郎の木太刀が俺の肩を先に捉えたようにも見えたが、こちらの太刀もほとんど同時に届いていた。どちらが先だったか決めかねたので、もう一度合わせようとしただけである。そう言い返すと、次郎はますます楽しそうに笑った。

 

「では、祝言が済んだら改めて勝負いたしましょう。今度こそ兄上に参ったと言わせてみせます」

 

「望むところだ。寿殿の前で負けるような真似はできぬからな」

 

 次郎は声を立てて笑い、明日は自分も客人を迎える役目があるから稽古は控えめにしておくと告げて去っていった。兄の婚姻を喜んでくれていることは伝わってくるが、俺をからかう機会としても楽しんでいるらしい。もっとも、こうして普段通りに話せることはありがたかった。城内では誰も彼もが婚姻を気遣ってくれるため、時折こちらまで必要以上に身構えてしまう。

 

 *

 

 祝言の数日前、幕府からの使者として三淵藤英殿と細川藤孝殿が観音寺城へ到着した。公方様が今回の婚姻を祝ってくださることは以前から聞いていたが、二人もの重臣を遣わされたとあって、父上も丁重に迎えられた。俺も父上の側に控え、正式な挨拶を受けることになった。

 

 三淵殿は公方様からの書状を差し出し、近衛家と六角家の縁組を喜んでおられることを伝えられた。細川殿からは祝儀として太刀と馬を贈られたほか、寿殿へも祝いの品が用意されていると聞いた。さらに御台所様から姉君である寿殿へ宛てた文と贈り物も預かっているという。父上は公方様への御礼を述べられ、俺も改めて頭を下げた。

 

「右衛門督殿。公方様は此度の御婚姻を、ことのほか喜んでおられます。近衛家の姉妹を通じて新たな御縁が結ばれることを、ありがたく思っておいでにございます」

 

「過分なお言葉、恐れ入ります。公方様には、いずれ京へ御礼に伺いたく存じます。どうかよろしくお伝えください」

 

 三淵殿は穏やかに頷かれた。公方様とは以前から幕府を通じて関わりがあるものの、今回の婚姻によって相婿という関係になる。将軍と守護家の嫡男という立場に変わりはないが、近衛家を介した縁ができることには、俺自身も不思議な感慨があった。ただ、それを理由に急に親しい間柄になったような振る舞いをするつもりはない。今まで通りの礼節を保ちながら、少しずつ関係を深めていけばよいと思っている。

 

 正式な応対を終えた後、父上は二人を祝言まで客人として遇するよう命じられた。夕刻には別の席を設け、俺も同席することになった。

 

 そこで細川殿から、近江の市や領国経営について尋ねられた。京でも六角家が市の取り決めを改めたことは知られているらしく、商人たちの往来が以前より盛んになっていると聞いているという。俺は、全ての市で一度に同じことを始めたわけではなく、父上の許しを得ながら少しずつ改めてきたと答えた。直轄の市で徴収の名目を調べ、残すべき負担と改めるべきものを分けたこと、平井家と蒲生家が自ら望んで参加したことも伝えた。

 

「右衛門督殿は、お若いながらも随分と政務に通じておられると伺っておりました。実際にお話を聞くと、御自身で苦労を重ねられたようですな」

 

「苦労をしたのは一人ではございませぬ。家臣たちが現地を調べ、商人や村の者の話を聞いてくれたからこそ進められたことにございます。父上にも何度となく相談いたしました」

 

「それでも、家臣の働きをどのようにまとめるかは大切なことでございましょう。京でも多くの者が政に携わっておりますが、皆の考えを揃えるのは容易ではございませぬ」

 

 細川殿が苦笑されると、三淵殿も静かに頷かれた。幕府の政務には近江とは違う難しさがあるのだろう。俺も家中で意見が食い違うことは経験しているが、京では朝廷や諸大名、三好家との関係まで考えなければならない。その苦労を知ったような顔で語るつもりはなかったので、聞かれたことに答えながら、京の様子についても幾つか尋ねた。

 

