永禄六年一月上旬。尾張国清須城。
年が明けても胸の内に残る不快さは少しも薄れていなかった。
清須城では新年の祝いを終え、家臣たちもそれぞれの役目へ戻り始めている。城内には正月らしい華やぎがまだ残っていたが、儂の前に積まれた書状は年の初めを祝うものばかりではない。尾張の諸事に加え、三河や美濃からも次々と知らせが届いていた。
なかでも気に掛かるのは、やはり美濃だ。
昨年、六角は西美濃を切り取り、稲葉山城まで手に入れた。一色龍興は東美濃へ退き、その下に残った国人たちも以前ほど素直に従わなくなっている。六角の軍勢はすでに近江へ引き揚げているが、西美濃では氏家や安藤、稲葉といった国人たちが所領を安堵され、新たな支配に従い始めていた。
見事なものだ。そう思うたびに腹が立つ。
美濃は儂も狙っていた土地だった。一色の家中が揺らいでいることは承知していたし、いずれ北へ兵を進めるつもりでいた。ところが実際に稲葉山へ入ったのは六角であり、その軍勢を率いていたのは嫡男の六角義治だった。
しかも事態が動くきっかけの一つを作ったのはこちらの兵である。
東美濃の境で織田方が一色方と争ったことは、今となっても苦々しい。あの騒ぎだけで一色家が崩れたわけではないが、六角が兵を進める機会を得たことには違いなかった。こちらが不用意に動いたところを見事に利用された格好だ。
あの時、もう少し慎重に動いておれば。
考えたところで今さらどうにもならぬ。分かってはいるが、稲葉山を六角に奪われたことよりも、その機会をこちらが与えてしまったことの方が腹立たしかった。
義治がただ運に恵まれただけの男なら、まだ納得もできただろう。ところが六角は西美濃を得た後の始末まで抜かりなく進めている。帰属した国人の所領を安堵し、無闇に兵を留めず近江へ引き揚げた。兵を引くことで余計な負担を避けながら、稲葉山を押さえたという事実だけは動かぬものにしている。
六角義賢や重臣たちの働きもあるだろう。だが、実際に軍勢を率いて西美濃を切り取ったのが義治である以上、その力量を認めぬわけにはいかなかった。
儂よりも若い男が、儂の欲していたものを先に手に入れた。
それが何より面白くない。
「殿。岩村からの知らせにございます」
丹羽長秀が差し出した書状を受け取り、封を解いた。岩村城主の遠山景任についての報告だった。
六角が西美濃を押さえてから、東美濃の国人たちは今後の身の振り方を巡って落ち着かない日々を送っているらしい。加治田の佐藤忠能が六角と接触しているという話もあり、景任も周囲の動きを慎重に見ているとのことだった。
もっとも景任が直ちに六角へ従う様子はない。遠山一族には織田との縁があり、苗木の遠山直廉には儂の妹が嫁いでいる。岩村とも以前から付き合いがあるが、それだけで遠山一族が織田のために兵を挙げるとは限らなかった。
「修理亮は相変わらず様子見か」
「そのようにございます。六角へ人を遣わしたという確かな話もございませぬ。ただ、武田との関係もございますれば、こちらへ従うよう強く求めるのは難しいかと」
「分かっておる。修理亮も今は動きたくあるまい」
遠山一族は東美濃の山間に領地を持ち、東国へ通じる道を押さえている。苗木も岩村も軽んじてよい場所ではないが、厄介なのは武田との関係だった。武田信玄が信濃を押さえている以上、遠山の者たちが東の動きを気にするのも当然だろう。
織田と六角が争えば、遠山一族はその間で揺れることになる。そこへ武田まで関わってくれば、景任らが容易に態度を決められぬのも無理はなかった。
「修理亮へ使いを遣わせよ。新年の挨拶を兼ねて、今後も縁を大切にしたいと伝えればよい。左近佐にも同じように使いを出せ」
「帰属についてはお尋ねにならぬので?」
「急かして何になる。今の修理亮に返事を迫れば、六角か武田へ逃げ道を求めるだけだ」
長秀は納得したように頭を下げた。
直廉との縁を保ち、景任がこちらへ目を向ける余地を残しておけばよい。今すぐ兵を求めたところで喜んで応じるはずもない。それならば、ほかの者が遠山一族に近付いた時、織田との関係を捨てるのは惜しいと思わせる方がよかった。
長秀は使者の人選について幾つか確認すると、書状を持って退出していった。
儂は立ち上がり、壁際に広げていた美濃の絵図へ目を向けた。
