気づくと、周囲になにもない真っ白な空間に立っていた。
空なのか天井なのか。壁なのか地平なのか。
どこから光がさしているのかもわからない不思議な場所。
地面はスモークをたいているかのようにモヤがかかっており、気を抜くと平衡感覚を失いそうになる。
少し離れた場所に、風景に逆らうかのような真っ黒な扉が置かれていた。
意識がはっきりとしないまま周囲を見渡していると、突然扉が音もなく開き、中から真っ黒なスーツに身を包んだ男が出てきた。
「
横分けの黒髪に眼鏡をかけた顔立ちの整った若い男は、一礼しうっすらと笑みを浮かべる。
状況が飲み込めないまま、黙り込んでいると穏やかな口調で男が話を続ける。
「ここに来る前の記憶はございますか?」
男の言葉で、霧が晴れるようにあの時の記憶が戻って来る。そう、あたしは……。
「あたし、は……殺された」
「ええ、そうです。思い出されたようですね」
あたしは昔付き合っていた男につきまとわれた挙句、仕事から家に帰る途中の夜道でそいつに刃物で胸を刺された。
あいつが逃げて行く足音。そして自分の体がどんどん冷たくなっていく感覚が蘇って来る。
刺された場所を確認してみると、服は切れていないし血の跡もなかった。
「もしかしてここは……天国、なの?」
「ふふ、当たらずといえども遠からず、と言ったところでしょうか」
笑いながら男が眼鏡のズレを直す。
「それではご案内します。参りましょうか、吉田さん」
「参る? どこへ?」
「行けばわかりますよ」
♢ ♢ ♢ ♢
男の後について扉をくぐると、薄暗くひんやりとした部屋に出た。
石造りの壁には火のついたロウソクの他に古びた剣や斧が立てかけてあり、不気味な雰囲気に満ちている。
「……ここは?」
「ここは闘技者の控室になります」
「闘技者?」
確かにここには様々な種類の武器が置いてあり、まさに戦いに行く前の準備をする場所のようだ。
まさか、これからあたしに戦いに行けとでも?
「あなたには、これから『挑戦者』としてある方と戦っていただきます」
「……は? ふざけないで。あたし、死んだんでしょ? なんで戦わないといけないのよ。意味がわからないんだけど」
「好きな武器をお選びになった後、部屋を出て闘技場へ向かってください。一本道なので迷うこともないでしょう」
「ちょっと、待ってよ! なに言ってるのか全然わかんないっての!」
「それでは、また後ほど」
言いたいことだけ言うと、男は一礼し部屋を出て行ってしまった。
「……なんなの?」
あたしは殺されて、ここは天国。
天国ってもっと穏やかで、死んだおじいちゃんとかおばあちゃんがいて……両方まだ生きてるけど、そういう場所じゃないの? 戦えってどういうこと?
「……もう!!」
怒りに任せて地面を踏みつけると、カツンと乾いた音が周囲に響く。
ノーカラージャケットに黒パンツ。そして白のパンプス。殺された時に着ていた格好のままだ。
こんな姿で戦えなんて冗談じゃないわ。いえ、どんな格好でも嫌だけど。
「んっ……うっ……おっも!」
試しに近くにあった剣を手に取ってみるが、重すぎてとても振れそうにない。
斧なんて見ただけで手に取る気が失せる。どうしろっていうのよ、こんなの。
「あ……これなら持てる、かな」
壁にかかっていた、刀身が少し曲がった短剣を手に取る。
包丁よりもずっと重いけど、これならなんとか扱えるかもしれない。
「うう……」
多分ここで待っていてもあの男が戻ってくることはない気がする。
とりあえず今はここから出るしかないみたい。
重い木製のドアを開け、仕方なく部屋を出ると、廊下の左側に明かりが見える。
右側は行き止まり。男と通ってきた黒いドアはなぜか消えていて、逃げ道はなさそう。
「もしかしてこれ、夢?」
そう、これは夢よ。夢。
殺されたことも夢なのよきっと。だってこんなのバカげてる。
なんで殺された挙句、戦いに身を投じないといけないのよ。ばかばかしい。
ほっぺをぎゅっとつねってみると、かなり痛い。
「はぁ……わかったわよ、行けばいいんでしょ行けば」
あたしは薄暗く長い廊下を、荒い足音を立てながら光に向かって歩き始めた。
♢ ♢ ♢ ♢
廊下を抜けると、そこは闘技場のような場所だった。
周囲をぐるりと客席に囲まれ、まるで写真で見たローマのコロッセオのよう。
観客は一人もおらず、しんと静まり返っていて、正面にはやせ細った弱弱しい雰囲気のおじいさんが立っていた。
『ようこそ恨みの闘技場へ。吉田さん、あなたにはこれから、チャンピオンと戦っていただきます』
どこからともなく聞こえてきたのはさっきの黒服の男の声。
チャンピオンって……あのおじいさんのこと? ていうかなに? 恨みの闘技場?
