ゲヘナ線区はド畜生。   作:UMC OGASOU

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11.地獄と空白の10分間

 

16時49分50秒。

 

南ゲヘナ駅の駅務室には、どこか穏やかな、業務終了間際の独特な静けさが漂っていた。

 

夕日が赤茶けた荒野を茜色に染め上げ、窓ガラスをあたたかな光で満たしている。

机の上は完璧に整頓され、ペン立ての筆記具すらミリ単位の狂いもなく並べられていた。

士方リョウは制服の袖口を整え、ポケットからタイムカードを取り出すと、レコーダーの真横に静かに置いた。

 

「よし。保線区からの最終連絡も入りました。ダイヤの乱れはゼロ、構内安全確認も完了です。先生、本日もお付き合いいただきありがとうございました」

 

「お疲れ様、リョウくん。今日も見事な手際だったね」

 

パイプ椅子に腰掛けた先生が、温かいお茶をすすりながら微笑む。

隣では治安副長の野上ヒヨコが、すでに鞄を肩にかけ、いつでも飛び出せる姿勢でタイムカードを握りしめていた。

 

「ふふ〜ん♪ 今日は17時ちょうどにタイムカードを押して、駅前のクレープ屋さんに行くんです〜!」

 

「油断するなよ、ヒヨコ。退勤の瞬間にこそ、予想外のトラブルは舞い降りるものだ」

 

リョウが静かに諭そうとした、まさにその時であった。

 

バァァァァンッ!!

 

駅務室の重厚な防音扉が、爆風のような勢いで叩き開けられた。

 

「そこまでです! ハイランダー鉄道学園・ゲヘナ線区治安維持部!」

 

室内に怒号が響き渡ると同時に、重武装した風紀委員たちの小隊が雪崩を打って侵入してきた。

彼女たちは手際よく壁際に展開し、出口である扉を完全に封鎖。さらには窓の外にまで防弾盾を構えた隊員を配置し、駅務室を物理的に「完全密室」へと仕立て上げた。

 

「な、なんですか急に!? 不法侵入ですよ!」

 

ヒヨコが悲鳴を上げる。

 

風紀委員たちの列を割り、優雅かつ圧倒的な圧力を伴って歩み出てきたのは——風紀委員会行政官、羽沼アコであった。

 

その背後には、風紀委員の部下四人がかりで運ばせている、巨大な金属製のコンテナが三箱。

コンテナの中には、溢れんばかりの紙資料の山がぎっしりと詰まっていた。

 

「不法侵入とは心外ですね。これはゲヘナ学園風紀委員会行政官室の権限に基づく、正当な行政手続の執行です」

 

アコは冷たさを湛えた瞳でリョウを見据え、手元のバインダーをコンと指先で叩いた。

その口調は完璧に整えられた敬語でありながら、相手の逃げ道を一切絶つような、冷徹なエリート行政官のそれに戻っていた。

 

「士方治安維持長。現場での実力行使や速度取り締まり、現場の保線手続において、貴方がたがどれほど巧妙に逃げ回ろうと……この行政手続の網からは逃れられません」

 

「……何のことでしょうか、アコ行政官」

 

リョウはピクリとも眉を動かさず、静かに時計へ目をやった。

 

時刻は、【 16時50分00秒 】。

 

退勤まで、残り正確に10分間。

 

アコは不敵な笑みを浮かべ、巨大コンテナの蓋をバタンと開け放った。

 

「ここにあるのは、過去三年間にわたり我が行政官室に蓄積された、貴線区における【未処理・不備・管轄記載漏れ報告書、全200通】です」

 

「に、二百通ぅぅ!?」

 

ヒヨコがひっくり返ったような声を上げる。

 

「ええ。過去の不法戦闘における弾薬使用報告書の形式不備、他校生徒の拘束に関する自治領境界線跨ぎの申請漏れ、線路補修材のゲヘナ側受領印の未捺印……。これらはすべて、貴方がたが『現場の緊急性』を理由に放置し続けてきた、重大な行政手続の怠慢です」

 

アコは一歩前へ踏み出し、分厚い束の一番上をリョウの目の前に叩きつけた。

 

ドスンッ!!

