第八十九話「両家の行く末と越前の情勢」
美濃から帰還して十日余りが過ぎ、ようやく城での暮らしにも落ち着きが戻ってきた。遠征に参加した兵の多くはそれぞれの村へ帰り、近江では秋の収穫が始まっている。稲葉山城を預けた進藤山城守からも定期的に報告が届いており、今のところ一色方に大きな動きはない。大垣の氏家殿、北方の安藤殿、曽根の稲葉殿も新たな支配体制を整えるために働いてくれているようで、俺が直接指示を出さなければならないことは随分と少なくなっていた。
父上からも暫くは休むよう命じられているため、朝のうちに必要な報告へ目を通せば、残りの時間は比較的自由に使えている。もっとも、長く戦場にいたせいか何もせずに過ごすことにはまだ慣れない。つい書状を広げてしまうこともあるが、先日は寿から仕事ばかりしていては休んでいることにならないと注意されてしまった。祝言を挙げてからまだ三月ほどしか経っていないというのに、早くも妻に生活を正されるとは思わなかった。
とはいえ、寿の言い分も分かる。祝言を終えて間もなく美濃への出陣が決まり、夫婦として共に過ごす時間は思っていたほど取れなかった。帰還してからは一緒に食事を取る機会も増え、ようやく互いの暮らしにも馴染んできたところである。以前は少し遠慮がちだった寿も、最近では俺の仕事について尋ねたり、城内で気になったことを話してくれたりするようになった。時折思いがけないことを言われて返事に困ることもあるが、そうした変化は嬉しかった。
その日の朝も寿と食事を取っていたところへ、弥太郎が訪ねてきた。
「右衛門督様。朽木弥五郎様より書状が届いております。御屋形様にも別にお届けしているとのことでございます」
「弥五郎からか。何か変わったことでもあったのか」
「使者の話では、美濃での御働きに対する祝いと、今後のことについて御相談したいとのことでございます」
受け取った書状には美濃遠征の成功を祝う言葉が記されていた。関ヶ原での戦いや西美濃の諸将が六角へ帰属したことにも触れられており、稲葉山城の開城には弥五郎も驚いたらしい。しかし、祝いの言葉に続いて書かれていたのは近江を取り巻く情勢について直接話をしたいという申し出だった。
六角が美濃へ勢力を広げたことで、今後の軍事や外交にも少なからず変化が生じる。朽木としても近江の情勢に関わることだけに、一度観音寺城を訪れて父上の考えを確かめておきたいのだろう。さらに俺にも別に相談したいことがあるらしく、都合が付けば二人で話す時間を設けてほしいと添えられていた。
父上への相談については、おおよその見当が付いた。朽木は北近江を治めており、六角が今後も美濃へ軍勢を向けるのであれば近江の守りがどうなるのか気になるはずだ。畿内では三好長慶が依然として大きな力を持っている。六角が美濃へ兵を集中させたところで三好が動けば、朽木の領地にも影響が及ぶ可能性があった。
ただ、俺への相談が何なのかは書かれていなかった。普段から書状を交わしている相手だけに、わざわざ二人で話す機会を求めていることが少々気に掛かる。急ぎの用向きなら使者を通じて知らせてくるだろうから、直接会って話したい事情があるのかもしれない。
「朽木様がいらっしゃるのですか?」
寿が興味を示したので、書状を脇へ置いて答えた。
「ああ。まだ日取りは決まっていないが、近いうちに来るらしい。父上と今後のことを相談したいそうだ」
「それでは、またお忙しくなりますね」
「いや、弥五郎とは久しぶりに顔を合わせるからな。仕事の話だけで終わらせるつもりはない」
そう答えると、寿は少し安心したように笑った。もっとも、弥五郎が来れば実際には政治の話が中心になるだろう。それでも直接顔を合わせられるのは楽しみだった。
その後、父上のもとへ赴くと、既に弥五郎の来訪を受け入れることが決まっていた。父上も今後の美濃攻略について朽木へ伝えておきたいことがあるらしく、訪問の日取りを調整するよう命じられた。
こうして四日後、弥五郎が観音寺城を訪れることになった。
*
弥五郎は供の者たちを従えて観音寺城へ入り、父上の待つ部屋へ通された。俺も同席を許されていたため、父上の傍らに席を設けてもらっている。
