永禄五年八月中旬、美濃国大垣城。
安藤伊賀守守就と稲葉良通から、帰属を申し出る使者が相次いで到着した。
氏家殿が大垣城を開いたことで、西美濃の諸将にも動きが出るとは考えていた。しかし、まだ日も浅いうちに安藤と稲葉まで六角へ従う意思を示してきたのだから、少々驚かされた。関ヶ原へ進んだ頃には大垣を得るだけでも苦労すると思っていたのに、今では西美濃を支える有力者たちが次々と使者を寄越している。
ありがたいことではあるが、話が早く進めば、それだけ新たに決めなければならないことも増える。氏家殿についても、ようやく城内の警固や六角兵の駐留について話がまとまり始めたところだった。
「安藤殿は北方城と所領の安堵を求めているのだな」
「はっ。我が主は六角家への帰属を望んでおります。ただ、北方は稲葉山に近うございます。帰属を申し出たことが龍興様の耳に入れば、軍勢を差し向けられることも考えられます。どうか、その際には御助力を賜りたく存じます」
使者は深く頭を下げた。
北方城と稲葉山城の位置を思い浮かべれば、その懸念はもっともだった。氏家殿が大垣を開いた時と違い、安藤家は龍興の軍勢が動けば真っ先に攻撃を受ける恐れがある。六角へ従うと決めたところで、城を守る兵が増えるわけではなかった。
「事情は分かった。安藤殿の帰属については受け入れる方向で進める。ただし、所領や軍役を正式に定めるには父上の裁可が必要だ。北方の守りについても、軍勢の配置を確かめたうえで判断したい」
「承知いたしました」
「それまでは今の兵を動かさず、城と領内の守りを固めてもらいたい。稲葉山方面で動きがあれば直ちに知らせを寄越すように」
使者は了承したものの、なお言いたいことがあるらしい。頭を下げたまま動かないので、俺は先を促した。
「まだ何かあるのか」
「恐れながら、我が主は帰属を申し出た後のことを案じております。六角の御裁可を待つ間に稲葉山から兵を向けられた場合、安藤だけで守り切れるかどうか……」
「六角へ従おうとする者を見捨てるつもりはない。ただ、今ここで何千もの兵を北方へ送ると約束することもできん。まずは安藤殿に現在の兵数と守りの様子を知らせてもらいたい。こちらも必要な備えを進めよう」
「はっ。主にもそのように申し伝えます」
使者を下がらせた後、稲葉家の者からも事情を聞いた。
稲葉殿が求めているのは、曽根城と従来の所領の安堵、それに家臣団の存続だった。こちらも氏家殿と大きく変わらない。ただし曽根は大垣に近く、六角の軍勢が今後東へ進む際には、氏家家中と共に道や周辺の守りを担ってもらうことも考えられる。その点について使者へ尋ねると、稲葉殿も協力する意思はあるが、具体的な軍役については帰属が認められた後に話し合いたいとのことだった。
どちらの使者も、城や所領を守ることについては慎重だった。氏家殿が大垣を預かったまま六角へ従ったとはいえ、自分たちも同じ待遇を受けられるとは限らない。その不安を取り除かないまま、帰属したのだから兵を出せと言っても納得は得られまい。
使者たちから聞いた内容をまとめ、父上へ送る書状を用意させた。
氏家殿については既に本領安堵と大垣城主としての留任を認める裁可が届いている。安藤と稲葉についても基本的には同じ方針でよいと思うが、北方は稲葉山に近く、曽根は大垣との連携が重要になる。両家から求められたことをそのまま認めるだけでは、今後の守りに差し障りが出るだろう。
とはいえ、西美濃の有力者三人が揃って六角へ従うのであれば、これほどありがたい話もない。大垣の守りに割いていた兵をほかへ回せるうえ、それぞれの領地をよく知る家臣たちの協力も得られる。氏家殿の帰属だけでも大きな成果だったが、ここまで進めば美濃での戦い方そのものが変わってくる。
もっとも、稲葉山城には龍興が残っており、その東方には一色家に従う国人たちもいる。日根野備中守の軍勢がその後どうなったのかも、まだ詳しいところまでは掴めていなかった。
稲葉山城をどうするか。
