淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/22 文章整理


第八十二話「大垣城主の苦慮」

 永禄五年七月中旬、美濃国安八郡大垣城。

 

 六角右衛門督義治からの書状を携えた使者が、大垣城へやって来た。

 

 城内へ通された使者は、広間に控える俺の前で丁重に頭を下げると、懐から取り出した書状を差し出した。封には六角家の印が押されている。関ヶ原で日根野備中守が敗れ、六角軍が垂井へ進出したことは既に承知していたが、正式な使者が訪れたことで、戦がいよいよ大垣へ近付いていることを実感させられた。

 

「六角右衛門督義治殿より、氏家直元殿へお預かりした書状にございます。御返答につきましては、急ぎ申し上げる必要はないとの仰せにございました」

 

「遠路御苦労であった。まずは書状を拝見しよう」

 

 使者の見守る中で封を解き、文面に目を通した。六角軍が不破郡の主要な拠点を押さえたことに続き、これ以上の戦によって双方の兵や領民を苦しめることは本意ではないと記されている。そのうえで氏家家中の今後について話し合う用意があり、六角への帰属を考えるのであれば、所領や家臣の処遇についても協議したいという申し出が添えられていた。

 

 城を明け渡せという命令でも、従わねば攻め滅ぼすという脅しでもない。文面は終始丁寧であり、こちらの立場にも一定の配慮がなされている。しかし、書かれていることの意味は明白だった。六角右衛門督は大垣城を戦わずに手に入れる道を探っている。既に垂井まで兵を進めた以上、こちらが申し出を退ければ、次には軍勢を向けてくることも考えられた。穏やかな言葉が並んでいるからといって、その背後に六千余りの兵が控えている事実を忘れるわけにはいかなかった。

 

「右衛門督殿は、氏家が一色家に仕えていることを承知のうえで、この書状を寄越されたのであろうな」

 

「無論にございます。ただ、御主君は氏家殿が先代より美濃を支えてこられたことも御存じにて、いたずらに城を攻めることは望んでおられませぬ」

 

「なるほど。右衛門督殿のお考えは分かった。されど、これほどのことを直ちに返答するわけにもまいるまい」

 

「承知しております。御返書を頂戴できれば、責任をもってお届けいたします」

 

 使者の応対には落ち着きがあり、こちらを急かす様子もなかった。初めから即答を期待していないのだろう。俺は使者を別室で休ませるよう申し付け、返答には幾日か必要になると伝えた。相手が正式な使者として訪れた以上、無礼な扱いをする理由はない。腹立ち紛れに追い返したところで六角の進軍が止まるわけでもなく、むしろ話し合う余地を自ら捨てることになる。

 

 使者が退出すると、控えていた家臣たちの間から低い声が上がった。六角からの申し出をどう扱うべきか、既に意見が分かれているらしい。先代義龍様の頃から氏家家に仕えている老臣は、書状を受け取ったこと自体が稲葉山へ知られれば、あらぬ疑いを招くと懸念していた。一方、まだ若い家臣の一人は、話し合いの道を閉ざさずに済んだことを喜んでいるようだった。

 

「殿、六角の使者を迎えたことは、龍興様にもお知らせなさるべきかと存じます。後になって知られれば、密かに六角と通じたものと疑われかねませぬ」

 

「分かっておる。書状を受け取ったことは隠さぬ。ただ、その内容をどう扱うかは別の話だ」

 

 老臣は頷いたものの、なおも何か言いたげだった。俺が先を促さずにいると、しばらく考えた末に再び口を開いた。

 

「恐れながら、右衛門督殿は既に不破を押さえております。此度の申し出を断れば、次は大垣へ攻め寄せるやもしれませぬ。されど、六角へ従えば一色家への背信となります。軽々しくお答えにならぬ方がよろしゅうございましょう」

 

「そのために返答を預かったのだ。六角へ従うとも、戦うとも、まだ決めてはおらん」

 

 そう答えたところで、家臣たちを下がらせた。今ここで評定を続けても、結論が出るとは思えなかった。六角の申し出については家中の意見を聞く必要があるものの、それ以上に確かめなければならないことがある。

