永禄五年七月下旬、美濃国安八郡大垣城。
「此度は氏家の帰属をお認めいただき、誠にありがたく存じます。大垣城は既に門を開き、六角の軍勢を迎え入れる支度を整えております。今後は左京大夫様ならびに右衛門督様の御下知に従い、家中の者たちとともに奉公する所存にございます」
広間の中央で氏家直元が深く頭を下げた。
先日、垂井と大垣の間にある寺で会談した時には、互いに敵将として向かい合っていた。それが今は、大垣城の広間で新たな主従関係について話している。氏家殿から帰属を申し出る書状が届き、城門が開かれるまでに数日しか掛かっていない。大垣を攻めるために進軍の支度を進めていたことを思えば、随分と状況が変わったものだ。
もっとも、氏家殿がこの決断に至った事情を考えれば、手放しで喜べる話でもなかった。稲葉山城から届いた返書には、援軍を送れぬばかりか、氏家の兵五百を差し出すよう命じられていたという。さらに六角との交渉を理由に忠節を疑われ、人質まで求められたらしい。使者から詳しい事情を聞いた時には、龍興がそこまで強い命令を下したことに驚かされた。
関ヶ原で日根野備中守が敗れ、不破郡まで六角の手に落ちた以上、龍興が稲葉山城の守りを固めようとするのは理解できる。しかし、大垣を守らせながら兵を召し上げ、そのうえ人質まで要求すれば、氏家家中がどう受け取るかは想像できたはずだ。氏家殿が帰属を決断したのも、単に六角軍が優勢だからという理由だけではあるまい。
「氏家殿、面を上げられよ。此度の決断、確かに受け取った。大垣城を戦わずして開いたことは、六角にとっても大きい。これよりは父上の下で、共に美濃を治めるために力を尽くしてもらいたい」
「はっ。ありがたき御言葉にございます」
「城と所領の扱いについては、先日の会談で話した方針を変えるつもりはない。父上にも既に報告してある。正式な裁可が下るまでは、引き続き氏家殿に大垣城の守りを任せる」
「承知いたしました。家中の者たちにも、その旨を伝えまする」
氏家殿が再び頭を下げると、傍らに控えていた家臣たちも一斉に礼を取った。年長の武将もいれば、まだ若い者もいる。いずれも礼を失うことはなかったが、表情には違いがあった。こちらの言葉を聞いて幾分安心した様子の者がいる一方、顔を伏せたまま動かぬ者もいる。
昨日までは一色家の家臣として六角軍を迎え撃つ支度をしていた者たちだ。氏家殿が帰属を決めたからといって、長年仕えてきた主君への思いまで直ちに変えられるはずもない。俺としても、今この場で心からの忠節を示せと迫るつもりはなかった。
俺の傍らには蒲生下野守と進藤山城守が控えている。大垣城へ入る際に伴ってきた兵は護衛に必要な人数に留め、六角軍の主力は城外に布陣させた。無血開城したばかりの城内へ大軍を押し込めば、氏家家中に余計な不安を与えるだけでなく、兵同士の争いを招く恐れもある。正式な駐留人数が定まるまでは、今の配置を大きく変えぬ方がよいだろう。
入城の際には、氏家方の兵が城門の両側に並んでいた。誰も武器を向けてくることはなかったが、歓迎一色という雰囲気でもない。門を通った時、年配の武士が唇を固く結んでいるのが目に留まった。主君の決断に従いながらも、心中では割り切れぬものがあるのだろう。
「氏家殿。城内の様子はどうなっている。兵の配置を変える必要があるなら、今のうちに確かめておきたい」
「はっ。家中の兵には従来の持ち場を守らせております。ただ、六角の兵を城内へ受け入れるに当たり、御相談申し上げたいことがございます」
「申してみよ」
氏家殿は傍らの家臣へ命じ、城内の配置を書き込んだ絵図を広げさせた。進藤山城守も席を寄せ、氏家殿が指し示す場所を確認している。
これまで大垣城では、西側から迫る六角軍への警戒を重視していた。今後も西の守りを疎かにするわけにはいかないが、むしろ気になるのは稲葉山方面である。氏家殿が一色家との主従を断った以上、これまで味方だった軍勢が大垣へ向かってくる可能性も考えておかなければならない。
「城門については、当面これまでどおり氏家の兵に守らせていただきたく存じます。六角の兵を受け入れることに異存はございませぬが、急に番兵を入れ替えれば、家中に動揺が生じましょう」
「城門の守りは引き続き氏家殿に任せる。ただし、六角の使者や兵が出入りする際には、約定に従って門を開いてもらわねば困る。そこは徹底しておいてくれ」