「ちょっと待ってよ! あたし戦いたくないんだけど!? 棄権するわ! 棄権!」
大声で叫ぶと、場内にあたしの声が反響する。
少し間を置いて男の声が返って来る。
『……おや、恨みを晴らさなくても良いのですか?』
「恨み……?」
あのおじいさんに、一体なんの恨みがあるっていうのよ。
そもそもあたし、あんな人知らないし。……知らないはず……え?
『お気づきになられたようですね』
よく見るとあのおじいさんの顔……見覚えがある。
あの目……あのホクロの位置……まさかそんな……。
『そう、彼はあなたの命を奪った張本人。
その名前を聞いた瞬間、恐怖と怒りの感情が同時にこみあげてくる。
心臓の鼓動が急激に高まり、短剣を持つ手が震えだす。
『彼は吉田さんを殺めた後別の女性も襲撃し、無期懲役となりました。そして、六十七歳の時に心臓麻痺で獄中死を迎え、ここへやってきたのです』
それじゃ、あいつの着ている作業着みたいなのは、囚人服ってこと?
「……なんであいつ、あんなに老けてるの?」
『この場所には亡くなられた時の姿で運ばれてきます。吉田さんが黒井さんに襲われた日から、実際はかなりの時間が経過しているのですよ』
よくわかんないけど、あたしは魂? の状態であいつが死ぬまで何十年も待たされてたってこと?
さっき殺されたばかりのような感覚なんだけど。
『武器は挑戦者のみに与えられ、チャンピオンは素手で迎え撃つルールとなっております。他にも挑戦者に有利なルールがございますので、思う存分戦ってください』
確かにあいつの手にはなにもない。押しただけで倒れそうな状態で突っ立ってるだけ。
今のあいつなら、か弱いあたしでも勝てるかもしれない。
「カナ……」
唐突にあいつがあたしの名前を呼ぶ。
その声は幾分か張りを失ってはいるが、間違いなくショーゴ……黒井の声だった。
「すまん……カナ。すまんかった」
おぼつかない足取りでゆっくりとこちらに近づいてくる。
「いっ……今更なに言ってんのよ! 許せるわけないでしょ!」
短剣の切っ先を向けても、黒井は足を止めない。
「来ないで! 刺すわよ!」
短剣を持つ手が震える。こんなにも憎いのに。目の前にいるこいつを殺してやりたいと思っているはずなのに。
「カナ……」
あたしはとうとう、目の前に来るまで黒井を攻撃することができなかった。
「は、離れて!」
かろうじて出せた言葉がこれだったが、黒井は短剣を持つあたしの手を血管の浮いたしわだらけの両手で包み込み、穏やかな口調で語りかけてくる。
「本当に……すまなかった。またこうして巡り合えるなんて思わなかった。カナがそうしたいのなら……その短剣を俺のここに突き立ててもらってもかまわない」
そう言いながら、自らの喉元にあたしの手ごと短剣の切っ先を寄せ、目を閉じる。
「さあ、やってくれ。俺が愛した、あの時の姿のままで。そして最期にもう一度言わせてくれ。本当に……本当にすまなかった」
しわしわの首に触れた刃先。少し力を込めれば簡単に沈んでいきそう。
けど……結局あたしにはそれができなかった。
「うっ……うう……」
自分でもどういう感情なのかわからない。
ただ、涙があふれて手の力が抜けていく。
短剣と共に膝を地面に落とし、止まらぬ嗚咽を手で抑え込む。
「……ここは、天国なのだろうか。なぁ、カナ……ここで死んだら、俺たちはどうなるんだろうなぁ」
ゆがむ視界の中で、黒井の手が短剣を拾い上げるのが見える。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
見上げると、すでに黒井が短剣を振り下ろす体勢に入っている。
「死ねばわかるかな。なぁ? カナ。お前、試しに死んでみてくれよ。どいつもこいつも、俺の愛を簡単に裏切りやがって。おかげで俺は人生のほとんどを塀の中で過ごすことになっちまった。一度死んだなら二度でも三度でもそう変わりはないだろ? なぁ?」
やはりこいつはクズだった。ためらわずに刺してしまえばよかった。
ああ、あたしはまた、こいつに殺されてしまうのか。独善的な愛情に支配されたこの愚かな男に。
『おっと、いけませんね黒井さん。ルール違反ですよ』
短剣が振り下ろされる直前、あの黒服の男の声が場内に響き渡る。
「ルール違反!? な、なんのことだ!」
声の発生源がわからず、黒井が白い空に向かって大声で叫ぶ。
『伝え忘れていましたが、チャンピオンは挑戦者の武器を奪ってはいけません。よって、ペナルティを受けていただきます』
