ゲヘナ線区はド畜生。 作:シュポニキ
ハイランダー鉄道学園の総本部が置かれた「中央環状線」。
そこは、キヴォトスでも指折りの巨大ターミナル群を抱え、洗練された複々線と最新鋭の運行管理システムが過不足なく機能する、まさにハイランダーの「表舞台」であり「最高峰」の路線であった。
ガラス張りの近代的な高層ビル群の間を、ピカピカに磨き上げられた最新型の特急列車や通勤電車が、一秒の狂いもなく滑らかに滑走していく。車内は快適で冷暖房完備、防音設備も完璧。乗客たちは上品に雑誌を読み、穏やかに車窓の景色を眺めていた。
ここには、突如として線路を穿ち抜く爆風も、ガスタービンエンジンの鼓膜を破るような金属音も、日常茶飯事の弾雨も存在しない。
……少なくとも、「彼ら」が異動してくるまでは、それが中央環状線の『普通』であった。
◆
「おい、サカイ……頼むから、もう少しゆっくり歩いてくれ……」
中央環状線・特命治安第一分隊の隊長を務める生徒は、自身の後方を歩く小柄な後輩——サカイに、ひやひやとした視線を向けながら声をかけた。
サカイは、つい二ヶ月前に「ゲヘナ線区」からこの中央環状線へと異動してきたばかりの治安隊員であった。
ハイランダーの標準制服を着崩すことなく綺麗に着用し、背筋を伸ばして歩く姿は一見すると真面目で大人しい生徒に見える。しかし、その腰に下げられた標準装備の小銃の安全装置(セーフティ)にかかる指の角度、そして周囲の物陰や天井の死角をコンマ数秒周期で走査する不気味なほど無駄のない瞳の動きは、他線区の生ぬるい環境で育った隊員たちとは明らかに一線を画していた。
「分隊長。歩行速度は毎分八十メートル、規定通りです。……それより、三点リーダー(……)が多くありませんか? 業務中の不必要な会話は遅延の元です」
「いや、遅延って言ってもな……ここは中央環状線だぞ? ゲヘナ線みたいに一分一秒を命がけで争うような場所じゃないんだから……」
分隊長が引きつった苦笑いを浮かべた、その時だった。
『緊急打電、緊急打電! 中央第4ホームにて、他校の不良グループ約十名が立ち入り! 自動改札機を破壊し、列車への乗り込みを図っています! 近くの治安隊員は直ちに現場へ急行し、状況の確認と説得を開始してください!』
通信機から流れたアナウンスを聞いた瞬間、分隊長は顔を強張らせた。
「なっ……立ち入りだと!? まずい、マニュアル通り現場を封鎖して、本部に応援を要請しつつ、メガホンで説得を——」
「説得?」
サカイがピタリと足を止めた。その瞳に、信じられないものを見るような、深い困惑と軽蔑が混ざり合った色が浮かぶ。
「分隊長。暴徒が発生しているのに『説得』ですか? 相手に警告を与える時間=敵に防衛陣地を構築させる猶予時間です。10秒あれば自動小銃の掃射で車体が蜂の巣になりますよ?」
「いや、相手はただの不良で、武器も鉄パイプくらいしか持っていないらしくて——」
「鉄パイプ? ロケットランチャーや46cm砲じゃないんですか?」
「持ってるわけないだろ!!」
「……なるほど。訓練(演習)ですか。中央環状線は随分とぬるいトラップを仕掛けてくるんですね」
サカイは心底呆れたように深い溜息をつくと、肩の小銃を手に取ることもなく、ただ歩調をわずかに早めた。
「まあいいです。3秒で片付けます。遅延を出すわけにはいきませんから」
「ちょっとサカイ!? 一人で突っ込むな——!」
中央第4ホームでは、ガラ悪くメンチを切る不良生徒たちが、倒れた自動改札機を足蹴にしていた。
「ヒャッハー! 今日の特急を占拠して、ゲヘナの繁華街までひとっ飛びだ! 邪魔する奴は——」
次の瞬間。
視界が、上下逆転した。
「がはっ!?」
不良のリーダー格が何をされたのか理解できたのは、自分がホームの硬いコンクリート床に後頭部から叩きつけられ、両腕を背中で完璧な角度で関節ロックされた後だった。
シュバッ、ガコン! バキッ!
