時刻は16時30分。
夕暮れの赤銅色に染まり始めた南ゲヘナ駅・治安維持部指令室の空気は、不気味なほどに静まり返っていた。
「……ヒヨコ。現在の各列車の運行状況は」
士方リョウは、ピカピカに磨き上げられたショートバレル・ショットガンの機関部をカチリと戻し、静かな声で尋ねた。背中の大きな黒い翼は、行儀よく折りたたまれている。
「はい、維持長。上り下りともに遅延ゼロ。現在、アビドス砂漠前を走行中の1620便も定刻通りです。線路上の障害物検知、ゼロ。不審個体の接近、ゼロ。……奇跡です。ここ一ヶ月で、最も平和な夕方です!」
野上ヒヨコが端末の画面を光速でフリックしながら、興奮を抑えきれない様子で報告する。
「よし……」
リョウは小さく胸を撫で下ろし、机の端に置かれた自分のタイムカードを見つめた。
薄茶色の紙に印刷された打刻欄。そこには今日まで、微かな残業記録の傷跡が刻まれ続けていたが、今日という日は違う。
「あと30分……。あと30分何事も起きなければ、私は人生最高の達成感とともに、17時ピッタリにタイムカードを押して帰宅できる」
「維持長……! 私もついていきます! 今日こそ、今日こそ『17時00分定時退勤』の偉業を成し遂げましょう!」
ヒヨコとリョウが力強く頷き合い、熱い視線を交わした、その時だった。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッ——!!!!
指令室全体を激震させる、真っ赤な緊急警報ブザーが鳴り響いた。
「っ!?」
リョウの身体が跳ね上がった。ヒヨコが悲鳴を上げながら端末のキーボードを叩き叩き、投影されたホログラムモニターに目を剥く。
「な、何事だ!? 地震か!? シミュシレアの誤作動か!?」
「い、違います! KP(キロポスト)8地点——ゲヘナ繁華街〜アビドス砂漠前間の複線中央区間で大規模な交戦が発生! 温泉開発部です! 巨大掘削戦車『超・豪快号』を投入し、線路の真下で温泉掘削を開始しました!」
「またあのバカどもか……! だが、なぜ警報レベルが最大なんだ!?」
ヒヨコは青ざめた顔で画面の拡大映像を提示した。そこには、線路を占拠する温泉開発部だけではなく、黒い制服に身を包んだ大量の武装集団が映し出されていた。
「風紀委員会です! ゲヘナ学園風紀委員会が『違法掘削および管轄侵害』を理由に部隊を展開! 温泉開発部に対して大規模な無差別掃射を開始しました!」
画面の中では、温泉開発部の大型ドリルと、風紀委員会の自動砲台やロケットランチャーが、線路を挟んで凄まじい砲撃戦を繰り広げていた。
ドカン! ズドトン! と弾幕が交差し、高張力鋼で補強されていた複線レールが、爆風によってまるで飴細工のようにぐにゃりと歪み、吹き飛んでいく。
「なっ……最悪の鉢合わせだ! 双方ともに引く気ゼロ! 線路の上で全面戦争を始めています!」
「現在の時刻は!?」
リョウが鋭い声で叫ぶ。
「16時40分です! 定時(17時)まで、あと20分!」
「20分……!」
リョウの澄んだ瞳に、超人的な集中力の光が宿った。
17時超過の狂戦士化でもない。冷め切った圧でもない。ただ、「17時に帰る」という崇高な目標のために、己の持てる全てのスペックを極限まで引き出した【超・定時退勤モード】の覚醒であった。
「ヒヨコ! トシとヨドキに全線非常召集をかけろ! 1625便のガスタービンを暖機運転させろ!」
「は、はいっ!」
「ターゲットは温泉開発部、および風紀委員会! 双方とも我がゲヘナ線区の運行を阻害する不法占拠者だ! 19分50秒以内に現場の全敵勢力を完全排除し、線路を復旧、16時59分59秒までに南ゲヘナ駅ホームへ滑り込む!」
リョウは保線用ナックルを両拳に叩き込み、背中の黒い翼を爆発的に広げた。
「作戦名『16時59分』——出撃する!!」
◆
16時45分。KP8地点。
「ハハハハハ! 掘れぇ! 掘れぇい! 風紀委員会の弾幕など、温泉への情熱に比べればハエの羽音も同然よーッ!」
温泉開発部の作業員たちが、ドリルから火花を散らしながら叫ぶ。
「生意気な害虫どもが……! ゲヘナの規律を乱す暴徒は、一粒残らず灰にしなさい!」
風紀委員会の風紀委員たちが、集団で突撃砲を構え、怒涛の勢いで押し寄せる。
線路を舞台にした泥沼の泥試合。両者の砲火が飛び交う戦場の真ん中に——。
ドガアァァァァンッ!!
