牛歩が目の前にいる!
まずい!
観音寺城へ戻った頃には、日はすっかり高くなっていた。朝はまだ涼しかった山道にも夏らしい熱気が満ち、城へ上がる頃には額から汗が流れていたが、不思議と疲れはあまり気にならなかった。釣り道具を片付け、着替えを済ませても、頭の中に残っているのは猿夜叉丸が釣り上げた大きな魚でも、勝負に負けた悔しさでもない。帰り道からずっと、竹若丸のことを考えていた。
三年前、父を失い、幼くして朽木の当主となった竹若丸。前世で読んだ『淡海乃海』の主人公であり、俺がこの世界をただの戦国時代ではないのではないかと疑い始めるきっかけになった存在でもある。それなのに、これまで俺は竹若丸本人について何も確かめようとはしてこなかった。気にしていなかったわけではない。ただ、六角のことを知るだけで手一杯だったし、何より自分自身がこの時代について何も知らなかった。評定へ顔を出し、関銭や市について実際に人を動かし、思ったようにいかないことを何度も経験して、ようやく「国を動かす」という言葉の重さが少しだけ分かってきた。そして今日、猿夜叉丸と一日を過ごしたことで、もう一つ気付いた。未来を知っていることと、その人間を知っていることは同じではない。俺は猿夜叉丸が後にどうなるのかを知っていた。小夜が誰に嫁ぐのかも知っていた。それでも、猿夜叉丸が負けず嫌いで、初めて釣った魚をあれほど嬉しそうに見ることも、小夜があれほど遠慮なく物を言うことも、今日まで知らなかった。
ならば竹若丸についても同じなのだろう。前世で読んだ物語の中で何をしたのかは覚えている。後にどれほど大きな存在になるのかも知っている。だが、今この瞬間、朽木でどんな顔をして、何を考え、何をしているのかは知らない。記憶の中にいる竹若丸と、今この世界に生きている竹若丸を、俺はいつの間にか同じものとして扱っていたのではないか。そのことに気付いてしまうと、急に確かめずにはいられなくなった。
その日のうちに父上のもとを訪ねた。
「父上。お聞きしたいことがございます」
父上は手にしていた書状から顔を上げ、俺を見る。午前中いっぱい遊んで戻ってきたばかりの息子が、もう何か言い出したことを訝しんでいるようだった。三年間、何か思い付くたびに父上のところへ持ち込んできたのだから、警戒されるのも仕方がない。
「今度は何じゃ。釣りから戻ったばかりであろう」
「朽木についてでございます」
「朽木?」
予想していなかったのか、父上の眉が僅かに動いた。関銭でも市でもなく、突然他家の名前が出たのだから当然だろう。
「竹若丸が家督を継いでから、三年ほどになりますな」
「そうじゃな」
「今の朽木が、どうなっているのか知りとうございます」
父上はすぐには答えなかった。俺が何を考えているのか探るようにこちらを見る。その視線を受けながら、自分でも少し妙な頼みだと思った。六角にとって朽木が全く無関係な相手というわけではない。それでも六角家の嫡男が突然、「朽木の今を詳しく知りたい」と言い出せば理由を尋ねられて当然だ。
「何故、竹若丸を気にする?」
「同じ三年だからでございます」
「同じ?」
「私はこの三年、評定へ出させていただき、関銭や市について試させていただきました。竹若丸も、その三年前に家督を継いでおります。私より幼くして父を失い、朽木の当主となった者が、この三年間をどのように過ごしたのか。それを知りたいのでございます」
口にしてみると、思っていたより素直な理由になった。本当の理由はそれだけではない。『淡海乃海』という物語を読んだ記憶も、その主人公が竹若丸だったことも、父上へ話せるはずがない。それでも「同じ三年」という言葉に嘘はなかった。俺にとってこの三年間は、父上の後ろから学び、失敗しても誰かが止めてくれる場所で過ごした時間だった。一方の竹若丸は、幼いながらも当主という立場に置かれていた。その違いを、俺はずっとどこかで気にしていたのかもしれない。
父上はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「なるほどな。それで、朽木の何を知りたい」
「出来るだけ多くを。三年前と比べて人が増えたのか、商人の往来はどうなったのか、何を売り、何を買っているのか。銭の動きも分かれば知りとうございます。それと、竹若丸本人が何をしているのかも」
「また人と物と銭か」
父上が僅かに笑った。
