俺も猿夜叉丸も二匹のまま、千代丸だけが一匹も釣れない。小夜は猿夜叉丸の隣に座り、魚籠の中を覗いては嬉しそうにしていた。千代丸が仕掛けを上げるたびに、まだ釣れていないことを確認しては、何とも言えない顔をしている。
その時だった。
猿夜叉丸の竿が大きく曲がった。
先ほどまでとは明らかに違う。
竿先が一度沈み、次の瞬間には水面へ引き込まれそうなほど大きくしなった。猿夜叉丸が慌てて竿を立てると、強い力で糸が引かれた。身体まで前へ持っていかれそうになり、俺は反射的に立ち上がった。
「猿夜叉丸!」
「だ、大丈夫にございます!」
「離すな。だが無理に引くな!」
猿夜叉丸は両手で竿を握り直した。竿が軋み、糸が水面を走る。魚は水中で大きく動き回っているらしく、猿夜叉丸の身体が引かれるたびに足元の砂が崩れた。
水面が大きく揺れた。
魚の姿はまだ見えない。だが、先ほど釣った二匹とは明らかに引きが違う。小さな魚なら、これほど竿を曲げることはない。仕掛けが耐えられるかどうかも分からないほどの力だった。
猿夜叉丸は歯を食いしばり、両手で必死に竿を握っている。小夜も立ち上がり、千代丸まで自分の竿を置いてこちらへ駆け寄ってきた。供の者たちも異変に気付いたのか、少し離れた場所からこちらへ目を向けている。
俺は猿夜叉丸のすぐ横まで移動し、水面と糸の向きを見る。魚がどちらへ走っているのかを確認し、糸が葦や石へ絡まないよう猿夜叉丸の立つ位置を少しだけ変えた。
「魚が引いている時は耐えろ。弱くなったら、ゆっくり引くのじゃ」
猿夜叉丸が頷く。
返事をする余裕もないのか、声は出さなかった。ただ、竿を握る手にさらに力を込めている。力任せに引けば糸が切れる。かといって緩め過ぎれば魚に逃げられる。その加減を、猿夜叉丸は必死に探っていた。
魚の引きが僅かに弱くなった。
「今じゃ」
猿夜叉丸が竿を引く。
水面が大きく割れた。
一瞬だけ、魚体が朝の光を反射する。水面の下を走った影は、先ほどまで釣っていた魚とは比べものにならないほど大きかった。
小夜が息を呑んだ。
確かに大きい。
少なくとも、俺たちがここまで釣った魚とは比べものにならなかった。猿夜叉丸の魚籠に入っている二匹を合わせても、今掛かっている魚の方が大きいだろう。
「猿夜叉丸、もう少しじゃ!」
「はい!」
猿夜叉丸の声にも力が入る。
先ほどまでの慎重さも、俺に対する遠慮も、今はどこにもない。ただ目の前の魚を釣り上げようと、必死になっている。竿を握る手は震えているが、決して離そうとはしなかった。
俺もいつの間にか、自分が勝負をしていることを忘れていた。俺の魚籠に何匹入っているかも、千代丸がまだ一匹も釣れていないことも、今はどうでもよかった。猿夜叉丸が初めての釣りで掛けた大物を、何としても取り込ませてやりたい。
「そのままじゃ。焦るな!」
もう一度、水面が大きく揺れた。
もう一度、水面が大きく揺れた。魚は岸へ近付いたかと思えば、再び沖へ向かって走ろうとする。猿夜叉丸の竿が大きくしなり、張り詰めた糸が水面を斜めに切った。ここで焦って力任せに引けば糸が切れるかもしれない。俺は猿夜叉丸の横に立ったまま、魚の動きと竿の曲がりを見比べた。手を貸すことは簡単だ。だが、それでは意味がない。せっかく自分で掛けた魚なのだから、出来る限り自分の力で釣り上げさせてやりたかった。
「まだ引くな。魚が疲れるまで耐えろ」
「はい!」
