ゲヘナ線区はド畜生。 作:シュポニキ
1.希望的観測の時刻表
キヴォトスの北東部に位置する、巨大な黒鉄と蒸気、そして絶え間ない硝煙に包まれた一大拠点——ゲヘナ学園。その広大な管区の北端に位置する「ゲヘナ駅」のホームは、今日も今日とて独特の重苦しい熱気に満ちていた。
シャーレの先生は、鞄のストラップを握り直しつつ、天井の低いホームを見上げた。
出張の目的地は、ゲヘナ管区の最南端、アビドス砂漠の目と鼻の先に位置する「南ゲヘナ駅」周辺だ。そこにある出張所に書類を届けるため、先生は中央環状線から乗り換え、このゲヘナ線のホームへと足を踏み入れていた。
「ええと……発車時刻は、と……」
柱に設置されたレトロなスチール製の掲示板を覗き込み、先生は思わず目を細めた。
白地に黒文字で印刷された時刻表。そこには、朝や夕方の時間帯に一応数字が並んでいるものの、表の最下部に極小のフォントで、わざわざ枠で囲まれた注記が添えられていたのだ。
『※本時刻表に記載されている発着時刻は、すべて「希望的観測」です。路線の爆破、障害物の放置、および治安状況により、予告なく数時間の遅延または大幅な早着が発生します。ご了承ください』
「……希望的観測、か」
先生は乾いた笑いを漏らした。キヴォトスにおいて列車の遅延やトラブルは珍しくないが、運行事業者側が開き直って「希望的観測」と断言している時刻表は初めて見た。
その時、重厚なレールの振動とともに、ホームにアナウンスではなく警笛が響き渡った。
フォオオオオオン——ッ!!
金属を切り裂くような鋭い音が轟き、トンネルの闇の奥から、鈍い銀色と紺色に塗られた巨大な鋼鉄の塊が滑り込んできた。
「……えっ、電車……だよね?」
先生は思わず一歩後ろに下がった。
入線してきたのは、通常の電車とは明らかに一線を画す異形の車両だった。屋根の上に架線から電力を取るためのパンタグラフが存在しない。代わりに、車体側面のエアインテークから「キーーーン」という、まるで航空機のジェットエンジンのような甲高い金属摩擦音が鳴り響いていた。
キキィィィッ! という強烈なブレーキ音とともに、重厚な8両編成の列車が停止する。
プシューッと圧縮空気の抜ける音が響き、分厚い側降戸(スライドドア)が開いた。
車内を覗き込むと、そこは意外なほど清潔で整然としていた。
シートはロングシートとクロスシートがバランスよく配置された混合仕様。窓は分厚い防弾ガラスで作られており、外からの衝撃に耐えられるようフレームが補強されている。乗客の入りはそこそこといったところで、座席は八割がた埋まっているものの、通路まで人が溢れるようなラッシュの混雑はない。各々が手荷物を抱え、慣れた様子で腰掛けている。
ただ、一つだけ明確に異彩を放っていたのは——各車両の連結部付近に、ハイランダー鉄道学園の制服を着て、ヘルメットと重装備の小銃を構えた「治安維持隊員」が1名ずつ直立不動で配置されていることだった。
「すごい警戒態勢だな……」
先生は空いているクロスシートの窓側に腰を下ろした。
間もなく、扉が重々しく閉まる。
次の瞬間。
ドオォォォンッ!!
