淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第八十四話「揺らぐ主従の絆」

 永禄五年七月下旬、美濃国安八郡大垣城。

 

 援軍を求めたはずだった。ところが、稲葉山城から届いた返書には、大垣を守る兵の一部を差し出せと記されていた。

 

 俺はその一節を読み返した。六角右衛門督が率いる軍勢は既に不破郡を押さえ、垂井から大垣へ迫ろうとしている。その進軍を食い止めるために兵を求めたのであって、こちらの守りを削ってほしいと願い出た覚えはない。にもかかわらず、龍興様は稲葉山城の警固を固めるため、氏家の兵五百を速やかに差し向けるよう命じておられた。

 

 さらに読み進めたところで、俺は書状を持つ手に力を込めた。

 

 六角との交渉について、龍興様は強い不快の意を示されていた。敵方の使者を迎え、帰属について話し合ったことは、一色家への忠節を疑わせる行いであるという。その疑いを晴らすため、氏家一門から人質を稲葉山城へ差し出し、命じられた軍役を速やかに果たせと記されている。

 

 大垣城については引き続き固守し、日根野備中守と連絡を取りながら六角の東進を防ぐよう命じられていた。しかし、肝心の援軍については稲葉山城の防備を優先するため、直ちに差し向けることはできないという。城を守れと命じながら、そのために必要な兵を取り上げる。しかも人質まで求められているのである。

 

 稲葉山城の守りを固めねばならぬ事情は理解できる。関ヶ原で日根野備中守が敗れ、不破郡まで六角の手に落ちた今、大垣の次に狙われるのが何処かなど分かりきっていた。龍興様も国を守るため、残された兵を集めようとしておられるのだろう。だが、西美濃の守りを預かる氏家から兵を召し上げれば、その分だけ六角軍が東へ進みやすくなる。そこまで承知の上で命じられたのか、疑問を抱かずにはいられなかった。

 

「一つ確かめたい」

 

 俺が声を掛けると、向かいに控えていた稲葉山からの使者が居住まいを正した。

 

「兵五百を稲葉山へ差し向けよとの仰せだが、代わりに大垣へ援軍が送られるという話は聞いておらぬか」

 

「そのような御沙汰は承っておりませぬ。稲葉山城の守りを固めることが先決との仰せにございました」

 

「では、氏家は残る兵で六角を防げということか」

 

「恐れながら、御書状に記されたとおりにございます」

 

 使者は答えながら、俺の顔色を窺っていた。責める相手が違うことは分かっている。しかし、書状に記された命令があまりにも厳しく、確かめずにはいられなかった。

 

「人質については、どなたを差し出せとの仰せなのだ」

 

「氏家一門のうち、殿に近しい御方をとのことでございます。できれば御嫡男を差し出されるのが望ましいとも伺っております」

 

 その返答を聞き、俺は書状を机へ置いた。

 

 先代義龍様の頃から一色家を支え、幾度もの戦に兵を出してきた。その働きが足りなかったというのであれば、何を改めるべきなのか示していただきたい。だが、六角の使者を迎えたというだけで忠節を疑われ、人質を求められるとは思ってもいなかった。

 

 そもそも六角との交渉については、こちらから稲葉山へ報告している。密かに敵と通じるつもりであれば、そのような書状を送る必要もなかったはずだ。大垣が六角軍の前に立つ以上、戦を避ける道を確かめることも城主の務めだと考えていた。それが龍興様には、裏切りを企てているように映ったのだろうか。

 

「御意向は承知した。返書については家中とも相談せねばならん。使者にはしばらく城内で休んでもらおう」

 

 使者は深く頭を下げ、案内の者に従って退出した。

 

 俺は家臣を呼び、城と杭瀬川方面の兵の配置について報告を持ってくるよう命じた。主君の御意向に納得できぬからといって、直ちに命令へ背くわけにもいかない。まずは五百の兵を差し出すことで、何が起こるのか確かめておきたかった。

 

 大垣城と周辺の警固に当たっている兵は二千に満たない。そのすべてが城内にいるわけではなく、杭瀬川方面の物見や街道の警固にも人数を割いている。さらに城下の治安を保つために残している者もおり、戦になったからといって全員を一か所へ集められるものではなかった。