 話の途中で、三淵殿が坂田と美濃の境について触れられた。一色家との間で問題が起きていることは幕府にも伝わっており、交渉の行方を案じているという。俺は領内で百姓が斬られたこと、こちらから責任の所在と遺族への償いを求めていることを簡潔に伝えた。三淵殿は事情を聞き、幕府としても争いが大きくならぬことを願っていると話されたが、具体的な軍事協力や仲裁を申し出られることはなかった。

 

 父上も、この場で公方様へ何かを求めるおつもりはないようだった。今回の二人は祝いの使者として来られたのであり、美濃との問題を持ち込むために招いたわけではない。三淵殿もそのことを承知しているらしく、必要な話を終えると、再び寿殿の輿入れや近衛家のことへ話題を戻された。

 

 細川殿とはその後も、京の文化や書物について話す機会があった。普段どのような書を読んでいるのかと尋ねられたので、軍書や領国経営に関わるものだけでなく、和歌にも時折目を通すと答えた。すると細川殿は少し嬉しそうな顔をされ、京へ来る機会があれば、ぜひ歌についても話してみたいと仰った。俺は自分の腕前など大したものではないと断ったが、それでも構わないと笑われた。

 

 こうして話してみると、三淵殿は物事を慎重に見定める方であり、細川殿は相手の話から次々と興味を広げていく方のように感じられた。兄弟でありながら、それぞれ違った持ち味がある。公方様が二人を揃って遣わされた理由も、少し分かる気がした。

 

 *

 

 弥五郎が小夜を伴って観音寺城を訪れたのは、寿殿の輿入れを二日後に控えた日のことだった。朽木家からは既に祝儀の品が届けられていたが、弥五郎自身も当主として父上へ祝いを述べるために来てくれたのである。小夜も父上の養女であり、俺の身内として婚姻を祝うため同行していた。

 

 父上は二人を温かく迎えられた。弥五郎は朽木家の当主として正式に祝儀を届け、幕府の使者にも挨拶を済ませた。小夜はその後、奥の女房たちと顔を合わせ、寿殿を迎える支度について話をしていたらしい。小夜自身も婚姻によって朽木へ移り住んだ身である。京から近江へ嫁いでくる寿殿にとって、心強い相手になってくれるだろう。

 

 公的な挨拶を終え、ようやく弥五郎と二人で話す時間が取れた。俺が改めて礼を述べると、弥五郎は肩の力を抜き、いつものように笑った。

 

「随分と忙しそうだな、四郎。祝言を迎える本人が、ここまで走り回るものなのか」

 

「好きで走り回っているわけではない。客人も多いし、近衛家との間で確かめることもある。父上が大半の支度を進めてくださっているとはいえ、何もせずにいるわけにもいかないだろう」

 

「それはそうだが、寿殿が来られる前から疲れ切っていては笑われるぞ。今のうちに少しは休んでおけ」

 

「弥五郎まで弥太郎と同じことを言うのか。最近は誰も彼も休ませようとする」

 

「それだけ周りの者が、四郎の普段の振る舞いを知っているということだろう。小夜にも話しておこうか。四郎は仕事を始めると、なかなか手を止めぬらしいとな」

 

 思わず顔を顰めると、弥五郎は楽しそうに笑った。こちらが言い返そうとしても、既に妻を迎えた身だからと先輩風を吹かせてくる。ならば小夜に、弥五郎が普段どのような失敗をしているのか聞いてみようかと返すと、今度はあいつが少し困った顔をした。

 

「それはやめておけ。小夜は普段こそ穏やかだが、余計なことまで話す時がある」

 

「それは是非とも聞いてみたくなったな」

 

「四郎も随分と悪い顔をするようになった。寿殿には、夫の悪友には気を付けるよう教えておく必要がありそうだ」

 

 二人で笑っていると、小夜が女房に案内されて姿を見せた。俺たちが何を話していたのか尋ねられたので、弥五郎が夫婦の暮らしについて色々と教えてくれていたと答える。すると小夜は弥五郎を見て、小さく首を傾げた。

 

「まあ。殿が四郎様にどのようなお話をなさったのでしょう」

 

