永禄五年十二月上旬。美濃国加治田城。
六角家からの返答が届いたのは、十二月に入って間もなくのことだった。使いを務めた商人はいつもの取引を終えた後、人目を避けて城へ上がってきた。持参した書状には六角家の意向が簡潔に記されており、儂は二度ほど読み返してから傍らの家臣へ渡した。
六角家に敵対しない限り、加治田を積極的に攻めるつもりはない。ただし正式に帰属するまでは本領安堵を約束せず、その際には改めて所領や家臣の扱いについて取り決めるという。
期待していたほど甘い返答ではなかった。もう少し有利な条件を引き出せるのではないかと思っていたが、六角もそこまで気前がよいわけではないらしい。もっとも、帰属してもいない国人に所領を安堵するはずもなく、考えてみれば当然の返事だった。こちらが求めているのは加治田を守るための保証だが、六角にも自家の都合がある。何の見返りもないまま、そのような約束を与えてくれるとは思えなかった。
「紀伊守様。これでは加治田の安堵を得られたことにはなりませぬな」
「ああ。だが、六角もこちらと無理に戦うつもりはないらしい。それだけ分かったのなら十分だ」
そう答えると、家臣は不満そうに口を閉ざした。こちらは一色家との関係を危うくしてまで接触したのだから、もう少し確かな約束が欲しかったのだろう。その気持ちは儂にも分かる。家臣たちには六角と戦うことになった時の危険も考えさせている以上、安心できる材料を一つでも多く示してやりたかった。
しかし今回の返答が決して悪いものとは思えなかった。正式な帰属を求められたわけでもなく、すぐに一色家を裏切る必要もない。少なくとも今のところは、両家との関係を保ちながら情勢を見る余地が残されている。六角が帰属を望むならまず意思を明らかにせよと伝えてきたことも、考えようによっては分かりやすかった。こちらが決断しない限り、安堵の話も先へは進まないということだ。
儂は書状を畳み、商人には返答への礼だけを伝えた。六角家との接触も当面控えさせることにする。何度も人を行き来させれば長井隼人佐の耳に入る恐れがあった。もともと商人の往来が多い加治田とはいえ、今の情勢では些細な動きさえ疑われかねない。こちらから危険を増やしてまで、返事の催促をする必要はなかった。
その判断が正しかったと思わされたのは、わずか二日後のことだった。
関城から使者が訪れ、隼人佐が東美濃の国人たちを招集するという。名目は来春に向けた軍備の相談であり、各家の兵数や兵糧について確認したいとのことだった。使者の口ぶりからは、特定の家を問い詰めようという様子は感じられない。それでも儂は、届けられた書状をすぐには閉じられなかった。
先日まで軍役を急ぐよう求めていた隼人佐が、今度は国人たちを集めて話を聞くという。強引な催促では兵を集められないと悟ったのか、それとも六角へ近づく者を見極めようとしているのか。どちらにしても、今までと同じような返答で済むとは限らなかった。
「紀伊守様、いかがなさいます」
「参らぬわけにはいくまい。今ここで断れば、余計な疑いを招く」
出仕を決めると、供の者を選ばせた。六角からの返答については家中でも限られた者しか知らず、今回の招集を機に話が漏れるようなことは避けたかった。関城へ向かう前に、六角から届いた書状も人目に付かぬ場所へ収めさせた。
もっとも、隼人佐が何も気付いていないとは思えない。長く一色家を支えてきた重臣であり、国人の扱いにも慣れている。商人を通じた接触を掴んでいる可能性は十分にあった。もし六角の名を出されたら、どこまで答えるべきだろうか。道中でも考えたが、こちらから余計なことを話す必要はないという結論に落ち着いた。
儂はあえていつもどおりの供を連れて関城へ向かった。警戒するあまり人を減らしたり、普段使わぬ道を選んだりすれば、それこそ疑われる。何も変わっていないように振る舞うことも、今は必要なことだった。
*
美濃国関城。
東美濃の国人たちが評定の間へ集まるのを待ちながら、儂は手元の帳面を確かめていた。各家に求めた軍役と、実際に集まった兵の数が記されている。見比べるほどに頭が痛くなる数字だった。昨年からの戦で兵を失った家もあれば、村の働き手が不足していると訴える家もある。皆が偽りを申しているとは思わぬが、言い分をそのまま受け入れれば一色家の軍勢は整わない。
