淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第九十二話「京と河内に交わる思惑」ー後編ー

 永禄五年十一月中旬、河内国飯盛山城。

 

 朝から山を覆っていた霧が薄れ始めた頃、京からの使者が城へ到着した。山道を登ってきたばかりの使者は息を整える間もなく書状を差し出し、取次の家臣がそれを私の前へ運んできた。

 

 差出人は京に置いている奉行である。先日、幕府へ申し入れた兵の交代について返答があったらしい。封を解いて目を通すと、通行そのものは認めるものの、日取りを事前に知らせることと町中での振る舞いを厳しく取り締まることが求められていた。以前、予定より早く兵を通した件にも触れられている。

 

 読み終えた書状を脇へ置くと、向かいに座っていた松永弾正が顔を上げた。

 

「殿。公方様からの返答でございますか」

 

「ああ。兵の通行は認められた。ただし日取りを明らかにし、京では騒ぎを起こすなとのことだ」

 

「以前の件をまだ気にしておられるのでしょうか」

 

「そのようだ。町衆から不満が出たことまで持ち出しておる」

 

「こちらの奉行にも改めて申し渡しておきましょう。ただ、行軍の都合で日取りが変わることもございます」

 

「それは承知しておる。変わるなら先に知らせればよい。つまらぬことで幕府に口実を与える必要もあるまい」

 

 弾正は苦笑したものの、すぐに表情を引き締めた。兵を動かす側からすれば、いちいち幕府へ日取りを知らせるのは面倒なのだろう。道中の天候や宿営の都合で予定が変わることも珍しくない。だが将軍のいる京でこちらの兵が勝手に振る舞ったとなれば、話は別だった。

 

 それにしても、公方様はこうしたことには随分と細かい。京の警固をこちらに頼りながら、その兵がいつ通るかまで口を挟んでくる。将軍としての面目を保ちたいのだろうが、肝心なところでは三好の力を借りねばならぬ。京へ戻ってから政務に励んでいるとは聞くものの、幕府だけでどれほどのことを成し遂げられるのか疑わしかった。

 

 もっとも、そのような相手であっても公方様は公方様だ。表向きの礼儀を欠いて余計な争いを招くほど、こちらも愚かではない。兵の通行を認めてもらえた以上、相手の求めに応じれば済む話だった。

 

「兵を率いる者には町中での振る舞いを厳しく申し渡せ。商家から荷を取り上げたり、宿を無理に借りたりすることのないようにな」

 

「承知いたしました。京の奉行にも取り締まりを徹底させます」

 

「以前の件も確かめておけ。申し入れより早く兵を通した者が、何を考えてそのような判断をしたのか聞いておきたい」

 

「すぐに調べさせましょう」

 

 弾正は控えていた家臣へ指示を与えた。家臣が書き留めた紙を持って退出すると、私は次の書状へ手を伸ばした。

 

 京からの知らせは兵の往来についてだけではない。幕府の使者が近衛家を訪れたことや、美濃の事情を調べるために幕臣たちが商人や寺社関係者と接触していることも記されていた。

 

 近衛家への使者については用向きが分からなかった。もとより公家同士の往来は珍しくなく、近衛家には六角へ嫁いだ娘もいる。今回の訪問だけで特別な意味があるとは思えぬが、美濃について幕府が情報を集めているという話には目が留まった。

 

「公方様も六角の動きが気になるらしいな」

 

「稲葉山城まで六角の手に渡ったのでございます。京でも随分と話題になっております」

 

「それだけなら構わぬが、左京大夫へ何か求めるつもりなら話は別だ」

 

「今のところ、そのような申し入れがあったとの報告はございませぬ。近江へ向かった幕府の使者についても、特別な動きは確認できておりません」

 

「ならば今は様子を見るしかないな」

 

 弾正は手元の書状を揃えかけたが、途中で手を止めた。

 

「殿は、公方様が六角を頼るとお考えですか」

 

「分からぬ。ただ、左京大夫にとっても将軍家との縁は軽いものではあるまい。何か求められれば話くらいは聞くだろう」

 

「しかし今は美濃を得たばかり。すぐに畿内へ兵を向けるとは考えにくうございます」

 

「左京大夫も無理はすまい。だが、公方様が何を望んでいるかまでは分からぬ」

 

 幕府と六角の間には長い付き合いがある。左京大夫自身も将軍家を無視しているわけではないが、求められるまま兵を動かす男でもなかった。

 

 美濃であれほどの軍勢を使い、稲葉山城まで手に入れたばかりだ。そこを放り出して京へ兵を進めるとなれば、家中からも異論が出るだろう。しかし左京大夫が近江に残り、嫡男の右衛門督が美濃で軍勢を率いていたことは気になる。父子で役目を分けているのであれば、美濃の戦が続いているからといって畿内へ一兵も動かせぬわけではない。

 

「弾正。京の使者の往来は引き続き確かめよ。ただし、幕府の者へ余計な詮索をするな」

 

「承知いたしました」

 

「こちらが騒げば、公方様も何事かと疑うだろう。今は兵の通行について返事があった。それに従えばよい」

 

 弾正は頷いたものの、まだ何か言いたげだった。

 

「どうした」

 

「公方様は近頃、随分と政務に熱心だと聞きます」

 

「以前から熱心ではあった。思うように進められなかっただけだ」

 

「京へ戻ったことで、以前より動きやすくなったのでしょうな」

 

「それは確かだろう。もっとも、書状を出すだけなら誰にでもできる。肝心なのは、その先だ」

 

 弾正の口元がわずかに緩んだ。

 

 公方様が京へ戻ってから、幕府の者たちが以前より盛んに諸国へ書状を送るようになったことは確かだ。寺社の所領について訴えを聞き、諸大名との往来を重ねている。将軍としての権威を取り戻そうと考えているのだろう。

 

 だが諸国へ命を下したところで、相手が従わなければそれまでだ。公方様にはその命令を押し通すだけの力がない。幕臣たちがいかに言葉を飾ろうとも、結局は三好や六角のような大名を頼るほかないのである。

 

 それでも幕府の働きがすべて無駄というわけではなかった。こちらも京を落ち着かせるためには将軍の権威を必要とすることがある。公方様が寺社や公家の訴えを引き受けてくれるなら、私も河内や大和に手を掛けられる。

 