「承知いたしました。各門を預かる者には、既に申し付けております」
そこで下野守が口を開いた。
「氏家殿。門を預かる兵には、六角方との連絡方法も申し含めておいてもらいたい。こちらから出入りする者の名と人数は事前に知らせるが、門番が事情を知らねば無用な争いになりかねぬ」
「下野守殿の申されるとおり。城内の者にも伝えておこう。ただ、軍勢が通る際には、できるだけ早く知らせを寄越してもらいたい。急に大勢の兵が押し寄せては、門を預かる者も対処に困る」
「承知した。行軍の予定が決まれば、氏家殿にも知らせよう」
二人のやり取りを聞き、俺は先日の会談で話し合った内容が、ようやく実際の取り決めになり始めたと感じた。城門を誰が管理し、どのような手順で兵を通すのか。言葉だけで帰属を認め合っても、こうした事柄を曖昧にすれば、いずれ双方の兵が衝突する原因になる。
「山城守、城内に置く兵の数は父上の裁可を待って決める。それまでは氏家殿と連絡を取り、各門の出入りに支障が出ぬようにしてくれ」
「御意。氏家殿、後ほど門を預かる者たちとも話をさせてもらいたい」
「無論だ。こちらから案内の者を付けよう」
話がまとまったところで、広間の端に控えていた年長の武士が氏家殿へ発言を求めた。
「殿。恐れながら、一つ確かめておきたいことがございます」
「何だ」
「此度の帰属については、我らも御決断に従う所存にございます。しかし、城内へ六角の兵が入った後、氏家の兵が武具を取り上げられるようなことはございませぬか。その点だけは、どうかお確かめいただきたく……」
氏家殿の顔に不快の色が浮かんだ。
「その件については、既に家中へ申し伝えてあるはずだ」
「承知しております。されど、兵を預かる者として確かめておきたいのでございます。武具を取り上げられれば、城の守りにも差し障りが出ましょう」
年長の武士は頭を下げたものの、発言を取り下げる様子はなかった。氏家殿もその態度を見て、どう答えるべきか迷っているらしい。
降った側が武具を取り上げられるのではないかと恐れるのは、珍しいことではない。城と所領を残すという約束があっても、実際に六角の兵が入るとなれば、家臣たちも不安になるのだろう。
「氏家殿、構わぬ。その者の話を聞こう」
「……はっ」
俺は年長の武士へ向き直った。
「そなたの懸念は分かった。だが、氏家の兵から武具を取り上げるつもりはない。大垣城の守りを引き続き氏家殿へ任せる以上、兵の武具まで奪っては役目を果たせまい」
「では、我らは従来どおり殿の下で軍役を果たしてよろしいのでございますな」
「そのとおりだ。今後は六角のために働いてもらうが、氏家の家臣であることまで変えるつもりはない。これまでどおり氏家殿の指揮に従い、城と領内の守りを務めてもらいたい」
「はっ。ありがたき御言葉にございます」
武士は深く頭を下げた。
俺はその姿を見ながら、氏家殿が城内の指揮権について慎重だった理由を改めて理解した。先日の会談では城主としての権限を重んじているのだと思っていたが、実際には家臣たちの扱いも大きな問題だったのだろう。氏家家中の兵を取り上げてしまえば、城を預かるという約束そのものが成り立たなくなる。
ただし、氏家の兵を従来どおり残す以上、その指揮を執る氏家殿には新たな責任を負ってもらわねばならない。
「氏家殿。一つ申し渡しておく。これまで一色家へ仕えてきたことを咎めるつもりはない。だが、六角へ帰属した以上、今後は父上の御下知に従ってもらう。龍興から新たな命令が届いたとしても、独断で応じることは許さぬ」
「無論にございます。既に一色家との主従を断つ旨は稲葉山へ伝えております。今後は六角の御下知に従う所存にございます」
「ならばよい。家中の者たちにも、そのことを十分に伝えておいてくれ」
氏家殿は改めて頭を下げた。傍らの家臣たちもそれに倣ったが、先ほど発言した年長の武士は、礼を取るまでに僅かな間があった。
そのことを咎めるつもりはない。先代から仕えてきた主君との縁を断つことは、本人たちにとっても容易な決断ではなかったはずだ。しかし、これから六角の城として守ってもらう以上、氏家殿には家中をまとめてもらう必要がある。俺たちが一人ひとりの内心まで確かめるより、その方がよほど現実的だろう。
続いて城内の兵糧や武具について確認した。