「大したことではない。夫婦になれば色々と気を遣うことも増えると、その程度の話だ」

 

「でしたら、四郎様。あまり殿のお言葉ばかりを当てになさらない方がよろしいかもしれません。人によって暮らし方は違いますもの」

 

 弥五郎が何か言い返そうとしたが、小夜は気にも留めず、寿殿を迎える支度について話し始めた。京から持参される品を収める場所や、付き従う女房たちのことも確かめたらしく、今のところ不都合はなさそうだという。俺が礼を述べると、小夜は柔らかく微笑んだ。

 

「寿様とは、私もゆっくりお話ししてみたいと思っております。京から近江へお越しになるのですから、慣れぬことも多いでしょう。お困りになることがあれば、私にもお手伝いできることがあるかもしれません」

 

「ありがとう、小夜。寿殿も心強く思われるだろう。どうかよろしく頼む」

 

 小夜は頷き、再び奥へ戻っていった。弥五郎はその背を見送ると、妻は自分よりも頼りになるだろうと笑った。俺もそれには異論がなかったので、素直に頷いておいた。

 

 *

 

 寿殿の輿入れ当日、朝から降っていた雨は昼前には上がった。近衛家の一行は予定通り近江へ入り、午後には観音寺城へ到着する見込みだという。先触れが届くと城内では迎えの支度が整えられ、父上も客人を迎えるために席へ向かわれた。俺は弥太郎に衣装の乱れを確かめてもらい、父上のもとへ向かった。

 

 近衛家の一行が到着すると、まず随行の者たちとの挨拶が交わされた。輿入れの手順は事前に定められており、奥の女房たちもそれぞれの持ち場で動いている。俺は父上の側に控えながら寿殿が姿を見せるのを待っていたが、いざその時が近付くと、思っていた以上に落ち着かないものだった。京で顔を合わせたことはあるし、その後も文を交わしてきた。それでも今日から夫婦となり、同じ城で暮らすのだと思うと、以前とは違った気持ちになる。

 

 やがて近衛家の者に導かれ、寿殿が姿を見せた。京で会った時よりも幾分大人びて見えたが、顔を上げた時の穏やかな表情には覚えがあった。俺が挨拶を述べると、寿殿も丁寧に頭を下げられた。

 

「長い道中、お疲れでございました。近江へようこそお越しくださいました」

 

「ありがとうございます、四郎様。お文で伺っていた観音寺城へ、ようやく参ることができました。道中も何かとお気遣いいただき、嬉しく存じます」

 

 寿殿はそう言って微笑まれた。以前に京で言葉を交わした時と同じ、柔らかな笑みだった。俺も自然と笑みを返し、今夜の祝言まで少しでも身体を休めていただきたいと伝えた。

 

「お城のことは、またゆっくりと教えてくださいませ。お文では伺いきれなかったことが、まだ幾つもございます」

 

「もちろんです。こちらも寿殿に聞いてみたいことが色々とありますから」

 

 寿殿は嬉しそうに頷かれ、女房たちに案内されて奥へ向かわれた。小夜も迎えに出ており、二人が挨拶を交わす姿が見えた。寿殿は小夜の言葉に耳を傾けた後、こちらを振り返って小さく会釈された。俺も礼を返し、その姿を見送った。

 

 今宵はいよいよ祝言である。夕刻には夫婦固めの盃を交わし、近衛家と六角家の縁組を祝う宴も始まる。父上から呼ばれて客人のもとへ戻ろうとすると、弥太郎が隣へ寄り、ようやく若様も落ち着かれたようですな、と小声で言った。

 

「そう見えるか」

 

「はい。先ほどまでは、某が声を掛けても何処か上の空でございましたから」

 

 俺は弥太郎の顔を見たが、否定する言葉が思い付かなかった。弥太郎はそれ以上からかわず、衣装の袖をそっと直してから一歩下がった。父上の待つ部屋へ向かう途中、奥から女房たちの忙しそうな声が聞こえてきた。寿殿を迎えた観音寺城では、既に今夜の祝言へ向けた支度が進められていた。

 

