永禄五年十月下旬、近江国観音寺城。
朝夕の冷え込みが厳しくなり、庭の木々もすっかり秋の装いへ変わっていた。近江では収穫を終えた村々から年貢についての報告が届き始めている。俺も普段どおり政務に励んでいたが、以前とは書院の様子が少し変わっていた。祝言を挙げてから四月ほどになる寿が、都合のつく日にはここで共に過ごすようになったのである。
美濃から戻って間もなく、寿は俺や近習たちが使う書院へ一緒にいてもよいかと遠慮がちに尋ねてきた。仕事の妨げになることを随分気にしていたが、俺が構わないと答えると少しずつ足を運ぶようになった。毎日ではないものの、都合がつけば午前中から姿を見せ、そのまま昼過ぎまでいることも珍しくない。俺の傍らで書物を読んだり、侍女と針仕事をしたりしているため、実際に仕事の妨げとなったことはなかった。
むしろ、寿がいる方が気持ちは落ち着いた。書状から顔を上げた時、すぐ近くに妻がいるというのは思っていた以上に心地がよい。寿も俺が仕事をしている間は無理に話しかけず、手が空いた頃合いを見て茶を勧める程度だった。初めの頃は近習たちも随分と気を遣っていたが、今では寿が来ても誰かが仕事の手を止めることはなくなっている。
俺が何か言うより早く、寿の座る場所まで用意されるようになったのは少々面白かったが。
その日も昼前になると襖の向こうから寿の声がした。入ってよいと返すと、寿は侍女を一人連れて部屋へ入ってくる。すると弥太郎が自然な動作で脇に置いてあった座布団を取り出し、別の近習は寿の持ってきた書物を受け取って小さな文机を用意した。
誰が役目を決めたわけでもない。何度か同じことを繰り返すうちに、それぞれが何をすればよいのか分かるようになったらしい。
寿もその変化には気付いているようで、世話をしてくれる近習たちへ礼を言ってから腰を下ろした。初めてここへ来た頃は、近習たちが揃って仕事の手を止めてしまい、寿の方が恐縮して早々に戻ろうとしたほどだった。それを思えば随分と馴染んだものだ。
寿が書物を広げ、俺も坂田郡から届いた帳面へ戻った。収穫を終えた田畑の様子や年貢米の納入について、村ごとの報告が並んでいる。坂田では旧浅井領の頃からの取り決めを当面残しているところも多く、こちらの都合だけで一度に変えるわけにはいかない。村々から上がる申し出を読みながら、何をそのままにし、何を改めるかを順に確かめているところだった。
暫くすると、寿が何気なく顔を上げた。
先ほどから村の者を観音寺へ呼び出す話が聞こえていたらしく、遠くの村から来る者は田畑の仕事もあるのに大変なのではないかと尋ねてきた。俺にとっては年貢や所領について直接話を聞くため、必要なら村の代表を城へ呼ぶのはごく普通のことだった。
だが寿は、少し前にも同じ村の者を見掛けた気がすると言う。
気になって弥太郎へ確かめさせると、確かに数日前にも同じ村から代表者が来ていた。前回は寺社領との境についての申し出で、今回は年貢米の納入先を確認するためだった。担当する役人が違うため、それぞれが別に呼び出しを掛けていたらしい。
用向きが違えば、別々に話を聞くこと自体は珍しくない。しかし村の側から見れば、こちらの担当が違うからといって城までの道のりが短くなるわけではなかった。
「確かに、何度も呼ぶ必要はないな」
俺がそう口にすると、寿は自分の疑問が見当違いではなかったことに少し安堵したようだった。
急ぎの話なら仕方がない。それでも、日を合わせられるものまで別々に呼び出す必要はない。俺は弥太郎へ、今月中に村の者を呼ぶ予定を調べ、同じ村から何度も人を呼ぶことになっているなら日取りをまとめられないか担当の者へ確認するよう命じた。
もっとも、既に使者を出したところまで急に変えれば、かえって話がややこしくなる。そこは今後の手配からで十分だと付け加えた。