氏家家中が引き続き守りを担う以上、蓄えを直ちに六角軍へ引き渡させるつもりはない。しかし、大垣城を今後の軍事拠点として使うのであれば、兵糧の備蓄量や武具の数を把握しておくことは欠かせなかった。氏家殿には帳面を整えてもらい、六角方でも必要な内容を確かめられるよう命じた。
「兵糧については、当面これまでどおり氏家家中のために使ってもらう。ただ、今後の軍役にも関わることだ。蓄えの量は明らかにしておいてくれ」
「承知いたしました。城内の蔵については、既に帳面がございます。後ほど御覧に入れまする」
「頼む。城外の兵については、これまでどおり後方から物資を運ばせるつもりだ。大垣の蓄えを当てにして、無理に徴発するようなことはさせぬ」
その言葉に氏家殿が顔を上げた。
「右衛門督様。城内の兵糧について、六角へ差し出す必要はございませぬか」
「必要になれば相談する。だが、今すぐ城の蓄えを召し上げるつもりはない。氏家殿には城を守ってもらわねばならんからな」
「ありがたき御配慮にございます」
氏家殿の返答を聞いたところで、山城守が城外に布陣する軍勢への補給について触れた。
「右衛門督様。大垣城を得たとはいえ、城外の兵を養うには引き続き後方からの輸送が要りましょう。城下で物資を買い入れるにしても、商人や村々へ負担が偏らぬようにしたいところにございます」
「そうだな。城下で調達する物資には相応の代価を払わせよう。氏家殿、商人たちにもその旨を伝えておいてくれ。兵が勝手に物を持ち去るようなことがあれば、すぐに知らせてもらいたい」
「承知いたしました。城下の者たちにも申し伝えます」
大垣城を攻めずに得られたことは、六角にとって大きな利点だった。だからこそ、その後の扱いを誤るわけにはいかない。城と所領を残すと言いながら兵糧を取り上げ、家臣たちへ新たな負担を課してしまえば、何のために帰属を認めたのか分からなくなる。氏家家中の協力を得て、大垣周辺の支配を安定させることができれば、六角軍は次の進軍に力を向けられる。
城内の守りについて必要な話を終えたところで、氏家殿が改めて発言を求めた。
「右衛門督様。もう一つ、御許しをいただきたいことがございます」
「何だ」
「此度の帰属について、家中の者たちには既に伝えております。しかし、先代義龍様への御恩を忘れられぬ者も少なくございませぬ。中には、六角へ従うことに今も迷いを抱いている者もおります。どうか、その者たちについては、しばらく御猶予をいただけませぬか」
下野守が氏家殿へ顔を向けた。
「氏家殿。それは、今も一色家に従いたいと考える者がいるということか」
「いえ、帰属の決定に背く者はおらぬ。皆、氏家の家臣として働くことは承知している。ただ、長年仕えてきた主君との縁を断つことに、心の整理がつかぬ者もいるのだ」
「なるほど。だが、城の守りを預かる以上、命令に背かれては困る。その点は氏家殿の責任で徹底してもらわねばならん」
「承知しておる。家中の者たちにも、そのことは十分に言い聞かせよう」
二人のやり取りを聞き、俺は氏家殿が先に申し出てくれたことを評価した。家中の者たちに迷いがあることを隠し、表面だけ従順に振る舞わせることもできたはずだ。そうしなかったのは、これからも氏家家中を率いる以上、無理に取り繕っても意味がないと考えたからかもしれない。
「氏家殿。先代からの恩義を忘れられぬことまで咎めるつもりはない。長年仕えてきた主君を、今日から敵だからと憎めるものでもあるまい。ただし、六角へ帰属した以上、約定は守ってもらう。その点さえ違えなければ、こちらから一人ひとりの忠節を試すような真似はせぬ」
「はっ。必ず家中をまとめて御覧に入れまする」
「氏家殿には、その役目を果たしてもらいたい。今まで共に戦ってきた者たちなのだろう。その者たちが引き続き力を尽くせるよう、取り計らってくれ」
氏家殿は深く頭を下げた。
これで今の段階で決められる事柄はおおむねまとまった。所領の安堵や六角兵の駐留人数については父上の裁可を待たねばならないが、それまでの間に何を進めるべきかは明らかになった。大垣城の守りは氏家家中が担い、六角軍は城外の備えを維持する。正式な取り決めがまとまった後で必要な兵の配置を改めればよい。
「氏家殿。大垣城は引き続き任せる。父上から正式な裁可が届けば、改めて所領と軍役について取り決めることになるだろう。それまでは城内を落ち着かせることを優先してくれ」
「承知いたしました」