 互いに譲れるところでは譲ればよい。何もかも争っていては、こちらの身が持たぬ。

 

 机の端には、京の寺社が幕府へ所領について訴えたという報告も置かれていた。

 

「京の寺社からの訴えについては、公方様の裁定を待てばよい。ただし、こちらの家臣が関わるものは先に調べておけ」

 

「幕府から問い合わせがあった際に備えるのでございますな」

 

「ああ。何も知らぬまま問いただされるのは避けたい。家臣の言い分だけを信じて恥をかくのも面白くないからな」

 

「心得ております」

 

 弾正はわずかに笑みを浮かべ、関係する家臣の名を書き留めた。

 

 幕府と三好の間で意見が違うことは今後もあるだろう。しかし書状のやり取りで済む問題を、わざわざ兵を出して争う必要はない。公方様が自らの権威を示そうとすることも理解できるが、だからといってこちらが何もかも譲るつもりはなかった。

 

 私は弾正へ京の奉行に宛てた返書を用意するよう命じた。公方様への返答には礼を欠かぬよう申し添える。こちらの腹の内まで書状へ記す必要はない。

 

 *

 

 京からの書状を取りまとめている間に、嫡男の孫次郎が部屋へ入ってきた。

 

 朝から家臣たちと美濃の報告を確かめていたらしく、手には紙を継ぎ足した書状がある。幾度も読み返したのだろう。端には小さな印が付けられ、気になる箇所には細かな書き込みまで見えた。

 

「父上。美濃からの報告を御覧いただきたく参りました」

 

「ちょうど六角の話をしておったところだ。こちらへ持って参れ」

 

 孫次郎は弾正へ会釈すると、私の前へ書状を広げた。

 

 稲葉山城については既に何度も報告を受けている。今回の書状には六角勢が近江へ帰還した後の様子が記されていた。

 

「六角の主だった軍勢は近江へ戻っております。しかし稲葉山城と周辺の城には兵を残し、現地の国人との交渉も続けているようにございます」

 

「治部大輔はどうしておる」

 

「東美濃に留まっているとのことでございます。逃れた後も諸将へ使者を送っているようですが、どれほどの兵を集められるかまでは分かりませぬ」

 

「そうか。六角も一色を追い詰め切れなかったか」

 

 孫次郎は頷きかけたが、何か言いたそうに顔を上げた。

 

「どうした。思うところがあるなら申してみよ」

 

「私は、六角が兵を引いたことを失策とは考えておりませぬ。稲葉山を得た直後にさらに東へ進めば、兵糧を運ぶだけでも難儀したのではないでしょうか」

 

「ほう。そう思うか」

 

「はい。不破から稲葉山までならば、得た城を使って荷を運ぶこともできましょう。しかし東へ進めば道はさらに長くなります。現地の国人がどこまで協力するかも分かりませぬ」

 

 孫次郎は絵図の上で稲葉山から東へ指を動かした。

 

 私はその指先を追いながら、書状に記された城の名を確かめた。六角が西美濃で得た城には守備の兵が置かれている。そこからさらに先へ進むとなれば、守るべき道も増えていく。冬が近いことも考えねばならぬ。兵を動かせたとしても、山道が雪で塞がれれば荷の運搬に支障が出るだろう。

 

 孫次郎の考えは悪くなかった。以前ならば敵を追い詰める好機だと勢い込んだかもしれぬが、今は軍勢を支える者たちの苦労にも目を向けている。書状の端に残された細かな書き込みからも、随分と時間を掛けて考えたことが窺えた。

 

「では、六角が来春まで動かぬとしたら、治部大輔には何ができる」

 

 孫次郎は絵図へ目を落とした。

 

「離れた国人を呼び戻し、残る城の守りを固めることでしょうか。六角が攻めてこぬのであれば、諸将と話をする時間も得られます」

 

「ほかには」

 

「尾張の織田へ働きかけることも考えられます。ただ、信長が応じるかどうかは分かりませぬ」

 

「その間、六角にも西美濃を落ち着かせる時間があるな」

 

「はい。来春になれば、今より確かな足場を得て再び兵を進められるかもしれませぬ」

 

「そうだな。治部大輔だけが時を得るわけではない」

 

 孫次郎は納得したように頷いたが、少し悔しそうでもあった。自分ではよく考えたつもりだったのだろう。こちらが別の見方を示せば、まだ気付いていなかったことがあると分かる。その反応を見ていると、つい昔の自分を思い出してしまう。

 

 報告を読むだけならば、六角の撤退を失策と決め付けることは容易だ。しかし実際に軍勢を率いていれば、兵の疲れも家臣たちの意見も気になるだろう。退くべきと分かっていても、勝ち戦の途中で兵を止めることは容易ではない。大きな戦果を挙げた直後であれば、なおさらだった。

 

「右衛門督は思い切ったことをする男だな」

 

「若くして大軍を率いたと聞きます。父上は以前から御存じなのですか」

 

「いや、直接会ったことはない。左京大夫の嫡男として名は聞いておったが、ここまでの働きをするとは思わなんだ」

 

「それほど意外でございましたか」

 

「若いからといって侮るつもりはない。ただ、噂だけで人柄までは分からぬ。まして大軍を預けられた時にどのような判断をするかなど、実際に戦を見なければ分からんものだ」

 

 私は絵図に記された稲葉山城へ目を落とした。

 

 右衛門督がどのような男なのか、詳しいことは知らない。京や近江を行き来する商人から名を聞いたことはあっても、それだけで人物を見定めることはできぬ。

 

 ただ、美濃で軍勢を率い、稲葉山城を得たという結果は確かだった。左京大夫がどこまで戦の進め方に関わったのかは分からぬが、嫡男に大軍を預けたことだけでも六角家中の事情が窺える。

 

「左京大夫が軍勢を任せたのでございましょうか」

 

「そうだろう。左京大夫自身が近江に残っている以上、嫡男へ任せたと見るのが自然だ」

 

「それほど信頼されているのでございますな」

 

「少なくとも、失えば家が揺らぐほどの軍勢を預けられる男だ。生半可な信頼では任せられまい」

 

 孫次郎は静かに頷き、絵図へ視線を戻した。その表情には感心だけでなく、どこか羨むようなものが混じっていた。

 