そこが次の問題になるのだが、近江から届いた報告を読むと、どうしても気になることがあった。
秋の収穫である。
各地の村々では稲刈りの支度が進み、早いところでは間もなく収穫を始めるという。今回の遠征には在地の武士だけでなく、農作業や村の仕事に関わる者も加わっている。荷駄を運ぶ人手についても、いつまでも美濃に留めておくわけにはいかない。
目の前には稲葉山城がある。できれば攻略しておきたいところだが、あの堅城を短い日数で落とせる保証はなかった。正面から攻めれば相応の損害が出るだろうし、包囲して兵糧攻めに持ち込めば収穫に間に合わなくなる。
翌日、俺は城外の陣所へ足を運んだ。
陣所の近くでは荷駄を運んできた者たちが馬を休ませていた。垂井から届いた荷には兵糧のほか、武具の修繕に使う道具も含まれている。少し離れた場所では荷を下ろし終えた男たちが腰を下ろし、近江へ戻った後の仕事について話していた。
「今年は稲刈りに間に合うかのう」
「帰れるものなら帰りたいが、まだ分からん。うちの村でも人手が足りぬと言っておった」
俺が近くを通ると、二人は慌てて立ち上がった。軽く手を上げて仕事を続けるよう伝え、その場を離れる。既に帰郷のことを考えている者は少なくないのだろう。軍勢を動かす側にいると兵数ばかりが気になってしまうが、兵を出している村にもそれぞれの都合があった。
下野守のいる陣所へ入ると、各隊からの報告が集められていた。
「下野守。近江から届いた収穫の知らせは見たか」
「はっ。各地から同じような報告が届いております。軍勢を帰すのであれば、そろそろ人数を定める必要がございましょう」
「そうだな。できれば稲葉山まで進みたいところだが、今から攻め始めて収穫までに決着が付くとは思えん」
「稲葉山城は容易に落ちる城ではございませぬ。正面から攻めるとなれば兵の損害も大きくなりましょう。収穫を優先されるのであれば、ここで軍勢を縮小することも一つの手にございます」
「せっかく大垣まで来たのにな。少々惜しい気もするが……近江の稲まで美濃へ連れてくるわけにはいかんか」
思わずそう零すと、下野守が笑った。
「それは叶いませぬな。兵を養う米も、刈り取る者がおらねば手に入りませぬ」
「分かっている。だから悩んでいるんだ」
下野守と顔を見合わせて笑った後、改めて軍勢の配置について話を進めた。
氏家家中には大垣城内の守りを任せ、六角の兵は要所へ置くことで話がまとまりつつある。不破から大垣までの道にも兵を残さねばならないが、これまでの人数をそのまま維持する必要はなさそうだった。
問題は北方と曽根である。安藤と稲葉の帰属が正式に認められれば、両家の兵を中心に守りを固めることになる。それでも龍興が北方へ兵を差し向けた場合には、六角も支援できるようにしておきたかった。
「まずは各隊に、帰還を急ぐ必要のある者を調べさせよう。収穫に関わる者を優先して帰し、引き続き軍役を果たせる者には守りを任せる。ただし、兵を帰す前に各地の配置を整えておきたい」
「御意。氏家殿にも協力を求めれば、大垣の守りに必要な六角兵は減らせましょう」
「安藤と稲葉については、正式な取り決めが済むまで無理な軍役を求めるつもりはない。帰属した途端に兵を召し上げては、龍興と変わらんからな」
「その点は承知しております。ただ、稲葉山城が健在である以上、東方への物見まで減らすわけにはまいりませぬ」
「ああ。そこは今までどおり続けてくれ」
帰還させる兵の人数は、各隊からの報告が揃ってから決めることになった。主力を近江へ戻すとしても、西美濃を放棄するわけではない。残る兵と帰属した諸将の協力によって守りを固め、その間に稲葉山城の動きを見極めるつもりだった。
ただ、龍興がこちらの都合に合わせて待ってくれるとも思えない。東方に残る国人たちから兵を集め直せば、六角軍が引いた後に西美濃へ進んでくることも考えられた。
その日の夕刻、俺は篠を呼んだ。
「篠。稲葉山城の東側について、今どこまで分かっている?」