弥太郎が近習の一人へ帳面を取りに行かせると、寿は少し申し訳なさそうな顔をした。自分の何気ない疑問で仕事を増やしてしまったと思ったらしい。
「余計なことではない。こちらは用向きごとに見ているから、呼ばれる側の往来まで気が回っていなかった」
そう伝えると、寿の表情が僅かに和らいだ。
何度も遠くまで出掛けるのは大変だと思っただけなのだと、寿は控えめに言った。その程度の疑問だからこそ、俺たちが普段見落としているものへ気付くこともある。俺がそう返すと、寿は照れくさそうに笑い、再び書物へ目を落とした。
こうしたことは今回が初めてではない。
以前、使者へ持たせる書状を整理していた時にも、寿は同じ方面へ向かう者が何人もいることに気付き、道中を一緒にすればよいのではないかと尋ねたことがある。急ぎの書状や届け先の事情もあり、全てをまとめられるわけではなかったが、近習たちと確かめると同じ日に出して構わない便はいくつかあった。結果として、人手にも少し余裕が出来た。
もちろん、寿の疑問がいつも仕事へ役立つわけではない。
先日は美濃の城から修繕について報告が届いた際、壊れた場所を直すのであれば、いっそ城全体を新しくしてしまえばよいのではないかと真顔で尋ねられた。人手も費えもまるで違うと説明すると、寿は随分恥ずかしがり、近習たちは笑いを堪えるのに苦労していた。
寿自身も政務へ口を挟もうとしているわけではない。ただ傍にいるから目に入り、分からないから尋ねているだけなのだろう。俺としても、自分たちのやり方を当然のものとして見る者ばかりの中に、全く違うところから疑問を投げ掛けてくる相手がいるのは面白かった。
昼を過ぎた頃、手元の帳面にも区切りがついたので、寿と一緒に軽い食事を取ることにした。
寿は朝から変わった様子を見せていなかったが、運ばれてきた料理のうち魚にはほとんど手を付けず、野菜を使ったものばかり口へ運んでいた。
気になって尋ねると、今日はどうも魚を食べたいと思えないのだという。用意した者へ申し訳なさそうにしていたので、無理に食べる必要はないとだけ伝え、他に欲しいものがあれば用意させると付け加えた。
顔色にも変わったところはない。食べ物の好みなど日によって変わることもあるため、その時はそれ以上気にしなかった。寿も食事を終えると普段どおり書物へ戻り、俺も午後の仕事を始めた。
先ほど話した村の呼び出しについては、弥太郎が早速担当の者へ伝えてくれたらしい。今後は同じ村へ複数の用向きが重なっている時、日取りを合わせられないか一度確かめることになった。
それを聞いていた寿は嬉しそうにしていたが、やがて今度は、遠くから城へ来た村の者たちがどこで食事を取るのか気になったらしい。朝早く家を出れば腹も空くだろうと心配する寿に、弥太郎が思わず笑った。
寿は恥ずかしそうに俯いたが、城下にも食事を取れる場所はあり、皆が食べ物に困っているわけではないと説明されると、素直に安心した様子を見せた。
そのやり取りを聞きながら、俺は別のところへ目が向いた。
食事そのものより、遠くから来た者を城で長く待たせる方が問題かもしれない。朝から呼び出しておきながら、実際に話を聞くのが夕刻になれば、近隣の村でも帰る頃には暗くなる。泊まるつもりで来る者もいるだろうが、全員がそうとは限らない。
俺は弥太郎へ、呼び出す時刻についても村までの距離を見て決めるよう担当へ伝えさせた。
寿が書院へ来てから、既に数刻が過ぎていた。
午後の仕事も一段落しつつあり、俺は少し早めに切り上げて寿と庭でも歩こうかと考えていた。最近は日が落ちるのも早い。遅くなれば冷え込みも強くなるため、出るなら今くらいがちょうどよかった。
最後の書状を弥太郎へ渡そうとした時だった。
「……うっ」
傍らから小さな声が聞こえた。
顔を上げると、寿が書物を置き、片手で口元を押さえている。先ほどまで何事もなく過ごしていたというのに、身体を少し丸めるようにして俯いたまま動かなかった。