「それと、稲葉山から何らかの知らせが届いた場合には、必ずこちらへ伝えるように。日根野備中守の軍勢についても同じだ。所在が分からぬ以上、警戒を怠るわけにはいかん」
「御意。氏家の者にも申し付けておきます」
氏家殿の返答を確かめた俺は、広間に集まった家臣たちへも声を掛けた。
「氏家家中の者たちも、今日より六角のために働いてもらうことになる。これまでの奉公を忘れよとは申さぬが、今後は同じ味方として力を合わせてもらいたい。城と領内の守りについては、引き続き氏家殿の命に従ってくれ」
一同が深く頭を下げた。
その後、氏家殿の案内で城内の様子を確かめることになった。広間を出ると、廊下の先では氏家方の武士たちが持ち場へ戻る支度をしている。俺たちが通ると道を譲り、深く礼を取ったが、その姿にはまだ多少のぎこちなさが残っていた。
それでも、城内の兵が混乱している様子はない。武具を持った兵が従来の持ち場を守り、城門では番兵の交代も行われている。氏家殿が帰属を決めてから短い日数しか経っていないにもかかわらず、家中の者たちをまとめていることは確かなようだった。
城門へ向かう途中、氏家殿が少し歩みを緩めた。
「右衛門督様。此度のことでは、家中の者たちにも随分と苦労を掛けました。先代からの御恩を重んじる者もおりましたが、最後には皆が氏家のために力を合わせると申してくれました。その者たちを引き続き家臣として置いていただけること、改めて御礼申し上げます」
「礼には及ばぬ。氏家殿には、これからもその者たちを率いてもらわねばならん。此度の決断を無駄にせぬよう、共に務めを果たそう」
「はっ」
城門へ出ると、六角の兵が城外で待機していた。
大垣城の門は既に開かれているが、城内を守っているのはまだ氏家家中の兵である。城外には六角軍が布陣し、両者の間では使者や荷駄が行き来していた。昨日まで敵として警戒し合っていた者たちが、今日から同じ側に立つことになる。その事実を受け入れるまで、互いに幾らかの時間は要るだろう。
俺は城門の守りを確かめてから、下野守へ声を掛けた。
「下野守。城外の兵には、氏家方との争いを起こさぬよう改めて命じてくれ。大垣城も六角の拠点となった以上、城下の者たちへ無用な負担を掛けることも禁じたい」
「御意。各隊へ申し伝えます」
「山城守には、城内の守りと兵の出入りについて氏家殿と調整してもらいたい。正式な駐留人数が決まるまでは、互いの持ち場を乱さぬようにしておこう」
「承知いたしました」
二人へ必要なことを命じた俺は、改めて氏家殿へ向き直った。
「氏家殿。城内のことは任せる。父上から裁可が届くまでに、家中の者たちにも新たな役目について十分に伝えておいてくれ」
「はっ。御期待に背かぬよう努めます」
氏家殿は深く頭を下げた。
城門の上には、氏家の旗に並んで六角の旗が掲げられている。
それを見上げていた氏家方の武士たちの中には、まだ複雑な表情を浮かべる者もいた。しかし、誰も異を唱えることなく、それぞれの持ち場へ戻っていく。少なくとも今日のところ、両軍の間で争いは起きていなかった。
今須から関ヶ原へ進み、不破郡を押さえるまでには、少なくない兵を失っている。大垣でも戦になれば、さらに損害が増えていたことだろう。それを避けられたのは、今後の美濃攻略にとって大きな利点になる。
だが、城を得たことと、その土地を治められるようになることは別の話だ。氏家家中の協力を得られれば、大垣周辺の支配を安定させることもできるだろう。そのためには、今回の約束を正式なものとし、氏家殿が六角の家臣として働けるようにしなければならない。
俺は大垣城の無血開城について、改めて父上へ報告を送ることにした。氏家家中が城の守りを続けていること、正式な所領安堵と六角兵の駐留について裁可を仰ぎたいことも、併せて伝える必要がある。
城外へ戻ると、既に各隊の将が集まり始めていた。大垣城を攻めるために用意していた兵は、ひとまず戦わずに済んだ。しかし、日根野備中守の所在は依然として分からず、稲葉山城も健在である。氏家が帰属したことを知れば、一色方も何らかの動きを見せるだろう。
俺は集まった将たちを陣所へ入れるよう命じ、大垣城の守りを固めながら、次の軍勢の動きについて協議することにした。
*
永禄五年八月初旬、近江国観音寺城。
大垣城が戦わずして開かれたとの知らせは、四郎からの書状によって届いた。