「芥見や関方面には、今も一色家へ従う者たちがおります。稲葉山から使者が往来していることも掴んでおりますが、実際にどれほど兵を出しているかについては、なお調べが必要にございます」
「氏家殿の帰属については伝わっているのか」
「はい。大垣城が六角へ帰属したことは既に広まっております。安藤殿と稲葉殿の動きについても、噂になり始めているようにございます」
俺は篠から受け取った書付に目を通した。
氏家殿が稲葉山へ援軍を求めたところ、龍興は兵五百と人質を差し出すよう命じた。その話は東方へも伝わり始めているらしい。大垣を守るために援軍を求めた者が、逆に兵と人質を要求されたのである。今も一色家に従う国人たちが聞けば、気にせずにはいられないだろう。
「篠。東側の国人たちへ、氏家殿が兵と人質を求められた話を広めてほしい。龍興が残る家臣にも同じことを命じるのではないかと、不安に思う者がいるはずだ」
「承知いたしました。所領についても話を広めますか」
「ああ。西美濃衆が離反したことで、龍興が残る家臣まで疑っているのではないかと考える者もいるだろう。所領を取り上げられることを恐れる者がいれば、その話も拾ってほしい」
篠は頷いたものの、すぐには返事をしなかった。
「若様。龍興が実際に所領を召し上げるとの命令を出したわけではないのでございますね」
「そうだ。そのような知らせは届いていない」
「では、命令が出たと偽るのではなく、そのようなことが起きるかもしれぬと人々に思わせるのでございますか」
「……そういうことになる」
自分で命じておきながら、どうにも気分のよい話ではなかった。氏家殿との交渉では所領を安堵する条件を示し、本人が帰属を決めるのを待った。今度は龍興への不信を利用し、残る国人たちが兵を出すことをためらうよう仕向けようとしている。
「若様?」
「ああ、すまん。できれば、このような真似はしたくないと思ってな。互いの条件を確かめて帰属を決めてもらう方が、よほど気持ちがよい」
篠は少し首を傾げた。
「されど、若様。稲葉山城を攻めれば、六角の兵も一色の兵も多く傷付きましょう。戦わずに済ませるための策であれば、悪いことばかりではないかと存じます」
「そうだな。篠の言うとおりだと思う」
必要と判断したからには、今さら命令を取り消すつもりもなかった。
「篠。確かな命令が出たなどと偽る必要はない。氏家殿が兵と人質を求められたことは事実だ。まずはその話を広めてくれ」
「かしこまりました」
「それと、稲葉山から援軍が送られぬのではないかという話も頼む。氏家殿が援軍を得られなかったことを知れば、同じように心配する者が出るだろう」
「承知いたしました。弥七と宗兵衛にも役目を分け、それぞれの土地で話を聞かせることにいたします」
「ただし、噂を広めることだけが目的ではない。実際に国人たちがどう動いているかも確かめてほしい。稲葉山への軍役を渋る者がいるのか、それとも従来どおり兵を送っているのかを知りたい」
篠はそれぞれの土地へ向かわせる者を確かめ、連絡の手順について話し始めた。甲賀者たちは以前から美濃の各地を調べており、商人や国人の家中から情報を得るためのつながりもあるという。もっとも、広まった話を人々がどう受け取るかまでは分からない。
「無理に話を広めようとして、篠たちの正体を知られることだけは避けてくれ。こちらが何をしているのか龍興に悟られれば、余計な警戒を招く」
「はい。十分に気を付けます」
「それから、危険だと判断した場合には無理をせず引くように。今回のために皆を失うつもりはない」
「承知いたしました。若様も、どうか我らのことは御心配なさらず」
「心配くらいはさせてくれ。こちらが頼んだ仕事なのだからな」
そう答えると、篠が小さく笑った。
最後に連絡の手順を確認し、篠を下がらせた。
翌朝、父上へ送る書状を整えた。安藤と稲葉から帰属の申し出があったことに加え、収穫を控えているため軍勢の一部を近江へ帰還させたい旨も記した。稲葉山城への攻撃は当面見送り、西美濃の守りを固める方針であることも伝える。