すぐに傍へ寄ると、顔色が明らかに悪い。額には薄く汗が浮かび、声を掛けても返事をする余裕がないほど吐き気が強いらしい。
俺は倒れないよう肩を支えながら、弥太郎へ侍女と医師を呼ぶよう命じた。水と手拭いも用意させる。声が思っていた以上に大きくなり、近習たちが一斉に動き始めた。
何が起きたのか分からなかった。
昼に食べたものが悪かったのか。朝から具合が優れなかったのを隠していたのか。今日一日の様子を思い返しても、魚を食べたがらなかったことくらいしか思い当たらない。
寿は苦しい中でも俺へ謝ろうとした。
「謝らなくていい。今は話すな」
それだけ告げて背を支える。
侍女が持ってきた器を傍へ寄せ、吐き気が落ち着くまで待った。暫くすると呼吸も少しずつ整い、寿はようやく顔を上げられるようになった。
そこへ寿付きの侍女たちも駆け付けてきた。その中には近衛家から付き従ってきた年長の侍女もいる。状況を聞くとすぐ寿の前へ膝をつき、どこか痛む場所はないか、熱はないかと手際よく確かめ始めた。
腹などに痛みはなく、突然気分が悪くなっただけだと寿が答えると、まず寝所へ戻して休ませることになった。
俺も付いていこうとしたが、先に部屋を整える必要があると言われ、少し遅れて向かうことにした。
寿が侍女たちに支えられて出ていくと、先ほどまで穏やかだった書院には落ち着かない空気だけが残った。近習たちも仕事へ戻ろうとしていたが、皆どこか気もそぞろだった。俺自身、帳面へ目を落としてみても、そこに何が書かれているのかまるで頭に入らない。
暫くして弥太郎が戻り、医師には既に知らせを出したこと、寿は寝所へ戻り侍女たちが世話をしていることを伝えた。
俺は残りの仕事を明日へ回させ、そのまま寿の寝所へ向かった。
部屋へ入ると、既に侍女たちが動いていた。寝具を整える者、湯を用意する者、寿が口に出来そうなものを確かめる者。その中で年長の侍女だけは寿の傍へ座り、何やら小声で話している。
寿は俺を見ると申し訳なさそうな顔をした。
仕事を途中で止めさせてしまったことを気にしているらしいが、そんなことはどうでもよかった。先ほどより顔色が戻っていることを確かめ、それだけで少し肩の力が抜けた。
もう大丈夫だと寿は言ったが、無理をさせるつもりはない。医師が来るまで横になっているよう伝えると、寿も素直に頷いた。
その傍らで、年長の侍女だけは何か引っ掛かるものがあるようだった。
ここ暫くの寿の様子について、医師が来る前に確かめたいことがあるという。俺が何か心当たりでもあるのかと尋ねても、まだ何とも言えないと答えるだけだった。
侍女は寿の耳元で何事か尋ねた。
寿が驚いたように目を見開き、そのままみるみる頬を赤くしていく。
その反応だけで、俺の前では話しにくい内容なのだと分かった。
少しの間二人で話したいと言われたので、俺は寿の様子をもう一度確かめてから部屋を出た。
廊下では弥太郎が待っており、医師も間もなく着くという。近くの部屋へ移り、そこで知らせを待つことにした。
しかし、一人になっても落ち着かなかった。
寿は朝から普段と変わらなかった。昼には一緒に食事を取り、少し前まで村の者のことを気に掛けて笑っていた。それが急に顔色を失い、立っていられないほど気分を悪くした。
普段から寿を見ているつもりだったのに、何か見落としていたのではないか。
そう考えると、昼に魚を避けていたことが妙に頭から離れなかった。
やがて医師が到着し、侍女たちに案内されて寿の部屋へ入っていく。
呼ばれたのは、それから暫く経ってからだった。
寝所へ戻ると、寿は寝具の上に身体を起こしていた。先ほどまでの青白さは幾分薄れ、俺を見ると安堵したように微笑んだ。傍には医師と年長の侍女が控えているが、二人とも先ほどより落ち着いている。
まず寿の具合を確かめた。もう随分楽になったという返事を聞き、ようやく医師へ顔を向ける。