 

 そこから五百を稲葉山へ送るとなれば、戦に備えて集めていた兵の相当な部分を失うことになる。しかも、龍興様が求めておられるのは、ただ人数を揃えるだけの軍役ではあるまい。稲葉山城の防衛に使う以上、武具を整えた兵を選ばなければならず、残される者たちの負担はさらに重くなる。

 

 城門の警固を減らせば、不意の攻撃に対処する余裕が失われる。杭瀬川方面から兵を引けば、六角軍の動きを知るまでの時間が短くなる。どちらを選んでも、六角と戦うために必要な備えを削ることに変わりはなかった。

 

 やがて主だった家臣たちが広間へ集まった。先代の頃から仕えている老臣もいれば、家督を継いで間もない若い者もいる。俺は稲葉山から届いた書状の内容を伝え、兵を差し出した場合の守りについて意見を求めた。

 

 老臣は主君の命令である以上、まずは従う方策を探るべきだと述べた。しかし、守備の配置を確かめると、さすがに難しい顔をした。周辺の国人へ新たに軍役を求める案も出たものの、六角の進軍を受けて様子を窺っている者が少なくなく、どれほどの兵を集められるかは分からない。

 

「殿。そもそも、稲葉山では大垣の兵数を御存じなのでございましょうか。五百も差し出せば、こちらの守りがどうなるかは明らかではございませぬか」

 

 若い家臣の一人が不満を漏らした。

 

「言葉を慎め。龍興様にも御事情があろう」

 

 老臣が制したものの、若い家臣は納得できない様子だった。

 

「事情があることは承知しております。しかし、大垣を守れと命じられた以上、そのための兵を残していただかなければ困ります。城を失えば責めを負うのは殿であり、戦うのは我らでございます」

 

「だからといって、主命に背くとでも申すつもりか」

 

「そのようなことは申しておりませぬ。ただ、このままでは……」

 

「そこまでにしておけ」

 

 俺が制すると、二人は口を閉ざした。まだ話を続けたそうな様子ではあったが、この場で争わせるつもりはない。兵の配置についての確認を終えると、俺は翌朝までに一門の主だった者たちを集めるよう命じた。

 

 家臣たちが下がった後も、老臣だけは広間に残っていた。先日の六角右衛門督との会談にも同席していた男である。今日の書状を知ってから何か言いたげな様子を見せていたが、ようやく口を開いた。

 

「殿。右衛門督殿との会談では、氏家家中を残す方向で話が進んだと記憶しております。此度の御命令を受け、そのお考えも変わられたのでございましょうか」

 

「まだ何も決めておらん。ただ、稲葉山から援軍が来ぬのであれば、六角との戦をどうするか考えねばならんだろう」

 

「先代義龍様への御恩は、いかがなさいます」

 

 老臣の問いは静かなものだったが、その言葉に込められた思いは重かった。

 

「忘れてはおらん。だからこそ、龍興様からの返答を待ったのだ」

 

「……御意」

 

 老臣はそれ以上尋ねず、退出した。

 

 俺は残された書状へ目を向けた。先日の会談で右衛門督は、氏家の所領と家臣を残すための条件について具体的に話し合う姿勢を見せていた。まだ正式な約束ではなく、左京大夫殿の裁可も必要になる。それでも、六角へ従った場合に何を守れるのか、おおよその見通しは立っている。

 

 一方、龍興様の命令に従えば、大垣の守りを弱めることは避けられない。人質を差し出したところで疑いが晴れるという保証もなく、稲葉山から援軍が送られてくる見込みも示されていなかった。

 

 義龍様が亡くなられてから、まだ一年余りである。若い龍興様を支え、一色家を守ることが先代への恩義に報いる道だと考えてきた。その思いは今も変わらない。だが、氏家に従う家臣や一族にも、それぞれ守るべき家と暮らしがある。城主である俺が忠義を尽くしたいというだけで、その者たちの行く末まで決めてよいものだろうか。

 

 明日は一門の者たちへ事情を知らせ、家中として進むべき道を定めなければならなかった。

 

 *

 