音速の衝撃波とともに、一筋の黒い彗星が空からド真ん中に落着した。
爆風と砂煙を吹き飛ばして立ち上がったのは、士方リョウ。
「……現在の時刻、16時46分」
リョウの声音には、一切の無駄がなかった。
「温泉開発部、および風紀委員会。貴様らの管轄争いに興味はない。だが、私の退勤時間まであと14分だ。——そこをどけ」
「な、なんだあいつは!? ハイランダーの治安維持長か!?」
「邪魔よ! 風紀委員会の作戦行動を阻害するなら、あなたもまとめて拘束——」
「問答無用」
リョウの身体が消えた。
翼の羽ばたきによる極超音速の水平移動。
ズドンッ!
「がはっ!?」
最前線の風紀委員の胸元へ、ショットガンの銃身(バレル)による精密な点突打撃。一切の余分な威力を排除し、相手の意識だけを正確に刈り取る最短の打撃。ひるんだ隙に、左手で相手の小銃を奪い、弾倉を抜き取りながら後方へ投げ捨てる。
そのまま旋回し、襲いかかる温泉開発部の削岩ドリルへと肉薄。
「てやぁぁぁっ!」
保線用ナックルガードを装着した右拳が、ドリルの駆動モーターへ直撃。
ガコンッ! という破砕音とともにメインギアが内部から粉砕され、大型ドリル機が沈黙する。
「ひ、一撃で超・豪快号のドリルを撃破しただと!?」
「16時48分! 時間がない、次だ!」
リョウは戦場を舞う鬼神と化していた。
風紀委員会の突撃に対しては、ショットガンの接射衝撃波でまとめて押し戻し、間髪入れずに手錠で連結。温泉開発部のダイナマイト投擲に対しては、空中で全て撃ち落とし、爆風を翼の防壁で完全に遮断。
無駄な弾薬は一発も使わない。無駄な歩数は一歩も踏まない。
全ての動作が「秒単位のスケジュール」に従って整然と実行される、圧倒的な作業効率の暴力。
「な……なになのあいつ!? 人間じゃないわ! 動きに一切の迷いがないの!?」
風紀委員たちの悲鳴が上がる。
「16時50分! ヒヨコ、状況は!?」
『維持長! 敵勢力の7割を無力化完了! ですが……まずいです! 温泉開発部が最後に爆破したダイナマイトで、上り線・下り線ともに100メートルにわたってレールが完全に消失しました!』
上空からナビゲートするヒヨコの声が無線に響く。
リョウが視線を落とすと、そこには線路が存在せず、赤茶けた大きなクレーターだけが広がっていた。
「レール消失100メートル……手作業での復旧には、最短でも10分はかかる……」
「ハハハハハ! 残念だったなハイランダー! レールがなければ電車は走れん! 今日のダイヤは終わりだーっ!」
縛り上げられた温泉開発部の班長が勝ち誇ったように叫んだ、その時。
地平線の彼方から、耳をつんざくような咆哮が響き渡った。
「誰が終わりだと言ったぁぁぁぁぁッ!!」
黄色の装甲保線車を先頭に、猛烈な黒煙を上げて突っ込んできたのは、保線員・澤田トシと、その一等保線班であった!
「おいリョウ! 16時52分だぞ! タイムリミットまであと8分だ!」
トシは保線車から飛び降りるや否や、重さ数十キロのスレッジハンマーを軽々と振り回した。
「保線班野郎ども! 特別超急速施工『全自動熱圧着カプラー・トリプル』を発動する! 100メートルのレールを3分で繋ぎ直すぞ! 死気でついて来い!!」
「「オオオオオオーーーッ!!」」
凄まじい叫び声とともに、保線員たちがクレーターへと雪崩れ込んだ。
トシの指揮は、もはや神技を通り越して悪魔の領域だった。
予備の長尺レールを保線車からワイヤーで引きずり出し、クレーターへ力任せに叩き落とす。測量機器など使わない。トシが目で見ただけで「よし、水平!」と叫び、急速硬化セメントの缶を丸ごと爆破して穴を埋める。
バシューーーーーッ!!