 

 稲葉山城が今後どのように兵を動かすつもりなのか。

 

 関ヶ原を失った以上、大垣は六角軍の進路に立ちはだかることになる。氏家の兵だけで守り切れるのか、それとも一色家から援軍を得られるのか。仮に援軍が来るとしても、それがいつになるのか分からなければ守りの算段も立てられない。日根野備中守の軍勢と合流することも考えられるが、その所在すら十分に把握できていないのが現状だった。

 

 俺は手元に残していた稲葉山からの書状を取り出した。

 

 それが届いたのは、六角軍が垂井へ入ったという知らせを受けた後のことだった。龍興様は大垣城の守りを固め、日根野備中守とも連絡を取りながら六角の東進を食い止めるよう命じている。一方、援軍については明確な約束がなく、稲葉山城の防備を整える必要があるため、当面は各地の兵を大きく動かせないと記されていた。

 

 龍興様のお考えは理解できる。六角軍が西から押し寄せている以上、稲葉山城の守りを薄くすることは危険だ。美濃の中心ともいうべき城を失えば、一色家の支配そのものが揺らぐ。まして尾張の織田家がどのように動くかも定かではない。二月に和議を結んだとはいえ、それによって東の脅威が消えたわけではなかった。龍興様が西美濃だけを見て兵を動かせる立場ではないことも、長く家中に仕えてきた俺には分かっている。

 

 だが、大垣を預かる俺には俺の事情がある。

 

 先代義龍様のもとでは、国中の諸将が力を合わせ、斎藤道三との争いを経て美濃を支えてきた。氏家もその一端を担い、幾度もの戦を重ねながら今日まで家を保ってきたのである。龍興様が家督を継がれてからまだ日も浅く、家中をまとめる苦労があることも承知していた。だからこそ、若い当主を支えるのが長く仕えた者の務めだと考えてきたし、その思いは今も変わっていない。

 

 しかし、主君を支えることと、家臣の命を使い果たすことが同じであってよいはずもなかった。

 

 日根野備中守の軍勢は、坂田での戦いから幾度も六角軍を退けようとしてきた。それでも関ヶ原を失い、垂井からも退くことになった。備中守自身が兵をまとめているとの知らせはあるものの、今どれほどの兵を率い、何処へ向かっているのかは判然としない。仮に大垣へ入ったとしても、連戦で疲弊した兵を加えれば六角に勝てるというほど、戦は単純ではなかった。

 

 六角軍も損害を受けているはずだが、関ヶ原を突破した勢いを保ったまま垂井まで進んでいる。六角右衛門督が大垣を目指すと決めれば、そう遠くないうちに兵が現れるだろう。そこで迎え撃つにしても、戦う場所や兵糧の備えだけでなく、城下の者たちをどうするかまで考えなければならない。

 

 机の脇へ書状を置いたところで、廊下から足音が近付いてきた。先ほどの老臣が戻り、城下の村々から寄せられた訴えについて知らせてきた。六角軍が大垣へ進むとの噂が広まり、家財をまとめて城下から離れようとする者が現れているという。田畑の仕事を放り出して避難を始めた家もあり、このままでは村同士で騒ぎになりかねないとのことだった。

 

「まだ六角が兵を進めたわけでもあるまい。誰がそのような話を広めている」

 

「確かなことは分かりませぬ。ただ、垂井へ商いに出ていた者が戻り、六角勢の多さを語ったことから広まったようにございます」

 

「商人の話だけで城下が騒ぐとはな。もっとも、関ヶ原を破られたことは誰もが知っている。無理もあるまい」

 

 俺は村々の年寄りへ事情を伝え、むやみに騒がぬよう申し付けた。ただし、村人たちが城主の言葉だけで安心するとは思わなかった。六角軍が大垣へ攻め寄せれば、真っ先に田畑を荒らされるのは彼らだ。城が包囲されれば市も街道も使えなくなり、商人の往来も途絶えるだろう。大垣城を守り抜いたとしても、その間に周囲の村々が疲弊してしまえば、戦が終わった後の暮らしを立て直すことさえ難しくなる。

