嵐の前の静けさとは、まさにこのことだろう。
早朝の南ゲヘナ駅。水平線から昇る朝日の光が、赤茶けた荒野と美しく磨き上げられた複線レールを鮮やかに照らし出していた。
ガスタービンエンジンの重厚なアイドリング音が心地よい低音を響かせ、ホームには始発列車の到着を待つ乗客たちの穏やかな話し声が漂っている。
「……ふぅ。今朝のコーヒーは、一段と香りが引き立ちますね」
シャーレの先生は、駅務室のバルコニーに置かれたパイプ椅子に腰掛け、マグカップから立ち上る湯気を楽しんでいた。
隣では、ハイランダー鉄道学園・ゲヘナ線区治安維持長の士方リョウが、同じようにマグカップを手に、静かに線路を見つめている。
背中の大きな黒い翼は朝日を浴びて艶やかに輝き、制服のシワひとつない完璧な立ち姿は、相変わらず一人の誇り高き鉄道職員としての品格に満ち溢れていた。
「ええ、先生。昨夜の保線班による線路磨きが完璧でしたからね。摩擦係数が安定し、今朝の始発便はコンマ一秒の狂いもなく定刻で各駅を通過しています。今日の気象条件、路面状態、車両コンディション……すべてにおいて満点です」
リョウは心底満足そうに目を細め、一口コーヒーを口に含んだ。
「この調子であれば、今日もまた17時ピッタリに業務を終了し、気持ちよく退勤できるでしょう。……平和とは、実に素晴らしいものです」
「維持長〜! 先生〜! 朝の定時運行レポート、全区間『遅延ゼロ』で確定しましたよ〜!」
治安副長の野上ヒヨコが、多機能端末を片手にパタパタと走り寄ってきた。その丸い瞳には明るい光が宿り、小さな小指が端末の上で軽やかに踊っている。
「よし、ヒヨコ。各配属の隊員たちにも労いの言葉をかけてやってくれ。……トシやヨドキも、今朝は機嫌よく整備に取りかかっているようだな」
リョウが視線を向けた構内の留置線では、保線員の澤田トシが愛用のスレッジハンマーをピカピカに磨き上げ、運転士の藤原ヨドキがガスタービンエンジンの吸気口を愛おしそうに拭き上げていた。
先の「16時59分の死闘」を経て、ゲヘナ線区のチームワークは完全に神域へと達していた。
どんな障害物が立ち塞がろうとも、彼らであれば17時の定時退勤という揺るぎない絶対防衛線を守り抜くことができる——誰もがそう確信していた。
だが。
キヴォトスという荒野において、「平和」ほど脆く、儚い幻想は存在しない。
ジジッ……ジジジジジッ……!
突如として、駅務室の壁に設置された高解像度メインモニターが、激しい砂嵐のようなノイズを発した。
「ん……? なんですか、このノイズ。本校からの定例回線でしょうか?」
ヒヨコが不思議そうに端末を操作しようとした、その直後であった。
ブゥゥゥゥン……!!
重低音の電子アラートとともに、画面の砂嵐がジャックされ、漆黒の背景に「GEHENNA DISCIPLINE COMMITTEE(ゲヘナ学園風紀委員会)」の鮮烈な金文字の紋章が浮かび上がった。
回線接続のセキュリティレベル:【最重要優先通信・拒否不能】。
「な……!? ハイランダー治安専用の独立回線が、外部から強行割り込みされている……!? 一体誰がこんな……!」
ヒヨコが素早くキーボードを叩き叩き、防壁を構築しようとするが、相手のハッキング精度と回線強度はハイランダーの本校メインフレームすら軽々とバイパスするレベルであった。
モニターの映像が切り替わる。
そこに映し出されたのは、洗練された高級感の漂うゲヘナ学園風紀委員会の行政官室。
そして、書類の山が整然と積まれた執務デスクの前に座る、一人の少女の姿であった。
サイドにつけた大きな黒いリボン、優雅に肩へと垂らされた銀髪、そして独特の開口部を持つ制服を身に纏い、冷ややかな、けれど極めて聡明な瞳でこちらを見下ろしている人物——。
ゲヘナ学園風紀委員会・行政官、天羽アコであった。
「……聞こえておられますか? ハイランダー鉄道学園・ゲヘナ線区、治安維持部の方々」
アコの声は、氷のように冷たく、澄み渡っていた。
手元には、厚さが十センチ以上はあろうかという分厚いファイルの山が、行儀よく数冊重ねられている。
「あ、アコ行政官……!?」
先生が思わず声を漏らした。
アコは画面越しに先生の姿を捉えると、ほんの少しだけ驚いたように眉をひそめたが、すぐに元の事務的で高圧的な表情へと戻した。