その日の午後には下野守から各隊の兵数について報告を受けた。まだすべての隊から返答が揃っているわけではないが、収穫のため早く帰すべき者が相応にいることは確かなようだった。
「下野守。父上の裁可が届き次第、兵を帰す支度を進めよう。稲葉山を残すのは惜しいが、近江の収穫を犠牲にしてまで攻めるつもりはない」
「御意。氏家殿の協力も得られるようになりましたゆえ、大垣の守りについては以前ほど兵を要しますまい。安藤殿と稲葉殿の処遇が定まれば、さらに配置を改めることもできましょう」
「そうだな。収穫が終わるまでに龍興の援軍を弱め、次に兵を動かす時には今より有利な状況にしておきたいものだ」
下野守は頷き、各隊との調整を進めるために下がっていった。
俺は残された報告を確かめ、帰還させる兵と西美濃へ残す兵を分けた帳面を取り寄せた。父上からの返書が届くまでにも、進められる支度はある。どの隊から兵を帰し、誰に守りを任せるかを先に決めておけば、裁可を得た後に無駄な時間を掛けずに済むだろう。
篠たちも既に動き始めている。東方の国人たちがこちらの広めた話をどう受け取るかは、報告が届くまで分からない。俺は各隊から集まった帳面を開き、下野守が戻るまでに確認しておくべき人数を調べ始めた。
*
篠たちが稲葉山城の東側へ動き始めてから数日が過ぎた。
大垣城では近江へ帰還させる兵の選別が進み、各隊から集められた帳面が俺のところへ届けられていた。収穫のため早く帰す必要がある者と、引き続き美濃に留められる者を分けているのだが、これが思っていた以上に面倒だった。兵の数だけを合わせても、隊を率いる者や荷駄を担う者まで帰してしまえば、残された兵の働きに差し障りが出る。各隊の事情を確かめながら人数を決めていくしかなかった。
幸い、氏家殿の協力を得られるようになったことで、大垣周辺の守りには多少の余裕が生まれている。城内の警固は従来どおり氏家家中が担い、六角の兵も定められた場所へ入ることになった。安藤と稲葉についても父上から返書が届き、両家の帰属を認める方針が示されている。所領安堵については確認を要する部分も残されているが、まずは双方の家中を保ったまま六角へ従わせることになった。
北方と曽根については両家の兵を中心に守りを固め、稲葉山から大きな軍勢が動いた場合には大垣から支援する。安藤殿には稲葉山方面の動きを確かめてもらい、稲葉殿にも曽根の周辺で異変があれば知らせを寄越すよう伝えてあった。
そこまで手配を進めたところで、ようやく帰還させる兵の人数について見通しが立ち始めた。
「これなら、あと数日もあれば最初の兵を帰せそうだな」
帳面を閉じながら呟くと、向かいに座っていた下野守が頷いた。
「御意。ただし、安藤殿と稲葉殿の守りが落ち着くまでは、大きく兵を減らすことは避けた方がよろしいかと存じます。稲葉山に動きがあれば、こちらからも兵を出さねばなりませぬ」
「分かっている。まずは収穫のために帰る必要がある者からだな。残る兵の配置についても山城守と相談してくれ」
「承知いたしました」
下野守が帳面を取り上げたところで、廊下から弥太郎の声が聞こえてきた。何やら急ぎの報告があるらしい。
「御屋形様。木曽川方面から知らせが届いております」
「木曽川? 何かあったのか」
「織田と一色の兵が争ったとのことでございます」
思わず下野守と顔を見合わせた。
織田と一色は今年の二月に和議を結んだはずだ。それ以降、両家が改めて戦を始めたという知らせは届いていない。今になって小競り合いが起きたとなれば、何か動きがあったのかもしれなかった。
「使者を通せ」
入ってきた男は美濃方面の物見を担っている者で、木曽川沿いを通ってきた商人から話を聞いたという。
「鵜沼に近い渡し場の辺りで、織田方と一色方の兵が争ったとのことでございます。双方とも大軍ではなく、ほどなく引き揚げたようですが、死傷した者も出たと聞いております」
「何故争いになった?」
