永禄五年七月上旬、近江国坂田郡柏原。
柏原を確保して三日目の朝、陣所の外では出陣を控えた兵たちが慌ただしく行き交っていた。先の戦で傷んだ武具の修繕も進み、荷駄を引く馬には新たな荷が積まれている。兵糧や矢弾の補充もおおむね終わり、軍勢を動かす支度は整いつつあった。ただ、兵たちの様子を見れば、戦の疲れが十分に抜けていないことは明らかだった。傷を負った者の中には仲間に肩を借りて歩く者もおり、槍や具足を手入れする兵たちの顔にも疲労の色が残っている。後続の到着によって九千ほどまで膨らんだ六角軍も、そのすべてを美濃へ向かわせるわけにはいかなかった。
本陣へ戻ると、蒲生下野守と進藤山城守が既に待っていた。二人とも各隊の状況を確かえてきたらしく、損害を受けた兵や後方へ残す者を除けば、今回の進軍に加われるのは六千余りになるという。残る兵には負傷者の手当てや坂田の警固を任せるほか、後続の荷駄を守る役目も与えなければならない。六角軍が不破郡へ進めば、観音寺から続く兵糧の輸送路はこれまで以上に長くなる。今須から関ヶ原にかけての地形を考えても、敵に後方を脅かされる危険は小さくなかった。
「右衛門督様、先鋒は明朝にも発てます。ただ、備中守が今須に兵を残しているかどうか、まだ確かなところが分かっておりませぬ」
下野守は絵図に目を落とし、柏原から東へ続く街道を指した。日根野備中守は坂田から退いた後も軍勢をまとめているらしく、関ヶ原方面で兵を集めているとの報告がある。醒井の戦ではこちらの伏兵へ素早く対処し、敗れた後も隊列を保ったまま退却していた。兵を無駄に失うような将ではない以上、今須から先の何処かで再び迎え撃つつもりなのだろう。
「今須に大きな備えがなければ、そのまま関ヶ原へ進まれますか」
「いや、今須で一度兵を整えたい。備中守が関ヶ原にいるのであれば、山道へ不用意に踏み込むわけにはいかん」
「承知いたしました。では、先鋒は今須の確保を優先いたします」
下野守が頷くと、山城守も街道の守りについて確認してきた。先の戦で損害を受けた隊があるため、後方へ残す兵を選ぶにしても、以前と同じ働きを求められるとは限らないという。特に山城守の兵は林の中で敵に追われ、負傷者も少なくなかった。今すぐ全軍を前へ進ませるより、後方の警固と兵糧の輸送路を確保する方がよいだろう。
「山城守、後ろのことは頼む。備中守は退いたとはいえ、まだ軍勢を失ったわけではないからな」
「御意。関ヶ原へ進まれる間、兵糧の道を断たれるようなことはいたしませぬ」
「頼もしいな。これなら下野守も安心して先へ進めるだろう」
「安心し過ぎるのも考えものでございますぞ。備中守には、これまで幾度となく手を焼かされておりますゆえ」
下野守の言葉に、山城守が僅かに笑った。二人とも先の戦で日根野の手強さを十分に思い知らされている。俺も笑みを返したが、今回も容易に勝てるとは考えていなかった。六千余りの兵を率いているとはいえ、狭い街道では数の利を十分に生かせない。両側の山裾を敵に押さえられれば、前へ出た兵から順に攻撃を受けることになる。まして後方を断たれれば、兵糧を運ぶことさえ難しくなりかねなかった。
そこへ篠が姿を現した。関ヶ原方面へ入っていた甲賀の者たちから、新たな知らせが届いたという。
「今須に残る一色の兵は少数にございます。主だった軍勢は既に東へ退いており、関ヶ原の西では街道を塞ぐための木を集めているようです。また、山裾には弓や鉄砲を持つ者の姿も見られました」
「備中守は関ヶ原で迎え撃つつもりか」
「その可能性は高いかと。ただ、備中守本人が何処にいるかまでは確かめられておりませぬ」
篠の話では、関ヶ原へ続く道の両側にも物見が置かれているらしい。木を運ぶ者たちの周囲には武装した兵がおり、村人が近付くことも厳しく制限されているという。既に柵を築いているのか、それとも倒木で街道を塞ぐつもりなのかまでは分からなかったが、一色方が地形を利用して六角軍の進軍を妨げようとしていることは間違いなさそうだった。
俺は絵図の上で今須から関ヶ原へ続く道筋を確かめた。山裾へ兵を伏せることのできる場所が幾つかあり、街道の幅も場所によって異なるらしい。敵が倒木や柵を使って道を塞げば、こちらは狭い場所へ兵を集めることになる。そこへ斜面から弓や鉄砲を射掛けられれば、容易には前進できないだろう。
「よかろう。明朝、予定どおり出陣する。今須へ入ってから敵の備えを確かめよう」
俺がそう告げると、下野守と山城守は席を立った。山城守には柏原から今須へ続く街道の警固を改めて頼み、後続の荷駄が滞らぬよう手配してもらう。下野守は先鋒の支度を整えるため持ち場へ戻り、軍議はそこで終わりとなった。
残された絵図を眺めていると、弥太郎が出立の支度について知らせに来た。馬や武具の用意は既に整っており、使者に持たせる書状もまとめてあるという。各隊への命令も行き渡っているらしく、明朝には予定どおり軍勢を動かせる見込みだった。
「若様、明朝は夜明け前から騒がしくなりましょう。今夜は早めにお休みくだされ」
「そうしたいところだが、まだ確かめておきたい書状がある。先に夕餉を運ばせてくれ」
「承知いたしました。ですが、夜更かしはなさいませぬように」
「分かっている。弥太郎にも長く付き合わせるつもりはない」
弥太郎は少し疑わしそうな顔をしたものの、それ以上は何も言わずに退出した。
