永禄五年八月上旬、美濃国稲葉山城。
「安藤伊賀守と稲葉良通が、六角へ使者を遣わしているというのか」
目の前に控える家臣は、俺の問いに深く頭を下げた。氏家直元が大垣城を開いてから数日が経ち、西美濃の諸将について調べさせていた者たちが戻り始めている。その報告の中に、見過ごすことのできない知らせが含まれていた。
「はっ。安藤殿の家臣と見られる者が大垣の六角陣営へ出入りしており、稲葉殿も使者を遣わしたことが確かめられております。ただし、何を話し合っているかまでは分かっておりませぬ」
「帰属を申し出たという証拠はあるのか」
「そこまでは確かめられておりませぬ。いずれも六角方と接触していることは間違いございませぬが、既に主従を結んだかどうかは不明にございます」
俺は家臣が差し出した書付を受け取り、そこに記された内容へ目を通した。安藤の使者については道中でその顔を知る者が見掛けたという。稲葉についても曽根城から出た者が大垣方面へ向かったことが確かめられていた。いずれも一度だけの偶然とは考えにくく、少なくとも両家が六角と何らかの話を進めていることは疑いようがなかった。
安藤も稲葉も、何故こちらへ知らせを寄越さぬのか。六角の軍勢が大垣へ入った以上、敵の動向を探るために使者を遣わすこと自体は理解できる。しかし、それならば事前に一言あって然るべきではないか。少なくとも一色家の当主である俺に何も知らせず、勝手に敵方と接触してよいはずがなかった。
氏家が帰属を申し出た時にも、初めは単なる交渉だと考えていた。大垣城を守るために敵方の意向を探り、条件が折り合わなければ戦うつもりなのだろうと。しかし結局は家中をまとめて六角へ従い、城門まで開いてしまった。安藤と稲葉が同じ道を選ばぬという保証は何処にもない。
氏家の離反を知った時の怒りが再び胸の内に湧き上がってきた。先代から仕えてきた重臣が、領地を守るためとはいえ主君に断りもなく敵へ従ったのだ。その行いを簡単に許せるはずがない。まして安藤と稲葉まで同じことを考えているのであれば、何のためにこれまで二人へ城を預け、軍勢を任せてきたのか分からなくなる。
安藤伊賀守守就は北方城を本拠とし、稲葉良通は曽根城を預かっている。どちらも先代の頃から一色家を支えてきた有力な武将であり、氏家と並んで西美濃の軍勢を支える存在だった。その三人のうち氏家が離反しただけでも痛手なのに、残る二人まで六角へ従えば西美濃における一色家の支配は大きく揺らぐことになる。
「安藤も稲葉も氏家が城を開いたことは知っておろうな」
「既に知らせは届いているものと存じます。大垣から北方や曽根へ至る道は人の往来もございますゆえ、隠し通せる話ではございませぬ」
「ならば、六角が氏家をどのように扱ったかについても聞いているはずだ。城を取り上げず、そのまま直元に守らせていることもな」
家臣が答えるより早く、俺は書付を机へ戻した。思っていたより強く置いてしまったらしく、乾いた音が部屋に響く。家臣が僅かに身を固くしたのを見て、余計に腹立たしくなった。
六角右衛門督が氏家をそのまま用いたことは、こちらにとって厄介だった。降れば所領を失うと分かっていれば、安藤も稲葉も簡単には動くまい。しかし氏家が大垣城を預かったまま六角へ従うことを認められたとなれば、二人が同じ待遇を期待しても不思議ではない。
六角は随分と都合のよいことをしてくれる。城を攻め落とす代わりに所領を安堵し、こちらの家臣を一人ずつ引き抜いていくつもりなのだろう。氏家に続いて安藤と稲葉まで奪われれば、六角は大した損害も出さずに西美濃を手にすることになる。何より許し難いのは、安藤たちがその誘いに応じようとしているかもしれぬことだった。
先代が健在であった頃、二人は一色家のために働いていた。それが当主が替わった途端、領地を守るために敵と話し合うというのか。俺が何も知らぬまま六角との間で話をまとめ、氏家と同じように城門を開くつもりなのか。
もっとも、まだ帰属を決めたと判明したわけではない。使者を遣わしたというだけで二人を謀反人と決め付ければ、かえって六角へ追いやることになる。その程度のことは俺にも分かっていたが、頭では理解していても次々と勝手な行動を取る家臣たちへの苛立ちを簡単に抑えることはできなかった。
俺は控えていた者に命じ、近くにいる重臣たちを呼び集めさせた。
程なくして集まった者たちへ報告の内容を伝えると、最初に口を開いたのは安藤と稲葉を稲葉山城へ召し出すべきだと主張する家臣だった。六角との交渉について本人たちに問い質し、一色家への忠節を明らかにさせねばならないという。これに対して別の家臣は両家が六角への帰属を決めた証拠はなく、強引に呼び付ければ人質を取られると疑われる恐れがあると指摘した。
「では、何もせずに放っておけと申すのか。氏家も初めは交渉だけだと申しておった。それを信じた結果が大垣の開城ではないか」
「氏家の件があるからこそ慎重に扱わねばならぬと申しておる。安藤と稲葉まで敵に回せば稲葉山を守る兵にも差し障りが出よう」
「ならば、二人が六角へ従うまで待つしかないというのか」
俺が口を挟むと、家臣たちは揃って頭を下げた。
「決してそのようなことではございませぬ。ただ、今ここで両家を疑っていると知られれば、かえって離反を早める恐れがございます」
「疑われるようなことをしているのは安藤と稲葉ではないか。何故こちらがそこまで気を遣わねばならん」
言葉を荒らげるつもりはなかった。しかし、一度口にすると抑えが利かなくなった。俺は二人を処罰すると言っているわけではない。ただ一色家の家臣として当然の務めを果たすよう求めているだけだ。それなのに、何かを命じるたびに家臣たちは難しい顔をし、今は控えるべきだと申し立てる。