 

「本日、私はこれら全200通に対する『即時の修正、一通ごとの詳細な口頭説明、および本人の確認捺印』を要求します。もちろん、行政手続法の定めに基づき、全件の処理と不備の解消が完了しない限り——」

 

アコは胸を張り、冷酷な通告を言い渡した。

 

「——貴方がたの『本日分の業務終了』および『退庁』は一切認められません。当然、タイムカードの打刻も不当な業務放棄とみなし、不法行為として処理させていただきます」

 

「そんなの理不尽です!」

 

ヒヨコが涙目になって叫ぶ。

 

「200通の書類に目を通して説明して判子を押すなんて、普通にやったら徹夜でも終わりません! 17時退勤どころか、明日の朝になっちゃいます!」

 

「それが『手続きの責任を果たす』ということです、野上副長」

 

アコは冷ややかな視線を一蹴し、勝利を確信したようにアゴを上げた。

 

現場のアクションや暴力では勝てずとも、この「行政手続きの山」という正当な手続きの罠を使えば、リョウたちは手足をもがれたも同然。1通につき5分説明させたとしても、1000分——16時間以上の足止めが確定する。

 

「さあ、士方維持長。諦めて席につきなさい。今夜は朝まで、私と一緒に行政文書の解読作業に勤しみましょう」

 

アコは完璧な勝利の笑みを浮かべた。

 

しかし。

 

「………………」

 

士方リョウは、怒るでもなく、動揺するでもなく、ただ静かに佇んでいた。

 

静寂。

 

部屋の中の温度が、一瞬で急降下したかのような錯覚。

 

「……士方……くん……?」

 

先生が不吉な気配を察知して声をかける。

 

リョウの背後にあった「熱」が、完全に消え失せていた。

17時を前にして残業を強制された時の狂気すら存在しない。

そこにあったのは——感情、情熱、人間性、そのすべてを削ぎ落とし、純粋な「論理と計算の処理装置」へと変貌した、異様なまでの無機質さであった。

 

 

リョウは無言のまま、制服の内ポケットから一本の高級万年筆と、赤い朱肉、そしてハイランダー治安維持章の印鑑を取り出した。

 

カチ。

 

万年筆のキャップを外す音が、静まり返った部屋に小さく響く。

 

「……アコ行政官」

 

リョウの声から、一切の抑揚が消えていた。

まるで合成音声の機械が淡々と文字列を読み上げるかのような、無機質な低音。

 

「ゲヘナ自治領特別行政協定第12条第4項、およびハイランダー鉄道運行独立法第87条『緊急行政手続の特例処理規程』を適用します」

 

「え……?」

 

アコが素頓狂な声を漏らした瞬間。

 

バサバサバサバサバサバサッ!!!!

 

「っ!?」

 

リョウの手が、人間とは思えない速度で動き始めた!

 

彼はコンテナの中に放り込まれていた200通の書類の山に手を突っ込むと、一束——約50枚の用紙を宙に扇状に広げた。

その視線が、上から下へとスキャンするように走る。所要時間、わずか0.5秒。

 

「第1号から第45号文書。件名『KP4地点における弾薬使用報告書』。ゲヘナ行政法第3条に基づき提出を求められていますが、本件はゲヘナ自治区境界外200メートル地点で発生した事案であり、管轄はハイランダー本校直轄法規が優先されます。ゲヘナ風紀委員会への報告義務自体が存在しません。——【要件不成立により無効・却下】」

 

「な……ッ!?」

 

リョウは書類の束にバツ印を素早く書き込むと、デスクの端へ叩きつけた!

 

ポンッ!(16:51:12)

 

「続いて第46号から第89号文書。件名『便利屋68拘束に伴う人権配慮および写真撮影報告書』。本件添付の現場写真は防犯カメラの自動記録の抜粋であり、個人情報保護法第14条『公共の安全維持に関する例外規定』が適用されます。さらに、提出期限が事件発生から14日を経過しており、ゲヘナ行政手続法第22条『時効消滅規程』により行政官室側の受領権限がすでに失効しています。——【手続き不備につき無効・却下】」

 

「な、何言ってるんですか貴方は!? 時効なんてそんな——」

 

「第90号から第140号文書!」

 

リョウの弾丸トークは止まらない!