 

 避難しようとする者を無理に引き留めるわけにもいかない。田畑を捨てて逃げることが得策ではないと承知していても、家族を守るために土地を離れようとする者はいる。城下の者たちが何を恐れているのか、俺には十分に理解できた。

 

 老臣が退出した後、俺は城内を歩いて回った。

 

 城門では番兵が往来する者を改め、城内の蔵には兵糧が運び込まれている。兵の宿所となる建物でも支度が進んでおり、城の守りに必要なものが順に揃えられていた。廊下を曲がった先では若い侍たちが槍を手入れしながら言葉を交わしている。俺に気付くと慌てて姿勢を正したが、その顔には緊張よりも、これから戦うことへの気負いが浮かんでいた。

 

 彼らが幼い頃から、一色家は美濃を治めてきた。その一色へ従うことに疑いなどなく、敵が攻めてくれば戦うものと考えているのだろう。俺自身、若い頃は似たようなものだった。主君に従って戦へ出ることを誇りとし、功を立てれば家も栄えると信じていた。敵と槍を交えることに恐れがなかったわけではないが、その先に何が待っているのかを深く考えることは少なかったように思う。

 

 だが、今は違う。

 

 この者たちを率いて戦えば、帰ってこられぬ者も出る。家中には父や兄を戦で失った者もおり、幼い子を抱えたまま夫の帰りを待つ女たちもいる。戦場で兵を失うということは、単に軍勢の数が減るだけではない。残された者たちの暮らしまで含めて考えるのが、氏家の家を預かる俺の役目だった。

 

 城門の上へ出ると、夏の日差しの下に大垣の町が広がっていた。城の周囲には家々が並び、その先には田畑が続いている。西へ目を向ければ、垂井へ通じる街道が見えた。六角軍が進んでくるのであれば、あの道を通ることになる。杭瀬川の辺りで迎え撃つことも考えられるが、それで六角が諦める保証など何処にもない。川を利用して敵の進軍を妨げたとしても、いずれ別の場所から渡ろうとするだろう。

 

 まして六角右衛門督は、関ヶ原の備えを破っている。日根野備中守が十分に準備した場所でさえ守り切れなかったのであれば、こちらが杭瀬川へ兵を並べたところで同じ結果にならぬとは言い切れない。戦うからには勝つつもりで兵を動かすが、勝つ見込みのない戦へ家中の者たちを送り出すわけにもいかなかった。

 

 背後から声が掛かった。

 

「殿、先ほどの六角の書状について、少しお話ししてもよろしゅうございますか」

 

 振り向くと、若い家臣が立っていた。広間では何も言わなかった男だが、先ほどから考えていたことがあるらしい。俺が頷くと、男は一度言葉を選んでから話し始めた。

 

「六角が所領を安堵するというのであれば、城を守るための戦を避けられるやもしれませぬ。もちろん、一色様への御恩を忘れたわけではございませぬが……」

 

 そこまで言って、男は口を閉ざした。自分が何を口にしかけたのか、改めて気付いたのだろう。主君への背信とも受け取られかねない話だけに、言葉を続けることを躊躇しているようだった。

 

「続けよ。ここで口にしたことを咎めるつもりはない」

 

「……大垣で戦になれば、家中にも少なからぬ損害が出ましょう。六角へ従うことが許されるのであれば、無理に戦を起こさずともよいのではないかと」

 

「一色家を離れるというのは、それほど容易なことではないぞ。先代より受けた恩義を、明日から忘れるというわけにもいくまい」

 

「承知しております。ただ、龍興様が援軍をお送りくださらぬのであれば、何処まで持ちこたえられるものかと……」

 

 男の声は次第に小さくなったが、俺はそれを咎めなかった。家中にも既に同じようなことを考えている者がいるのだろう。今はまだ口に出さないだけで、六角軍が大垣へ迫れば、その思いはさらに強くなるに違いない。

 