氏家が離反した時もそうだった。援軍を出すには兵が足りぬ。六角の軍勢が多く、城へ近付くことが難しい。そうした報告ばかりが届き、結局は大垣を失った。今度は安藤と稲葉を疑うなという。では、いつになればこちらの思うように動いてくれるのか。
重臣たちの顔を見回すと、誰もすぐには答えようとしなかった。俺の機嫌を損ねぬよう言葉を選んでいるのだろうが、その様子がかえって気に障る。何か考えがあるならば、はっきりと申せばよいではないか。
それとも、ここにいる者たちも既に一色家の行く末を危ぶんでいるのだろうか。
そんな考えが浮かんだ自分に、俺は内心で驚いた。今この場にいる者たちは稲葉山城に残って働いている家臣だ。疑う理由などない。にもかかわらず安藤と稲葉の話になれば妙に慎重な意見ばかりが出てくる。二人と親しい者もいるだろう。あるいは、以前から何らかの相談を受けていた者がいるのではないか。俺が知らぬだけで、家臣たちの間では既に六角へ従うかどうかの話が進んでいるのかもしれない。
何の証拠もないまま疑いを向ければ、今度は稲葉山城にいる家臣たちまで遠ざけることになる。それだけは避けねばならなかった。俺は口を閉ざし、改めて両者の言い分を考えた。
安藤と稲葉が六角へ従う意思を固めているのであれば、もはやこちらの使者が届いたところで考えを変えぬかもしれない。しかし、まだ迷っているのであれば一色家に留まる理由を与えることもできる。問題は、そのために何を差し出せるかだった。
兵を送ると約束するのは容易だが、実際に援軍を出せなければ氏家の時と同じことになる。所領を加増しようにも、新たに与えられる土地があるわけではない。安藤と稲葉が今の領地を守れるようにすることが、結局は一色家にとっても必要なのだが、そのための軍勢を集めること自体が難しくなっていた。
先代ならば、どうしただろうか。父であれば、二人を叱り付けて従わせたかもしれない。あるいは軍勢を集め、六角へ向かわせただろう。しかし父の頃と今では状況が異なる。大垣を失い、西美濃の諸将が揺らいでいる以上、無理に兵を出せば稲葉山の守りまで薄くなってしまう。それでも、何もかもこちらが譲らなければならぬような状況には納得がいかなかった。
「二人を同時に呼び付けることはせぬ。まずはそれぞれに使者を遣わし、六角と何を話しているのか確かめよ。大垣の動向を探るためだというのであれば、その理由を聞けばよい。ただし、一色への軍役を果たす意思があるかについては明らかにさせねばならん」
「御意。両家へは同じ内容の書状を送りますか」
「いや、別に認める。安藤と稲葉では城の置かれた事情も異なる。安藤には北方の守りについて、稲葉には大垣に接する領内の備えについて尋ねよ。六角へ通じたことを咎めるより、今後どのように一色へ仕えるつもりなのかを確かめるのだ」
俺の言葉を受け、書状を認める役目の者が用意を始めた。
だが、その様子を眺めているうちに別の疑問が浮かんだ。安藤と稲葉が既に六角への帰属を決めていた場合、この書状を受け取ったところで正直に答えるだろうか。大垣の様子を探っていただけだと言い逃れ、その間に六角と話をまとめることもできる。
氏家も最後までこちらへ本心を明かしたわけではなかった。それを思うと、返書が届いたところで何を信じればよいのか分からなくなる。従うと書いてあれば信じてよいのか。返答が遅れれば離反を疑うべきなのか。仮に北方と曽根の守りを固めたと知らせてきても、その兵が六角に向けられるものなのか、稲葉山へ向けられるものなのか、確かめる術はあるのだろうか。
安藤と稲葉に一色家へ留まってもらわねばならないことは変わらない。しかし、二人がその気になればこちらの命令を聞き流すこともできてしまう。北方も曽根も今は彼らの兵によって守られている。俺が直ちに城を取り上げようとしたところで、従わせるための軍勢を用意できるかどうかさえ怪しかった。
父が亡くなってから、何もかもが思いどおりに進まなくなった気がする。命じても兵が集まらず、援軍を求められても応じられない。城を守れと言えば守り切れぬ理由を並べ、敵と交渉するなと言えば、それでは離反を招くと諫められる。では、俺は何を命じればよいのだ。口に出せば家臣たちを困らせるだけだと分かっていたので、その言葉は飲み込んだ。
稲葉山の西には既に六角の軍勢が迫っている。そこへ安藤と稲葉が加われば、敵は大垣からさらに東へ進む足掛かりを得るだけでなく、北方や曽根の兵まで味方にすることになる。そんなことになれば、こちらは西から押し寄せる敵を防ぐための場所を次々と失うだろう。
書状の内容を確かめていると、家臣の一人が言葉を選びながら申し出た。
「殿。安藤殿と稲葉殿から返答が届くまでの間、両家の領内へ物見を置いてはいかがでしょう。六角の軍勢を引き入れる動きがあれば、早く知らせを得られます」
「そうせよ。ただし、目立つような真似はするな。両家の者と争いを起こせば、こちらから疑っていることを知らせるようなものだ」
そこまで言ってから、俺はふと気になった。
「……その物見は、誰を遣わすつもりだ」
「北方と曽根の事情を知る者を選ぼうと考えておりますが」
「その者たちは安藤や稲葉と通じておらぬだろうな」
家臣が顔を上げた。
「そのような話は聞いておりませぬ。いずれも以前から御当家に仕える者にございます」
「ならばよい。だが、使者を遣わす者も物見に出す者も、よく吟味せよ。こちらの動きを知られては意味がない」
「はっ。心得ましてございます」
家臣はそれ以上何も言わなかったが、俺にはその沈黙が妙に気になった。疑い過ぎだと思われたのかもしれない。しかし、氏家が離反する前にも、誰もそのようなことになるとは申さなかったではないか。後になって悔やむより、今のうちに確かめておく方がよほどましだろう。