 翌朝、氏家一門の主だった者たちが大垣城へ集まった。稲葉山からの返書については既に知らせてあったが、命令の詳しい内容を知る者は限られている。俺は一同が揃ったところで書状を読み上げさせ、兵五百の差し出しと人質の要求について説明した。稲葉山から援軍を差し向けることはできず、大垣城は引き続き氏家が守るよう命じられていることも伝えた。

 

 読み上げが終わると、広間のあちこちで低い声が交わされた。兵を差し出すことについて驚く者もいたが、嫡男を人質として求められたことに不満を示す者も少なくない。皆が何かを言いたそうにしている中、最初に発言を求めたのは、先代の頃から氏家に仕える年長の一門だった。

 

「龍興様が稲葉山の守りを固めようとなさるのは当然のこと。五百の兵を差し出すのは容易ではございませぬが、御命令である以上、まずは従うことを考えるべきではございませぬか」

 

「では、大垣はどう守るのでございます」

 

 間を置かずに反論したのは、杭瀬川に近い場所へ所領を持つ若い一門だった。

 

「六角軍は既に垂井まで進んでおります。こちらの兵を五百も減らせば、城の守りだけでなく杭瀬川の警固まで手薄になります。稲葉山の守りを固めるために大垣を失っては、何の意味もございませぬ」

 

「大垣を失ってよいなどと申しておらぬ。周辺の国人へ改めて軍役を求め、足りぬ兵を補えばよかろう」

 

「その国人たちが素直に兵を出すとお考えですか。既に六角の動きを窺っている者もおります。無理に兵を求めれば、かえって六角へ走る者が出かねませぬ」

 

「それを抑えるのも氏家の役目であろう。今から弱気になってどうする」

 

「弱気などではございませぬ。現に兵が足りぬと申し上げているのです!」

 

 若い一門の声が大きくなった。年長の男は不快そうな顔をしたものの、まだ言葉を荒らげることはなかった。ただ、俺には両者が何を問題としているのか分かっていた。若い男の所領は六角軍が進んできた場合、早い段階で脅かされる場所にある。一方、年長の男は先代義龍様への奉公を重んじており、主君の命令に従わぬこと自体を危ういと考えていた。

 

 年長の男は別の一門へ顔を向け、兵を出せる余地がないか尋ねた。名を呼ばれた男は困った様子で、自らの所領でも既に警固へ人を出していると答えた。田畑の仕事が忙しい時期でもあり、これ以上の人手を求めれば村々から不満が出るという。

 

「それならば、城内の兵を一時的に減らすほかあるまい。六角がすぐに攻めてくると決まったわけでもない」

 

 年長の男の言葉を聞き、若い一門が身を乗り出した。

 

「では、その間に六角が杭瀬川を越えてきたらどうなさるのです。兵を稲葉山へ送った後で呼び戻そうとしても、間に合いませぬぞ」

 

「城に籠もって援軍を待てばよかろう」

 

「その援軍が来ぬと申されているのです!」

 

 広間のあちこちから声が上がった。六角軍が動くまでに兵を戻せるかもしれないという者もいれば、稲葉山へ送った兵がすぐに返されるとは思えぬという者もいた。若い一門は後者の意見に同調し、兵を差し出すのであれば代わりの援軍を確約してもらうべきだと訴えている。

 

 俺はまだ口を挟まなかった。今の段階で当主の考えを示せば、それに従おうとして本心を隠す者が出るだろう。一門の者たちが何を恐れ、何を守ろうとしているのか聞いておきたかった。

 

 ところが、話題が人質に移ると、それまでよりも険しい言葉が飛び交い始めた。

 

「兵のことも問題ですが、御嫡男を人質として差し出せという御命令はいかがなものでございましょう。殿は先代義龍様の頃から一色家に尽くしてこられました。それを今になって疑われるとは……」

 

「人質など珍しいことではあるまい。主君から疑いを掛けられたのであれば、それを晴らすために応じることも必要だ」

 

「何を仰せになる! 長年の奉公を人質で証明せよというのであれば、我らがこれまで流してきた血は何だったのでございますか!」

 

「声を荒らげるでない! 龍興様にも御事情があろう。六角の使者を迎え、帰属について話し合ったと聞けば、疑念を抱かれるのも無理はない」

 