返事はしたものの、猿夜叉丸にも余裕はない。両手で握った竿から目を離さず、魚が走れば耐え、引きが弱くなれば少しずつ竿を立てる。最初の二匹を釣った時とはまるで違い、額には汗が浮かび、足元も何度か動いている。それでも竿だけは離さなかった。小夜もいつの間にか猿夜叉丸のすぐ後ろまで来ており、先ほどまで千代丸をからかっていた時とは違って、声を出すことも忘れたように水面を見つめている。千代丸も自分の竿を置いたまま、魚が姿を見せるたびに身体を乗り出していた。
魚が再び水面近くまで上がってきた。水中に見える魚影だけでも、これまでのものとは明らかに違う。猿夜叉丸が釣った二匹はもちろん、俺が釣った魚と比べても一回りどころではなかった。ここまで来れば、あとは岸へ寄せられるかどうかだ。
「猿夜叉丸、少しずつこちらへ寄せろ。急ぐな」
「はい」
短い返事とともに、猿夜叉丸がゆっくり竿を引く。それに合わせるように魚が岸へ近付いてくる。途中で一度大きく暴れ、猿夜叉丸の身体が前へ引かれたが、踏ん張って耐えた。俺も思わず手を伸ばしかけたものの、猿夜叉丸は自分で体勢を立て直した。
「そのままじゃ。もう少し……魚が水面へ浮かび上がったら、今じゃ、上げろ!」
「はい!」
猿夜叉丸が力を込めて竿を引く。魚が激しく水を跳ね上げながら岸へ寄り、最後まで逃げようと身体を振っていたが、もはや水深は浅い。俺は足元まで来た魚を逃がさないよう手を伸ばし、猿夜叉丸が糸を緩めないまま岸へ引き上げるのを手伝った。濡れた魚が地面の上で大きく跳ねる。一瞬、誰も何も言わなかった。
猿夜叉丸は竿を握ったまま、目の前の魚を見つめている。自分が本当にこれを釣ったのか信じられないような顔だった。
「……釣れたぞ」
俺が言うと、猿夜叉丸がゆっくりこちらを見る。次の瞬間、その顔が一気に崩れた。
「やった!」
大きな声が湖岸に響いた。俺は思わず目を瞬いた。昨日会ってから、猿夜叉丸がここまで感情を露わにしたところを初めて見た。俺と話す時にはどこか遠慮があり、言葉を返す前にも一度考える。釣りを始めてからは随分とそれも薄れていたが、それでも完全になくなったわけではなかった。今は違う。俺が六角の嫡男であることも、自分が浅井の嫡男としてここにいることも忘れているようだった。ただ大きな魚を釣り上げたことが嬉しくて仕方がない。そんな顔をしている。
「猿夜叉丸様、すごいです!」
小夜が駆け寄ると、猿夜叉丸は興奮したまま魚を指した。
「大きゅうございます!」
「某が釣ったのじゃ!」
「見ておりました!」
その声も普段より随分と大きい。千代丸も近寄って魚を覗き込み、素直に感心している。俺も改めて魚を見たが、やはり大きい。少なくとも今日ここまで釣れた中では文句なしに一番だった。
「やるではないか」
声を掛けると、猿夜叉丸がこちらを見た。
「はい!」
満面の笑みだった。俺に褒められたからというより、自分で大物を釣り上げたことが嬉しいのだろう。そういう顔だった。
「だが、まだ勝負は終わっておらぬぞ」
少し意地悪く言うと、猿夜叉丸の表情が変わった。
「某が一番大きな魚を釣りました」
「だから何じゃ」
「某の勝ちではございませぬか?」
「まだ分からぬ。俺がもっと大きな魚を釣るかもしれぬぞ」
猿夜叉丸は一瞬黙った後、魚を見た。
「これよりも大きな魚が釣れるのでございますか?」
「琵琶湖じゃぞ。これより大きな魚などいくらでもおる」
実際に今日ここで釣れるかどうかは別の話だが、猿夜叉丸はすぐに竿を持ち直した。
「ならば、某ももっと大きな魚を釣りまする」
「望むところじゃ」