サカイの動きは、人間技ではなかった。
言葉を発することすらなく、風のような踏み込みで集団の真っ芯に飛び込むと、一番近くにいた不良の顎に保線用ナックルガードの掌打を叩き込んで一瞬で脳揺らし。ひるんだ二人の襟首を掴み、力任せではなく骨格の支点を応用した最小限の力で同士討ちさせ、倒れた隙に手錠を二連で装着。
殴りかかってきた残りの不良の鉄パイプを、ミリ単位の見切りでかわし、手首を捻って骨折させずに関節だけを外して無力化する。
「あ……が……?」
「ひ、ヒィィィッ!?」
わずか2.8秒。
不良10名が、誰一人として引き金を引くことも、悲鳴を完成させることもできないまま、ホーム上に綺麗に「山折り」の形で積み重ねられていた。
追いついた分隊長と周囲の乗客たちは、開いた口が塞がらなかった。
「な……なにが起きた……? 説得は……? 警告文章の読み上げは……!?」
サカイは乱れた制服の袖を整え、手元の腕時計を冷ややかに見つめた。
「現場到着から処理完了まで、2.8秒。……フッ、ぬるいな。ゲヘナ線なら、今の一秒の遅れで温泉開発部のダイナマイトが線路に仕掛けられていましたよ。中央環状線の暴徒は動きが遅すぎて、まるで止まっている標的を撃っている気分です」
「け、警察や生徒会への引き渡しの連絡は……」
「そんなものは後回しです。列車が来ます。ホーム上の障害物(これら)を10秒以内に撤去しないと、安全確認で1分遅延が出ます。おい、お前たち、自分で動ける奴は線路の外へ転がれ。邪魔だ」
冷淡に暴徒の腹を蹴り転がすサカイ。その姿は、正義の治安隊というよりも、洗練されすぎた作業現場の「鬼現場監督」そのものだった。
乗客たちからは「すごーい!」「一瞬で解決したわ!」「でも……なんかあの人、目が笑ってなくて怖くない……?」という、賞賛と恐怖が半々に混ざった不穏なザワつきが起こっていた。
◆
同じ頃。中央環状線の「保線・運行指令センター」でも、似たような戦慄が走り抜けていた。
「おい、指令長! 第3信号区間で倒木事故発生! 風で老木が線路に倒れ込みました! ダイヤに5分の遅延が発生予定です!」
「なに!? すぐに保線班を出動させろ! ガソリンノコギリとクレーン車を手配! 復旧まで最低15分はかかるぞ!」
指令室が騒然となる中、モニターの端で、一両の試運転・保線用車両が恐ろしい挙動を見せた。
『あー、こちら保線第2班のフジワラ(※異動組・元ゲヘナ線保線員)。指令、くだらん騒ぎを起こすな。クレーン車? 15分? 正気か? そんなもの待ってたら17時の退勤に響くだろうが』
「フジワラ!? お前、一人で現地に向かってどうする気だ! 規定に基づき現場を封鎖——」
画面の中で、フジワラが乗る保線車両が、中央環状線の最高制限速度(80km/h)を無視して「140km/h」まで加速した。
「バ、バカ者! 環状線でそんな速度を出したら脱線するぞ!」
『ハッ! 80キロだぁ? レールが繋がってりゃあ200キロでも走れるんだよ! ゲヘナ線の急カーブに比べたら、この環状線の直線なんて滑走路みたいなもんだ! 行くぞオラァッ!』
ドガァァァン!!
保線車両は倒木の手前で強烈な荷重移動(サイドブレーキ&トルク制御)を敢行。車体を斜めに傾かせながら、倒木の根元へ車体前面の防護板をダイレクトに叩きつけた!
バキバキバキキィィッ!!