命令を受けた家臣たちは、それぞれの役目を果たすために下がっていった。
俺は残された書付を改めて手に取り、安藤と稲葉の名が並ぶ箇所を確かめた。二人が六角へ従うと決めたわけではない。だからこそ、こちらからも働き掛ける余地は残っているはずだった。
だが、氏家の名が目に入ると、先ほどまで考えていたことにも自信が持てなくなる。氏家も初めは一色家に仕える重臣だった。その氏家が大垣を開いたのだ。安藤と稲葉だけは違うと、何を根拠に言えるのだろう。
さらに気掛かりなのは、稲葉山城に残っている者たちのことだった。今は忠節を誓っている家臣であっても、西美濃の諸将が次々と六角へ従うようになれば考えが変わるかもしれない。城を守り切れぬと判断した時、氏家と同じ道を選ぶ者が出てこないとも限らなかった。
そこまで考えたところで、俺は書付を閉じた。何も起きていないうちから疑っていてはきりがない。家臣たちが俺の顔色ばかり窺うようになったのも、こちらが苛立ちを隠せなくなっているからだろう。分かってはいるが、一度生じた疑念を簡単に振り払うことはできなかった。
今度は返書が届く前に、何もかも決まってしまうようなことがあってはならない。俺は書状を携えて出立する使者を呼び、両家の当主に直接言葉を伝えるよう念を押した。安藤にも稲葉にも、一色家が今後の働きを必要としていることを知らせねばならなかった。
使者を送り出した後も、俺は部屋を離れる気になれなかった。
大垣から稲葉山へ至る道を記した絵図を広げ、北方と曽根の位置を確かめる。西美濃の諸将が従ってくれるのであれば、六角が直ちに稲葉山へ迫ることは難しいはずだ。しかし、その二つの城が六角へ渡れば、敵を防ぐための備えを根本から考え直さねばならない。
稲葉山城は堅固な城だ。容易に落ちるとは思わないし、守るだけなら相応の兵もいる。それでも城の堅さだけで戦に勝てるわけではない。周囲の城を失い、兵糧の道を断たれれば、いかに堅固な城であろうと守り続けることは難しくなる。
そして六角ばかりを相手にしていればよいというわけでもなかった。
俺は絵図の南へ視線を移した。木曽川の向こうには尾張がある。織田信長は現在こそ大きな軍勢を美濃へ向けていないが、こちらの動向を知らぬはずがない。先に和睦を結んでいるとはいえ、その約束だけを頼みにできるほど両家の関係が深いわけでもなかった。
信長が六角の進出をどう見ているのかは分からない。美濃を六角に奪われることを警戒しているのか。それとも、こちらが弱るのを好機と考えているのか。尾張でも犬山の織田信清を巡る問題が残っていると聞くが、それがあるからといって美濃へ兵を向けられぬとは限らない。国境を越えて小勢を動かす程度であれば、今の信長にもできるだろう。
仮に安藤と稲葉が六角へ従い、西美濃の守りを失ったところへ、織田まで兵を進めてきたらどうなる。
西からは六角、南からは織田。双方が手を結ぶことまでは考えにくいが、それぞれが一色家の弱みに付け込んで動けば、こちらは軍勢を二つに分けて対応しなければならない。だが、そもそも二つに分けられるほどの兵が残るのか。
稲葉山城を守るだけなら、まだ望みはある。しかし敵が二方から攻め寄せれば、城の外にいる諸将まで守ってやることはできない。そうなった時、彼らが一色家に従い続ける理由はどれほど残るのだろうか。
俺は絵図の端を押さえていた手を離した。
織田が攻めてくると決まったわけではない。安藤も稲葉も、まだ六角へ帰属したわけではない。それなのに、頭の中では次々と城が失われ、家臣たちが離れていく有様ばかりが浮かんでくる。
今までは兵を集めればどうにかなると考えていた。父が残した美濃には相応の国力があり、諸将が従えば六角とも戦えるはずだった。だが、その諸将を動かすことができなければ、どれほどの所領を持っていても意味がない。
俺は人を呼び、尾張との国境にも物見を増やすよう命じた。六角への備えを減らすわけにはいかないため、今いる者の配置を改めて確かめるようにも伝える。使者は承知して下がっていったが、その命令でどれほど安心できるのかは自分でも分からなかった。
木曽川を越えてくる織田の軍勢が、今すぐあるとは思わない。それでも、安藤と稲葉の返書が届くまでの間に信長が美濃の混乱を知って動き始めたらどうする。西美濃を守る兵さえ思うように動かせぬ今、尾張から攻め込まれたとして、それを防ぐために誰を頼ればよいのか。
俺は家臣たちが下がった後も絵図の前に座り続けた。北方と曽根に置かれた印を見ているうちに、城を預けているのが本当に安藤と稲葉でよかったのかという考えまで浮かんできた。だが、今さら二人から城を取り上げることなどできるはずがない。
先ほどまで腹立たしく思っていた家臣たちの慎重な言葉が、今度は嫌になるほど正しく聞こえた。安藤と稲葉がこちらへ留まるよう願うしかないのか。そのような考えを持つ自分が情けなかった。俺は美濃を治める一色家の当主である。それなのに、家臣が離れぬことを願い、敵が攻めてこぬことを望むばかりではないか。
開け放たれた障子の向こうから、城内を行き交う者たちの声が聞こえてきた。いつもと変わらぬ稲葉山城の様子に少しは気を落ち着けることができたが、絵図へ目を戻すと再び木曽川の位置が気になった。
もし織田信長が、この機を逃すまいと兵を動かしたならば。
その時、稲葉山城を守る者たちは、果たしてどれほど残っているのだろうか。
*
数日後、美濃国北方城。
稲葉山城から届いた書状には、六角と使者を交わしている理由を明らかにせよと記されていた。表向きは北方の守りと今後の軍役について尋ねる内容だったが、安藤家が六角と接触していることを龍興様が知ったのは間違いない。
俺は書状を読み終えると、使者から聞いた言葉も思い返した。