「ぐえっ!?」
背中を座席に強烈に押し付けられるほどの、凄まじい慣性力が先生を襲った。
ガスタービンエンジンが爆音を上げ、車体が猛烈な勢いで加速していく。窓の外の景色が瞬く間に流線型へと変わり、車内の速度計——防弾ガラス越しに見えるデッキのデジタルモニターの数値が、狂ったような速度で跳ね上がっていく。
【 80 km/h …… 120 km/h …… 150 km/h …… 180 km/h 】
「ひ、180キロ……!? 電車でこれはおかしいでしょ!?」
シートの手すりに必死にしがみつき、青ざめる先生。周囲の乗客たちは慣れたもので、読書を続けたり、肘掛けに腕を置いたまま微睡んだりしている。この狂暴な加速こそが、彼らにとっての「日常」なのだ。
「あ、やっぱり。シャーレの先生ですね?」
混乱する先生の頭上から、ハキハキとした明るい声が降ってきた。
振り返ると、そこには端末を腕に抱え、ハイランダーの腕章を巻いた一人の少女が立っていた。小柄な体躯に、利発そうな大きな瞳。
「君は……ハイランダーの生徒さん?」
「はい! ゲヘナ線区治安副長、野上ヒヨコです。先生が当路線をご利用になるとは伺っていましたが……あはは、少し驚かれましたか?」
「驚いたどころじゃないよ! すごい加速だし、そもそも電柱も架線もないのにどうやって走ってるの!?」
先生が窓の外を指差すと、ヒヨコは納得したようにうなずき、端末の画面をタップしながら説明を始めた。
「ああ、動力のことですね。ゲヘナ線は全車両、高出力に改造されたガスタービンエンジンで駆動しています。最高速度は通常180km/h、限界突破時には220km/hまで出せますよ」
「ガ、ガスタービン……? だからあのジェット機みたいな音が……。でも、どうして電車なのに電気を使わないの?」
ヒヨコは少し困ったような、苦笑いを浮かべた。
「理由は簡単です。『電柱と架線(電線)を直すのが手間すぎるから』ですよ」
「手間……?」
「はい。ゲヘナ線は風紀委員会と各勢力の不意の銃撃戦とか、温泉開発部による爆破掘削が日常茶飯事なんです。架線なんて張っておいたら、週に三回は電柱が倒れて架線が切断されます。そのたびに保線員を派遣して電気系統を修理していたら、いくら時間と予算があっても足りません。だから、『なら架線も電柱も排して、自前の高出力エンジンで突っ走ればいいじゃない』という結論になりまして」
「なんという脳筋解決策……!」
先生は思わず額を押さえた。インフラの維持管理を「壊されにくい強靭なエンジン」で強行突破するという、実にゲヘナ線らしい(?)合理主義である。
「でもご安心ください」と、ヒヨコは車内を見渡した。「ゲヘナ線は全20駅、複線で敷設されていまして、中央環状線ほどではありませんが本数もそこそこ確保されています。利用客の皆さんも治安維持のルールを守ってくださっているので、車内で暴動が起きない限りは快適な鉄路の旅をお楽しみいただけますよ」
「……治安維持のルール?」
「はい。各車両に配置している治安隊員が、車内での発砲や勝手な爆破行為を厳しく監視しています。まあ、大体は乗る前に彼らの顔を見ておとなしくしてくれますけどね」
ヒヨコが指差した先では、厳めしいヘルメット姿の隊員が、静かに小銃の安全装置(セーフティ)を確認していた。確かにこの圧の前に車内で悪さをしようと思う乗客は珍しいだろう。
その時、デッキへ続く自動ドアがすっと開き、一人の青年が入ってきた
背中に黒く立派な翼、ハイランダーの治安長服に身を包んだ男
「ヒヨコ、各車両の状況はどうだ」
「あ、治安維持長! 全車両、異常なしです。お客様の中にはシャーレの先生もいらっしゃいますよ」
彼はヒヨコの言葉に反応し、先生の方へと視線を向けた。その瞳は澄んでおり、表情には落ち着いた穏やかさがある。
「あなたがシャーレの先生ですね。初めまして、ゲヘナ線区治安維持長の士方リョウです」
リョウは丁寧にお辞儀をし、先生に向かって爽やかな笑みを浮かべた。
「あ、初めまして……士方くん」
先生は少し意外に思った。事前にハイランダー本校の噂などで「ゲヘナ線の治安維持長は恐ろしい亡者のような男だ」と聞いていたからだ。しかし目の前にいるリョウは、物腰が柔らかく、言葉遣いも至極まともで、どこからどう見ても「苦労人の優秀な生徒」にしか見えない。
「こんなむさ苦しい列車に乗せてしまい、申し訳ありません。本来ならもう少し静かで快適な移動手段を用意したかったのですが……なにせ、当路線はこのような環境ですので」
リョウは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「いやいや、大丈夫だよ。ヒヨコちゃんから事情を聞いて、逆に感心していたところなんだ。士方くんは、毎日この過酷な路線を守っているんだね」
「まあ、仕事ですから。定時までに自分の受け持ち区間を安全に運行させる——それ以上でもそれ以下でもありませんよ。トラブルさえ起きなければ、私はただのしがない保線と警備の担当者です」
リョウは微笑みながら、胸のポケットから文庫本を取り出し、手持ち無沙汰そうにページをめくった。その佇まいは実に平和的で、常識人のそれだった。
(……なんだ、すごく普通で良い子じゃないか。噂は尾ひれがついたものだったのかな?)
