永禄五年十一月下旬。観音寺城。
十一月も下旬に入ると、朝晩の冷え込みが一段と厳しくなってきた。観音寺城から望む山々はすっかり色を変え、遠くの鈴鹿の峰には白いものが混じり始めている。美濃から帰還した頃にはまだ暑さが残っていたというのに、季節の移ろいは早いものだ。
このところ俺のもとへ届く美濃の報告にも変化が現れていた。稲葉山城を預かる進藤山城守からは城や周辺の国人に関する知らせが届き、西美濃では六角家への帰属を認められた者たちがそれぞれの領地へ戻っている。所領の境や年貢を巡る揉め事は絶えないが、大きな混乱には至っていない。冬を迎える前に最低限の落ち着きを取り戻せたことには安堵していた。
ただし、美濃の東半分には依然として一色龍興がいる。稲葉山城を失っても龍興に従う国人は少なくなく、六角軍が撤兵したことで一息ついた者もいるだろう。
九月に篠たちへ東美濃の調略を命じてから、すでに二月近くが経っていた。国人の内情を探り、西美濃で本領安堵を受けた者たちの処遇を伝えながら、六角家への帰属を考える者との縁を作らせている。商人や土地に通じた者を介して接触を重ねているものの、向こうから申し出があるまでは無理に動かさないよう命じていた。
その篠が久しぶりに観音寺城へ戻ってきた。
書院には寿もいたが、弥太郎から篠の到着を告げられると、読んでいた書物を閉じた。
「四郎様、お話が長くなりそうですから、私は部屋へ戻りますね。あまり根を詰めないでくださいませ」
「ああ。夕餉までには終わらせるつもりだ」
「ふふっ、昨日もそう仰っておりましたよ」
笑顔で釘を刺され、思わず苦笑した。懐妊してからは身体に負担を掛けぬよう気を配っているが、都合のつく時にはこうして書院で一緒に過ごしている。もっとも、俺が仕事を切り上げる時刻については以前より厳しくなった気がする。
侍女と共に寿が退出した後、入れ替わるように篠が姿を見せた。以前より少し日に焼けた顔には疲れも見えたが、本人は気にした様子もなく頭を下げた。
「寒い中、よく戻ってくれた。道中も難儀だったろう」
「お気遣い、恐れ入ります。道中は特に問題ございませんでした」
そう答えた篠だったが、膝の上に置いた手は赤く冷えていた。美濃から近江へ抜ける道の寒さも相当なものだったはずだ。長い道のりを急いできたのだろう。
俺は近くに控えていた近習へ白湯を用意するよう命じた。
「若様、そこまでしていただかずとも……」
「遠慮するな。東美濃では長く働いてもらっている。身体を壊されては困るからな」
篠は恐縮したように頭を下げたが、その表情は先ほどより柔らかくなっていた。
ほどなく運ばれてきた白湯を勧めると、篠は両手で椀を受け取り、ゆっくりと口を付けた。一口飲んで小さく息を吐いた後、椀を包み込むように持ち直す。少しは寒さが和らいだようだった。
「弥七と宗兵衛にも苦労を掛けている。二人にも無理をする必要はないと伝えておいてくれ」
「承知いたしました。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらの方だ。三人の働きには助けられている」
篠は一瞬言葉に詰まったようだったが、深く頭を下げた。
白湯を飲み終えるのを待ってから報告を促すと、篠は懐から紙を取り出し、東美濃の国人たちの様子を話し始めた。
「東美濃では六角家の動向を気にする国人が増えております。特に西美濃で本領を安堵された者たちの話は、思いのほか広まっているようです。ただ、今のところ明確に帰属を申し出た者はおりません」
篠によれば、一色家からの軍役要請を渋る者が出始めているらしい。龍興から兵や物資を求められても冬支度を理由に返答を延ばし、以前ほど素直に応じなくなっているという。
収穫を終えたとはいえ、この時期に仕事が多いのは確かだ。しかし、以前なら応じていた者たちまで揃って態度を変えたとなれば、単なる冬支度だけが理由ではあるまい。
長井道利の動向について尋ねると、関城から国人たちへ使いが頻繁に出されているとのことだった。使者が何を伝えているのかまでは掴めていないが、道利も国人たちの変化を気に掛けているのかもしれない。
弥七は引き続き各家の動向を探り、宗兵衛は商人を通じて情報を集めているという。東美濃で築いてきた伝手も少しずつ増え、以前より広い範囲の話が入るようになったらしい。
篠は報告を続けるうち、紙に記された一つの名を指した。
「加治田の佐藤忠能が、六角家へ帰属した者たちの扱いを調べております。特に氏家殿や安藤殿が従来の所領を保っていることを気にしているようです」
「佐藤忠能か。どこから得た話だ」
「佐藤家と取引のある商人にございます。西美濃へ出向いた折、佐藤家の者から尋ねられたと申しております」
加治田城は東美濃へ進むうえで無視できない場所にある。そこを押さえる佐藤がこちらへ目を向けているなら興味深いが、それだけで帰属を望んでいるとは判断できない。一色家のために六角の内情を探っている可能性もあった。