巨大な大木が、まるでマッチ棒のように粉砕され、線路外へと吹き飛ぶ。
さらに、フジワラは車両から飛び降りると、一人で熱圧着カプラーと急速硬化セメントを構え、傷ついたバラス(砂利)を1分間で足で踏み固めて均してしまった。
『復旧完了! 遅延、0分45秒に圧縮! 後続の特急、減速なしで突っ込ませろ!』
「ひ、一人で樹木伐潰と路盤修復を2分で終わらせただと……!?」
指令長はヘッドセットを握りしめたまま、ガタガタと震え上がった。
「あいつら……異動してきた『元・ゲヘナ線職員』どもは、一体どうなってやがるんだ……!? 運転させればドリフトで遅延を取り戻し、暴徒が出れば言葉より先に拳と手錠が出現し、保線をやらせれば数時間かかる工事を数分で終わらせる……! 人間じゃない、動く重機か戦車だ……!」
隣にいた副指令長が、顔を青くしながら極秘の個人ファイルをめくった。
「し、指令長……彼らの過去経歴(キャリア)を調べてみましたが……ヤバいです。彼らは全員、あの『地獄のゲヘナ線区』で最低一期(半年)以上、現場を生き残ってきた猛者たちです」
「ゲヘナ線区……あの、希望的観測でしか電車が走らないという、噂の魔境か……?」
「はい。毎日が温泉開発部の爆破、便利屋の乱入、風紀委員会との銃撃戦、そしてガスタービンエンジンの限界超過走行……。あそこでは『通常のマニュアル』を守っていた奴から順番に退学(リタイア)していくそうです。生き残った奴らは全員、異常なまでの危機察知能力と、最短距離で障害物を排除する無慈悲な職人技を叩き込まれる……」
「バケモノ養成所じゃないか……!」
「はい。ですから、他線区へ異動してきた元ゲヘナ線職員は、どこへ行っても『ハイスペックすぎる無双集団』として恐れられているんです。彼らがシフトに入っている日は絶対にダイヤが乱れませんし、暴徒が襲撃してきても数秒でホームが静まり返りますから」
指令長は深く息を吐き、デスクに肘をついた。
「なるほど……それなら安心じゃないか。そんな心強い奴らがうちの部署に来てくれたなら、誇るべきことだ」
「……ですが、指令長。一つだけ……絶対に破ってはならない【禁忌】があります」
「禁忌……?」
副指令長は、まるで呪いの言葉を口にするかのように、声を低くして囁いた。
「彼らを……絶対に『17時(定時)』を超えて残業させてはなりません」
「は? 残業? いや、たまのトラブルで数分のオーバーくらい——」
「ダメです!! 絶対にダメです!!」
副指令長が叫んだ。その瞳には、本気の恐怖が宿っていた。
「彼らは……ゲヘナ線の治安維持長(士方リョウ)という男から、致命的なまでの『労働観』と『トラウマ』を叩き込まれています。もし、定時を一秒でも過ぎると……彼らは……」
◆
時刻は、16時58分。
中央環状線・中央第1ターミナルホーム。
「よし、本日の勤務も間もなく終了だな」
サカイは制服の襟を整え、ポケットからタイムカードを取り出していた。その顔には、一日の過酷な(彼にとってはぬるすぎる)業務を終えた爽やかな満足感が漂っている。
隣には、先ほど倒木を車体ごと粉砕して路盤を修復したフジワラも並んでいた。
「ふう……中央環状線は楽でいいな。爆薬も飛んでこねぇし、ガスタービンを限界突破させる必要もねぇ。これなら毎日17時ピッタリに酒が飲めるぜ」
「ええ。ゲヘナ線にいた頃は、17時直前に温泉開発部がドリルを持って現れるのが日常でしたからね。あれに比べれば、ここは天国です」
二人は笑顔で言葉を交わしていた。
あと1分。あと1分で、平和な一日が幕を閉じるはずだった。
ピピッ。
『緊急打電! 中央第1ホーム改札前にて、酔っ払いの乗客3名が暴刻! 駅員の胸ぐらを掴んで暴れています! 近くのサカイ隊員、フジワラ隊員、至急対処願います!』
サカイとフジワラの動きが、ピタリと止まった。
手元の腕時計の針が、刻一刻と刻まれていく。
16時59分30秒……
16時59分45秒……
16時59分55秒……
「おい、サカイ……走れば間に合うか?」
「……いえ。現場まで徒歩で20秒。どう足掻いても……」
**ピピッ、ピピッ、ピピッ(17:00)**
無情にも、二人のスマートフォンのアラームが、17時の訪れを告げた。
「「………………」」
その瞬間。
サカイとフジワラの身体から、スッと熱量が抜け落ちた。
