淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第九十一話「京と河内に交わる思惑」ー前編ー

 永禄五年十一月上旬、山城国京。

 

 朝の政務を始めて間もなく、近衛家から使いが訪れた。六角右衛門督義治の正室となった寿が懐妊したという。近衛家でもまだ限られた者しか知らぬらしく、書状には祝いの使者などは当面控えてほしいとの言葉が添えられていた。

 

 寿が六角家へ嫁いだのは今年の六月下旬だったはずだ。祝言から四月余りで子を授かったとなれば、近衛家にとっても喜ばしいことであろう。以前の婚姻では子を授からぬまま実家へ戻ることになっただけに、寿自身も安堵しているのではないか。もっとも、懐妊したばかりとあっては無事に生まれるまで気を抜くこともできまい。今は静かに過ごさせてやるのがよさそうだった。

 

 書状を置いて細川兵部大輔藤孝へ目を向けると、ちょうど向こうもこちらの言葉を待っていた。

 

「公方様。六角家へはいかように祝意をお伝えいたしましょうか」

 

「まずは寿と右衛門督へ祝いの言葉を届けたい。ただし、まだ広く知らせておらぬのだろう。大仰な使者を立てれば先方も困る」

 

「近衛家からも、そのように取り計らっていただきたいとのことでございます。奥方様のお身体を案じておられるのでしょう」

 

「それならば配慮せねばならぬ。祝いは子が無事に生まれてからでも遅くはない。今は内々に言葉を伝えるだけでよい」

 

 藤孝は承知したと答えたものの、書状を手にしたまま席を立とうとしなかった。何か迷っているようだったので続きを促すと、近衛家を通じて伝えるべきか、それとも幕府から六角家へ直接書状を送るべきかと尋ねてきた。

 

 私はもう一度、近衛家の書状へ目を落とした。

 

 寿への祝いであれば近衛家を通じる方が穏当だろう。幕府から六角家へ直接使者を立てれば、義治の子を将軍が殊更に祝ったと受け取る者も出てくる。先方が内々にしてほしいと望んでいるのに、こちらから騒ぎを大きくする必要はなかった。

 

「近衛家へ返書を出そう。寿の身体を大切にするよう伝えてくれ。右衛門督への祝いも添えるが、六角家への正式な使者は今しばらく控える」

 

「承知いたしました。文面については後ほど御覧に入れます」

 

 藤孝が書状を取りまとめ始めたところで、伊勢貞孝が少し身を乗り出した。

 

「公方様。六角家との関係を考えますれば、今回の慶事は決して軽いものではございませぬ。正式な使者を控えることには異存ございませんが、時期を見て改めて祝意を表すべきかと存じます」

 

「分かっておる。六角は幕府にとっても無視できぬ家だ。まして寿は近衛家の娘。礼を欠くつもりはない」

 

「恐れ入ります」

 

 貞孝は頭を下げたが、表情にはなお慎重な色が残っていた。六角家との関係を案じているのだろう。慶事とはいえ、相手が有力な大名となれば祝いの伝え方一つにも気を配らねばならぬ。少々面倒にも感じたが、貞孝の懸念も理解できた。

 

 近江守護として幕府と関わってきた六角家も、今では将軍の意向を待たずに軍勢を動かすことがある。浅井家が滅び北近江の情勢が変わってから、その勢いは増すばかりだった。近江における支配を固めたと思えば、今度は美濃へ大軍を送り込んでいる。

 

 しかも軍勢を率いたのは義賢自身ではなく、嫡男の義治だという。

 

 以前に顔を合わせた時の右衛門督は、若いながらも周囲の話をよく聞き、自分の考えを容易には口にしない男だった。こちらが尋ねれば答えるものの、必要以上に言葉を重ねることはない。父の威を借りて尊大に振る舞う様子もなく、かといってこちらの顔色ばかり窺っているわけでもなかった。

 

 あの男が今では美濃で大軍を率いている。

 

 戦場でどのような采配を振るったのかは、京へ届く話だけでは分からぬ。それでも不破を押さえ、稲葉山城まで手に入れたという結果は残っている。以前の対面で受けた印象だけを頼りにするわけにはいかなかった。

 

「六角右衛門督も父親になるか。随分と若い父親だな」

 

 何気なく口にすると藤孝が顔を上げた。

 

「公方様も御存じのとおり、右衛門督殿はまだお若うございます。しかし美濃では見事な働きをなされたようで、六角家中でも評価が高まっていると聞きます」

 

「父の下で働くだけではなく、軍勢を率いて一国を攻めるようになったか。義賢も頼もしい嫡男を持ったものだ」

 

「まことに。今後の六角家を考えるうえでも、右衛門督殿の存在は大きゅうございましょう」

 

 藤孝が広げた紙には、祝意を伝える相手として寿と義治の名が並んでいた。そこへ生まれてくる子の名が加わるのはまだ先の話である。

 