商人には余計なことを言わせず、佐藤家の考えを引き続き探るよう命じた。向こうから何か申し出てくるまでは、こちらの条件を示す必要もないだろう。
ほかにも、東美濃の国人たちの間では織田家へ従うことを考える者がいるという。すでに織田へ接触した者もいるらしいが、こちらはまだ噂の域を出ていなかった。
やはり、そうなるか。
尾張の織田信長が美濃を諦めたとは思っていない。今川義元を討った男であり、美濃に接する尾張を押さえている。東美濃の国人にとっては六角より身近な存在だろう。こちらが稲葉山城を得たことで勢力関係は変わったが、だからといって織田家が美濃への関心を失うはずもなかった。
今は無理に態度を決めさせるつもりはない。六角と織田のどちらを選ぶか迷っている者に結論を急がせれば、かえって相手を警戒させることになる。
篠へその考えを伝えると、彼女は頷いたものの、まだ何か言いたげだった。続きを促すと、少し困ったような顔をする。
「もう一つ、右衛門督様について妙な噂がございます。治部大輔より遥かにましな嫡男だと。西美濃を攻め取ったうえで国人の所領を安堵し、近江へ兵を帰したことも評価されております」
思わず笑ってしまった。
随分と勝手な評価だな。父上や重臣たちと相談して進めてきたことまで、俺一人の手柄になっているらしい。そもそも龍興と比べられて喜ぶべきなのかも分からない。
「褒められているのか、治部大輔が貶されているだけなのか分からんな」
篠もわずかに笑ったが、評判が広まることで六角家へ帰属した後の待遇にも期待を寄せる者が増えるのではないかと懸念していた。
その心配はもっともだった。西美濃の国人に本領安堵を認めたのは父上であり、俺が勝手に東美濃の国人へ同じ待遇を約束するわけにはいかない。まして相手の事情も知らぬまま条件を示せば、後でこちらが困ることになる。
「佐藤については引き続き探れ。向こうから接触してきた時は何を望んでいるのか確かめろ。こちらの条件を先に示す必要はない」
「かしこまりました」
篠には織田家と関係を持つ国人についても慎重に調べるよう命じた。調略の途中で織田との争いを招くのは避けたいが、だからといって相手に遠慮して動きを止めるつもりもない。
報告を終えた篠へ改めて労いの言葉を掛け、今日は十分に休むよう伝えた。篠は深く頭を下げて退出していったが、最初に姿を見せた時より顔色はよくなっていた。
その後、弥太郎と佐藤忠能について少し話した。佐藤が六角を気にしているのは確かだが、家の存続が懸かっている以上、容易には決断できまい。西美濃で本領安堵を受けた者たちの扱いは魅力的だろうが、織田という選択肢も残されている。
弥太郎もその点は理解しており、佐藤家との話が進めば父上への報告が必要になることを確かめてきた。もちろん、そのつもりだ。帰属の条件を定めるとなれば当主である父上の判断が要る。
それにしても、六角軍が美濃から退いている間に国人たちがここまで動き始めるとは思わなかった。篠たちの働きには感謝しなければならない。
冬の間は軍勢を動かせないが、人の心まで止まるわけではない。むしろ戦が遠のいた今だからこそ、先々を考える余裕が生まれた者もいるのだろう。
*
同じ頃、美濃国加治田城。
佐藤忠能は家臣たちの言葉を聞きながら、苛立ちを抑えていた。
六角家が稲葉山城を奪い、一色家が東へ退いてからというもの、家中では今後の身の振り方を巡る議論が絶えない。龍興からは以前と変わらず兵や物資を求める使いが訪れるが、失った領地を取り戻す見通しは一向に示されなかった。
「殿、このまま一色家に従い続けるおつもりでございますか」
年若い家臣がとうとう口火を切った。
稲葉山を失ってなお兵を求め続ける一色家に、果たして六角を追い払うだけの力が残っているのか。このままでは佐藤家まで滅びかねないと訴える若い男を、古参の家臣が厳しく叱りつけた。
しかし、若い家臣も引こうとしない。六角軍が再び東へ進んでくれば加治田も戦を避けられず、主家への忠義を守ったところで佐藤家そのものを失っては意味がないという。
「双方とも黙れ。言い争って城が守れるなら、幾らでも争わせてやるわ」
忠能が一喝すると、二人は口を閉ざした。
家を守るために一色家へ従ってきたというのに、その一色家が家を危うくしている。若い家臣の言葉が腹立たしいのは、それを否定できないからだった。忠義を尽くした末に所領を失うなど、先祖に申し訳が立たない。
古参の家臣は主家を見限ることに反対していたが、若い者たちの中には六角への帰属を考える者も少なくなかった。氏家や安藤、稲葉が従来の所領を保ったまま六角に従っていることが、その理由だった。
「西美濃で認められたからといって、佐藤にも同じ条件が与えられるとは限らぬぞ」
忠能がそう告げると、若い家臣も口を閉ざした。
先に降った者と最後まで一色家に従った者では、扱いが違っても不思議ではない。しかも六角が加治田を必要としているのか、それとも攻め取るつもりなのかさえ分かっていなかった。