「その交渉を稲葉山へ報告したのは殿御自身です。隠れて六角と通じようとなさったわけではございませぬ。それでも疑われるのであれば、今後いかなる奉公を重ねようとも同じことではありませぬか」

 

 年長の一門は口元を引き結び、若い男を睨んだ。

 

「主君からの疑いを晴らすために人質を差し出す。それの何処が不満なのだ。氏家が潔白であるならば、堂々と応じればよいではないか」

 

「潔白であるからこそ、納得できぬのです! 今まで一色家のために戦い、所領を守ってきた者たちが、何故今さら忠節を疑われねばならぬのですか」

 

「それほど人質を嫌がるのであれば、六角へ寝返るつもりだと思われても仕方あるまい!」

 

 その言葉に、若い男の表情が変わった。

 

「寝返るなどと誰が申しました! 大垣を守る手立てがないと申し上げているのです。援軍を求めた返答が、兵を差し出せという御命令ではございませぬか!」

 

「だからといって、主命に背いてよい理由にはならぬ!」

 

「主命に従って氏家が滅びても構わぬと仰せか!」

 

「何だと!」

 

 年長の男が膝を進めた。若い一門も退かず、互いに睨み合う。周囲の者が間に入ろうとしたが、双方とも興奮しており、今にも掴み合いになりそうな勢いだった。

 

「先代からの御恩を忘れたか! 我らが今日まで所領を保ってこられたのは、誰のおかげだと思っておる!」

 

「忘れてなどおりませぬ! だからこそ、今まで一色家へ兵を出してきたのではございませぬか。それなのに、氏家の存続に関わる時でさえ、稲葉山からは何の助けも得られぬ。さらに兵を差し出せと仰せになる。それを黙って受け入れよというのですか!」

 

「忠義とは、己の都合によって変えるものではない!」

 

「では、忠義を尽くして家臣たちを死なせることが、氏家の当主として正しいとでも仰せか!」

 

「貴様! 先ほどから何を申しておる!」

 

 年長の男が立ち上がりかけた。若い一門も腰を浮かせ、隣に座る者が慌ててその腕を掴んだ。

 

「いい加減にせぬか!」

 

 俺が声を上げると、広間の騒ぎが止まった。

 

「二人とも座れ!」

 

 年長の男はなお何か言いたげだったが、俺が厳しく睨むと膝を戻した。若い一門も隣の者に促され、ようやく座り直した。

 

「ここは氏家の行く末を決める場だ。互いを罵り合うために集めたのではない! 先代からの御恩を忘れてはならぬという考えは分かる。氏家が一色家に仕えてきた年月は短くない。だが、大垣の守りを案じる者まで忠義のない者と決め付けるのは間違っておる。反対に、主命に従おうとする者を家の滅亡を望んでいるかのように責めることも許さぬ」

 

 二人は頭を下げたものの、顔にはまだ不満が残っていた。俺はそれを承知の上で言葉を続けた。

 

「皆が氏家のためを思っていることは分かっておる。しかし、ここで一門が争えば誰が得をする。六角は既に不破を押さえている。日根野備中守の軍勢が何処にいるのかも定かではない。そのような状況で身内同士が争っていては、敵と戦う前に大垣の守りが崩れてしまうではないか」

 

 若い一門が深く頭を下げた。

 

「……申し訳ございませぬ。言葉が過ぎました」

 

 年長の男も続いたが、その表情は沈んだままだった。長く一色家へ仕えてきた者にとって、主命に従うべきだという考えを簡単に変えられるはずもない。反対に、六角の進軍を間近に控える者にとって、兵を減らすことへの恐れは切実なものだった。

 

 俺は二人をそれ以上咎めず、改めて一門の者たちへ問い掛けた。

 

「皆に聞く。龍興様の御命令に従い、五百の兵を差し出した後の大垣を、どう守るつもりだ」

 

 先ほどの年長の一門が、今度は声を抑えて答えた。

 

「周辺の国人から兵を集めるほかございますまい。あるいは日根野備中守殿と連絡を取り、軍勢を大垣へ寄せていただくことも……」

 

「備中守の軍勢が来るという約束はない。周辺の国人についても、今の時点でどれほど応じるか分からぬ。それでは確かな備えとは申せまい」

 