 義賢は近江を押さえ、義治は美濃で戦功を挙げた。さらに次の世代が生まれるとなれば、六角家中の者たちもさぞ喜んでいることだろう。義賢にしてみれば、嫡男がこれほど早く大きな役目を担うようになったことだけでも嬉しいはずだ。

 

 ふと貞孝を見ると、まだ六角家について何か言いたげだった。しかし今ここで慶事の扱いを議論し続ける必要はない。祝意は伝え、正式な使者は先方から改めて知らせがあるまで控える。それで十分だった。

 

 私は藤孝に返書の支度を命じ、残る書状へ手を伸ばした。

 

 六角家の慶事は喜ばしいが、京で片付けるべき仕事はほかにもある。畿内では依然として三好家の力が大きく、諸国から寄せられる訴えも絶えない。今日もまだ目を通していない書状が机の脇に積まれていた。

 

 *

 

 昼前になると、三淵大和守藤英と和田惟政が御所へ参じた。藤英が持参したのは美濃方面の報告で、商人や寺社関係者から聞き取った話をまとめたものだった。

 

 稲葉山城を六角家が確保したことは既に承知している。だが、その後の動きとなると話が揃わない。龍興が東美濃へ退いたことは確からしいものの、残る兵の数も国人たちの動向も報告によって違っていた。

 

 六角へ帰属する者が続いているという話があれば、龍興が諸将を集めて再起を図っているとの知らせもある。中には既に美濃を捨てたという噂まで混ざっており、私は思わず眉を寄せた。これだけ話が食い違っていては、何を信じればよいのか分からぬ。

 

「大和守。六角は稲葉山からさらに東へ兵を進めておるのか」

 

「今のところ大きな軍勢を動かしたという知らせはございませぬ。西美濃の諸城に兵を残し、主だった軍勢は近江へ引き揚げたとのことでございます」

 

「ならば治部大輔も一息つけるか。もっとも、六角がこのまま手を引くとは思えぬが」

 

「仰せのとおりかと。美濃で得た城や所領を維持するだけでも相応の兵が必要となります。東美濃に一色家が残る限り、六角方も警戒を解くことはできますまい」

 

 藤英が広げた絵図には、不破から稲葉山へ至る道筋が記されていた。西から進んだ六角勢がどこを通り、どの城を押さえたのかは、これまでに届いた報告とも一致している。道筋を指で追ってみたが、龍興が東へ逃れた後に六角が追撃した形跡は見当たらなかった。

 

 軍勢を近江へ戻した以上、今は得た土地を落ち着かせるつもりなのだろう。城を取ることと、その城を守り続けることは別である。稲葉山を得たからといって東美濃の国人まで従うわけではない。

 

「美濃の国人たちはどうしておる」

 

「西美濃では六角方へ従った者が多いようにございます。稲葉山城の周辺でも新たな支配を受け入れる動きが見られるとのこと。ただ、東美濃については確かなことが分かっておりませぬ」

 

「一色の家臣であった者たちも、簡単には腹を決められぬだろうな」

 

「はい。主家への忠義だけでなく所領や一族のこともございます。六角方へ従った後に一色が盛り返せば、真っ先に責めを受けるのは帰属を変えた者たちでございましょう」

 

 報告の中には、同じ国人について異なる話が記されているものもあった。六角へ使者を出したという者が、別の報告では龍興への忠節を誓っている。両方が事実なのか、一方が誤りなのか。今のところ判断できるだけの材料はない。

 

 私はその名に印を付けさせた。

 

 龍興が敗れたからといって、その下にいた者たちまで同じ思いを抱くとは限らない。六角へ従えば領地を安堵されるかもしれぬが、一色が盛り返せば裏切り者として扱われる。家の存続を考える者ほど容易には動けまい。

 

 龍興自身の評判も随分と悪くなっているらしい。若さゆえの失策だと非難する者もいるが、話の大半は敗れた後になって語られたものである。勝っていれば同じ振る舞いを褒めたかもしれぬ者たちの話を、どこまで信じたものか。敗れた者への悪口は誰にでも言える。こちらまで一緒になって見下す気にはなれなかった。

 

「公方様。美濃について一つ気になることがございます」

 

 藤英の言葉に顔を上げると、彼は絵図の南側を指した。

 

「尾張の織田家にございます。六角が稲葉山を得たことで、織田も美濃への向き合い方を改めざるを得なくなったかと」

 

「織田信長か。尾張をまとめるだけでも苦労していたと聞くが、近頃はどうなのだ」

 

「以前と比べれば勢いを増しているようにございます。ただ、美濃での具体的な動きについてはまだ確かな報告がございませぬ」

 

「六角が美濃を取れば、織田にとっても隣国の主が変わることになる。気にせぬはずはないな」

 

 織田信長の名は以前から耳にしていた。尾張の内で争いを重ねながらも、次第に勢力を広げているという。今のところ幕府へ直接何かを求めてきたわけではないが、美濃の隣国にいる以上、今回の戦に関心を持たぬはずはなかった。

 