「あら……シャーレの先生もおられるのですね。こんな砂埃と鉄くずの匂いしかしないような辺境の駅区間に滞在されているとは、ご苦労なことです。……ですが、これはゲヘナ学園の自治権および管轄規律に関わる重大な公務です。お戯れは脇に置いていただきたいものですね」
「アコ行政官……。ハイランダーの独立回線へ無断で割り込むとは、いかな風紀委員会であっても不法侵入に該当しますよ。どのようなご要件でしょうか」
ヒヨコが端末を構え、警戒感を露わにしながら問い詰める。
アコはフッと小さく鼻を鳴らすと、手元のファイルの一冊をパラリとめくった。その洗練された動作の裏には、逃れられない獲物を追い詰める捕食者のような圧倒的な確信が満ちていた。
「不法侵入、ですか。ふふ……相変わらず、ハイランダーの方々は自らの不法行為を棚に上げて言葉を飾るのがお上手ですね。……私が本日、こうして直接通信を開いた理由。察しがついておられないわけではないでしょう?」
アコは細く白い指先で、一番上に置かれた赤いラベルのファイルトレイをトントンと叩いた。
「これらはすべて、過去数ヶ月間にわたって我が風紀委員会の監査監察室へ提出された、【ハイランダーゲヘナ線区における過剰防衛、不法戦闘、速度超過、および自治権侵害行為】に関する報告書の集積です」
「……何だと?」
構内で作業していたトシとヨドキが、通信の音を聞きつけて駅務室へと飛び込んできた。
アコは冷ややかな視線を画面越しに走らせ、手元の報告書を順に読み上げ始めた。
「まず第一。先週、KP4地点における温泉開発部との交戦において、貴線区の保線員および運転士が敢行したとされる『240km/h過酷ドリフト走行および未硬化セメントへの無謀進入』。これにより、周辺のゲヘナ所有地へ甚大な爆風被害および騒音公害が発生。さらに、路面損傷による二次災害の危険を無視した超法規的運行」
「あれは遅延を出さないための正当な運行技術だ!」ヨドキが叫ぶ。「脱線もさせてねぇし、乗客も全員無傷だぞ!」
「静かにしなさい」アコの瞳が一層冷たさを増す。「次に第二。便利屋68を車内で拘束した際、容疑者の写真を無断で撮影し、モモトークの公式チャンネルへ投稿した『見せしめ公開による人権侵害およびプライバシー保護法違反』。ゲヘナ学園の生徒である彼女たちを、ハイランダーの権限でネット上に晒し上げ、私刑(リンチ)に処す行為は、明確な管轄権の逸脱です」
「あれは犯行抑止のための防犯広報活動です!」ヒヨコが反論する。「現に、あの投稿以降、便利屋の持ち込み件数はゼロに落ちています!」
「結果が良ければ過程の違法性が許されるとでも? 随分と野蛮な理屈ですね」
アコは呆れたように息を吐き、最後の、そして最も厚いファイルを手に取った。
「そして第三。数日前の16時49分、KP8地点における我が風紀委員会・現場部隊に対する『不当な武力行使および無差別拘束』**。……我が方の風紀委員たちが、貴線区の治安維持長によってわずか数秒で武器を奪われ、手錠で連結されて放置されたという報告が入っています。……これはもはや、風紀委員会に対する**【明確な敵対行為および宣戦布告】と受け取らざるを得ません」
「な……っ! あれはそっちの風紀委員が勝手に線路の上で砲撃戦を始めたからだろ!?」トシが怒声を上げる。「あいつらが爆破したせいで、レールの100メートルが吹っ飛んだんだぞ! 邪魔な障害物を排除して何が悪い!!」
「学園の秩序を守るための風紀委員会の作戦行動を『邪魔な障害物』と言い切るのですね」
アコの声から感情が完全に消え去った。
「ゲヘナ線区は、確かにハイランダー鉄道学園が運行管理権を有しています。しかし、その線路が敷かれている敷地、および周辺の自治権は、すべてゲヘナ学園に帰属しているのです。貴方たちは、我が学園の懐の中で商売をさせていただいている立場に過ぎない。……それにもかかわらず、日常的な過剰防衛、凶器を用いた暴力、無法な暴走走行、そして風紀委員会への反逆……。あまりにも調子に乗りすぎたようですね」
「……」
アコの言葉は、極めて理詰めで、法規に基づいていた。
ゲヘナ線の職員たちが「運行と定時」を守るために行ってきた荒業の数々は、客観的な「法学文脈」で解釈されれば、どれも言い逃れのできない過剰防衛と違法行為の連続であったのだ。