それでも、今の東美濃で無理に兵を集め続けることはできなかった。六角が稲葉山を得たことで、西美濃からの備えも必要になった。こちらの都合では春を待たずに兵が欲しいが、国人たちにも守るべき村と田畑がある。儂は帳面を閉じ、席に着いた者たちの顔を見渡した。
冬の間に無理な軍役を課すつもりはないこと。各家には領内の守りを優先させ、春までに動員可能な兵数と兵糧を報告してもらいたいこと。さらに六角軍が再び東へ進んできた場合に備え、街道や城の守備についても見直す考えを伝えた。
話を終える頃には、国人たちの表情が少し和らいでいた。
先日まで兵を出せと催促していた時には、誰もが言い訳ばかり並べていた。それが負担を軽くすると告げた途端、各家の事情について自ら話し始めている。腹立たしい気持ちがないわけではない。だが、今ここで責めたところで何も得られぬことは分かっていた。むしろ春までにどれほどの兵を集められるか、確かな数字を得る方が先だった。
軍議では各家の城や兵糧の備えについて確認し、必要な修繕は冬の間に進めることになった。兵を出す代わりに自領の守りを固めればよいと聞き、安堵する者も少なくない。ある家では城の柵が傷んでおり、別の家では山道の見張りを増やしたいという。そうした話が次々と出てきたため、儂は必要な人手と物資を書き留めさせた。何もせず兵を温存させるわけではない。各地の備えを整えることも、一色家を守るための働きになる。
もっとも、喜んでばかりもいられなかった。以前ならば誰が率先して兵を出すかを話し合ったものだが、今は自領を守ることに関心が集まっている。こちらから出陣を求めても、以前ほど容易には応じまい。六角を迎え撃つことになれば、関城へ集められる兵は想定より少なくなる恐れがあった。
加治田の佐藤紀伊守も例外ではなかった。紀伊守は加治田城と周辺の道を守るために相応の兵を残したいと申し出たものの、一色家のために動かせる兵数については明言しなかった。以前から慎重な男だが、今はその慎重さが一層目立つ。
儂はあえて咎めなかった。ここで紀伊守を問い詰めれば、ほかの国人も口を閉ざすだろう。代わりに、加治田周辺を通る者たちの動向について尋ねた。
「近頃は西美濃との往来が増えておるそうだな」
「商人の行き来は以前からございます。稲葉山を六角が得てからは、取引の相手が変わった者もおります」
「そうであろうな。だが、今は商人の姿で諸家を探る者もおろう。加治田を守るうえでも注意しておくことだ」
「心得ております」
紀伊守は表情を変えずに答えた。こちらの言葉をどのように受け取ったのかは分からない。六角との接触を疑われていると考えたかもしれぬが、儂自身も確かな証を掴んでいるわけではなかった。商人の往来が増えたことだけで、国人の一人を敵と決め付けるわけにはいかない。
それ以上は追及せず、加治田の街道についても人の往来を確かめ、異変があれば知らせるよう求めた。西美濃との往来を禁じれば商いに支障が出る。六角の物見を警戒する必要はあっても、関や加治田へ入る荷まで止めるつもりはなかった。
紀伊守はその方針を受け入れ、ほかの国人と同じように軍議の終わりを待った。儂は以後も各家の事情を聞き、春までに整えるべき城と道について確認を進めた。話し合いが終わる頃には、最初に予想していたより多くの情報が集まっていた。
国人たちが順に城を辞していくのを見送りながら、儂は先ほどまでの言葉を思い返した。誰も明確に背いてはいない。しかし来春の出陣に応じると約束した者も、思っていたほど多くなかった。
以前ならば国人たちを叱りつけ、主家への忠誠を求めていただろう。だが今は、そのような振る舞いがかえって一色家を危うくする。儂自身も不本意ではあったが、現実を見ずに兵を求め続けるわけにはいかなかった。
「隼人佐様。佐藤紀伊守についてはいかがいたしましょう」
控えていた家臣が尋ねた。加治田と西美濃の間で商人の往来が増えていることについて、以前から報告を寄越していた男だった。先ほどのやり取りを見て、疑いを深めたのだろう。
「しばらくは様子を見よ。あれだけの国人を証もなく疑えば、こちらから敵を作るようなものだ」
「しかし、六角へ通じていた場合は……」
「その時に備えて調べるのだ。今はまだ紀伊守を失うわけにはいかぬ」
家臣は承知したと頭を下げたが、納得したようには見えなかった。儂も佐藤家を疑っているのは事実であり、ほかの国人たちについても安心できるわけではない。だからといって全員を監視するだけの人手もなく、疑いのある者を片端から呼び出せば、今度は国人たちが関城へ近付かなくなるだろう。