 信長が龍興と結べば六角は南からも警戒を強めることになる。逆に六角の勝利を利用しようと動けば、美濃の国人たちはさらに判断を迫られるだろう。両家が争うこともあれば、互いの利害を認めて手を結ぶことも考えられる。

 

 絵図を見つめても、織田がどちらを選ぶのかは分からなかった。

 

「幕府としては、今の美濃にどう関わるべきだと思う」

 

 そう問い掛けると、藤英は少し考えてから答えた。

 

「六角家との関係を保つことが第一かと存じます。ただし、一色家が完全に滅んだわけではございませぬ。今から六角による美濃支配を全面的に認めるような振る舞いは慎むべきでしょう」

 

「美濃の者たちからも不満が出るか」

 

「それもございます。何より幕府の権威を使って六角の征服を追認したと受け取られれば、今後ほかの大名が同じことを求める恐れがございます」

 

 私はすぐには答えなかった。

 

 将軍の名で所領を安堵することはできる。だが、その土地を実際に押さえている者が従わなければ、安堵状を受け取った者は再び幕府へ訴えてくるだろう。六角が兵を置いた美濃で一色家の権利を認めれば、こちらが新たな争いを作り出すことにもなりかねない。

 

 かといって、勝った者の言い分ばかり認めていれば将軍の裁定など不要だと思われてしまう。

 

 どちらへ転んでも厄介な話だった。

 

「今のところ六角から美濃について申し入れは来ておらぬな」

 

「はい。美濃で得た所領の扱いについて、幕府へ正式な裁定を求める動きは確認できておりませぬ」

 

「そうか」

 

 義賢が何を考えているのかは分からぬ。家中の処理が済むまで待っているのかもしれないし、一色との戦が終わっていない今は申し入れる必要がないと判断しているのかもしれぬ。

 

 しかし、稲葉山城を得てから既に幾月かが過ぎている。その間、幕府の承認を求める書状が届いたことはなかった。

 

 私は絵図の稲葉山城へ目を落とした。今そこを守っているのは六角の兵であり、幕府の兵ではない。こちらが何も命じずとも彼らは城を守り、周辺の国人と交渉している。その事実が少々面白くなかったが、だからといって取り上げられるものでもない。

 

 そこへ伊勢貞孝が一通の書状を差し出した。

 

「公方様。先日、美濃の寺社関係者から寄せられた申し出にございます。旧来の所領について、支配する者が変わった後も従前どおりの扱いを受けたいとのことでございます」

 

 受け取って目を通すと、争いの発端は寺社領の境界と年貢の納入先にあった。以前の安堵状についても記されているが、今の土地の様子は分からない。寺社側の言い分は整っているものの、六角方がどのような扱いをしているのかは書かれていなかった。

 

「この者たちは幕府に安堵を求めているのか」

 

「そのようにございます。ただ、実際に土地を押さえているのは六角方と思われますので、幕府からの返答だけで解決するかは分かりませぬ」

 

「六角へ確認せずに安堵すれば、現地で争いになる恐れがあるな」

 

「はい。反対に何も答えなければ、幕府へ訴え出た意味がないと考えるでしょう」

 

 私は書状を手元に置いたまま考えた。

 

 寺社が何を望んでいるかは分かる。従来どおり土地を保有し、そこから上がる収入を失いたくないのだろう。だが、古い安堵状があるというだけでは今の争いに裁定を下せない。土地の境界が変わっているかもしれぬし、一色家の頃から別の者と争っていた可能性もある。

 

 幕府の名で安堵を与えた後、六角から異議を唱えられては厄介だった。

 

「大和守。まずは申し出の内容を調べよ。古い安堵状があるなら、その由緒も確かめるのだ。六角へは現地の状況を尋ねるだけでよい。今の段階で土地の帰属まで決める必要はない」

 

「承知いたしました」

 

「それと訴え出た者たちにも調べを進めていると伝えておけ。返事もせずに帰してはならぬ」

 

 藤英は書状を受け取ると、控えていた者へ調べに必要な文書を揃えるよう命じた。古い安堵状を確かめるには幕府に残る記録にも目を通さねばならない。すぐに結論を出せる話ではなかったが、調べに着手したと知らせれば訴え出た者たちもひとまず返答を待つだろう。

 

 私は貞孝へも目を向け、同様の訴えがほかに届いていないか確かめるよう命じた。美濃の領主が変わったことで、今後もこのような申し出が増えるかもしれぬ。六角と争うつもりはないが、幕府へ助けを求めてきた者を最初から突き放すこともできなかった。

 

「公方様。六角については、もう一つ考えておくべきことがございます」

 

 それまで黙っていた和田惟政が口を開いた。

 

「何だ、惟政」

 

「六角が美濃を平定した後のことでございます。今は東美濃に一色が残っているため、六角もそちらへの警戒を続けております。しかし美濃を手に入れた後、六角の軍勢がどこへ向かうかは分かりませぬ」

 

「畿内へ目を向ける可能性があると申すか」

 

