永禄五年八月下旬、尾張国清須城。
稲葉山城が六角の手に渡った。
その知らせが清須城へ届いた時、織田信長は差し出された書状を二度読み返した。最初は何かの間違いかと思ったが、改めて読んでも内容は変わらない。一色龍興は主だった家臣と兵を率いて稲葉山城を退去し、関方面へ向かったという。城内に残された守備兵は六角軍との交渉に応じ、城門を開いたらしい。
大垣城が六角へ帰属したことは既に聞いていた。氏家直元に続いて安藤守就と稲葉良通まで六角へ従う意思を示したことも掴んでいる。西美濃の情勢が一色家にとって厳しくなっているのは間違いなかったが、それでも龍興が稲葉山城を捨てるとは考えていなかった。
斎藤道三が美濃を治めていた頃から、稲葉山城は国の要として用いられてきた。守りを固めれば大軍を相手にしても容易には落ちない。龍興が城に籠もるのであれば、六角も攻略には相応の兵と時間を費やすはずだった。
「……何を考えておるのだ、龍興は」
信長は書状を畳み、近くに控えていた森三左衛門可成へ目を向けた。
「この知らせは確かなのか」
「はっ。木曽川沿いを調べていた者からの報告にございます。稲葉山城へ出入りしていた商人からも同様の話を聞いており、六角の旗が城に掲げられたことも確認されております」
「龍興は関へ逃げたというが、その後の行方は?」
「長井道利を頼ったのではないかとの話がございます。ただし、実際に道利の下へ入ったかどうかまでは分かっておりませぬ」
信長は頷き、書状を机へ戻した。
長井道利が龍興を受け入れたのであれば、一色家が滅んだわけではない。東美濃には今も龍興に従う者たちが残っている。しかし国の中心となる城を失ったとなれば、これまで稲葉山を頼りにしていた国人たちも考えを改めるだろう。
信長にとって気掛かりなのは、龍興の行く末ばかりではなかった。
美濃を取るつもりでいたのはこちらも同じである。尾張の北に位置する美濃は東国や畿内へ通じる道を押さえるうえでも重要な土地だった。さらに正室である帰蝶の故郷であり、亡き斎藤道三との縁もある。いずれ軍勢を進めるための支度を整えてきたが、その間に六角が西から勢力を広げ、ついには稲葉山城まで手に入れてしまった。
関ヶ原では日根野備中守を破ったと聞く。しかし大垣と稲葉山については、大きな戦を行わずに得たらしい。これでは六角の損害も当初考えていたほど多くないだろう。
「若い右衛門督が随分と働いたものだな」
信長がそう呟くと、可成は少し考えてから答えた。
「六角右衛門督は氏家直元との交渉にも自ら臨んだと聞いております。西美濃の諸将が帰属を申し出たのも、その処遇を見てのことかもしれませぬ」
「氏家を味方に付けたことで安藤と稲葉まで動いたか。そこまでは分かる。だが、稲葉山城まで手に入れるとはな」
信長は書状に記された龍興の退去について、改めて目を通した。
西美濃の諸将が離反し、稲葉山から援軍を求めても応じる者が減ったという。さらに木曽川沿いで織田と一色の兵が争ったことで、東方の国人たちも自領の守りを優先するようになったらしい。
先日の小競り合いについては、信長自身も報告を受けている。川沿いを調べていた者が一色方の兵と争いになったもので、美濃へ軍勢を進める命令を下したわけではなかった。織田と一色の間では今年の二月に和議を結んでおり、今すぐそれを破るつもりもない。
それでも美濃の国人たちが織田を警戒し、稲葉山への軍役を渋ったのであれば、龍興にとっては厄介だったはずだ。六角が西から迫っているところへ、南からも敵が来るかもしれないと考えれば、手元に兵を残そうとする者が出てもおかしくない。
信長は苦い顔で書状を閉じた。
こちらは大軍を動かしてもいないのに、その間に六角が稲葉山城を得てしまった。もちろん六角自身の働きがあったからこその結果だろうが、それでも面白い話ではなかった。
「長秀と勝家を呼べ。今後のことを考えねばならん」
可成が一礼して下がると、信長は席を立って庭へ目を向けた。
尾張にも片付けなければならない問題が残っている。特に犬山の織田信清については、これ以上放置できない。かつて岩倉城を攻める際には力を合わせた相手だが、今では安心して背後を任せられる関係ではなくなっていた。