アコの反論を1デシベルの隙間すら与えずに打ち消し、超高速で書類をめくり、目視し、法規の穴を正確に射抜いていく!

 

「件名『保線用急速硬化セメントのゲヘナ側受領印未捺印』! 本件セメントはハイランダー側の自己資金によって購入された私的資材であり、ゲヘナ自治領の公的受領印を必要とする『公的資材調達協定』の対象外! むしろゲヘナ風紀委員会が本件に捺印を要求すること自体が、ハイランダーの財産権に対する違法な介入(オーバーリーチ)に該当します! ——【請求破棄・無効】!」

 

ポンッ! ポンッ! ポンッ!

 

「ひ……ひええぇぇぇっ!?」

 

アコは圧倒的な言葉の濁流と、目にも留まらぬ速さで処理されていく書類の山を前に、後ずさった。

 

速い。速すぎる。

リョウは単に書類を読んでいるのではない。

ハイランダーの複雑怪奇な鉄道法規と、ゲヘナ学園の肥大化した行政法規、その膨大な条文のすべてを頭の中に完璧にデータベース化しており、アコが提示した書類の「1ミリの矛盾」を即座に抽出して論破しているのだ!

 

「第141号から第180号文書! 『速度超過に関する行政指導弁明書』! 本件は昨日、銀鏡イオリ遊撃隊長からの口頭指示に基づく緊急回避措置である旨、音声データとともに既に処理完了済み! 二重行政手続の禁止を定めたゲヘナ行政通則第5条違反! ——【即時却下】!」

 

「くっ……! だ、ですが第181号からの20通は……!」

 

アコが汗だくになりながら、必死に最後の束を抱え直そうとする。

 

「第181号から第200号文書!」

 

リョウの冷徹な瞳が、アコを射抜いた。

 

「件名『管轄権侵害に関する包括的謝罪および誓約書』。……本紙面第3項において『ゲヘナ線区の運行権の一部を風紀委員会に譲渡する』旨の記述が存在します。これはハイランダー本校理事会とゲヘナ生徒会(万魔殿)の間で結ばれた『全学園鉄道協定』に対する明確な最高法規違反であり、一行政官の独断による違法な権限乱用・教唆行為に該当します」

 

「ッ……!?」

 

リョウは万年筆を滑らせ、書類の最下部に巨大な赤ペンで『違法指示につき不受理』と書き打つと、朱肉をつけた印鑑を**ドガンッ!** と響かせた。

 

「以上、200通全件の確認、法理的検証、不備指摘および無効化手続……完了」

 

バサァァァッ!!

 

きれいに分類・論破され、無効の判定を押された200通の書類の山が、デスクの上に整然と積み上げられた。

 

リョウは万年筆のキャップをカチリと締め、胸ポケットへ収めた。

 

そして、無感情な瞳でアコを見つめ、静かに時計を示した。

 

【 16:58:30 】

 

「所要時間、8分30秒。……アコ行政官。ご提示いただいた200通の不備書類は、すべて法的に『処理不能および無効』として解決いたしました。これにより、我が治安維持部に未処理の行政手続は一切存在しません」

 

「あ……ああ……」

 

アコは膝から崩れ落ちそうになりながら、積み上げられた書類の山を見つめた。

 

勝てるはずだった。

200通という膨大な書類の物理的暴力で、リョウの時間を奪い、残業の地獄へ引きずり込めるはずだったのだ。

それを、この男は……わずか8分強の弾丸トークと、恐るべき法規知識によって、すべて「無効」として返り討ちにしてしまった。

 

「……これで、退庁の手続きに障壁はありませんね」

 

リョウがタイムカードへ手を伸ばした、その時であった。

 

「……認め……ません……」

 

アコが震える声で呟いた。

 

「え……?」ヒヨコが引く。

 

アコは青ざめた顔を跳ね上げ、涙目になりながら、狂気じみたプライドを露わにして叫んだ。

 

「認められるわけがないでしょうこんな理屈っ! 8分で200通を処理したなんて、そんなのま暴論です! 貴方は私を……風紀委員会の行政官を不当に圧迫し、言葉の暴力で威圧したのですわ!」

 

「アコ行政官、見苦しいですよ。法理に基づき——」

 

「黙りなさい! 私は……私は絶対に認めません! 現場の横暴も、この不当な論破も……すべてです!」

 

アコは胸元から、最高幹部専用の「最優先緊急通信端末」をひったくるように取り出すと、なりふり構わずボタンを叩きつけた!