久しぶりに顔を合わせた弥五郎は以前と変わらず落ち着いた様子だった。互いに挨拶を交わしたものの、今日は正式な会談の場でもある。個人的な話は後に回し、まずは父上とのやり取りを見守ることにした。
「此度の美濃での御働き、誠にお見事にございました。西美濃の諸将が帰属したばかりか、稲葉山城まで六角の手に渡ったと聞き、驚かされました」
「儂も稲葉山城をあのような形で得られるとは考えておらなんだ。治部大輔が籠もるのであれば、攻め落とすまでに相応の兵と時が必要になると思っておったからな」
「道三の頃より美濃の要となってきた城にございます。守りを固められておれば、容易には落とせなかったことでしょう」
「うむ。城を得られたことは喜ばしいが、治部大輔を取り逃がしたことも事実だ。東にはまだ一色へ従う者たちが残っておる」
父上はそう仰せになると、今後の美濃攻略について考えを明らかにされた。
「家臣たちとも相談したうえで決めたことだが、雪が解ければ改めて美濃へ兵を進めるつもりだ。それまでは新たに得た土地の守りを整え、春の出陣に備える」
「来春にございますか」
「そうだ。関には長井道利がおり、治部大輔もその辺りに身を寄せておるらしい。東方の国人たちがどこまで一色に従うつもりなのかは分からんが、稲葉山城を得たところで戦を終わらせるつもりはない」
弥五郎は父上の話を聞きながら、少し考える様子を見せた。
六角家が来春の美濃攻略を決めたことは、既に家中でも伝えられている。もっとも、軍勢の規模や進軍する道筋まで決まったわけではない。東美濃には山間の道も多く、城の位置や現地の国人たちの動向によって軍勢の進め方も変わる。冬の間に得られる情報を踏まえて具体的な作戦を考えることになるだろう。
「左京大夫殿。一つ気に掛かることがございます。六角家が美濃へ兵を進めることに異存はございません。しかし、畿内では三好長慶が今も大きな力を持っております。来春に再び軍勢を動かされるのであれば、近江の守りについても考えなければなりませぬ」
「そのことならば儂も承知しておる。美濃を得るために近江を危うくしては意味がない。来春の出陣でも全軍を美濃へ向けるつもりはないぞ」
「それを伺い、安心いたしました」
「三好がこちらを攻めると決まったわけではないが、畿内の情勢が落ち着いているとも言い難いからな。将軍家との関係もある。何かあった時に兵を動かせぬようでは困るゆえ、近江には相応の軍勢を残すつもりだ」
父上はこれまで畿内で幾度も戦を経験しておられる。三好の動向を軽く見ることはなく、美濃攻略について家臣たちと協議した際にも近江の守りを維持することが重視されたという。
その一方で、美濃へ送り込む兵については新たに帰属した諸将の力を借りることができる。氏家殿、安藤殿、稲葉殿はいずれも自らの家臣団を持ち、城や所領を守るための兵も抱えている。以前のように近江から全ての兵を送り込む必要はなくなっていた。
ただし、帰属したばかりの者たちへ過大な軍役を求めれば、せっかく得た信頼を損ねる恐れもある。父上は冬の間に所領や軍役についての取り決めを進め、各家がどれほどの兵を出せるのか確かめる考えを示された。
「氏家らも従ったばかりだ。すぐに大きな働きを求めるつもりはないが、いつまでも近江の兵だけで美濃を守るわけにもいかん。来春までには、それぞれの家が担う役目も定めておきたい」
「なるほど。美濃の諸将を用いることで、近江に残す兵を確保されるわけですな」
「そのつもりだ。もっとも、畿内で何か起きれば予定を改めることもあろう。春になれば必ず東へ進めると考えているわけではない」
弥五郎は頷き、朽木としても近江が再び戦場になることは望んでいないと答えた。父上もその考えに異存はなく、三好方の動向については今後も互いに知らせを届けることで話がまとまった。
それから北近江の街道や商人の往来についても話が交わされたが、特に大きな問題はなかった。六角と朽木は既に協力関係を築いており、互いの領地で問題が起きた際には相談するという従来の方針を確認するにとどまった。