稲葉山から東へ進めば、関や加治田を経て山々が連なっている。その先には遠山一族の領地があり、さらに東へ進めば信濃へ通じる道がある。以前ならば美濃を得た後に考えればよいと思っていた土地が、今では六角や武田の動きと切り離せなくなっていた。
稲葉山を取られたからといって東美濃まで諦めるつもりはない。遠山一族との縁を保てれば、いずれ織田へ従う国人も出てくるだろう。機会があれば兵を進めることも考えている。
ただ、六角と戦ってまで手に入れるべきかとなれば話は別だった。
六角は近江を押さえ、西美濃まで手に入れた。畿内へも目を向けねばならぬ家とはいえ、兵を動かせば相応の力を持っている。こちらも尾張を治めながら三河との関係を固めている最中であり、美濃で六角と争えば相当な負担を強いられるだろう。
しかも東美濃には武田の影がある。
六角と織田が兵をぶつけ合い、双方が疲れたところへ武田が手を伸ばしてくるようなことになれば、笑うのは信玄だけだ。
儂は思わず顔をしかめた。
美濃を欲するあまり、ほかの家にまで利を与えるなど御免だった。
とはいえ、六角が東美濃を狙っているのなら、こちらが何もせずに見過ごすわけにもいかない。西美濃での扱いを聞けば、東美濃の国人たちが六角へ心を寄せることも考えられる。実際、忠能についてはそのような噂が聞こえ始めていた。
武田を警戒して織田が動かねば、六角が得る。六角を恐れて兵を進めれば、今度は武田が喜ぶ。
まったく、気に入らぬ話だ。
儂は絵図から目を離し、しばらく考え込んだ。
そもそも、六角を敵と決め付ける必要があるのか。
義治が西美濃から兵を引いたのは、得た土地を落ち着かせる必要があったからだろう。義賢にも畿内のことがある。六角とて今すぐ織田と争いたいわけではあるまい。
ならば互いに争わずに済む道もあるはずだ。
儂が欲しいのは美濃だけではない。尾張を得たことで終わるつもりもなく、この先も領国を広げていくつもりでいる。
六角と争うために兵を使うのか。それとも手を結ぶことで別の土地を得るのか。
そのような考えが浮かんだことに、儂自身が少し驚いていた。稲葉山を奪われて以来、六角には苦々しい思いばかり抱いていたからだ。
だが、腹立たしさだけで兵を動かしてよいほど、織田の置かれた状況は楽ではなかった。
*
昼を少し過ぎた頃、森可成が三河から届いた報告を持ってきた。
松平元康は今川から離れて以降、三河を押さえるために動いている。こちらとはすでに盟約を結んでいるが、元康の領内がすべて落ち着いたわけではない。今川方に心を寄せる者も残っており、遠江からの動きにも注意を払わねばならなかった。
可成の報告によれば、元康は国境の守りを固めながら、領内の諸将を従わせることに力を注いでいるらしい。今川方がすぐに大軍を差し向けてくる様子はないものの、三河の者たちも安心しているわけではないという。
「松平は今川の動きを気にしておるようですな」
「当然であろう。三河を押さえたところで、遠江から兵が来れば休む暇もない」
可成は頷いた。
元康が三河を固めれば、尾張の東を守るうえで心強い。しかし、いつまでも三河だけで満足するとは思っていない。今川から独立した以上、いずれ遠江へ目を向けることもあるだろう。
儂も、それを悪いことだとは思わなかった。
元康が東へ進めば、織田は尾張の東を案じずに済む。反対に今川が三河を取り戻そうとすれば、こちらも知らぬ顔ではいられない。盟約を結んだ以上、松平が敗れることは織田にとっても不利益だった。
もっとも、今川を相手にするとなれば武田と北条の存在が気に掛かる。
信玄は信濃へ勢力を伸ばし、北条氏康も関東で力を持っている。今川と結び付いている以上、元康が遠江へ兵を進めた際に両家がどのように動くかは分からなかった。
しかし、三家がいつまでも同じ考えで動くとも限らない。
信玄がさらに領地を欲するのであれば、今川との関係をいつまで重んじるか。氏康とて関東で争いを抱えている以上、今川のために無理をするとは限らぬだろう。
そこまで考えたところで、午前中に眺めていた美濃の絵図が頭に浮かんだ。
六角が美濃から武田を牽制し、織田が尾張を押さえ、松平が三河から遠江へ進む。
三家が互いの背後を守れるのであれば、今川を相手にする際にも選べる手は増えるはずだ。武田が西を気に掛けねばならなくなれば、今川を助けるために兵を動かすことも容易ではなくなる。