何が原因だったのか。
俺が尋ねると、医師は一度寿の様子を見てから姿勢を正した。
「右衛門督様。姫様には、御懐妊の兆しがございます」
「……か、懐妊?」
あまりに予想していなかった言葉で、頭が一瞬止まった。
「懐妊とは……あの、あれか。これか?」
自分でも何をしているのか分からないまま、両手で腹の辺りへ丸みを作るような仕草をしていた。
医師が真面目な顔のまま頷いたのを見て、ようやく自分の間抜けな反応に気付く。
それでも、すぐには言葉の意味が胸へ落ちなかった。
医師によれば、寿にはここ暫く月のものがなく、食べ物の好みや身体の様子にも変化が出ていたらしい。今日の吐き気もその一つと考えれば不自然ではないという。まだ日が浅く、これから慎重に様子を見る必要はあるものの、懐妊の見込みはかなり高いとのことだった。
俺は寿を見る。
寿もまだ信じ切れていないような顔をしていた。
やがて、その手が自分の腹へそっと添えられる。
その仕草を見た途端、医師から聞いた言葉がようやく現実のものとして胸へ入ってきた。
俺と寿の子が、そこにいる。
祝言から四月ほど。美濃の戦もあり、夫婦になってからずっと穏やかに暮らしていたわけではない。それでも寿と同じ部屋で眠り、朝を迎え、こうして書院で同じ時間を過ごすうちに、新しい命が宿っていたらしい。
嬉しい。
そう思う一方で、驚きの方がまだ大きかった。
何か言わなければと思うのに、うまい言葉が出てこない。
俺が黙ったままでいると、寿の顔に僅かな不安が浮かんだ。
それを見てようやく我に返る。
「すまない。驚いていただけだ」
寿も同じだったらしく、自分もつい先ほどまで懐妊とは思っていなかったのだと、小さく笑った。
俺は寿の傍へ腰を下ろし、その手を取った。
先ほどまで苦しそうにしていたことを思えば、こうして手を握り返してくれるだけでもありがたかった。
言葉にするなら、結局それしかなかった。
「嬉しいな、寿」
寿の目元が少し潤んだ。
「はい。私も、とても嬉しゅうございます」
その表情を見た時、驚きばかりだった胸の内に、ようやく喜びがゆっくり広がっていった。
年長の侍女が頃合いを見て、まだ身体の変化が始まったばかりなので、暫くは無理をさせないようにと進言した。
俺にも異論はない。寿の身体を第一にし、医師にも引き続き様子を見てもらうことにした。
今のところ急を要する異常はないらしい。ただし吐き気が続き、食事を取れなくなるようであればすぐに知らせる必要があるという。
寿は少し休めば普段どおり過ごせると言ったが、少なくとも今日は書院へ戻らせるつもりはなかった。そこは寿も素直に従った。
俺は暫く休むよう伝え、父上へ報告するため寝所を出た。
*
父上は後藤但馬守と平井加賀守を相手に、領内から届いた報告を見ておられた。
急ぎの用向きだと伝えると話を止め、こちらへ顔を向ける。
寿のことで報告があると切り出した瞬間、父上の表情が変わった。
まず昼過ぎに寿が急に体調を崩したことを伝えると、父上はすぐに身を乗り出した。今はどうしているのか、医師には診せたのかと矢継ぎ早に尋ねられたので、既に落ち着いており、医師にも診てもらったことを先に話した。
その上で、どうやら懐妊したらしいと告げる。
父上が動きを止めた。
後藤と加賀守もこちらを見ている。
聞き間違いかと思ったのか、父上はもう一度確認した。
「寿が懐妊したようです。まだ日が浅いので様子を見る必要はありますが、医師は見込みが高いと申しておりました」
今度こそ父上の顔が一気に崩れた。
「そうか! それはめでたい!」
思わずこちらが驚くほどの声だった。
後藤と加賀守も姿勢を正し、祝いの言葉を掛けてくれる。俺が礼を返している間にも、父上は既に次のことを考え始めていた。
寿はどこで休んでいるのか。まさか書院へ戻ってはいないだろうなと確認したかと思えば、これから冷え込むのだから部屋を暖かくしなければならない、食事も今までと同じでよいのか確かめる必要があると、普段の父上からは想像しにくいほど次々に話が飛んでいく。