軍議を開いたことで、少なくとも各家が抱える兵の事情は以前より明らかになった。今後はそれを基に守りを整えるしかない。儂は集めた帳面を手元へ引き寄せ、兵数を確かめ始めた。春までに何とか形にしなければならないが、書き並べられた数字だけでは心許なかった。
それでも、足りぬ兵を嘆いているだけでは一色家を守れぬ。各家が実際に出せる人数を見極め、その兵で守れる場所を定めていくほかないだろう。
*
美濃国加治田城。
関城から戻った儂は、軍議の内容を家臣たちへ伝えた。冬の間は無理な軍役を求められず、各家が自領の守りを固めることになったと聞き、皆も安堵したようだった。これで加治田の兵を春までに整える余裕が生まれる。城や街道の守備を見直すにも、人手を確保しやすくなるだろう。
ただ、儂自身は隼人佐の言葉が気に掛かっていた。
加治田周辺の往来を確かめよという命令は、確かに城を守るためのものだ。六角が西美濃を押さえた以上、商人に紛れて物見が入り込むこともあるだろう。しかしこちらが六角と接触している時に、そのような役目を命じられたことが偶然だとは思いにくい。
隼人佐は六角との接触を知っているのか。それとも、こちらが疑わしいと考えて探りを入れているだけなのか。軍議の席ではそれ以上問い詰められなかったが、だからといって安心するわけにはいかなかった。あの男が証もないまま国人を責めるようなことをしないのは知っている。むしろ、確かな証を得るまで動かぬからこそ厄介だった。
儂は以前から取引のある商人を呼び、当面は城への出入りを控えるよう伝えた。商いまで止める必要はないが、六角から新たな話が届いたとしても、すぐに城へ持ち込ませるつもりはなかった。普段の取引に紛れているとはいえ、同じ男が繰り返し城へ上がれば疑われる。
ただ、それだけでは足りぬ気もした。隼人佐が国人たちの動きを調べ始めていることを、六角へ知らせておいた方がよいのではないか。六角が事情を知らずに使者を増やせば、こちらとの接触が露見する恐れもあった。
六角へその話を伝えれば、関城で聞いたことを敵へ漏らしたことになる。今までは双方との関係を保っていただけだったが、そこから先へ進めば、もはや同じ言い訳は通じないかもしれない。儂は商人を前にしたまま、しばらく言葉を選んだ。
結局、託したのは一つだけだった。
今後、加治田周辺の商人や旅人について関城から尋ねられることが増えるかもしれない。西美濃との往来には注意してほしい、と。
六角との交渉を進めるつもりはない。しかし、その程度の知らせであれば一色家への忠義を明確に裏切ったことにはなるまい。そう考えようとしたが、商人を送り出しても胸の内に残るものは消えなかった。
自分でも随分と都合のよい理屈を並べている。隼人佐から得た情報を六角へ伝えるという行いは、どのような理由を付けても変わらない。今後同じようなことを求められた時、果たして断ることができるだろうか。
商人が門を出ていくのを見届けると、小さく息を吐いた。六角にも一色にも背かずに済ませられればよいと思っていたが、いつまでもそのような立場でいられるものではないのかもしれなかった。
*
永禄五年十二月上旬。近江国観音寺城。
関城で軍議が開かれたという知らせが届いたのは、それから数日後のことだった。
篠たちの情報網から届けられた報告には、東美濃の国人たちが関城へ集められたことと、来春に向けた軍役の確認が行われたことが記されていた。冬の間は無理な動員を控え、各家の守りを優先させるらしい。
なるほど。長井隼人佐は強引に兵を集めることを諦めたか。
もともと無理な催促を続ければ、国人たちが六角へ傾くことは隼人佐も承知していたはずだ。今回の判断は不思議ではないし、むしろ一色家を支える立場としては妥当なものだろう。西美濃を失った一色家にとって、東美濃の国人まで敵に回すことは避けたいはずだ。
ただ、軍役の負担が軽くなれば国人たちの不満も幾分か和らぐ。六角へ帰属する理由が薄れたと考える者も出るかもしれない。調略を進める側としては面白くない動きだったが、一色家を支える者が何も考えずにいるわけではないことも分かった。
「若様。こちらも国人たちへの働き掛けを強めますか」
弥太郎が尋ねてきたが、俺は首を振った。
「いや、今は隼人佐の出方を見たい。国人たちがどう受け止めたのかも分からんうちに動けば、かえって警戒させることになる」