関ヶ原で日根野備中守を退けてから、四郎が大垣城主の氏家直元と交渉を続けていることは承知していた。先に届いた報告にも、城と所領の扱いについて双方の考えがおおむね一致したと記されている。ただ、氏家は稲葉山からの返答を待つと申していたから、帰属が決まるまでにはもう少し時間が掛かるものと思っていた。
それが、わずかな日数で城門を開くことになったという。
書状には氏家が帰属を決断した経緯も記されていた。一色龍興は大垣への援軍を送らず、反対に兵五百を稲葉山へ差し出すよう命じたらしい。しかも、六角と交渉したことを咎め、氏家一門から人質を求めたという。
稲葉山城の守りを固めようとする龍興の考えは理解できる。しかし、大垣に六角軍を防がせながら兵を召し上げるとなれば、氏家も困ったであろう。人質を求められたことも、長年一色家に仕えてきた者たちにとっては容易に受け入れられぬ話だったはずだ。
俺は読み終えた書状を脇へ置き、報告に来ていた使者へ四郎の様子を尋ねた。
「右衛門督は、既に大垣へ入ったのだな」
「はっ。氏家直元が自ら城門を開き、右衛門督様をお迎えしたとのことでございます。城内で争いが起きたという知らせもございませぬ」
「六角の兵はどれほど入っておる」
「右衛門督様の供回りのみと伺っております。大軍を城内へ入れることは避け、守りは引き続き氏家の兵に任せておられます」
その扱いならば、当面は問題あるまい。帰属を決めたばかりの氏家家中へ大勢の兵を送り込めば、城を取り上げられるのではないかと疑う者も出る。四郎は先の会談でも城門の管理を氏家に残す方針を示しており、その約束を守ったということになる。
ただし、今後も城内の守りをすべて氏家任せにするつもりはなかった。
大垣は西美濃を押さえるうえで重要な城だ。不破からさらに東へ進む軍勢にとって、背後の守りを支える場所にもなる。氏家が帰属したとはいえ、六角の兵を一人も置かぬままでは、何か起きた際に対応が遅れる。城主の権限を尊重しながら、六角として必要な守りも整えなければならなかった。
使者を下がらせた後、俺は後藤但馬守を呼び、四郎から届いた書状を見せた。
「大垣が開いた。氏家は城と家中を残すことを条件に、六角へ従うと申しておる」
「それは何よりにございます。大垣を攻めるとなれば、相応の損害を覚悟せねばなりませなんだ。戦わずに済んだことは大きゅうございますな」
「右衛門督は氏家を引き続き城主として用いたいようだ。但馬守はどう見る」
但馬守は書状に記された条件を確かめてから答えた。
「氏家が家中をまとめて帰属したのであれば、そのまま用いるのがよろしいかと存じます。大垣周辺の国人や村々についても、氏家ほど事情に通じた者はおりますまい。ただ、城内には六角からも兵を置くべきでしょう」
「うむ。城を預ける以上、氏家には相応の権限を認めねばならん。しかし、六角の重要な拠点となるのだから、こちらの守りも必要だ」
「氏家に城門の管理を任せるとしても、駐留する兵の人数や持ち場は定めておくべきかと。双方の将が勝手に兵を動かすようでは、いずれ争いが起きましょう」
但馬守の考えには異存がなかった。
氏家直元は長く一色家を支えてきた武将である。西美濃の国人たちとの付き合いも深く、土地の事情にも通じているだろう。そのような者を帰属した途端に遠ざければ、こちらは大垣を得ながら、城を治めるための人と知識を自ら捨てることになる。
それだけではない。氏家が六角からどのような扱いを受けるのか、周辺の国人たちも関心を寄せるはずだ。帰属した者から所領を取り上げ、長年仕えてきた家臣まで召し上げるとなれば、容易に降ろうとする者はいなくなる。
もっとも、氏家に従来の権限を認めるとしても、一色家の頃とまったく同じというわけにはいかない。今後は六角家の御下知に従い、軍役を果たしてもらうことになる。軍勢の通行や城内に置く兵についても、正式な約定を結ぶことが必要だった。
「氏家の本領は安堵する。ただし、争いのある土地については別だ。従来の支配を当面認めたうえで、双方の言い分を調べさせよ。帰属したからといって、氏家の申し立てだけを通すわけにはいかん」
「御意。氏家家中の者たちについても、従来の知行を基本として扱いましょうか」
「そうせよ。氏家が城と家中を保てることを望んでいるのであれば、その考えを尊重する。こちらから積極的に家臣を召し上げる必要もあるまい」
