無銘の湖光 ~ランスロットとして目覚めた俺は、名を失っても世界を紡ぐ~ 作:カノープス・ギア
本作は、本文制作の大部分にAIを利用しています。
作者が物語の構成や設定、キャラクター、展開の方向性などを考え、それをもとにAIで本文を作成し、加筆・修正・調整・確認を重ねながら制作しています。
そのため、ところどころ文章が説明寄りに感じられる部分などがあるかもしれません。
また、作者はFateシリーズについて主にアニメから入った人間です。
原作ゲームや各媒体の細かな設定・違いなど、至らない部分もあるかと思いますが、できる限り確認しながら制作していきます。
一方でFGOは2016年からプレイしており、ランスロット〔セイバー〕は宝具・絆ともに長く育ててきた、特に思い入れのあるサーヴァントです。
セイバー層が薄かった自分のカルデアで、数多くの特異点やイベントを支えてくれた、思い出深いキャラクターでもあります。
そんなランスロットを主人公に、
「もし彼が別の人生を歩み、第五次聖杯戦争へ現れたら」
というところから、この物語を作り始めました。
原作を土台としつつ、独自設定やオリジナル展開、原作とは異なる未来も描いていく予定です。
「こういうFateも面白いな」と、一つの二次創作として楽しんでいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
頬が冷たかった。
板張りの床だと気づくまでに、少し時間がかかった。古い木と埃の匂いがして、その下から鉄錆に似た生臭さが立ちのぼってくる。
冷えているのは顔だけではなかった。指先も足も背中も、冬の夜気にすっかり熱を奪われている。それなのに、身体の左側の下にだけ、ぬるいものが広がっていた。
ぬるくて重く、まだ少しずつ広がり続けている。
血だ。
自分のものだと理解するより先に、身体が起き上がろうとした。床に手をついて上体を押し上げる、いつもどおりの動作のはずだった。
左手が、床に届かない。
左腕へ力を送ったつもりなのに、何も返ってこない。指を握った感覚だけが頭の中に残って、床板の固さも冷たさも伝わってこなかった。
視線を落とすと、上着の左袖が途中から先で、濡れた布切れのように平たく潰れていた。
――ああ。
声にはならなかった。思い出すというほどの時間もかからなかった。
聞き慣れた声。いつもと変わらない穏やかな調子。こちらが背を向けた、ほんの一瞬。
その先を追う前に頭の奥が白く焼けて、断片はそこで途切れた。
考えるより先に、右手が動いた。
左の傷口を探り、上から押さえつける。掌の下で、濡れた布が嫌な音を立てた。
指の隙間から、温かいものがまた溢れてくる。力が足りない。
力を込めているはずの右腕が、自分で思うほど言うことを聞いていなかった。
ルーンを。
血に濡れた人差し指で、床に覚えている形を描く。
一画目は引けた。二画目で指先が震えて、線が大きく逸れた。
魔力を通そうとした瞬間、視界の端から暗さが押し寄せてきて、組みかけた形が意味を失う。
もう一度。
引こうとした指が、床の上で止まった。どこまで描いたのかを、目で追えなかった。
内側へ、意識を向ける。
呼べば応えるはずの経路があった。熱く荒っぽく、こちらの都合などお構いなしに脈打っていた繋がりが。
探っても、何もない。切れた端すら見つからなかった。
令呪は、左腕にあった。
ランサー。
胸の内で呼んでも、返ってくるものはなかった。
耳の奥で、ちり、と何かが鳴った気がした。
実際の音ではない。館の入口に張っておいた簡易の結界が、何かを通した反応だ。
警報代わりに刻んだごく浅い仕掛けが、確かに侵入を告げている。
ーー誰だ。
最初に浮かんだのは、戻ってきた、という考えだった。
仕留め損ねたと気づいて、とどめを刺しに。