 先代から一色家に仕えてきた者にとって、主君を変えることは容易に受け入れられぬだろう。一方で、今の若い家臣たちには、これから先も氏家のもとで暮らしていかなければならない事情がある。その両方を考えなければならないのが、家を預かる者の難しいところだった。

 

「六角の申し出が、氏家にとって良いものとは限らん。所領を認めると申しても、それを誰が保証するのか。大垣城へ六角の兵を入れることになれば、今までと同じように家を保てるかも分からぬ」

 

「それは……確かに」

 

「だが、戦を避ける道まで捨てるつもりはない。何を認め、何を求めているのか。まずは相手の考えを確かめる」

 

 若い家臣は深く頭を下げた。俺はその背を見送り、再び城下へ目を向けた。

 

 六角右衛門督は、まだ若いと聞いている。しかし、これまでの戦で日根野備中守を相手に勝利を重ね、不破郡へ進出している以上、侮るわけにはいかなかった。今回の書状にしても、ただ降伏を求めるのではなく、氏家家中の処遇を話し合おうとしている。城を攻めるより先に使者を送ってきたことには、何らかの考えがあるのだろう。

 

 もっとも、向こうがこちらの事情を十分に理解しているとも思えない。

 

 俺が守らねばならぬのは大垣城だけではなかった。先代から預かった所領、氏家に仕えてきた家臣たち、そして彼らの家族。いずれも一度失えば容易には取り戻せぬものばかりだ。六角へ従った結果として家が保たれるのであれば、それも一つの道ではある。しかし、所領を安堵すると言いながら実際には兵や人質を求められ、氏家の力を奪われるようでは意味がない。

 

 帰属を考えるにしても、まずは六角が何を約束し、こちらに何を求めるのかを知らなければならなかった。

 

 *

 

 翌日、俺は稲葉山城への返書を書き改めた。

 

 六角の使者が大垣を訪れ、帰属について話し合いたいとの申し出があったことを記す。こちらから帰属を申し出たわけではなく、六角からの書状を受け取ったに過ぎないことも明らかにした。そのうえで、関ヶ原を突破した六角軍が近く大垣へ進む可能性があるため、援軍を差し向ける見込みがあるのか、改めて御意向を伺いたいと添える。

 

 書状を書き終えても、すぐには封をしなかった。

 

 龍興様が稲葉山の守りを優先される事情は承知している。それでも、大垣を守り抜けと命じられるのであれば、どのように戦を進めるつもりなのか示していただきたい。備中守の軍勢と合流するにしても、その先の見通しがなければ守りを固めるだけで終わってしまう。六角軍が垂井に留まっている間はよいが、いずれ大垣へ兵を向けてくれば、こちらも決断を迫られることになるだろう。

 

 援軍を得られれば勝てると決まったわけではない。しかし、稲葉山から何の支援もないまま大垣だけで戦を続けるのであれば、氏家の兵をどこまで失うことになるのか見当も付かない。その先に一色家としてどのような策があるのか、今の俺には分からなかった。

 

 一方、六角への返答については別に書状を用意した。

 

 氏家家中の所領と家臣たちの処遇、大垣城の扱いについて、六角がどのような考えを持っているのか尋ねる内容だ。帰属を約束する言葉は記さず、かといって交渉を拒むつもりもないことを伝える。六角右衛門督が話し合いを望むのであれば、まずはその条件を聞くところから始めようと思った。

 

 書状を認めていると、老臣が部屋へ入ってきた。机に置かれた二通の書状へ目を向け、何かを察したようだった。

 

「殿、六角への御返書でございますか」

 

「ああ。まずは相手の考えを聞く。稲葉山へも、使者が訪れたことを報せるつもりだ」

 

「龍興様がどのように受け取られるか、気掛かりにございますな」

 

「隠したところで、いずれ知れる。ならば、こちらから伝えた方がよい。氏家が二心を抱いているなどと思われてはかなわん」

 

 老臣はしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。

 

「承知いたしました。使者の支度を整えます」

 

 俺は二通の書状をそれぞれ封じ、老臣へ渡した。

 