龍興様は安藤家がこれまで一色家のために尽くしてきたことを承知しており、引き続き西美濃の守りを担ってもらいたいと考えているという。ただし、六角へ使者を遣わしたことについては詳しい事情を知りたいとのことだった。
氏家直元の時とは違い、兵を召し上げるとも人質を差し出せとも命じられていない。それでも、こちらが六角と交渉していることを快く思っていないのは明らかだった。
北方城から稲葉山城までは、それほど離れているわけではない。龍興様が安藤家を疑い、軍勢を差し向けることになればこちらも相応の備えをしなければならぬ。しかし、六角の軍勢が大垣を押さえた以上、西からの動きも無視できなくなっていた。
俺が両者の間で判断を迫られているのは、氏家が帰属したことだけが理由ではない。
元々、一色家の下で西美濃を守るには氏家や稲葉と力を合わせることが欠かせなかった。それぞれの領地と兵を持つ我らは、一人だけで国の守りを担っているわけではない。ところが、大垣城が六角の手に渡ったことでその関係が崩れ始めている。
氏家が敵になった以上、これまで同じ側に立っていた兵の動きにも気を配らねばならない。それでいて稲葉山から十分な援軍が送られてくる見込みは薄い。六角の軍勢がさらに東へ進めば、北方城もいずれ備えを強める必要があるだろう。
そこまで考えたところで、家臣が稲葉良通の到着を知らせてきた。
良通とは氏家が大垣城を開いた後も使者を交わしていた。互いの領地を守るためには今後の方針について直接話しておく必要がある。俺から会談を持ち掛けたところ良通も同じように考えていたらしく、ほどなく返事が届いたのである。
良通が部屋へ入ると、俺は先ほどまで読んでいた書状を脇へ寄せた。
「稲葉殿、よく来られた。稲葉山からの使者はそちらにも参ったか」
「ああ。曽根の守りについて確かめたいとのことだった。六角と使者を交わしていることも、既に知られているらしい」
「こちらも同じだ。龍興様は我らが氏家に続くのではないかと疑っておられるのだろう」
良通は俺の前へ腰を下ろし、しばらく返答しなかった。表情は普段と変わらないが、曽根城を取り巻く状況については相当に気を揉んでいるはずだ。
曽根は大垣に近い。氏家が六角へ帰属したことで、良通の領地は以前にも増して六角軍の動きに左右されるようになった。六角が大垣を拠点として軍勢を動かすなら、曽根の近くを通ることも考えられる。それを黙って見過ごすことはできまい。
「氏家殿が城を開いた時、どう思われた」
俺が尋ねると、良通は少し考えてから答えた。
「驚きはした。あの氏家殿が先代からの主従を断つとは、容易に考えられることではなかったからな。ただ、稲葉山から兵五百と人質を求められたと聞けば、何故そのような決断をしたのかも分からぬではない」
「氏家殿ほどの者であれば、戦うこともできたはずだ」
「戦うことはできよう。だが、勝てるかどうかは別だ。大垣を守り切れたとしても、兵や家臣を多く失えばその後はどうなる。氏家殿が考えたのは、そこではないか」
良通の言葉に俺は頷いた。
氏家が降らなければ大垣城では戦が起きていただろう。六角は既に不破を押さえており、城外には相応の兵を集めていたという。氏家家中がよく戦ったとしても、稲葉山から援軍が届かぬまま敵を退けられるとは限らない。仮に城を守り切ったところで、その戦によって失った兵は容易に補えぬ。
「六角は氏家殿をそのまま城主として用いているらしい。家中の者たちも取り上げられておらぬと聞く。あれほどの城を得ながら、無理に直轄とせぬのは意外だった」
「そこが厄介なのだ。氏家殿への扱いを知れば、ほかの者も六角へ従うことを考え始めよう。城と所領を守れるというのであれば、戦う理由は減る」
良通はそう答えた後、少し声を落とした。
「もっとも、それが我らにも認められるとは限らぬ。氏家殿は大垣城を戦わずに差し出した。その働きがあってこその安堵ということも考えられる」
「だからこそ、まだ帰属を決めぬうちから使者を遣わしておる。六角がどのような条件を求めるのか確かめねばならぬからな」
六角方から届いた返書には帰属を望むのであれば所領と家臣団について話を聞く用意があると記されていた。ただし、正式な安堵は六角左京大夫の裁可を受けねばならず、軍役や軍勢の通行についても新たに取り決める必要があるという。
氏家が受けた条件を、そのまま安藤にも認めるとは書かれていない。俺としても、六角が無条件で所領を安堵してくれるとは思っていなかった。相手にとって北方城がどのような価値を持ち、安藤家をどう用いるつもりなのか。その点を見極めなければ迂闊に主君を変えることなどできない。
「稲葉殿。六角からの返答は確かめられたか」
「使者は戻ってきた。氏家殿のように従来の所領を保てるかどうかは、帰属を申し出た後で協議するとのことだった。城を開けば直ちに安堵するなどという約束はなかったが、こちらの申し出を拒むつもりもないらしい」
「ならば、そちらも同じか」
「ああ。ただ、気になるのは龍興様の出方だ。曽根が六角へ従うと決めれば稲葉山に近い領地にも影響が出る。こちらが六角の兵を迎える前に一色の軍勢が動くことも考えられよう」
俺も同じ懸念を抱いていた。
北方城は稲葉山城に近く、龍興様が安藤の離反を知ればこちらへ兵を向けることは難しくない。氏家が帰属したからといって、北方まで六角の軍勢が守ってくれるわけでもない。六角への帰属を申し出るのであれば、こちらが備えを整えるまでの間、どのように一色方の攻撃を防ぐかも考えておかなければならなかった。
だからといって何も決めずに時を過ごすこともできない。六角が西美濃を押さえれば、いずれ北方や曽根にも帰属を求めてくるだろう。その時になって交渉を始めてもこちらが望む条件を認めてもらえるとは限らなかった。