さらに先を考えれば、信濃や甲斐へ兵を進める道もあるだろう。
北条はまだ遠いが、今川と武田の勢力が弱まれば、その関係も今とは違ってくる。東国の大名たちが互いに争い始めるのであれば、織田にも手を伸ばす機会が生まれるかもしれない。
考え始めると、思いのほか大きな話になった。
儂は口元を緩めたが、可成には何が可笑しいのか分からなかったらしい。
「殿。何かございましたか」
「いや。少し先のことを考えておっただけだ」
可成は不思議そうな顔をしたものの、それ以上は尋ねてこなかった。
報告を聞き終えて可成を下がらせると、儂は机の上に美濃と三河の絵図を並べた。
尾張から東へ進む道は一つではない。三河を通って遠江へ向かう道もあれば、美濃から信濃へ抜ける道もある。どちらも容易な道ではないが、六角と松平の力を合わせられるなら、今よりも遠くへ手を伸ばせるかもしれなかった。
もっとも、元康には三河の事情があり、六角には畿内の問題がある。三家が協力できたとしても、それぞれの都合を無視して兵を動かせるわけではない。今のところは儂の頭の中にあるだけの話だった。
それでも、東美濃を巡って六角と争うことだけが織田の道ではない。
儂は近習を呼び、長秀を連れてくるよう命じた。
先ほど遠山一族への使いを任せたばかりだが、もう一つ頼みたいことができた。
*
長秀が戻ってきたのは、半刻ほど経った頃だった。
遠山一族へ遣わす使者の人選を進めていたらしく、手には幾通かの書状を持っている。儂が絵図を広げているのを見て、何かあったのかと思ったらしい。
「殿。遠山への使者について、何か変更がございましたか」
「いや、そちらは任せる。それとは別の話だ」
長秀へ座るよう促し、儂も絵図の前へ腰を下ろした。
「五郎左。六角と手を結ぶことを、どう思う」
長秀は思わず顔を上げた。
予想していなかったことは確からしい。しばらく儂の顔を見ていたものの、やがて絵図へ視線を落とした。
「六角と、でございますか」
「ああ。今すぐ盟約を交わすという話ではない。まずは互いの考えを探ってみようと思う」
長秀はすぐには答えず、稲葉山から東へ視線を移した。
何を懸念しているのかは分かっていた。六角と同盟を結ぶのであれば、東美濃を巡る問題を避けて通ることはできない。
「東美濃は、いかがなさるおつもりにございますか」
「くれてやるつもりはない。だが、六角と戦ってまで手に入れるべきかとなれば話は別だ」
「右衛門督も東美濃を狙っておりましょう。こちらが動きを止めれば、その間に国人たちを従わせるやもしれませぬ」
「だからといって兵を出せば六角と戦になる。それで喜ぶのは武田であろう」
長秀は小さく唸った。
儂は三河の絵図を引き寄せ、松平元康のことを話した。
元康は今川から離れ、三河を押さえようとしている。いずれ遠江へ兵を進めることもあろう。織田としても元康を支える必要があるが、今川の背後には武田と北条がいる。
そこで六角と協調できれば、今までとは違う手が考えられる。
「六角が美濃を押さえれば、武田も西を気にせねばならぬ。松平が遠江へ進む時、こちらと六角がその動きを支えられるならどうだ」
長秀は絵図に目を落とし、しばらく考えていた。
「今川を攻めるにも、武田と北条がございます。三家の結び付きを崩すことができれば話は違いましょうが、今のところは容易ではありますまい」
「分かっておる。だが、あの三家がいつまでも同じ考えで動くとは限らぬ」
儂は美濃から信濃へ目を向けた。
武田と争うことになれば、六角が西から兵を進められる。織田がそれを支え、松平が今川を牽制すれば、信玄もすべての兵を一つの方角へ向けるわけにはいかぬだろう。
その先で北条と争うことになったとしても、東国の情勢がどう変わるかによって選べる手は違ってくる。
「三家で東へ進む、ということでございますか」
「そういう道もあるということだ。今すぐ兵を出すつもりはない」
長秀は黙って絵図を見つめていたが、やがて小さく頷いた。その表情にはまだ戸惑いが残っている。美濃の帰属すら決まらぬうちから東国の大名たちを相手にする話など、随分と気の早いことを考えているのだからな。
「六角が東へ兵を向けるとは限りませぬ。左京大夫は畿内のことも考えねばなりますまい」
「そのとおりだ。だから、まずは向こうの考えを聞く」