どうやら完全に火が付いたらしい。釣った魚を魚籠へ入れる時にも何度か振り返り、魚がちゃんと入っていることを確認している。小夜もその横から魚籠を覗き込み、先ほどの魚がどれだけ大きかったかを何度も口にしていた。俺も自分の場所へ戻り、再び仕掛けを水へ入れた。
そこからもしばらく釣りは続いた。日が高くなるにつれて気温も上がり、朝の涼しさはすっかり消えていた。湖面から照り返す光も強くなり、風が止まると額に汗が浮かぶ。父上との約束もある。いつまでも続けているわけにはいかない。それでも、せめて猿夜叉丸の大物を超える魚を釣ってから帰りたい。そう考えている自分に気付き、少し笑った。前世でも同じだった。あと一匹だけ、もう少しだけ。そうやって帰る時間を延ばしていた。身体が子供になっても、こういうところは何も変わっていないらしい。
俺はその後も何匹か釣った。猿夜叉丸も魚を増やしたが、あの大物を超えるものは釣れなかった。魚が掛かるたびに一瞬期待した顔をするものの、水面から姿を見せた魚が先ほどより小さいと分かると、少し残念そうな顔をする。それでも釣れれば嬉しいらしく、魚籠へ入れる時には笑っていた。そして千代丸は、まだ釣れていなかった。
「……何故じゃ」
少し離れたところから声が聞こえた。見ると、千代丸が水面を睨んでいる。
「魚に嫌われておるのではないか?」
「若様」
「冗談じゃ」
「目が笑っております」
よく見ている。俺と猿夜叉丸は既に何匹も釣っている。場所が悪いのかと思って途中で移動もしたし、餌も何度か付け直した。それでも千代丸の竿だけには魚が掛からない。小夜も兄が可哀想になってきたのか、先ほどまでのようにからかわなくなっていた。代わりに千代丸の横へ行き、竿先を一緒に眺めている。
「兄様、まだ時間はございます」
「分かっておる」
「きっと釣れます」
「……先ほどまで笑っておったではないか」
「応援することにしたのでございます」
「最初からそうしてくれ」
兄妹の会話を聞きながら、俺は自分の仕掛けへ餌を付け直した。そろそろ終わりにしなければならない。空を見上げると日は随分高く、帰る時間を考えれば、あと少しが限界だろう。
「千代丸」
「はい」
「もう少ししたら戻るぞ」
「……はい」
返事には明らかな未練があった。気持ちは分かる。皆が釣れて自分だけ釣れないまま帰るのは悔しいだろう。俺も前世で周りばかり釣れて自分には何の反応もない時、同じような気分になったことがある。
「まだ少し時間はある」
「必ず釣りまする」
「その意気じゃ」
そう言った直後、小夜が声を上げた。
「兄様!」
千代丸の竿先が動いている。
「千代丸、掛かっておるぞ!」
「分かっております!」
先ほどまで水面を睨んでいた千代丸が慌てて竿を上げた。軽い。猿夜叉丸の大物とは比べるまでもない。それでも確かに魚は掛かっていた。水面から小さな魚が飛び出す。
「釣れた!」
小夜が嬉しそうに声を上げ、千代丸も一瞬笑った。だが、すぐに魚を見る。
「……小さい」
確かに小さい。今日釣れた中でも、一番小さいかもしれない。
「釣れただけ良いではないか」
「若様」
「なんじゃ」
「笑っておられます」
「笑っておらぬ」
「では何故、口元が緩んでおられるのでございます」
千代丸は不満そうだったが、それでも魚を逃がすつもりはないらしい。慎重に針を外して魚籠へ入れた。
「兄様も釣れましたね」
「うむ」
「一匹です」
「数を言う必要はない」
小夜が笑い、俺も猿夜叉丸もつられて笑った。千代丸は不満そうな顔をしていたが、魚籠へ入れた一匹を何度も確認している。小さくても、自分で釣った魚は嬉しいのだろう。これで三人とも釣れた。