 一色家への忠義を捨てると決めたわけではない。先代義龍様から受けた恩義を忘れたわけでもなく、龍興様を見限ったつもりもなかった。しかし、これから先も一色家に従い続けることが氏家を守る道であるとは、言い切れなくなっていた。

 

 稲葉山から援軍が届き、日根野備中守の軍勢と力を合わせて六角を押し返せるのであれば、それに越したことはないだろう。だが、現実にその見込みがあるのかを確かめず、ただ忠義を口にして兵を失うわけにはいかない。氏家に仕えてきた者たちにも守るべき家族があり、長く治めてきた所領には俺たちを頼る百姓や商人が暮らしている。

 

 稲葉山からどのような返答が届くのか。それによっては、大垣城の行く末を改めて考える必要があるだろう。

 

 六角への使者が城門を出たのは、その日の昼過ぎだった。

 

 その背を見送った俺は、城内へ戻る途中で足を止めた。西から吹いてくる風に、城下の市の声が混じっている。今はまだ、いつもと変わらぬ大垣の町がそこにあった。店を開く商人の姿も、荷を運ぶ人足の往来も、城の外では普段どおりに続いている。

 

 六角軍が攻め寄せれば、この景色も変わることになるのだろうか。

 

 戦を避けるために何処まで譲るべきなのか、今の俺には答えを出せない。それでも、家中の者たちとこの土地に暮らす人々を守るため、選べる道を残しておきたかった。

 

 願わくば、この賑わいを戦で失うことだけは避けたいものだった。

 

 *

 

 氏家直元からの返書が届いたのは、大垣へ使者を送り出してから数日後のことだった。

 

 朝餉を終え、各地から届いた書状に目を通していると、弥太郎が使者の帰還を知らせに来た。こちらが遣わした者は無事に役目を終え、氏家家中の武士を伴って戻ってきたという。大垣城では丁重に迎えられ、書状を渡した後も無理に帰されることはなかったらしい。氏家が返答を認めるまで幾日か待たされたものの、城内で不穏な扱いを受けることはなかったとのことだった。

 

 届けられた書状には、氏家家中の所領と家臣たちの処遇、大垣城の扱いについて、六角がどのように考えているのか確かめたいと記されていた。一色家に仕えてきた立場から帰属について直ちに答えられないことも添えられている。しかし、こちらの申し出を拒む言葉はなく、条件次第では話し合いに応じる余地を残した内容だった。

 

 俺は書状を読み終えると、使者から大垣城の様子を聞いた。城門の警固は厳しく、城内へ兵糧を運び込む者も見受けられたという。ただし、城下が混乱している様子はなく、氏家自身も落ち着いて応対していたらしい。戦に備えていることは確かだが、積極的に六角軍を迎え撃つつもりなのか、それとも万一に備えているだけなのかは分からなかった。

 

 氏家は先代義龍の頃から美濃を支えてきた重臣だ。大垣城を預かるだけでなく、周辺の国人たちにも少なからぬ影響力を持っている。関ヶ原で日根野備中守が敗れ、六角軍が垂井まで進出したからといって、簡単に一色家を見限る人物ではあるまい。それでも、今回の返書からは氏家が自家の行く末を慎重に考えていることが伝わってきた。

 

 所領と家臣、そして大垣城。氏家が確かめようとしているのは、いずれも家を保つうえで欠かせないものばかりだ。六角へ従ったところで従来の所領を取り上げられ、家臣たちが離散するようでは、帰属する意味がないだろう。長く守ってきた大垣城についても同じことが言える。城を明け渡すことを最初から条件とすれば、氏家が交渉を続ける理由はなくなってしまうかもしれなかった。

 

 一方で、こちらとしても大垣城をこれまでどおり氏家へ任せるだけでは済まない。西美濃へ進むうえで重要な拠点であり、六角の支配下へ入る以上、城の守りや軍役について新たな取り決めが必要になる。帰属した後も一色方との関係が曖昧なままでは、後々の争いを招くことになるだろう。

 