犬山の問題を抱えたまま大軍を美濃へ向ければ、その間に信清が動くことも考えられる。だからこそ、これまでは犬山への対応を優先してきたのだが、その間に龍興が稲葉山城を失うとは思わなかった。
しかも今後は六角と向き合うことになるかもしれない。
一色龍興と争うのと、近江を本拠とする六角家を相手にするのとでは事情が違う。六角は畿内にも深く関わり、長年仕えてきた家臣たちを抱える大名である。右衛門督の働きが目立っているとはいえ、その背後には六角義賢が控えていた。
やがて丹羽五郎左衛門長秀と柴田権六勝家が到着した。
信長は二人へ稲葉山城の知らせを伝え、使者が持ち帰った書状を見せた。勝家は最初こそ驚いた様子だったが、読み終えると険しい顔になった。
「稲葉山城まで六角に渡ったとなれば、我らが美濃へ進むことも難しくなりましょう」
「そうだな。だからといって、今すぐ六角と戦うつもりはない」
「しかし、このままでは東美濃まで六角に取られかねませぬ」
勝家の懸念は信長にも分かっていた。六角が龍興を追って東へ進めば、いずれ木曽川沿いにもその勢力が及ぶだろう。織田が美濃へ進もうとする時には、六角の城や兵と向き合わねばならなくなる。
信長は可成へ顔を向けた。
「六角は収穫を前にして、兵を近江へ帰し始めていたはずだな」
「はっ。大垣周辺から西へ向かう兵を見たとの報告がございます」
「右衛門督は稲葉山城を攻めるつもりがなかったのではないか」
長秀が書状を置き、口を開いた。
「その可能性はございましょう。近江の収穫を優先して兵を帰そうとしていたのであれば、稲葉山城の開城は六角にとっても思わぬ出来事だったのかもしれませぬ」
「そうなると、東美濃へ兵を進めるだけの用意はないか」
「少なくとも、すぐに大軍を動かすのは難しいかと存じます。ただし、稲葉山城を得たことで方針を改めることも考えられます」
長秀はそこで少し間を置いた。
「問題は、六角が今後どこまで美濃を求めるかにございましょう」
信長は黙って絵図を広げた。
稲葉山城から東へ向かえば、関や加茂方面にはなお龍興を支える者たちがいる。六角が当面は新たに得た土地の守りを固めるつもりなら、織田にも動く余地は残る。しかし稲葉山を得た勢いのまま東へ進むとなれば、こちらも犬山のことばかり考えてはいられない。
「長秀。稲葉山城へ行ってもらいたい」
「六角への使者にございますか」
「ああ。右衛門督に会い、今後の考えを探ってこい。まずは稲葉山城を得たことへの祝意を伝える。木曽川での争いについても、こちらが戦を望んでいないことを知らせておけ」
「承知いたしました」
「そのうえで東美濃をどうするつもりなのか聞いてこい。織田の兵が木曽川を越えた時、六角がどう動くのかも気になる」
勝家が口を開いた。
「六角に東美濃への不干渉を認めさせるのでございますか」
「認めさせられるなら、それに越したことはない。だが、簡単に応じるとは思えん」
信長は長秀を見た。
「右衛門督が何を求め、何を守ろうとしているのかを知りたい。言葉だけでなく、実際に会って確かめてこい」
「かしこまりました。ただ、右衛門督もこちらの意図を察するものと思われます」
「それでよい。察したうえでどう答えるかを見たいのだ」
長秀は静かに頷いた。
信長は使者に持たせる書状について指示を出し、木曽川沿いでの無用な衝突を避けることや商人の往来を妨げないことについても話し合うよう命じた。東美濃の扱いについて合意できれば望ましいが、相手の考えも分からぬうちから結論を急ぐ必要はなかった。
長秀たちが退出した後、信長は犬山方面の報告を取り寄せた。
美濃へ進むことを考えるなら、信清との争いをいつまでも残してはおけない。使者を遣わした相手からはまだ返答が揃っておらず、周辺の国人たちがどう動くかも見極める必要があった。
信長は届いていた書付を広げ、五郎左衛門が挙げていた名前を改めて確かめた。六角の使者が戻るまでにも、尾張で進めておくべき仕事は残っていた。
*
美濃国稲葉山城。
龍興が稲葉山城を退去したとの知らせを受け、俺は山城守に先行してもらい、城内の様子を調べさせた。