やがて父上は弥五郎へ、今宵は観音寺城で休んでいくよう勧められた。
「折角ここまで来たのだ。右衛門督とも話したいことがあろう。今宵はゆるりと過ごすがよい」
「ありがたきお言葉にございます。それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
弥五郎が礼を述べたところで会談は終わった。
俺も一緒に退出しようとしたが、父上から呼び止められた。
「右衛門督。少し残ってくれ。美濃のことで話がある」
「承知いたしました」
弥五郎は俺へ軽く頷くと、案内の者に従って部屋を出ていった。
*
二人だけになると、父上は美濃から届いた書状を手元へ引き寄せられた。
「先ほど弥五郎殿にも話したとおり、春になれば美濃へ兵を進める。だが、それまで治部大輔を放っておくつもりはない」
「……調略にございますか」
「うむ。四郎には冬の間、一色家中を内から揺さぶってもらいたい」
その言葉を聞いた途端、思わず顔をしかめてしまった。
調略が戦において重要な手段であることは理解している。敵の結束を崩し、兵を集められなくすることができれば戦場で流れる血を減らせる。それでも人の不安や疑念を利用し、家臣同士を疑わせるというやり方には、どうしても嫌悪感が先に立ってしまう。
しかも今回は以前のように事実を広めるだけでは済まないような気がした。父上の口振りから、さらに踏み込んだことを求められているのではないかと思ったのである。
慌てて表情を取り繕ったものの、既に遅かったらしい。父上は手元の書状から顔を上げ、俺の様子をじっと見ておられた。
「……調略は気が進まぬか」
どうやら隠し通せなかったようだ。
ここで取り繕ったところで父上には見抜かれるだろう。俺は少し迷った末、失礼だとは思いつつも溜息を漏らした後、素直に答えることにした。
「正直に申し上げれば、あまり気の進むことではございません。偽りの話を広めて人々の不安を煽り、家臣同士を疑わせるというのは、どうにも好きになれませんので」
「以前、氏家への援軍を巡る話を広めた時も、同じように感じておったのか」
「はい。あの時は事実を伝えるだけでしたが、それでも気分のよいものではありませんでした。まして今回は、実際には起きていないことまで利用するのでしょう」
父上はすぐには答えられなかった。不快そうな様子は見せず、俺の続きを待っておられる。
「ですが、必要なことだとは理解しております。治部大輔が冬の間に兵を集め直せば、来春には再び多くの者が戦場へ向かうことになります。調略によって一色家中の結束を弱められるのであれば、それだけ戦わずに済む相手も増えるでしょう」
言葉を切ると、父上が小さく頷かれた。俺は一度息を整えてから続けた。
「嫌悪感がなくなったわけではございません。それでも、今の六角に必要な仕事であることは承知しております。気が進まぬというだけで避けるつもりはありません。自分の中でも折り合いを付けております」
父上はしばらく俺を見ておられたが、やがて小さく頷かれた。
「そうか。ならば、それでよい」
「……よろしいのでしょうか」
「好まぬことまで無理に好む必要はない。儂とて家臣同士を疑わせることが楽しいわけではないからな。だが、敵の力を削ぐ手立てがあるというのに、それを使わず兵を死なせるわけにもいかん」
父上は書状を机へ戻された。
「四郎が嫌だと思うことまで否定するつもりはない。ただし、命じられた仕事を引き受けた以上、その好き嫌いによって判断を誤ることは許されぬぞ」
「はい。それは心得ております」
「ならばよい。では、具体的な話をしよう」
父上は山城守から届いた報告に目を通されながら、東美濃に残る一色方の諸将について話された。
稲葉山城を失ったとはいえ、龍興には長井道利をはじめ従う者が残されている。今後の動きが定まっていない国人たちも多く、冬の間に龍興が彼らをまとめ直せば来春には相応の軍勢を集めてくる可能性があった。
「以前、氏家への援軍を巡る一件を広めさせたことがあったな。あの働きは悪くなかった。だが、今回はもう少し踏み込んでもらいたい」