次に浮かんだのは、別の誰かだ。聖杯戦争はもう動き出している。
血の匂いに引かれた魔術師が、弱った獲物を拾いに来てもおかしくはない。
どちらでも、やることは変わらない。起きて、構えて、迎え撃つ。
右肘を床に立てた。そこまではできた。肩を浮かせようとしたところで腕が滑り、頬がまた床に落ちる。血を吸った髪が、べたりと顔に貼りついた。
足音が聞こえた。
玄関ホールの方から、硬い靴底が古い床板を踏んでいる。急いではいない。けれど、様子を窺ってためらう歩き方でもなかった。
一度、止まる。
それから向きを変えて、まっすぐこちらへ近づいてきた。
この部屋の扉は、開いたままのはずだ。閉める余裕などなかった。
右手が床を探った。何か、手の届くところに。指先は濡れた床板を掻いただけだった。
戸口に影が差した。
廊下の窓から入る薄明かりを背にして、人の形が立っている。顔は見えない。目を凝らそうとしても、焦点が滲んで合わなかった。
影は戸口で立ち止まらなかった。
床を踏む音が近づいてくる。低い視界の中に、黒い革靴が入ってきた。よく手入れされた、埃っぽいこの館には似合わない靴だった。その上に、同じくらい暗い色のスラックスの裾が見える。
靴は床に広がった血の縁で一瞬止まり――そのまま踏み越えた。
すぐそばで布の擦れる音がして、誰かが膝をついたのだと、少し遅れて分かった。そこが血溜まりの中だろうと、ためらう間はなかった。
首筋に、指が触れた。
身体が勝手に強張った。まだ強張るだけの力が残っていたことに、自分で驚く。
喉を潰されるのか。刃が来るのか。
どちらでもなかった。
二本の指が、顎の下の柔らかいところを軽く押さえている。場所を少しずらして、また押さえる。探っているのは、脈だ。
乾いた指だった。震えてもいないし、急いでもいない。こちらの喉を簡単に掴める位置にありながら、その指には掴むための力がまるで込められていなかった。
指はそのまま動かず、何かを数えるように、しばらくそこに留まった。
それから、顔のすぐ近くに気配が寄った。口元に手の甲らしきものがかざされ、自分の吐いた弱い息がそれに当たって返ってくる。
誰だ、と訊こうとした。
唇は動いたかもしれない。息は、音になる前にほどけた。
「……まだ、生きてる」
静かな男の声だった。
こちらに聞かせるというより、手元の事実を確かめているようだった。
あの声ではない。
それだけは分かった。それが良いことなのかどうかさえ、判断できなかった。敵なのか、そうでないのか。何者で、何をしにここへ来たのか。
確かめなければ。
そう思った端から、床の冷たさが遠のいていった。
痛みが、闇の底から彼女を引き上げた。
左の傷口を、掌が強く押さえつけている。すぐ上で声がした。
「悪い。痛むぞ」
もう痛い、と言い返したかった。喉から出たのは掠れた息だけで、それもすぐ歯の奥で潰れた。布が巻かれ、引き絞られる。締めつけが一段きつくなるたびに、瞼の裏で白いものが弾けた。
また、途切れる。
次に分かったのは、身体が床を離れたことだった。
頬に貼りついていた冷たさが、ふっと消える。背中と膝の裏に腕が回されていて、揺れは驚くほど少なかった。顔の近くで、布地の匂いがした。冬の外気と、埃と、自分の血の匂いが混ざっている。
柔らかいものの上に降ろされた。古い革が、わずかに沈む。
胸の奥へ、細いものが流れ込んでくる。
自分の魔力ではない。どこか異質で、けれど乱暴なところのない流れだった。冷えきって止まりかけたものの縁を、そっと支えるように巡っていく。術の形を読み取ろうとしたが、意識のほうが先にほどけた。
どれくらい意識を失っていたのかは分からない。
最初に戻ってきたのは、やはり痛みだった。左の傷口で、鈍い熱が脈を打っている。さっきまでの切り裂くような鋭さではなく、重く深く、身体の芯に居座るような痛みだった。