俺は途中で止めた。
「父上。まだ今日分かったばかりです。急に何もかも変えれば、寿の方が落ち着きませぬ」
父上は一度口を閉じた。
加賀守も、近衛家から付いてきた侍女がいるのだから、まずは慣れた者へ任せた方が寿も休みやすいと穏やかに進言する。
父上もそこは納得した。
だが次の瞬間には、今度は産婆のことを気にし始めた。
まだ先の話だと後藤が苦笑混じりに止めても、今すぐ呼ぶわけではない、心当たりくらい確かめておけば慌てずに済むのだと言い返している。
普段なら家臣たちの報告を静かに聞き、容易には判断を変えない父上が、今日は次々と思い付いたことを口にしていた。
見ているうちに、俺まで少し可笑しくなった。
寿は落ち着いていること、医師も暫く静かに休ませるようにと言っていることを改めて伝えると、父上もようやく腰を落ち着けた。
「それにしても……四郎に子が出来たか」
今度は先ほどより静かな声だった。
そこには当主としてではなく、純粋に父親として喜んでいる響きがあった。
俺自身、まだ実感は薄い。それでも寿と一緒に喜んでいると伝えると、父上は何度も頷き、寿へ身体を大切にするよう伝えてくれと頼んだ。
近衛家へ知らせる話も出たが、それはもう少し様子を見ることにした。まだ懐妊の初めであり、知らせを広めれば祝いの使者も増える。寿が落ち着いて過ごせることを優先し、当面は城内でも限られた者だけに留める。
話がまとまった後も、父上は何度か寿の具合を確かめた。
どうやら今日は、俺より父上の方が余程落ち着かないらしい。
*
父上のもとを辞した後、寿の周囲では一時だけ妙な騒ぎが起きた。
弥太郎が知らせに来た時には、俺も思わず眉を寄せた。
寿の部屋へ寝具や炭を持ってくる者が次々に現れ、近衛家から付いてきた侍女たちが困っているという。
誰の指示かは尋ねるまでもなかった。
「……父上だな」
弥太郎も同じ考えらしく、笑いを堪えるように口元を引き締めていた。
必要なものは既に揃っており、これ以上増やされても置き場所に困るらしい。ならば今あるもので十分だと父上へ伝えさせ、足りないものが出た時はこちらから頼むことにした。
結局、寿の世話はこれまで通り近衛家から付き従ってきた侍女たちを中心に行い、必要なことがあれば俺を通して父上へ伝える形に落ち着いた。医師にも引き続き様子を見てもらう。
父上が喜んでくれていること自体はありがたい。
普段とはまるで違う姿を見られたのも、俺としては少し面白かった。
夕刻にはようやく周囲も静かになった。
俺が寝所を訪れると、寿は寝具へ身体を預けながら侍女と話していた。顔色も戻っており、こちらを見ると嬉しそうに顔を上げる。
起き上がろうとしたので、そのままでいいと手で制した。
父上へ知らせたのかと尋ねられたので、随分喜んでいたと答えた。あまりに喜び過ぎて、寝具や炭まで次々に運ばせようとし、侍女たちを困らせていたことまで話すと、寿は口元へ手を添えて笑った。
自分のためにそこまで気を遣ってくれたことが嬉しいらしい。
「父上も嬉しかったんだろう。あれほど落ち着かない姿は珍しい」
加賀守と但馬守がいなければ、明日にでも産婆を呼んでいたかもしれないと付け加えると、寿はとうとう声を立てて笑った。
昼間の苦しそうな顔を思い返せば、いつもの笑顔を見られるだけでほっとする。
侍女たちが気を利かせて部屋を辞すると、俺は寿の傍へ腰を下ろした。障子越しの光はすでに弱く、庭の木々も夕闇へ沈み始めている。
昼からずっと人が出入りしていたため、こうして二人だけで落ち着いて話すのは初めてだった。
体調について改めて確かめると、今はもう随分楽らしい。ただ、また急に気分が悪くなることもあると侍女から聞かされたという。