「ございます。無論、今すぐという話ではございませぬ。ただ、美濃を得れば六角の力はさらに増しましょう。その時に公方様が六角へ何を求められるのか、今から考えておいてもよろしいかと」

 

 私は絵図から顔を上げた。

 

 惟政の心配はもっともだ。稲葉山城を得ただけでも六角の勢いは増している。東美濃まで手に入れれば、義賢は今より大きな軍勢を動かせるようになるだろう。

 

 その力が三好に向けられれば、京の情勢も変わる。

 

 ただ、六角が幕府のために兵を動かすつもりでいるかどうかは別の話だった。

 

「惟政。六角に兵を求めるなら、何を約することになる」

 

「それは時と場合によるかと存じます。官職や所領のこともございましょうが、何より六角が兵を出すことで何を得られるのかを考えねばなりませぬ」

 

「将軍の求めに応じるだけでは、もはや足りぬということか」

 

 惟政は口を閉ざした。言葉を選んでいるのだろうが、その沈黙だけでも答えは分かった。

 

「恐れながら、今の諸大名はそれぞれの領国を守るために兵を動かしております。六角も同じでございましょう。公方様への忠節を重んじるとしても、それだけで美濃の兵を引き揚げて京へ向かうとは考えにくうございます」

 

 面白い話ではなかった。

 

 だが、惟政を責める気にもなれない。今の幕府にどれほどの兵がいるかは自分が一番よく知っている。諸大名へ命を下しても、従わせる力がなければ返事を待つほかない。そんなことは言われずとも分かっている。

 

「では、六角が京へ兵を向ける時は何を望むと思う」

 

「そこまでは分かりませぬ。ただ、六角義賢は既に近江で大きな力を持つ者。畿内へ関わるにしても、自らの家に利のある道を選ぶでしょう」

 

「なるほどな」

 

 義賢とはこれまで幾度もやり取りをしてきたが、こちらの意向に必ず従う男ではない。幕府との関係を軽んじるわけでもなく、その時々で自家に必要なことを選んでいるように見えた。

 

 嫡男の義治については、まだ分からぬところが多い。美濃で成果を上げたことで家中における立場も変わっているだろうが、父とどのような話をしているのかは知りようもなかった。

 

 もっとも、義賢が嫡男へ大きな軍勢を預けている以上、相応の信頼はあるのだろう。今のところ父子が争っているという話も届いていない。それは六角家にとって喜ばしいことだろうが、幕府から見れば考えるべき相手が二人になったということでもあった。

 

「六角については、しばらく今の関係を保つ。幕府の名で美濃の争いへ深入りすることは避けたい。ただし、向こうから話があれば軽んじずに応じよ」

 

「はっ」

 

 藤英と惟政が揃って頭を下げた。

 

 私は机の上に広げた絵図を畳ませ、貞孝が持ってきた訴状だけを残した。美濃について今できることは限られているが、少なくとも寺社からの申し出に返答を与えることはできる。

 

 義賢が何を考えているにせよ、幕府の側から進んで美濃の争いへ踏み込む必要はなかった。

 

 *

 

 美濃についての話を終えた後、惟政にはそのまま残るよう伝えた。北近江の朽木家について確かめたいことがあったからだ。

 

 近江の絵図を広げさせると、惟政は浅井家の旧領に当たる部分へ手を伸ばした。坂田郡は六角が得たが、浅井郡と伊香郡は朽木の支配に入っている。従来からの朽木の領地を合わせれば、もはや一国人の家とは呼べぬほどの広さだった。

 

 しかも朽木は六角の家臣ではない。

 

 互いに協力しているとはいえ、領地の支配も家臣の扱いもそれぞれが決めている。六角が美濃へ進出したからといって、朽木まで同じように兵を動かすわけではなかった。

 

「惟政。弥五郎については、近頃どのような話が届いておる」

 

「大きな軍勢を動かしたという知らせはございませぬ。北近江では新たに得た土地の支配を進めているようにございます。浅井家の旧臣たちについても、領地を安堵された者や新たな役目を与えられた者がいると聞きます」

 

「六角と争う様子はないか」

 

「今のところそのような話は聞いておりませぬ。むしろ両家の関係は良好なようで、六角右衛門督が美濃から帰還した後には朽木弥五郎が観音寺城を訪れたとの報告もございます」

 

「弥五郎が自らか」

 

「はい。六角の美濃遠征について話をしたものと思われますが、詳しい内容までは分かっておりませぬ」

 

 私は絵図の観音寺城へ目を向けた。

 

 朽木から観音寺へ向かったという報告は興味深い。六角が美濃へ兵を進めていた間、朽木がどこまで協力していたのかは分かっていない。しかし、北近江で大きな争いが起きていないことは確かだった。

 

 もし両家の関係が悪ければ、義賢も近江から大軍を動かすことには慎重になっただろう。坂田郡を押さえているとはいえ、その北には朽木の領地が広がっている。そこから兵を向けられる恐れがあれば、美濃へ集中することなどできぬ。

 