 右衛門督は孫次郎と年齢が大きく離れているわけではない。その男が美濃で軍勢を率い、稲葉山城を得たという。孫次郎が関心を持つのも無理はなかった。

 

 ただ、同じ年頃だからといって置かれた立場まで同じではない。六角は近江を固めたうえで美濃へ向かったが、こちらには河内や大和をはじめとして目を離せぬ土地が幾つもある。孫次郎にもいずれ大きな軍勢を任せることになるだろうが、今すぐ右衛門督と同じ役目を与えるわけにはいかなかった。

 

「父上。六角が美濃を平定した場合、畿内へ兵を向けてくるとお考えですか」

 

「すぐには動くまい。得たばかりの美濃を空にするわけにもいかぬだろう」

 

「では、当面は美濃の戦を見ていればよいのでしょうか」

 

「それだけでは足りぬ。美濃の兵が動かぬからといって、近江の兵まで動かぬとは限らん」

 

 私は絵図を引き寄せ、稲葉山から近江へ指を戻した。

 

「左京大夫は今回、自ら美濃へ出ておらぬ。次も同じようにするとは限らぬが、近江に残る兵がどれほどいるかは確かめておけ」

 

「六角が二方へ兵を動かすことも考えられるのでございますな」

 

「できるかどうかは別だ。だが、美濃で戦っているから畿内へは来られぬと決めてしまうのは危うい」

 

「承知いたしました」

 

 孫次郎は手元の書状へ何かを書き添えた。

 

 以前よりも報告を読む目が変わってきたように思う。城を得たという知らせだけで喜ぶこともなくなり、どこに兵が残っているのか、次に何ができるのかを尋ねるようになった。私があれほど細かく言い聞かせた覚えはない。家臣たちと日々仕事をするうちに、自然と考えるようになったのだろう。

 

 そうした成長を感じるのは嬉しいものだ。面と向かって褒めてもよいのだが、少しばかり照れくさい。孫次郎も同じだろう。今は何も言わず、次の話へ移ることにした。

 

「ところで、織田については何か届いておるか」

 

 私が尋ねると、孫次郎は別の紙を取り出した。

 

「信長は今のところ美濃へ大きな軍勢を送っておりませぬ。ただ、六角が稲葉山を得たことは当然知っているはずでございます」

 

「織田の使者が六角へ向かったという話はないのか」

 

「まだ確かな報告はございませぬ」

 

「そうか。あの男が何を考えているのか、気になるところだな」

 

 織田信長の名は以前から聞いている。尾張の内で争いを重ねながらも、近頃は着実に力を伸ばしているらしい。

 

 これまでは尾張の家中の争いについての報告が多かったが、美濃で龍興が敗れたことで状況は変わった。尾張から北へ目を向ければ、今度は六角の勢力が広がっている。

 

 信長が龍興を支えるのか、それとも六角と何らかの取り決めを結ぶのか。今はまだ判断できなかった。

 

「織田についても確かめておけ。六角だけを見ていては、尾張から何が起きるか分からぬ」

 

「はい。尾張へ向かう商人たちからも話を集めさせます」

 

 孫次郎が書状を整え始めたので、その手を止めさせた。

 

「もう一つ聞いておきたい。六角の美濃攻略は、我らにとって都合がよいと思うか」

 

 孫次郎は少し驚いたようだった。先ほどまでとは違い、すぐには口を開かない。

 

「今のところは、六角が畿内へ兵を向ける恐れが小さくなっております。悪い話ではないかと」

 

「美濃を得た後はどうだ」

 

「その時は警戒を強めねばなりませぬ。六角がさらに力を付けることになりますので」

 

「そうだな」

 

 今のところ孫次郎の答えに異存はない。

 

 六角が美濃で戦っている間、こちらは畿内のことに手を掛けられる。河内の畠山や大和の寺社との争いを抱えている今、その時間はありがたい。しかし美濃を得た六角が次に何を望むかまでは分からなかった。

 

 左京大夫が東へ進むことを選ぶかもしれぬし、織田と争うことになるかもしれない。どちらにせよ、今から六角を敵と決め付けて兵を動かす理由はない。

 

「孫次郎。六角の動きは確かめ続けよ。ただし、こちらから美濃の争いへ手を出すことはせぬ。今は畿内に片付けねばならぬことが多い」

 

「承知いたしました」

 

 孫次郎が頭を下げると、弾正も静かに頷いた。

 

 私は絵図を畳ませ、六角と織田に関する書状をそれぞれ分けて置くよう命じた。次の知らせが届いた際、以前と何が変わったのかを確かめられるようにしておきたかった。

 

 *

 

 美濃の絵図を片付けさせたところで、弾正が別の書状を差し出してきた。

 

「殿。北近江についても報告が届いております」

 

「朽木か。何か動いたのか」

 

「大きな兵の動きはございませぬ。浅井家の旧領を行き来する商人から得た話にございます」

 

 受け取った書状には、北近江の市や街道で聞き取った話が記されていた。朽木が新たに得た土地では旧浅井家臣の所領安堵が進み、村々への役人の派遣も続いているという。年貢の納入先が変わったことで戸惑う者もいるようだが、大きな争いに発展したという報告はなかった。

 

 私は書状の端に記された村の名を確かめた。以前、浅井家の内紛について知らせが届いていた頃には、同じ村の名が何度も出てきた覚えがある。誰に従うべきかを巡って争い、年貢を納める先が定まらぬという話だった。それが今では朽木の役人が帳面を作り、村の者から申し出を聞いているらしい。

 

「朽木は思ったよりも落ち着いておるようだな」

 

「少なくとも、旧浅井家臣が大きな軍勢を集めて反抗している様子はございませぬ。所領を安堵された者も多いようでございます」

 

「浅井が滅んだ後もしばらくは北近江で争いが続くと思っておったが、見込みが違ったか」

 

「多少の揉め事はあるでしょう。しかし今のところ、朽木の支配を覆すような動きは聞いておりませぬ」

 

 私は書状の続きを読んだ。

 

 朽木の役人は新たに得た村々を回り、所領の境や年貢についての申し出を受けているらしい。浅井家の頃から続く争いについても、関係する者を呼んで話を聞いているという。もっとも、商人たちがどこまで正確に知っているかは分からない。荷を運ぶ者にとって重要なのは道が通れるかどうかであり、村ごとの争いに詳しいわけではないだろう。

 