氏家殿が援軍を求めた際、龍興が兵五百と人質を要求したことは事実である。俺はその一件を篠たちに広めさせ、東美濃の国人たちが龍興の振る舞いをどう受け取るか確かめていた。
しかし今回は、父上も事実だけを広めるつもりではないらしい。
「四郎。人を疑わせるには、何もかも偽りの話を聞かせる必要はない。むしろ嘘に真実を混ぜた方がよい。既に知っている出来事が含まれておれば、ほかの話も本当ではないかと思う者が出てくる」
父上は龍興が稲葉山城を捨てたことを例に挙げられた。主君が美濃の要となる城を捨てて東へ退いたことは、今や誰もが知るところである。西美濃の有力者たちが相次いで離反したことも隠しようがない。
そうした事実を土台にしながら、龍興が軍役を怠った国人の所領を取り上げようとしているとか、残る家臣たちに新たな人質を求めるつもりだといった話を広める。実際にそのような命令が出されていなくとも、国人たちが疑いを抱けば龍興も家臣をまとめにくくなるだろう。
「父上。偽りの話を広めるのであれば、こちらの関与を疑われる恐れもございます。あまり露骨な噂を流せば、かえって一色家中をまとめる口実を与えてしまうかもしれません」
「そのとおりだ。だからこそ慎重に進めねばならん。何より、全ての国人を離反させる必要はない。龍興が兵を集めようとした時、従うことをためらう者が増えるだけでも十分だ」
父上はさらに、六角へ帰属した諸将の待遇についても広めるよう命じられた。氏家殿や安藤殿、稲葉殿が所領と家臣団を保ったまま従っていることは事実であり、隠す理由はない。ただし、新たに帰属を申し出た者へ無条件の所領安堵を約束することはできず、そうした判断は必ず父上の裁可を仰ぐことになる。
俺もその点については異存がなかった。
調略そのものへの嫌悪感が消えたわけではないが、既に引き受けると決めた以上、仕事を曖昧に済ませるつもりもない。むしろ中途半端な働き掛けによって相手を無用に警戒させれば、篠たちを危険に晒すことにもなる。
そこで以前から気に掛かっていたことを父上へ相談することにした。
「父上。一つお願いしたいことがございます」
「何だ?」
「此度の調略についてですが、篠たちのほかに新たな甲賀者を付けていただくことはできませんでしょうか」
父上は少し意外そうにされた。
「甲賀者を増やしたいと申すか」
「はい。現在、直属として動いているのは篠、弥七、宗兵衛の三名です。これまでは三名で何とか対応できておりましたが、更に東美濃の広い範囲で調略を進めるとなれば、今の人数では手が足りなくなると思います。実際、今もぎりぎりでの活動だと篠から話があがっておりました」
父上は少し考えられた後、先を促された。
「篠たちには既に美濃で築いてきた情報網がございます。それを維持しながら新たな国人たちの事情を調べ、調略まで進めるとなれば負担も大きくなるでしょう。春には軍勢の進む道や城の守りについても調べる必要がありますので、今のうちに人を増やしておきたいのです」
「なるほど。確かに関から先にも多くの国人がおる。三名だけで全てを調べるのは難しかろうな」
父上は必要性を認められたものの、直属の甲賀者を増やすことについては慎重だった。
「ただし、そなたの直属として付けるのであれば誰でもよいというわけにはいかん。甲賀者にもそれぞれ仕える先や役目がある。腕が立つだけでなく、信用できる者を選ばねばならぬ」
「承知しております。無理に大勢を集めていただく必要はございません。まずは数名でも、直接指示を出せる者が増えれば助かります」
「よかろう。甲賀の者たちへ話をしてみよう。人選についてはこちらで進めるが、新たな者を付ける際には篠たちとも相談するのだぞ。これまでの働きを妨げるようでは困るからな」
「ありがとうございます。その点についても気を付けます」
父上は頷かれた後、ふと思い出したように口元を緩められた。
「それにしても四郎。調略には気が進まぬと言いながら、必要な人手については随分と積極的に求めるものだな」
「……気が進まぬことと、仕事を疎かにすることは別にございますので」
「ははっ、それもそうか」
父上は声を上げて笑われた。