実際、今回の軍議で国人たちがどのような話をしたのか、詳しいことまでは掴めていない。隼人佐が軍役を緩めたという事実は分かったが、それだけで一色家中の結束が戻ったとは判断できなかった。兵を出す負担が減ったことを喜ぶ者もいれば、それでも一色家の先行きを案じている者もいるだろう。
報告の中には佐藤紀伊守が関城へ出仕したという話もあった。こちらと接触している以上、何か気になることがあったかもしれないが、今は直接確かめる手段もない。下手に使者を送れば、関城での軍議を受けてこちらが動いたと疑われる恐れもあった。
「佐藤家との接触も、しばらく控えた方がよいでしょうか」
「そうだな。先日の返答は伝わっているはずだ。向こうから新たな申し出がない限り、こちらから動く必要はあるまい」
紀伊守が六角へ帰属するかどうかは、まだ分からない。それでも一色への軍役を控えるという話を持ちかけてきた以上、少なくとも龍興のために積極的に戦うつもりは薄れているのだろう。ただし、その考えが変わらない保証はない。隼人佐が軍役を緩めたことで、紀伊守も一色家との関係を見直すかもしれなかった。
俺は弥太郎へ、篠たちに無理な接触を控えさせるよう命じた。ほかの国人については引き続き動向を探らせるが、今は新たな帰属を急がせるつもりもない。一色家がどれほど兵を集められるのかを確かめる方が先だった。
その日の午後、さらに一通の知らせが届いた。
差出人は篠だったが、内容は佐藤家に出入りする商人から得た話に関するものだった。長井隼人佐が関城の軍議で各家の軍役を緩めた一方、商人や旅人の往来についても注意するよう命じたという。
しかも、そのことを伝えてきたのは紀伊守に近い商人らしい。
俺は書状を読み返した。隼人佐が商人の動きを警戒すること自体は当然だろう。調略を進めているこちらとしても、いずれそうなることは想定していた。むしろ、西美濃との往来を今までどおりに放置する方が不自然だ。
気になるのは、佐藤家がわざわざその話を伝えてきたことだった。
紀伊守はこちらの条件を受け入れたわけでも、正式に六角へ帰属したわけでもない。にもかかわらず、一色家の重臣が命じたことを知らせてきたのである。
どこまで意図した行動なのかは分からなかった。親切心なのか、こちらへ恩を売るつもりなのか。それとも六角との関係を保つため、何か一つでも役に立つ話を届けようと考えたのだろうか。いずれにしても、以前とは少し事情が変わってきたようだ。
「弥太郎。紀伊守からの知らせについては、篠を通じて礼を伝えさせろ。ただし、こちらから返事を求める必要はない」
「承知いたしました」
弥太郎が下がると、俺は書状を机へ戻した。
六角と一色のどちらにも背かずに済ませたい。紀伊守は今でもそう考えているのかもしれないが、関城で聞いた話を六角へ知らせたことが隼人佐に知られれば、単なる商人の往来では済まされなくなるだろう。
紀伊守も随分と危ういところへ足を踏み入れ始めたものだ。もっとも、その背を押しているのは六角家でもある。相手が望んだからといって、こちらが無関係を装うことはできまい。今後の接触については、これまで以上に慎重に扱う必要があった。
俺は改めて美濃の絵図を広げ、加治田城と関城の位置を確かめた。
長井隼人佐は国人たちへの負担を軽くして一色家につなぎ留めようとし、佐藤紀伊守はその隼人佐へ従う姿勢を見せながら、密かに六角との縁を保とうとしている。
互いに何も知らぬわけではないのだろう。それでも表向きの関係を崩さずにいるのは、今ここで争えば双方とも困るからだ。その均衡がいつまで続くかは分からなかったが、少なくとも俺から急いで崩す必要はない。
今はそれぞれが次にどのような行動を選ぶのか、見極める方がよさそうだった。
*
永禄五年十二月上旬。美濃国加治田城。
関城での軍議から数日が過ぎた頃、西美濃との商いを続けていた商人が、関へ通じる街道で荷を改められたという知らせが届いた。これまでも関所での検分は行われていたが、今回は荷の中身だけでなく取引先や行き先まで細かく尋ねられたらしい。
その商人は以前から佐藤家と付き合いがあり、六角家との連絡にも使った男だった。荷の中に怪しまれるようなものはなく、尋ねられたことにも普段の商いについて答えたため、その場で通行を認められたという。しかし、何度も同じことを確かめられたせいか、城へ上がってきた時には随分と疲れた顔をしていた。
「関では西美濃へ出入りする者を調べているようにございます。六角との取引についても尋ねられました」
「そなたが六角へ使いをしたことは知られておらぬのだな」