今回の出陣では各所から届く書状や報告が以前より随分と増えている。兵の数や兵糧の残り、街道の状態に敵の動向と、目を通さなければならないことは多い。ただ、すべてを俺一人で確かめるわけにもいかないし、諸将が既に判断していることまで逐一口を挟めば、かえって仕事を増やすことになる。必要な情報を見落とさず、任せるべきところは任せる。その加減については、まだ慣れていないところがあった。
もっとも、弥太郎の言うことにも一理ある。疲れたまま戦場へ向かい、肝心なところで判断を誤っては意味がない。醒井の戦では、北の林から知らせが届かぬ間、ただ待つことさえ随分と長く感じられた。あのような場面で頭が働かなくなれば、取り返しのつかない命令を出してしまうかもしれない。
俺は手元の書状を確かめ終えると、急ぎでないものを明朝へ回した。弥太郎には予定どおり休むことを伝え、翌日の進軍に備えることにした。
*
翌朝、六角軍は柏原を発ち、今須へ向かった。
先鋒を率いる下野守が先に進み、俺は主力を伴って後に続いた。街道には昨夜の雨でぬかるんだ場所もあったが、行軍そのものに大きな支障はない。荷駄の進み具合を確かめながら兵を動かし、道が狭くなる場所では隊列の間隔を調整させた。途中、一色の小勢と接触したとの知らせが届いたものの、敵は矢を射掛けると東へ退いたらしい。下野守も深追いはせず、周辺の林や小道を調べながら進軍を続けていた。
昼過ぎには今須へ入ることができた。
集落の外れでは、兵の姿を見た百姓たちが慌てて家へ戻っていく。街道沿いには戸を閉ざした家も多く、一色の兵が退いたからといって住民が俺たちを歓迎しているわけではなかった。むしろ昨日までとは違う軍勢が現れたことに、警戒を強めているようだった。
村の年寄りを呼んで事情を聞いてみると、一色方が退く際に食糧を持ち去り、村に残された米が少なくなっているという。家々から集められた米のほか、兵を運ぶために人足を求められたこともあったらしい。今須は近江と美濃を結ぶ街道に面しているだけに、軍勢が通るたび何らかの負担を強いられてきたのだろう。
「六角様が参られたことは承知しております。されど、これ以上米を差し出せと申されましても、村にはほとんど残っておりませぬ」
年寄りは地面へ額を近付けるほど深く頭を下げた。何を言われるか分からず、随分と怯えているようだった。こちらとしては村の事情を聞くために呼んだだけなのだが、相手にしてみれば、新たな軍勢から何を要求されるのか分からないのだから無理もない。
「顔を上げてくれ。今のところ、村へ米を差し出させるつもりはない。必要なものは持参している」
「……まことでございますか」
「ああ。ただし、この先も軍勢が留まることになれば、何かと世話になることはあるだろう。その際には、勝手に取り立てることのないよう申し付けておく」
年寄りは何度も礼を述べたが、まだ安心した様子ではなかった。昨日までは一色の兵が通り、今日は六角の兵が入ってきたのである。領主が替わるかもしれないというだけでも不安だろうに、軍勢が進むたびに米や人足を求められては暮らしが立ち行かなくなる。こちらが何を約束したところで、実際に兵がどのように振る舞うかを見なければ信用できないのだろう。
俺は村の周囲へ兵をまとめて置き、民家への無断の立ち入りを禁じた。兵糧は持参したものを使わせ、必要な水や薪についても担当の者を通して手配する。今須に長く留まるつもりはないが、軍勢が去った後に余計な恨みを残す必要もない。今後も不破の村々を通ることになる以上、六角の兵が何をするのかを住民たちも見ているはずだった。
その日の夕刻、下野守が本陣を訪れた。
「右衛門督様、関ヶ原の守りについて新たな知らせが届きました。街道には倒木が置かれ、斜面にも兵が伏せているようにございます。備中守も相応の支度を整えて待ち受けているのでしょう」
「坂田から退いて以来、こちらを迎え撃つ場所を探していたのだろうな」
「ええ。今須を明け渡したのも、関ヶ原へ兵を集めるためと考えれば納得がいきます」
下野守は絵図を広げ、関ヶ原へ続く道を示した。敵が街道を塞いでいる場所は、両側の山裾が比較的近く、兵を横へ広げにくいところらしい。倒木の奥に柵まで築かれているのであれば、正面から攻める兵は狭い場所へ集中することになる。敵の弓兵や鉄砲を抑えられなければ、障害物を取り除く作業も難しいだろう。
そこで篠が調べさせていた山裾の小道について尋ねると、南側には炭焼きが使う細い道があるという。ただし、大勢の兵を通せるほど広くはなく、敵の物見も近くにいるらしい。道の先がどこへ通じているのかは、おおよそ分かっているものの、実際に兵を進ませてみなければ確かめられないところもあった。
「大軍を回すのは難しゅうございましょうが、敵の弓兵を牽制することはできるやもしれませぬ」
「そうだな。正面から攻めるだけでは、備中守の思う壺だろう。南の道を使えるなら、兵の一部を向かわせてみよう」
下野守は了承したが、すぐに一つの懸念を口にした。
「南へ兵を向けても、備中守が容易に動くとは限りませぬ。先の戦でも、こちらが兵を動かしたところで守りを崩そうとはいたしませんでした」
「分かっている。無理に敵の背後へ出る必要はない。斜面の兵を抑えられれば、それだけでも正面の攻撃が楽になるはずだ」
南の小道へ兵を回したからといって、敵の背後を突けるとは限らない。むしろ、少数の兵を奥へ進ませ過ぎれば、醒井で山城守の伏兵が陥ったように退路を狙われる恐れがある。今回は敵の守りを崩すことが目的であり、南へ回す兵もそのために働いてもらえばよかった。
俺がそう答えると、下野守は納得したように頷いた。