但馬守は用意していた書付へ決定事項を記した。
所領については安堵状を出すことになるが、係争地まで一括して認めるわけにはいかない。氏家が申告した土地と現在の支配状況を照らし合わせ、必要なものについては現地で調べることになるだろう。氏家家中がこれまで得ていた収入についても、事情を確かめずに扱いを変えれば、家臣や村々に余計な混乱を生む。
城内へ置く六角兵については、まず少数から始めることにした。
「駐留させる兵は、当面二百を上限としよう。実際の人数と持ち場については右衛門督に氏家と相談させる。双方の取り決めが整うまでは、勝手に兵を城内へ入れることを禁じる」
「二百でございますか」
「初めから大勢を置くこともあるまい。城内の守りは氏家が担っておる。六角の兵には、氏家と協力して城を守らせればよい」
「承知いたしました。右衛門督様にも、その旨をお伝えいたします」
城門の管理は氏家に任せ、六角の兵には定められた場所を守らせる。出入りする際の手順を明らかにし、双方の指揮官が承知したうえで兵を動かせばよい。帰属した者を最初から疑って城の要所を奪おうとするより、約定を守らせる方が今後のためになる。
一方、大垣周辺の街道については、六角軍が支障なく通行できるようにしなければならない。城内へ兵を駐留させることと、軍勢が領内を通過することは別の問題である。
「軍勢の通行については、右衛門督が既に話を進めておる。あとは具体的な手順を決めればよかろう。ただし、村々から勝手に物を取り立てることは禁じる。氏家の支配する土地で六角の兵が狼藉を働けば、帰属を認めた意味がなくなる」
「軍勢の将にも申し伝えましょう。兵糧については、当面これまでの輸送を続ける方針でよろしゅうございますか」
「うむ。大垣に蓄えがあるからといって、それを当てにして軍勢を養うことは避けよ。城の守りに必要な兵糧まで減らしてはならん」
今後の軍役については、氏家の所領と動員できる兵数を改めて確かめたうえで定めることにした。大垣周辺の警固を続けながら、六角軍の東進に必要な兵まで一度に出させるのは負担が大きい。西美濃の状況が落ち着くまでは、氏家に無理な軍役を課す必要もないだろう。
そこまで決めたところで、但馬守が人質について尋ねてきた。
「氏家からは、一門の者を差し出させますか。此度は一色龍興が人質を求めたことで、帰属を決断したとも聞いております。六角から同じことを求めれば、不満を抱く者も出ましょうが……」
「人質は求めぬ」
俺が答えると、但馬守は書付から顔を上げた。
「氏家には誓紙を出させればよい。大垣城には六角の兵も置く。帰属したばかりの者に嫡男を差し出せと迫っては、龍興と変わらぬではないか」
「確かに。家中の不安を抑えることにもなりましょう」
「ただし、誓紙を交わした後で一色と通じるようなことがあれば、相応の処置を取る。その点は氏家にも明らかにしておかねばならん」
但馬守は了承し、安堵状と誓紙の用意を進めるため下がろうとした。俺はその前に、四郎へ送る返書についてもう一つ申し付けた。
「大垣を得たことで、軍勢をさらに東へ進める余地ができた。しかし、急いで兵を動かす必要はない。氏家の帰属を確かなものとし、後方の守りが整ってから次の手を考えるよう、右衛門督へ伝えよ」
「御意。右衛門督様も、その点は御承知でございましょう。既に城外の兵については、従来の補給を続けるよう命じておられるとのことでございます」
「ならばよい。右衛門督は此度もよくやった。関ヶ原を越えただけでなく、大垣まで戦わずに得たのだからな」
但馬守は笑みを浮かべた。
「まことに頼もしくなられました。兵を率いるだけでなく、他国の武将を従えることまで成し遂げられたのですからな」
「うむ。ただ、まだ美濃を得たわけではない。稲葉山城には龍興がおるし、日根野備中守の軍勢も残っている。大垣を得たことで気が緩まねばよいが」
「右衛門督様には十分に用心するよう申し伝えます」
但馬守は一礼すると、書付を持って下がった。
四郎が兵を率いて近江を出た時には、不破郡を押さえることが容易ではないと考えていた。それが関ヶ原を越え、大垣まで手に入れたのである。無論、蒲生下野守をはじめとする諸将の働きも大きい。だが、氏家との交渉をまとめたことについては、四郎自身の判断を評価してよいだろう。