次に、温かさに気づいた。
首元まで毛布に包まれている。粗い織りの、少し黴くさい毛布だ。館のどこかに仕舞われていたものだろう。
その上に、もう一枚、別の重みがあった。
右手をわずかに動かすと、指先に滑らかな布地が触れた。毛布とはまるで違う、目の詰んだ生地だ。裏地がひやりとしている。
目を下ろすと、濃い色の上着が、毛布の上から胸元を覆うように掛けられていた。自分のものではない。肩幅が広すぎるし、袖も長い。片方の袖はソファの縁から垂れて、床に届きそうになっていた。
男物の、スーツの上着だった。
その持ち主を探して、視線を上げる。
部屋は薄暗かった。カーテンの隙間から青白い光が細く床に落ちている。天井の染みに見覚えがあった。拠点に使っている、冬木市郊外の洋館だ。外へ連れ出されたわけではなかった。
ソファから数歩離れたところに、背もたれのまっすぐな椅子が一脚置かれていた。
男は、そこに座っていた。
白いシャツに、濃い色のベスト。シャツの袖は肘の近くまでまくり上げられ、ネクタイは締めたまま、結び目だけが少し緩めてある。上着を脱いでいても、身体に合わせて仕立てた服だと一目で分かった。ベストの線は崩れておらず、そのぶん袖口と胸元に散った黒ずんだ染みがよく目についた。
乾きかけた血だ。考えるまでもなく、自分のものだった。
椅子は、ソファにも扉にも正面を向けていなかった。どちらも、首を少し回せば視界に入る角度で置かれている。窓も、彼の目の端にかかる位置だ。
何かが扉から入ってくれば、この男は立ち上がって一歩で、その前に出られる。
そう読み取ったのと、男がこちらを見たのは、ほとんど同時だった。
目が合う。男の視線は一度だけ扉のほうへ流れ、すぐに戻ってきた。
「気がついた?」
床の上で聞いたのと、同じ声だった。
答えるより先に、身体が動いていた。
右肘を座面に立て、上体を起こす。見知らぬ男の前で、横たわったまま話すわけにはいかない。
左肩で、痛みが爆ぜた。
息が詰まり、目の前が暗く沈む。持ち上げかけた背中から力が抜け、右肘が座面の上で滑った。
崩れ落ちる前に、肩の後ろを支えるものがあった。
いつ椅子を立ったのか、分からなかった。男はソファの傍らに片膝をつき、右の肩甲骨のあたりに掌を添えていた。押さえつけるでも、抱え込むでもない。倒れる勢いだけを殺して、彼女の背中をゆっくり座面へ戻していく。
「起きない方がいい」
背中がソファに着くと、手はすぐに離れた。
「血は止めた。でも、失った分はそのままだ。起き上がると、また気を失うかもしれない」
淡々とした口調だった。彼女は浅い呼吸を何度か繰り返した。暗く狭まっていた視界が、少しずつ元の広さへ戻ってくる。
「……あなたは」
掠れた声が、自分のものとは思えないほど遠かった。
「あなたは、誰です」
「それも話すよ」
男は片膝をついたまま、すぐには答えを続けなかった。
「先に、少しだけ確かめさせてくれ。息は苦しくない?」
彼女は短く息を吸った。
「……いいえ」
「寒気は」
「……少し」
「だろうな。ここは冷える」
男は、ずり落ちかけていた上着の襟を毛布の上で直した。顎に指が触れないよう、襟の端だけをつまんで。
彼女は、自由になる右手を毛布の下の左肩へやった。
布が幾重にも巻かれている。固く、きつい。その下で、熱と痛みが重く脈打っている。そこから先には、何もなかった。
分かっていたことだ。確かめても、何も変わらなかった。
「……あなたが、これを」
「ああ。できる範囲で」
男の視線は、彼女の左肩ではなく、その手前の毛布の縁のあたりに落ちていた。
「縛って血を止めて、冷やさないようにして、あとは少し手を貸しただけだ。応急処置の域を出てない」
少し手を貸した。あの、胸の奥を巡っていった異質な流れのことだろうか。