「ペナルティ? 一体なん……」
黒井が言葉を終える前に、ブツリという嫌な音と共に黒井の両腕が根元から千切れ、地面に落ちる。
「いっ……ぎゃあああああああ!! い、いでえ!! いでええええ!!!」
両肩から血を噴出させながら膝をつき、絶叫する。
突然の出来事に頭が回らず、呆然としていると再びあの男の声が聞こえてくる。
『チャンスですよ、吉田さん』
気づくと、いつの間にかあたしの右手には拾った覚えのない短剣が握られていた。
「うっ……わぁぁああ!!」
あたしは言われるがままに、その短剣をためらうことなく黒井の喉元に突き立てる。
「ゴァッ……カッ……アガッ……」
声にならない声をあげ、目を大きく見開いたまま後ろに力なく倒れる。
そしてそのままピクリとも動かなくなった。
「あ……あた……し……」
手に残る不快な感触。人を殺したという実感に、ふたたび手が震えだす。
「うっ……」
込み上げる吐き気を我慢していると、少し明るいトーンの男の声が聞こえてくる。
『おめでとうございます。吉田さんの勝利ですよ』
男の声と共に、黒井の体が紫色の炎に包まれ、全身に燃え広がっていく。
「なっ……なに、これ」
炎はまるで一枚の絵を焼いているかのようにみるみるうちに黒井の体を溶かしていく。
やがて完全に全身を焼き尽くすと、音もなく消滅していった。
不思議なことに黒井が倒れていた場所には焦げ跡も、あれだけ大量に流していた血も残っていなかった。
『お見事です』
「……ねえ。ここって天国なんでしょ。ここで死んだ人ってどうなるの?」
『それは、私にもわかりかねます。まあ、敗者である黒井さんは二度とここに導かれることはないでしょうね』
「それじゃ、あたしは? あたしはこれからどうなるの?」
勝ったのはいいけど、あたしはもう死んでいる。
まさか生きかえれる、なんてこともないだろうし。
『勝利者となった吉田さんには、『チャンピオン』として次の挑戦者と戦っていただきます』
……は?
「ちょっと待ってよ!? あたし勝ったんでしょ!? ふざけないでよ!」
よくわかんないけど、ここって殺された相手に復讐する場所じゃないの?
挑戦者ってなに? あたし、誰も殺したことなんてないのに。
「……久しぶり、だね」
突然背後から聞こえてきた女の声。
その声はどこか懐かしさを含み、振り向くとさっき黒井が居た場所に見覚えのないブレザー姿の女子高生が立っていた。
「だっ、誰!?」
いや……あたしは知っている。左右で編んだ三つ編み、ぽっちゃりとした体型、そして丸い眼鏡。
「嘘……。あなた、ノッコ?」
「覚えててくれたんだね。……カナちゃん」
小さく笑うこの子は
中三の時には疎遠になってたんだけど……なんでここにノッコが? それに、この姿……あの時のままじゃない。
「あなた……も、殺されたの?」
「……わたしは……」
暫く黙り込んだ後、ノッコがしぼり出すようにつぶやく。
「自殺……したの」
「え……?」
俯き、右手で軽く自分の首元を撫でる。
「なんで……?」
「……わからないの?」
わかるはずがない。そんな話初めて聞いたし、中学を卒業してから一度も会ってないんだから。
「わから、ないわよ。どうしてそんなことしたの?」
そう問い返すと、ノッコは抑揚のない口調で語り始めた。
「わたしたちが仲が良かったのって、中二の途中までだったよね。覚えてる?」
「……そう、だっけ」
ノッコとはいつの間にか疎遠になってたけど、正直あの頃の事ってあんまり覚えてないのよね。
「ある時から、カナちゃんはクラスの上位グループの子たちと一緒に過ごすようになっていって……わたしとは一言も口をきいてくれなくなった」
「……あー」
そういえばそうだった。一番目立ってたグループの一人とひょんなことから仲良くなって、そっちと遊ぶようになったのよね。
「カナちゃんがあの子たちと過ごすようになってしばらくしてから……ある噂が学校中に流れるようになった」
「ある……噂?」
……なんだっけ。全然覚えてない。
「わたしが数学の山田先生と付き合ってるって」
「……」
そういえばそんなこともあった気がする。……そうだった。それからノッコは……。
「それから周りのみんながわたしを見ながらヒソヒソ声で話すようになって……わたしは耐えられなくなって、学校に行けなくなった。……噂を流したのって、カナちゃんだよね?」
「し、しらないわよそんなの。なんでそんなこと言うの?」