ヒヨコも、トシも、ヨドキも、アコの完璧すぎる論理展開の前に言葉を詰まらせ、悔しそうに拳を握りしめることしかできない。
先生は、何とか間に入って穏便に収めようと前に出た。
「あ、アコちゃん、落ち着いて。彼らも悪気があってやっているわけじゃないんだ。ゲヘナ線の過酷な状況の中で、乗客の安全を一番に考えて——」
「先生。お言葉ですが、これはシャーレが介入すべき事案ではありません」
アコは容赦なく先生の言葉を遮った。
「これは、ゲヘナ学園の自治権と、ハイランダー鉄道学園の横暴に対する、正当な行政手続です。……これ以上、彼らの無法を放置すれば、ゲヘナ学園の威信は地に落ち、規律は完全に崩壊してしまいます」
アコは冷徹な手つきで、一通の赤い封ろうが押された正式な文書を画面に提示した。
『行政通告書:ゲヘナ学園風紀委員会・査察および特別指導の実施について』
「本日をもって、風紀委員会行政官室の権限により、ハイランダー・ゲヘナ線区に対する【全面的な現場監査および管轄権再編のための特別査察】を言い渡します」
「監……査……!?」
ヒヨコの声が引きつる。
「ええ。明日より、私自らが特別指導班を率いてゲヘナ線区へ直接乗り込みます。各列車の運行、治安維持の現場、保線作業のすべてに風紀委員を立ち会わせ、少しでも規定違反、速度超過、不必要な武力行使が認められた場合——即座に『該当列車の運行停止』および『関係職員の身柄拘束』を行います」
「運……運行停止だとぁぁぁッ!?」
ヨドキが絶叫した。
「そんなことをしたら、ダイヤがグチャグチャになるぞ! 遅延どころの話じゃ済まねぇ!」
「それが『規律を守る』ということです」
アコは冷笑を浮かべた。
「貴方たちの自慢の『定時運行』や『17時退勤』とやらが、いかに違法な暴力の上に成り立っていたか……身をもって理解していただきましょう。……拒否は認められません。もし査察を妨害する場合、ゲヘナ学園全域におけるハイランダー路線の運行許可を取り消します」
「くっ……!」
トシが歯噛みし、ヒヨコが青ざめた顔で絶望に打ちひしがれる。
風紀委員会という巨大な権力組織が、法規と行政手続という「正論のナイフ」を突きつけてきたのだ。これまでのように、力で暴徒をねじ伏せるような解決策は通用しない。
画面の中のアコは、勝利を確信したかのように、優雅に髪をすくい上げた。
「それでは……明日の朝、始発便から査察を開始します。せいぜい、今夜のうちに遺言でも整理しておくことですね。……失礼いたします」
プチッ。
通信が切断され、モニターは再び静かな黒へと戻った。
駅務室の中に、重苦しい、あまりにも重苦しい沈黙が落ちてきた。
「な……なんだよそれ……」
ヨドキが力なく壁に背中を預けた。
「監視つきの運行……? 少しでもスピードを出したら即運休……? そんなの……そんなの、どうやって17時に帰れってんだよ……!」
「保線だって同じだ……」トシが頭を抱える。「現場でイチイチ風紀委員の許可を取ってから作業しろってのか……? セメントの乾燥を待ってる間に、次の電車が突っ込んできちまうぞ……!」
「遅延……確定です……」
ヒヨコが涙ぐみながら、端末の画面を見つめた。
「明日の予定ダイヤ……風紀委員会の査察が入れば、最低でも各便につき『2時間以上の遅延』が発生します……。17時退勤なんて……絶対に不可能です……」
全員の心に、深い絶望の影が広がっていく。
暴力的な敵であれば、リョウを先頭に10秒で叩きのめせばよかった。だが、相手はゲヘナ学園の「法」と「行政」そのものなのだ。これに逆らえば、路線そのものが消滅してしまう。
先生もまた、どう言葉をかけていいのか分からず、胸を痛めていた。
その時であった。
これまで一言も発さず、静かにコーヒーカップを手にしていた士方リョウが——。
カチャン。
静かな音を立てて、カップをソーサーの上に置いた。
そして。
「………………」
リョウは、ゆっくりと顔を上げた。
その顔を見た瞬間、先生も、ヒヨコも、トシも、ヨドキも、背筋に冷たい氷を叩きつけられたような激痛を覚えた。
そこにあったのは、17時過ぎの「冷め切った狂気」でもない。
10秒鎮圧の「洗練された職人」の顔でもない。
これまで一度も見せたことのない、【心の底から鬱陶しがり、ゲッソリとげんなりしきった、極度に嫌そうな顔】であった。