何も面白いことを言ったつもりはなかったが、父上は随分と楽しそうだった。こちらの心中を察したうえで笑っておられるのだろうか。だとすれば少々意地が悪い。
やがて父上は笑いを収め、新たな甲賀者の人選については追って知らせると仰せになった。
俺は礼を述べ、弥五郎の待つ部屋へ向かうことにした。
*
父上の部屋を辞したところで、廊下に控えていた弥太郎と顔を合わせた。弥五郎は既に用意された部屋へ通されており、俺が来るのを待っているという。父上との話が思いのほか長くなってしまったため、随分と待たせてしまったようだ。
「若様。弥五郎様には茶をお出ししております。先ほどお尋ねしたところ、特にお急ぎではないとのことでございました」
「そうか。ならば、これから会いに行こう。案内を頼む」
弥太郎に従って部屋へ向かうと、弥五郎は庭を眺めながら茶を飲んでいた。俺の姿に気付くと茶碗を置き、先ほど父上の前で見せていた改まった様子を崩して笑った。
「四郎。随分と長かったな。左京大夫殿から何か言い付かったか?」
「ああ。来春の美濃攻略に向けて、今から進めておく仕事を頼まれた。もう少し休んでいたかったんだがな」
「それは災難だったな。もっとも、あれほど領地を広げておいて何もせずに過ごせるとは思っていなかっただろう?」
「違いない。美濃へ出陣する前よりも仕事が増えそうだ」
弥五郎の向かいへ腰を下ろすと、控えていた小姓が新しい茶を運んできた。茶碗を受け取りながら近況を尋ねると、朽木領では秋の収穫が順調に進んでおり、塩津浜へ出入りする商人も増えているらしい。美濃での戦が終わったことは商人たちの間でも歓迎されているようで、近江から東へ向かう荷の往来も徐々に戻り始めているという。
弥五郎自身も領内の仕事に追われているらしいが、今日は父上との会談のために時間を空けてきたとのことだった。朽木家としては六角が来春も美濃へ軍勢を進めるという方針を知ることができ、ひとまず訪問の目的を果たせたようだ。
「しかし、稲葉山城まで手に入れるとはな。大垣を落としたと聞いた時には、今年の戦はそれで終わると思っていた」
「稲葉山城まで得られるとは考えていなかった。城攻めの準備を進めていたところへ、治部大輔が退いたという知らせが届いたからな。あれには驚かされた」
「治部大輔にしてみれば、西美濃の諸将が次々に六角へ従ったことで城を守り切れるか不安になったのだろうな。とはいえ、あれほどの城を捨てるとは思い切ったものだ」
「おかげで余計な犠牲を出さずに済んだ。そこはありがたかったが、治部大輔を取り逃がした以上、来春にはまた戦になるだろう」
弥五郎もその点については父上から話を聞いているため、それ以上深く尋ねることはなかった。代わりに小夜の近況を教えてくれた。小夜は変わらず元気にしているらしく、俺が美濃から無事に戻ったと聞いた時には随分と喜んでいたという。
「小夜は四郎のことを気に掛けていたぞ。美濃で戦が始まってからは、何か知らせが届くたびに話を聞きたがっていた。寿殿も随分と心配されたのではないか?」
「ああ。帰ってから色々と言われた。祝言を挙げて間もないのに長く留守にしたからな。次に出陣する時は、もう少し早く知らせるようにと頼まれた」
「それはもっともだ。小夜も同じようなことを言っていた。戦に出ることは仕方がないが、残された者の気持ちも考えてほしいとな」
「耳が痛いな。次からは気を付けるつもりだ」
そう答えると、弥五郎は愉快そうに笑った。小夜とは以前から親しくしているだけに、近況を聞くと何となく懐かしい気分になる。寿とも仲良くしてくれているようなので、いずれ機会を設けて二人が顔を合わせられるようにしたいところだった。
しばらく互いの家族や領内のことを話していたが、やがて弥五郎が茶碗を置き、先ほどまでとは少し違った調子で口を開いた。
「ところで四郎。今日は別に聞いてもらいたいことがある。父君との会談では話さなかったが、越前の朝倉家についてだ」
朝倉家と聞いて、俺は弥五郎がわざわざ二人で話す機会を求めた理由を察した。