「詳しいことまでは分かっておりませぬ。織田方が川沿いの様子を探っていたところ、一色方の兵がこれを咎めたという話がございます。ただ、先に武器を向けたのがどちらなのかは確かめられておりませぬ」
織田信長が木曽川沿いへ物見を出していること自体は不思議ではない。尾張から美濃へ進むつもりであれば、渡し場や対岸の守りを確かめておきたいだろう。
しかし、織田家にはまだ犬山の問題が残されている。信長が今すぐ大軍を率いて美濃へ攻め込むとも思えなかったが、国境付近で兵が争った以上、何も起きていないと考えるわけにもいかなかった。
「和議が破れたという知らせは?」
「今のところございませぬ。大きな軍勢が動いたという話も聞いておりません」
「そうか。ならば、まだ戦が始まったと決め付けるわけにはいかんな」
使者を下がらせると、下野守が口を開いた。
「織田が本格的に動くのであれば、こちらも注意せねばなりませぬ。美濃へ進む道は西からだけではございません。織田が木曽川を越えれば、稲葉山の東側にも影響が出ましょう」
「そうだな。ただ、信長が何を考えているのか分からんうちは、こちらから動く理由もない。まずは争いの規模と織田軍の動きを確かめよう」
「御意」
下野守には尾張方面の物見を増やし、織田の軍勢が国境近くへ集まっていないか調べさせることにした。六角が西から美濃へ進んでいるところへ、織田まで南から兵を動かすのであれば、龍興も対応に追われるだろう。
もっとも、織田が美濃へ進出するとなれば、こちらも無関係ではいられない。今のところ信長と争うつもりはないが、互いに美濃へ勢力を伸ばすのであれば、いずれどこかで向き合うことになるかもしれなかった。
翌日には別の経路からも知らせが届いた。
織田方の兵は既に川の南へ戻っており、一色方も大きな軍勢を集めてはいないらしい。和議について両家が何を話しているのかは分からなかったが、少なくとも直ちに大きな戦へ発展する様子はなかった。
ただし、国境近くの国人たちは落ち着かないようだった。渡し場や街道の見張りを増やしている家があり、稲葉山へ送る兵についても自領の守りを優先したいと申し出る者が出ているという。
小さな争いとはいえ、実際に死傷者まで出ている。木曽川沿いに領地を持つ者にしてみれば、次にどちらの兵が川を越えてくるか分からない状況で、手元の兵を減らしたくはないだろう。
篠たちの働きがどうなっているかも気になった。
氏家殿が龍興から受けた扱いを広めるよう命じたが、それによって国人たちが軍役を渋るようになったのか、それとも織田との争いが影響しているだけなのかは分からない。俺は東方の動きを引き続き調べさせ、篠たちからの知らせを待つことにした。
*
数日後、弥七を通じて東方の様子が伝えられた。
篠たちが広めた話は、国人の家中や商人たちの間にも伝わり始めているらしい。氏家殿が兵五百と人質を求められたことは既に知られており、龍興が残る家臣にも同じような命令を下すのではないかと案じる者が出ているという。
もっとも、反応は家によって随分と異なっていた。
ある家では稲葉山からの軍役の要請に対し、領内の守りを理由に人数を減らせないかと申し出ていた。別の家では、兵を送る前に稲葉山から援軍についての約束を取り付けたいという話が出ているらしい。その一方で龍興への忠節を変えるつもりはなく、六角の進出に備えて兵を集めている者もいた。
弥七が持参した書付には、それぞれの土地で聞き取った話が記されていた。中でも気になったのは、稲葉山へ向かうはずだった荷駄の一部が出立を遅らせているという報告だった。
「なるほど。織田との争いも影響しているのか」
俺がそう呟くと、弥七は書付の一行を指し示した。
「はい。木曽川沿いに領地を持つ者たちは、織田との争いが再び起きることを警戒しております。稲葉山から兵を求められても、領内の守りを理由に応じかねると申し出た家があるようにございます」
「龍興は何と答えた?」
「そこまでは分かっておりませぬ。ただ、稲葉山から遣わされた使者が返事を得られず、数日留まったという話は聞いております」
「そうか。ほかの家はどうだ?」