「浅井家の旧臣たちは、よく朽木に従ったものだな」

 

「主家が滅んだ以上、家を残すことを選んだ者もいるのでしょう。所領を失わずに済むのであれば、朽木へ従う理由にもなります」

 

「そうだな。長く仕えた主家が滅んだからといって、残された者まで家を捨てるわけにはいかぬ」

 

 それは理解できることだった。主君への義理を尽くしたいと思う者がいても、その背後には妻子や一族がおり、家臣たちもいる。戦に敗れた後まで意地を通すことが、必ずしも彼らを守ることにはならない。

 

 孫次郎も書状に目を通していた。

 

 坂田郡は六角が得たものの、浅井郡と伊香郡は朽木の支配に入っている。従来からの領地を合わせれば、朽木の治める土地は以前とは比べものにならぬほど広がった。それでも六角と朽木が争ったという話は届いていない。むしろ美濃から帰還した右衛門督に会うため、朽木弥五郎が観音寺城を訪れたという報告まである。

 

「父上。朽木は六角と随分親しいようでございますな」

 

「そうらしい。右衛門督と朽木の弥五郎は以前から親交があると聞く」

 

「では、朽木も六角に従って動くのでしょうか」

 

「いや、そうは限らぬ。朽木は六角の家臣ではない」

 

 私は近江の絵図を開かせた。

 

 孫次郎は観音寺城と朽木の領地を見比べていた。坂田郡を挟んで北へ広がる朽木の所領は、六角にとっても決して無視できぬ位置にある。

 

「両家が争えば、六角も美濃へ兵を向けるどころではなくなるだろう。だが、今は互いに争う理由がないのだろうな」

 

「朽木も新たに得た土地を治める必要がございますからな」

 

「ああ。六角が美濃へ向かっている間に、朽木は北近江を落ち着かせることができる」

 

 孫次郎は絵図へ目を落としたまま頷いた。

 

「親しいから協力しているというだけではないのですね」

 

「親しさもあるのだろう。だが、それだけで家は動かせぬ」

 

 私は以前に聞いた弥五郎と右衛門督の話を思い返した。

 

 両者が個人的に親しいことは間違いないらしい。しかし互いに家を率いる立場となった今、相手のためにどこまで譲れるものか。家臣たちが納得しなければ、当主が望んだところで思うようには進まぬこともある。

 

 今は両家の利害が重なっているのだろうが、それがいつまでも続くとは限らなかった。

 

「殿。朽木については、もう少し詳しく探ってもよろしいかと存じます」

 

 弾正が口を開いた。

 

「何が気になる」

 

「北近江にございます。浅井の旧領がこれほど早く落ち着くとは思っておりませなんだ。弥五郎がどのように家臣をまとめているのか、確かめておいても損はありますまい」

 

「確かにな。浅井家の旧臣をどれほど召し抱えたのかも気になる」

 

「それに、北近江の支配が落ち着けば、いずれ別の土地へ目を向けることも考えられます」

 

「若狭や越前か」

 

「その辺りにございます」

 

 弾正は近江の絵図を少し動かした。

 

「若狭の武田家は以前から家中が落ち着いておりませぬ。朝倉も関わっておりますし、朽木が北近江を得たことで互いの領地が近くなっております」

 

「朽木が若狭へ兵を向けると申すか」

 

「そこまでの報告はございませぬ。ただ、弥五郎が今後も北近江の支配だけに留まるかどうかは分かりませぬ」

 

 私は絵図へ目を落とした。

 

 若狭武田家については以前から様々な話が届いている。家中の者たちが一つにまとまっているとは言い難く、越前の朝倉との関係も深い。争いが起きれば、周辺の国人たちまで巻き込まれることもあるだろう。

 

 だが、朽木がそこへ関わるかどうかは別の話だった。

 

「若狭の武田からは何か届いておるか」

 

「大きな変化はございませぬ。家中の不和も収まっていないようでございます」

 

「朝倉については」

 

「こちらも今のところ大軍を動かしたという話は聞いておりませぬ」

 

「そうか。互いに睨み合っているだけなら、今はそれでよい」

 

 越前の朝倉家も決して小さな家ではない。若狭に対して以前から影響力を持っている以上、朽木が北方へ兵を向ければ警戒することもあるだろう。しかし現に争いが起きているわけではなかった。

 

 こちらが勝手に朽木と朝倉の対立を想定して使者を送れば、かえって何を企んでいるのかと疑われることになる。

 

「弾正。朽木と朝倉の間で何も起きておらぬなら、今は様子を見るだけでよい。ただ、若狭を通る商人からは引き続き話を集めておけ。兵の動きがなくとも、荷の通り方が変われば知らせるようにな」

 

「承知いたしました」

 

 街道が塞がれれば商人は別の道を選ぶ。関所が増えれば荷の運賃にも影響するだろう。国人同士の争いで村が焼かれれば、そこを通る者から何らかの話が入るはずだ。

 

 兵を動かす前に分かることもある。

 

「それと朽木へ使者を送る必要はない。今のところ、こちらから求めることもないからな」

 

「六角との関係を確かめるためにも、一度接触しておいてはどうかと考えておりましたが」

 

「それで何を話す。北近江を得た祝いでも述べるか」

 

 弾正はわずかに笑った。

 

「今さらでございますな」

 

「弥五郎も何のために使者を寄越したのかと考えるだろう。余計な疑いを持たせることはない」

 

 孫次郎が静かに頷いたが、やがて私へ顔を向けた。

 

「父上。朽木と六角の間に争いが起きれば、こちらにも利があるのでしょうか」

 

「争いの内容による。六角が北近江へ兵を向ければ、美濃へ動かせる兵は減るだろう。しかし、こちらが望んだからといって争いが起きるわけではない」

 

「では、あえて両家の仲を裂くようなことはなさらぬのですね」

 

「今はな。朽木と六角を争わせるために手を掛けるくらいなら、ほかにやるべきことがある」

 

 私は孫次郎へ向き直った。

 

「それに、仲を裂こうとしたことが知られれば両家がこちらを敵と見るかもしれぬ。今の六角と朽木を同時に相手にしたいとは思わん」

 

「はい。よく分かりました」

 

 孫次郎は素直に頷いた。

 