「そろそろ戻るぞ」
今度は誰も反対しなかった。俺たちは仕掛けを片付け、釣った魚を確認した。数だけなら俺が一番多い。猿夜叉丸も初めてとは思えないほど釣っているが、俺には届かなかった。そして千代丸は一匹。問題は大きさだ。猿夜叉丸が釣ったあの一匹だけが、明らかに抜けている。それでも俺は魚籠を見比べ、満足して頷いた。
「俺の勝ちじゃな」
そう言うと、猿夜叉丸がこちらを見た。
「何故でございます?」
「何故も何も、俺が一番多く釣っておる」
当然のことを言ったつもりだったが、猿夜叉丸は納得しなかった。
「されど、一番大きな魚を釣ったのは某にございます」
「大きさではなく、数であろう」
「そのようなこと、最初には申されませんでした」
言われて、朝のことを思い返す。三人で勝負するか。俺が言ったのは、それだけだ。何匹釣れば勝ちとも、一番大きな魚を釣った者が勝ちとも決めていない。猿夜叉丸の言う通りだった。
「……今決めた」
「それはずるうございます!」
即座に返され、思わず言い返そうとして、やめた。ずるい。確かにずるい。自分に都合の良い条件を、勝負が終わってから決めているのだから反論のしようがない。だが、猿夜叉丸は俺に言い返した直後、自分が何をしたのか気付いたらしい。表情から先ほどまでの勢いが消えた。
「……申し訳ございませぬ」
その言葉を聞いた瞬間、昨日のことを思い出した。俺の前で笑っただけで謝った猿夜叉丸。父上に言われたことも思い出す。六角の嫡男が欲しいと言えば、それを命と受け取る者もいる。俺が頼んだつもりでも、相手には命じられたとしか聞こえないこともある。俺は猿夜叉丸の顔を見た。
「謝るな」
「ですが――」
「お前が正しい」
猿夜叉丸が目を瞬いた。
「最初に決めておらなんだ。それを後から俺に都合よく決めた。俺が悪い」
「……よろしいのでございますか?」
「良いも何も、そうであろう」
勝負に負けるのは悔しい。しかも自分から言い出した勝負だ。だが、それと自分が間違っていることは別だった。俺が六角の嫡男だからといって、間違いまで正しくなるわけではない。
「若様が御自分の非を認められた……」
横から千代丸の声がした。
「千代丸。どういう意味じゃ」
「そのままの意味にございます」
「お前は俺を何だと思っておる」
千代丸は答えなかった。代わりに小夜が笑い、猿夜叉丸も一瞬迷った後、吹き出した。俺もつられて笑う。さっきまでの固い空気は、あっという間に消えた。
「では、誰の勝ちにする?」
俺が聞くと、千代丸が一歩下がった。
「某に聞かないでいただきとうございます」
「何故じゃ」
「若様を選べば猿夜叉丸殿が納得されませぬし、猿夜叉丸殿を選べば若様が文句を申されるでしょう」
「俺がそんなことをすると思うか?」
「はい」
即答され、猿夜叉丸がまた笑った。小夜も兄の言葉に頷く。
「兄様の申す通りにございます」
「小夜まで何を言う」
俺だけが納得出来ない。だが、三人とも同じような顔をしているのを見ると、反論すればするほど自分が不利になる気がした。
「ならば小夜。そなたが決めよ」
「私でございますか?」
「釣りをしておらぬのだから、一番公平であろう」
小夜は少し考え、俺の魚籠、次に猿夜叉丸の魚籠、最後に千代丸の魚籠を見た。千代丸が何故自分まで見るのかと言いたそうな顔をしたが、小夜は気にしなかった。
「猿夜叉丸様です」
「何故じゃ」
「一番大きなお魚を釣りましたから」
やはりそこか。
「数なら俺の方が――」
「若様」