「稲葉殿。先代の頃から我らは一色家に仕えてきた。その恩義を軽く考えているわけではない。だが、氏家殿が離れた今、これまでと同じように西美濃を守れるとは思えぬ」
「それは分かっておる。だからこそこうして話しているのだ」
「……六角への帰属を申し出ようと思う。ただし、氏家殿が得たものと同じ待遇を求めるだけでは足りぬ。安藤の所領と家臣を残すことに加え、北方の守りについても六角と話を付けねばならん」
良通は俺の言葉を聞いても、すぐには答えなかった。
その沈黙を見て、俺は良通がまだ決めかねているのだと思った。曽根城の周辺には一色家へ従う者も残っており、城を守るためには周辺との関係を考える必要がある。氏家が降ったからといって、良通まで同じ決断を下せるとは限らなかった。
だが、やがて良通は静かに口を開いた。
「安藤殿がそう決めたのであれば、稲葉も帰属を申し出よう」
「よいのか。稲葉殿は、まだ一色へ留まる考えもあると思っていたが」
「あるとも。今でも龍興様に従い、従来どおりの領地を守れるのであればそれに越したことはない。だが、大垣を失った今、曽根の守りを一色だけに頼るわけにはいかぬ。六角がさらに進んだ時、こちらが戦わずに済む道を探しておく必要がある」
良通はそこで一度言葉を切り、俺の方へ顔を向けた。
「それに、安藤と稲葉が別々に動けば互いの所領が争いの場になるかもしれぬ。氏家殿が六角へ従った今、残る我らまで別の道を選べば西美濃の守りは成り立たなくなる。帰属するのであれば、今のうちに足並みを揃えた方がよかろう」
俺は良通の言葉に頷いた。
安藤と稲葉が同じ日に帰属を申し出たとしても、両家の所領や軍役についてはそれぞれ個別に取り決める必要がある。だが、双方が六角へ従う意思を明らかにすれば、氏家を含めた三家が敵味方に分かれて争う事態は避けられる。六角にとっても西美濃の有力者たちを戦わずに迎え入れられる利点は大きいはずだった。
もっとも、帰属を申し出ただけで六角の家臣になれるわけではない。六角左京大夫が認めるまでは、所領の安堵も軍役の扱いも決まらぬ。龍興様へ主従を断つ旨を伝えるのも、こちらの守りを整える見通しが立ってからにする必要があるだろう。安藤と稲葉の兵だけで稲葉山からの攻撃を防げるとは限らず、六角が援軍を出す意思を持っているかも確かめねばならなかった。
「では、それぞれ六角へ書状を出そう。連名とせず、安藤と稲葉が各々の意思で帰属を申し出る形にしたい」
「その方がよかろう。安藤と稲葉では所領も異なり、今後負うべき軍役も同じとは限らぬからな。ただ、返答を待つ間は互いに知らせを絶やさぬようにしておきたい」
「承知した。六角から返事が届けば、そちらにも直ちに知らせよう」
良通との話を終えた後、俺は家臣を呼び、六角方へ送る書状の用意を命じた。帰属を望むことを明らかにしたうえで、従来の所領と家臣団の存続を求め、北方の守りについて協議したい旨を記す。氏家のように戦を避けることができるのであればそれに越したことはないが、龍興様がどのような対応を取るかも考えておかなければならない。
良通も曽根城へ戻り次第、書状を認めるという。六角の陣へ遣わす使者についてはそれぞれの家から出すことにした。二人が同じ意向を持っていることは使者を通じて伝えればよい。
夕刻、良通が北方城を発った後、俺は家臣とともに書状の内容を確かめた。帰属の申し出を受け入れるかどうかは六角左京大夫の判断に掛かっている。今後の軍役や所領の扱いについても、こちらの望みがすべて通るとは限らない。
それでも六角との交渉を続けるだけで結論を先延ばしにすることは、もはやできなかった。
翌朝、安藤家の使者が北方城を出立した。稲葉からも別に使者が送られる手筈となっており、両家の書状はいずれ大垣にいる六角右衛門督へ届けられることになる。
俺は城門を出ていく使者を見送りながら、稲葉山から届いた書状への返答をどう認めるべきか考えていた。龍興様に対して嘘を申すつもりはない。しかし、六角から帰属を認める返事が届かぬうちに、こちらの決断をすべて明らかにすることもできなかった。
既に大垣は六角の手にある。北方と曽根がどちらに従うかによって、西美濃の情勢はさらに変わるだろう。安藤家の行く末を預かる者として、その結果を引き受けねばならないことだけは確かだった。
俺は家臣へ稲葉山からの使者を呼ぶよう命じ、返書を整えることにした。六角への帰属が正式に認められるまで北方城の守りを疎かにすることはできない。今は龍興様からの問いに応じつつ、家中の者たちへ必要な備えを進めさせるほかなかった。
*
永禄五年八月中旬、尾張国清須城。
美濃の西で六角が勢力を広げていることは、以前から耳にしていた。近江から軍勢を進めて不破郡を押さえたという知らせが届いた時には、一色龍興がどのように対処するのか見ておくつもりだった。関ヶ原で日根野備中守が敗れたことも気には掛かったが、稲葉山城が健在である以上、美濃の情勢が直ちに決するとは考えていなかった。
ところが、大垣城が戦わずして開かれたという報告に続き、今度は安藤伊賀守守就と稲葉良通まで六角へ使者を遣わしたという。
俺は届けられた書付を読み返し、使者を呼び戻して詳しい事情を確かめた。
「安藤と稲葉が六角へ帰属を申し出たという話は、何処から出た」
「美濃から戻った者の話にございます。両家の使者が大垣の六角陣営へ向かったことは確かめられております。また、安藤と稲葉が帰属を望む書状を携えているとの話も伝わっておりますが、書状そのものを確かめたわけではございませぬ」
「ならば、まだ六角に従ったと決まったわけではないな」
「はっ。ただ、両家が六角方と交渉を進めていることは間違いないものと存じます」