 朽木については分からぬことが多い。北近江を得た後、弥五郎がどのような家臣を召し抱え、何を進めているのかも十分には把握できていない。以前はさほど気に掛けていなかった家が、今ではこちらの評定でも名を挙げるほどになった。浅井が滅んだとはいえ、朽木がその後をこれほど早くまとめるとは思わなんだ。

 

 弥五郎という男も、なかなか侮れぬらしい。

 

 私は弾正へ北近江と若狭についての報告を続けるよう命じ、朽木に関する書状を脇へ寄せた。

 

 *

 

 昼を過ぎた頃、河内方面から新たな書状が届いた。

 

 畠山高政に関する報告だった。

 

 高政は河内から退いた後も紀伊方面で勢力を保ち、こちらへ従う様子を見せていない。近頃は高政に近い者たちが河内の国人へ働きかけているらしく、幾つかの村では年貢の納め先を巡って揉め事が起きていた。

 

 報告を読み進めるうちに、思わず手が止まった。

 

 ある国人がこちらへ従うと申し出ながら、裏では畠山方とも連絡を取っているという。しかも、その国人に従う村の者たちは、どちらへ年貢を納めるべきか分からず困っているらしい。

 

 私は眉を寄せ、書状を弾正へ渡した。

 

「この者の名は以前にも聞いた覚えがあるな」

 

 弾正は一読して頷いた。

 

「畠山方との縁が深い者にございます。以前は三好へ従うと申し出ておりましたが、今も高政と関わっているようでございます」

 

「高政が河内へ戻るつもりなら、こうした者を頼るのだろうな」

 

「はい。すぐに兵を動かす様子はございませぬが、紀伊からの働きかけは続いております」

 

 畠山高政とは長く争ってきた。河内を巡る争いも一度の合戦で終わったわけではない。高政が紀伊に勢力を残している限り、河内で再び兵を起こす機会を窺う者もいるだろう。

 

 問題は、こちらへ従った者たちの中にも高政との縁を断ち切れていない者がいることだった。今さら驚くことでもないが、こうして同じ名を見るたびに苦々しい気分になる。

 

 高政も諦めが悪い。

 

 もっとも、私が同じ立場に置かれたとしても、簡単に河内を諦められたとは思えぬ。そう考えると腹立たしさばかりを募らせるわけにもいかなかった。

 

「父上。この国人は処罰すべきでしょうか」

 

 孫次郎が尋ねた。声には幾分か厳しい響きがあった。

 

「まだ早い。畠山と書状を交わしただけなら、相手の出方を探っている可能性もある」

 

「しかし、再び高政に従うつもりならば放置できませぬ」

 

「そのとおりだ。だからこそ、どこまで話が進んでいるのかを確かめる。疑わしいからと斬っていては、かえって高政に味方する者を増やすことになるぞ」

 

 孫次郎は口を引き結んだが、反論はしなかった。納得し切れていないのだろう。それでも、自分の考えだけで処断を急ぐことは避けたいと思ったらしい。

 

 私は家臣へ筆と紙を持ってこさせた。

 

 現地の者には、畠山方が何を求めてきたのかを調べさせることにする。兵を集めるような動きがあれば放置できぬが、単に使者が往来しただけであれば話は違う。

 

 年貢についても早めに手を打たねばならなかった。

 

「弾正。河内の者には、まず村々の話を聞くよう命じよ。年貢を二度納めさせるようなことになれば、こちらへの不満が増えるだけだ」

 

「承知いたしました。国人については、動きを見極めたうえで処置を決めるということでございますな」

 

「ああ。高政と縁があるというだけで処罰していては、河内の国人をすべて敵に回しかねぬ」

 

 弾正は頷き、控えていた者へ命令を書き取らせた。

 

 高政と付き合いのあった者が一人残らず縁を切るとは思っていない。婚姻や長年の主従関係まで、領主が変わったからといって消えるわけではなかった。

 

 それでも実際に兵を集められては困る。誰がどのような申し入れを受け、何を約したのかは確かめておく必要がある。

 

「父上。畠山が再び河内へ兵を進める可能性はございますか」

 

「ないとは申せぬ。高政は簡単に諦める男ではないからな」

 

「では、紀伊との境には兵を増やしておきますか」

 

「今すぐ増やす必要はない。まずは既に置いている兵で対応できるようにしておけ。動員を増やすのは高政の動きが明らかになってからでもよい」

 

「しかし、もし先に攻められれば……」

 

 孫次郎はそこまで口にして言葉を止めた。先ほどの六角についての話では慎重だったが、自分たちの領地となれば気持ちも変わるのだろう。

 

「案ずる気持ちは分かる。だが、こちらが兵を集めれば高政も動くだろう。河内の国人たちまで戦が始まると思い込めば、せっかく落ち着きかけた土地がまた騒がしくなる」

 

「……承知いたしました」

 

 孫次郎は不本意そうだったが、しばらくして頷いた。

 

 それでも備えを怠るつもりはない。私は孫次郎へ紀伊との境に置いた兵の数と兵糧の蓄えを確かめるよう命じた。新たに動員を掛けるかどうかは、その報告を見てから判断すればよい。

 

 河内への返書を整え始めたところで、今度は大和からの使者が到着した。

 

 弾正が書状を受け取って目を通すと、わずかに眉を寄せた。

 

「殿。大和でも寺社の所領を巡る争いが起きております」

 

「またか」

 

 思わず声が低くなった。

 

「はい。双方とも以前の安堵を根拠に所領を主張しているようで、こちらの役人だけでは決めかねております」

 

「古い文書は確かめたのか」

 

「まだ揃っておりませぬ。一方は以前の安堵状を持っておりますが、もう一方にも別の由緒があるようでございます」

 

 私は書状を受け取り、記された地名を確かめた。

 

 大和では寺社の力が強い。寺社同士の争いに国人が関わることもあり、土地一つを巡る問題が思わぬ大事になることもある。今回の訴えも、両者の言い分を聞いただけでは容易に決められそうになかった。

 

「双方の使いを呼び、持っている文書を確かめよ。土地の境についても現地の者に調べさせるのだ」

 

「承知いたしました。ただ、こちらが裁定を下せば不満を持つ者も出ましょう」

 

「それは避けられぬ。どちらにもよい顔をしていては、いつまでも争いが収まらん」

 

 弾正は書状へ目を落としたまま少し考えた。

 