「されど、龍興様へ背くことは……」

 

「そのことは十分に承知しておる」

 

 俺は年長の男が次の言葉を探す前に、広間に集まった者たちへ話し掛けた。

 

「先ほどから皆の話を聞いておったが、一つだけ分かってほしいことがある。龍興様に背くことを、何とも思わぬわけではないのだ」

 

 年長の一門が顔を上げた。

 

「先代義龍様から受けた御恩は、今も忘れておらん。あの方のもとで戦い、一色家のために力を尽くしてきた。龍興様が家督を継がれた時も、先代に仕えた者として御支えすることが当然だと思っていた。今になって、その御子へ背く道を選ぶのは辛い。長年の奉公を、自ら否定するような思いさえある」

 

 そこまで話して、俺は一度言葉を止めた。

 

 年長の男は先ほどまでと違い、反論しようとはしなかった。ほかの者たちも俺の言葉を待っている。今まで家中の者たちへ、このような話をしたことはなかった。主君への忠節は武士として当然のことであり、わざわざ口にするものでもないと思っていたからだ。

 

 だが、今は伝えなければならない。

 

「しかし、そなたたちを失うことも、それと同じくらい辛いのだ」

 

 俺は広間を見渡した。

 

「ここにいる者の中には、先代の頃から共に戦ってきた者もいる。若い頃から氏家に仕え、今では子や孫を持つ者もおろう。父親の跡を継ぎ、これから家を盛り立てようとしている者もいる。その者たちを、主命だからというだけで勝ち目の乏しい戦へ送り出すことが、どうしても正しいとは思えぬ」

 

 年長の男が俯いた。俺はその姿を見ながら、先ほどまで激しく言い争っていた若い一門にも言葉を向けた。

 

「そなたの父も、長く氏家に仕えてくれたな。今こうして跡を継いでいる姿を見ることができるのは、ありがたいことだと思っておる。だが、今度の戦でそなたが討たれれば、その家に残された者たちはどうなる。ほかの者たちも同じだ。兵を失うというのは、ただ数が減るという話ではないのだぞ」

 

「……殿」

 

「忠義を尽くして討死することを、恥だとは思わぬ。戦となれば当主である身共も、その覚悟を持たねばならんだろう。しかし、家臣たちに死を命じるのであれば、相応の理由と勝つための備えが必要だ。今の氏家に、それがあると胸を張って申せるか」

 

 若い一門は答えず、深く頭を下げた。

 

 俺は再び年長の男へ向き直った。

 

「先代への恩義を守りたいという考えは、よく分かる。身共も同じ思いだ。だが、その恩義に報いるために氏家が滅び、ここにいる者たちまで失うことになったなら、何を守ったと言えるのだろうな」

 

「……殿は、そこまで御家中のことを」

 

「そなたたちがこれまで尽くしてくれたことを、忘れたことはない。城を守り、所領を治め、戦となれば兵を率いて駆け付けてくれた。先代に仕えてきた年月と同じように、氏家が皆と重ねてきた年月も大切なのだ。どちらか一方を軽く考えることなどできぬ」

 

 年長の男は唇を結び、何度か言葉を探しているようだった。

 

「されど、主君を変えれば、世間からは裏切り者と呼ばれましょう。それでもよろしいのでございますか」

 

「よいなどとは思わぬ。だが、そう呼ばれることを恐れて、家中の者たちを無用な戦で失う方が、今の身共には耐え難い」

 

 広間は静まり返っていた。

 

 年長の一門が先ほどまであれほど強く主命を重んじていたのは、自らの信念だけでなく、俺が先代への恩義を忘れたのではないかと恐れていたからなのかもしれない。だが、その恩義を忘れたわけではないことと、龍興様の命令に従えぬことは両立する。俺自身もようやく、その二つを分けて考えられるようになっていた。

 

 しばらくして年長の男が口を開いた。

 

「……先代からの御恩ばかりを考え、殿が何を案じておられるのか、十分に考えておりませなんだ。先ほどの言葉は、どうかお許しくだされ」

 

「謝る必要はない。そなたの忠義を疑ったことなど一度もない。だからこそ、今日も皆の前で意見を述べてもらったのだ」

 