 今のところ、朽木が六角の背後を脅かすような動きは見られなかった。

 

「弥五郎も随分と力を付けたものだな」

 

「まことに。朽木の家は以前から近江北部に所領を持っておりましたが、今では浅井家の旧領まで治めております。家中の様子も以前とは変わっていることでございましょう」

 

 惟政の言葉を聞いて、かつて朽木の地に身を寄せていた頃のことが思い出された。

 

 京を離れたばかりの頃は、都から届く知らせが待ち遠しくてならなかった。将軍でありながら自らの御所へ戻ることもできず、三好の動向を聞いては諸将の返答を待っていた。朽木の山々に囲まれた館では、使者が到着するたびに人の出入りが増えたものだ。

 

 あの頃、朽木の地は京とは随分と違って見えた。

 

 朝には山から冷たい風が吹き下ろし、夜になれば周囲は静まり返る。京のように人が絶えず行き交うこともない。だが、そんな場所に身を置いていても畿内の争いから離れられたわけではなかった。三好がどう動いたか、誰がこちらへ味方すると申し出たか。届く書状の内容によって、その日の気分まで変わったことを覚えている。

 

 よい知らせがあれば気持ちも明るくなったが、悪い知らせが届いた夜は寝付けぬこともあった。京へ戻りたいという思いばかりが募り、使者の到着が遅れれば腹立たしくなることさえあった。今になって思えば、随分と余裕のない日々だった。

 

 それでも朽木の者たちはよく世話をしてくれた。こちらが将軍だからというだけではなかったのだろう。あの地で日々を過ごしたことは、今も忘れられぬ。

 

 その朽木が北近江を治めるほどの家となったのだから、月日の経過を感じずにはいられなかった。

 

 もっとも、昔の縁だけを頼りに今の朽木へ何かを求めるつもりはない。弥五郎には弥五郎の家臣がおり、治めるべき土地がある。こちらから兵を求めたところで、容易に応じられるものではないだろう。

 

「弥五郎は六角右衛門督と親しいと聞くが、どの程度のものなのだ」

 

「以前から親交があり、今も個人的な付き合いが続いているようにございます。両家の関係だけでなく、互いに信頼を寄せているとも聞きます」

 

「なるほど。家同士の付き合いだけではないということか」

 

「はい。ただ、それぞれが家を率いる立場となった以上、親しさだけで物事を決めることもできぬでしょう」

 

「そうだな」

 

 私は絵図の上で観音寺と朽木の位置を見比べた。

 

 両家の当主や嫡男が親しければ、使者を介さずに互いの考えを確かめられることもあるだろう。今回の弥五郎の訪問も、そうした付き合いの一つなのかもしれぬ。

 

 しかし、親しいからといって家の利益まで同じになるわけではない。朽木が何かを望んだとして、六角が必ず応じる保証はなかった。今は争いが起きていないというだけで、将来のことまでは分からぬ。

 

「朽木は六角の美濃攻略に、どこまで協力しておるのだ」

 

「六角の軍勢に朽木の兵が大きく加わったという話はございませぬ。浅井家を滅ぼした頃には両家で兵を動かしておりましたが、今回の美濃遠征は六角が主となって進めたものと見ております」

 

「それならば朽木は北近江の支配を固める方を選んだのだろうな」

 

「あるいは若狭方面の情勢を気にしているのかもしれませぬ」

 

 若狭と聞いて、私は惟政へ顔を向けた。

 

「何か動きがあるのか」

 

「今すぐ戦が起こるという話ではございませぬ。ただ、若狭の武田家は以前から家中が安定しているとは申せず、越前の朝倉家も無関係ではございませぬ。朽木が北近江を治める以上、若狭の情勢にも目を配っているのではないかと」

 

 若狭の武田家からは、これまでも家中の争いに関する話が届いていた。誰がどの者を支持しているのかも時期によって変わり、幕府へ訴えを寄せる者もいる。以前の書状を思い返してみても、容易に収まりそうな争いではなかった。

 

 そこへ越前の朝倉家が関わってくれば、さらに面倒なことになる。朝倉が若狭へ影響力を求めていることも、今に始まった話ではない。

 

「朝倉は朽木をどう見ておる」

 

「そこまでは確かなことが分かっておりませぬ。朽木が北近江へ勢力を広げたことを快く思わぬ者はいるでしょうが、今のところ両家の間で大きな争いが起きたという報告はございません」

 

「ならば今から争いになると決め付けることもできぬな」

 

「はい。若狭や越前の動向については引き続き確かめるべきかと存じます」

 

 私は絵図へ視線を戻した。

 

 北近江から若狭へ向かう道を眺めると、朽木が北方の情勢に関心を持つことも不思議ではなかった。若狭で争いが起きれば、その余波が近江へ及ぶことも考えられる。

 

 もっとも、それだけで朽木が兵を動かすと決まったわけではない。若狭武田家の争いに朝倉が関わったとしても、朽木が静観する可能性は十分にある。反対に朽木が若狭へ関与しようとすれば、朝倉がそれを警戒することもあるだろう。