白い冷却ガスと蒸気が立ち込め、マグマのように熱いセメントが一瞬で岩盤のように固まっていく。
「トシ! レールの締結ボルトがあと50本残っています!」
「ボルトなんて揉み込んでる暇があるか! 溶接バーナー全開! カプラーを力任せに叩き潰して接合しろ!」
ガン! ガン! ガン! ガン!
ハンマーが叩きつけられるたびに、火花が夜空を焦がす。本来なら丸一日かかる複線100メートルの敷設工事が、文字通り「秒刻み」で形作られていく。
「す、すごすぎる……! これがゲヘナ線の保線員……!?」
転がされていた風紀委員たちが、目を丸くして開いた口が塞がらない。
「16時55分! トシ、あと2分で1625便が来るぞ!」
リョウが叫ぶ。
「任せろ! あと10秒で上り線だけは繋がる! 下り線は後回しだ! ヨドキに言え! 『上り線だけ踏んで突っ込め』とな!」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間。
遠くのトンネルから、ガスタービンエンジンの狂乱の爆音が轟いた。
キィィィィィィィィン……ドゴォォォォォンッ!!
「ハハハハハハハ! おーい野郎ども! 遅延は現在1分30秒! この直線で巻き返すぞぉぉぉッ!」
運転士、藤原ヨドキの乗る1625便(8両編成)が、車体から蒼い炎を撒き散らしながら突っ込んできた。
速度計の数値は——【 230 km/h 】。
「バ、バカ者ぉぉぉッ!」風紀委員が悲鳴を上げた。「まだセメントが完全に固まりきっていない! レールの上をそんな速度で走ったら、自重で線路ごと崩壊するぞ!」
「崩壊したらまた繋ぎ直せばいいんだよぉぉぉッ!」
ヨドキは運転台のレバーを極限まで押し倒した。
「1625便、過酷突撃モード(アクセルオン)! 16時57分、現場通過ぁぁぁッ!」
ズダダダダダダダダダダンッ!!
230km/hの重装甲列車が、できたてホヤホヤの熱気を放つレールへと躍り出た。
固まりきっていないセメントがメキメキと音を立て、車輪とレールの間で激しい火花の嵐が巻き起こる! 車体が右へ左へ45度近く傾き、線路脇の風紀委員たちのヘルメットが爆風で吹き飛ぶ!
「ぬおおおおッ! 耐えろ相棒! 17時に上がれなくなるぞぉぉぉッ!」
ヨドキの狂気的なハンドル操作とトルク配分により、列車は奇跡的に脱線を回避! 100メートルの欠損区間をわずか1.5秒で駆け抜け、正常な線路へと復帰していった!
「よっしゃあぁぁぁッ! 上り線通過完了! 遅延、残り10秒!!」
ヨドキの勝ち誇った声が通信機に響く!
「よし! 保線班、撤収!」トシがハンマーを掲げる。「リョウ! 列車に乗れ! あと1分半で南ゲヘナ駅だ!」
「了解した!」
リョウは翼を羽ばたかせ、通過していく1625便の最後尾デッキへと飛び移った。トシと保線員たちも、並走する保線車へ飛び乗る。
現場に残されたのは、荒れ果てたクレーターと、完璧に身柄を拘束された温泉開発部&風紀委員会、そして嵐のように去っていったハイランダー職員たちの後ろ姿だけだった。
「な……なんなのよ、あの人たち……」
風紀委員の生徒が、呆然とつぶやいた。
「自分たちの退勤時間のためだけに……ここまでの力を……?」
◆
16時59分00秒。
1625便は、終点・南ゲヘナ駅の構内へと進入していた。
「16時59分15秒……!」
車内の治安維持部デッキで、ヒヨコがストップウォッチを握りしめ、声を発していた。その全身は冷や汗でびっしょりと濡れている。
「16時59分30秒……! 南ゲヘナ駅ホーム進入! 速度落とせ、ヨドキさん!」
『任せろ! 17時ジャストにタイムカードを押させるためなら、俺のブレーキ技術は神をも越える!』
キィィィィィィィィィッ!!