「ちゃんとした治療が要る。それも、なるべく早く。俺じゃ、ここから先はどうにもできない」
男はそれだけを言うと、口を閉じた。
彼女は視線を巡らせた。扉、窓、それから床。
ソファの脚のそばに、見慣れた鞄が置かれていた。自分の荷物だ。右手を伸ばせば届く位置にある。
「荷物は、鞄のそばにまとめておいた。中は開けてない」
こちらの視線を追ったのか、男が言った。
武器になりうるものを、わざわざ手の届く場所へ戻している。敵意がないからか。それとも、何を持たせても脅威にならないと踏んでいるのか。今の彼女には、どちらとも決められなかった。
男が立ち上がった。ソファから離れ、元の椅子へ腰を下ろす。座る前に、もう一度だけ扉のほうへ目をやった。
冷えきった部屋で腕を晒しているのに、寒がる素振りはなかった。
今は起き上がれない。それでも、相手の素性くらいは確かめておきたかった。
右手で、毛布の端を握る。声に力を込めようとしただけで息が上がったが、目は逸らさなかった。
「話す、と言いましたね」
男は椅子の上で、こちらへ向き直った。
「聞かせてください。あなたが、何者なのか」
男は口を開きかけた。
彼女は改めて男を見た。
目で見るのとは別のやり方で。薄れかけていた感覚を、意識してそちらへ向ける。額に冷たい汗が滲んだが、やめなかった。
答えは、すぐに見つかった。
人の気配ではない。
生きた身体の内側を魔力が巡っている、というのとは違った。形そのものが、濃く練り上げられた魔力でできている。そこに座っているだけで、部屋の空気が一段重く沈むような密度があった。
知っている感覚だった。ついこの間まで、すぐ隣に置いていたものと同じ種類の。
凍えた部屋で上着も着ずに平然としているのも、床から抱え上げた自分をほとんど揺らさなかったのも、椅子を立つ瞬間が見えなかったのも。
胸の奥を巡っていった、あの異質な流れも。
「……いえ」
男が答えるより先に、彼女は言った。
「サーヴァントですね」
男の目が、わずかに見開かれた。それから、口の端がほんの少し緩む。
「ああ。……話が早いな」
否定はなかった。男は膝の上で組んでいた指をほどき、椅子の背に軽くもたれた。
「サーヴァントって言葉がそっちから出てくるなら、細かい説明はいらないか」
「クラスは」
「ーーセイバー」
剣の英霊。
男の手元に剣は見当たらない。袖をまくった腕も、ベストの胸元も、身なりのいい男のものにしか見えなかった。それでも、今感じ取った密度を疑う余地はない。
サーヴァントには、それを繋ぎ止めるマスターがいる。この戦争に名を連ねた誰かの駒が、自分を拾ったことになる。
誰の差し金かは、あとでいい。先に知るべきは、何のためか、だった。
情報か。人質か。それとも、サーヴァントを失った魔術師にも、まだ使い道があると踏んだのか。
「なぜ、私を助けたのです」
声が途中で掠れた。一度、息を継ぐ。
「無理に声を張らなくていい。ちゃんと聞こえてる」
男はそう言って、上体を少しだけこちらへ傾けた。椅子の向きは、変えないままで。
「なぜ、か」
問いを確かめるように繰り返してから、男は言った。
「まだ生きてたから」
それで、終わりだった。
彼女は続きを待った。
助けたのは、まだ生きていたから。その先に来るはずのものを。条件でも、取引でも、要求でもいい。命の値段をどこで取り立てるつもりなのか。それを聞いてから、どう対処するかを決めるつもりでいた。
男は何も足さなかった。
答えはもう渡した、という顔で、ただこちらを見ている。返事を促す様子もなく、彼女が浅く息を継ぐと、その胸元へ視線を落とした。
カーテンの向こうで、冬の風が窓硝子を小さく鳴らした。男の視線が一度だけそちらへ流れ、また戻ってくる。
「……それだけ、ですか」
「それだけ」
少し間を置いて、男は付け足した。