「そこまでは分かりませぬ。ただ、佐藤家との商いについては幾度も聞かれました」
儂は返事をせず、商人の顔を見つめた。男は嘘をついている様子もなく、何より六角との連絡について記した書状を持っていたわけではない。隼人佐が何らかの疑いを抱いているとしても、今回の検分だけでこちらの動きを掴んだとは考えにくかった。
それでも不愉快な話だった。関城で隼人佐から商人の往来に注意するよう求められたばかりである。こちらの動きを探っていると考える方が自然だろう。しかも、関所の役人がどこまで命じられているのかは分からない。荷を改めるだけならまだしも、今後は城に出入りする者まで調べられるかもしれなかった。
儂は商人へ、しばらく城への出入りを控えるよう伝えた。西美濃との商いそのものを止める必要はないが、今後六角家から何か伝言を預かったとしても、直接城へ持ち込ませるつもりはなかった。
ところが商人はすぐに頭を下げようとはしなかった。何か言いたげな顔でこちらを見ている。
「どうした」
「恐れながら、私どもも商いで暮らしております。関で疑われるようになれば、これまでどおり荷を運べるかどうか……」
儂は思わず口を閉ざした。
この男を六角との連絡に使ったのは儂である。商人としての往来なら目立たぬだろうと考えたが、隼人佐も同じことに気付いたらしい。今後さらに検分が厳しくなれば、男は何も知らぬ顔で商いを続けることさえ難しくなるかもしれなかった。
しかも、佐藤家が六角との関係を疑われている以上、男だけが無事で済む保証もない。六角との使いに関わったというだけで捕らえられれば、商いの仲間や家族にも迷惑が及ぶ。こちらの事情に巻き込んだ相手へ、そのような危険を負わせ続けるわけにはいかなかった。
「此度のことは儂にも責がある。そなたには余計な苦労を掛けたな」
そう告げると、商人は驚いたように顔を上げた。
「今後は普段の商いに専念せよ。こちらからも無理な使いは頼まぬ。それと、関でまた何か尋ねられたとしても、知っていること以上を話す必要はない」
商人は安堵したように頭を下げた。儂は礼として銭を渡すよう家臣に命じ、男を帰した。城門へ向かう後ろ姿を見送りながら、六角との接触を続けることが自分だけの問題ではなくなっていると、改めて思い知らされた。
その後、傍らに控えていた古参の家臣が難しい顔で口を開いた。
「紀伊守様。やはり六角との接触は控えるべきではございませぬか。長井隼人佐が疑っておられるのであれば、これ以上は危ううございます」
「分かっておる。だが、六角との縁を今すぐ断つつもりもない」
儂は机に置かれた帳面を引き寄せた。
関城からは来春に動員可能な兵数と兵糧について報告するよう求められている。これまでの軍役とは違い、今回は各家の事情を考慮するという話だったが、どれほど正直に答えるべきか迷っていた。
加治田城を守る兵まで関へ送れば、六角が東へ進んできた時に何もできなくなる。だからといって少なすぎる兵数を報告すれば、一色家への協力を渋っていると疑われるだろう。隼人佐は軍役を緩めると言ったが、出せる兵がいないという返答をそのまま受け入れるとは限らなかった。
儂はしばらく帳面を眺めた後、家臣へ領内の兵と兵糧を改めて数えさせることにした。実際に動かせる兵数を確かめたうえで、城や街道の守備に必要な分を差し引く。それを関城へ報告するつもりだった。嘘の数字を並べれば後で苦しくなるし、加治田の守りを削ってまで一色のために兵を出すこともできなかった。
「長井隼人佐にはありのままを伝えればよい。ただし、加治田の守りを疎かにしてまで兵を出すつもりはない」
家臣は頷いたものの、表情は晴れなかった。儂も安心しているわけではない。隼人佐が今回の返答をどう受け取るかは分からず、六角が春になって約束を守るかどうかも確かではなかった。
それでも、今のところほかに選べる道は見当たらなかった。
*
美濃国関城。
国人たちから軍役に関する返答が届き始めた。
軍議を終えてから、儂は各家へ改めて書状を送り、来春に動員できる兵数と兵糧の蓄えについて確かめさせていた。冬の間に無理な軍役を課さぬと約束したことで、以前より返答は早くなっている。しかし、届いた内容を見れば素直に喜べるものばかりではなかった。
各家とも領内の守りを優先したいという。