守備兵は残されていたものの、主だった家臣の一部は龍興に従って東へ退いたらしい。山城守が交渉を申し入れた際にも、残された守備役は龍興から城を守るよう命じられていることを理由に、なかなか城門を開こうとしなかったという。
それでも、城内へ援軍が届く見通しは立たず、北方や曽根まで六角へ帰属している。山城守が城兵の命を保証し、降伏した者を一律に処罰しないことを伝えると、ようやく交渉が進み始めた。
武具や兵糧の引き渡しについても取り決めがなされ、最終的に守備役は城門を開くことに同意した。
こうして稲葉山城は六角の手に渡った。
……本当に手に入ってしまった。
城門を潜り、山城守の案内で中へ進んだ時には、そんなことを考えてしまった。あれほど攻略に頭を悩ませていた城である。正面から攻めれば相応の犠牲が出ると考え、一度は近江へ兵を帰すことまで決めていた。それが龍興の退去によって、ほとんど戦わずに得られたのだから驚くほかなかった。
もっとも、城内の様子を見れば喜んでばかりもいられない。
武具を預けた守備兵たちは、城の一角へ集められていた。家族と離れていた者も多いらしく、城下にいる妻子の安否を確かめたいと申し出る者が何人もいた。山城守には所属と人数を記録させ、今後の処遇が決まるまでは勝手に城外へ出ないよう命じたが、家族との連絡まで妨げるつもりはなかった。
兵糧や武具の数を調べる一方で、城門や曲輪の守りも改めて整える必要がある。龍興が東へ退いたとはいえ、そのまま諦めたとは限らない。関方面には長井道利をはじめ一色家へ従う者たちが残っており、兵を集め直して戻ってくる可能性もあった。
城下については、まず従来の往来を続けられるようにした。領主が替わったからといって商人や町の者たちが一斉に逃げ出しては困る。税や諸役についても実情を確かめるまでは大きく変えない方針とし、必要なことは旧来の役人たちから聞き取ることにした。
ただ、城を得たばかりの今は何をするにも人手が足りない。周辺の村々や寺社との取り決めについても、帳面を集めて一つずつ確認する必要があった。龍興の下で働いていた者たちをすべて排除してしまえば、かえって仕事が進まなくなるだろう。
問題は、これらの仕事を誰に任せるかだった。
俺が稲葉山城に残れば当面の指揮は執れる。しかし、既に近江では収穫の支度が進んでいる。美濃へ留めておく兵も減らさなければならず、いつまでもここに居座るわけにはいかなかった。
そこで山城守に稲葉山城を預けることにした。
「山城守。しばらくはこの城を任せたい。城内の守りと周辺の国人への対応を頼む」
「御意。ただ、龍興が東に残っている以上、稲葉山城へ兵を差し向けてくることも考えられます」
「その時は無理に城外へ出る必要はない。まずは城を守り、こちらへ知らせを寄越してくれ。安藤殿や稲葉殿とも連絡を取れるようにしておきたい」
「承知いたしました」
「それと、旧来の家臣たちを一度に入れ替えるようなことは避けてほしい。信用できるかどうかは見極める必要があるが、城のことを知る者まで失っては困る」
山城守は頷いた。
城門や曲輪の位置は見れば分かるとしても、城内に蓄えられた兵糧の扱いや、城下から届けられていた物資については、従来の役人でなければ分からないことも多い。もちろん重要な場所へ無条件に出入りさせるわけにはいかないが、今の段階で彼らを遠ざける理由もなかった。
「城兵の処遇については父上の裁可を仰ぐ。それまでは乱暴な扱いをせぬようにしてくれ。城を開いた者たちが、降伏したことを後悔するようでは困る」
「心得ましてございます」
山城守との話を終えた後も、しばらくは城内の様子を確かめて回った。兵糧の倉については帳面と実際の蓄えを照らし合わせる必要があり、城内で働いていた者たちからも話を聞くことになった。
大垣からの補給を続ければ当面は兵を養えるものの、近江から運ぶだけでは負担が大きい。西美濃で得られる米の量もまだ十分に確かめられていなかった。今は戦を終えたばかりであり、すぐに年貢を集められる状況でもないだろう。
そうした仕事を山城守へ任せる手筈を整えていると、織田家から使者が訪れるとの知らせが届いた。