 ただ、氏家を帰属させながら、その力を奪ってしまうのは得策ではない。大垣城を攻め落とし、別の者に周辺を治めさせることも不可能ではないだろうが、今の六角軍にはそこまで余裕がなかった。不破を押さえたばかりであり、関ヶ原で受けた損害もまだ埋められていない。氏家が従うのであれば、そのまま大垣を治めてもらう方が、双方にとって負担は少ないはずだった。

 

 それに、氏家が帰属すれば大垣城を戦わずに得られるだけでなく、周辺の国人たちにも影響があるだろう。氏家ほどの武将が六角へ従うとなれば、態度を決めかねている者たちも、今後の身の振り方を考え直すかもしれない。もちろん、すべての国人が同じ判断をするとは限らないが、大垣を攻め落とすよりも少ない損害で西美濃へ進む道が開ける可能性はあった。

 

 昼前、呼び出しに応じた蒲生下野守が本陣を訪れた。氏家からの書状を見せると、下野守も交渉の余地があることには同意したものの、大垣城へ六角の兵を入れられるかどうかを気にしていた。氏家が帰属した後も一色方へ戻る可能性を考えれば、当然の懸念だろう。

 

「大垣城を氏家殿へ預けるとしても、六角の兵を受け入れていただく必要はある。だが、最初から城を明け渡せと迫るつもりはない」

 

「承知いたしました。ただ、交渉が長引けば、備中守に兵を整える時を与えることにもなりましょう」

 

「そこは分かっている。大垣との話を進めながら、備中守の動きにも目を配らねばならんな」

 

 下野守は頷き、必要な支度を整えておくと告げて退出した。

 

 戦わずに大垣を確保できるのであれば、それに越したことはない。しかし、氏家の返答を待つ間に日根野が軍勢を立て直し、こちらへ攻め寄せてくることも考えられる。交渉を進めることと軍の備えを緩めることは別の話だった。大垣へ使者を送っているからといって、一色方がこちらへの攻撃を控える保証などない。

 

 その日の午後、篠からも大垣方面の報告が届いた。

 

 杭瀬川の東側では一色方と思われる物見が確認されており、垂井から大垣へ続く道を警戒しているらしい。ただし、まとまった軍勢の姿は見られず、日根野備中守が何処に兵を集めているのかも分からないという。一方、大垣城では兵糧の搬入が続き、稲葉山城との間でも使者が往来していた。

 

 気になったのは、稲葉山から大垣へ大軍が向かっているという知らせがないことだった。龍興が本拠地の防衛を優先している可能性はある。六角軍が西から迫っているとはいえ、稲葉山城の守りを薄くするわけにはいかないだろう。尾張の織田家への備えも必要であり、美濃の兵をすべて西へ向けられる状況ではないはずだ。

 

 ただ、龍興にとって合理的な判断であっても、氏家が納得するとは限らない。大垣を守れと命じられながら援軍を期待できないのであれば、氏家も自家の存続を考えざるを得なくなる。一色家への忠義を守るにしても、そのために氏家家中の兵をどこまで失ってよいのかという問題は残るだろう。

 

 もっとも、今のところ龍興が援軍を出さぬと決めた証拠はない。氏家が稲葉山へどのような書状を送り、龍興から何を命じられているのかも分からなかった。こちらの推測だけで氏家の考えを判断するわけにはいかない。

 

 篠には日根野の所在を引き続き調べてもらい、稲葉山と大垣の間の使者についても、分かる範囲で動きを確かめるよう頼んだ。ただし、大垣城の内部へ無理に入り込む必要はない。氏家との交渉を進めている今、こちらの者が城内で捕らえられるようなことになれば、余計な疑念を招く恐れもあった。

 

 *

 

 氏家への返書を認めたのは、その日の夕刻だった。

 

 まず、六角へ帰属したことだけを理由に氏家家中の所領を取り上げるつもりはないと記した。ただし、正式な所領安堵には父上の裁可が必要となるため、現地の事情を確かめたうえで手続きを進めることになる。家臣についても、従来一色家に仕えていたことを咎めるつもりはないが、帰属後は六角に従い、一色方との軍事的な関係を断ってもらわなければならない。