「だって……わたしが山田先生のこと好きだって話したの、カナちゃんだけだもん」
……あ。そうだ。そうだった。確かにそんな話をあの子たちにしたことがある。
あたしはただ、みんなの気を引くために適当に言った噂話が、瞬く間に広がっていっちゃったんだ。ノッコの体型が少しぽっちゃり気味だったのもあって、最終的には山田の子を妊娠してるなんて話になってたっけ。
「高校に行けばそんな噂から逃げられると思ってた。でも……同じ高校に進んだ人がそこでもわたしの噂をばらまいた」
「うっそ……」
「結局、すぐに高校にも行けなくなった。それで、わたしは……そのまま学校の帰りに……」
「……」
知らなかった。ノッコがそんなことになっていたなんて。
でも……。
「確かに、噂を流したのはあたしだけど……どうしてあなたが挑戦者なの? あたしが殺したわけじゃないでしょ?」
「……」
『それは私から説明いたしましょう』
どこからともなく、あの男の声が聞こえてくる。
『渡瀬さんの命が尽きるその瞬間、最後に残ったのは吉田さんに対する暗い恨みの感情でした。ここへ導かれたのは恐らくそのせいでしょう』
「はぁ!? ふざけないで!! ノッコが勝手に一人で死んだんでしょ? あたしは関係ないじゃない!」
『殺人とは、直接的なものだけとは限らないのですよ』
「あたしが間接的にノッコを殺したとでも言いたいわけ? 冗談じゃないわ! さっさと解放しなさいよ! あたし勝ったじゃない!」
『試合はもう始まっています。さあ、吉田さん。チャンピオンの戦いぶり、期待していますよ』
「えっ」
いつの間にか右手に握りしめていたはずの短剣がなくなっている。
そして、向かい合ったノッコの右手の中で鋭いナイフの刃が光り輝いていた。
「う、うそ……」
やばい、どうしよう。
「ノ、ノッコ、あたし……」
「ち、近づかないで」
あたしが右足を前に出すと、ノッコがナイフの刃先をこちらに向けてくる。
その手は震えていて、さっきの自分を見ているようだ。
「ご、ごめん、ノッコ。あたしが悪かったから……そのナイフ、下して? ね?」
「う、うう……」
震えながらも、ノッコは手を下ろそうとしない。
そうだ、さっきのあいつの手が使えるかも。
「あたし、知らなかったの。ノッコがそこまで苦しんでたなんて。どんな償いでもするから、ね? 許して? あたしたち、親友だったでしょ?」
「親……友……?」
「そ。高校行ってからも、ずっとあなたの事を気にしてたんだよ」
「……一度も連絡してくれなかったのに?」
「う……そ、それは……。あ、あたしも色々と忙しくて……」
まだだ、もう少し近づいて……。
「ここがどこだかわからないけど、また二人でやり直そ? こんな場所で一人じゃ寂しいもんね。ね?」
「う……うう……」
ナイフの刃先が少しずつ下りていく。もう少し、もう少し……よし、今だ!
「やああああああ!!」
「ひっ、ひぃっ!?」
隙をついてノッコに体当たりすると、勢いよく後ろに倒れ尻もちをつく。
そのひょうしにナイフはノッコの手から離れ、地面に転がる。
奪ってないからペナルティは発生しないはず。よし、このまま決着をつけてやる。
「悪いけどっ……このまま死んで……もらうわよ! ふふ、もう死んでるんだけどさ、あたしたちっ」
「ぐっ……かはっ……」
脂肪の乗ったやわらかい首を両手で力いっぱい絞めると、みるみるノッコの顔色が変わっていく。
ノッコは苦しげな表情でしばらくあたしの手首を掴んでいたが、やがて力なく手が離れ、そこで勝利を確信する。
『渡瀬さん、武器が戻ってますよ』
は?
気づくと、離れた場所に落ちていたはずのそれがない。
視線を戻すと、ノッコの右手に光り輝くナイフが握られていた。
憎悪に満ちたノッコの視線があたしの首を真っすぐとらえている。
そういえばさっきも、短剣が勝手にあたしの手に戻……。
「ちょっと、待っ……」
「……!!」
首元に鋭い痛みが走る。
呼吸ができない。
あたし、刺された?
こんな、こんな終わり方って。
これじゃ、あいつと……同……じ……
……………………
…………
……
♢ ♢ ♢ ♢
黒い扉が開き、中から男が出てくる。満足げに口端をゆがませながら。
「ふふ……
男がドアノブに手をかける。
「それでは、次の試合が始まりますので、これで失礼します。え? 誰の? ふふ、チャンピオンとなった渡瀬さんと挑戦者の山田さん……いえ、山田
男は扉の奥へと消え、その場には静寂だけが残された。
完
お読みいただきありがとうございました。