今回の戦では、日根野の軍勢を壊滅させることよりも、関ヶ原を越えることが先決だった。敵が退くのであれば無理に追い掛ける必要はないが、街道を塞がれたままでは不破の奥へ進むこともできない。まずは道を開き、軍勢と荷駄を通せるようにしなければならなかった。
翌朝、六角軍は関ヶ原へ向けて動き始めた。
*
関ヶ原の西側へ近付くと、街道の先から鉄砲の音が響いてきた。
下野守の先鋒が敵の備えを確かめようとしたところ、斜面から射掛けられたらしい。街道には木が倒され、その奥には柵が築かれているという。一色勢は守りを固めた場所から大きく動こうとはせず、こちらが近付くと弓と鉄砲で応じてきた。柵の後ろには槍兵も控えており、障害物を取り除こうとする兵を押し返せるよう備えているらしかった。
俺は主力を敵の陣地から距離を取った場所へ留め、下野守からの報告を待った。戦場は木立に遮られており、正面の様子さえ十分には見えない。鉄砲の音が続いていることは分かるが、敵が何処に兵を集めているのかは使者の話を聞かなければ判断できなかった。
下野守はまず、街道を塞いでいる倒木と柵の位置を確かめさせたという。障害物は道の幅一杯に設けられており、兵を迂回させようにも両側の斜面から射掛けられるため、容易には近付けないらしい。敵が十分な時間を掛けて準備した場所だけに、正面から槍兵を突入させれば大きな損害が出るのは明らかだった。
昼前には南側の小道へ向かわせた兵からも知らせが届いた。三百ほどの兵を進ませたものの、斜面には一色方の弓兵が伏せており、容易には先へ出られないという。ただし、敵もその場所へ兵を向けざるを得なくなり、街道の南側では双方が矢を射掛け合っているらしい。
山裾の小道は人が並んで進めるほど広くはなく、兵を一度に押し出すことはできない。敵に位置を知られた以上、深く踏み込めば少数の兵が孤立する危険もあった。俺は南へ向かった兵には無理な前進を禁じ、敵の弓兵を引き付けることを優先させた。
下野守はその動きを受け、正面の攻撃を強め始めた。盾を前へ出した兵が倒木へ近付き、後ろの者が枝を切り落として道を広げようとしている。敵も柵の内側から槍兵を出して抵抗したため、すぐに突破できたわけではなかった。倒木へ近付いた兵が射掛けられ、作業を続けられなくなった場所もあるらしい。
俺のもとへ届く報告も、最初は思わしくないものばかりだった。南へ向かった兵は敵の弓兵に阻まれ、正面でも倒木へ近付いた者たちが射掛けられている。負傷者は増えているが、敵の守りが崩れたという知らせはない。柵の奥にどれほどの兵が残っているのかも分からず、攻撃を続ければ確実に突破できるという見込みは立っていなかった。
それでも下野守は兵を進ませ、盾を持つ者と倒木を取り除く者を入れ替えながら攻撃を続けていた。槍兵だけを押し出しても柵を越えることはできず、道を開く者たちを守らなければ前進できない。下野守もその点は十分に承知しているのだろう。
そんな折、下野守から攻撃を続ける許しを求める使者がやってきた。
「下野守殿は、柵の南端で敵の兵が少なくなっていると見ておられます。今しばらく攻め掛かれば、道を開けることもできるのではないかとのことにございます」
「下野守自身は、前へ出ているのか」
「はい。兵を励ましながら、攻撃を続けておられます」
俺は使者から敵の配置について聞き直した。南側へ兵を向けたことで柵の守りが薄くなったというが、それが一時的なものなのか、敵が意図して兵を引いているのかまでは分からない。下野守の見立てを信じて攻撃を続けるべきか、それとも損害が増える前に兵を退かせるべきか。どちらを選んでも、今日の戦の行方を左右することになるだろう。
ここで兵を退かせれば、倒木や柵を取り除くために払った犠牲は無駄になる。反対に、敵の守りが崩れ始めているというなら、その機会を見逃すわけにもいかない。下野守が現場で兵の動きを確かめている以上、遠く離れた本陣にいる俺が、見えない敵の様子を理由に攻撃を止めるのも考えものだった。
「攻撃を続けてもらおう。ただし、柵を破った後に無理な追撃はさせるな。街道を開くことを優先してほしい」
使者が戻っていくと、俺は控えていた兵を下野守へ送った。負傷した兵と交代させ、柵へ攻め掛かる部隊を支えるためである。既に朝から戦っている兵も多く、前列の疲労を考えれば、新たな兵を加える必要があった。
その後も戦は続いたが、午後に入るとようやく状況が変わり始めた。南側での戦闘が長引いたことで一色勢の一部がそちらへ向かい、正面の柵を守る兵が手薄になったらしい。下野守はその隙を逃さず攻め掛かり、柵の南端へ取り付いたという。
もっとも、日根野も簡単に退くつもりはなかった。六角勢が柵の内側へ入ると、後方から槍兵を繰り出して押し返そうとしたらしい。下野守の使者は、味方が一度は柵の外まで押し戻されたことも伝えてきた。敵がまだ十分な兵を残していることは明らかであり、柵へ取り付いたからといって勝敗が決まったわけではなかった。
それでも六角勢は攻撃を続け、夕刻が近付く頃には倒木の一部を取り除くことに成功した。道を塞いでいた太い幹を脇へ寄せ、後続の兵が通れるだけの幅を確保したという。柵の南端も六角方が押さえ、街道の守りを維持することは一色方にとって難しくなりつつあった。
一色方が後衛を残して東へ退き始めたのは、その後のことだった。
下野守は進軍を求めてきたが、俺は大きな追撃を認めなかった。朝から戦っている兵も多く、傷を負った者も少なくない。敵が秩序を保って退いているのであれば、こちらが深追いしたところで新たな損害を受ける恐れがある。