 

「来てください! 今すぐ来てくださいヒナ委員長ぉぉぉぉッ!! 駅で……駅でハイランダーの治安維持長が、私をっ!!」

 

「わあああっ!? 被害者ぶってヒナを呼んだぁぁぁっ!?」

 

ヒヨコが頭を抱えて絶叫する。

 

アコは通信を切ると、ハァハァと荒い息を吐きながら、ドヤ顔と屈辱が入り混じった表情でリョウを睨みつけた。

 

「フ……フフフ……! 来ます……! 風紀委員会最高責任者、空崎ヒナ委員長が直接この場へ臨検に来られます! 委員長が来られれば、貴方たちの屁理屈など一瞬で粉砕されますわ! 17時退勤など……夢のまた夢です!」

 

時刻は、16時59分10秒。

 

打刻まであと数秒という土壇場で、風紀委員会の「最高権力」が召喚されてしまった。

これまでのどんな手口よりもタチが悪い、完全なる権力による足止め。

 

「くっ……ここに来てヒナ委員長はマズいですよ……!」

 

ヒヨコが絶望に打ちひしがれる。

先生も「さすがにヒナが出てくると、話が大きくなりすぎるな……」と冷汗を流していた。

 

リョウは……静かに目を閉じ、深いため息をついた。

 

「……やれやれ。どこまでも無駄な足止めを……」

 

リョウが再び、残業を強いられる恐怖から刺々しい冷気を纏いかけた、その瞬間。

 

ガララッ……

 

駅務室を封鎖していた風紀委員たちが、一斉に直立不動の姿勢をとり、左右へ割れた。

 

静かな、けれどあまりにも重厚な存在感を放つ足音が、廊下から響いてくる。

 

パツン、パツン、と小さな靴音が近づき、部屋の中に一人の少女が姿を現した。

 

紫がかった銀色の髪、頭上に戴く巨大な漆黒のヘイロー、そして身丈に合わない大きなコートを羽織った小さな身体——。

 

ゲヘナ学園風紀委員長、空崎ヒナであった。

 

「……何の騒ぎ?アコ」

 

ヒナの声は、小さく、けれどその場にいる全員の背筋を伸ばさせるような、威厳に満ちていた。

その瞳には、連日の公務による深い疲労の色が滲んでいる。

 

「ヒナ委員長っ!」

 

アコは待ってましたとばかりにヒナへ駆け寄り、縋り付くようにリョウを指差した。

 

「聞いてください委員長! このハイランダーの治安維持長は、我が行政官室が提出した正当な不備書類200通を、屁理屈と暴論で破棄し、私を言葉で威圧したのです! これは明確な風紀委員会に対する挑戦であり——」

 

「アコ。静かに。」

 

ヒナの一言で、アコはピタリと口をつぐんだ。

 

ヒナは重い息を一つ吐くと、室内の混乱した様子と、デスクに積み上げられた書類の山、そして真っ直ぐに自分を見つめるリョウの姿へと視線を移した。

 

部屋の中に、張り詰めた緊張感が漂う。

風紀委員長が動けば、ゲヘナ線区は即座に全面停止。リョウたちとの物理的な全面戦争へと発展しかねない、最悪の局面。

 

誰もが息をのんで、ヒナの次の言葉を待っていた。

 

その時である。

 

ヒナの視線が、リョウの顔にしっかりと固定された。

 

疲れていた彼女の瞳に、ほんの少しだけ驚きと、それから……心底毒気を抜かれたような、柔らかい光が灯った。

 

ヒナはふっと、肩の力を抜いた。

 

そして——。

 

「……リョウさん」

 

あまりにも拍子抜けするほど、小さく、親しみの籠もった声で、ぽつりと呟いたのだった。

 

「……へ?」

 

アコが、間抜けた声を漏らした。

 

「……え?」

 

ヒヨコも、先生も、口をぐうの音も出せずに目を見開いた。

 