「そればかり見ているように思われますか?」
「少なくとも、そなたが何かを知ろうとする時は、大抵そこから入るな」
否定は出来なかった。俺にとって一番分かりやすいからだ。「栄えている」「衰えている」といった言葉だけでは、どうしても曖昧に感じる。人が増えたのか、商人が増えたのか、何が売れているのか。数字まで揃わなくとも、そうした変化を追えば少なくとも「何となく良くなっている」よりは現在の姿が見える。前世で数学を教えていたせいなのか、それとも元々そういう性格だったのか、自分でも分からない。ただ、分からないものを分からないままにしておくより、比べられる形にした方が落ち着くのは確かだった。
「儂が知っている範囲では、朽木で大きな騒ぎは起きておらぬ。宮内少輔を失った直後には弱ったとも聞いたが、今は随分と持ち直しているようじゃ。商人の往来も以前より増えたとは聞いておる」
「何故増えたのでございます?」
「そこまでは知らぬ。六角にとって朽木だけを細かく見続ける理由は無いからの。高島、浅井、美濃、京、それ以外にも見ねばならぬ場所はいくらでもある」
言われてみれば当然だった。俺にとって竹若丸は特別だ。だが、父上にとっては近江にいる数多くの勢力の一つに過ぎない。六角という大きな家を背負う者の視界には、俺がまだ見えていないものがいくつも入っている。三年前なら、この答えを聞いてもただ「知らないのか」としか思わなかったかもしれない。今は違う。何か一つを細かく見るということは、他の何かに使える人や時間を減らすということでもある。その程度のことは、少しだけ分かるようになっていた。
「詳しく知りたいか?」
「はい」
「ならば調べさせればよい」
父上が廊下へ控えていた者へ声を掛け、三雲対馬守を呼ぶよう命じた。
しばらくして姿を見せた三雲対馬守は、俺と父上を前に座ると静かに頭を下げた。評定では何度も顔を見ている。六角家中の一人であると同時に甲賀に強い繋がりを持つ人物だということも、評定へ出るようになってから知った。以前の俺なら「忍びを使える人物」というだけで何となく特別なものを感じていたかもしれない。しかし実際に六角の政を見ていると、情報を得るための手段の一つとして考える方が自然だった。噂だけを頼りに判断すれば間違える。ならば確かめる手段が必要になる。
父上が朽木の現状を調べるよう命じると、三雲は一瞬だけ俺へ視線を向けたものの、理由を問い返すことはなかった。
「どの程度までお調べいたしましょう」
「亀松丸が知りたがっておる。本人に聞け」
突然こちらへ話を振られたが、既に知りたいことは頭の中である程度まとまっていた。
「朽木が三年前と比べてどう変わったのかを知りたい。人の出入り、商い、売られている物、それから竹若丸が何をしているのか。噂ではなく、出来るだけ確かなことを頼む」
「承知いたしました」
「ただし、朽木にこちらが探っていると気付かれるようなことはするな」
父上が付け加えると、三雲は当然のように頷いた。
「心得ておりまする」
それだけ言うと、三雲は下がっていった。
調べたいと思ったからといって、その日のうちに答えが返ってくるわけではない。それから何日か、俺はいつも通り評定へ顔を出し、帳面を眺め、千代丸と過ごした。それでも、頭の片隅から朽木が消えることはなかった。むしろ待っている時間が長いほど、前世の記憶が何度も浮かんできた。晴綱が死に、竹若丸が家督を継ぐ。その後、朽木を豊かにするために様々なことを始めた。読んだのは前世でのことで、しかも今の俺は物語の文章を一字一句覚えているわけではない。時期や順序が曖昧な部分もあるし、自分の記憶が別の出来事と混ざっている可能性だってある。だからこそ、今まで断定することを避けてきた。知っているという感覚ほど危ないものはない。前世でも、生徒が「分かりました」と言いながら実際には分かっていないことなどいくらでもあったし、自分自身だって思い込みで間違えたことはある。
それでも、幾つか強く覚えているものがあった。
澄み酒。
その言葉だけは、妙に記憶に残っていた。
竹若丸が家督を継いだ後、朽木で作り、商いへ繋げていったもの。その出来事が今の朽木でも起きているなら、偶然で片付けるには大きすぎる。逆に何も出てこなければ、俺が読んだ『淡海乃海』とこの世界は別物だと考え直さなければならない。どちらの答えが出るにしても、それは今後の俺にとって重要だった。