 俺がそう答えると、男は深く頭を下げた。若い一門も先ほどまでの険しい様子を収め、年長の男へ向かって一礼した。

 

 家中の意見が完全に一致したわけではないだろう。それでも、これ以上互いの忠節を疑って争う必要はなくなったようだった。

 

 俺はそこで初めて、六角との会談で何が話し合われたのか、詳しく伝えることにした。

 

「先日、六角右衛門督殿と直接会い、氏家が六角へ帰属した場合の扱いについて話し合ってきた。右衛門督殿は、大垣城を引き続き氏家に預けることを前提に話を進めると申された。所領についても従来の支配を尊重し、家臣たちの処遇については、一色家に仕えていたことだけを理由に咎めぬとの考えを示しておられる」

 

「それは……六角へ従えば、氏家家中を保てるということでございましょうか」

 

「正式には左京大夫殿の裁可が必要となる。六角兵を城内へ受け入れることや、今後の軍役についても取り決めを結ばねばならん。何もかも従来どおりというわけではないが、家中を解体するおつもりはないようだ」

 

 年長の一門が難しい顔をした。

 

「殿。六角の言葉を信じてよろしいのでございましょうか。今は城を手に入れるために都合のよいことを申しているだけかもしれませぬ。帰属した後になって約束を違えられては、取り返しがつきませぬぞ」

 

「その懸念は承知しておる。だからこそ、右衛門督殿との会談では城内の指揮権や所領の扱いについて詳しく確かめた。六角の兵を入れるにしても、その人数や持ち場まで一方的に決められては困ると伝えてある」

 

「右衛門督殿は何と?」

 

「氏家の考えを聞いたうえで協議したいと申された。城門の管理についても、氏家が引き続き担うことを前提に話が進んでおる」

 

「されど、正式な安堵がないのであれば、結局は六角の御意向次第ではございませぬか」

 

「だからこそ、帰属する前に条件を確かめ、六角家として認めてもらうつもりだ。左京大夫殿の裁可を得ぬまま、城を明け渡すことはせぬ」

 

 年長の男はその答えを聞き、今度は納得した様子だった。

 

 俺は帰属を望んでいるとはいえ、六角の言葉を無条件に信用しているわけではない。右衛門督が示した条件を正式に認めさせ、氏家の所領と家臣の扱いを確かなものにする。それができなければ、主君を変える決断を下したところで家中を守ることにはならないだろう。

 

 若い一門が発言を求めた。

 

「殿。六角がそこまで認めるというのであれば、帰属を進めるべきではございませぬか。稲葉山から援軍が来ぬ以上、このまま戦っても氏家の兵を失うばかりでございます」

 

「六角へ従えば、今度は一色家と戦うことになるやもしれぬ。そのことまで考えておるか」

 

 俺の問いに、若い男は言葉を詰まらせた。

 

 先ほどまで勢いよく主命への不満を述べていたものの、実際に一色家との主従を断つとなれば話は別なのだろう。六角への帰属は、ただ大垣城を守るための方便ではない。今後は六角家のもとで軍役を果たし、場合によってはこれまで肩を並べて戦ってきた者たちと槍を交えなければならなくなる。

 

「……その覚悟は、いたさねばならぬと存じます」

 

 若い一門はようやく答えたが、その声には先ほどまでの勢いがなかった。

 

 俺はその様子を見て、無理もないと思った。古くから付き合いのある国人たちの中には、一色家へ留まる者もいるだろう。同じ戦場に立っていた者と敵味方に分かれることになれば、互いに辛い思いをするはずだ。

 

「殿は、既に御決断なさっておられるのですか」

 

 年長の一門が尋ねてきた。

 

 俺はその顔を見た。先ほどまで若い者と激しく言い争っていた男である。今は怒りを収めているものの、俺が何を告げようとしているのか、おおよそ察しているようだった。

 

「氏家は六角へ従う。そのつもりで右衛門督殿へ使者を遣わす」

 

 誰も反論しなかった。

 

 俺は六角への帰属が正式に認められるまでの間、大垣の守りをこれまでどおり維持するつもりであることを伝えた。今すぐ城門を開いて六角軍を迎え入れるのではなく、右衛門督から示された条件について左京大夫殿の裁可を求め、必要な取り決めを結んだ上で主従を定めるのである。