先生が胸を撫で下ろした、その時。
隣に立っていたヒヨコが、先生の耳元へこっそりと顔を近づけ、ひそひそ声で囁いた。
「……先生。騙されちゃダメですよ」
「え?」
「今の維持長は、いわば『通常モード』です。普段の維持長は、本当に性格も普通で、気配りもできる良い先輩なんですけど……」
ヒヨコはチラリとリョウの背中を確認し、生唾を飲み込んだ。
「……もし、トラブルが発生して遅延したり、定時を不当に過ぎたり、あるいは仲間の邪魔をされたりして『例の場合』に入ると……文字通り、くっそ恐ろしい悪魔に化けますから」
「くっそ恐ろしい……?」
「はい。言葉遣いは急に冷め切って温度が氷点下になりますし、目が笑わなくなります。『あーあ。定時超えちゃった。君たち、どうしてくれんのよ』って言いながら、相手が誰であろうと物理的に更地にするまで絶対に止まりません。風紀委員会のアコさんだって、一度そのモードの維持長と対峙したときは顔を真っ青にして逃げ帰ったくらいです」
「……」
先生は思わずリョウの横顔を二度見した。
本を読んでいるリョウの表情は依然として穏やかだが、ヒヨコの真に迫った恐怖の表情を見るに、決して誇張ではないことが伝わってくる。
「……その『例の場合』には、今日ならないよね?」
「大丈夫です! 今日のダイヤは順調そのものですから!」
ヒヨコが自信満々に胸を叩いた瞬間、無線機からノイズ混じりの威勢の良い声が響き渡った。運転士の藤原ヨドキかららしい。
『おーい、治安維持部! 前方、ゲヘナ繁華街駅を通過後、アビドス砂漠前の直線区間に入るぞ! 保線のトシから連絡、線路上に大きな障害物はなし! 遅延ゼロだ!』
「よし!」とヒヨコがガッツポーズを作る。
『というわけでだ……遅延がないうちに貯金を作っておく! ガスタービン全開、限界突破220キロ出すぞ! つり革にしっかり掴まってな!!』
「えっ、ちょっと待っ——!?」
ドガァァァンッ!!