一方で、織田家を頼るべきだという意見も出ていた。尾張を押さえる織田信長は今川義元を討った武将であり、その手腕は侮れない。しかし今から織田へ従ったとして、六角が攻め寄せた時に援軍を得られる保証はなかった。
すでに六角は近江と西美濃を押さえ、稲葉山城まで手に入れている。今後は東の諸国へ進むことも、北の越前や南の伊勢へ勢力を伸ばすことも考えられる。その勢いを見れば、将来性という点でも無視できない存在だった。
しかも、六角義賢には跡を継ぐ嫡男がいる。
「六角右衛門督の評判も悪くありませぬ。若いながらも軍勢を率い、西美濃では国人たちの扱いにも心を配っているとか。少なくとも御屋形様よりは遥かにましな嫡男と聞き及んでおります」
「滅多なことを申すな」
忠能が制すると、口を滑らせた家臣は慌てて頭を下げた。
だが、忠能自身も似たことを考えたことはある。一色家を支えるために国人たちがどれほど苦労しているのか、龍興は理解しているのだろうか。長井道利のような重臣が支えているからこそ、今も家を保っていられるのではないか。
一方、六角右衛門督については悪い話ばかりではない。戦場での働きもさることながら、帰属した国人を無闇に罰せず、父である義賢との関係も良好だという。
もっとも、どこまで本人の手柄なのかは分からない。勝った者には自然とよい話が集まり、敗れた者には悪評が付きまとう。六角の評判についても、そのまま信じるわけにはいかなかった。
古参の家臣は六角の勢いが今後も続くとは限らぬと懸念していた。領国を広げれば敵も増える。北には朝倉がおり、南には伊勢の国人たちがいる。織田とて六角が美濃を独り占めすることを黙って見ているとは思えなかった。
忠能もその考えには一理あると思った。
六角の勢いだけを見て帰属を決めれば、後で後悔することになるかもしれない。しかし一色家の再起を信じて待ち続けた末に加治田を失えば、それこそ取り返しがつかない。
家臣たちが互いの意見を述べ終えたところで、忠能はようやく口を開いた。
「六角へ人を遣わそう」
古参の家臣が驚いたように顔を上げた。
「まだ帰属を決めたわけではない。西美濃で本領安堵を受けた者たちが、実際にどのような扱いを受けておるのか確かめるだけだ。それに六角が加治田をどう見ているのかも知りたい」
六角が佐藤家を必要としているなら話し合う余地はある。しかし加治田を攻め取るつもりなら、こちらも備えを変えねばならない。
ただし、六角と接触したことが一色方や織田家へ知られれば、余計な争いを招くことになる。忠能は以前から取引のある商人を介して六角の意向を探らせることにした。直接使者を遣わすより人目につきにくく、万一知られた場合にも言い逃れができる。
評議が終わった後も忠能はすぐには席を立たなかった。
傍らに残った古参の家臣が若い者たちの発言を詫びたが、忠能は首を横に振った。誰もが佐藤家の行く末を案じているのだ。それを忠義に欠けると責めることはできなかった。
「儂とて御屋形様の命に従い続けるだけでよいのか、分からなくなっておる。ただ、家を売ったと言われるのは御免だ。家中の者を路頭に迷わせるような真似もしたくない」
古参の家臣は何も答えられず、深く頭を下げた。
忠能は庭先へ目を向けた。冬を前に木々の葉はほとんど落ち、風に揺れる枝が寒々しく見える。
加治田の地を守ってきた年月を思えば、軽々しく主家を変えることなどできるはずもない。だが、忠義を尽くした末に城を失っては先祖に申し訳が立たなかった。
忠能は商人への伝言を改めて確かめ、家臣に手配を命じた。返事が届くまでは一色家からの命にも表向き従うつもりだったが、それがいつまで続けられるのかは分からなかった。
*
永禄五年十一月下旬。観音寺城。
佐藤忠能が動き始めたことを知ったのは、篠が東美濃へ戻ってから五日ほど経った頃だった。
最初に知らせを持ってきたのは弥太郎だった。西美濃から戻った商人が、六角家に仕える者へ内々に話を持ちかけてきたという。詳しく聞けば加治田の佐藤家と以前から取引のある商人らしい。篠から報告を受けたばかりだったこともあり、すぐに察しがついた。
商人が尋ねてきたのは、六角家に帰属した場合の所領安堵についてだった。佐藤家から直接の書状を預かっているわけではなく、単に西美濃で認められた条件が今後も適用されるのかを知りたいという。
随分と慎重なやり方だな。商人を介した問い合わせなら、仮に一色方へ知られても佐藤家は関与を否定できる。
「若様、いかがいたしましょう。商人は返事を求めておりますが」
「西美濃で本領を安堵された者たちの扱いを隠す必要はない。ただし、佐藤家にも同じ条件を認めるかどうかは別の話だ」
弥太郎は了承したものの、こちらが返答を渋れば佐藤が織田家へ近づくのではないかと懸念していた。その可能性は確かにある。しかし、先に所領安堵を約束すれば向こうは何もせずに六角から譲歩を引き出せる。佐藤がどこまで一色家から離れる覚悟を持っているのかも分からない以上、条件を示すのは早かった。