千代丸が呆れた顔で俺を見る。
「……分かった」
仕方なく認めると、猿夜叉丸は嬉しそうに笑った。
「某の勝ちにございます」
「今回はな」
「次も負けませぬ」
「言ったな」
俺も笑った。こうして、最初から勝ち方すら決めていなかった釣り勝負は、猿夜叉丸の勝ちで終わった。
釣り道具を片付け、俺たちは来た道を観音寺城へ向かって戻り始めた。日が高くなったことで朝とは比べものにならないほど暑くなっていたが、湖から吹いてくる風にはまだ涼しさが残っている。釣りをしている間は気にならなかった疲れも、歩き始めると少しずつ身体に出てきた。それでも猿夜叉丸の機嫌は良かった。釣った魚の入った魚籠を自分で持つと言って譲らず、供の者が代わりに持とうとしても首を振り、大事そうに抱えて歩いている。小夜はその隣で何度も魚籠の中を覗き込み、そのたびに先ほどの大きな魚について猿夜叉丸へ話し掛けていた。千代丸も自分の魚籠を持っているが、中身はあの一匹だけだ。それでも置いていこうとはしなかった。
俺はそんな三人の少し前を歩きながら、時折後ろを振り返った。昨日まで、猿夜叉丸について俺が知っていたことなどほとんどない。浅井久政の嫡男で、いずれ浅井家を継ぐ人物。前世の歴史では浅井長政として知られ、『淡海乃海』でも重要な人物の一人だった。小夜についても同じだ。平井定武の娘であり、いずれ朽木基綱の妻になる。それだけだった。どちらも俺にとっては未来の出来事と結び付いた「知っている名前」でしかなかった。
だが、今日一日を一緒に過ごしただけでも、それまで知らなかったことはいくつもあった。猿夜叉丸は思っていた以上に負けず嫌いで、初めての釣りでも俺に勝とうとする。大きな魚が掛かれば周りのことなど忘れて夢中になり、釣り上げれば大声で喜ぶ。小夜は相手が俺であろうと猿夜叉丸であろうと遠慮なく物を言い、千代丸をからかうこともあれば、釣れなければ横に座って応援もする。そして千代丸は、この三年間で俺への遠慮が随分となくなった。俺が勝負の条件を後から決めようとすれば呆れた顔をし、猿夜叉丸とどちらが勝ったか聞けば平然と俺が文句を言うだろうと答える。最初に会った頃の千代丸なら、まず口にしなかった言葉だろう。
「亀松丸様」
後ろから呼ばれて足を緩めると、猿夜叉丸が少し早足で追い付いてきた。抱えていた魚籠を一度見下ろした後、何か言いたそうに俺を見る。
「なんじゃ?」
「……また、釣りへ参ってもよろしいでしょうか」
思いがけない問いに、俺は猿夜叉丸を見る。昨日、俺が釣りへ誘った時には嬉しそうにしながらも、すぐに自分の立場を思い出したような顔をしていた。それが今は、自分から行きたいと言っている。
「ああ。次も父上たちが良いと言えばな」
「はい!」
「ただし、次は負けぬぞ」
そう付け加えると、猿夜叉丸は魚籠を抱え直しながら笑った。
「某も負けませぬ」
その返事に、俺も笑った。次があるかどうかは俺だけでは決められない。父上の許しも必要だし、阿古の方がどう考えるかもある。それでも、少なくとも今日ここへ来たことを猿夜叉丸が嫌がっていなかったことだけは分かる。それなら十分だった。
再び歩き始めながら、俺は先ほどまで考えていたことへ意識を戻した。俺は猿夜叉丸の未来を知っている。小夜の未来も知っている。けれど今日まで、二人がどんな人間なのかは知らなかった。考えてみれば当たり前の話だ。歴史に残るのは、その人間が何をしたかという結果がほとんどで、何を好み、何を嫌い、何を見て笑ったのかまで細かく残るわけではない。『淡海乃海』だって同じだ。俺が覚えているのは物語の中で起きた出来事や、そこで誰がどう動いたかということが中心であって、その人間の全てを知っているわけではない。