「同盟を結ぶにしても、美濃の扱いを避けるわけにはまいりませぬな」
「ああ。そこが面倒だ」
儂は苦笑した。
義治も東美濃を欲しているのであれば、こちらの望みとぶつかることになる。仮に六角が美濃一国を手に入れたとしても、その代わりに織田が何を得られるのかを考えなければならない。
ただ、こちらから話を持ち掛けることに損はないだろう。六角が織田との協調を望むなら交渉を進めればよいし、応じるつもりがなければ別の道を探すまでだ。
「五郎左。もう一度、六角へ行ってもらいたい」
長秀はわずかに眉を動かした。
「右衛門督との再会談にございますか」
「まずは左京大夫に話を通す。だが、美濃のこととなれば右衛門督とも話すことになろう。そなたなら任せられる」
長秀はしばらく考えた後、頷いた。
以前、稲葉山城へ遣わした時も、長秀は義治と直接話をしている。戻ってきた時には話しやすい若者だったと申していたが、肝心の東美濃については確かな約束を得られず、どこか釈然としない様子だった。
今回の使いを任せるにあたり、その経験も役に立つだろう。
「今度は前と違う話になるな」
「はい。右衛門督がどのようにお考えになるか、気になるところにございます」
長秀はそう答えると、少し困ったように笑った。
「先の会談では、こちらが尋ねることにはよく答えてくださいました。ですが、後になって振り返ると、肝心なところでは何も約束されておりませなんだ」
「そなたが珍しく手こずった相手だな」
「手こずったというより、掴みきれなかったと申すべきかもしれませぬ」
長秀の言葉に、儂はますます興味を覚えた。
人の言葉に惑わされやすい男ではない。その長秀が判断を迷ったというのだから、義治もなかなか面白い相手らしい。
できることなら、儂も直接会ってみたいものだ。
「五郎左。此度は向こうの腹を探ることばかり考えるな。こちらも手を結ぶ利があると示さねば、相手は応じまい」
「承知いたしました。されど、東美濃については譲れぬのでございましょう?」
「無論だ。だが、織田と六角が争わずに済むなら、その先の話もできよう。まずは六角が何を望むのか聞いてこい」
長秀は静かに頭を下げた。
今回は六角との関係を進める余地がある。そのためにはこちらの考えもある程度明かす必要があるだろうが、最初からすべてを示してやるつもりはなかった。
東国への進出は将来の話であり、元康や六角がどう考えるかも分からぬ。今は互いに争わずに済むかどうか、そこから始めればよい。
「使者としての名目は、国境での争いを避けるための話し合いだ。木曽川沿いのこともある。そこから話を進めればよかろう」
「かしこまりました。支度を整えます」
長秀は頭を下げて退出した。
その後ろ姿を見送りながら、儂は再び美濃の絵図へ目を向けた。
二度目の会談となれば、長秀も前より慎重に言葉を選ぶだろう。義治がそれにどう応じるのか、報告を聞くのが少し楽しみになっていた。
*
翌日、儂は新年の挨拶に訪れていた家臣たちとの面会を済ませ、奥へ戻る途中で美乃の姿を見掛けた。
侍女と何やら楽しそうに話していたが、儂に気付くと慌てて居住まいを正した。年が明けたばかりということもあり、いつもより華やかな衣をまとっている。
「兄上。お仕事はもうお済みになったのですか」
「いや、まだ残っておる。少し休もうと思っただけだ」
「それでしたら、こちらでお茶でも召し上がりますか」
美乃は侍女へ目を向けたが、儂は首を振った。
「また今度にしよう。まだ片付けねばならぬことがある」
「兄上はいつもそう仰います」
不満そうに唇を尖らせる美乃を見て、思わず笑ってしまった。
「そうであったか」
「そうです。昨年も同じことを仰っておりました」
言われてみれば確かに覚えがある。何かにつけて仕事を優先してしまうのだから、妹が不満を持つのも無理はなかった。
「では、今度こそ時間を作ろう」
「本当でございますね?」
「ああ。約束しよう」
ようやく美乃が笑みを見せた。
年が明け、美乃も十八になった。
幼い頃から見てきたせいか、儂にはまだ子供のように思えることもあるが、今では嫁ぎ先を考えねばならぬ年頃である。織田の娘として嫁ぐ以上、その相手によって家の行く末が変わることもあるだろう。