 夕刻が近付くと、観音寺城の奥は昼間とは違った静けさに包まれた。先ほどまで行き交っていた女房たちの姿も少なくなり、祝言のために整えられた部屋では、近衛家から付き従ってきた者たちが最後の支度を進めている。俺も衣装を改め、弥太郎に案内されて父上のもとへ向かった。廊下を歩いていると、何度も通ったはずの場所が妙によそよそしく感じられる。自分が婚姻するというのは、思っていた以上に落ち着かないものらしい。

 

 父上は既に支度を終えておられ、俺が姿を見せると、まず衣装を一通り確かめられた。いつもなら政務のことや坂田の様子を尋ねられるところだが、今はそのような話をするつもりはないようだった。俺が少し緊張していると申し上げると、父上は珍しく声を立てて笑われた。

 

「四郎にも、そのような顔をする時があるのだな。普段は年に似合わず落ち着いておるから、今日ばかりは少し安心したぞ」

 

「父上までそのようなことを仰るのですか。弥太郎や次郎だけでも十分にございます」

 

「何を申す。息子の祝言を前にして、父親が少しくらい楽しんでもよかろう。それに儂とて、そなたの婚姻を喜んでおるのだ。今日は余計なことを考えず、寿殿との祝言に臨めばよい」

 

 父上はそう仰ると、俺の肩へ軽く手を置かれた。幼い頃から見慣れた父上の顔だったが、今は当主としてではなく、父親として話してくださっているように感じられた。俺が頭を下げると、父上は満足そうに頷かれ、先に席へ向かわれた。

 

 *

 

 寿殿を迎えた日の夜、俺たちは夫婦固めの盃を交わした。

 

 近衛家と六角家、それぞれの家格に応じて整えられた婚姻の儀は滞りなく進み、居並ぶ者たちから祝いの言葉が寄せられた。寿殿は終始落ち着いた様子だったが、盃を手にした時には僅かに指先が震えているように見えた。俺が顔を向けると、寿殿もこちらを見て小さく微笑まれた。俺だけでなく、寿殿も緊張しておられるのだろう。そう思うと、先ほどまでの落ち着かない気持ちが幾分和らいだ。

 

 婚姻を祝う宴は、この夜から三日間にわたって盛大に催されることになっていた。六角家の家臣や近しい諸家から祝いが寄せられ、幕府の使者である三淵藤英殿と細川藤孝殿も、公方様からの祝儀を改めて披露された。近衛家から付き従ってきた者たちも、寿殿の婚姻が無事に整ったことを喜んでいる。儀礼の一つ一つを覚えるだけでも大変だったが、父上や次郎、弥五郎たちが嬉しそうにしている姿を見られたのは、俺にとっても喜ばしいことだった。

 

 祝言の儀が一段落すると、俺は父上とともに客人たちへ挨拶をして回った。三淵殿からは改めて祝いの言葉を頂き、細川殿からは、次に京へ来る機会があれば歌についても話しましょうと声を掛けられた。俺がまだ人に聞かせられるほどの腕前ではないと答えると、細川殿は、歌は巧拙を競うばかりのものではございませぬ、と笑われた。俺はその言葉に礼を述べ、いずれ京へ伺う楽しみが一つ増えましたと返した。

 

 その後、弥五郎が祝いの言葉を掛けに来た。他の客人たちがいるため互いに礼を崩すことはなかったが、弥五郎の口元には最初から笑みが浮かんでいる。何か言われる前に礼を述べておこうと思ったものの、どうやら間に合わなかった。

 

「右衛門督殿、改めて御婚姻おめでとうございます。寿姫様もお美しい方ですな。これからは御夫婦で力を合わせ、末永くお幸せにお過ごしください」

 

「ありがとうございます、弥五郎殿。朽木からも多くの祝いを頂き、感謝しております。小夜にもよろしくお伝えください」

 

「承知いたしました。もっとも、小夜からも直接お祝いを申し上げたいとのことでございました。後ほど奥でお会いになることもございましょう」

 

 弥五郎はそう言って頭を下げたが、去り際にこちらへ向けた顔には、明らかに何かを堪えている様子があった。どうせ後でからかうつもりなのだろう。俺は気付かぬふりをして見送った。