まるで体内のスイッチが切り替わったかのように、表情から一切の光が消える。瞳のハイライトが消失し、深海のごとき暗闇がその眼孔を支配した。
「あ……」
遠くで見守っていた特命分隊長が、ヒッと息をのんだ。
サカイの雰囲気が、先ほどまでの「優秀でテキパキとした職人」から、「底知れない暗闇を抱えたナニカ」へと変貌していた。
だるそうに、深く、深く、長い溜息をつくサカイ。
「……あーあ。定時、超えちゃった」
その声は、驚くほど低い。温度がなく、氷点を下回るような冷酷な響き。
「……君たち、どうしてくれんのよ」
フジワラもまた、死んだような目で自らの巨大なスパナを握り直していた。
「俺の……俺の純潔なタイムカードに……残業の二文字が刻まれた……。許さねぇ……絶対に許さねぇぞ……」
二人は、ゆらり……ゆらり……と、地獄の底から這い出してきた幽鬼のような足取りで、改札前で暴れていた酔っ払い三人組へと歩み寄っていった。
「ヒッ……!? な、なんだあいつら!?」
暴れていた酔っ払いたちは、襲いかかってくる敵の怒号よりも、一切の感情を殺した目で無言で近づいてくる二人の異様な威圧感に、一瞬で酔いが吹き飛んだ。
「た、たすけ——」
「——声が大きい」
サカイの手が、前ブレなく伸びた。
叫ぼうとした酔っ払いの喉元を冷酷に掴み上げ、そのまま壁面へ無音で叩きつける。
「あガっ……!?」
「僕の退勤時間を奪った罪は重いですよ。……どうやって補償するんですか? ん? 喋ってくださいよ」
サカイは瞳に一切の光を宿さないまま、冷め切った声でネチネチと追い詰めていく。相手の腕関節を嫌な音が出ないギリギリの角度で捻り上げ、精神的な恐怖でじわじわと追い詰める。大声で怒鳴られるよりも百倍恐ろしい、冷血な暴力。
一方のフジワラも、逃げ出そうとした残りの二人のかかとをスパナの柄で正確に叩き潰し、床に這いつくばらせていた。
「なぁ……俺の酒の時間を返せよ……。なあ……」
「ひ、ヒィィィィッ!? ごめんなさい! ごめんなさいぃぃっ!」
暴徒側が、泣き叫びながら許しを乞う。
暴れているのは不良たちなのに、客観的に見ると完全に「哀れな被害者を追い詰める二人の冷酷な悪魔」の図式であった。
わずか30秒後。
改札前には、涙と鼻水で顔をグシャグシャにし、精神的なトラウマでガタガタと震え上がる三人組と、冷め切った手つきで手錠をかけ終えたサカイたちの姿があった。
【 17:01 打刻 】
サカイは、機械的にタイムカードを打刻機に叩きつけた。
「……残業、一分。不愉快です」
「……あー、酒が不味くなる。……帰るぞ」
二人は死んだ目をしたまま、一言も喋らずに黄昏時のホームへと消えていった。
残された分隊長と指令室の面々は、ただただ抱き合って震えることしかできなかった。
「ひ、ヒエぇぇぇっ……! なんだよあの変貌ぶりは! 怖すぎるだろ!!」
「だ、だから言ったでしょう! 彼らは定時を過ぎると『ゲヘナ線モード』が入るんです! 残業の原因(障害物)を物理的・精神的に徹底破壊するまで絶対に止まらない恐怖の亡者になるんです!」
「あんなの……あんなの人間じゃない! 動く怪獣だ!」
◆
その日の夜。
ハイランダー鉄道学園本校・主計部(予算管理部門)の会議室。
ずらりと並んだ高級な革張り椅子に、本校のエリート幹部たちが重苦しい表情で腰掛けていた。
机の上に提出されていたのは、ゲヘナ線区治安維持長・士方リョウからの、来年度の「設備投資・保線予算申請書」であった。
申請額:**【前年度比 300% 増】**
「……な、なんだこの無茶苦茶な金額は!?」
幹部の一人が机を叩いて立ち上がった。
「ガスタービンエンジンの予備部品50基! 高強度急速硬化セメント100トン! さらに戦闘列車『シミュシレア』の46cm主砲用砲弾およびミサイル110基の補充費……!? こんなもの認められるわけがないだろう! 却下だ、却下!」
「お待ちください、部長!」
隣の精算担当者が、青ざめた顔で書類を差し出した。
「か、却下なんてしたら……大変なことになります!」
「何が大変なことだ! ゲヘナ線区はいつも赤字ギリギリだろうが! 少しは中央環状線を見習って規律ある運行を——」
「部長! 今日の昼、中央環状線に異動してきた『元・ゲヘナ線職員』のサカイ隊員とフジワラ隊員のレポートをお読みになりましたか!?」
「ん? あの他線区で凄腕として無双しているという連中か?」