北近江を治める朽木家にとって越前は隣国であり、特に敦賀は軍事だけでなく商いの面でも重要な土地である。これまでにも北国の情勢について話すことはあったが、今回は何か気になる知らせが届いているらしい。
「朝倉左衛門督に何かあったのか?」
「いや、当主の身に変事があったわけではない。ただ、家中について幾つか気になる話が入ってきている。まだ詳しいことは分からんがな」
弥五郎によれば、越前を行き来する商人たちから朝倉家中の人間関係について話を聞く機会が増えているという。
朝倉家は一門や重臣が多く、それぞれが所領や家臣を抱えている。その中でも朝倉景鏡は家中で大きな力を持つ人物であり、一方の敦賀郡司家も越前の南西部を預かる重要な立場にあった。
もっとも、両者の間で既に争いが起きているという話ではないらしい。弥五郎が気に掛けているのは、それぞれの立場や利害が今後どう変化するかということだった。
「大野郡司の名は以前から聞いている。左衛門督との関係に何か変化があったのか?」
「そこまでは掴めていない。重蔵にも調べさせているが、家中で明確な対立が起きているという知らせはない。ただ、敦賀郡司家と一乗谷の関係については、もう少し詳しく知っておきたい」
「敦賀のことが気になるわけか」
「ああ。朝倉家中で争いが起きれば、北近江にも影響が及ぶ。特に敦賀は塩津浜との往来があるからな。商人が安心して行き来できなくなれば、朽木としても困る」
弥五郎の話を聞きながら、俺は前世で読んだ『淡海乃海』の展開を記憶の奥底から抄い上げる様に思い出していた。あちらでは朝倉家中の対立が深まり、やがて当主の命に関わる政変へと発展していたはずだ。その後、朽木が敦賀へ勢力を伸ばすことになったのも朝倉家の混乱が大きく関係していたと記憶している。
ただし、それが今回も同じように起こるとは考えられなかった。既に六角家は本来とは異なる道を歩んでおり、西美濃を得たことで近江周辺の勢力関係も変化している。弥五郎の朽木家についても置かれている立場は原作とは違う。朝倉家そのものに六角が直接干渉したわけではないとしても、周辺諸国の動きが家中の判断に影響を及ぼすことはあり得るだろう。
何より俺が覚えているのは、物語の大まかな流れでしかない。朝倉家中の誰がどのような不満を抱え、何をきっかけに動いたのか。細かな事情まで知っているわけではなかった。
「敦賀郡司家と大野郡司の間にも何かあるのか?」
「今のところ、そのような話は入っていない。ただ、両者が常に同じ考えを持っているとも思えん。敦賀は越前の中でも独自の事情を抱える土地だからな。大野郡司が家中で力を強めれば、敦賀郡司家がどう受け止めるかも気になる」
「なるほど。今は動きを確かめておく段階ということか」
「そうだ。朝倉家中に問題があると決め付けているわけではない。何事も起きずに済むのであれば、それに越したことはないからな」
敦賀の重要性については俺も以前から認識している。北近江と越前を結ぶ街道が通り、琵琶湖の水運と北国の海運を結び付ける土地でもある。塩津浜に運ばれてくる荷の中には敦賀を経由するものも多く、両者の往来が途絶えれば商人たちの取引にも影響が出るだろう。
また、敦賀は軍事上の要地でもあった。越前から近江へ軍勢を進める場合にも、逆に近江から越前へ向かう場合にも周辺の道や城を無視することはできない。朝倉家中で争いが起き、敦賀の支配が不安定になれば、朽木としては北近江の守りについても考え直さなければならなくなる。
「それに、越前には加賀の一向一揆という問題もある。朝倉家中で争いが起きれば、加賀の者たちが動く可能性もあるだろう」
「ああ。逆に加賀への備えを理由に兵を集めることもできる。朝倉家中の動きを調べるにしても、表向きの理由だけで判断するのは危うい」
「そうだな。いずれにしても、今の段階で朝倉家に何か起きると決め付けるべきではないだろう」
弥五郎も同じ考えらしく、今すぐ敦賀へ軍勢を向けるつもりはないと話した。そもそも朝倉家中で争いが始まったわけでもなく、誰がどのように動くのかも分かっていない。現状で軍事行動を考える理由はなかった。