 

 日根野備中守の軍勢は健在であり、龍興様が氏家の離反を認められるとも思えない。六角へ従った後、一色家の軍勢が大垣へ向かってくる可能性もある。しかし、今の氏家が単独で六角の大軍を防ぐことと、六角の支援を受けながら大垣を守ることでは、置かれる状況が大きく異なるはずだ。

 

「皆には一色家への恩義があろう。納得できぬ者がいることも承知しておる。しかし、今回の決断は氏家の当主として下す。責めを負うことになれば、その責めも引き受けよう」

 

 年長の一門は長い間俯いていたが、やがて顔を上げた。

 

「……殿のお考えは承知いたしました。先代への御恩を思えば、今も心残りはございます。されど、氏家の家を守るためとの御決断であれば、これ以上申し上げることはございませぬ」

 

 男が頭を下げると、ほかの一門の者たちもそれに続いた。

 

 全員が心から納得したとは思わない。それでも、先ほどまでのように互いの忠節を疑い、激しい言葉をぶつけ合う者はいなかった。氏家の家を守るという目的については、皆が同じ考えを持っている。そのために何を選ぶべきか、ようやく一門として方向を定められたのだろう。

 

「では、六角右衛門督殿へ書状を送る。帰属の意思を伝え、正式な安堵について左京大夫殿の裁可を願い出ることにしよう。城内の兵については、これまでどおり守りを続けさせる。六角から返答が届くまでは、軽々しく動くことのないように」

 

 評定を終えた者たちが広間を出ていく中、先ほど争っていた二人が足を止めているのが見えた。若い男が先に頭を下げ、年長の男も短く言葉を返している。何を話しているのかまでは聞こえなかったが、互いに言葉を交わせる程度には落ち着いたようだった。

 

 俺はその姿を見届け、老臣へ使者の手配を命じた。

 

 *

 

 六角右衛門督への書状を認めたのは、その日の午後だった。

 

 先日の会談で示された条件について、氏家一門でも協議を重ねたことを記す。そのうえで、氏家は六角家への帰属を望むこと、大垣城と従来の所領については会談で話し合った内容を基本として、正式な安堵を願い出たい旨を伝えた。

 

 ただし、帰属の意思を表明したからといって、その日からすべてが決まるわけではない。正式な所領安堵には左京大夫殿の裁可が必要であり、誓紙の取り交わしや城内へ受け入れる兵の人数についても、なお協議を残している。俺は右衛門督に対し、使者を通じて早急に取り決めを進めたいと申し入れた。

 

 使者には先日の会談にも同席していた者を選んだ。右衛門督が氏家からの知らせを待っていることは間違いなく、事情を知る者であれば、書状に記しきれぬことも伝えられるだろう。

 

 一方、稲葉山城へは別の返書を用意しなければならなかった。

 

 龍興様への書状を認めるのは、六角への帰属を申し出ること以上に気が重かった。先代から仕えてきた一色家との主従を、自ら断つと伝えるのである。言葉を選んだからといって、その意味が変わるものではない。

 

 俺は先代義龍様から受けた御恩と、これまで一色家へ奉公してきたことに触れた。そのうえで、六角軍が大垣へ迫る中、援軍を得られぬばかりか兵五百を差し出すよう命じられたこと、さらに人質を求められたことについて、氏家として受け入れられないと記した。

 

 龍興様が稲葉山城の守りを優先される事情は理解できる。しかし、大垣を守るよう命じながら、そのための兵を減らすことには従えない。先代から預かった家臣や所領を守るため、氏家は六角へ帰属する道を選ぶことにした。

 

 そこまで認めたところで筆を止めた。

 

 人質を求められたことには今も納得していないし、長年の奉公を疑われたことへの憤りも残っている。それでも、書状に龍興様を責める言葉を並べるつもりはなかった。義龍様のもとで戦い、美濃を支えてきた歳月は、氏家にとって決して無駄なものではない。

 

 俺は最後に、これまでの御恩への感謝を記して書状を封じた。

 

 稲葉山から来ていた使者を呼び、龍興様への返書を託すことにした。使者は封じられた書状を受け取ると、改めて軍役と人質について尋ねてきた。

 