武力で敵を破ることができても、その後の支配を安定させられなければ領国は広がらない。新たに得た土地を治めるには、そこに暮らす者たちの協力が欠かせぬ。氏家ほどの武将を家中ごと迎え入れられたことは、戦に勝ったこととは異なる成果だった。
程なくして、安堵状の草案が運ばれてきた。
氏家直元の名と従来の所領が記され、争いのある土地については追って裁定する旨も添えられている。俺は内容を確かめ、城主としての地位を引き続き認めること、六角家への軍役については別に定めることを明らかにさせた。
誓紙の内容についても、六角家への忠節と、敵方へ独断で通じぬことを基本とする。必要以上に厳しい条件を並べれば、氏家家中の不安を招くだけだろう。主従の約束を明確にし、そのうえで実際の働きを見ていけばよい。
俺は書状を整えるよう命じ、右衛門督へ届ける使者の手配を進めさせた。
これで氏家の処遇については、六角家としての方針が定まった。安堵状と誓紙を取り交わせば、大垣城を氏家に預けることも正式なものとなる。城内へ置く兵の人数や持ち場については、四郎が氏家と協議した結果を改めて確かめればよい。
大垣を攻めるために用意していた兵を、今後は別の場所へ向けることができる。ただし、その前に不破から大垣までの守りを整えなければならない。軍勢を東へ進めるほど、近江からの道も長くなる。大垣を得たことで補給の負担を減らせるとしても、すべてを現地に頼るわけにはいかなかった。
俺は美濃方面の報告を取り寄せ、六角軍の配置と輸送路の状況を確認することにした。
大垣城が開かれたことで、美濃の情勢が変わるのは間違いない。一色方も、このまま黙っているとは思えなかった。
*
永禄五年八月初旬、美濃国稲葉山城。
氏家直元からの返書を受け取って二日が過ぎた頃、大垣城の動向を探らせていた者が戻ってきた。
俺はその報告を聞き、思わず座を立った。
「大垣城が開いたというのか」
「はっ。氏家直元は六角の軍勢を迎え入れ、六角右衛門督が城内へ入ったとのことでございます。城門には六角の旗が掲げられており、城内で戦が起きた様子もございませぬ」
「……氏家め」
返書に記された内容から、氏家が六角へ寝返ったことは承知していた。しかし、実際に大垣城を開いたという知らせを聞かされると、胸の内に湧き上がる怒りを抑えられなかった。
氏家は先代の頃から一色家に仕えてきた重臣である。西美濃の守りを預け、大垣城を任せてきたのも、その働きを認めていたからにほかならない。それが六角の軍勢を前にして、主君との縁を断つと申し出たのだ。
しかも、城を守るために集めていた兵まで、そのまま六角に従ったらしい。
「城内の兵はどうなっておる。氏家の兵まで六角に従ったのか」
「そのように見受けられます。城門の警固は従来どおり氏家方が担っておりますが、六角の兵と争っている様子はございませぬ。城外には六角の軍勢が布陣し、使者や荷駄が往来しております」
つまり、氏家は家中をまとめて帰属したということか。
長年一色家に仕えてきた家臣たちの中には、主君を変えることに反対する者もいたはずだ。それでも城内で争いが起きていないのであれば、直元は一門の反発を抑えたのだろう。あの男は以前から家臣たちの信望が厚かった。俺もそのことは知っていたが、今となってはそれさえ腹立たしかった。
「氏家からは兵五百を差し出すよう命じてあったはずだ。それを拒むばかりか、六角へ城を明け渡すとは……!」
傍らに控えていた側近が、慎重に言葉を選んで口を開いた。
「恐れながら、氏家は大垣の守りを維持するため、兵を減らすことはできぬと申し立てておりました。六角軍が既に不破を押さえている以上、その懸念にも一理はあったかと存じます」
「では、稲葉山の守りはどうする。六角が大垣へ迫っているということは、その先にある稲葉山も狙われているということではないか。兵を集めずに敵を迎え撃てと申すのか」
「そのようなことは申しておりませぬ。ただ、氏家に兵を差し出させるのであれば、代わりの援軍についても何らかの約束が必要だったのではないかと……」
「援軍を出せるのであれば、初めからそうしておる!」
俺が声を荒らげると、側近は口を閉ざした。
稲葉山城の守りを固めなければならないという判断は、今も間違っていないと思っている。日根野備中守が関ヶ原で敗れ、不破郡まで六角に奪われた以上、次の攻撃に備えて兵を集めるのは当然のことだ。美濃の国主として全体の守りを考えれば、大垣だけに兵を置いておくわけにはいかなかった。