何より、日根野備中守の主力はまだ健在だった。関ヶ原の守りを失ったからといって、ここで軍勢を捨てるような将ではあるまい。敵が次に何処で迎え撃つつもりなのか分からない以上、街道を開いたところで一度兵を整える方がよいと考えた。
*
夕刻、六角軍は関ヶ原の西側を確保した。
街道の脇には取り除かれた倒木が積まれ、破れた盾や折れた槍が残されていた。柵の一部は壊されていたものの、まだ道を塞いでいる場所もあり、兵たちが斧や縄を使って片付けを進めている。負傷者の収容も続いており、戦そのものは六角の勝利に終わったが、決して楽な戦ではなかった。
下野守が本陣へ戻ってきたのは、日が傾き始めた頃だった。鎧には泥が付き、顔にも疲労の色が浮かんでいる。朝から前線で兵を率いていたのだから、身体への負担も相当なものだろう。それでも歩みはしっかりしており、俺の前へ進み出ると膝を突いた。
「下野守、御苦労だった。随分と手を焼かされたな」
「申し訳ございませぬ。予想していた以上に、敵の守りが堅うございました。もう少し早く道を開けるつもりだったのですが」
「謝ることはない。関ヶ原を越えることができたのは、下野守らの働きがあってこそだ」
下野守は深く頭を下げたものの、その表情は晴れなかった。
「備中守には、まだ相応の兵が残っております。此度の戦でも、こちらが攻め寄せれば兵をまとめて押し返し、退く際にも大きく乱れることはございませんでした」
「やはり、簡単に崩せる相手ではないな」
「はい。関ヶ原を明け渡したからといって、大垣まで退くとは限りませぬ。垂井の辺りで再び迎え撃つことも考えられましょう」
俺は頷き、下野守から各隊の損害について報告を受けた。戦死者や負傷者の数はまだまとまっていないが、正面の柵へ攻め掛かった隊と、南側の斜面で戦った隊に被害が集中しているという。盾を持って倒木へ近付いた兵たちも多く傷を負っており、隊によってはしばらく休ませなければならないらしい。
今日は敵の備えを突破できたものの、同じような戦を繰り返せば六千余りの兵もすぐに減ってしまうだろう。柏原を出た時点で既に負傷者を後方へ残しており、ここからさらに兵を失えば、次の戦で動かせる人数も限られてくる。後続の到着を待てば多少は補えるとしても、そのたびに進軍を止めるわけにはいかなかった。
「下野守、今夜は兵を休ませよう。垂井へ進むのは、明日以降でよい」
「御意。備中守の追撃については、いかがいたしましょう」
「物見を出して動きを確かめるだけでよい。敵が退いているからといって、慌てて追う必要はない」
下野守が退出すると、俺は関ヶ原から東へ続く道を眺めた。
ここを越えたことで、六角軍はようやく不破郡の奥へ兵を進められるようになった。しかし、周辺には一色家へ従う国人たちが残っており、垂井の先には大垣城もある。日根野の軍勢が退いたからといって、それらの城が六角を迎え入れるとは限らなかった。むしろ、一色方が大垣の兵と合流するのであれば、次の戦はさらに厳しいものになるだろう。
そこへ東へ向かっていた物見から知らせが届いた。
日根野の軍勢は垂井方面へ退いているが、追われて散り散りになった様子はないという。また、垂井からさらに東へ向かう道では、一色方の使者と思われる者たちが往来しているらしい。敵が後続との連絡を取っていることは考えられるものの、実際に何を伝えているのかまでは分からなかった。
「大垣との連絡を取っているのかもしれんな」
報告を聞いていた弥太郎が、手元の絵図へ目を落とした。
「大垣城には氏家直元がおります。備中守があちらへ退くのであれば、氏家の兵と合流することもございましょう」
「ああ。だが、氏家殿がどこまで備中守へ力を貸すつもりなのかは分からん。今は何とも言えぬな」
氏家直元は西美濃でも有力な武将であり、一色家を長く支えてきた重臣の一人だ。大垣城を守る兵も相応にいるだろう。もし日根野が氏家の軍勢と合流すれば、六角軍にとって次の戦はさらに厳しいものになるかもしれない。
ただし、氏家自身が今の戦況をどう見ているのかは、まだ分からなかった。一色家に従ってきたからといって、必ずしも龍興の判断すべてに賛同しているとは限らない。反対に、六角が関ヶ原を越えたことを知れば、所領を守るために兵を集める可能性もある。いずれにせよ、実際の動きを確かめるまでは判断を控えるべきだろう。
俺は弥太郎へ、明朝には篠からの報告を聞けるよう手配を頼んだ。
今はまず関ヶ原まで進んだ兵を休ませ、垂井の様子を確かめなければならない。大垣について考えるのは、その後でも遅くはないはずだった。
陣の外では負傷者を運ぶ兵たちの声が続いている。俺は弥太郎とともに手当てを受けている者たちの様子を確かめ、それから本陣へ戻ることにした。
翌朝、関ヶ原の陣では負傷者を今須へ送り返す支度が進められていた。前日の戦で傷を負った者の中には、歩くことさえ難しい者もいる。担架を使う者や荷駄の馬に乗せられる者もおり、後方へ戻すだけでも相応の人手が必要だった。
下野守から届けられた損害の書付に目を通すと、予想していたよりも多くの兵が戦列を離れていた。勝利を得たとはいえ、六角軍も決して小さくない犠牲を払っている。これから先も同じような戦が続くのであれば、兵の数が足りなくなるより先に、諸将の負担が限界に達するかもしれなかった。隊をまとめる将も、兵と同じように連日の戦で疲れている。無理を重ねさせれば、普段なら防げるような失敗を招く恐れもあった。
負傷者の手当てを見て回っていた下野守と顔を合わせたのは、陣の外れへ出た時だった。昨日の戦で負った傷ではないらしいが、右手の甲に布が巻かれている。