 

 今ここで考えたところで、いずれも確かな話ではなかった。

 

 ただ、北近江で新たな争いが起これば六角家にも影響が及ぶ。朽木が北方へ兵を向けることになれば、義賢も近江の守りを考え直さねばならぬはずだ。そうなれば美濃へ送る兵の数にも違いが出るかもしれない。

 

「惟政。朽木については引き続き様子を確かめておいてくれ。若狭や越前のことも含めてな」

 

「承知いたしました」

 

「ただし、朽木が何かを企んでいると決め付けるな。現に何が起きているのかを知りたいのだ」

 

「心得ております」

 

 惟政が頭を下げると、藤孝が少し遠慮がちに口を開いた。

 

「公方様。朽木家へも使者を遣わされますか」

 

「今すぐでなくともよい。何かを求めるためだけに使者を送るのでは、弥五郎も警戒するだろう」

 

「では、これまでの関係を保ちながら折を見てということでございますか」

 

「ああ。朽木は幕府に縁のある家だ。それを忘れてはならぬが、昔の付き合いを理由に今の当主へ無理を求めるつもりもない」

 

 藤孝は納得した様子で頭を下げた。

 

 かつて世話になった家だからこそ、こちらの都合ばかり押し付けるわけにはいかぬ。あの頃の朽木と今の朽木では抱えているものも違う。弥五郎自身がどのような家を築こうとしているのかも、まだ十分に知っているわけではなかった。

 

 それでも、六角義治と親しく付き合いながら北近江を治める若い当主がいることは覚えておく必要がある。

 

 私は惟政へ、朽木に関する報告は今後も六角とは分けて届けるよう伝えた。両家が協力しているからといって、朽木の行動を六角の意向によるものと受け取っては困る。

 

 惟政もその点は心得ているようだった。

 

 *

 

 午後になると、今度は京における三好方の動きについて報告が入った。

 

 三好長慶は河内の飯盛山城を拠点としているが、その軍勢は摂津や大和にも置かれている。京の警固についても三好方の協力を受けることがあり、将軍として政務を行ううえで無視できる相手ではなかった。

 

 長慶とは長く争ってきた。今は互いに無用な衝突を避けているものの、何もかも信頼して任せられる関係ではない。

 

 もっとも、長慶も幕府と争うことばかり考えているわけではなかろう。こちらも三好の力を借りねば進まぬことがあるし、長慶にとっても将軍の名が必要になることはある。京で争いが起これば双方とも困るのだから、折り合えるところでは折り合うほかなかった。

 

「公方様。三好方から京の警固について申し入れがございます」

 

 進士晴舎が差し出した書状には、京へ出入りする三好方の兵の交代について記されていた。畿内の諸城に置かれた兵を入れ替える際、京を通る者がいるため、あらかじめ幕府へ知らせておきたいという内容だった。

 

 私は書状を受け取り、記された日取りと人数を確かめた。

 

 兵を入れ替えること自体は珍しくない。しかし以前にも、申し入れた日より早く三好方の兵が京へ入ったことがある。その際は大きな騒ぎにならなかったものの、町衆からは不安を訴える声が寄せられていた。

 

 寺社や公家の屋敷が立ち並ぶ京で、武装した者たちが勝手に行き来すれば目立つ。兵が通るたびに争いが起きるわけではないが、将軍のいる都で幕府の知らぬ軍勢が動き回ることをよしとするわけにもいかなかった。

 

「人数はどれほどだ」

 

「大軍ではございませぬ。数も行き先も書状に記されております。ただ、前にも申し入れより早く兵が通ったことがございましたので、今回も気に掛けております」

 

「長慶から直接の命か」

 

「三好方の役人を通じた申し入れにございます。長慶がどこまで承知しているかは分かりませぬ」

 

 私は書状へもう一度目を通した。

 

 記された人数だけなら京の様子が大きく変わるほどではない。しかし三好方の兵が道中で町の者と揉めれば、結局は幕府へ訴えが持ち込まれることになる。

 

 かといって兵の往来を禁じても、長慶が素直に従うとは限らぬ。畿内各地に兵を置く三好にとって、京を通らずに済ませられぬ場合もあるのだろう。

 

「兵が通ること自体は構わぬ。ただし、京の中で騒ぎを起こさぬようにすることと、通る日取りを前もって知らせることを改めて求めよ」

 

「承知いたしました」

 

「それと町衆から訴えがあれば聞き置くだけにするな。どのような被害があったのか確かめ、必要なら三好方へ伝えよ」

 

 晴舎は頭を下げた。

 

 以前、三好方の兵の往来について訴えが寄せられた際にも、誰が責任を持って対応するのかを確かめるだけで随分と手間が掛かった。兵を通した者は自分の指図ではないと言い、道中を取り仕切った者は問題が起きたことすら知らぬと答えた。

 