 

 大垣城については、氏家が引き続き預かることを前提に話し合う用意があると伝えた。その一方で、六角軍の通行や駐留、今後の軍役については協議が必要になる。城を任せることと、六角の命令が及ばぬことは同じではない。大垣は美濃の西を守る重要な拠点であり、六角へ従うのであれば、その守りについても一定の取り決めを設けなければならなかった。

 

 もっとも、具体的に何人の兵を城へ入れるか、どのような軍役を求めるかについては、まだ決めていない。氏家の兵力や所領の状況を確かめずに条件を示せば、相手が受け入れられない約束を求めることにもなりかねない。まずは互いの考えを明らかにし、そのうえで必要なことを決めていくつもりだった。

 

 書状を確認していた弥太郎は、大垣城を氏家へ預けるという文面を見て、父上の裁可を得る前にそこまで示してよいのかと心配していた。確かに、正式な安堵を俺の一存で決めるわけにはいかない。しかし、交渉の場でこちらの考えを何も示さなければ、氏家としても判断のしようがないだろう。

 

「父上には、交渉の進み具合を知らせておく。氏家殿が従う意思を示されたなら、その時に改めて裁可を仰ぐつもりだ」

 

「承知いたしました。では、観音寺城へも書状を用意いたします」

 

 弥太郎はそのまま文机へ向かい、必要な支度を始めた。俺も氏家への書状を読み返し、こちらが認められることと、まだ約束できないことが曖昧になっていないか確かめた。

 

 氏家は長く一色家を支えてきた人物だ。六角へ従うと決めたとしても、家中の者たちすべてが納得するとは限らない。龍興への忠義を守ろうとする者もいれば、所領や家族を守るために帰属を望む者もいるだろう。そうした意見の違いが帰属後に争いへ発展すれば、大垣を戦わずに得た意味も薄れてしまう。

 

 こちらとしては、できる限り氏家の立場を保ちながら、六角の支配を受け入れてもらう道を探りたかった。氏家がそのまま大垣を治めることになれば、城下や周辺の村々にとっても変化は少なく済むはずだ。もちろん、軍役や年貢については改めて定める必要があるが、少なくとも領主が替わるたびに土地の者たちが争いに巻き込まれることは避けられるだろう。

 

 返書を託すため氏家の使者を呼ぶと、俺は書状を手渡し、直接会って話す用意があることも伝えた。書状を交わすだけでは互いの考えが十分に伝わらぬこともある。氏家が望むのであれば、場所や人数を取り決めたうえで会談してもよいと考えていた。

 

「氏家殿へは、こちらも話し合いを望んでいると伝えてほしい。大垣の扱いについては、直接お考えを伺った方がよいこともあるだろう」

 

「承知いたしました。我が殿へ確かにお伝えいたします」

 

「ただし、会談を望むのであれば、互いに兵を動かすことのないよう、あらかじめ取り決めておきたい。こちらにも不用意な衝突を起こすつもりはないからな」

 

 使者はその申し出を持ち帰ることを約束し、翌朝には大垣へ戻っていった。

 

 これで氏家がどう判断するか、ひとまず返答を待つことになる。ただし、交渉を続けるからといって兵を休ませているだけでは済まない。日根野の動向が分からぬ以上、次の戦に備える必要もあった。俺は下野守へ大垣方面の警戒を続けるよう伝え、各隊の兵糧と武具の状態についても改めて確認させた。

 

 氏家との交渉がまとまれば、軍勢を進める道も変わるだろう。反対に、帰属を拒まれれば大垣城をどうするか判断しなければならない。どちらの場合にも対応できるよう、今は兵を整えておくべきだと思った。

 

 それから三日が過ぎた。

 

 大垣方面では物見同士の接触が続いていたものの、大きな戦には発展していない。垂井から関ヶ原へ続く街道では荷駄の往来も増え、先の戦で傷んだ道の修繕が進んでいた。不破郡の国人たちとの折衝も続いているが、こちらが望むほど早く話がまとまるわけではない。六角に従う者が増える一方、いまだに態度を決めかねている者もいた。