「はい! 彼らはゲヘナ線区から異動してきた『ほんの末端の職員』に過ぎません! その末端の生徒たちですら、暴徒を数秒で解体し、電車でドリフトをかまし、定時を過ぎれば冷酷な亡者となって敵を精神崩壊させるほどの化け物なんです!」
精算担当者は、震える指で申請書の末尾に捺された「士方リョウ」の認印を指差した。
「そんな化け物たちを数百人単位で束ね、毎日あの地獄のゲヘナ線で17時退勤のために戦い続けているトップ……『ゲヘナの亡者』こと士方リョウ維持長が、もし予算削減に怒って本校に乗り込んできたらどうするんですか!?」
「なっ……!?」
「過去の記録をご覧ください! 三年前、同僚が不当に傷つけられた際、リョウ維持長は本校の制止を完全に無視し、単独権限でシミュシレアを出撃させてトリニティまで進軍・砲撃を敢行した前科があります! もし我々が予算を削って『資材不足で定時退勤できなかった』なんてことになったら……あの男、シミュシレアの46cm主砲をこの本校ビルに向けて撃ち込んできますよ!!」
幹部たちの脳裏に、漆黒の巨大戦闘列車が本校のレールを踏み荒らし、全砲門をこちらに向けて静かに咆哮を上げる絶望の光景が浮かび上がった。
冷め切った目で、「……あーあ。予算削られちゃった。君たち、どうしてくれんのよ」と呟く士方リョウの顔が、鮮明に脳裏に焼き付く。
「ひ、ヒィィィッ!?」
幹部の手が、ガタガタと震え始めた。
「判子……! 判子はどこだ! ハンコを出せぇぇぇっ!」
「部長、こちらです!」
ポンッ! ポンッ! ポンッ!
「承認! 全額即時承認だぁぁぁっ! ど、どうぞ……! 予算でも何でも好きなだけ持って行ってくださいぃぃっ!」
「あと『ゲヘナ線区への人事異動命令書』はすべて破棄しろ! あんな地獄へ生徒を送り込んだら、どんな化け物が生まれて帰ってくるか分かったもんじゃない! ゲヘナ線区の人間はゲヘナ線区の中だけに閉じ込めておけぇぇっ!」
本校主計部の会議室に、情けない悲鳴とハンコを連打する音が空しく響き渡るのだった。
◆
同時刻。
アビドス砂漠の静かな夜風が吹き抜ける、南ゲヘナ駅のホーム。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったホームのベンチで、士方リョウは平和そうに温かい缶コーヒーを飲んでいた。
隣には、仕事を終えた保線員の澤田トシと、運転士の藤原ヨドキ、そして副長の野上ヒヨコが並んで腰掛けている。
「ふう……今日も無事に17時に上がれたな」
リョウは夜空に浮かぶ綺麗な月を見上げ、満足そうに目を細めた。その表情は、どこからどう見ても優しく穏やかな「普通の少年」だ。
「おう。トシの突貫工事と、俺の240キロドリフトのおかげだな!」
ヨドキが豪快に缶ビール(※ノンアルコール)をあおる。
「フン、お前が突っ込んできたせいでレールのボルトを締め直すのに骨が折れたんだよ。まあ、おかげで定時退勤できたから許してやるがな」
トシが煙草(※禁煙パイポ)をくわえながら笑う。
「維持長〜。本校主計部から、来年度の予算申請が『申請からわずか10分で満額即時承認された』って連絡が来ましたよ〜。なんか『どうぞどうぞ、好きにお使いください』って、すごい腰低いメールでしたけど」
ヒヨコが端末を見ながら不思議そうに首をかしげた。
「そうか。本校の皆さんは、いつも理解が早くて助かるな」
リョウは心底感心したようにうなずき、缶コーヒーを一口すすった。
「私たちはただ、当たり前のダイヤを守り、当たり前に定時で帰りたいだけなのだが……本校の人たちには、私たちの労働への真摯な情熱が伝わっているのかもしれないね」
「まあな! 俺たちの情熱は本校にも届いてるってことだ!」
「ええ。他線区へ異動していった元同僚たちも、きっと新しい職場で我がゲヘナ線の『真面目で丁寧な労働精神』を発揮して、周囲から感謝されていることでしょう」
リョウは爽やかに微笑み、夜風に背中の翼を心地よさそうに揺らした。
彼らは誰も知らなかった。
他線区へ行った元同僚たちが、その過剰すぎるハイスペックと17時過ぎの狂気によって「化け物集団」として恐れられていることも。
そして本校主計部が、シミュシレアの砲撃を恐れて恐怖のあまりハンコを乱打したのだということも。
ただ、ゲヘナ線の静かな夜は、今日も穏やかに更けていくのであった。