「まずは双方から使いを呼ぶことにいたします。必要ならば、以前の土地の扱いを知る者にも話を聞かせましょう」

 

「任せる。ただし、寺社へ兵を向けるようなことは避けよ。小さな争いを大きくする必要はない」

 

「心得ております」

 

 弾正が頭を下げると、私は椀に残っていた茶へ手を伸ばした。

 

 既に冷めていたが、喉を潤すには十分だった。朝から次々と書状が届き、気付けば随分と時が経っている。

 

 書状の束を見れば、まだ摂津からの報告も残っていた。京では兵の通行について幕府から返答があり、河内では高政に通じる者を調べねばならぬ。大和の寺社からは次々と訴えが届く。

 

 六角が美濃で大きな戦をしたからといって、こちらの仕事が減るわけではなかった。

 

「まったく、争いの種は尽きぬものだな」

 

 思わず漏らすと、弾正が顔を上げた。

 

「それだけ殿を頼る者が多いということでございましょう」

 

「そう言われても嬉しくはないな。少しは自分たちで折り合いを付けてほしいものだ」

 

 弾正が声を抑えて笑い、孫次郎もつられたように口元を緩めた。

 

 私は空になった椀を脇へ寄せ、摂津から届いた書状を取り上げた。

 

 今度は兵糧の輸送についての報告だった。河内や京へ送る米の一部について、川の水量が変わったことで船の出入りに遅れが出ているという。急を要するほどではないものの、予定していた日取りに間に合わぬ荷もあるらしい。

 

「弾正。摂津からの兵糧について、こちらで不足しているものはあるか」

 

「今のところ大きな不足はございませぬ。ただ、年内に届ける予定の荷が遅れますれば、春先の備えに影響する可能性はございます」

 

「では、急ぐものだけ先に運ばせよ。すべてを予定どおりに動かそうとして余計な費えを掛ける必要はない」

 

「承知いたしました」

 

 孫次郎が書状を覗き込んだ。

 

「父上。兵糧については河内に置いている分を使うこともできますが」

 

「それは畠山への備えとして残しておきたい。摂津からの荷が遅れたからといって、河内の備えを減らすことはない」

 

「では、京へ送る分から先に手配いたします」

 

「うむ。京の兵が困るようなことは避けたい」

 

 孫次郎はすぐに書状へ指示を書き添えた。

 

 川の水量が落ちれば運べる荷も限られる。急ぎの米を先に動かすなら、ほかの荷は遅れることになるだろう。それでも、すべてを無理に運ぼうとして船や人足を増やせば費えがかさむ。

 

 まずは必要な量を確かめることだった。

 

「孫次郎。手配した後に、実際に荷が届いたかまで確かめるのだ。命じただけで仕事を終えてはならぬ」

 

「はい。届いた後の報告も求めることにいたします」

 

 孫次郎は頷き、先ほど書き込んだ箇所へさらに一筆加えた。

 

 以前ならば私が細かく命じていたことも、今では孫次郎が自ら考えて手配するようになっている。まだ見落としはあるものの、それを指摘すれば次の仕事では気を付けるようになった。

 

 弾正も大和のことだけでなく、河内や京について意見を述べてくれる。

 

 任せられる者が増えたことはありがたい。もっとも、だからといって何も確かめずに済ませるつもりはなかった。家臣たちの仕事ぶりを見ることも当主の役目であろう。

 

 *

 

 夕刻を迎える前に、阿波から届いていた書状にも目を通すことにした。

 

 弟の実休からのものだった。

 

 四国の諸将とのやり取りや阿波での兵の動向について記されている。大きな争いが起きたという知らせではなかったが、周辺の国人たちの間では相変わらず小さな揉め事が続いているらしい。

 

 実休はそうした争いの仲裁にも関わっているようで、書状には現地の細かな事情が記されていた。

 

 私はそのうち幾つかを読み返した。

 

 畿内で何かが起きれば、実休の力を頼ることもある。以前から軍勢を動かす際には弟と連絡を取り、必要に応じて兵を集めてもらってきた。しかし阿波にも実休が治めるべき土地がある。畿内の都合だけで何度も兵を求めていては、向こうの家臣たちにも負担が掛かるだろう。

 

「父上。実休叔父上からは何と」

 

 孫次郎が尋ねてきた。

 

「阿波では大きな変わりはないようだ。ただ、国人同士の争いについて幾つか相談が来ておる」

 

「こちらから何か兵を求めるのでございますか」

 

「今は必要ない。河内や大和で何か起きた時には頼ることもあるだろうが、当面は阿波のことを任せておけばよい」

 

 私は書状を孫次郎へ渡した。

 

「孫次郎も目を通しておけ。阿波から兵を動かすには、どれほどの支度が必要になるかを知っておくとよい」

 

「承知いたしました」

 

 孫次郎は書状を受け取り、丁寧に読み始めた。

 

 実休とは幼い頃から苦楽を共にしてきた。今でも弟から書状が届くと、そこに記された文字を見るだけで少し気持ちが和らぐことがある。

 

 幼い頃には互いにこのような立場になるとは考えてもいなかった。今ではそれぞれ家臣を抱え、治める土地を持ち、離れた場所で諸事に追われている。それでも書状の端々からは実休らしい気遣いが感じられ、思わず懐かしさが込み上げた。

 

 もっとも弟だからといって、何でも頼めるわけではない。実休にも家臣がおり領国がある。四国の事情を無視して畿内へ兵を求めれば、いずれ無理が生じるだろう。

 

 私は返書の支度を命じ、阿波の国人たちの件については実休の判断を尊重する旨を書き添えた。畿内に関わることがあれば改めて連絡するが、今のところ兵を動かす必要はないとも伝えることにした。

 

 孫次郎が書状を読み終える頃には、弾正も河内と大和への指示を書き終えていた。

 

 机の上には京、河内、大和、摂津、阿波へ送る書状が並んでいる。弾正はそれらを順に確かめ、使者の手配について家臣へ命じた。

 

「殿。河内への書状は今夜のうちに送り出せます。大和へは明朝、京へは兵の交代の日取りを改めて知らせる使者を立てます」

 

「頼む。阿波への返書は急がずともよいが、実休を長く待たせぬようにな」

 

「承知いたしました」

 

 弾正が書状をまとめ始めたところで、孫次郎が口を開いた。

 