「下野守、その手はどうした」
「柵を取り払う折に、少々木で切っただけにございます。御心配には及びませぬ」
「そう申す者ほど、傷を軽く見ているものだ。医師には診せたのか」
「既に手当ては受けております。それよりも、備中守を取り逃がしたことが気掛かりにございますな。あの者、負け戦でも兵をまとめることだけは見事なものです」
下野守は悔しそうに東の方を見た。
今回も日根野の軍勢を完全には崩せなかったが、こちらの目的は関ヶ原を突破することであり、敵将を討ち取ることではない。もっとも、同じ相手に幾度も進軍を妨げられれば、下野守が歯痒く思うのも無理はなかった。醒井では伏兵の退路を狙われ、今度は関ヶ原で十分に備えた陣を攻めることになった。敵の指揮が乱れていたなら、ここまで苦労することもなかっただろう。
「備中守が兵を失わずに退いたのであれば、次に何処で戦うかを考えねばならん。ただ、今は垂井を押さえることが先だ」
「御意。物見の報告では、垂井に残っていた一色勢も東へ退き始めているようにございます。町を守るために大軍を留めている様子はございませぬ」
「ならば、兵を進めよう。道を塞がれる前に垂井へ入りたい」
下野守は頷き、先鋒の支度を整えるため戻っていった。
その日の昼前、六角軍は関ヶ原を発った。山城守には今須から続く街道の警固を続けてもらっているが、関ヶ原を越えたことで守るべき道はさらに長くなる。進藤家の兵だけで何もかも賄えるわけではないため、新しく従った地元の者たちにも協力を求める必要があった。
ただし、降伏したばかりの国人にいきなり重い軍役を課せば、かえって反発を招くだろう。六角の兵がいる間だけ従うふりをして、こちらが東へ進んだ途端に一色方へ戻る者が現れても不思議ではない。今は彼らが何を守ろうとしているのかを知り、無理のない範囲で協力を取り付ける方がよさそうだった。
街道沿いには小さな村が点在しており、兵が近付くと家の中へ引き返す者の姿も見られた。関ヶ原で戦があったことは既に伝わっているらしく、道を行き交う人影も少ない。俺は先鋒へ周囲の警戒を続けるよう伝え、荷駄が遅れないよう隊列を整えながら進軍を続けた。
垂井の西側へ到着すると、先に進んでいた下野守から、町の有力者たちが使者を寄越したとの知らせが届いた。一色方の守備兵は既に大半が退いており、町としてはこれ以上の戦を望まないという。六角軍を受け入れる代わりに、町中での乱暴や物資の取り立てを禁じてほしいとの申し出だった。
俺は町の外に陣を置き、必要な警固の兵だけを入れることにした。軍勢の全員を町へ入れる必要はなく、兵糧や荷駄を扱う場所についても周辺の地形を確かめてから決めればよい。下野守には町の入口と街道の警固を任せ、住民との間で揉め事を起こさぬよう各隊へ命令を伝えさせた。
*
垂井へ入った翌日、町の有力者たちが改めて挨拶に訪れた。
年嵩の男が二人と、少し若い商人らしい男が一人。いずれも緊張した様子だったが、こちらが席を勧めると、ようやく落ち着いた顔を見せた。昨日まで一色の兵がいた町へ六角軍が入ったのだから、彼らとしても新たな支配者が何を求めてくるのか気になっているのだろう。
「此度は町を荒らさずにお入りくださり、ありがたく存じます。されど、六角様には一つお願いがございます」
「申してみよ」
「一色方の兵が退く折、町の蔵から米を持ち出してまいりました。そればかりか、人足も幾人か連れていかれまして……。このうえ新たな軍役を申し付けられますと、商いも田畑の仕事も立ち行かなくなります」
男は申し訳なさそうに頭を下げた。
垂井は美濃と近江を結ぶ街道の要地であり、商人の往来も少なくない。戦のたびに兵が通る以上、町の者たちも何らかの負担を求められてきたのだろう。特に今は夏の盛りであり、田畑の仕事も忙しい時期だ。人手を奪われ続ければ秋の収穫にも影響が出かねない。商人たちにしても、荷を運ぶ人足がいなければ商いを続けることは難しくなる。
「一色方が連れていった人足は、まだ戻っておらぬのか」
「はい。何処へ向かったものかも分かりませぬ。家族の者たちが案じておりますが、確かな知らせは何も……」
「そうか。こちらでも行方を調べさせよう。ただし、必ず連れ戻せるとまでは約束できぬ。その点は承知してもらいたい」
「それだけでもありがたく存じます」
俺は男たちの話を聞き、町に残された米や人足の状況を確かめることにした。今後、六角軍がこの地を利用する以上、何らかの負担を求めることにはなるだろう。しかし、町を疲弊させてしまえば、兵糧を運ぶ道を確保したところで意味がない。兵が通れる道を守るだけでなく、そこで暮らす者たちが普段どおりに働けることも必要だった。
話が一段落したところで、先ほどまで黙っていた若い商人が口を開いた。
「右衛門督様、もう一つお尋ねしてもよろしゅうございますか」
「構わん」
「これから先、垂井は六角様の御領分となるのでございましょうか。それとも、一色様が戻られれば、再び戦になるのでしょうか」
ほかの二人が慌てて男を制そうとしたが、俺は構わず答えることにした。
「垂井を押さえた以上、六角としてはこの地を守るつもりだ。ただし、一色が取り戻そうとする可能性はある。今ここで戦が起こらぬとまでは申せぬな」
男は唇を引き結び、しばらく考えていた。おそらく安心できる言葉を期待していたのだろうが、今の段階で一色との戦が終わったと言い切るわけにはいかない。日根野備中守の軍勢はまだ健在であり、大垣には氏家直元がいる。垂井の周辺へ再び一色勢が現れる可能性は十分にあった。