 

 次郎も客人への挨拶を終えたところで俺のもとへやって来た。普段の気安い様子とは違い、今日は衣装を整えている。祝いの言葉もいつになく丁寧だったが、俺が礼を述べるとすぐにいつもの表情へ戻った。

 

「兄上、これでようやく寿殿をお迎えできましたな。おめでとうございます」

 

「ありがとう、次郎。そなたも今日は随分と立派に振る舞っていたな。父上から何度も言われた甲斐があったのではないか」

 

「兄上こそ、先ほど盃を持つ手が少し固くなっておられたように見えましたが。寿殿の前で緊張しておられたのではありませんか」

 

「余計なところまで見ているな。そなたも人のことを言えまい。近衛家の方へ挨拶する前、随分と真剣な顔をしていたぞ」

 

 次郎は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに笑い出した。互いに相手の様子を見ていたことがおかしかったらしい。俺もつられて笑ってしまい、最後には次郎から、今夜くらいは兄上もゆっくり休んでくださいと声を掛けられた。普段は手合わせのことばかり話す弟だが、こういう時には気遣いもできる。俺が礼を言うと、次郎は少し照れたように笑い、客人たちのもとへ戻っていった。

 

 *

 

 宴の席が落ち着いた頃、俺は一度奥へ戻ることになった。寿殿も既に支度を改めており、女房たちに付き添われながら別の部屋で休んでいるという。俺が向かう途中、小夜が廊下の向こうから姿を見せた。寿殿のところから戻ってきたらしく、俺を見ると柔らかく微笑んだ。

 

「四郎様、このたびは誠におめでとうございます。寿様もお疲れではございますが、皆様のお祝いをとても喜んでおられました」

 

「ありがとう、小夜。今日は色々と気を遣わせてしまったな。寿殿とも話せたのか」

 

「はい。京での暮らしや近江へ参られるまでのお話を、少しばかり伺いました。寿様はお優しいだけでなく、ご自分のお考えもしっかりお持ちの方ですね。私もお話ししていて楽しくございました」

 

 小夜の言葉を聞いて、少し安心した。寿殿にとって観音寺城は初めて暮らす場所であり、周囲には知らない者も多い。近衛家から付き従ってきた女房たちがいるとはいえ、今後は六角家の者とも付き合っていかなければならない。小夜のように気兼ねなく話せる相手ができることは、ありがたいことだった。

 

「それから、四郎様。寿様は随分と四郎様のことを気に掛けておられましたよ。普段はどのようにお過ごしなのか、どんなことをお好みなのかと、色々と尋ねられました」

 

「何と答えたんだ?」

 

「それは……兄上へお尋ねになった方がよろしいかもしれませんね。私よりも詳しくお話しできるでしょうから」

 

 小夜は楽しそうに笑った。何となく嫌な予感がする。弥太郎が余計なことを話していなければよいのだが、今さら確かめたところでどうにもならない。俺が困った顔をしていると、小夜は少し声を落とした。

 

「四郎様。寿様は今日、随分と気を張っておいででした。お二人になられたら、ゆっくりお話しして差し上げてくださいませ。きっと寿様も、その方がお喜びになると思います」

 

 俺は頷き、改めて礼を述べた。小夜は小さく頭を下げると、女房たちのいる方へ戻っていった。

 

 廊下にはまだ宴の賑わいが届いていたが、奥へ進むにつれて人の声も少なくなっていく。俺は寿殿が待つ部屋へ向かいながら、京で初めて会った時のことを思い返していた。

 

 あの時は、こうして夫婦になる日が訪れることを考えないわけではなかったが、実際に迎えるとなると不思議な気分だった。寿殿とは文を通じて何度も言葉を交わしている。それでも同じ屋根の下で暮らすことになれば、今まで知らなかった一面を見ることもあるだろう。俺自身も、書状に記した通りの人間だと思われているのなら、少し困ることになるかもしれない。

 