苗木の直廉に嫁いだ妹も、東美濃で織田との縁をつなぐ役目を担っている。もっとも、それで遠山一族のすべてが思いどおりに動くわけではないことは、儂もよく分かっていた。
ふと、義治のことが頭をよぎった。
近衛家から正室を迎えているとは聞いているが、織田と六角が本格的に同盟を結ぶのであれば、婚姻によって縁を深めることも考えられるだろう。
ただ、その場合に美乃を嫁がせるとなれば、正室ではなく側室となる。
儂は目の前で侍女と話す妹を見た。
美乃がどのような相手を望んでいるのか、これまで真剣に尋ねたことはなかった。いずれ家のために嫁ぐことになると分かっていても、こうして顔を見ると簡単に話を決めてよいものか迷いが生じる。
それに織田の娘を側室として差し出すとなれば、家中からも意見が出るだろう。相手が六角の嫡男であり、近衛家と縁を結んでいるとはいえ、誰もが納得するとは限らない。
何より儂自身がまだ義治という男をよく知らぬ。
長秀は話しやすい若者だったと申していたが、それだけで妹の嫁ぎ先を決めるわけにはいかない。戦場での働きが優れていることと、家の中でどのように振る舞うかは別の話だ。
「兄上?」
呼び掛けられて我に返ると、美乃が不思議そうにこちらを見ていた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない」
「またお仕事のことを考えていらしたのでしょう」
呆れたような口調に、儂は苦笑した。
「そうかもしれぬな」
「せっかくのお正月なのですから、少しくらいお休みになってくださいませ」
美乃はそう言って笑ったが、その目には儂を案じる色もあった。
儂は軽く頷き、今度こそ茶に付き合うと約束してその場を離れた。
廊下を歩きながら、先ほど浮かんだ考えを振り返る。
美乃を義治へ嫁がせる。
六角との縁を強めるための手としては悪くない。だが、同盟が成立するかどうかも分からぬうちから考えることではなかった。
婚姻によって結ばれた縁が、家同士の争いを防ぐとは限らない。仮に美乃を嫁がせたとしても、東美濃を巡る問題が残れば両家の関係は危うくなるだろう。
まずは長秀の報告を待つべきだ。そのうえで六角と手を結ぶことができると判断したなら、婚姻についても考えればよい。
今はまだ、美乃に話すことではなかった。
*
数日後、清須城では六角へ遣わす使者の支度が整いつつあった。
長秀は供の者を選び、道中の宿や通行についても手配を進めている。今回は正式な外交の使いであるため、六角に無用な疑念を抱かせぬよう、あらかじめ訪問の意向を伝えることにした。
儂は長秀から支度の進み具合を聞きながら、使者へ持たせる書状を改めて確かめていた。
内容は両家の国境で争いが起きぬよう話し合いたいというものだった。昨年の美濃での出来事を蒸し返すつもりはなく、今後の無用な衝突を避けるため、互いの考えを確かめたいと記している。
ただし、美濃の帰属については何も約束していない。
「殿。六角が東美濃について尋ねてきた場合、いかが答えましょう」
「織田にも東美濃との縁があると伝えよ。遠山をはじめ、これまで付き合いのあった者たちまで六角に譲るつもりはない」
「それでは交渉が難しくなるやもしれませぬ」
「その時はそれまでだ。最初からこちらの望みを隠しても仕方あるまい。ただし、今すぐ六角と争うつもりもないと伝えておけ」
長秀は頷き、書状を懐へ収めた。
忠能が六角と接触しているという噂もあり、東美濃の国人たちはどちらへ従うか迷い始めている。そんな状況で織田が一方的に兵を引けば、六角に道を開けるだけだ。こちらが東美濃に関心を持ち続けていることは、伝えておく必要があった。
「此度は左京大夫へ話を通したうえで、右衛門督とも会うことになろう。美濃の扱いについて、どこまで話せるか確かめてきてくれ」
「承知いたしました。同盟についてもお尋ねしてよろしいのでしょうか」
「ああ。向こうにその気があるなら話を進めてもよい。ただし、その場で何かを約束する必要はない」
長秀はしばらく考えてから頭を下げた。
儂はさらに、六角がこちらとの協調に関心を示した場合には、互いの領国を守るための協力についても話してよいと伝えた。今の段階で松平を交えた話まで持ち出す必要はないが、六角が織田と手を結ぶことに利を見いだせるかどうかは確かめたかった。
長秀もそれには異存がないようだった。