使者の名は丹羽長秀。
「丹羽長秀が来るのか?」
「はっ。織田上総介信長殿からの使者として参られるとのことでございます」
「……随分と大物を寄越してきたな」
思わずそう零してしまった。
前世の知識がある俺にとって、丹羽長秀は決して聞き慣れない名前ではない。信長を支えた重臣の一人であり、後に織田家の中でも大きな役目を担うことになる武将だ。
その長秀を稲葉山城まで遣わすのだから、信長もこちらの動きを気にしているのだろう。
稲葉山城を得たことで、織田が美濃へ進もうとする際には六角の意向を無視できなくなった。信長にしてみれば、こちらがどこまで東へ進むつもりなのか知っておきたいはずだ。
もちろん、俺も織田と争うつもりはない。
近江から美濃へ兵を進めるだけでも苦労したというのに、尾張まで敵に回す余裕などなかった。しかし、それを理由に東美濃へ手を出さないと約束するつもりもない。龍興が東方へ退いた今、今後の美濃がどのようになるかはまだ分からないのだから。
俺は使者を迎えるための支度を命じた。
織田が何を求めてくるのかは、実際に会ってから確かめればよい。こちらの考えを尋ねられたとしても、答えられることと答えられないことはある。
前世で教師をしていた頃、保護者との面談で相手の話を聞く前に結論を伝え、余計に話がこじれたことがあった。何に困っているのかを確かめてみれば、こちらが考えていたこととは随分と違う場合もある。そうした経験から、相手が何を求めているのか分からないうちは、迂闊に答えを出さないようになった。
もっとも、今度の相手は保護者でも上役でもない。信長が遣わしてきた重臣である。こちらの言葉をただ聞いて帰るだけとは思えなかった。
その二日後、丹羽長秀が稲葉山城へ到着した。
俺は城内の一室で長秀を迎えた。年齢はまだ若いが、その立ち居振る舞いには落ち着きがある。案内に従って席へ着くまで、周囲を必要以上に見回すこともなかった。
「このたびは稲葉山城をお得になられたとのこと、織田上総介信長が祝意を申し上げます」
「わざわざ清須から御足労いただき、痛み入る。織田殿にも礼を伝えてもらいたい」
挨拶を済ませると、長秀は稲葉山城の開城について幾つか尋ねてきた。
龍興が東へ退き、残された守備兵との交渉によって城門が開かれたことを伝えると、長秀は時折頷きながら話を聞いていた。こちらから詳しく話さなかった部分については無理に尋ねず、城内の守りが落ち着いていることを確かめると、別の話題へ移った。
「先日の木曽川での争いにつきましては、我が主も遺憾に思っております。織田家として一色家との和議を破る意図はなく、今後も無用な争いは避けたいと考えております」
「それは何よりだ。六角としても織田殿と争う理由はない。木曽川沿いが騒がしくなれば、商人たちの往来にも差し障りが出よう」
「仰せのとおりにございます。両家が争いを避けられるのであれば、我が主も喜びましょう」
ここまでは互いに異論のない話だった。
長秀も織田が今すぐ六角と争うつもりはないと伝えている。こちらとしても木曽川沿いの往来を妨げる理由はなく、商人や旅人が安心して行き来できる方がありがたい。
しばらくは渡し場の警固や商人の通行について話を交わした。長秀は織田側で確認できた事情を伝え、こちらが尋ねたことにも慎重に答えていた。必要なことは話すものの、信長の考えについては簡単に口にしない。
なるほど。そういう相手か。
俺が思っていたよりも、話は穏やかに進んでいた。
やがて長秀は、稲葉山城の東側について尋ねてきた。
「ところで右衛門督様。龍興は関方面へ退いたと伺っておりますが、今後はどのようになさるお考えでしょうか」
やはり来たか。
長秀は先ほどと変わらぬ様子でこちらを見ている。木曽川のことについては詳しく話していたが、今後の美濃についてはまだ何も口にしていなかった。
俺はすぐには答えず、傍らに置かれた茶へ手を伸ばした。
織田が東美濃へ進むつもりなら、六角がどこまで兵を動かすかは気になるはずだ。しかし、こちらとしても信長の考えを知らないまま約束をするわけにはいかない。