使者の返答を聞き、俺は書付を机へ戻した。
氏家直元が大垣城を開いたことで安藤と稲葉が動く可能性は考えていた。三人は西美濃の有力者として長く一色家を支えてきた武将である。氏家が離反した以上、残る二人も自らの所領を守るために動かざるを得まい。しかし、これほど早く六角への帰属を申し出るとは思わなかった。
安藤と稲葉まで従えば、六角は大垣城だけでなく北方や曽根にも勢力を伸ばすことになる。今のところ稲葉山城は一色の手にあるが、その西方を六角が押さえれば龍興は今まで以上に苦しい立場へ追い込まれるだろう。
本来ならば喜ぶべき話なのかもしれない。
尾張から美濃へ進むことを考えれば、一色家の力が弱まるのは都合がよい。龍興の下から国人が離れていけば、いずれこちらにも働き掛ける余地が生まれる。しかし、その国人たちが織田ではなく六角へ従うというのであれば話は別だった。
六角左京大夫は近江を治める大名であり、畿内の争いにも深く関わってきた人物である。龍興を相手にするのとは事情が違う。さらに、その嫡男である右衛門督は関ヶ原で日根野を破ったばかりか、氏家を帰属させて大垣まで手に入れた。兵を率いるだけの若者ではないことは今回の動きからも分かる。
美濃を取るつもりでいたのはこちらも同じだ。尾張の内をまとめて北への道を開いた後、本格的に軍勢を進める考えだったが、その間に六角が美濃を押さえてしまえば俺が攻めるべき相手は龍興ではなくなる。
正直なところ、面白くはない。
こちらが尾張の内をまとめるために苦労している間に、六角は西から美濃を押さえつつある。無論、六角とて何の苦労もせずに進んでいるわけではあるまい。関ヶ原では戦もあったし、大垣を得るまでには氏家との交渉も重ねたはずだ。それでも結果だけを見れば、こちらが欲しいと思っていた土地へ六角が先に手を伸ばしていることになる。
かといって、焦って兵を動かせばよいというものでもなかった。
俺は近くにいた者へ命じ、丹羽五郎左衛門長秀と柴田権六勝家、それに森三左衛門可成を呼ばせた。
美濃の情勢については以前から三人にも調べさせている。犬山方面の問題が片付かぬうちに北へ兵を動かすことは避けてきたが、六角の進出がここまで早いのであれば従来の考えを改める必要があった。
三人が揃うと、俺は美濃から届いた報告を見せた。
「氏家に続き、安藤と稲葉まで六角へ帰属を申し出たらしい。まだ正式に認められたわけではないようだが、これをどう見る」
最初に口を開いたのは権六だった。
「西美濃を六角に取られることになりますな。氏家だけならば大垣周辺の話で済みましょうが、安藤と稲葉まで従えば六角は稲葉山の近くまで勢力を伸ばすことになります。龍興も容易には兵を動かせなくなりましょう」
「その先はどうなる」
「六角が稲葉山を攻めることも考えられます。龍興が守りを固めているとはいえ、西美濃の兵を失えばこれまでと同じようには戦えますまい」
権六の言葉に五郎左衛門も頷いた。
「六角が直ちに稲葉山へ向かうかどうかは分かりませぬ。ただ、氏家を帰属させたことで六角は大垣を拠点として使えるようになりました。安藤と稲葉まで従うのであれば、城と所領の扱いを定めるため、しばらくは西美濃を固めることになりましょう」
「その間に、こちらも動けるようにしておかねばならんな」
「御意。ただ、犬山の問題が残っております」
五郎左衛門が口にした名を聞き、俺は机の上に広げていた尾張の絵図へ目を向けた。
犬山城を預かる織田信清とは、かつて岩倉城を攻める際に力を合わせたこともある。しかし、その後は互いの利害が合わなくなり、今では安心して背後を任せられる相手ではなくなっていた。
犬山は木曽川に臨む要地である。尾張から美濃へ進むうえで、その存在を無視することはできない。信清がこちらに従うのであれば問題は少ないが、敵対したまま大軍を美濃へ向ければ背後の動きを気にしなければならなくなる。
だからこそ、犬山については以前から手を打とうとしていた。ただ、周辺には信清へ従う者もおり、城そのものを攻めるには相応の兵が要る。力任せに攻めれば尾張の内で余計な損害を出すことにもなりかねない。
尾張の内で兵を失えば、その分だけ美濃へ向けられる兵も減る。信清との争いを片付けることが目的になってしまい、その先に進めなくなっては意味がなかった。
「犬山の件は、これまでより早く片付ける。五郎左、信清に従う者たちの動きはどうなっておる」
「城の近くでは今も信清に従う者が多うございます。ただ、周辺の者たちが一枚岩というわけではありませぬ。織田との争いが長引くことを望まぬ者もおりますゆえ、働き掛ける余地はございます」
「ならば、そこから崩す。信清の下にいる者でも所領を守りたいと考えている者はいるはずだ。こちらへ従えば従来の支配を認めることも含め、話を進めよ」
「承知いたしました。ただ、相手によっては信清へ知らせが漏れることも考えられます。使者を遣わす先は慎重に選ばねばなりませぬ」
「それは任せる。無理に急いでこちらの意図を知られる必要はない。だが、これまでのように時を掛ける余裕もなくなった」
五郎左衛門は一礼すると、書付へ必要な事柄を記していった。
犬山城を直接攻めることだけが信清を退ける方法ではない。周辺の城や村々が信清から離れれば、犬山そのものの守りも弱まる。何より城を攻めるために多くの兵を失うより、信清の力を削いでから動く方がその後の美濃攻略にも兵を残せる。
もっとも、調略がうまく進むとは限らない。信清にも長年従ってきた家臣がおり、こちらからの働き掛けを拒む者もいるだろう。その場合には軍勢を動かすことも考えなければならないが、今すぐ大軍を集めるより先に確かめるべきことがあった。