 あの時は腹立たしかった。町の者が困っているというのに、誰も自分の責任だとは認めぬのだからな。今回も同じことになれば、町衆は幕府へ訴えても何も変わらぬと思うだろう。

 

 将軍の御所がある京で、そのようなことを重ねるわけにはいかなかった。

 

 もっとも、幕府の兵だけで京を守れるかと問われれば返答に困る。三好方の力を借りずに済むのであれば、それに越したことはないのだが。

 

「公方様。三好方との関係については、今後も慎重に進める必要がございます」

 

 藤英の言葉に私は頷いた。

 

「分かっておる。長慶も今は幕府と争うことを望んではおらぬだろう。こちらから無用な火種を作るつもりはない」

 

「ただ、六角家が美濃で勢力を広げたことについては、三好方も関心を持っているものと思われます」

 

「長慶も六角の動きを気にしておるか」

 

「確かなことは申せませぬが、六角が今後どちらへ兵を向けるかは三好にとっても重要な問題にございましょう」

 

 私は先ほど畳ませた美濃の絵図へ目を向けた。

 

 六角の軍勢が美濃へ向かっている間、長慶にとって近江から大軍を送られる心配は小さくなるだろう。しかし一色家が滅び、義賢が美濃を落ち着かせれば事情は変わる。今より多くの兵を動かせるようになった六角が、次にどこへ目を向けるかは長慶にも分かるまい。

 

 まして幕府と六角が親しくなれば、三好方が警戒を強めることも考えられる。

 

 ただ、六角と三好の間に争いが起きれば、こちらが何もせずに済むとも思えなかった。

 

 長慶を退けるために義賢へ兵を求めたとして、その後はどうするのか。六角が望むだけの見返りを与えられるのか。仮に三好が敗れても、六角の軍勢が畿内に留まれば、今度は義賢と向き合うことになる。

 

 私は腕を組んだまま、しばらく考えた。

 

「六角と三好を争わせれば幕府が安泰になる。そう考える者もいるだろうな」

 

 思わず口にすると、藤英は慎重に答えた。

 

「三好の力を弱めることにはなりましょう。しかし六角が勝った場合、その軍勢をどのように扱うかという問題が残ります」

 

「そのとおりだ。勝った者が新たに力を持つだけでは、何も変わらぬ」

 

 口にしてから、我ながら情けない話だと思った。

 

 三好を退けたいと願いながら、それを成し遂げた者の力まで恐れねばならぬ。将軍という立場でありながら、他家の軍勢に頼らなければ思うように動けないことが歯痒かった。

 

 以前にも三好へ対抗するため諸将へ兵を求めたことがあった。その時は京へ戻ることが何より先であり、味方すると申し出た者の言葉に期待を寄せたものだ。

 

 だが、兵を出すと約した者が必ず来るわけではなかった。実際に動いた者であっても、自家の事情が変われば引き揚げてしまう。こちらがどれほど望んでも、各家の都合まで変えられるわけではない。

 

 義賢が兵を出すと言えば心強いだろう。しかし、それによって将軍の権威が直ちに取り戻せるとは限らなかった。

 

 諸大名が幕府へ裁定を求め、その結果を受け入れる。今も美濃の寺社が安堵を求めてきたように、将軍の名を頼る者はいる。そうした訴えに応じられるようにしておくことも、兵を集めることに劣らず大切な仕事だった。

 

「藤英。長慶の動きについては今までどおり確かめよ。ただし、こちらが六角と三好を争わせようとしているなどと思われては困る」

 

「心得ております」

 

「必要な話は長慶にも伝えて構わぬ。隠し事ばかりしていては、かえって疑われることもある」

 

 藤英は少し意外そうな顔をした。

 

「公方様。六角家についてもお伝えするのでございますか」

 

「六角が美濃へ進出したことなど、長慶も既に知っておろう。今さら隠す意味はない。ただし、六角との間にまだ決まってもいない取り決めがあるかのような話はするな」

 

「承知いたしました」

 

 藤英が頭を下げると、私は晴舎の持ってきた三好方の書状を返した。

 

 長慶が何を考えているかは分からぬ。こちらが六角へ近付くことを快く思わない可能性もあるが、今からその顔色ばかり窺うつもりはなかった。反対に三好との関係を保つため、六角や朽木との付き合いを断つ必要もない。

 

 相手を疑ってばかりいても物事は進まぬ。兵の往来については必要な約束を取り付け、問題が起きればその都度確かめればよい。

 

 長慶と意見を異にすることは今後もあるだろうが、少なくとも京の警固について今すぐ争う理由はなかった。

 

 *

 

 夕刻が近付く頃には、その日に予定していた政務もようやく一段落した。

 

 藤孝が持ってきた返書の案を確認し、近衛家へ届けるよう命じる。寿の懐妊については内々の祝意に留め、正式な使者は六角家から改めて知らせがあった後に考えることとした。

 

 藤孝の書いた文面には、寿の身体を案じる言葉と義治への祝意が簡潔に記されていた。余計な飾りもなく、先方へこちらの気持ちを伝えるには十分であろう。私はそのまま認めることにした。