茶碗を置き、長秀へ顔を向けた。
「その前に一つ聞きたい。織田殿は今後の美濃を、どのようにお考えなのだろうか」
長秀はすぐには答えなかった。
先ほどまで迷いなく言葉を返していた男が、今度は僅かに間を置いた。何かを考えているようだったが、表情からはそれ以上読み取れない。
俺はそのまま返答を待った。
長秀がどのような言葉を選ぶのか、まずは聞かせてもらいたかった。
*
永禄五年九月初旬、近江国観音寺城。
右衛門督様が美濃より御帰還なされた。
その報せを受けた時は、まず御無事であったことに安堵した。不破を押さえ、大垣城を得たばかりか、安藤守就と稲葉良通まで六角へ帰属を申し出たという。さらに稲葉山城も手に入り、此度の遠征は当初の見込みを大きく上回る成果となった。
もっとも、稲葉山城の東には一色龍興が残っている。西美濃の諸将も帰属したばかりであり、所領や軍役についてはこれから話を詰めていかねばならぬ。城を得たという知らせは喜ばしいが、その後の手配についてはまだ気を抜けなかった。
儂は御屋形様の御前に控え、右衛門督様が遠征の経緯を報告されるのを聞いていた。
「稲葉山城については山城守に預けております。龍興が退去した後も城内には守備兵が残されておりましたが、山城守が交渉を進めたことで開城に至りました。現在は城内の警固を整え、周辺の国人たちの動きを調べさせております」
「山城守に任せたか。あの者ならば城の守りについては心得ておろう。しかし、東には龍興が残っている。稲葉山城を得たからといって安心はできんな」
「はい。関方面には長井道利をはじめ一色家に従う者たちが残っております。龍興が再び兵を集める可能性もございますので、安藤殿や稲葉殿にも協力を求めております」
右衛門督様は持参した帳面を広げ、稲葉山城に残した兵の配置を示された。山城守には城内の警固を任せ、氏家直元には大垣を中心とした守りを続けてもらうという。北方城と曽根城についても従来の家中を残し、異変があれば互いに知らせを届けられるよう手配してあるらしい。
儂は帳面に記された人数を確かめ、稲葉山城と北方の位置を思い浮かべた。
「右衛門督様。美濃に残した兵だけで東からの攻撃を防げるとお考えでしょうか」
右衛門督様は少し考えてから答えられた。
「攻め寄せる兵の数によるでしょう。龍興が大軍を集めれば、今の兵だけで対処することは難しいと思います。ただ、稲葉山城は守りに優れた城です。山城守には無理に城外へ出ず、守りを固めるよう命じております」
「なるほど。城外で戦うよりも、まずは城を守り切ることを優先されるのですな」
「はい。それに龍興が兵を集めれば、こちらにも知らせが届くはずです。早い段階で動きを掴めれば、近江から兵を送ることも考えられます」
儂は頷いた。
もちろん東美濃の動きをすべて把握できるわけではない。龍興がこちらの予想を超える早さで兵を動かすこともあるだろう。それでも、右衛門督様は稲葉山城の堅固さを利用し、無理な追撃を避けることにされたらしい。
御屋形様も同じところを気に掛けておられたようで、今後の補給について詳しく尋ねられた。
「美濃に残す兵の兵糧はどうする。近江から運び続けるつもりではあるまいな」
「当面は大垣と稲葉山に残された蓄えを用い、不足する分を近江から送ることになります。ただ、現地で得られる米についてはまだ確かな数字が揃っておりません。氏家殿や旧来の役人たちにも協力してもらい、帳面を調べさせております」
「北方や曽根の分まで、一度に賄えるわけではなかろう」
「はい。安藤殿と稲葉殿には従来の家中を保っていただき、それぞれの守りを続けてもらいます。六角からも必要な支援を行いますが、現地の兵糧を無理に取り上げるつもりはありません」
御屋形様は右衛門督様の説明を聞きながら、帳面へ目を落とされた。
「近江へ帰した兵は、どれほどになる」
「収穫のため早く帰る必要がある者から、各隊と相談して順に帰還させております。稲葉山城を得たことで一部の兵は予定より長く留めることになりましたが、必要以上に軍勢を残すつもりはありません」
「稲葉山城を得たばかりだというのに、随分と思い切ったものだな」