「稲葉山への軍役に応じた者もおります。ですが、以前より兵を減らした家や、出立を遅らせている家もあるようでございます。いずれも理由は異なりますが、今は自領の守りを優先したいと考える者が増えているように見受けられます」
俺は書付に記された地名を確かめた。
同じ一色家に従う国人でも、木曽川に近い者と稲葉山の東方に領地を持つ者とでは事情が違う。織田を警戒する家もあれば、六角の進軍に備えて兵を残そうとする家もあるらしい。篠たちが広めた話を聞いて龍興を疑い始めた者もいるのだろうが、すべてがこちらの策によるものとも思えなかった。
「弥七。関方面の動きはどうなっている?」
「長井道利の下では、今のところ大きな軍勢の動きは確認されておりませぬ。ただ、稲葉山からの使者は何度か訪れているようにございます」
「道利はまだ龍興に従っているのだな」
「そのように聞いております。少なくとも、六角へ帰属を申し出たという話はございませぬ」
長井道利が健在である以上、東方の諸将がすべて龍興から離れたわけではない。芥見や関の周辺には山も多く、土地を知る者が守りを固めれば容易には進めないだろう。こちらが西美濃を得たからといって、そのまま東へ軍勢を進められるものでもなかった。
「篠には引き続き東方の様子を調べるよう伝えてくれ。ただし、これ以上無理に噂を広める必要はない。今は龍興がどれほど兵を集められているのかを知りたい」
「承知いたしました。宗兵衛にもそのように伝えます」
「頼む。それと、織田との国境についても調べを続けてくれ。こちらは当初の予定どおり兵を帰すつもりだが、信長が大軍を動かすのであれば話が変わってくる」
弥七は一礼して下がった。
報告を見る限り、東方の諸将から稲葉山へ集まる兵は減っているようだった。ただ、龍興には直属の兵も残されているだろうし、長井道利をはじめとして従っている者もいる。城へ籠もって守りを固めるだけなら、まだ相応の兵を集められるはずだった。
俺は東方の報告を脇へ置き、近江へ帰還させる兵についての帳面を取り寄せた。
そこへ下野守が陣所から戻ってきた。
「右衛門督様。帰還させる兵について、各隊との調整がおおむね整いました。最初に帰す者たちは、支度が済み次第出立できる見込みにございます」
「助かった。大垣の守りはどうなっている?」
「氏家殿には引き続き城内を任せております。六角の兵についても駐留する場所が定まりました。安藤殿と稲葉殿の方は、稲葉山からの攻撃に備えて警固を強めておられます」
「ならば、まず帰還を急ぐ者から近江へ戻そう。稲葉山へ攻め掛かるために兵を集めたのに、結局その城を残して帰ることになるとはな」
「西美濃を得られたのです。十分な成果にございましょう」
「それは分かっているんだが……目の前にある城を残すというのは、どうにも落ち着かんな」
俺が苦笑すると、下野守も僅かに笑みを浮かべた。
「お気持ちは分かりまする。ですが、稲葉山城は逃げませぬ。今は近江の収穫を優先する方がよろしいかと存じます」
「そうだな。城に逃げられる心配はないか」
確かに、稲葉山城がどこかへ行ってしまうわけではない。今は収穫を優先し、その間に龍興の動きを確かめればよいだろう。
俺は帰還させる兵の出立を認め、残る軍勢には引き続き西美濃の守りを固めるよう命じた。父上へも現在の状況を報告し、稲葉山城については秋の収穫を終えてから攻略を再検討する方針を伝えることにした。
その時点では、数日後に下野守の言葉を思い返すことになろうとは考えてもいなかった。
*
それから三日後の昼過ぎ、俺は大垣城で帰還する兵の出立について最終的な確認をしていた。
既に最初の兵は近江へ向かっており、残る隊についても順に動かす予定となっている。城外では荷駄の整理が進み、これまで兵が集まっていた場所にも少しずつ空きができ始めていた。
大垣城内では氏家家中が普段どおりの警固を続けている。安藤と稲葉からも目立った異変は報告されておらず、このまま収穫を迎えられるのであれば何よりだった。