「権六。犬山周辺で兵を動かすことになった場合に備え、集められる人数を調べておけ。ただし、まだ出陣を命じるわけではない。こちらが軍勢を集め始めたと知られれば、信清も備えを固めよう」
「御意。必要な兵と兵糧を確かめ、いつでも動けるようにいたします」
「三左には木曽川沿いを調べてもらいたい。渡し場と対岸の様子を確かめ、こちらの兵がどの道を通れるのか明らかにしておけ」
「承知いたしました。犬山周辺だけでなく、美濃側の守りについても探らせます」
三左衛門はそう答えると、絵図の上で木曽川の流れを確かめた。
尾張から美濃へ進むには川を越えなければならない。渡し場を押さえる者が敵であれば、兵を渡すだけでも苦労する。まして犬山で信清が敵対している以上、美濃へ向かう軍勢の道を十分に確かめておく必要があった。
俺は木曽川の北岸へ目を移し、しばらく考えた。
六角は近江から東へ進み、不破を越えて大垣へ入った。こちらは尾張から北へ向かうことになる。進む方向が違う以上、すぐに六角の軍勢とぶつかるわけではない。しかし、互いに美濃を目指しているのであれば、いずれ相手の動きを無視できなくなるだろう。
「殿。六角とは、今後どのようにお付き合いなさるおつもりでございますか」
三左衛門の問いに、俺は絵図から顔を上げた。
「今のところ、こちらから敵対するつもりはない。六角は西から美濃へ進み、こちらは尾張を押さえておる。まだ双方の軍勢が争う必要はあるまい」
「されど、六角が稲葉山を落とした場合には、美濃の大半が六角の手に渡ることも考えられます」
「そうなる前に、こちらも動けるようにするのだ。まずは犬山を片付ける。六角が何処まで進むつもりなのかも引き続き探らせよ。稲葉山を攻めるのか、それとも西美濃の支配を固めることを優先するのか。それによってこちらの取るべき手も変わる」
今の段階で六角と争うと決めるのは早い。
六角左京大夫が美濃全体を望んでいるのか、それとも不破と西美濃を押さえれば十分と考えているのかは分からない。右衛門督がどのような考えで兵を動かしているのかについても、詳しいところまでは確かめられていなかった。
ただ、これまでの進軍を見る限り、西美濃を得ただけで満足するとは思えない。関ヶ原で勝ち、大垣を得た後も六角軍は城外に兵を置いているという。安藤と稲葉が帰属を申し出たのであれば、その処遇を定めることにもなるだろう。六角が東へ進むための支度を整えている可能性は十分にあった。
五郎左衛門が書付を閉じながら口を開いた。
「美濃の国人へも働き掛けを進めますか。龍興の下で不満を抱いている者がいれば、織田へ従う道を探る者も出ましょう」
「そうせよ。ただし、六角へ帰属した者を無理に引き抜こうとはするな。今はまだ六角と争うために兵を動かせる状況ではない。龍興の下に留まっている者のうち、こちらと話す意思のある者を探れ」
「御意」
「それと、安藤と稲葉が正式に帰属を認められたかどうかは引き続き確かめよ。使者を遣わしたという話だけで、すべてが決まったと考えてはならん」
三人はそれぞれ命令を受け、必要な支度について確認した後で下がっていった。
部屋に残された俺は、改めて美濃の絵図を見た。
美濃は以前から欲しい国だった。
尾張を治めるうえで北方の安全を確保することは欠かせず、そのためには木曽川の向こうにある美濃へ勢力を伸ばす必要がある。龍興が国をまとめられずにいるのであれば、その隙を突くこともできるだろう。今までは犬山の問題が片付くまで大きく動くことを避けてきたが、六角の進出によってこちらに残された時間は確実に少なくなっていた。
それに、美濃はただの隣国ではない。
帰蝶が生まれ育った土地であり、義父である斎藤道三が治めていた国でもある。道三殿は長良川で義龍に討たれ、その義龍も既に亡くなった。今はその子である龍興が一色家を継いでいるが、美濃の国人たちをまとめ切れていないことは今回の離反からも明らかだった。
道三殿が築いた国を六角が西から奪い取ろうとしている。
それを考えると、単にこちらの領地が広がらぬというだけでは済まないものがあった。かつて道三殿と会った時のことも、帰蝶を迎えた頃のことも俺の中ではまだ遠い昔の話ではない。あの方が美濃を治めていたことは、織田と斎藤の関係を考えるうえでも大きな意味があった。
無論、帰蝶の故郷だからという理由だけで兵を動かすつもりはない。国を取るには兵を集め、道を開き、その後の支配まで考えねばならぬ。しかし、どうせ美濃を手にするのであれば道三殿とも縁のあるこちらが取る方がよい。近江から進んできた六角にすべてを委ねるつもりはなかった。
俺は絵図を畳ませると、奥へ向かった。
帰蝶とは近頃ゆっくり話す時間を取れていない。尾張の内をまとめるために動くことが多く、犬山の件についても気に掛かることが増えていた。美濃の情勢は帰蝶の耳にも入っているだろうが、俺の口から今後の考えを伝えておきたかった。
奥の部屋へ入ると、帰蝶は女房と話しているところだった。俺の姿を見ると女房たちは席を外し、帰蝶が近くへ座るよう勧めてきた。
「珍しゅうございますね。このような時刻にお越しになるとは」
「少し話しておきたいことがあってな。美濃のことは聞いておるか」
「はい。大垣城が六角へ渡ったと伺いました。氏家殿が戦わずに城を開いたとも」
帰蝶はそう答えたが、その声に驚いた様子はなかった。既に詳しい話を聞いていたのだろう。
「安藤と稲葉も六角へ帰属を申し出たらしい。まだ正式に決まったわけではないが、西美濃は大きく変わることになる」
「安藤殿と稲葉殿まで……。父が存命の頃には、思いも寄らぬことでございました」
「道三殿の頃とは事情が違う。義龍が跡を継ぎ、その義龍も亡くなった。龍興には龍興なりの考えがあるのだろうが、国人たちを従わせることに苦労しているようだ」
帰蝶はしばらく黙っていた。