「佐藤一人を引き入れるために、ほかの国人にまで譲歩を迫られては敵わん。まずは向こうが何を望んでいるのか確かめたい」
「承知いたしました。商人にも探らせてみましょう」
加治田城は東美濃へ進む際に重要な位置を占める。できれば味方に引き入れたいが、それだけに安易な約束はできなかった。
もっとも、佐藤の立場からすれば慎重になるのも当然だろう。一色家に従いながら六角へ接触していることが知られれば、長井道利が黙っているとは思えない。家臣の中には龍興への忠義を重んじる者もいるはずだ。忠能自身が帰属を決めたとしても、家中が素直に従うとは限らなかった。
弥太郎には商人を通じて佐藤家の懸念を確かめるよう命じた。所領だけが目的なのか、それとも家中に別の事情があるのか。無理に聞き出す必要はないが、知っておいて損はない。
加治田周辺の国人が六角へ接近し始めれば、一色家にとって無視できない問題になる。軍勢を動かさずに相手の結束を崩せるなら、それに越したことはない。兵を進めれば勝っても負けても人が死ぬ。城一つを落とすにも銭や兵糧が要るのだから、戦わずに済むのであれば願ってもない話だった。
ただ、調略が進めば相手も警戒を強める。長井道利ほどの男が国人たちの変化に気付かないとは思えなかった。篠たちも危険を承知で東美濃へ入っている。こちらの都合ばかりを押しつけ、無理をさせるわけにはいかない。
俺は弥太郎に使いの手配を任せると、父上への報告を整え始めた。今はまだ商人を介した問い合わせに過ぎないが、佐藤家との交渉が進めば所領安堵の話を避けて通れない。父上には早いうちに知らせておいた方がよいだろう。
*
同じ頃、美濃国岩村城。
遠山景任は家臣から加治田の佐藤忠能が六角の様子を探っていると聞き、眉をひそめた。
佐藤家に出入りする商人が西美濃の国人と接触しているらしい。しかし、それだけで佐藤が六角へ通じたと判断することはできなかった。加治田と西美濃の間には以前から商人の往来があり、取引そのものは珍しいことではない。
とはいえ、今の加治田が何も考えていないとも思えなかった。
一色家が西美濃を失ってから、遠山一族の間でも今後の身の振り方を巡る話が増えている。六角と織田のどちらへ従うべきか。そればかりか東には武田信玄の勢力も迫りつつあり、判断を誤れば遠山一族の存続に関わりかねなかった。
「佐藤が六角へ傾けば、いずれ我らにも決断を迫る時が来よう。皆はどう見ておる」
景任が問いかけると、家臣たちは互いの顔を見合わせた。
やがて尾張との関係を重んじる家臣が、織田を頼るべきだと進言した。信長は今川義元を討った武将であり、尾張をまとめ上げた手腕も侮れない。遠山家には織田との縁もあるため、早くから味方につくことで有利な立場を得られる可能性があった。
景任もその考えを退けるつもりはなかったが、別の家臣は六角との戦を懸念していた。西美濃と稲葉山城を押さえた六角が東へ兵を進めた時、織田がどこまで助けてくれるかは分からない。
「信長が六角と争う覚悟を持っておれば、話は別であろう」
「その覚悟があるか分からぬから困るのです。六角とて美濃を得れば、さらに東へ勢力を伸ばせましょう」
織田を支持する家臣は、六角の勢いがいつまでも続くとは限らぬと反論した。六角は畿内にも敵を抱えており、広げた領国を維持するための負担も増える。一方で織田にも今川との争いが残っているため、どちらの家にも不安はあるという話になった。
景任は口を挟まず、その様子を眺めていた。
六角を評価する者が増えていることは承知していたが、こうして家臣たちの口から聞くと複雑な気分になる。誰も一色家への忠義を正面から否定してはいない。それでも、もはや龍興を頼りに美濃を守ろうという言葉は出てこなかった。
やがて年配の家臣が、西美濃で帰属した国人たちの待遇について話し始めた。
氏家も安藤も稲葉も従来の所領を保っており、敗れた者まで取り立てる六角家は国人を使う術を心得ているのではないかという。ただし、それを決めたのは六角左京大夫であり、嫡男がどこまで関わったのかは分からない。
右衛門督についても評判は悪くないものの、まだ若い。義賢が健在のうちはよいとして、その後も同じように国人を扱う保証はなかった。
景任もその懸念には頷いた。
六角家が国人を厚く遇していることは確からしいが、それが今後も続くとは限らない。まして右衛門督については伝聞に頼るところが大きく、実際にどのような人物なのかを知る者はこの場にいなかった。
そこへ一人の家臣が苦笑を浮かべながら口を挟んだ。
「少なくとも、御屋形様ほど愚かではないのでしょうな」
途端に座が静まり返った。
「言葉が過ぎるぞ」
景任が叱ると、家臣は慌てて頭を下げた。