「信じにくいなら、それはそれで構わないよ」
ついさっき、信じていた相手に背を向けて、この有様になったばかりだ。落ち着いた声だからというだけで、受け入れるわけにはいかない。
だが、取引のつもりなら出てくるはずの条件が、一つも出てこなかった。
「……分かりました」
分かったわけではない。ただ、同じことを何度問い直しても、この男からは同じ答えしか返ってこない気がした。
男は小さく頷いただけだった。
今は、そう受け取っておく。
彼女は乾いた唇を湿らせた。喉の渇きは引かなかったが、確かめるべきことはまだ残っている。
「あなたの真名を、聞かせてもらえますか」
問いながら、答えが返ってくるとは思っていなかった。
サーヴァントの真名は、そのまま弱点の地図になる。伝承を辿れば、生まれも、得手も、どう死んだかも見えてくる。まともなマスターなら、まず伏せさせる。断られたなら、それも一つの答えだった。
「ランスロット」
男は、あっさりと言った。
彼女はその名を、一度胸の内で繰り返した。
知らない名であるはずがなかった。円卓の騎士。湖の騎士。古い写本にも子供向けの絵本にも、幾度となく書き記されてきた名だ。円卓に連なる騎士たちの中でも、ことに名高い一人の。
その名と、目の前の男を重ねようとする。
まくり上げた袖。袖口に黒ずんだ、自分の血。顎に触れないよう、襟の端だけをつまんで上着を直した指。扉と窓とこちらを、同時に視界へ収める椅子の角度。
甲冑も、馬も、槍試合の喝采もない。あるのは、夜更けの冷えた部屋で、見ず知らずの怪我人の顔色を見ている男だけだった。
重ならない、とは思わなかった。ただ、どこでどう重なるのかが、まだ見えなかった。
「……ずいぶん、あっさりと明かすのですね」
「今は、話しておいた方がいいと思ってね」
ランスロットは、少し困ったように笑った。
真名まで明かしていいと、主から言われているのか。
「あなたのマスターは、どこにいるのです」
ランスロットはすぐには答えなかった。膝に置いた手の、親指が一度だけ動いた。
「いないんだよね」
「……いない?」
「召喚された覚えがない。呼んだ相手の顔も見てないし、どこかと繋がってる感じもしない。気がついたら、もうこっちに立ってた」
指先で、自分の胸のあたりを軽く叩く。
「どうしてこうなったのかは、俺もよく分かってない」
彼女はもう一度、薄れかけた感覚をランスロットへ向けた。
さっき感じ取った密度は、変わらずそこにある。濃く、重い。けれど、今度はそれだけではなかった。
ふっと、その気配が遠のいた。
風に煽られた灯のように、一呼吸ぶんだけ輪郭が薄くなり、すぐに元へ戻る。その一瞬、膝の上でランスロットの指がわずかに強張ったのを、彼女は見逃さなかった。
「……マスターなしでは、長く現界を保てないはずです」
「うん。だから、長くはもたないと思う」
否定はなかった。
「今ある力で、どうにか保ってるんだと思う。いつまでかは、分からない」
自分が擦り減っていく話を、ランスロットは淡々と口にした。ただ、その先は続かなかった。
胸の奥を巡っていった、あの流れを思い出す。
あれも、この男の手持ちの力から回していたのか。いつまで立っていられるか、自分でも分からないというのに。
何か言いかけて、彼女は口を閉じた。何を言えばいいのか、分からなかった。
ランスロットの視線が、一度窓のほうへ流れて、また戻る。
誰かの命令で自分を拾った――その前提が揺らいだ。話が本当なら、この男は何の見返りも約束されないまま、あの床に膝をついたことになる。
沈黙が落ちた。
向こうは真名を渡した。自分の置かれた状況も、隠さずに話した。そのうえで、こちらには何も訊いてこない。
名前まで渡すつもりはなかった。けれど、何ひとつ返さずに受け取ったままでいるのは、どうにも据わりが悪かった。
「……私にも」