「……承知いたしました。町の者たちにも、そのように伝えます」
「それから、これまでの年貢や諸役については、当面大きく変えるつもりはない。従来の取り決めを確かめたうえで、必要なことは改めて知らせよう」
男たちは深く頭を下げた。
彼らが求めているのは、六角の勝利そのものではない。明日も商いができること、田畑を耕せること、そして家族が無事に暮らせることなのだろう。こちらがどれほど立派な理屈を並べても、その暮らしを守れなければ信用など得られまい。領主が替わったからといって、村や町の者たちが直ちに新たな支配を受け入れるわけではないのだ。
男たちを見送ると、弥太郎が傍らへやってきた。
「若様、先ほどの者たち、随分と率直に申しましたな」
「それだけ切実なのだろう。戦をする側には一日でも、町の者たちには何日も負担が続くからな」
「確かに。もっとも、若様が年貢を取り立てぬと約束なさらなくて、ようございました」
「そこまで気前よく振る舞えば、後で父上に叱られるだろう」
弥太郎は小さく笑った。
「それは間違いございませぬな」
俺も苦笑したが、実際には笑い事ではない。垂井だけでもこれだけの申し出があるのだから、不破郡のほかの村や城では、さらに事情の異なる問題が持ち込まれることになるだろう。年貢や諸役についても、一色の頃の取り決めをそのまま残せるものばかりではないはずだ。中には国人や寺社の権利が絡み、容易には手を付けられないものもあるだろう。
それでも、現地の事情を確かめないまま新たな命令を出せば、余計な争いを招くことになる。今は軍勢を率いている身だが、いずれ不破の統治を任される者たちが困らぬよう、分かることから整理しておく必要があった。
*
垂井を確保してから数日が過ぎると、周辺の国人たちから使者が訪れるようになった。
一色方の軍勢が退いた以上、六角へ従う意思を示す者もいれば、情勢を見極めようとして返答を控える者もいる。使者の中には従来の所領を認めてほしいと願い出る者もいたが、俺はその場で安堵を約束することは避けた。父上の裁可を得なければ正式に認められないうえ、相手が申し出た土地のすべてを実際に支配しているとは限らないからだ。
中には、隣の国人と争っている土地まで自領に含めて報告してくる者もいた。本人に悪気があるのか、それとも本気で自分の所領だと思っているのかまでは分からない。だが、こちらが事情を知らぬまま安堵してしまえば、六角が争いの片方に肩入れすることになってしまう。双方が異なる由緒を主張している場合もあるため、まずは従来の支配と年貢の納入先を確かめなければならなかった。
使者を迎えるたびに書状や所領の目録が増えていく。戦場では兵の配置や進軍する道筋を考えていればよかったが、今は誰がどの土地を治め、何を条件に六角へ従おうとしているのかを把握しなければならない。いずれも一度話を聞いただけで結論を出せるようなものではなかった。
ある日の午後、下野守が一通の書状を持ってきた。垂井の北に所領を持つ国人から届いたもので、六角へ従う意思を示しながら、人質については猶予を求める内容だった。
「家中の者に病人がおり、近親の男子も幼いとのことにございます。使者は、所領の扱いが定まってから改めて相談したいと申しております」
「そうか。無理に人質を出させれば、家中で揉めることにもなるだろうな」
「されど、何の証も求めぬというわけにはまいりますまい。ほかの者たちも、それを見て同じことを申し出るやもしれませぬ」
下野守の懸念はもっともだった。六角へ従うと申し出ただけで所領を認めれば、形ばかりの帰属を繰り返す者が現れるだろう。一方、すべての家に同じ条件を課せば、それを受け入れられぬ者たちを敵へ回すことになる。特に不破では一色への帰属を続けてきた国人が多く、家中の事情もそれぞれ異なるはずだった。
「まずは本人に会って話を聞こう。人質を出せぬ事情があるなら、ほかに何をもって従属の証とするか考えればよい」
「承知いたしました。使者へそのように伝えます」
下野守は書状を畳んだ後、少し考えるような顔をした。
「それにしても、城を攻めるより、こうした話の方が時間を取られるものですな」
「そうだな。だが、城を取るたびにその土地の者たちが敵になっては、先へ進むこともできなくなる」
「それも道理にございます。美濃を得るというのは、思っていた以上に骨の折れる仕事のようです」
俺は頷いた。
六角軍が進軍したからといって、不破の国人たちが一斉に従うわけではない。むしろ、これまで一色へ仕えていた者たちが、新たな主君のもとでどのような扱いを受けるのか確かめようとしているのだろう。中には一色への忠義を守る者もいるだろうし、六角と一色のどちらにも肩入れせず、自領を守ろうとする者もいるはずだった。
いずれにせよ、国人たちの帰属を確かなものにするには時間が掛かる。戦に勝ったからといって、その日から領国のすべてを思いどおりに動かせるわけではなかった。
そんな折、弥太郎が菩提山城についての報告を持ってきた。
「竹中家の動きについて、幾つか知らせが届いております。城の守りを固めているようですが、六角へ従うという申し出は、今のところございませぬ」
「竹中半兵衛のいる家だったな」
「はい。若くして才知に優れるとの評判はございますが、詳しいことまでは分かっておりませぬ」
竹中半兵衛の名は以前にも聞いたことがある。俺の知る歴史では、後に豊臣秀吉へ仕えることになる人物だが、今は美濃の国人である竹中家の一員に過ぎない。もっとも、前世の知識があるからといって、今の半兵衛がどのような人物なのかを知っているわけではなかった。若くして才知に優れるという評判も、実際に会ってみなければ分からない。