だが、氏家が帰属したことで、その兵は一人として稲葉山へ来ない。それどころか、大垣に残る氏家家中の兵まで六角の味方になってしまった。
返書を受け取った時、直元が命令を拒んだことに腹を立てた。しかし、これほど早く城を開くとは思っていなかった。人質を求めたのも、氏家が六角と交渉したことへの疑念を晴らすためだった。長年の奉公を考えれば、従って当然だと考えていたのである。
その考えが、氏家には通じなかった。
「氏家は、何故そこまで六角を信用できる。城を預け続けるとでも約束されたのか」
「詳しい条件までは分かっておりませぬ。ただ、氏家が城を引き続き守っていることから、六角も当面は直元を城主として用いる考えかと存じます」
側近の答えを聞き、俺は腹の底が冷えるような思いを覚えた。
六角右衛門督は氏家を攻め滅ぼすのではなく、そのまま取り込んだということになる。大垣城を得ただけではない。城を守る兵も、周辺の所領も、氏家がこれまで築いてきた家中のつながりまで手に入れたのだ。
関ヶ原では日根野備中守を破り、今度は戦わずに大垣を得た。あの若者が率いる軍勢は、もはや不破へ進んできた時とは異なる位置にいる。
俺は机に置かれた氏家からの返書を見た。
そこには先代義龍への恩義を忘れていないこと、これまでの奉公に対する感謝、そして氏家家中を守るため六角へ帰属することが記されていた。礼を失わぬ文面ではあったが、その内容は主従を断つという明確な意思表示である。
父上が御存命であれば、氏家はこのような決断を下しただろうか。
その考えが浮かんだ途端、俺は苛立ちを覚えた。父上と比べられることには慣れている。家督を継いでから、何度その名を引き合いに出されたか分からない。だが、既に亡くなられた父上ならどうしたかと考えたところで、失った大垣城が戻るわけではない。
今、美濃を治めているのは俺なのだ。
「日根野備中守からの知らせはまだ届かぬのか」
「今朝の時点では、新たな報告はございませぬ。ただ、こちらからも使者を送っております。備中守殿の軍勢が何処にいるのか、確かな知らせを得るよう命じてございます」
「急がせよ。大垣城が六角の手に渡った以上、備中守の軍勢を無闇に動かすわけにはいかん。敵の兵数と配置を確かめ、どの道を守るべきか考えねばならぬ」
「御意」
側近が頭を下げたところで、俺は続けて大垣方面の物見を増やすよう命じた。
六角軍が次に進むのであれば、何処を通るのか確かめておかなければならない。氏家が帰属したことで、大垣周辺の街道を以前より容易に通れるようになったはずだ。こちらはその分だけ、敵の動きを早く知る必要がある。
「大垣を取り戻すことは、今の兵力では難しかろう。だが、六角が城を得たばかりであることも確かだ。氏家家中がどこまで協力しているのか、城外の軍勢が何処へ動くのか、引き続き探らせよ」
「はっ。稲葉山の守りについてはいかがいたしましょう」
「今の備えを崩すな。六角の動きが明らかになるまでは、兵を大垣へ差し向けることも控える。城を取り戻そうとして、稲葉山まで危うくしてはならぬ」
側近はその命令を受け、使者を出す支度に取り掛かった。
氏家の離反を許すつもりはない。だが、大垣城を取り戻すための軍勢を動かせば、稲葉山の守りが薄くなる。日根野備中守の所在も定かではない以上、今は敵の動きを確かめる方が先だった。
ただ、今回失ったものが大垣城だけで済むのかについては、まだ分からなかった。西美濃には氏家以外にも一色家へ仕える者たちがおり、それぞれの所領と家臣を抱えている。大垣を失ったことを知れば、今後の戦について考えを変える者が出ても不思議ではない。
俺は側近を呼び戻し、西美濃の諸将から届く報告を遅滞なく取り次ぐよう命じた。大垣方面の軍勢だけでなく、各地の守りについても状況を確かめておきたかった。
命令を受けた側近が部屋を出ると、廊下の向こうから使者の出立を告げる声が聞こえてきた。
氏家の離反によって失った兵を、今すぐ補う手立てはない。それでも、六角が次の兵を動かす前に備えを整えておかなければ、今度は稲葉山城そのものが危うくなる。
俺は届けられていた軍勢の配置を確かめ、城内に残す兵と各所へ遣わす物見について、新たな命令を認め始めた。
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