あの大激闘となった「16時59分の死闘」から、数日が経過した。
奇跡的な定時退勤を果たし、勢いそのままに無事故・無遅延の完全運行記録を数日間にわたって更新し続けたゲヘナ線区。その功績と「17時を過ぎると恐ろしい圧を放つ化け物集団が誕生する」という他線区への噂が広まったおかげか、珍しくここ数日は温泉開発部の違法掘削も、風紀委員会の無許可捜索も、便利屋68の爆薬持ち込みすらも発生していなかった。
キヴォトスで最も血生臭いと言われる魔の鉄路に、奇跡のような「凪」の時間が訪れていたのである。
そして、本日は士方リョウの数ヶ月ぶりとなる「完全非番(休日)」であった。
◆
「……ふぅ。お湯加減も、ちょうどいいな」
南ゲヘナ駅から少し離れた、荒野のオアシス沿いにひっそりと佇む公衆銭湯。
その開放的な露天風呂で、リョウは首まで湯に浸かり、深く満足げな溜息を吐いていた。
普段は隙なく整えられている制服を脱ぎ捨て、ゆったりとしたシンプルな私服の着物(羽織)に身を包んだ彼の表情には、仕事モードのピリッとした緊張感も、17時過ぎのあの冷め切った狂気も一切ない。
ただそこにいるのは、湯気に包まれながら、のんびりと目を細めている一人の素朴な生徒であった。
背中の大きな黒い翼も、お湯に濡れないよう少し高めの位置で丸められ、湯気の中で気持ちよさそうにパタパタと揺れている。
「リョウくん、ここにいたんだね」
脱衣所からの扉が開き、タオルを肩にかけたシャーレの先生が入ってきた。
「あ、先生。お疲れ様です。先生もこちらのお風呂を利用されるのですね」
リョウは湯船の中で少し身体を寄せ、先生が入りやすいように場所を空けた。
「うん。南ゲヘナ駅周辺の出張業務がひと段落してね。地元の人に『すごく良いお湯がある』って教えてもらったんだよ。……それにしても、士方くんがこんな風にリラックスしている姿を見るのは、なんだか新鮮だなあ」
先生がお湯に浸かり、「ふぅーっ」と息を吐きながら隣に腰かける。
「そうですね。ゲヘナ線区で働いていると、休日であっても『いつ無線の緊急アラームが鳴るか』と気が気ではありませんから。こうして携帯端末をロッカーに預け、何にも追われずに湯に浸かるのは……実に三ヶ月ぶりかもしれません」
「三ヶ月……! それは本当にお疲れ様だよ……。毎日あんな過酷な現場を仕切っているんだから、今日くらいは思いっきり羽根を伸ばしてね」
「ありがとうございます。先生のお心遣い、身に沁みます」
リョウは爽やかな笑みを浮かべ、手桶でお湯を掬って肩から流した。
その時、銭湯の木製扉がガチャンと勢いよく開き、威勢の良い声が脱衣所から響いてきた。
「お〜いリョウ! やっぱりここか! 休みだからって一人でしっぽり湯に浸かりやがって〜!」
「維持長〜! 私たちも来ちゃいましたよ〜!」
入ってきたのは、同じく非番を勝ち取った保線員の澤田トシ、運転士の藤原ヨドキ、そして治安副長の野上ヒヨコだった。
「トシ、ヨドキ、ヒヨコ……。君たちも来たのか」
「当たり前だろ! リョウが休むってのに、俺たちだけで仕事なんてやってられるかよ! 今日のシフトは本校からの応援組に丸投げしてきたぜ!」
トシが豪快に笑いながら、ドボンとお湯に飛び込んで豪快な水しぶきを上げる。
「ちょっとトシさん! お湯を跳ね上げないでください! 私の髪が濡れるじゃないですか!」
ヒヨコ(※女湯との境目にある仕切り壁の向こうから声だけ参加)がぷんぷんと怒る声が聞こえる。
「ハハハ! 固いこと言うなヒヨコ! 今日はゲヘナ線区の『完全定時退勤&無事故達成・超大感謝祭』なんだからよ!」
ヨドキも手桶を片手に湯船に入り、リョウの反対側にドサリと腰掛けた。
「先生もいらしてたんですね! いやぁ、先生もついてますよ! 今日はリョウが休みの『奇跡の一日』ですからね!」