菩提山城は不破郡でも重要な位置にあり、周辺の動きを見極めるには都合のよい場所にある。竹中家が守りを固めているのも、六角と一色のどちらが優勢になるか分からない以上、当然の対応なのかもしれない。帰属を申し出ていないからといって、直ちに敵と決める理由はなかった。
「竹中家には、こちらが垂井を押さえたことを知らせておこう。返答を急がせる必要はない。先方が何を考えているのか、まずは確かめたい」
弥太郎は了承すると、ほかの書状とともに報告を持ち帰った。
不破を押さえたとはいえ、まだ多くの者が六角の出方を窺っている。彼らが安心して従える状況を作らなければ、兵を進めたところで支配は安定しないだろう。六角の軍勢がいる間だけ従う者を増やしても、兵を退いた後に一色方へ戻られては意味がない。
だからといって、すべての国人を力で従わせることもできない。今の六角軍には日根野備中守の軍勢を警戒する必要があり、あちこちの城を攻めて兵を失う余裕などなかった。
まずは各家の事情を確かめ、六角へ従う意思のある者から話を進める。それが今のところ最も現実的なやり方だと思った。
*
観音寺城から父上の書状が届いたのは、それから数日後のことだった。
関ヶ原を突破し、垂井まで兵を進めたことを労う内容に続いて、不破の国人たちについては慎重に扱うよう申し付けられている。所領の安堵についても従来の支配を軽々しく覆さず、まずは現地の事情を確かめるようにとのことだった。
俺が進めてきた方針と大きな違いはなかったが、正式な所領安堵については引き続き父上の裁可を仰ぐことになる。現地で急ぎ決めなければならない軍役や城の警固については、総大将として判断してよいとのことだった。必要な権限は与えながらも、領国の支配に関わる重要な決定については観音寺で取りまとめるつもりなのだろう。
ただ、今回の書状には気になる話が添えられていた。
京や河内方面では、三好長慶と畠山高政を巡る動きが続いているという。双方が兵を集めており、近江にもその知らせが届いているらしい。父上は今すぐ軍勢を動かすつもりはないようだが、畿内で大きな争いが起きた場合に備え、南近江の兵を動かせるようにしておきたいとのことだった。
俺はその部分を読み返した。
父上が自ら美濃へ出陣しなかったのは、俺に経験を積ませるためだけではなかったのだろう。北近江の統治はまだ始まったばかりであり、近江の南では畿内の情勢にも目を配らなければならない。美濃へ九千もの兵を送り込んでいる以上、これ以上大きな軍勢を動かすことは難しいはずだった。
三好と畠山の争いがどの程度のものになるかは分からないが、畿内で軍勢が動けば六角家も無関係ではいられない。観音寺城から京までは近く、父上としても南近江の守りを空けるわけにはいかないのだろう。美濃の戦が長引けば、それだけ畿内へ向けられる兵も限られることになる。
もっとも、父上から美濃での進軍を止める命令が届いたわけではない。不破を押さえたことで当初の目的はおおむね果たしたことになるが、日根野備中守の軍勢が健在である以上、ここで兵を退けば再び関ヶ原を奪われる恐れもある。
俺は書状を畳み、下野守へ畿内の情勢について伝えた。
「父上は南近江の兵を動かせるようにしておきたい御様子だ。美濃へ新たな援軍を求めるのは難しかろう」
「では、今の兵で進むことになりますな」
「ああ。ただし、先へ進むほど不破の守りは薄くなる。兵を分けるにしても限りがあるからな」
「それでしたら、大垣方面の様子を確かめるのが先でございましょう。備中守の軍勢も、あちらへ向かったとの話がございます」
俺も同じことを考えていた。
日根野が大垣城へ入ったのか、それとも別の場所で軍勢をまとめ直しているのか。いまだに確かな情報は届いていない。大垣城主の氏家直元がどのような動きを見せているのかも分からず、六角軍としては迂闊に兵を進められない状況だった。
仮に日根野が氏家の兵と合流しているのであれば、関ヶ原で戦った時よりも多くの兵を相手にすることになるかもしれない。こちらは既に幾度かの戦で損害を受けており、負傷者を後方へ送っている。数だけを見ればまだ六千近い兵を動かせるとしても、そのすべてが十分に休息を取れているわけではなかった。
「篠に大垣方面を詳しく調べさせよう。備中守の所在が分からぬまま進むわけにはいかん」
「御意。こちらも兵の支度を整えておきます」
下野守が退出した後、俺は父上への返書を用意させた。不破の主要な拠点を確保したこと、帰属を申し出た国人たちの扱いを進めていること、そして大垣方面への偵察を始めることを記す。垂井周辺では従来の年貢や諸役を当面維持し、正式な所領安堵については父上の裁可を仰ぐ方針であることも伝えた。
今後の進軍については、日根野の動向と兵糧の状況を確かめてから判断するつもりだと添えた。父上が畿内への備えを考えている以上、美濃で無理な戦を続けて援軍を求めるような事態は避けたかった。
*
夕刻、篠が大垣方面から戻った者たちの報告を持ってきた。
「大垣城では、城の守りを固める動きが見られます。城内へ兵糧を運び込む者の姿もあり、周辺の道では一色方の使者と思われる者たちが往来しているようにございます」
「氏家直元が兵を動かしたという話はあるか」
「今のところ、大きな軍勢を城から出したという知らせはございませぬ。ただ、稲葉山城との間でも使者が行き来しているようです」