城を修繕するために人手が要るという者もいれば、収穫した米を春まで残しておきたいという者もいる。今すぐ兵を求めているわけではないと説明しても、国人たちは少しでも負担を軽くしようとしているらしかった。儂は届いた帳面を並べ、それぞれの家が以前に出していた兵数と見比べた。
大きく減った家もあれば、ほとんど変わらぬ家もある。中には求めた期限より早く返答してきた者もおり、全ての国人が一色家を見限ろうとしているわけではなさそうだった。それだけが、わずかな救いだった。
もっとも、春になって実際に兵を集められるかどうかは別の話である。今は出せると答えていても、六角軍が近づいた途端に態度を変える者が出ないとは限らない。こちらも彼らの約束だけを当てにして軍勢を組むわけにはいかなかった。
儂は家臣を呼び、兵の数だけでなく各家がどの城を守るつもりなのかも確かめるよう命じた。国人たちが自領の防備を重んじるのであれば、それを利用して東美濃の守りを整える方がよい。すべての兵を関城へ集める必要はなく、街道や川沿いの要地をそれぞれに守らせることもできる。
ただし、そのためには各家が約束を守ることが前提になる。守ると申し出た城を戦わずに明け渡されれば、後ろに控える者まで危うくなる。そのような事態を避けるには、各家が実際にどれほどの兵を動かせるのかを知っておく必要があった。
「隼人佐様。加治田からも返答が届いております」
家臣が差し出した書状を受け取り、儂は目を通した。
佐藤紀伊守は加治田城と周辺の街道を守るために相応の兵を残すと記していた。関城へ送れる兵数については明確な約束を避け、実際に六角が動いた場合には改めて相談したいという。
思わず眉をひそめた。
こちらから無理な軍役を求めぬと伝えた以上、自領の守りを優先するという言い分を否定することはできない。しかし、六角と戦うために兵を集めているというのに、その時になって改めて相談したいとは随分と慎重な返答だった。
紀伊守が六角へ接近しているという疑いも、まだ消えていない。
「紀伊守の方から何か尋ねてきたことはないか」
「特には。ただ、加治田の守りについては随分と気に掛けているようでございます」
「そうか」
儂は書状を机へ戻した。
佐藤家を疑っていることを家臣たちへ広めるつもりはない。証拠もなく疑念を口にすれば、それが巡り巡って本人の耳へ届くこともあるだろう。加治田は東美濃を守るうえでも無視できぬ土地だ。疑いだけで関係を損ねれば、こちらから六角へ近付く理由を与えてしまう。
その一方で、関へ通じる街道や西美濃との往来については警戒を強めていた。先日から商人の荷を改め、取引先や行き先を確かめさせている。今のところ六角へ通じる者を捕らえたという報告はないが、商人たちの中には検分を嫌って道を変える者も出始めているらしい。
これについては少々困っていた。
商人の往来を止めれば、関城へ入る物資まで減りかねない。領内の者たちが売り買いを続けられなくなれば、今度はその不満が一色家へ向かうだろう。六角の物見を防ぐために街道を塞ぎ、味方の暮らしまで苦しくしては意味がなかった。
「荷改めは続けよ。ただし、理由もなく商人を留め置くな。通行を妨げて関の市まで寂れさせるわけにはいかぬ」
家臣は頷き、関所の者へ伝えるために退出していった。
残された儂は、改めて紀伊守の書状を手に取った。
加治田を守るために兵を残すという。そこに偽りはないのだろう。紀伊守とて家を守る立場にあり、六角軍が迫れば自領の防備を優先したくなるはずだ。だが、それならば一色家のために戦う兵はどこから集めればよいのか。
儂は書状を置き、深く息を吐いた。
龍興様からは国人たちの協力を取り付けるよう求められている。こちらもそのために手を尽くしているが、今のところ思うような成果は得られていない。無理に兵を集めれば離反を招き、負担を軽くすれば集まる兵が減る。どちらを選んでも不満は残った。
それでも、手を止めるわけにはいかなかった。
儂は各家から届いた兵数を帳面へ書き入れ、来春に関城へ集められる軍勢を改めて数え始めた。思っていたよりも少ない数字が並び、何度か筆を止めることになったが、足りぬものを嘆いても兵は増えない。
まずは確実に従う者を見極め、その兵で守れる場所を定めるしかなかった。
*
永禄五年十二月中旬。近江国観音寺城。
東美濃から新たな報告が届いたのは、佐藤家からの知らせを受け取って数日が過ぎた頃だった。
篠たちによれば、関へ通じる街道で商人の荷改めが以前より厳しくなっているらしい。特に西美濃との往来については取引先や行き先まで確かめられており、商人の中には別の道を選ぶ者も出始めているという。