「あはは……みんな揃うと、やっぱり賑やかだね」
先生は苦笑しつつも、どこか微笑ましい気持ちで彼らのやり取りを見つめていた。普段は殺伐とした車内やホームでしか会わない彼らが、こうして無邪気に笑い合っている姿は、年相応の高校生そのものに見えた。
◆
湯上がりの大広間。
畳が敷き詰められた広々とした休憩所には、大きな扇風機が首を振り、冷たい風を送り届けている。
リョウたちは冷えた牛乳やフルーツ牛乳の瓶を手に持ち、円卓を囲んで腰ろろいでいた。
「くぅぅぅっ! 湯上がりのフルーツ牛乳! これがあるから人生はやめられねぇな!」
ヨドキが腰に手を当て、一気に瓶を干してプハッと息を吐く。
「まったく、品がないですねぇヨドキさんは。……あ、維持長、冷えたお茶と温泉卵のセットを買ってきましたよ。どうぞ」
ヒヨコが丁寧にトレイに乗せたお茶と温泉卵をリョウの前に差し出す。
「ありがとう、ヒヨコ。いつも気が利くね」
リョウが微笑んで卵を割り、出汁醤油をかけて一口で頬張る。
「……うむ。黄身の固まり具合が絶妙だ。素晴らしい」
至福の表情を浮かべるリョウ。その頭を、ヒヨコがどこか誇らしげに見つめている。
その様子を見ていた先生は、ふと気になっていた疑問を口にしてみた。
「ねえ、トシくん、ヨドキくん、ヒヨコちゃん。一つ聞いてもいいかな?」
「ん? なんだい先生?」
「みんな、すごく士方くんのことを頼りにしているし、慕っているよね。もちろん、士方くんの手際や戦闘力がすごいのは僕もこの目で見てよく分かったんだけど……みんなにとって、士方くんってどういう存在なのかなって」
先生の問いかけに、円卓の空気が一瞬だけ静まり返った。
ヨドキとトシは顔を見合わせ、それから手元の牛乳瓶を見つめて、少し照れくさそうに破顔した。
「……どういう存在、ねぇ」
トシがパイポを指で弄りながら、畳の上に胡坐をかき直した。
「先生、俺たち保線班はさ……正直、昔は荒れ放題だったんだよ。毎日毎日、温泉開発部にレールを爆破され、風紀委員会からは『管理不足だ』って怒鳴られ、本校からは『予算を削減する』って脅されてさ。……『どうせ明日も線路は壊されるんだ、適当に直して適当に時間潰せばいいや』って、みんな投げやりになってたんだ」
「トシくん……」
「それを変えたのが、あいつなんだよ」
トシはリョウの背中を顎でしゃくった。
「あいつがゲヘナ線区の治安維持長に着任した日のことを、俺は今でも忘れないぜ。着任早々、爆破されたKP4地点の現場に一人で立ってさ、泥だらけになりながら俺たちと一緒にバラス(砂利)を敷き詰めてんだ。『線路が壊されたら直せばいい。だが、乗客の命と私たちの生活(定時)だけは絶対に諦めない』ってな」
「……リョウはね、先生」
ヨドキが静かな口調で続けた。
「口数は少ないし、17時を過ぎると恐ろしい圧を出す変人だけどさ……誰よりも現場の人間を現場の仕事として尊重してくれるんだ。俺たちが1分遅延を出しても、絶対に俺たちの運転技術のせいにはしない。『遅延の原因は敵(障害物)にある。ならば私がその障害物を排除する』って言って、真っ先に一番危険な現場に飛び込んでいく」
「そうですよ」
仕切り壁の向こうから戻ってきたヒヨコが、自分の冷たいお茶を飲みながら、まっすぐな瞳でリョウを見つめた。
「維持長は、私たちの『頭』であり、ゲヘナ線区の『心臓』なんです。本校の偉い人たちがどれだけ理不尽な命令を出してこようと、どれだけ凶悪な暴徒が押し寄せてこようと、維持長が先頭に立っている限り、私たちは『自分の仕事』に誇りを持つことができる。……だから、私たちは維持長のためなら、240キロのドリフト走行だって、3分間の突貫保線だって、何だってやってやるって思えるんです」
「……みんな」
リョウは温泉卵を食べる手を止め、少し困惑したように眉を下げた。