御屋形様がそう仰せになると、右衛門督様は苦笑された。
「できることなら兵を残したかったのですが、近江の収穫を犠牲にするわけにもまいりません。稲葉山城を得ても、米がなければ兵を養えませんから」
「そのとおりだ。戦に勝って領内を疲弊させては何にもならん。よく考えた」
御屋形様は満足そうに頷かれた。
儂も此度の帰還については異論がなかった。むしろ、稲葉山城を得たことで兵を留め続けるのではないかと案じていたほどである。城を守るためには一定の兵が必要だが、収穫の人手まで失えば近江の村々にも影響が出る。幸い氏家らの協力を得られるようになったことで、西美濃へ残す兵も当初の見込みより少なく済んだらしい。
ただ、帰属したばかりの諸将へ頼りすぎるわけにもいかない。氏家、安藤、稲葉の三家がこれまでどのように兵を動かしてきたのか、六角の下でも同じように働けるのかは今後確かめる必要がある。儂がその点について尋ねると、右衛門督様は山城守から定期的に報告を届けさせ、軍役についても父上の裁可を得ながら取り決めていくと答えられた。
その後も幾つかの帳面を確かめ、守りを預けた者たちの名前について確認した。御屋形様も細かな点まで尋ねられたが、右衛門督様はその都度手元の書付を開き、必要なことを報告されていた。
やがて話が一段落すると、御屋形様が織田家からの使者について尋ねられた。
「丹羽長秀が稲葉山城へ来たそうだな。何を話した?」
「木曽川沿いでの争いを避けることと、商人の往来について話を進めました。織田殿としては東美濃へ六角が兵を進めることを警戒しているように見受けられましたが、その点については何ら約束しておりません」
「東美濃への不干渉を求めてきたか」
「直接そのように申し出られたわけではございません。ただ、今後兵を進めるつもりがあるのか、何度か尋ねられました」
「それで、何と答えた?」
「近江の収穫を控えているため当面は大軍を動かすつもりがないことを伝えました。ただし、将来についてまで約束することはできないと申し上げております」
御屋形様はそれを聞いて笑われた。
「なるほど。織田が欲しがる言葉は与えなかったわけだな」
「はい。代わりに木曽川沿いの警固や商人の通行について話をまとめました。織田殿としても国境での争いを避けられるのであれば、不利益にはならないかと」
「丹羽長秀も簡単には引かなかったであろう」
「なかなか難しい相手でした。こちらが答えを避けると、別の尋ね方をしてきますので」
右衛門督様はそう仰せになり、少し困ったように笑われた。
儂には会談でどのようなやり取りがあったのかまでは分からぬ。ただ、織田の求めに応じて東美濃から手を引くような約束をせず、国境での争いを避ける話だけはまとめてこられたという。
今後、六角と織田の間で美濃を巡る問題が生じるかもしれない。それでも互いに兵を動かす前から敵対を深める必要はなかろう。右衛門督様もそのことを考えて長秀との会談に臨まれたようだった。
「右衛門督。此度の遠征ではよく働いた」
御屋形様がそう仰せになると、右衛門督様は姿勢を正された。
「ありがとうございます」
「美濃については、しばらく山城守たちに任せておけ。帰属した国人の扱いや城の守りについては、届く報告を見ながら儂らも考える。そなたはひとまず近江で体を休めるがよい」
「はい。ただ、美濃のことはまだ決めなければならないことも多く……」
「それを一人で抱え込む必要はないと言っておるのだ」
御屋形様の言葉に、右衛門督様は一瞬だけ返答に困ったようだった。
「……心得ました」
ようやくそう答えられると、御屋形様は満足そうに頷かれた。
儂も思わず笑みを浮かべそうになったが、どうにか表情を整えた。
右衛門督様は幼い頃から、気になることがあれば自ら確かめようとされる方だった。此度の遠征でも山城守や下野守へ仕事を任せておられたようだが、報告を聞く限り、まだ気に掛かることが山ほどあるのだろう。
それでも、ここは観音寺城である。美濃のことは現地に残した者たちが進め、近江では御屋形様と重臣たちが報告を受ける。右衛門督様が休んだからといって、直ちに仕事が滞るわけではなかった。