さらに長井隼人佐は、国人たちから来春の動員可能兵数を集めながら、関城周辺の守りを見直しているようだった。街道の要所では見張りを増やし、城や砦の修繕についても話が出ているという。
報告を読み進めるうちに、思わず眉を寄せた。
隼人佐は思っていたよりも早く動き始めたらしい。一色家に従う国人たちの離反を防ぐだけでなく、六角軍が春になって攻めてきた場合にも備えている。兵を集めることが難しいと判断したからこそ、各家に城や街道を守らせるつもりなのだろう。
「若様。篠からは、しばらく佐藤家への接触を控えたいとの申し出もございます」
弥太郎が別の紙を差し出した。
佐藤家に近い商人が関所で細かく調べられたことについても記されている。幸い捕らえられた者はいないらしいが、今後も同じように人を行き来させれば、いずれ隼人佐に目を付けられる恐れがあった。
「篠の判断で構わん。今は無理に佐藤家へ接触する必要もない」
「では、当面は商人を介したやり取りも控えさせます」
「ああ。ただし、西美濃との商いまで止める必要はない。普段どおりに荷を運んでいる者を、こちらの都合で危うい目に遭わせるわけにはいかんからな」
弥太郎は頷き、返書の支度に取りかかった。
紀伊守がこちらへ関城の動きを知らせてきたことはありがたい。しかし、そのために佐藤家の商人が疑われるようになれば、結局は双方にとって不利益となる。まだ正式な帰属を決めたわけでもない相手へ、危険な仕事を求めるつもりはなかった。
それに、隼人佐の動きが分かった以上、今すぐ佐藤家から新たな情報を得なければならないわけでもない。
問題は来春の東美濃攻略だった。
関城が守りを固め、周辺の国人たちも各自の城へ兵を残すことになれば、六角軍が東へ進む際にはそれらの城を無視できなくなる。もちろん、全ての城を攻め落とさなければならないわけではないが、街道を押さえられれば兵糧の運搬にも支障が出るだろう。
今のうちにどこを通れるのか、どの道が使えなくなる可能性があるのかを確かめておく必要があった。
俺は美濃の絵図を広げ、不破から稲葉山へ至る道筋を確かめた。そこから東へ目を向けると、加治田や関をはじめ、幾つもの城や集落が記されている。
西美濃を手に入れたことで、以前より詳しい情報を得られるようになっている。氏家殿や安藤殿、稲葉殿の家臣たちには美濃の道や川に通じた者も多く、篠たちだけに頼らずとも調べられることは増えていた。
「弥太郎。山城守へ書状を出す。東美濃へ進む道について、今のうちに詳しく調べてもらいたい」
「道や川の様子にございますか」
「それだけではない。春になって雪が解けた後、どの道を軍勢が通れるのか。荷を運ぶならどこを使うべきか。西美濃の者たちにも協力してもらいたい」
弥太郎は頷くと、机の脇から紙を取り出した。
俺は絵図を見ながら必要なことを伝えた。川を渡れる場所や橋の状態、城と城の間の道幅についても確かめておきたい。ただし、一色方の領内へ無理に人を入れる必要はない。まずは六角が得た土地から確認できる範囲を調べ、それ以上は篠たちの情報を待つことにする。
調略を進めるための情報と、軍勢を動かすための情報は必ずしも同じではない。国人たちの事情を知ることも重要だが、実際に兵を進める段になって道や川の様子が分からぬようでは困る。兵が通れても荷駄が進めぬ道では、大軍を動かすことは難しい。
「山城守には、必要なら氏家殿たちとも相談してもらえ。ただし、今から東美濃へ兵を向けるような動きは避けたい」
「承知いたしました。近江からも人を送りましょうか」
「今はまだよい。山城守から返事が届いてから考える」
弥太郎は書き取った内容を確かめると、返書を整えるために席を外した。
俺は絵図を広げたまま、改めて関城の位置を確かめた。長井隼人佐が国人たちへの負担を軽くしたことは、こちらにとって必ずしも悪い話ばかりではない。軍役を強制されなくなった国人たちは、これまで以上に自領の守りを優先するようになるだろう。そうなれば一色家が大軍を集めることは、以前より難しくなるかもしれない。
だが、各地の城が守りを固めれば六角軍の進軍も容易ではなくなる。隼人佐は少ない兵をどう使うか考え始めている。こちらも同じように、持っている兵をどこへ向けるべきか考えなければならなかった。
少なくとも、稲葉山城を得た時と同じように進めばよいとは思わない方がよいだろう。