風紀委員長・空崎ヒナが。

あの冷徹で、ゲヘナのあらゆる暴徒から恐れられる「不敗の委員長」が。

目の前のハイランダーの男に対して、まるで長年連れ添った家族に声をかけるかのような、柔らかで穏やかなトーンで話しかけたのだ。

 

そして、さらに異常だったのは——士方リョウの反応であった。

 

「……」

 

ヒナの「リョウさん」という声を聞いた瞬間。

 

リョウの全身を覆っていた、あの「超・事務処理モード」の冷徹な空気、そして17時退勤を脅かされた時の刺々しい圧力がふっと、まるで氷が温かい春風に溶けるかのように、一瞬で消え去ったのである。

 

リョウの目元が和らぎ、口元には、これまで一度も見せたことのない、心底優しく、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 

「久しぶり、ヒナ。……相変わらず、苦労しているみたいだね」

 

「リ……リョウさん……!?」

 

ヒヨコが目玉が飛び出そうなほど驚いて叫ぶ。

 

リョウは、周囲の驚愕などまるで視界に入っていないかのように、スッと歩み寄ると、ヒナの目の前で膝をつき、目線を同じ高さに合わせた。

 

そして、自然な動作で、ヒナの小さな頭の上に大きな手をぽんと乗せ、優しく撫で始めたのだった。

 

「な……なななな何をしているのですか貴方はぁぁぁっ!?」

 

アコが悲鳴を上げた。

 

「い、委員長のお頭に不躾な手を乗せるなんて、不敬罪ですわ! 即刻離しなさい!」

 

アコが叫びながら引き離そうとしたが、ヒナの反応はアコの予想を180度裏切るものだった。

 

「……ん……」

 

ヒナは怒るどころか、リョウの手のひらの温もりに吸い寄せられるように、気持ちよさそうに目を細め、小さく頭を預けたのだ。

 

「……リョウさん。手……あたたかい」

 

「ヒナ、少し痩せたんじゃないか? 睡眠はちゃんと取れているのかい? アコ行政官に無理なスケジュールを組まされていないか?」

 

「……うん。最近、書類が多くて……少し、寝不足かも」

 

「ダメだよ。君は昔から無茶をしすぎる。ちゃんと栄養のあるものを食べて、睡眠時間を確保しないと、背が伸びないぞ」

 

「……もう、背の話は関係ないでしょ。私はもう……委員長なんだから」

 

ヒナは少しだけ頬を朱に染めながら、むっとしたように唇を尖らせた。だが、その顔には、日頃の過酷な公務で見せる緊張や威厳はカケラもなく、ただの「年相応の甘えたがりな少女」の素顔が覗いていた。

 

「「「「………………!?」」」」

 

駅務室にいる全員の思考が完全にフリーズした。

 

先生すらも、思わず手にしてマグカップを落としそうになりながら、二人を交互に見つめた。

 

(え……何この空気……!? 二人って、そういうどういう関係……!?)

…混乱で支離滅裂のようだ。

 

「ヒ……ヒナ委員長……!?」

 

アコは顔面を蒼白にさせ、ガタガタと震えていた。

 

「どういうこと……!? 一体どういうご関係なの!?」

 

ヒナはリョウの手からそっと頭を離すと、少し名残惜しそうにしながらも、アコの方へ向いて咳払いをした。

 

「……アコ。説明していなかったけれど……リョウさんは、私の幼少期からの……その、昔馴染みのようなものよ」

 

「昔馴染み……!?」

 

回想が、リョウの脳裏を駆け巡る。

 

それは、まだゲヘナ学園の情勢が今以上に混乱しており、ゲヘナが血と硝煙に包まれていた頃の話だ。

 

親もなく、過酷な環境の中で一人、立ち向かおうとしていた幼いヒナ。

そして、当時から異様なまでにしっかり者で、治安維持の現場で大人顔負けの立ち回りを見せていた幼いリョウ。

 

二人は古い廃棄車両の中で出会った。

傷つき、疲れ果てていたヒナに、リョウは温かいスープを作り、泥を拭い、夜が明けるまでその小さな身体を抱きしめて守り抜いたのだった。

 