「殿、御命令の兵五百につきましては、いつ頃御支度が整うのでございましょうか。また、人質についても、稲葉山では御返答をお待ちしております」

 

「そのことについては書状に記してある。龍興様へ確かにお届けしてもらいたい」

 

「……承知いたしました」

 

 使者はそれ以上問い返さなかったが、俺の返答から何かを察したのかもしれない。軍役の支度について明言しなかったことが気になったのだろう。

 

 俺は使者を下がらせると、翌朝の出立について老臣へ確認した。六角への使者と稲葉山への使者は、それぞれ別の道を進むことになる。二通の書状が相手へ届けば、氏家の立場も明らかになるはずだ。

 

 さらに、城内の警固についても命令を改めた。

 

 杭瀬川方面の物見はこれまでどおり続けるものの、六角方へ不用意に攻撃を仕掛けることを禁じる。また、日根野備中守の軍勢が大垣へ近付いた場合には、勝手に城内へ入れることなく、必ず俺へ知らせるよう申し付けた。備中守は一色家の重臣であり、これまで協力して六角の進軍を防いできた相手だ。しかし、氏家が六角へ従うと決めた以上、以前と同じように扱うわけにはいかない。

 

 正式な帰属が認められるまでは、備中守との関係も慎重に扱わねばならなかった。今すぐ敵として攻撃を仕掛けるつもりはないが、大垣城へ兵を入れられてしまえば、氏家の判断だけでは事を収められなくなる。城門を預かる者たちにも事情を伝え、勝手に兵を通さぬよう念を押した。

 

 翌朝、城門の前には二組の使者が集まっていた。

 

 垂井へ向かう者には、六角右衛門督へ帰属の意思を伝え、正式な手続きについて相談するよう命じた。稲葉山へ戻る使者には、龍興様への返書を確かに届けるよう改めて申し付けた。

 

 先に城門を出たのは、六角へ向かう使者たちだった。馬を進めて西へ向かう姿を見送りながら、俺は傍らに控える老臣へ大垣城の守りについて確認した。城門の警固は従来どおり続け、軍勢の出入りについては俺の許しを得ること。周辺の国人たちには、正式な帰属が認められるまで不用意に新たな命令を出さぬことも伝えた。

 

 稲葉山からの使者が出立する頃には、城下の往来も増え始めていた。商人たちは荷を運び、百姓たちは田畑へ向かっている。城内で何が決められたのかを知らぬ者も多いだろうが、これから氏家が六角へ従うことになれば、彼らの暮らしにも少なからず影響が及ぶはずだ。支配する家が変わったというだけで年貢や諸役を改められれば、村々が混乱することにもなる。

 

 そのためにも、六角との取り決めは曖昧にしたくなかった。右衛門督から示された条件を正式なものとし、氏家の所領と大垣城の扱いを確かなものにする。それができて初めて、家臣や領民たちにも今後のことを伝えられるだろう。

 

 俺が城門の内側へ戻ろうとすると、老臣が少し迷った様子で口を開いた。

 

「殿。先代義龍様が御存命であられたならば、此度のことを何と仰せになったのでございましょうな」

 

 俺は足を止めた。

 

 先代ならば、そもそもこのような事態を招かなかったかもしれない。だが、それは今となっては確かめようのないことだった。義龍様が亡くなられてからも、一色家を支えようと務めてきた。そのことに偽りはない。だからこそ、今回の決断についても、先代からの御恩を忘れて下したものではないと胸を張って言える。

 

「分からぬ。だが、先代から預かったものを守ろうとしたことだけは、恥じるつもりはない」

 

 老臣は深く頭を下げた。

 

 俺はその姿を見届けると、城内へ戻った。大垣城では兵糧を運ぶ者たちが働き、番兵の交代も進んでいる。六角へ帰属することになれば、城の守りにも新たな取り決めが加わるだろう。しかし、それは正式な返答が届いてからの話である。

 

 俺は広間へ戻ると、杭瀬川方面の警固について報告を受けた。続いて六角からの使者を迎えるための手配を進めるよう命じ、城内の者たちにはこれまでどおり持ち場を守らせることにした。

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