俺としても、六角が越前の問題へ深入りすることには慎重にならざるを得ない。来春には美濃への再出兵が予定されており、近江には三好への備えも残さなければならない。越前で何か起きたとしても簡単に兵を出せるような状況ではなかった。
「弥五郎。朝倉家中で何か起きても、六角から兵を出せるとは約束できない。来春の美濃攻略もあるし、父上は畿内の三好を警戒している」
「承知している。今日は援軍を頼みに来たわけではない。朝倉の事情が分からぬうちから、そのような話をしても仕方があるまい」
「それならよい。情報を交換することなら協力できる。こちらでも越前を行き来する商人から話を聞いてみよう」
「助かる。朽木でも引き続き調べさせるつもりだ。何か分かれば知らせよう」
弥五郎は重蔵を通じ、敦賀郡司家と一乗谷の間でどのような連絡が取られているのかを確かめさせているという。景鏡に近い者たちの動向についても情報を集めているらしいが、朝倉家中の奥深くまで容易に入り込めるわけではないため、確かなことはまだ少ないようだった。
俺も六角家として越前へ働き掛けるのではなく、当面は商人たちから得られる情報を集めるにとどめるつもりだった。朝倉家がこちらを警戒するようなことになれば、弥五郎にとっても迷惑だろう。
「しかし、こうして話していると仕事の話ばかりになるな。折角久しぶりに会ったというのに、気付けば越前のことまで相談している」
弥五郎が苦笑したので、俺も笑ってしまった。
「弥五郎が持ち出した話だろう。こちらは久しぶりにゆっくりできると思っていたんだがな」
「それを言われると返す言葉もない。次に会う時は、もう少し気楽な話をしたいものだ」
「その時は小夜も連れてくるとよい。寿も喜ぶだろう」
「ああ、そうしよう。小夜にも伝えておく」
その後は互いの家族や近況について話し、夕餉の頃まで穏やかな時間を過ごした。弥五郎からは塩津浜に集まる商人の話や北近江での出来事を聞き、俺も美濃から戻って以降の暮らしについて話した。政治や軍事の話を離れてみれば、久しぶりに会った者同士として語り合うことはいくらでもあった。
その夜は弥五郎を迎えて食事を共にし、翌朝には朽木へ帰る一行を見送った。出立の際にも越前について幾つか言葉を交わしたが、新たな約束を結ぶことはなかった。何か変化があれば互いに知らせを届ける。それを確かめると、弥五郎は供の者たちを従えて観音寺城を後にした。
*
弥五郎を見送った翌日、俺は篠を呼び出した。
父上から命じられた冬季調略について、まずは東美濃の国人たちの事情を詳しく調べることにしたのである。すぐに偽りの噂を広めるつもりはない。龍興に従う者たちが何を考え、どのような事情を抱えているのかを知らなければ、効果的な働き掛けなどできるはずもなかった。
部屋へ現れた篠は、いつものように俺の前で膝をついた。
「若様。お呼びと伺いました」
「ああ。美濃で新たに頼みたい仕事がある。父上から、冬の間に一色家中へ調略を仕掛けるよう命じられた」
「調略にございますか。では、関の長井道利をはじめ、一色に従う国人たちの内情を調べるのでしょうか」
「そうだ。関の周辺だけでなく、東方に残る国人たちについても調べてほしい。誰が龍興を支え、どの家が今後の身の振り方を迷っているのか。まずはそこを確かめたい」
篠は俺の話を聞くと、これまでに得ている情報について幾つか説明してくれた。美濃遠征中は敵軍の動向や街道の様子を探ることが優先されていたため、東方の国人たちについては詳しい事情まで掴めていない家も多いという。関から先は篠たちにとって馴染みの薄い土地もあり、調べるには相応の時間が掛かりそうだった。
「弥七と宗兵衛にも伝えておきます。ただ、東へ進むほど伝手が少なくなりますので、詳しいことが分かるまでには日数をいただくかもしれませぬ」
「構わん。春までに必要な情報が揃えば十分だ。それと父上には直属の甲賀者を増やしていただけないか相談した。まだ人選は決まっていないが、何名か新たに付けてもらえることになりそうだ」
篠は意外そうな顔をしたものの、すぐに頭を下げた。
「ありがたきことにございます。調べる場所が増えれば、それだけ人手も必要になりますので」