そこへ篠が戻ってきた。
「若様。稲葉山城について、急ぎお伝えしたいことがございます」
「何だ。龍興が兵を動かしたのか?」
「いえ。一色龍興が稲葉山城を退去したとの知らせにございます」
「……はぁ? 今、なんと申した?」
思わず妙な声が出た。
篠は一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに報告を続けた。
「龍興が主だった家臣と兵の一部を率い、稲葉山城から東へ向かったとのことでございます」
「……いや、ちょっと待て。龍興が? 稲葉山城を? 自分から出ていったというのか?」
「はい。詳しい事情はまだ分かっておりませぬが、城内から相応の人数が出立したことは確かめられております」
俺は篠の顔を見たまま、しばらく言葉が出なかった。
稲葉山城を孤立させるため、東方の国人たちへ不安を広めるよう命じたのは確かだ。援軍が集まりにくくなれば、次に攻略する際には有利になると考えていた。
だが、城主本人が城を捨てるとは聞いていない。
「篠。本当に龍興なのか? 使者や一部の兵が出ただけということはないのか」
「城内に通じる者からの知らせでは、龍興自身が退去したとのことでございます。別の経路でも確かめさせておりますが、そちらからも城を出て東へ向かう軍勢があったと報告されております」
「行き先は?」
「関方面へ向かったという話がございます。長井道利を頼った可能性も考えられますが、今のところ確かな行き先までは掴めておりませぬ」
関方面か。
東方にはまだ龍興へ従う者たちが残っている。長井道利が受け入れるのであれば、そこへ退くこともできるだろう。
しかし、だからといって稲葉山城を放棄する理由になるのか。
西美濃の諸将が離反し、東方からの援軍が集まりにくくなっていることは承知している。織田との小競り合いによって木曽川沿いも落ち着かない。それでも稲葉山城は容易に落とせる城ではないし、こちらは既に兵を帰し始めているのだ。
もっとも、龍興がこちらの撤兵についてどこまで知っていたのかは分からない。大垣周辺の兵が減り始めていることは物見を出せば確かめられるだろうが、収穫が終わるまで攻撃を見送るという方針までは知らないはずだ。
こちらが広めた噂によって、龍興の周囲でも何か問題が起きたのだろうか。
いや、今はそんなことを考えていても仕方がない。
「……下野守を呼んでくれ。山城守にも知らせたい」
「かしこまりました」
篠が下がろうとしたところで、もう一度声を掛けた。
「それと、稲葉山城にどれほど兵が残っているかも確かめてほしい。龍興が出たとしても、城そのものを放棄したとは限らん。守備兵を残している可能性もある」
「はい。既に調べを進めております」
篠が下がると、俺は手元にあった帰還予定の帳面を閉じた。
つい先ほどまで、どの隊を先に帰すかで頭を悩ませていたというのに、今度は稲葉山城の様子を確かめなければならなくなった。龍興が本当に城を去ったのであれば、戦わずに攻略できる機会が生まれたことになる。
だが、話が急すぎる。
城内に兵を残しているかもしれないし、龍興が東方で軍勢を集め直している可能性もある。退去したという知らせだけを信じて城へ近付き、待ち構えていた一色方に攻撃されるようでは笑い話にもならなかった。
程なくして下野守と山城守がやってきた。
「右衛門督様。稲葉山城に異変があったと伺いましたが」
「ああ。どうやら龍興が城を出たらしい」
「……龍興が、でございますか?」
下野守が珍しく聞き返した。
その反応を見て、少し安心してしまった。どうやら驚いているのは俺だけではないらしい。
「篠からの報告だ。龍興が家臣と兵の一部を率いて東へ向かったという。関方面へ退いた可能性があるそうだが、まだ確かなことは分からん」
「龍興が退いたのであれば、城内の守備兵も動揺しておりましょう。ただ、まだ城が開かれたわけではございませぬな」
「そのとおりだ。龍興が残した兵が守りを続けている可能性もある。城を空にしたと決め付けるわけにはいかん」