しかし、それ以上咎める気にはなれなかった。龍興への不満は景任自身も抱いている。稲葉山を失ってなお兵を求めるばかりで、領国を取り戻すための見通しは示されていない。長井道利が懸命に支えていることは知っているが、それだけで一色家が立ち直れるとも思えなかった。
先ほどの家臣も普段であれば、あのような言葉を口にする男ではない。失言を咎めるより、そこまで不満が募っていることを気に掛けるべきなのだろう。
「六角も織田も、こちらから見れば他国の大名だ。どちらへ従えばよいかなど、今ここで決められるものではない。それに武田のことを忘れるな」
景任はそう告げ、当面の方針を定めた。
織田との連絡は絶やさず、六角が東美濃の国人をどのように扱うつもりなのかも探らせる。ただし、こちらから帰属を申し出ることは認めず、一色家との関係も従来どおりに保つこととした。
家臣たちは頷いたが、皆が納得したわけではなさそうだった。決断を先延ばしにすることへの不安もあるのだろう。景任自身も、いつまでも様子を見ていられるとは思っていない。
評議を終えた後、一人の家臣が近づいてきた。佐藤が六角へ従えば遠山も早く態度を決めねばならぬのではないかと案じているらしい。
「佐藤が従うと決まったわけではあるまい。だが、あの男が動けば周囲も騒がしくなろうな」
景任は苦笑した。
昨日まで一色家に従っていた者たちが、今日は六角と織田のどちらへ従うべきかを話し合っている。それだけ一色家の威勢が衰えたということなのだろうが、長く仕えてきた主家が軽んじられるのは面白いものではない。
家臣を下がらせると、景任はしばらく動かずにいた。
六角が東へ進むか、織田が美濃へ兵を向けるか。それによって遠山一族の選べる道さえ変わってしまう。評議の席で見せた苦笑は、とうに消えていた。
*
美濃国関城。
長井道利は届けられた報告に目を通すなり、不機嫌そうに顔を上げた。
「また兵を出せぬと申してきたのか」
家臣によれば、今回も領内の備えが整わぬことを理由に軍役を延ばしてほしいとの申し出だった。以前は刈り入れが済まぬと言い、今度は冬支度を持ち出している。
随分と都合のよい話だ。
そう吐き捨てたくもなったが、目の前の家臣を叱ったところで兵が集まるわけではない。道利は苛立ちを堪えながら報告の続きを促した。
近頃、国人たちの態度が目に見えて変わり始めている。以前なら応じていた命令にも返答を渋り、兵や物資を求めても理由をつけて先延ばしにする。公然と背いているわけではないだけに、かえって扱いが難しかった。
道利とて国人たちの事情を理解していないわけではない。西美濃と稲葉山城を失ったことで、一色家の威勢は大きく衰えた。今なお龍興に従っている者たちも、六角軍が再び東へ進んできた時にどうするべきか考えているはずだ。だが、彼らまで離れてしまえば一色家は美濃に踏みとどまれなくなる。
加治田の佐藤忠能について尋ねると、目立った動きはないものの、西美濃との商いが増えているとのことだった。
「西美濃か……」
道利は顔をしかめた。
商人の往来自体は珍しくもない。しかし、この時期に西美濃との接触が増えれば六角家とのつながりを疑いたくなる。
「佐藤家に出入りする者を調べよ。ただし、騒ぎを起こすな。証もないのに咎めれば、こちらから六角へ追いやるようなものだ」
家臣は渋々といった様子で頷いた。
国人を疑い始めれば際限がない。しかも相手は長年にわたって美濃を支えてきた者たちだ。彼らを一人残らず監視しようとしても人手が足りるはずもなく、疑いを向けられた者が腹を立て、本当に六角へ走ることも考えられた。
そこへ別の家臣が姿を見せ、龍興から使いが来ていることを告げた。
内容は兵を出し渋る国人への対応を急ぎ、六角へ接近する者があれば厳しく処罰せよというものだった。
道利は思わず舌打ちした。
「処罰するにも兵が要る。その兵を出さぬから困っておるのではないか」
家臣が困惑した顔をする。
道利も言ったところでどうにもならぬと分かっていたが、つい声に苛立ちが滲んでしまった。片手を振って下がらせようとしたところで、ふと思い直して呼び止めた。
「御屋形様はどうしておられる。近頃は顔を合わせる機会も減ったが、お変わりはないか」
家臣はすぐには答えなかった。
妙な間が空いたことに道利は眉を寄せた。使いの男は視線を落とし、何か言いづらそうに口を開きかけては閉じている。明らかに何かある様子だった。
「構わぬ。申してみよ」
ようやく覚悟を決めたらしく、家臣が小さな声で答えた。
「御屋形様は、本日も朝から酒を召しておられるとのことでございます」
道利は何も言えなかった。
朝から酒とは。しかも本日も、か。
思わず天を仰ぎたくなったが、目の前で恐縮している家臣を見ると、それさえできなかった。こちらは国人たちをつなぎ留めようと苦労しているというのに、肝心の主君が昼間から酒に浸っている。
まったく、何をしておられるのか。
「……そうか」
ようやく出たのは、それだけだった。
家臣が恐る恐る顔を上げたが、道利はそれ以上問い詰めなかった。酒もほどほどにするよう伝えてほしいとだけ言い、しばらく黙り込んだ。