そう考えていたくせに、いざ報告を待つ立場になると、胸の内には妙なものがあった。
確かめたい。
けれど、確かめるのが少し怖い。
もし一致したら、それは俺の記憶が役に立つという意味だけではない。本当に俺が、前世で読んだ物語の中へ生まれ落ちたということになる。登場人物だった者たちが目の前で生きていて、この先起きるはずの戦や争いも、ただ本の中の出来事ではなくなる。観音寺騒動も、浅井との争いも、六角家が衰えていく未来も、全部「これから起こり得る現実」になる。
知りたいと思って自分から調べさせたのに、答えが返ってくる日を待ちながら、心のどこかでは外れてほしいと思っている自分もいた。
十日ほど経った頃、三雲対馬守が再び父上のもとへ姿を見せた。俺も呼ばれ、父上の横へ座る。三雲の前には何枚かの書付が置かれていた。それを見ただけで、胸の奥が少し落ち着かなくなる。前世で試験結果を返す時、生徒たちはこんな気分だったのだろうかと場違いなことを考えたが、すぐに頭から追い出した。これは点数を見るような話ではない。
「朽木について、分かったことから御報告いたします」
俺は無意識に背筋を伸ばした。
「まず、商人の往来は三年前より明らかに増えております。近江の者だけではなく、若狭や京へ向かう商人も朽木へ立ち寄ることが増えているようにございます。その理由の一つが、朽木で作られております酒にございます」
その瞬間、胸の奥が強く鳴った。
まだだ。
酒を作っている家など朽木以外にもある。これだけなら何の証拠にもならない。そう自分へ言い聞かせたが、三雲の次の言葉を待つ間、指先に僅かに力が入っていることに気付いた。
「酒?」
父上が聞き返す。
「はい。濁りの少ない、澄んだ酒にございます。味も良いと評判で、今では朽木の外から買い求めに来る商人も少なくないとか。祝い事や贈り物にも使われ、高値で取引されておりまする」
澄み酒。
聞きたかった言葉だった。
それなのに、実際に耳へ入ってきた瞬間に感じたのは喜びではなかった。身体の奥を冷たいものが通り抜けたような感覚だった。
あった。
本当に、あった。
俺が前世で読んだものと同じものが、この世界の朽木にも存在している。
偶然だと考えることは出来る。誰かが澄んだ酒を作っただけなら、歴史の中で起こり得ないことではないのかもしれない。そう考えようとした。むしろ、そう考えたかった。ここで一つの一致だけを見て答えを決めれば、今まで自分が気を付けてきたことと同じになる。条件が足りない問題へ、都合の良い答えを当てはめるだけだ。
「誰が作り始めた?」
声が少し早くなった。
三雲が俺を見る。
「竹若丸殿と聞いております」
予想していた答えだった。
だからこそ、息が詰まった。
酒だけではない。竹若丸自身が始めた。そこまで一致する。
三雲は俺の様子を気にするでもなく、そのまま報告を続けた。酒を作るための米を集め、それを売る商いが生まれたことで朽木へ出入りする商人が増えていること。若狭方面との行き来も以前より活発になっていること。そして、その中でも若狭の商人である組屋源四郎が、以前より頻繁に朽木へ足を運んでいるという。
「組屋……源四郎」
思わず口から名前が漏れた。
三雲が僅かに目を細めた。
「御存じでございましたか」
「いや……名を聞いたことがあるような気がしただけじゃ」
誤魔化しながら、頭の中では三雲の報告を一つずつ並べ直していた。ここで焦って「やはりそうだ」と飛び付いてはいけない。俺は今まで、分からないことを分かったつもりにならないよう気を付けてきた。ならば今回も同じように考えるべきだ。
まず、六角家に生まれたこと。これは何の証拠にもならない。六角氏は実在したし、義賢も義治も歴史上に存在する。平井定武も同じだ。千代丸が後の平井弥太郎高明であることも、史実の人物が幼い姿で目の前に現れたと考えれば、それだけで物語の世界だと決めつけることは出来ない。小夜も、猿夜叉丸もそうだ。浅井長政となる少年が六角のもとにいることだって、俺が知らなかっただけで歴史上の流れとして存在していた可能性はある。
だから、そこまではずっと保留してきた。
晴綱の死もそうだった。前世の記憶と合っていると思ったが、朽木晴綱という人物が実際の戦国時代に存在していた以上、その死だけでは証明にならない。竹若丸が幼くして家督を継いだことも同じだ。俺が読んだ物語と似ている。それでも、史実の出来事を下敷きにした物語なのだから、一致する部分があるのは当然だと考える余地は残っていた。