 部屋へ入ると、寿殿は女房と何か話しているところだった。俺の姿を見ると姿勢を正し、丁寧に頭を下げられた。そのままで構わないと伝えると、寿殿は少し笑い、女房たちへ声を掛けた。やがて人が下がり、俺たちはようやく落ち着いて話せるようになった。

 

「お疲れではありませんか。京からの道中も長かったでしょうし、今日は色々と支度もありましたから」

 

「少し疲れましたけれど、それ以上に嬉しい一日でございました。四郎様のお父上をはじめ、皆様が温かく迎えてくださって……。小夜様にも、とても親切にしていただきました」

 

「小夜は大切な家族です。これからも遠慮なく頼ってください。弥五郎とも親しい間柄ですから、いずれ朽木へ遊びに行くこともあるでしょう」

 

 寿殿は嬉しそうに頷かれた。それから観音寺城での暮らしについて幾つか尋ねられ、俺は普段の政務や食事のこと、時間がある時には次郎と手合わせをすることなどを話した。

 

 寿殿は次郎のことを聞くと、先ほどの宴席でも兄上のことをよく見ておいででしたと笑われた。俺が弟は昔から負けず嫌いなのだと答えると、寿殿は、四郎様も負けず嫌いでいらっしゃるのでは、と少し悪戯っぽい顔をされた。

 

「誰から聞いたのですか、そのようなことを」

 

「小夜様からも少し伺いましたし、弥太郎殿も、四郎様は一度始めたことをなかなかおやめにならないと仰っておりました」

 

「どうやら知らないところで、随分と色々な話が進んでいたようですね」

 

 寿殿は口元へ手を添え、楽しそうに笑われた。京で会った時よりも気安く話せるようになった気がする。俺もつられて笑い、これからは寿殿のことも少しずつ教えてほしいと伝えた。寿殿は、私のことでございますか、と少し驚いた様子だったが、やがて頷かれた。

 

 その後も京の近衛家での暮らしや、好んでいた書物、季節ごとの楽しみなどについて話した。寿殿は幼い頃の鞠様のことにも触れ、今では公方様の御台所として過ごしておられる妹君が、昔は自分の後を付いて歩くこともあったのだと懐かしそうに語られた。

 

 俺も次郎との幼い頃の話をしたが、途中で随分と恥ずかしい失敗を思い出してしまい、それ以上は話さないことにした。寿殿は気付いたらしく、続きが気になりますと笑っておられた。

 

 *

 

 夜も更け、外から聞こえていた宴の声も次第に遠くなった。女房が一度だけ様子を見に来たが、寿殿がもう少し二人で話していたいと伝えると、静かに下がっていった。

 

 俺は寿殿の隣に座り直し、明日からも祝いの席が続くのだから、あまり無理をしない方がよいと声を掛けた。寿殿は頷かれたものの、先ほどまでとは少し違った表情をしていた。

 

 膝の上で重ねた指を見つめ、何かを言い掛けては口を閉じている。俺がどうかしたのかと尋ねると、寿殿は少し迷った後、ゆっくりと顔を上げられた。

 

「四郎様。一つ、お話ししておきたいことがございます。以前からお伝えしなければと思っていたのですが、なかなか言い出せずにおりました」

 

「何でしょう。遠慮せずに話してください」

 

 寿殿は小さく息を整え、しばらく俺の顔を見つめていた。やがて視線を落とし、朝倉家へ嫁いでいた頃のことを話し始められた。

 

「四郎様も御存じかと思いますが、私は以前、朝倉のお家へ嫁いでおりました。けれど、子を授かることができず……。それも理由の一つとなって、近衛の家へ戻されることになりました」

 

 その話は以前から聞いていた。寿殿が一度婚姻し、朝倉家から近衛家へ戻ってきたことも知っている。だが、寿殿自身がその時のことを語るのは、俺にとって初めてだった。落ち着いた声で話そうとしておられたが、膝の上で重ねた手には力が入っているように見えた。

 

「近衛では、私を責めるようなことは誰も仰いませんでした。けれど、嫁ぎ先で子を授かることができなかったのは事実にございます。今度こそと思いながらも、もしまた同じことになってしまったらと……。どうしても考えてしまうのです」