本来であれば叱りつけたいところだった。国人たちが離反しかねぬ時に何をしておるのかと、酒を取り上げてでも目を覚まさせたい。
だが、そう考えた途端に稲葉山を失った頃の龍興の姿が思い浮かび、道利は口を閉ざした。
あれ以来、龍興の周囲からは多くのものが失われた。城も土地も、かつては疑う必要さえなかった家臣たちの忠誠も、今では確かなものとは言えない。どれほど強がってみせても、一色家が追い詰められていることは本人が誰よりも承知しているはずだった。
そのような日々を送っていれば、酒に逃げたくなる気持ちも分からぬではない。
道利自身、夜になっても考えがまとまらず、何もかも忘れてしまいたいと思うことがある。明日になればまた兵が足りぬと言われ、国人の不満を聞かされる。手を尽くしても事態が好転するとは限らない。いっそ何も考えずに眠ってしまえれば、どれほど楽だろうか。
龍興を情けないと思う一方で、そうした弱さを責めきれない自分もいた。
酒を飲んだところで稲葉山が戻るわけではない。国人たちの忠誠が取り戻せるわけでもなかった。そんなことは龍興とて分かっているだろう。分かっていても酒に手を伸ばしてしまうのなら、ただ叱るだけではどうにもならぬ。
「御屋形様には、国人たちのことは引き続きこちらで対処すると伝えよ。それと、近いうちに顔を出すともな」
家臣が頭を下げて退出すると、道利は深く息を吐いた。
龍興に会えば何を話すべきか。酒を控えるよう諫めるのは簡単だが、その後に何を言えばよいのか。失った領地を取り戻せると励ましたところで、確かな見通しがあるわけでもなかった。
それでも主君を酒に任せたままにはしておけない。
道利は気持ちを切り替えるように帳面へ目を戻した。
西美濃の国人たちに本領安堵を認めたという話は、すでに耳に届いている。氏家や安藤、稲葉まで従来の所領を保っているとなれば、東美濃の国人が心を動かされても不思議ではなかった。
厄介なのは六角がそれを大声で触れ回っているわけではないことだ。国人たちの間で勝手に話が広まり、それぞれが自分の家の行く末を考え始めている。これでは誰を咎めればよいのかさえ分からない。
道利は別の家臣を呼び、国人たちへの軍役の催促を当面緩めるよう命じた。
「兵を出せと迫るより、まずは各家にどれほどの兵が残っておるのかを確かめよ。今のまま催促を続ければ、兵どころか国人そのものを失いかねぬ」
家臣は催促を緩めることで国人たちがますます兵を出さなくなるのではないかと懸念したが、道利は考えを変えなかった。冬の間に無理を重ねて離反者を増やしては、何のために兵を集めているのか分からない。
ただし、六角と接触している疑いのある者については引き続き調べるよう命じた。佐藤だけでなく、ほかの国人の動向にも注意を払わせる。こちらへ背くつもりなのか、単に家の存続を考えているだけなのかを見極める必要があった。
龍興には軍役の催促を続けているものの、冬支度のため思うように兵が集まらぬと伝えさせることにした。嘘ではないが、催促を緩めたと知れば不満を抱かれるかもしれない。
それでも一色家を守るためには致し方なかった。
家臣が下がると、道利は改めて東美濃の国人たちの名を書き連ねた帳面を開いた。
以前ならば忠誠を疑う必要もなかった家々の名が、今はどれも不安の種に見える。佐藤忠能が本当に六角へ接近しているのなら、いずれほかの国人にも同じ動きが広がるだろう。
道利は帳面を閉じかけ、思い直してもう一度開いた。
龍興が酒に逃げたくなる気持ちは分かる。だが、自分まで同じように振る舞うわけにはいかなかった。せめて一色家が立ち直るための足場だけでも残しておかねばならない。
六角が兵を動かさぬ間に、こちらの家中ばかりが揺らいでいる。その事実が腹立たしくてならなかった。
*
十一月も終わりに近づいた頃、佐藤家から再び知らせが届いた。
今度も商人を介していたが、前より踏み込んだ内容だった。佐藤忠能は一色家との関係を直ちに断つつもりはないものの、龍興からの軍役要請には今後積極的に応じないという。その代わり、六角家が加治田周辺へ兵を進める際には佐藤家の所領を侵さないよう求めていた。
篠から届いた報告を読み終えた俺は、思わず感心した。
なかなか上手い話を持ちかけてきたものだ。
六角にとっては一色家の兵力を削ぐことになり、佐藤家にとっては戦を避ける道が開ける。しかも正式な帰属ではないため、一色家との関係も当面保てる。どちらが勝っても家を残せるようにしておきたいのだろう。
腹立たしいほど都合のよい話ではあるが、家を守る立場なら似たようなことを考えるかもしれない。ただし、こちらが加治田を攻めないという約束だけを取りつけて、いざとなれば一色や織田へ味方するつもりなら話は別だ。
「若様、佐藤への返答はいかがなさいますか」
「父上にお諮りする。ここまで話が進んだ以上、独断で返事をするわけにはいかん」