「過分な評価だよ。私はただ……君たち優秀なスタッフが正当に評価され、怪我なく無事に家族のもとへ帰り、当たり前の給与と休日を得られるように、維持長としての職務を果たしているだけだ」
「それが一番難しいんだよ、このゲヘナ線じゃあな!」
トシがガハハと豪快に笑い、リョウの肩を力任せに叩いた。
「自分が一番身体を張ってんのに、手柄は全部俺たち現場に譲りやがる。そんな男を頭に担げるんだ、ハイランダーの男冥利に尽きるってんだよ!」
「本当です! 維持長、来週もバッチリ定時退勤決めましょうね!」
「ああ。君たちの力があれば、どんな困難も乗り越えられる」
リョウは力強く頷き、みんなに向かって爽やかな笑みを向けた。
その光景を横で見つめていた先生の胸に、温かな温もりが広がっていく。
(……そうか。僕は最初、彼らのことを『定時に異常に執着する変な集団』だとしか思っていなかった。……でも、違ったんだ)
過酷すぎる環境。救いのない日常。いつ命を落としてもおかしくない魔の路線。
そんな極限状態の中で、彼らは「定時退勤」というささやかで、けれど絶対的な誇りを旗印にして、お互いの絆を確かめ合っていたのだ。
リョウが仲間を守り、仲間がリョウの理想を支える。
あの神業のような10秒鎮圧も、命がけの曲芸走行も、すべてはこの固い「信頼」という線路の上を走っているからこそ成立していたのだと、先生は深く納得した。
「……士方くん」
先生は静かに呼びかけた。
「ん? なんですか、先生?」
「いつもゲヘナ線を守ってくれて、ありがとうね。君たちがいてくれるから、生徒たちも、僕たちも、安心してこの路線を使えるんだ」
リョウは一瞬だけ目を丸くした。
それから、照れくさそうに視線を落とし、羽織の袖で少し顔を隠しながら、ボソリと呟いた。
「……恐縮です。先生にそう言っていただけると、日々の過酷な業務も報われます」
「おおっ!? リョウが照れてるぞ!」
「珍しい! 写真撮っておこう! モモトークの公式に晒……じゃなくて、保存しておこう!」
「ちょっと、ヨドキ、トシ……からかわないでくれ」
顔をほんのり赤くして抗議するリョウ。先ほどまでの「頼れる頭」の顔から、年相応のかわいらしい生徒の顔へと戻っていた。
◆
夕暮れ時。
銭湯を出た一行は、赤く染まるアビドス砂漠の街道を、のんびりと歩いていた。
涼しい夜風が吹き抜け、火照った身体を心地よく冷やしてくれる。
「あ〜、良い休みだった! 明日からの仕事もバリバリこなせそうだぜ!」
トシが伸びをしながら叫ぶ。
「ですね! 明日の1620便はガスタービンの調子も絶好調ですから、遅延ゼロでお届けしますよ!」
ヨドキも嬉しそうに頷く。
「先生、本日はお付き合いいただき、ありがとうございました」
リョウは先生と並んで歩きながら、丁寧にお辞儀をした。
「ううん、こちらこそ楽しかったよ。士方くんたちの普段の姿が見られて、すごく良かった」
「はい。……明日からはまた、いつもの忙しない日常に戻ります。温泉開発部も、風紀委員会も、きっとまた騒ぎを起こすでしょう」
リョウは遠くに見える南ゲヘナ駅のシルエットを見つめた。その瞳には、すでに明日からの業務に向けた静かな闘志が宿っている。
「ですが……私と仲間たちがいる限り、ゲヘナ線は絶対に止めさせません。乗客の安全と、17時の定時退勤は、私が命に代えても守り抜きます」
「うん。頼りにしているよ。……でも、あまり無理はしないでね。君が倒れたら、トシくんたちも困っちゃうから」
「ふふ、心得ています。私には最高の仲間がいますから」
リョウは胸を張り、力強く頷いた。
遠くから、南ゲヘナ駅の構内アナウンスの鐘の音が、夕闇の中に優しく響いていく。
明日もまた、希望的観測と、過酷なドリフトと、10秒の鎮圧劇が繰り広げられるのだろう。
けれど、この絆がある限り、彼らの走る線路が途切れることは絶対にないのだ。