その日の夕刻、稲葉山城から別の書状が届いた。進藤山城守が西美濃の諸将から聞き取った話によれば、東美濃へ通じる道には以前から幾つかの難所があり、雨や雪解けによって通行が難しくなる場所もあるという。軍勢を進める場合には、街道だけでなく荷を運ぶための道も確保しておく必要があるらしい。
もっとも、山城守自身もまだ詳しい調査を終えたわけではない。西美濃の国人たちから順に話を聞き、必要な場所については現地へ人を出すつもりだと記されていた。
俺は書状を読み終えると、少し安心した。こちらが頼む前から同じことを考えていたらしい。稲葉山城を預けているだけに、山城守が今後の戦についても目を向けてくれているのはありがたかった。
ただ、書状の末尾には気になることも添えられていた。
東美濃の国人たちが自領の守りを固め始めたことで、六角に近い西美濃の国人の中にも警戒を強める者が出ているという。来春になれば再び戦が始まると考え、兵糧の蓄えや城の修繕を急ぐ家もあるらしい。
隼人佐が守りを整えれば、こちらも備えを固める。それ自体は当然のことだが、互いに警戒を強めれば小さな争いが起きる可能性もある。境目の村では双方の兵が行き来することもあり、何かの行き違いから戦が始まってしまっては困る。
俺は山城守への返書に、境目での争いを避けるよう改めて書き添えた。兵糧の確保や城の修繕は進めてもらうが、一色方への挑発となるような行動は慎ませる。万一、境目で争いが起きた場合にも現地の判断だけで軍勢を動かさず、まずは報告するよう命じることにした。
来春の戦については父上から裁量を与えられているが、今すぐ戦を始めてよいわけではない。近江には畿内への備えもあり、軍勢を動かす時期については父上と相談しなければならなかった。
俺は書状を整えると、弥太郎に届けるよう命じた。その後、改めて篠からの報告を読み返した。
佐藤紀伊守がこちらへ接触してきたことは確かな前進だった。しかし今回の件で商人の往来が警戒され始めた以上、同じやり方を続けることは難しくなるかもしれない。
長井隼人佐もまた、一色家を守るために手を打ち始めている。軍役を緩めることで国人たちの不満を抑え、春に向けて各地の城を固めようとしているのだろう。その動きを見れば、東美濃の調略だけで戦を終わらせられるとは思えなかった。
もっとも、これまでに得た成果が無駄になったわけではない。紀伊守は一色家への軍役を控える考えを示しており、ほかの国人たちにも同じような動きが出始めている。隼人佐がどれほど手を尽くしても、全ての国人を以前のように従わせることは難しいはずだ。
その一方で、こちらが無理に帰属を迫れば、今度は隼人佐のもとへ国人たちをまとめる口実を与えてしまう。
俺は絵図の加治田城に目を留めた。紀伊守が次にどのような判断を下すのかは分からない。六角へ正式に帰属するかもしれないし、春まで態度を決めずにいるかもしれない。織田家が動けば、そちらへ近づくことも考えられる。
それでも一つだけ確かなことがあった。
紀伊守はすでに六角を無視できなくなっている。
以前ならば龍興からの命に応じて兵を出していた国人が、今では自らの判断で軍役を控え、他家との関係を探り始めている。その動きは加治田だけに留まらず、東美濃のほかの国人たちにも広がりつつあった。
六角軍が稲葉山を得た時、一色家には立ち直るための時間が与えられたはずだった。だが今、その時間を使っているのは龍興や隼人佐だけではない。国人たちもまた、家を残すためにそれぞれの道を探し始めている。
春までにどれほどの者が一色家に残るのか。隼人佐自身にも、まだ分からないだろう。
俺は机に広げていた絵図を畳み、山城守へ送る書状と共に脇へ置いた。明朝には使者が稲葉山へ向かい、西美濃では来春に備えた調査が始まることになる。調略だけで東美濃を得られるなどとは考えていない。だが、戦う前にできることを済ませておけば、その分だけ兵を失わずに済む可能性は高くなる。
紀伊守との交渉は当面見守ることにしよう。今は隼人佐がどのように東美濃の守りを整えるのかを確かめ、それに備える方が先だった。
そう判断すると、俺は残っていた書状を揃え、翌朝の仕事に回すことにした。東美濃へ進む道は、まだ閉ざされたわけではない。だが、誰もが容易に通してくれると思うほど甘くもなかった。
春になって兵を進める時には、今よりも確かな見通しを持って臨みたいものだ。
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