幼いヒナにとって、リョウは傷ついた自分を救ってくれた「頼れる兄」であり、「家族」そのものであった。

しっかり者のリョウは、ヒナが風紀委員長として重責を背負うようになってからも、陰ながら彼女の体調を気遣い、会うたびにスキンシップを欠かさず、彼女の心の支えとなり続けていたのだ。

 

「リョウさんは……私が一番辛かった時期に、私を助けてくれた人。……家族みたいなものだから。アコ、貴女が言っているような『野蛮な暴徒』なんかじゃないわ」

 

「そ……そんな……」

 

アコは絶望のどん底に叩き落とされた。

 

自分が「最悪の無法者」として糾弾しようとしていた相手は、他ならぬ自分たちの敬愛する最高指揮官・空崎ヒナの「命の恩人であり、家族のような存在」だったのだ。

 

「……それに、アコ」

 

ヒナの瞳が、スッと冷たさを取り戻し、アコを見つめた。

 

「……この書類の山は何? 過去の不備書類200通を、私の許可なく、退勤直前に叩きつけて足止めしようとした……それが真相じゃないの?」

 

「うぐっ……! た、それは……風紀委員会の規律を守るために……!」

 

「行政手続を不当な嫌がらせの道具に使うのは、風紀委員会として最も恥ずべき行為よ。……アコ、貴女の過剰な引き伸ばし工作のせいで、私の貴重な睡眠時間まで削られたのだけれど……どう説明してくれるの?」

 

「ヒ……ヒエッ……! ごごご申し訳ありませんヒナ委員長ぉぉぉっ!」

 

アコは完全に撃沈し、その場に土下座する勢いで頭を下げた。

 

「……はぁ」

 

ヒナは呆れたように息を吐くと、リョウの方へと振り向いた。

 

「ごめんなさい、リョウさん。うちの行政官が、また迷惑をかけたみたいで……」

 

「いいんだよ、ヒナ」

 

リョウは穏やかに笑い、ヒナの肩を優しく叩いた。

 

「彼女も、君と風紀委員会のことを思って真面目にやっているだけだ。少しやり方が不器用で、デスクワークの理屈に寄りすぎているだけだからね。……反省文1000枚で許してあげてくれ」

 

「……リョウさんがそう言うなら」

 

ヒナは少し表情を緩め、リョウの手のひらに自分の手を重ねた。

 

「……にしても久しぶりだね、リョウさん。……少し、お話できる?」

 

その時。

 

壁の時計が、静かに音を立てた。

 

【 17:05:00 】

 

すでに時刻は17時を5分過ぎていた。

 

「あ……!」

 

ヒヨコがハッと息をのんだ。

 

「維持長! 17時過ぎちゃいました! 退勤時間が……!」

 

誰もが、リョウが絶望し、狂気にとらわれるのではないかと身構えた。

 

しかし。

 

リョウはタイムカードを見つめ、それから目の前のヒナの温かい手を見つめると——ふっと、心底幸せそうな微笑みを浮かべたのだった。

 

「……いいさ、ヒヨコ」

 

「え……?」

 

「今日の残業は……昔の家族と、温かいお茶を飲むための時間だ。こんなに価値のある残業なら……悪くない」

 

リョウはそう言うと、駅務室の棚から大切に保管していた最高級の茶葉を取り出し、急須へと淹れ始めた。

 

「ヒナ、先生、ヒヨコ。アコ行政官も……座りな。美味しいお茶を入れるよ」

 

「……うん。ありがとう、リョウさん」

 

ヒナは嬉しそうに目を細め、リョウの隣の椅子へとちょこんと腰掛けた。

 

夕暮れの光が差し込む駅務室。

さっきまでの地獄のような書類抗争が嘘のように、あたたかで穏やかな時間が流れていく。

 

悔し涙を流しながらお茶をすするアコと、リョウに甘えるヒナの姿を見ながら、先生は心の中で深く静かに呟くのだった。

 

(……まさかこんな形で平和(????????)に収束するとは……。リョウくんの過去、奥が深すぎるよ……)

 

ゲヘナ線区の17時攻防戦。

この日は珍しく、残業の恐怖ではなく、温かな絆の温もりに包まれて幕を閉じるのであった。

 

 






人気だったら続編が出ると思います。
つかれましたね。


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