強烈なディスクブレーキの摩擦音が構内に響き渡る。
8両編成の巨躯が、滑らかな、あまりにも滑らかな減速を描きながら、南ゲヘナ駅のホームへと滑り込んでいく。
「16時59分40秒……!」
ホームには、仕事を終えた駅員や保線員、そして連絡を聞きつけた他部署のハイランダー生徒たちが、息をのんで時計を見つめていた。
「16時59分50秒……!」
プシューーーッ!
列車が停止した。ドアが開く。
「51秒……52秒……!」
列車から飛び出したのは、士方リョウ!
背中の翼を羽ばたかせ、ホームのコンクリートを蹴って、駅務室のタイムカード打刻機へと全速力で突進する!
「53秒……54秒……!」
駅務室の扉を滑り込むように抜け、胸ポケットから薄茶色のタイムカードを引き抜く!
「55秒……56秒……!」
打刻機のスロットへ、カードを滑り込ませる!
「57秒……58秒……!」
ガチャンッ!!
静寂に包まれた駅務室に、重厚な機械音が響き渡った。
機械の液晶画面に表示された文字——
**【 16:59:59 打刻 】**
「……っ!!」
ヒヨコが、トシが、ヨドキが、そしてホームにいた全員が、息を止めた。
ピピッ、ピピッ、ピピッ(17:00:00)
駅構内の時計が、静かに17時00分ちょうどを告げた。
「……打刻……完了……」
リョウはゆっくりとタイムカードを引き抜いた。
そこに印字されていたのは、寸分の狂いもない【16:59】の文字。残業時間、0分0秒。
完全なる、完璧なる、伝説的な【定時退勤】の成立であった。
「………………」
リョウの瞳に、温かな、澄み切った光が戻ってきた。
激闘の疲労も、過酷な緊張感も、すべてが爽やかな達成感へと変わっていく。
リョウは振り返り、集まった仲間たちに向かって、誇らしげにタイムカードを掲げて見せた。
「……みんな。お疲れ様。今日の業務は、これにて終了だ」
その瞬間——。
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!」」」
南ゲヘナ駅全体が、割れんばかりの歓声と大歓声に包まれた!
「やったぁぁぁぁぁッ! 17時退勤だぁぁぁッ!」
「維持長が! 維持長が残業なしで上がれたぞぉぉぉッ!」
「歴史的快挙だ! ゲヘナ線始まって以来の奇跡だーっ!」
保線員たちが抱き合い、ヨドキが帽子を空高く放り投げ、トシが豪快に笑いながらリョウの肩を何度も叩く。ヒヨコは涙をボロボロとこぼしながら、リョウの腕にしがみついた。
「維持長……維持長ぉぉぉッ! よかったです……本当によかったですぅぅっ!」
「ありがとう、ヒヨコ。君のナビのおかげだ。……トシ、ヨドキ、みんなもありがとう。君たちが最高の仕事をしてくれたおかげだ」
リョウは穏やかな、心からの笑顔を浮かべた。背中の翼が、夕日を浴びて誇らしげに輝いている。
◆
その夜。
アビドス砂漠の静かな夜空の下、南ゲヘナ駅のホームは平和な静寂に包まれていた。
すべての列車は定刻通りに車庫へと収容され、明日の運行に備えて点検を受けている。
私服に着替えたリョウは、鞄を片手に改札口へと歩いていた。その足取りは、羽のように軽い。
「維持長〜! お疲れ様でした〜!」
改札の向こうから、夜勤の治安隊員たちが手を振る。
「ああ、お疲れ様。夜勤の警備、頼んだよ。何かあっても……私を呼び出さないように」
「ハハハ、了解です! 今夜はゆっくり休んでください!」
リョウは爽やかに手を振り返すと、駅の階段を降り、夕闇の街へと踏み出した。
ポケットの中で、打刻されたばかりのタイムカードが、静かに納まっている。
「……ふふ」
リョウは思わず、小さな笑みを漏らした。
明日もまた、温泉開発部がやってくるかもしれない。
風紀委員会が怒鳴り込んでくるかもしれない。
便利屋が危険物を持ち込むかもしれない。
だが——今日のこの16時59分59秒の勝利がある限り、ゲヘナ線の職員たちは何度でも立ち上がり、己の「定時」のために戦い続けるのだ。
ゲヘナの夜風は、どこまでも心地よく、そして爽やかであった。