「新しく来る者については、篠たちとも相談して役目を決めるつもりだ。今まで築いてきた伝手を無理に引き継がせるつもりはない。互いに動きにくくなっては困るからな」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
篠たち三名には、これまで幾度となく危険な仕事を任せてきた。新たな者が加わるとしても最初から同じように働けるとは思っていない。それぞれの得意とする仕事や持っている伝手を確かめたうえで、無理のない形で役目を決めたいところだった。
俺は続けて、今回の調略が以前とは異なることを伝えた。
「それから、今度は事実だけを広めるわけではない。父上からは必要に応じて偽りの話も交えるよう命じられている」
「承知いたしました。では、噂を流す相手についても調べておきます」
「ああ。ただし、実際に話を広めるのは内容を確かめてからにしてほしい。相手によっては何もせずに様子を見る方がよい場合もある。無理に仕掛けることはない」
篠は了承すると、最初に調べる地域について幾つか確認してきた。俺は関の周辺を中心にしながらも、龍興に従う国人たちが互いにどのような関係を持っているのかを優先して調べるよう命じた。
既に六角へ帰属した諸将については山城守や氏家殿たちから情報を得られるため、篠たちにはこちらからでは分かりにくい一色家中の事情を探ってもらうことにする。
ひととおり指示を終えると、篠は弥七と宗兵衛へ話を伝えるために部屋を辞した。
その後、俺は父上へ調略の進め方を報告し、必要な情報が揃い次第改めて相談することを伝えた。父上からもその方針で進めるよう返事をいただき、当面は篠たちの働きを待つことになった。
一方、弥五郎と話した越前についても近江を行き来する商人から情報を集めるよう手配しておいた。ただし、こちらは朝倉家中の事情を知るためのものであり、何らかの働き掛けを行う予定はない。敦賀郡司家や朝倉景鏡について確かな情報が得られれば、弥五郎へ知らせを届けるつもりだった。
数日後、篠たちが美濃へ向けて出立したとの知らせが届いた。三名はそれぞれ手分けして東方の事情を調べることになる。新たな甲賀者については父上からの知らせを待つことになるが、彼らが加われば調べられる範囲も広がるだろう。
その日の夕刻、俺は寿と共に食事を取っていた。
美濃から戻ったばかりの頃とは違い、近頃は遠征の話をすることも少なくなっている。寿は昼間に城内であった出来事を話し、俺もそれを聞きながら時折言葉を返した。そんな時間を過ごしていると、つい先日まで美濃で軍勢を率いていたことが随分と遠い出来事のように思えてくる。
「四郎様。明日は少しお時間をいただけますか?」
「明日か。特に急ぎの用向きはないが、何かあるのか?」
「庭の花を見に行きたいのです。先日から気になっていたところがございますので、よろしければ御一緒していただけないかと」
「構わん。昼頃には仕事を終わらせておこう」
「本当でございますか?」
寿が嬉しそうに顔を上げた。その反応に思わず笑ってしまう。
「何だ。そんなに意外か」
「いいえ。ただ、四郎様はお仕事を始めると、なかなかお戻りになりませんから」
「……それは否定できんな」
素直に認めると、寿は楽しそうに笑った。
明日は天気がよければ庭を歩き、その後は部屋でゆっくり過ごしたいという。俺も異存はなかった。遠征から戻って以来、城内で落ち着いて過ごす時間は増えたものの、こうして寿から何かを頼まれることはまだ多くない。折角の申し出なのだから、仕事を理由に断るつもりもなかった。
父上から命じられた調略も、弥五郎と話した越前の情勢も、今のところは知らせを待つ段階にある。いずれ新たな情報が届けば、その内容に応じて動くことになるだろう。だが、明日までに何かが起きると決まったわけではない。
寿が庭に咲いている花のことを楽しそうに話しているのを聞きながら、俺は明日の昼までに済ませられる仕事を思い浮かべていた。
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