「父上。六角への使者は立てぬのでございますか」

 

 私は顔を上げた。

 

「今のところ、その必要はあるまい」

 

「美濃であれほどの戦をした相手でございます。今後の関係について話をしておいてもよいのではないでしょうか」

 

「左京大夫と話をすること自体に異存はない。ただ、今は何を話すかが問題だ」

 

 孫次郎は少し考えてから頷いた。

 

「こちらから美濃について尋ねれば、警戒されるということでございますか」

 

「それもある。左京大夫が美濃で得た土地をどう扱うつもりなのか、こちらが尋ねたところで簡単には答えるまい」

 

「では、畿内について話を持ち掛けることも難しゅうございますな」

 

「無理に話を作ることはない。必要になれば使者を立てればよい」

 

 私は机の上に残っていた近江の絵図を見た。

 

 左京大夫が今後どのような判断を下すかは分からない。嫡男の右衛門督が美濃で結果を残したことで、家中の者たちも次の戦に期待を寄せているかもしれぬ。

 

 しかし六角が今すぐ畿内へ兵を向けるという知らせはない。

 

 朽木についても同じだった。弥五郎が北近江を治め、六角と協力していることは分かっているが、こちらへ敵意を向けているわけではない。まだ起きてもいない争いを恐れて、先に兵を動かす必要はなかった。

 

「孫次郎。六角が美濃で戦を続けるならば、その間に我らは畿内を落ち着かせる。それでよい」

 

「はい」

 

「ただし、六角が何もしないと決め付けるな。左京大夫が近江にいることは忘れるな」

 

「心得ました」

 

 孫次郎が頭を下げると、私は弾正へ視線を移した。

 

「京には今までどおり兵を置き、公方様との連絡を絶やすな。河内では畠山の動きを確かめ、大和は弾正に任せる。摂津の兵糧についても手配を頼む」

 

「承知いたしました」

 

「阿波の実休へは、畿内の様子を伝えておけばよい。今すぐ援軍を求めるようなことはせぬ」

 

「はっ」

 

 弾正は返答すると、書状を抱えて退出した。

 

 残った孫次郎は机の上の紙を片付け始めたが、その途中で手を止めた。

 

「父上。一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」

 

「何だ」

 

「右衛門督は、今後も美濃で戦を続けるのでしょうか」

 

「そうだろうな。稲葉山を得たとはいえ、一色はまだ残っておる。あのまま東美濃を放置するとも思えぬ」

 

「では、来春には再び大きな戦が起きるかもしれませぬな」

 

「その可能性はある」

 

 孫次郎はしばらく考えていたが、やがて小さく頷いた。

 

「右衛門督がどのような戦をするのか、見てみたいものです」

 

 私は思わず笑った。

 

「随分と気になるようだな」

 

「父上から兵を任される立場でございますので。年齢も近いと聞きますし、どのような采配をするのか興味がございます」

 

「興味だけではあるまい。少しは悔しいのではないか」

 

 孫次郎は目を見開いた。

 

「……そのようなことは」

 

「隠さずともよい。私とて同じ年頃の者が大きな働きをすれば気になっただろう」

 

 孫次郎は困ったように笑い、やがて小さく頷いた。

 

「はい。羨ましく思わぬと言えば嘘になります」

 

「そうか」

 

 その素直な答えが嬉しかった。

 

 右衛門督は美濃で大軍を率いて成果を上げた。孫次郎もまた、いずれ私に代わって三好の軍勢を率いることになる。年齢の近い者が大きな働きをしたと聞けば、自分も負けてはいられぬと考えるのだろう。

 

 その気持ちは理解できた。

 

「ならば、まずは今任せている仕事を確かに進めよ。兵を率いる機会はいずれ来る」

 

「はい。精進いたします」

 

「ただし、功を焦るな。兵を預かるということは、その者たちを生きて帰す責めも負うことになる」

 

 孫次郎は表情を改めた。

 

「肝に銘じます」

 

 私は頷き、書状を片付ける孫次郎の姿を見守った。

 

 若い頃の自分も似たようなことを考えていたのかもしれぬ。父の後を継ぎ、家を守るために兵を率いるようになった頃は、目の前の敵を退けることばかり考えていたものだ。

 

 だが戦に勝った後にも仕事は残る。兵を引けば領国の処理が待っており、家臣同士の争いを収めねばならぬこともある。兵糧や銭が足りなければ次の戦を始めることもできない。

 

 孫次郎もこれからそうした仕事を幾つも経験することになるだろう。できることならば、私が経験した失敗まで繰り返さずに済ませてやりたいものだ。

 

 もっとも、そう願ったところで孫次郎が一度も失敗せずに済むはずはない。自ら苦い思いをして初めて分かることもある。

 

 息子が頼もしくなるのは喜ばしい。だが、成長するほど危うい場面に立つことも増えるのだろう。

 

 そう考えると、少しばかり複雑な気分になった。

 

 *

 

 日が傾き始めると、山の斜面に長い影が伸びていた。

 

 孫次郎が部屋を辞した後、私は一人で残された書状へ目を通していた。京から届いたものには公方様の動向が記され、河内からの報告には畠山方の動きが書かれている。大和の寺社から寄せられた訴えもあり、摂津の兵糧についての書状もまだ数通残っていた。

 

 その中から、先ほど弾正が届けた北近江の報告を取り上げた。

 

 朽木弥五郎が新たな領地の支配を進めているという話だったが、今のところ大きな争いが起きた様子はない。六角との関係も良好らしく、観音寺城を訪れたという報告が添えられている。

 

 私はその一文を読み返した。

 

 弥五郎が右衛門督に何を話したのかは分からぬ。美濃の戦について労をねぎらったのかもしれないし、北近江のことを相談したのかもしれない。

 

 左京大夫が美濃へ目を向け、嫡男の右衛門督が軍勢を率いる一方、朽木は北近江を治めている。今はそれぞれが領国のことに手を掛けているが、この先も同じ状態が続くとは限らなかった。

 

 六角が東美濃を得た後、さらに東へ向かうことも考えられる。弥五郎についても、北近江を落ち着かせた後にどのような判断を下すかまでは分からない。

 

 以前は左京大夫一人の動向を気に掛けていればよかった。だが今はその嫡男も朽木も無視できぬ相手となっている。近江の情勢がこれほど変わるとは思わなんだ。

 