それなら暫くは無理をしない方がいい。書院へ来ることも、具合のよい時だけで構わないと伝えると、寿は少し不安そうな顔をした。
もう以前のように書院へ来てはいけないと言われたと思ったらしい。
「そんなことは言っていない。具合がよければ来ればいい。ただ、疲れた時まで付き合う必要はない」
それだけ伝えると、寿は安心したように微笑んだ。
その後で、寿は自分の腹へそっと手を添えた。
暫くそこを見つめていたので、まだ信じられないのかと尋ねる。
「……少しだけ」
寿はそう答え、以前二人で話したことを覚えているかと静かに尋ねた。
何のことかはすぐ分かった。
祝言の夜に交わした話だった。
寿が何を恐れていたのかも、それに対して俺が何を伝えたのかも、二人とも覚えている。ここで改めて一から言い直す必要はない。
寿は、月のものが遅れていることには少し前から気付いていたらしい。
それでも以前に期待して何事もなかったことがあり、今回も違うかもしれないと考えていた。俺へ話した後で何もなければ、また自分が落ち込むのが怖かったのだという。侍女たちも気に掛けていたようだが、寿自身が口にしないため様子を見ていたらしい。
今日になって急に具合を崩し、年長の侍女から尋ねられて、ようやく可能性を意識した。
「本当に嬉しいのです、四郎様」
その一言を口にした寿の声が震えた。
俺は寿の手を取った。
以前の不安が完全に消えたわけではなかったのだろう。
あの夜に俺が何を言っても、寿の中に残っていたものまで一晩で消せるわけではない。それでも今日まで一人で抱えていたのなら、少なくともこれからはそうしてほしくなかった。
「今日は喜んでおけばいい」
寿がこちらを見る。
まだ先のことは分からない。医師も慎重に経過を見る必要があると言っている。だから今から起きてもいないことまで考える必要はなかった。
「寿がここにいて、子を授かった。それで十分だ」
寿は暫く俺を見つめ、やがて目元を拭った。
それから、以前伝えたことは今も変わらないとだけ付け加えた。子の有無で寿が俺の妻であることは変わらない。それをもう一度聞くと、寿は小さく頷いた。
嬉しくて涙を流すことまで謝ろうとしたので、そこまで謝る必要はないと止めた。
寿の表情が、ようやく少し穏やかになった。
やがて寿は俺の手を取り、自分の腹の上へそっと導いた。
当然、今は何も感じない。
外から見ても変化はなく、触れてもそこに子がいると分かるわけではない。
それでも、この腹の中に俺と寿の子がいるらしい。
そう考えると、医師から告げられた時よりもずっと現実味があった。
寿も同じなのか、腹に重ねた俺の手へ自分の手を添えたまま暫く動かなかった。
やがて、どちらに似た子が生まれるのだろうと寿が口にした。
俺は寿に似れば可愛らしいだろうと答えたが、寿は俺に似てほしいらしい。
意見が分かれたと言えば、寿は少しずつ似てもらえばよいのではないかと笑った。
子に今から頼んでおくつもりらしい。
「随分無茶を言う母親だな」
そう言うと、寿は俺ほどではないと返してきた。
何のことか問い返しても答えず、ただ楽しそうに笑っている。
俺もそれ以上追及する気にはならなかった。
暫くすると、寿がそっと身体を寄せてきた。
俺はその肩を支え、そのまま並んで夕暮れの障子を眺めた。廊下の向こうからは夕餉の支度をする者たちの声が聞こえてくる。
父上にとっても、家臣たちにとっても、この懐妊はいずれ六角家の先を考える上で大きな意味を持つのだろう。
近衛家へ知らせを届ける時期も考えなければならない。
それでも、それは今でなくていい。
寿がもう少しこのままでいたいと小さく言ったので、俺もそのまま肩を支えていた。
握られた手へこちらからも指を重ね、侍女が夕餉の支度を告げに来るまで俺たちは二人で静かに寄り添って過ごした。
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