だが、今聞いた話は違う。
父を失った幼い竹若丸が家督を継ぎ、その後、朽木で澄み酒を作り始める。酒そのものを作っただけではなく、それを商品として外へ売り、商人を呼び込み、若狭との商いを広げている。そして、その商いに組屋源四郎が関わっている。人物が同じというだけではない。起きている出来事と、その順序まで俺の記憶と重なり始めている。
もしこれが偶然だというのなら、どれほどの偶然が重なればここまで同じになるのだろう。
数学の問題のように明確な確率を出せるわけではない。それでも、一つずつ独立していた一致が増えていけば、「たまたま同じだった」で説明する方が不自然になることくらいは分かる。俺がこの三年間やってきたことも同じだった。一度商人が増えただけなら偶然かもしれない。次の月も、その次の月も増え、他の道と比べても明らかな差が出て初めて、関銭を下げたこととの関係を疑える。今、俺の目の前にあるのもそれと同じだ。
六角に生まれた。
平井定武がいる。
その娘である小夜がいる。
浅井の猿夜叉丸がいる。
朽木晴綱が死に、竹若丸が幼くして家督を継いだ。
そして三年後、その竹若丸が澄み酒を作り、商人を呼び、組屋源四郎と繋がっている。
それまでばらばらに見えていたものが、一つずつ位置を変えながら、俺の記憶の中にある形へ嵌まっていく。最初から答えを知っていたわけではない。むしろ答えを知っているつもりにならないよう、ずっと疑い続けてきた。それなのに今は、どれだけ別の答えを探そうとしても、最後には同じ場所へ戻ってきてしまう。
『淡海乃海』。
その題名を頭の中で思い浮かべた瞬間、これまで意識して遠ざけていた記憶まで一緒に蘇ってきた。朽木から始まり、近江へ勢力を伸ばし、やがて天下へ近付いていく基綱。六角はその途中で大きく形を変え、俺が生まれた家も、俺が何もしなければ記憶にある流れへ向かっていくことになる。観音寺騒動、浅井との関係、織田の台頭。前世では画面の向こうで読んでいた出来事が、今は俺自身の未来に繋がっている。
そこで初めて、俺は自分の手を見た。
まだ小さい。
この手で出来ることなど、今は大したものではない。関銭を少し変えるにも父上の許可が必要で、市へ手を入れるにも家臣たちの力を借りなければならない。前世の記憶があるからといって、何でも好きなように変えられるわけではないことは、この三年間で嫌というほど分かった。
それでも、何も知らないわけではなくなった。
これまでは、記憶をどこまで信じていいのか分からなかった。史実と物語と、自分の曖昧な記憶。その三つが混ざったままでは、未来を前提に動くことなど出来ない。間違った記憶を信じて父上や家臣を動かせば、それこそ取り返しのつかないことになる。だから俺は、知っている未来よりも目の前の現在を優先してきた。
その判断自体は間違っていなかったと思う。
だが、今からは少し違う。
前世の記憶を答えとして使うのではなく、仮説として使うことは出来る。何かが起きるはずだと分かっているなら、先に調べることが出来る。危険があるかもしれないと知っているなら、備えることも出来る。そして記憶と現実が食い違ったなら、その時点で記憶を捨てればいい。
未来を知っているから正しいのではない。
知っている未来を、今ある情報と照らし合わせながら使えばいい。
そう考えると、胸の奥にあった恐怖がほんの少しだけ形を変えた。消えたわけではない。むしろ、この世界が『淡海乃海』なのだと認めたことで、六角の先に待っているものは以前よりはっきりした。それでも、何も分からない暗闇の中にいるよりはましだった。少なくとも、どちらに道が続いているのかは見える。
そして何より、俺はもう物語を読んでいるだけの人間ではない。
この世界に生きている。
父上がいて、千代丸がいて、猿夜叉丸や小夜がいる。俺が何かをすれば、その結果は数字ではなく、目の前にいる人間へ返ってくる。前世で読んだ通りになるのをただ眺めているつもりなど、最初からなかった。
改めて三雲の前に置かれた書付へ目を落とした。
澄み酒。
組屋源四郎。
竹若丸。
最後まで残っていた「もしかしたら違うかもしれない」という逃げ道は、もうほとんど残っていなかった。
俺はゆっくり息を吐いた。
三年前から抱えていた疑問に、ようやく答えを出す。
ここはただの戦国時代ではない。
俺が前世で読んだ――『淡海乃海』の世界だ。