ただ、その表情には以前とは違う慎重さが見えた。相手の考えを探るだけでなく、こちらの望みも伝えねばならない。前回よりも難しい役目になることは、長秀自身がよく承知しているのだろう。
「五郎左。右衛門督がどのような答えを返してくるか、楽しみにしておる」
「殿はお気楽に仰いますな」
珍しく長秀が苦笑した。
「そなたならば上手くやろう」
「そうであればよいのですが」
長秀はそう答えて頭を下げた。
その顔には緊張もあったが、同時に少しばかり楽しみにしているような様子も見えた。前回の会談で掴みきれなかった相手と、もう一度向き合うことになるのだ。
儂としても長秀がどのような報告を持ち帰るのか興味があった。
使者の支度について最後の確認を終えると、長秀は深く頭を下げて退出した。
*
数日後、長秀は供の者たちを連れて清須城を発った。
見送りに出た儂は、冬の冷たい風の中を進んでいく一行をしばらく眺めていた。六角へ正式な使いを遣わすこと自体は初めてではないが、今回はこれまでとは意味が違う。
これまで織田と六角は、美濃を巡って互いの動きを警戒していた。その関係を変えることができれば、東国の大名たちに対する考え方も変わってくるだろう。
もちろん、六角がこちらの申し出に応じるとは限らない。
義賢が畿内を重んじるのであれば、東国への進出など考えていないかもしれぬ。義治が東美濃をすべて手に入れたいと思っているなら、織田との同盟に難色を示すこともあるだろう。
だが、相手が何を求めているのか分かれば、こちらも次の手を考えられる。
儂は奥へ戻ると、改めて絵図を広げた。
尾張の東には三河があり、その先には遠江と駿河がある。北へ目を向ければ美濃から信濃へ道が続き、さらに先には甲斐があった。
今川、武田、北条。
いずれも容易に討てる相手ではない。三家が結び付いている間は、一つを攻めるだけでもほかの動きを考えねばならぬだろう。
それでも六角と織田、松平が互いに協力できるのであれば、今までとは違う道が開けるかもしれない。
儂は美濃の絵図へ目を移した。
稲葉山城の位置に目を留めると、相変わらず腹の底に苦いものが湧いてくる。あの城を得たのが織田であれば、今頃は美濃の国人たちをどのように従わせるか考えていたはずだ。
それを六角に先んじられ、今ではこちらから協調を求めることまで考えている。
実に面白くない。
だが、儂が面白くないからといって稲葉山城が戻るわけではない。義治がどれほどの男かを認めぬまま敵に回せば、かえって織田の領国を危うくすることもあるだろう。
長秀は前回の会談で、義治の本心を掴めなかったという。
あれから幾月かが経ち、六角は東美濃の国人たちへ手を伸ばしている。忠能が接触しているという噂まで聞こえてくる以上、義治が何も考えずに稲葉山を去ったとは思えない。
もし長秀の感じた違和感が正しかったのであれば、義治はなかなか厄介な相手だ。
それでも敵として見るだけでは惜しい。
儂は思わず笑った。
昨年までは、稲葉山を奪われたことが腹立たしくてならなかった。今でもその思いは変わらない。だが、同じ相手を味方にした場合のことまで考え始めているのだから、我ながら勝手なものだ。
義治も同じように考えているのだろうか。
六角が美濃を得た以上、織田との争いを避けたいと思っていても不思議ではない。しかし東美濃を欲するのであれば、こちらが邪魔になることも承知しているはずだ。
そのような相手と、果たしてどこまで話を進められるものか。
長秀が戻れば、少なくとも答えの一端は見えてくるだろう。
儂は絵図を畳み、届いていた書状へ目を通し始めた。尾張の仕事は待ってくれない。遠山一族への使いも動き始めており、三河の元康との連絡も続けなければならなかった。
六角との交渉がどのような結果に終わるにせよ、織田の力を弱めるわけにはいかない。相手に協調するだけの利があると思わせるためにも、こちらの領国を確かに治めておく必要があった。
東美濃を諦めるつもりはない。
だが、東美濃一つのために、さらに東へ伸びる道を自ら塞ぐのも愚かな話だ。
義治がその道を共に進める相手なのか、それともいずれ戦わねばならぬ相手なのか。
その見極めを、まずは長秀に託すことにした。
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