山城守は報告を確かめると、稲葉山城の周辺へ物見を増やすことを申し出た。先行する者には無理に城へ近付かせず、門や周辺の警固について調べさせるという。
「まずは城の周辺を調べよう。門がどうなっているか、兵がどれほど残っているかを確かめたい。大軍を動かすのは、その後だ」
「御意。先行させる者たちには、城へ無理に近付かぬよう命じておきます」
「安藤殿と稲葉殿にも知らせを送ってくれ。両家の領内から稲葉山の動きが見えているかもしれん。特に北方の安藤殿には、城から出た兵がどちらへ向かったか確かめてもらいたい」
下野守は了承し、使者の手配を進めるため席を立った。
俺は山城守と共に、稲葉山へ向かわせる者たちの道筋を確かめた。北方から近付く者と大垣から進む者が同じ場所へ集まれば、こちらの動きを悟られる恐れもある。城の近くまで進む物見については、それぞれ異なる場所から様子を探らせることにした。
その日の夕刻には、安藤殿からも知らせが届いた。
北方城の周辺で、稲葉山方面から東へ向かう者たちが確認されている。その中には一色家の家臣と見られる武士もいたという。また、稲葉山城へ向かっていた商人たちの話では、城内から人や荷が出ていく様子も見られたらしい。
ただし、安藤殿も龍興本人の所在までは確かめられていなかった。
篠が掴んだ話とも一致しているが、それだけで城内の守りまで分かるわけではない。俺は安藤殿へ礼を伝えるとともに、引き続き稲葉山方面の様子を知らせてもらうよう使者に命じた。
「右衛門督様。近江へ帰す兵についてはいかがいたしましょう」
下野守に尋ねられ、俺は手元の帳面を取り寄せた。
既に出立した兵を呼び戻すつもりはない。近江では収穫の支度が進んでおり、ようやく帰還の手筈を整えたところだ。だが、今残っている兵まで予定どおり帰してしまえば、稲葉山城の様子が分かった時に動ける人数が足りなくなるかもしれなかった。
「既に出立した兵は、そのまま近江へ帰してくれ。残る兵については、稲葉山城の様子が分かるまで帰還を少し待ってもらいたい。ただし、収穫への影響が大きい者まで長く留めるつもりはない。数日のうちに判断できるよう、物見を急がせよう」
「承知いたしました」
「それと、父上へも知らせを送る。龍興が稲葉山城を退いた可能性があることと、城の様子を確かめていることを伝えてくれ。まだ城を得たと報告するわけにはいかんからな」
「御意」
下野守が下がると、俺は山城守を呼び戻して先行する物見の人数と道筋を最終的に確かめた。
氏家家中からも案内の者を出してもらい、大垣から稲葉山へ向かう道に一色方の兵が残っていないか調べさせることにした。敵を見付けても無理に戦わず、その人数と配置を知らせるよう命じてある。城内の様子が分かるまでは、大勢の兵を動かす必要もないだろう。
翌朝、先行する物見と護衛の兵が大垣を出立した。
山城守にはその指揮を任せ、途中で得られた情報を随時知らせるよう命じてある。篠たちも別の経路から城内の様子を探っており、安藤殿からも引き続き報告を受けることになっていた。
俺は城門を出ていく兵たちを見送りながら、昨日閉じたままになっていた帰還予定の帳面のことを思い出した。
つい先日まで稲葉山城をどう攻めるかで頭を悩ませ、収穫の時期が迫ったことで撤兵を決めたばかりである。それなのに、今度は龍興自身が城を去ったかもしれないという。
下野守は稲葉山城が逃げることはないと言っていたが、まさか城主の方が先に逃げるとは思わなかった。
もっとも、これで城を得られると決まったわけではない。龍興が残した兵の様子によっては、城を巡る交渉や戦が必要になることもあるだろう。
物見の一行が街道の先へ姿を消すと、俺は城内へ戻った。大垣に残す兵の配置を改めて確かめるため、氏家殿にも来てもらうことになっている。山城守から知らせが届けば、すぐに次の手を決められるようにしておきたかった。
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