 

 寿殿はそこで言葉を切った。

 

 六角家の嫡男である俺に跡継ぎが求められることは、寿殿も承知しているのだろう。夫婦となったばかりの夜に、この話をしなければならないと考えていたのかと思うと、胸の奥が少し痛んだ。

 

 俺は寿殿の手へ自分の手を重ねた。寿殿は驚いたように顔を上げられたが、手を引こうとはされなかった。

 

「寿。そのようなことを案じる必要はない」

 

「ですが、四郎様には六角のお家を継ぐという、大切なお役目がございます。お子を授かることができなければ、いずれ御家の方々からも……」

 

「跡継ぎが大切なのは分かっている。子が授かれば嬉しいし、父上もお喜びになるだろう。だが、それと寿を妻として迎えたことは別の話だ。子が授からなかったからといって、寿を送り返すようなことはしない。そこは安心してほしい」

 

 寿殿は何か言おうとされたが、すぐには言葉が出てこないようだった。俺は重ねた手を握り直し、できるだけ普段通りの声で話を続けた。

 

「それに、幸運だったと思っている」

 

「……幸運、でございますか?」

 

「ああ。こうして寿を妻として迎えることができたのだからな。京で初めて会った時から、もっと話してみたいと思っていた。文を交わすうちに、その気持ちも強くなった。だから今日という日を迎えられたことが嬉しい」

 

 俺が笑うと、寿殿は目を見開き、しばらく何も言わずにこちらを見つめていた。やがて俯いた頬を、一筋の涙が伝った。慌てて何か言おうとしたが、寿殿は小さく首を振り、涙を拭いながら微笑まれた。

 

「……四郎様は、少しずるいお方ですね」

 

「そうだろうか。別におかしなことは言っていないつもりだが」

 

「そのようなことを仰られては……嬉しくて、泣いてしまいます」

 

 寿殿は涙を拭い終えると、俺の手を両手で包むように握られた。先ほどまで強張っていた表情も、幾分和らいだように見える。俺はその顔を見て、もう一度笑い掛けた。

 

「これからは二人で暮らしていくんだ。何か心配なことがあれば、こうして話してほしい。こちらもそうする。せっかく夫婦になったのだから、遠慮ばかりしていても仕方がないだろう」

 

「……はい。ありがとうございます、四郎様。私も四郎様のお側で、精一杯努めてまいります」

 

「そんなに気負わなくても構わない。まずはこの城での暮らしに慣れてもらえれば十分だ。分からないことがあれば、家中の者に尋ねてもよいし、直接聞いてくれても構わない。遠慮する必要はないからな」

 

 寿殿は頷かれた後、少しだけ笑みを深くされた。俺はその表情を見て、ようやく肩の力を抜いた。今まで文を交わしてきたとはいえ、互いに知らないことはまだ多い。これから一緒に暮らす中で、少しずつ知っていけばよいのだろう。

 

 しばらくすると、寿殿がそっと身を寄せてこられた。俺はその肩を抱き寄せ、少しの間、何も言わずにいた。寿殿の髪から微かに香の匂いがする。昼間は多くの客人に囲まれ、挨拶を交わすだけでも慌ただしかったが、今はこうして二人だけで静かに過ごしている。何度も思い描いたはずの婚姻が現実になったことを、ようやく実感できた気がした。

 

「四郎様」

 

「どうした?」

 

「これから、どうぞよろしくお願いいたします」

 

「ああ。こちらこそ、よろしく頼む。寿」

 

 寿殿が顔を上げられたので、頬に残っていた涙を指先でそっと拭った。寿殿は恥ずかしそうに微笑まれ、俺の衣の袖を軽く握られた。俺が少し身を寄せると、寿殿は目を伏せ、そのまま静かに身を預けてこられた。

 

 灯明の火が小さく揺れ、部屋の外から聞こえていた物音もいつしか途絶えていた。俺は寿の手を握ったまま、もう少しだけ側へ寄った。寿もその手を握り返し、穏やかな笑みを浮かべる。言葉を交わさずとも、互いの気持ちは十分に伝わっていた。

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