やがて報告が終わり、右衛門督様は御前を退出された。
儂も幾つかの用向きを済ませてから下がろうとしたところ、御屋形様から声を掛けられた。
「加賀守。右衛門督をどう見た?」
「どう、と申されますと?」
「此度の遠征を終えて戻った右衛門督のことだ。以前と比べて何か変わったと思わぬか」
儂は少し考えた。
右衛門督様が幼い頃から物事をよく考えられる方だったことは知っている。分からないことがあれば納得するまで尋ねられ、時には我らの方が答えに窮することもあった。だが、実際に軍勢を率い、多くの家臣や領民の働きを預かるとなれば、それだけでは済まない。
此度の遠征では、戦で得たものだけでなく、兵を帰した後の守りについても詳しく報告されていた。そこには右衛門督様御自身の考えだけでなく、山城守や下野守たちと相談した内容も含まれている。
「以前よりも、周囲の者たちの働きをよく見られるようになったと存じます」
「ほう」
「大垣城を得たことも稲葉山城を開かせたことも、御自身の手柄として語られることはございませんでした。山城守や下野守の働き、氏家直元らが協力したことについても詳しく報告されております。何より、収穫を控えた近江のことを忘れておられなかったことが嬉しゅうございました」
御屋形様は黙って聞いておられた。
「まだ経験を積まねばならぬことも多うございます。しかし、此度は右衛門督様御自身が周囲の者たちへ役目を振り、それぞれの報告を受けて判断されております。以前よりも、安心して仕事をお任せできるようになったと感じました」
「……そうか」
御屋形様は静かに頷かれた。
「加賀守がそこまで言うのであれば、儂も少し安心できるな」
「まだ安心するには早うございますぞ。此度の遠征で得た土地をどう治めるかは、これからの働きに掛かっております」
「分かっておる。相変わらず厳しいことを言う」
「御屋形様に申し上げることではないやもしれませぬが、喜ぶことと油断することは別にございますゆえ」
そう答えると、御屋形様は声を上げて笑われた。
儂もようやく表情を緩めた。
西美濃で得た土地を今後どのように治めるかについては、御屋形様も既に考え始めておられるようだった。現地から届く帳面を調べる者や、所領の扱いを確かめる役目についても話が出ている。これから先は右衛門督様だけでなく、我らが進めなければならぬ仕事も増えるだろう。
御前を退出すると、廊下の先に見慣れた姿があった。
嫡男の弥太郎である。
美濃から戻ったばかりだというのに、何やら書状を抱えて歩いていた。儂に気付くと足を止め、丁寧に頭を下げる。
「父上。お呼びでございましたか」
「いや、特に用があったわけではない。右衛門督様の報告を聞いておったところだ。それより弥太郎、そなたは休んでおらぬのか」
「先ほど少し休みました。今は美濃から届いた書状を届けるところにございます」
「帰ってきたばかりだというのに、もう仕事か」
「右衛門督様もお戻りになった早々から、美濃のことを気に掛けておられますので」
儂は思わず苦笑した。
御屋形様から休むよう命じられたばかりだというのに、既に美濃からの書状を取り寄せておられるらしい。もっとも、弥太郎もその仕事に付き合っているのであれば、息子へ休めと言ったところで簡単には聞き入れまい。
「先ほど御屋形様からも休むよう仰せ付けられておったがな。まったく、困ったものだ」
「はい。ですが、以前よりは周囲の者に仕事を任せてくださるようになりました。美濃では山城守様や下野守様ともよく相談されておりましたし、我らにも必要な役目を割り振ってくださいます」
「そうか。そなたも随分と頼りにされるようになったのだな」
「いえ、まだまだでございます。此度の遠征では、知らぬことばかりだと思い知らされました」
弥太郎は少し照れたように笑った。
儂の前では今でも若い頃の面影が残るが、美濃では右衛門督様の側に仕え、使者や書状の取り次ぎをはじめ様々な仕事を任されていたのだろう。帰還したばかりだというのに疲れた様子も見せず、次の用向きへ向かおうとしている。
「弥太郎。美濃での右衛門督様はどうであった?」
「どう、と申されますと?」