 

 美濃の寺社関係者から寄せられた訴えについても、藤英が調べを進めることになっている。以前の安堵状が残っているかを確かめ、六角家へは現地の事情を尋ねる。結果が届くまでは土地の帰属について裁定を下さぬことにした。

 

 朽木については惟政を通じて北近江や若狭の動向を確かめ、三好方との連絡は従来どおり続ける。

 

 それぞれの手配を終えると、控えていた者たちも順に退出していった。

 

 室内が静かになったところで、私は机の上に残された書状を見渡した。朝にはそれなりに片付いていたはずだが、今では新たに届いたものが幾つも積まれている。

 

 六角家の慶事を知らせる書状は、既に藤孝が返書の支度へ回していた。代わって手元に残っているのは美濃からの訴えと、京の寺社から寄せられた所領に関する申し出である。

 

 ふと、先ほど藤英が広げていた美濃の絵図を思い出した。

 

 稲葉山城を得た六角は、今も東美濃に残る一色家と向き合っている。尾張の織田も無関係ではいられず、朽木は北近江で新たな領地を治めている。若狭や越前から届く話によっては、そちらでも何かが起きるのかもしれない。

 

 畿内では三好長慶が依然として大きな力を持ち、こちらもその存在を無視して政務を進めることはできぬ。

 

 これほど多くの家がそれぞれ兵を動かし、土地を得ようとしているのだから、今後も争いは続くのだろう。

 

 もっとも、何が起きるか分からぬという点では将軍の身も同じである。かつて京を離れた時には、再び都へ戻れるかどうかさえ分からなかった。それが今では御所で政務を行い、諸国から届く書状に返答を与えている。

 

 今後どうなるかなど、誰にも分かるまい。

 

 私は脇に置かれていた訴状を一通取り上げた。

 

 京の寺社から寄せられたもので、美濃の件とは異なる所領についての争いだった。書状には寺社側の言い分が細かく記されているものの、相手方の主張についてはほとんど触れられていない。これでは一方の話だけを聞いて裁定することになる。

 

 私は筆を取り、相手方の言い分も確かめるよう書き添えた。

 

 こうした訴えは毎日のように届く。誰もが自分の主張を認めてもらいたいと考えているのだから、すべてに満足のいく返事を与えることなどできぬ。それでも、幕府へ申し出れば話を聞いてもらえると思っている者がいる。

 

 その期待に応えられぬことが増えれば、いずれ訴え自体が届かなくなるのだろう。

 

 私は書き添えた紙を訴状と重ね、明日調べるものの中へ移した。

 

 書状を読み終える頃、藤孝が再び部屋へ入ってきた。

 

「公方様。近衛家への返書は明朝、使者に持たせることとなりました」

 

「うむ。先方には内々のこととして伝えてくれ」

 

「承知いたしました。それと美濃からの訴えについても、大和守殿が調べを始めております」

 

「そうか。何か分かれば知らせよ」

 

 藤孝は頭を下げた後、少しだけ言い淀んだ。

 

「公方様。一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」

 

「何だ」

 

「六角家と朽木家について、今後はどちらとの関係を重んじられるのでございますか」

 

 私は藤孝を見た。

 

 突然の問いだったが、何を気にしているのかは察しがついた。六角は美濃へ勢力を広げ、朽木も北近江を得ている。両家が親しいのであれば、幕府としてどちらへ重きを置くか考えておくべきだと思ったのだろう。

 

 しかし、今のところどちらかを選ぶ理由はなかった。

 

「両方だ」

 

「両方にございますか」

 

「ああ。六角には六角の立場があり、朽木には朽木の立場がある。両家が親しいからといって、一つの家のように扱うことはできぬ。だからこそ、それぞれと関係を保つのだ」

 

 藤孝は少し考えるようにしてから頷いた。

 

「かしこまりました。今後の使者の手配についても、そのように心得ます」

 

「ああ。それと長慶との関係も忘れるな。六角や朽木と親しくするために三好と争うつもりはない。今の幕府には、諸家と話を続けられること自体が大切なのだ」

 

「御意にございます」

 

 藤孝は改めて頭を下げ、部屋を辞した。

 

 私は再び机の上へ手を伸ばし、先ほど読み終えた訴状を脇へ寄せた。明日には美濃の寺社から新たな話が届くかもしれぬし、朽木や三好から使者が来ることもあるだろう。

 

 何が届くにせよ、まずは中身を確かめてから判断するほかない。

 

 そう考えて次の書状を広げると、また別の寺社から所領についての申し出が記されていた。これも相手方の話が足りていないらしい。私は思わず苦笑すると、傍らに置いた紙を引き寄せて調べるべき事柄を書き留めていった。

 

 庭から聞こえていた人の声が遠ざかり、御所の中にも夕刻の静けさが広がり始めていた。机の上にはまだ幾通もの書状が残されており、私は灯りを近くへ寄せさせると、その続きを読み進めた。

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