弥太郎は頷くと、すぐに取次ぎの手配を始めた。
佐藤忠能がどこまで本気なのかは分からないが、一色家への忠誠を貫くつもりではないらしい。もっとも、こちらとの関係を築いたからといって織田へ近づかない保証もなく、返答を間違えれば六角の立場を不利にしかねなかった。
父上は事情を聞くと、少し面白そうに笑った。
「佐藤忠能か。なかなか抜け目のない男だな。六角が東へ進む時には所領を侵さぬよう求めておるのだろう。随分と都合のよい話ではないか」
「そうですが、加治田を無理に攻めずに済むなら、こちらにも利はあります」
「確かにな。城を攻めれば兵も銭も失う。佐藤が兵を出さぬというのであれば、治部大輔も困るであろう」
父上は頷いたものの、すぐには返事をしなかった。しばらく考えた後、佐藤を信用できるかと尋ねられた。
正直なところ、まだ信用できるほどの材料はない。ただ、向こうから接触してきた以上、六角を敵に回したくないことだけは確かだろう。もちろん織田からよい条件を示されれば、そちらへ靡く可能性も残っている。
俺がそう答えると、父上は喉の奥で笑われた。
「国人とはそういうものだ。家を残すためなら昨日の敵にも頭を下げる。だからこそ、六角に従った方が得だと思わせねばならぬ」
父上はそこで笑みを収めた。
佐藤がこちらを敵に回したくないというのであれば、その望みを利用すればよい。ただし、佐藤一人に気を取られてほかの国人を見失うなと釘を刺された。加治田城は重要な場所だが、東美濃へ進む道は一つではない。
父上の考えに異存はなかった。加治田を攻めずに済むのであればありがたいが、そのために六角の方針まで曲げるつもりはない。
父上はしばらく考えた後、佐藤家への返答を認められた。
ただし、現段階で本領安堵を約束することは避け、六角家に敵対しない限り加治田を積極的に攻めるつもりはないと伝えるに留める。正式に帰属を申し出た場合には、改めて所領や家臣の扱いを取り決めることになった。
俺としても異存はなかった。佐藤家の求めにすべて応じるわけではないが、少なくともこちらが無理に敵対するつもりのないことは伝わるだろう。
「佐藤が一色への軍役を控えれば、治部大輔は不満を抱くでしょうな」
「当然であろう。だが、佐藤を咎めようにも今の一色家にそれだけの余裕があるかどうか。長井道利も苦労しておろう」
父上は愉快そうに笑われた。
道利にとっては笑い事ではないだろう。国人が兵を出さぬからと処罰すれば、今度はほかの国人まで離反しかねない。かといって見過ごせば主君の命に従わぬ者が増えていく。
俺がそのことを口にすると、父上は道利なら無理な処罰を避けるだろうと頷かれた。ただし、龍興がそれを許すかどうかは別の話だという。
父上は楽しそうだったが、俺は素直に笑えなかった。
長井道利は決して愚かな男ではない。国人たちの離反を防ぐため、何らかの手を打つはずだ。こちらの調略を逆手に取られる可能性もあるし、国人たちをつなぎ留めるために思い切った譲歩をするかもしれない。
少なくとも、一色家が衰えたからといって何もせずに滅びるとは思わない方がよい。
さらに織田家の動きについても報告した。
東美濃には織田へ従うことを考える者もおり、佐藤家がこちらだけを見ているとは限らない。父上もそのことは承知しておられたが、織田を恐れて調略を止める必要はないとの考えだった。
「今のうちに縁を作れる者とは作っておけ。ただし、佐藤がいつまでも態度を決めぬようなら、こちらも付き合い方を考えねばならんな」
「承知しております。向こうにも六角の考えは伝えておきます」
父上は満足そうに頷き、そこで話を終えられた。
書院へ戻ると、弥太郎に佐藤家への返答を伝えた。
篠には引き続き佐藤家の動向を調べさせ、織田へ接触しているかどうかも確かめさせることにした。ただし、長井道利が警戒を強めている可能性もあるため、無理に情報を集める必要はない。
ほかの国人についてもこれまでどおり接触を続けるが、帰属の意思を明らかにしない者へ安易な約束は与えない。一色家からの軍役を控えるだけの者についても、正式に六角へ従うまでは味方と見なさぬよう注意させた。
弥太郎は国人によって求めるものが違うため、今後は交渉も難しくなるだろうと案じていた。
もっとも、それぞれ事情が異なるのは当然だ。皆が同じことを考えている方が不気味なくらいである。佐藤忠能のように両方へよい顔をする者もいれば、六角へ帰属することで家中が割れることを恐れる者もいるだろう。
相手の事情を確かめながら話を進めるしかなかった。
弥太郎が返答を届けるための手配に取りかかると、俺は机の上に広げていた書状を整理した。
佐藤家からの知らせは確かな前進だが、相手が正式に帰属を申し出たわけではない。これだけで喜んでいられるほど、東美濃の情勢は単純ではなかった。
その日の夕刻、稲葉山城から新たな報告が届いた。
一色家に従う国人の間で兵の派遣を渋る者が増えており、長井道利が各家への使者を増やしているという。進藤山城守もその動きを警戒しているらしい。