 

 帰属を申し出た国人たちについては、所領の確認と軍役の取り決めを少しずつ進めている。ただ、こちらが兵を置いている間は従う姿勢を見せていても、その後まで同じとは限らない。従来の支配を尊重しながら六角の命令が行き渡るようにするには、現地の事情を知る者たちの協力が欠かせなかった。

 

 そんな折、大垣城から再び使者が訪れた。

 

 今度の使者は年嵩の武士で、氏家直元からの返書を携えていた。書状には、こちらの申し出について家中でも話し合いを進めていること、しかし一色家への長年の奉公を考えれば、今すぐ帰属を約束するわけにはいかないことが記されていた。

 

 そのうえで、所領と大垣城の扱いについて直接話し合うのであれば、氏家自身も応じる用意があるという。

 

 ただし、会談中に双方の軍勢が動けば、思わぬ衝突が起こる恐れもある。場所や人数、安全の保証については事前に取り決めたいとのことだった。氏家としても、六角の軍勢が近くにいる場所へ無防備に出向くわけにはいかないのだろう。

 

 俺は書状を読み終えると、使者に氏家の意向を確かめた。使者によれば、氏家はまだ帰属を決断していないものの、直接会うことには異存がないらしい。会談の場所については、大垣と垂井の中ほどを考えているという。

 

「氏家殿のお考えは承知した。場所についてはこちらでも確かめ、改めて返答しよう。会談の間、互いに不安を抱かずに済むよう取り決めたい」

 

「ありがたく存じます。我が殿にも、そのようにお伝えいたします」

 

 使者が退出すると、俺は届けられた書状をもう一度広げた。

 

 氏家は帰属を決めたわけではない。しかし、会談を受け入れた以上、少なくとも戦う以外の道を考えていることは確かだろう。一色家への忠義と氏家家中を守る責任。そのどちらも捨てられぬからこそ、条件を確かめようとしているのかもしれない。

 

 もっとも、こちらにも譲れない部分はある。大垣城を預けるとしても、六角の軍事行動を妨げるようでは困るし、一色家との関係を曖昧に残されても問題になる。氏家が求めるものをすべて認めるわけにはいかない以上、会談が簡単にまとまるとは考えない方がよさそうだった。

 

 それでも、書状を交わすだけでは分からなかった氏家の考えを、直接聞く機会が得られることには意味がある。こちらの条件についても、何処まで受け入れられるのかを確かめられるだろう。互いに譲れないところがあるとしても、それを知らずに兵を動かすよりはよほどよい。

 

 下野守には氏家が会談に応じる意向を示したことを知らせ、周辺の様子を確かめてもらうことにした。とりわけ杭瀬川の付近では一色方の物見が確認されているため、会談の場所を決めるにしても慎重さが必要になる。こちらから向かう兵の数だけでなく、氏家が連れてくる供回りについても事前に取り決めておかなければならないだろう。

 

 弥太郎が持ってきた大垣周辺の絵図を広げると、垂井から東へ続く街道が目に入った。この道を進めば杭瀬川を越え、大垣城へ至る。関ヶ原を突破した時には、次も兵を率いて進むことになると考えていたが、氏家との話がまとまれば城を攻めずに済むかもしれなかった。

 

 もちろん、氏家が一色家との主従を断つと決めたわけではない。稲葉山から援軍が届けば、交渉そのものが打ち切られる可能性もある。こちらが会談を望んだからといって、氏家の決断を急がせることはできないだろう。

 

 それでも相手が直接話すことを選んだ以上、俺もその機会を無駄にするつもりはなかった。氏家直元が何を守ろうとし、六角に何を求めるのか。家中を率いてきた武将として、どのような考えを持っているのかも知りたい。書状だけでは分からなかったことも、顔を合わせれば見えてくるかもしれなかった。

 

 俺は使者へ持たせる返書を認め、会談の場所について検討を進めることにした。

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