俺は篠の話を聞き、絵図の上で大垣城の位置を確かめた。
氏家直元は西美濃でも有力な武将であり、一色家を長く支えてきた重臣の一人だ。大垣城にどれほどの兵を置いているかは分からないが、周辺の国人たちにも影響力がある人物だという。もし氏家が六角軍と戦うつもりであれば、大垣を巡る戦は容易なものではなくなるだろう。
その一方で、氏家自身が今の情勢をどのように見ているのかも気になった。
関ヶ原で日根野が敗れ、六角軍は垂井まで進んだ。一色家としては稲葉山城の守りも考えなければならず、大垣へどれほどの兵を向けられるかは分からない。龍興が稲葉山の防衛を優先するのであれば、氏家は自分の兵で大垣を守らなければならなくなる。
ただし、これは俺の推測に過ぎなかった。実際に龍興が何を命じ、氏家がどう受け止めているのかまでは分からない。篠から届いた報告だけで、氏家が六角へ従う意思を持っていると考えるのは早計だろう。
「大垣から稲葉山へ向かう使者について、もう少し詳しく調べられるか」
「承知いたしました。ただ、城内の事情まで探るには、相応の時が掛かるかと存じます」
「無理をする必要はない。誰が何処へ向かったのか、それが分かるだけでも十分だ」
篠は頷き、再び調査へ向かうため退出した。
その後、弥太郎が運んできた書状に目を通していると、垂井の東に所領を持つ国人から使者が訪れたとの知らせが届いた。一色方へ従ってきた家らしいが、六角軍が近付いたことで今後の扱いを確かめたいという。
俺は使者を迎えることにした。
その者はまだ若く、家中の者に付き添われていた。緊張した様子で挨拶を済ませると、自家の所領について従来どおりの扱いを認めてほしいと願い出た。家を代表して使者に立ったものの、六角がどのような条件を示すのか分からず、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「六角様に敵対するつもりはございませぬ。ただ、これまで一色様へ仕えてまいりましたゆえ、家中にも様々な意見がございます」
「それは当然であろう。長く仕えた主君を変えることは、容易な決断ではあるまい」
「はい。されど、六角様が垂井まで進まれた以上、いつまでも態度を決めずにいるわけにもまいりませぬ」
俺は若者の話を聞きながら、大垣城の氏家直元も似たような問題を抱えているのかもしれないと思った。
もちろん、氏家のような有力武将と目の前にいる国人とでは立場も兵力も違う。しかし、これまで仕えてきた主君への忠義と、自分の所領や家臣を守る責任との間で迷うことは、決して珍しいことではないのだろう。六角が勝ち進んでいるからといって、長年の主従関係を簡単に捨てられるものではあるまい。
「帰属の意思があるなら、まずはその内容を聞こう。ただし、所領の正式な安堵については父上の御裁可を仰ぐ必要がある。その点は承知してもらいたい」
「承知いたしました」
若者は深く頭を下げた。
その姿を見て、俺は改めて大垣城のことを考えた。氏家直元が六角へ従うとしても、所領の扱いや家臣の処遇について条件を求めてくるはずだ。一方、抗戦を選ぶのであれば、日根野の軍勢と合流して迎え撃つことも考えられる。
氏家が何を重視しているのかによって、大垣を巡る状況は大きく変わるだろう。こちらが軍勢を進める前に使者を送り、帰属の意思を確かめることも一つの方法ではある。ただし、日根野の軍勢が近くにいるのであれば、使者を通すこと自体が難しくなるかもしれない。
どちらにせよ、相手の意向を確かめずに判断するわけにはいかなかった。
使者が退出した後、俺は弥太郎へ声を掛けた。
「弥太郎、大垣城の氏家殿へ使者を送ることも考えておこう。まだ今すぐではないが、六角へ従う意思があるのか、いずれ確かめる必要がある」
「承知いたしました。使者に持たせる書状については、御指示をいただければ用意いたします」
「ああ。その前に、備中守の所在を確かめたい。大垣へ進む道で敵に待ち受けられていては、氏家殿と話をすることも難しくなるからな」
弥太郎は頷き、書状を持って退出した。
俺は陣幕の外へ出て、東の空を眺めた。夕日が山の端へ沈み始め、街道を行き交う人々の姿が薄暗くなっている。垂井の町では夕餉の支度をする煙が立ち上り、町へ入る商人たちの声も聞こえていた。軍勢が入った当初は戸を閉ざしていた家々も、少しずつ普段の暮らしを取り戻し始めているらしい。
不破を押さえたことで、六角軍は美濃のさらに奥へ進む足掛かりを得た。しかし、大垣城には氏家直元がおり、その先には一色龍興の本拠である稲葉山城が控えている。日根野備中守も軍勢を失ったわけではなく、何処かで再び迎え撃つつもりなのだろう。
ここから先は、戦に勝つことだけでは進めないだろう。
既に垂井では町の者たちから年貢や人足について相談が寄せられ、周辺の国人たちもそれぞれ異なる事情を抱えている。さらに東へ進めば、そうした問題も増えていくはずだ。六角へ従う者たちの所領を守り、街道の安全を確保しながら、一色方の軍勢にも備えなければならない。兵を率いて敵を討ち破ることと、その土地を六角の支配下へ収めることは、決して同じではなかった。
俺は明日の軍議に備え、下野守へ大垣方面の情報を伝えるよう使者を送った。日根野の軍勢が何処にいるのか、氏家直元がどのような動きを見せているのか。まずはそれらを確かめ、次に進む道を決めなければならなかった。
垂井の町に夜の灯がともり始める頃、俺は本陣へ戻った。
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