ガスタービンエンジンが爆撃機のような咆哮を上げ、車体が浮き上がるのではないかと思うほどの加速衝撃が走った。
【 180 km/h → 195 km/h → 210 km/h → 220 km/h 】
窓の外の景色がもはや単なる色の帯と化す。車体が激しく横揺れするが、特製の強力なバランサーと重厚な装甲のおかげで、奇跡的に脱線することなくレールの上を滑走していく。
「ヒ、ヒィィィッ!? 220キロ出してる!!」
「あはは! ヨドキさんったら相変わらず豪快ですね! でも大丈夫です、これなら予定より10分早く南ゲヘナ駅に着きますよ!」
ヒヨコは笑っているが、先生はシートに必死にしがみつき、目を丸くして祈るしかなかった。
列車は怒涛の勢いでゲヘナ線の主要駅を駆け抜けていく。
繁華街を抜けると、車窓の緑やビル群は急速に姿を消し、荒涼とした岩肌と赤茶けた大地が広がり始めた。アビドス砂漠へと続く広大な境界地帯だ。
複線の線路の反対側から、ガスタービン音を響かせてすれ違う反対方向の8両編成列車。すれ違いの瞬間の衝撃波で「バコン!」と防弾ガラスが鳴るが、お互いに何事もなかったかのようにすれ違っていく。
線路の上には、温泉開発部が仕掛けた爆薬も、便利屋68の逃走用車両も、風紀委員会の割り込み監査も存在しなかった。ただただ、高出力エンジンの咆哮と、完璧に整備されたレールのジョイント音が響くだけだ。
リョウは途中で文庫本を閉じ、窓の外の砂漠を眺めながら、静かに息を吐いた。
「……今日は、本当に平和ですね」
「……うん、そうだね。すごく、いいことだよね……」
先生は冷や汗を拭いながら、力なくうなずいた。220km/hの爆走による恐怖はあるものの、少なくとも「死者が出るような大惨事」や「リョウがくっそ怖いモードに入る惨劇」は回避できているのだから。
そして——。
「間もなく、終点、南ゲヘナ駅〜。南ゲヘナ駅〜。お降りのお客様は、お忘れ物のないようご注意ください」
車内アナウンスが流れ、列車の速度が徐々に落ちていく。
重厚なディスクブレーキがレールを噛み締め、プシューッと圧力が抜ける音とともに、8両編成の巨躯が静かに停止した。
時刻は、予定よりも8分早い。完全なる「早着」だ。
側降戸が開くと、アビドス砂漠から吹き込んでくる温かく乾燥した風が車内を吹き抜けた。
「ふう……着いた……生きて帰ってこれた……」
先生は震える足でホームに降り立った。地に足がつく感覚がこれほど愛おしいと思ったことはない。
後ろから、リョウとヒヨコがホームへ降りてきた。
「先生、お疲れ様でした。無事に南ゲヘナ駅までお送りできて何よりです」
リョウは爽やかな笑みを浮かべ、先生に向かって丁寧にお辞儀をした。背中の翼が誇らしげに少しだけ揺れている。
「ありがとう、士方くん、ヒヨコちゃん。……最初は生きた心地がしなかったけど、君たちがしっかり守ってくれているのはよく分かったよ」
先生が本心からの感謝を伝えると、リョウはどこか照れくさそうに頬をかいた。
「いえ。私たちは当たり前の仕事をしただけですから。トラブルさえなければ、ゲヘナ線はいつでも快適で安全な路線なんです。……まあ、そんな日は月に数回あれば良い方なのですが」
「えっ」
「あはは、冗談です」と、リョウは軽やかに笑った。「では先生、良いゲヘナ視察を。お帰りの際も、ぜひ当路線をご利用くださいね」
「あ、うん……考えておくよ……」
リョウとヒヨコは敬礼を交わすと、再び折り返し運転の準備のために車内へと戻っていった。
ホームに取り残された先生は、南ゲヘナ駅の改札へと歩き出しながら、深く息を吐き出した。
今日の旅は、奇跡的に平和だった。
しかし、あの治安維持長が見せた「あまりにも普通で良識的な姿」と、副長のヒヨコが語っていた「例の場合のくっそ恐ろしい姿」のギャップが、頭から離れない。
(今回は何事もなくて本当によかった……。でも、もし次に乗った時、トラブルが起きてしまったら……?)
遠ざかるガスタービンエンジンの重低音を聞きながら、先生は背筋に小さな寒気が走るのを覚えるのだった。