眉間には深く、深すぎる溝が刻まれ、澄んでいた瞳は完全に光を失い、死んだ魚のような濁った暗闇と化している。引き結ばれた唇からは、今にも呪いの言葉が吐き出されそうであった。
「……士方……くん……?」
先生がおずおずと声をかける。
リョウは、重い、地球の重力すら増したかのような動作で、だるそうに頭を抱えた。
そして、深海のごとき暗闇から響くような、低く、低く、冷め切った声で呟いた。
「……あーあ」
その一言には、地球上のすべての労働者が抱く「絶望と嫌悪」が凝縮されていた。
「……また面倒くさいのが……残業の種を運んできた……」
「リ、維持長……!」
ヒヨコが息をのむ。
リョウは死んだ目をしたまま、だるそうに自分の手元のタイムカードを見つめた。今日まで綺麗に保たれてきた、誇り高き打刻欄。明日からの予定欄には、風紀委員会という最悪の行政介入によって、「残業」の二文字が嫌でも刻まれる未来が待っている。
「……行政通告。管轄権。超過走行の監察……」
リョウの呟きは、呪詛のように低く響く。
「……彼女たちは、勘違いしている。私たちが……好きで過剰防衛をし、好きで240キロを出しているとでも思っているのだろうか……」
リョウは力なく立ち上がり、壁に掛けられたショットガンを手に取った。その所作には、一切の熱量がなかった。ただただ、「面倒くさい作業」を押し付けられたサラリーマンの無力感と、それに対する底知れない憎悪だけが漂っている。
「……現場の苦労も知らず、書類の上だけで理屈を捏ねくり回し……私たちの『定時』を脅かす……。これだから、デスクワークのエリートというものは嫌いなんだ……」
「リョウ……お前、やる気か……!?」
トシがゴクリと唾を飲み込んだ。
リョウはゆっくりと振り返り、冷め切った瞳で仲間たちを見つめた。
「やる、とは何のことですか、トシ。相手はゲヘナ学園の行政官です。武力で排除すれば、それこそ路線の永久停止になり、私たちの『定時退勤』という権利そのものが永遠に失われます」
「じゃ、じゃあどうするんだよ! アコって女の言いなりになって、毎日何時間も残業しろってのか!?」
「いいえ」
リョウの瞳の奥で、恐ろしい、冷徹な計算の光がチラリと明滅した。
「……風紀委員会が『法規と監察』で攻めてくるというのなら、結構です。ならばこちらも、ハイランダーの【運行規律と完全なるマニュアル遵守】で応戦しましょう」
「マニュアル遵守……?」
ヒヨコが首をかしげる。
「ええ。彼女たちが求める『完璧で、安全で、規律正しい運行』を……完璧に、徹底的に、過剰なまでに実行してあげるのです。……羽沼アコ行政官が、自らの甘さを後悔し、『もう勘弁してください、勝手に走ってください』と泣いて謝るまで」
リョウの口元が、わずかに、本当にわずかに歪んだ。それは笑顔などではない。労働の権利を脅かされた労働者が浮かべる、復讐の笑みであった。
「ヒヨコ。明日の始発便のダイヤ修正案を作成しろ。風紀委員会の査察班が乗車するための『特別監視規定』を組み込む」
「は、はいっ!」
「トシ、ヨドキ。明日は一切の過失(ミス)を出すな。スピードも、制動も、保線も……すべて『マニュアルの極致』で見せつけてやる。……風紀委員会に、ゲヘナ線を走らせることがどれほど胃の痛む作業であるかを、全身で理解させてやるんだ」
「おう……! なんか分からねぇが、やってやるぜ!」
「リョウ維持長……! 私、ついていきます!」
仲間たちの瞳に、再び怪しい炎が宿り始めていた。絶望は消え去り、そこにあるのは「残業を強いる者」に対する徹底抗戦の構えであった。
先生は、そんな彼らの姿を見つめながら、背筋に冷や汗が伝うのを感じていた。
(……大変なことになったぞ。これまでのような『暴徒との物理的な戦い』じゃない……。今度は『法規と監察』を武器にした、ゲヘナ風紀委員会との全面泥沼戦争が始まるんだ……!)
窓の外では、夕闇が完全に荒野を包み込み、重く立ち込めた黒い雲が月光を遮っていた。
明日、南ゲヘナ駅に降り立つ羽沼アコと風紀委員会特別指導班。
彼女たちはまだ知らない。
自らが足を踏み入れようとしているのが、単なる鉄道線区ではなく——「17時退勤」のためなら法規すらも武器に変えて襲いかかってくる、狂気の労働者たちの底なし沼であるということを。