「儂らの前では立派に報告されておったが、陣中でも変わらず落ち着いておられたのか」
弥太郎は少し考えた後、困ったような顔になった。
「……いえ。いつも落ち着いておられたわけではございません」
「ほう?」
「稲葉山城から龍興が退いたとの知らせを受けた時など、随分と驚いておられました。あれほど驚かれた右衛門督様を拝見したのは、久しぶりのことにございます」
「それはそうであろうな。儂も知らせを聞いた時には耳を疑った。右衛門督様でなくとも驚くわ」
「はい。ただ、驚いておられたのは僅かな間でございました。すぐに城内の兵を確かめるよう命じられ、無理に軍勢を進めぬよう皆へ注意されておりました」
弥太郎はその時の様子を思い出したのか、少し笑っていた。
儂も報告を受けた時には龍興が城を捨てるなど信じ難かった。右衛門督様が驚かれたのも当然だろう。だが、城を得られると聞いてすぐに大軍を動かさなかったことは、今日の報告でも確認している。
「それならばよい。だが、そなたも主君の働きぶりに感心しているばかりではいかんぞ。側に仕える者として、何かあれば意見を申し上げることも必要だ」
「心得ております。ただ、父上ほど上手く申し上げられるかどうか……」
「最初から上手くできる者などおらぬ。何故そう考えたのかを自分の言葉で伝えればよい。右衛門督様も理由なく意見を退ける方ではあるまい」
「はい。それはよく存じております」
弥太郎は今度こそはっきりと頷いた。
以前であれば、儂に何かを言われるとそのまま頭を下げていたこともあった。それが今では自分の考えを口にするようになり、時にはこちらが尋ねる前に仕事の様子を話してくれる。
「それにしても、父上」
「何だ?」
「右衛門督様には休んでいただきたいのですが、あまり強く申し上げると、今度は自分が仕事を抱え込むことになります」
儂は思わず笑ってしまった。
「ならば、そなたも仕事を人に任せることを覚えねばならんな」
「……それを父上に言われるとは思いませんでした」
「何か言いたいことでもあるのか」
「いえ、何もございません」
そう答えながら、弥太郎は笑っていた。
まったく、いつの間にか父親に軽口を叩けるようになったものだ。幼い頃は儂の言葉を聞くだけで緊張していたこともあったというのに、今では随分と気安く話すようになった。
「さて、引き留めて悪かったな。右衛門督様をお待たせするわけにもいかん。用向きを済ませたら、そなたも休むがよい」
「はい。父上もお体をお休めください」
「儂のことはよい。そなたこそ、美濃から戻ったばかりなのであろう」
「父上も近頃は御屋形様の御前へ出ることが多いと伺っております」
「まったく、誰からそのようなことを聞いたのだ」
弥太郎は答えずに笑い、改めて一礼した。
儂もそれ以上は何も言わず、書状を抱えた息子を送り出した。
廊下の先へ歩いていく弥太郎の姿を見ながら、幼い頃に右衛門督様の小姓として仕え始めた時のことを思い出した。あの頃は御屋形様の御前へ出るだけでも緊張し、返事をする声が裏返ることさえあった。それが今では美濃へ従軍し、帰還して早々に書状を抱えて城内を歩いている。
右衛門督様も弥太郎も、これから先にはまだ多くの仕事が待っているのだろう。美濃のことだけでも、今まで経験したことのない問題が出てくるはずだ。今は山城守たちに守りを任せているとはいえ、東方には一色龍興が残り、織田との関係についても気を配らねばならない。
儂にも、まだ教えておきたいことは山ほどある。
それに、右衛門督様が美濃から戻られたことで、こちらにも改めて相談しなければならぬ仕事が増えている。御屋形様から預かった書付についても、今日のうちに目を通しておきたかった。
儂は廊下の先へ消えた息子の姿を見送り終えると、自らの部屋へ戻ることにした。しばらくは美濃から届く帳面と向き合う日が続きそうだったが、今度ばかりは弥太郎に仕事を任せるわけにもいかない。先ほど息子へ言ったことを思い返しながら、まずは手元に残された書状から片付けることにした。
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