猿夜叉丸と小夜がそうだった。ならば――竹若丸も、同じなのだろうか。
その名前が頭に浮かんだ瞬間、足が僅かに遅くなった。湖から吹いてきた風が、汗ばんだ頬を撫でていく。三年前、父上から朽木宮内少輔晴綱が討死し、その嫡男である竹若丸が家督を継いだと聞いた。それ以来、ずっと気にはしていた。前世で読んだ『淡海乃海』の主人公。後に朽木基綱となる人物。そして、俺がこの世界を『淡海乃海』の世界ではないかと疑う最大の理由になるはずの存在だ。
だが、俺はまだ、竹若丸本人を知らない。
三年間、俺は何をしていた。父上の評定へ顔を出し、関銭について考え、一つの関で試しに銭を下げ、商人や荷駄の数を調べた。市にも手を入れ、上手くいったこともあれば、思ったような結果が出なかったこともある。その度に父上や家臣たちから教えられ、間違えればやり直した。三年かけて進めたものは、六角という大きな家全体から見れば僅かな変化に過ぎない。それでも俺にとっては、この時代で国を動かすということを覚えるために必要な三年間だった。
けれど、俺には父上がいた。失敗しても、その責任を最後に負うのは父上だった。評定には経験を積んだ家臣たちがおり、俺が妙なことを言えば止めてくれる。関銭の試みだって、俺一人で勝手に始めたわけではない。父上が許し、実際に動く者たちがいて初めて出来たことだ。
竹若丸は違う。
父親を失い、幼くして家督を継いだ。もちろん、子供一人ですべてを決めているわけではないだろう。朽木にも家臣はいる。経験を積んだ大人が支えているはずだ。それでも、俺が「六角の嫡男」として父上の後ろから学んでいた三年間を、竹若丸は「朽木の当主」として過ごしていた。その違いは小さくない。
前世の記憶を辿れば、この頃の竹若丸が何をしていたか、ある程度は思い出せる。けれど、今日の猿夜叉丸を見た後では、記憶の中にある出来事だけを並べて分かったつもりになることが、急に気持ち悪く感じられた。
記憶の中にいる竹若丸ではなく、今、この時に朽木で何をしているのか。それを知りたい。
「若様!」
後ろから千代丸に呼ばれ、我に返った。いつの間にか考え込みながら一人で先へ進んでいたらしい。振り返ると、千代丸たちは少し離れたところにいる。俺が立ち止まると、三人が追い付いてきた。
「何を考えておられたのでございます? また関銭のことでございますか?」
「違う」
「では、市のことで?」
「それも違う」
千代丸が首を傾げた。
「ならば、何を考えておられたのでございます?」
「……朽木のことじゃ」
「朽木?」
「ああ」
それ以上は説明しなかった。今ここで話したところで、どう説明すればよいのか自分でも分からない。ただ、一つだけはっきりしたことがある。
俺は六角の嫡男だ。父上は三年前、朽木の家督が竹若丸へ移ったことを知っていた。当然、その後の朽木についても何らかの情報を持っているはずだ。俺自身に調べる手段がなくても、父上に尋ねることは出来る。
道の向こうには観音寺城の山が見えていた。振り返れば、そのさらに向こうに琵琶湖が広がっている。朝から眩しかった湖面は、今では高く昇った日に照らされ、白く光っていた。
三年。
俺にとっては、父上の後ろで学ぶことの出来た三年だった。
竹若丸にとっては、どんな三年だったのだろう。
城へ戻ったら、父上に聞いてみよう。
――竹若丸。
お前は、この三年間をどう生きた?