道三殿と義龍が争った時、帰蝶も複雑な思いを抱いていたはずだ。父と兄が戦い、父が討たれたのである。今の美濃を治める龍興は、その義龍の子に当たる。帰蝶にとって故郷の情勢は、俺が考える以上に入り組んだものなのかもしれない。
「殿は、美濃へ兵を進めるおつもりでございますか」
「そのつもりだ。ただ、今すぐではない。犬山の信清を片付けねば、安心して北へ兵を向けることができぬ。六角の動きを見ながら、こちらも支度を進める」
「父の仇を討つためでございますか」
俺はその問いにすぐには答えなかった。
帰蝶が何を考えて尋ねたのかは分からない。ただ、道三殿が義龍に討たれたことと美濃を手にすることを、同じものとして扱うつもりはなかった。
「道三殿のことを忘れたわけではない。しかし、美濃を取るのは織田のためでもある。尾張の北をいつまでも他国に任せておくつもりはないし、六角が先に美濃を押さえれば、今度はその六角と向き合わねばならん」
「そうでございますね。父のことだけで兵を動かされては、美濃の者たちも困りましょう」
帰蝶は穏やかに答えたが、その言葉には少し寂しさが混じっているように感じられた。
「美濃を取ったとしても、昔と同じ国へ戻るわけではない。道三殿が治めていた頃とは人も変わっておる。だが、帰蝶の生まれた土地であることに変わりはない。六角へすべて渡してしまうのはやはり惜しい」
「殿がそのように考えてくださるのであれば、嬉しゅうございます。ただ、故郷の者たちが再び大きな戦に巻き込まれることだけは、気掛かりにございます」
「分かっておる。戦わずに済むのであれば、その方がよい。氏家が城を開いたように、話し合いで従う者もいるだろう。すべてを力で奪う必要はない」
帰蝶は小さく頷いた。
しばらくして美濃で暮らしていた頃の話になり、帰蝶は道三殿が城にいた頃の様子を語ってくれた。俺の知らぬ道三殿の姿もあり、話を聞くうちにあの方が治めていた国について改めて考えさせられた。
美濃を得たいという思いは以前から変わっていない。ただ、そのために必要なことを先延ばしにしていれば六角が先に国を押さえてしまう。帰蝶との話を終えて部屋を出た時には、犬山の件をこれまで以上に急がねばならないという考えが固まっていた。
翌朝、俺は五郎左衛門を呼び、犬山方面へ遣わす使者について話を聞いた。
既に候補となる者の名が挙がっており、その中には信清の下で所領を守りながら織田との争いを望んでいない者もいるという。誰がどの程度の兵を持ち、信清とどのような関係にあるのか、五郎左衛門は一人ずつ確かめていた。
「まずは話の通じる者から進めよ。信清と長く付き合ってきた者でも、家を守るために別の道を選ぶことはある。必要であれば所領の安堵も約束してよい。ただし、こちらが守れぬ約束はするな」
「御意。相手の返答を確かめながら、順に働き掛けてまいります」
「権六には兵の支度を進めさせておる。調略がうまくいかぬ場合も考えておかねばならんが、今はまだ犬山へ軍勢を向けるつもりはない。できるだけ兵を失わずに済む道を探ってくれ」
五郎左衛門は深く頭を下げた。
続いて三左衛門から、木曽川沿いの様子を調べる者たちの配置について報告があった。渡し場の動きと美濃側の守りを確かめ、六角軍がさらに東へ進むようであれば早く知らせが届くようにするという。
俺はそれらを了承し、美濃へ働き掛ける使者についても準備を進めさせた。犬山の問題を片付ける間、龍興の下にいる国人たちがどのような考えを持っているのか探っておく必要がある。六角が西美濃を固めているのであれば、こちらはまだ帰属先を決めていない者たちへ目を向ければよい。
ただし、こちらが美濃へ進む用意を進めていることを今から大きく触れ回るつもりはなかった。犬山の信清がこちらの動きを知れば、守りを固めるだけでなく龍興と手を結ぼうとすることも考えられる。六角についても、俺が美濃を狙っていると知れば東への進軍を早めるかもしれない。
使者の行き先を確かめ、必要な書状を整えさせると、俺は五郎左衛門へ出立を命じた。
犬山の周辺へは信清に従う者たちの意向を探る使者が向かい、木曽川沿いにはこちらの物見が送り出される。美濃へ通じる商人や国人との連絡も、これまで以上に密にすることになった。
氏家直元が大垣城を開いたことで、六角は戦わずに西美濃へ足掛かりを得た。安藤と稲葉まで帰属すれば、一色家の力はさらに弱まるだろう。その機会をこちらが逃すわけにはいかなかった。
俺は使者たちが出立したことを確かめると、権六を呼び、犬山方面で軍勢を動かす場合の兵糧について報告を求めた。信清との争いを避けられるに越したことはないが、調略だけですべてが片付くとは限らない。必要な備えを怠れば、いざという時に兵を動かせなくなる。
権六から届いた書付には、集められる兵の見込みと、それぞれの兵を養うために必要な物資が記されていた。俺は内容を確かめ、調達に時間の掛かるものから準備を始めるよう命じた。
犬山をどう片付けるかによって、美濃へ進む時期も変わってくる。六角が西から勢力を伸ばす以上、これまでのように尾張の内だけを見ているわけにはいかない。
俺は報告を持ってきた権六へ、五郎左衛門の調略が進んだ場合にも直ちに動けるよう軍勢の支度を整えておくことを申し付けた。すぐに戦を始めるつもりはなかったが、その必要が生じた時に手をこまねいていることだけは避けたかった。
清須城から犬山へ向かう使者が出立したのと同じ頃、美濃の情勢を探る者たちもそれぞれの持ち場へ向かった。俺は次に届く報告を待ちながら、犬山と木曽川沿いの守りについて家臣たちと引き続き手配を進めた。
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