佐藤家だけではなかったか。
思わず口元が緩んだ。こちらが思っていた以上に、一色家への不満は広がっているのかもしれない。
しかし、報告を読み進めるうちに別の懸念が浮かんできた。
道利が国人たちの変化に気付いているのであれば、六角の調略にも警戒を強めるだろう。国人への使者が増えているのは軍役の催促だけが理由とは限らず、こちらへ接近している者を探っている可能性もあった。
「やはり道利も気付いているか……」
思わず呟くと、弥太郎が顔を上げた。
俺は報告の内容を伝え、山城守へ返書を出すよう命じた。調略に応じる者が現れても、城を開いて正式に六角へ従うまでは安易に味方と見なさぬこと。特に一色家への軍役を控えるだけの者については、その動きを慎重に確かめるよう伝える。
篠たちにも同じ注意を促すことにした。
「道利が探りを入れているのであれば、向こうも慎重になっているはずだ。無理に話を進める必要はない」
「承知いたしました。篠にも伝えておきましょう」
弥太郎が頷いた。
これまで従っていた主家を見限るのは、国人たちにとって容易なことではない。佐藤忠能のように両方へよい顔をする者もいれば、最後まで態度を決められない者もいるだろう。こちらの望むとおりに動くとは限らないが、一色家が以前のように国人をまとめられなくなっていることは確かだった。
返事を書き終えたところで、廊下に控えていた近習が弥太郎へ何事かを伝えた。夕餉の支度が整ったらしい。
障子の向こうはすっかり暗くなっていた。報告を読み始めた頃にはまだ明るかったはずだが、書状に目を通しているうちに随分と時間が経っていたようだ。
「今日はここまでにする。残りは明日だ」
筆を置いて立ち上がると、弥太郎が少し安心したような顔をした。
寿の様子を尋ねると、部屋で休みながら夕餉を待っているとのことだった。侍女からも体調に変わりはないと報告されているらしい。
それならば、こちらから向かえばよい。
「若様も、今日は早めにお休みくださいませ」
「分かっている。昨日遅くなったことを、また寿に言われては敵わんからな」
弥太郎は頷いたものの、仕事を増やし続けるのは若様ご自身ですからと、涼しい顔で言い添えた。
思わぬ返事に顔を上げると、当人は何食わぬ顔で書状を揃えている。
「……言うようになったな」
「若様のお側に仕えておりますれば」
そう返されては苦笑するしかない。どうやら最近は寿だけでなく、弥太郎にも仕事のし過ぎを気にされているらしい。
書院を出ると、冷えた空気が頬に触れた。俺は弥太郎に後を任せ、寿の待つ部屋へ向かった。
部屋では寿が侍女と話していたらしく、こちらに気付くと嬉しそうに顔を上げた。
「四郎様、お仕事はもうお済みになったのですか?」
「ああ。今日はここまでにした」
「まあ、今日は随分とお早いのですね」
寿は少し驚いたようだったが、すぐに楽しそうに笑った。昨日も早く戻ると言いながら遅くなったため、今日も同じことになると思っていたらしい。
「今日はちゃんと戻ってきたのだから、それでよいだろう」
「ふふっ、そういうことにしておきます」
穏やかな顔でそう言われてしまえば、こちらも苦笑するしかない。
寿は以前から俺の仕事を気に掛けてくれていたが、近頃はこちらも寿の体調が気になっていた。懐妊していることもあり、無理をせず過ごしてほしいと思っている。今は侍女たちもよく気を配ってくれているようで、そのことには感謝していた。
今日も部屋でゆっくり過ごしていたと聞いて安心したが、何かあれば遠慮せずに伝えるよう改めて頼んだ。
「承知しております。四郎様も、あまりご無理をなさらないでくださいませ」
「分かった。お互い様ということだな」
寿が楽しそうに頷いたところで、侍女が夕餉の支度が整ったことを告げた。
俺は先に立ち上がり、寿が支度を整えるのを待ってから共に部屋を出た。
廊下を歩きながら、先ほどまで考えていた佐藤家のことが再び頭に浮かんだが、隣を歩く寿が楽しそうに夕餉の話を始めたため、ひとまず考えるのをやめた。食事の席でまで難しい顔をしていれば、また心配をかけることになる。
今も東美濃では国人たちが家を守るために動いている。佐藤忠能が接触してきたことは確かな成果だが、長井道利も黙って見過ごすまい。織田信長もまた、美濃の情勢を注意深く見ているはずだった。
翌朝には佐藤家への返答を携えた者が西美濃へ向かう。その返事を受け取った忠能がどう動くかは分からないが、少なくとも一色家に従っていた国人たちの間に変化が生まれたことは確かだった。
軍勢を動かすことなく得られた小さな成果を、これからどう生かすか。春になれば再び兵を動かす機会も訪れるだろうが、それまでにできることは少なくない。
冬の間にやるべきことは、まだ多く残っていた。
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