 もっとも、本人たちに尋ねたわけでもないのだから、今ここで考え続けても仕方がない。

 

 私は書状を畳み、ほかのものと重ねた。

 

 その時、廊下から足音が近付いてきた。

 

「殿。京へ向かう使者の支度が整いました」

 

 弾正だった。

 

「もう整ったか」

 

「はい。兵の交代についての返書と、京の奉行へ命じる書状を持たせます」

 

「よい。公方様へは、申し入れに従って兵を通すと伝えてくれ」

 

「承知いたしました」

 

 弾正は頭を下げたが、退出する前にもう一度こちらを見た。

 

「殿。公方様は今後、六角や朽木へさらに近付くのでしょうか」

 

「そうかもしれぬな」

 

「こちらとしては、何か手を打つべきではございませぬか」

 

 私は弾正の顔を見た。

 

 先ほどから同じことを気に掛けているらしい。京で幕府の動きを見てきた弾正にとって、公方様が六角へ近付くことは容易に見過ごせぬのだろう。

 

「今は何もせぬ。公方様が使者を送ったからといって、すぐに軍勢が動くわけではない」

 

「しかし、六角が幕府へ協力することになれば」

 

「その時に考えればよい。まだ決まってもいないことを恐れて動けば、こちらが争いを望んでいると思われるだけだ」

 

「……承知いたしました」

 

 弾正は頷いたものの、表情にはまだ懸念が残っていた。

 

 公方様が六角や朽木を頼ろうとする可能性は否定できぬ。しかし幕府が望んだからといって、両家がそのまま従うとは思えなかった。左京大夫にも弥五郎にも守るべきものがあり、公方様の面目を立てるためだけに兵を動かすほど愚かではあるまい。

 

 将軍という立場にありながら、自らの力で意を通すこともできぬ。幕臣たちはあれこれと策を巡らせているようだが、結局は諸大名の力を当てにしているに過ぎなかった。

 

 それでも公方様が六角へ接近することには警戒しておく必要がある。たとえ当人に力がなくとも、将軍の名を利用しようとする者はいくらでもいるからだ。

 

「弾正。警戒するなとは申しておらぬ。京の様子を確かめることは必要だ。ただ、公方様の使者を妨げるようなことはするな」

 

「心得ております。引き続き確かめさせます」

 

「頼む」

 

 弾正が退出すると、私は開け放たれていた障子の向こうへ目を向けた。

 

 山の斜面には夕暮れの冷たい風が吹き始めている。遠くの村からは炊事の煙が上がり、城へ続く道には荷を運ぶ者たちの姿が見えた。

 

 今年も間もなく冬を迎える。

 

 畠山高政が河内へ戻る機会を窺っている以上、兵を休ませることはできぬ。大和の寺社との争いも、すぐに片付くものばかりではないだろう。京の警固については幕府との取り決めを守り、摂津からの兵糧が滞らぬようにしておく必要がある。

 

 六角や朽木のことばかり考えているわけにはいかなかった。

 

 それでも、二つの家が近江で力を付けていることを忘れるつもりはない。

 

 以前ならば左京大夫の動向を確かめていればよかった。だが今は嫡男の右衛門督が美濃で軍勢を率い、朽木弥五郎も北近江を治めている。若い者たちが家を支えるようになり、以前とは違う動きが生まれ始めていた。

 

 私の家にも孫次郎がいる。

 

 今朝から書状を読み、家臣たちと話をしながら指示を出していた姿を思い出すと、自然と口元が緩んだ。まだ教えるべきことは多いが、頼もしくなったものだ。右衛門督の働きを羨んでいた孫次郎の顔を思い出すと、また笑みがこぼれた。

 

 あの負けん気の強さは決して悪いものではない。いずれ自ら兵を率いる時が来れば、今日の話を思い返すこともあるだろう。

 

 やがて廊下から使者が出立するとの声が聞こえた。

 

 私は立ち上がって庭へ出ると、石段の下で馬に荷を括り付けている者たちの姿が見えた。京へ向かう者は夜になる前に山を下り、途中で宿を取るのだろう。弾正が使者へ最後の指示を与えていた。

 

 私の姿に気付くと、使者たちは揃って頭を下げた。

 

「道中、気を付けて参れ。京の奉行へは書状のとおりに伝えよ」

 

「はっ」

 

 使者は一礼し、馬を引いて石段を下り始めた。

 

 私はその姿が見えなくなるまで見送った後、部屋へ戻った。机の上には阿波への返書と、河内の国人についての報告が残されている。

 

 先ほどまで孫次郎の成長を喜んでいたこともあり、少しばかり気分は軽くなっていた。だが河内の書状を手に取れば、そこに記された名が否応なく現実へ引き戻してくる。

 

 畠山方との連絡が疑われている者については、こちらへ従うと申し出た時の書状も残っているはずだ。

 

 私は控えていた家臣を呼び、以前の書状を持ってくるよう命じた。

 

 やがて運ばれてきた文箱から目当てのものを探し出すと、今回の報告と並べて広げた。

 

 以前は三好への忠節を誓っていた者が、今になって高政と何を話しているのか。家を守るために両方へ顔を向けているだけならば、まだ理解できる。しかし高政のために兵を集めるつもりであれば見過ごすわけにはいかぬ。

 

 私は書状に記された名を指で追い、以前の申し出と今回の報告を見比べた。

 

 今のところ、裏切りを決め付けられるほどの証拠はない。

 

 それがかえって厄介だった。

 

 疑わしい者を片端から処罰するわけにはいかず、だからといって信用し切ることもできぬ。河内を治める限り、こうした者たちとも付き合っていかねばならないのだろう。

 

 思わず溜息が漏れた。

 

 灯りが運ばれてくる頃には外もすっかり暗くなっていた。家臣が新たな灯りを置くと、私は礼を言って書状へ目を戻した。

 

 まだ確かめるべきことが残っている。今夜のうちにすべてを片付けられるとは思わぬが、明日になればまた別の報告が届くのだ。

 

 私は筆を取り、畠山方との連絡が疑われる国人の名をもう一度読み返した。以前の申し出と食い違うところを拾い、使者に確かめさせるべき事柄を書き留めていく。

 

 京へ向かった使者が山を下りる頃にも、飯盛山城の一室では書状を広げる私の手が止まることはなかった。

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