口にしてから、一度息を継いだ。
「私にも、サーヴァントがいました」
ランスロットは黙って、続きを待った。
「契約は、もうありません。令呪も」
右手で、毛布の上から左肩に触れる。巻かれた布の固さが指に返ってきた。
「……奪われました」
それ以上は言わなかった。誰に、とも、どうやって、とも。
ランスロットの視線が、彼女の左肩へ一度だけ落ちた。それから、また顔へ戻ってくる。
「……そうか」
それだけだった。
誰に奪われたのか、訊いてはこなかった。
話せることは、たぶん、ここまでだった。
そう思った途端、身体の重さが一度に押し寄せてきた。
毛布を握っていた右手から、力が抜けていく。天井の染みが滲んで、二重に見えた。瞼が、自分のものではないように重い。張り詰めさせていたものが、話し終えた隙間から少しずつ漏れ出していく。
閉じかけた目を、彼女はもう一度、無理に開いた。
「悪い。話させすぎたな」
いえ、と返そうとした。たった一言のはずなのに、それが喉まで上がってくるのにずいぶん時間がかかった。
「……いえ」
眠ってはいけない、と思った。
扉の向こうには、暗い廊下が続いている。一度は背を向けた相手に腕を持っていかれた。仕留め損ねたと知れば、戻ってくるかもしれない。血の匂いを嗅ぎつけた別の誰かが来ないとも限らない。
それに、目の前の男のことも、まだ本人の口から聞いただけだ。
毛布の端を握り直す。指先に、さっきほどの力が入らなかった。
扉を見ていようとした。視線はそこにあるのに、木目の輪郭がゆっくり滲んで、どこを見ているのか分からなくなっていく。
ランスロットが、椅子の上で少し身を乗り出した。膝に肘をつき、組んだ手の上に顎を寄せる。椅子の位置は変わらなかった。
「血の気は、さっきよりは戻ってる。だから、今のうちに休んだほうがいい」
少しだけ間を置いて、ランスロットは言い直した。
「もう少し、寝ててくれないかな」
命令ではなかった。頼みごとをするときの声だった。
「……まだ、話は」
「うん。続きは、起きてからでいい」
「ここは、安全な場所ではありません」
言いながら、声がかすれていくのが分かった。
「眠っている間に、何が来るか」
「だろうね」
ランスロットはあっさり頷いた。そんなことはないとも、大丈夫だとも言わなかった。
「だから、外は俺が見てる。何か来たら起こすよ。起こす前にどうにかできそうなら、そうする」
それでも、引っかかるものがあった。
「……あなたには、時間がないのでしょう」
自分の口から出た言葉に、少し驚いた。問い詰めるつもりで言ったのではなかった。
ランスロットは一瞬、言葉に詰まったように見えた。それから、小さく肩をすくめる。
「俺の方は、もう少し考えてみるよ。君は今、無理して付き合わなくていい」
組んでいた手をほどいて、彼は椅子の背にもたれた。
「今は、そっちが寝る番だ」
彼女は、しばらくその男を見ていた。
分からないことは、まだ山ほどある。けれど、その男が最後に求めてきたのは――もう少し寝ていてほしい、それだけだった。
張り詰めさせていたものが、少しだけ緩んだ。気が抜けた、と言ったほうが近いかもしれない。
椅子は、扉とソファのどちらにも目を配れる角度に置かれたままだった。目を覚ます前から、ああして見張っていたのだろう。
胸の上では、男物の上着が、浅い呼吸に合わせてわずかに上下している。
ここで一人で構え続けているのが、少しだけ馬鹿らしくなった。
名前は、まだ渡していない。これからどうするのかも、何ひとつ決めていない。
それでも、今は。この男の言葉に甘えておく。
「……では、少しだけ」
ランスロットの目元が、わずかに緩んだ。
「ああ。おやすみ」
それだけ言うと、彼の視線はこちらから扉のほうへ移った。
目を閉じる。
暗くなった瞼の裏に、音と重みだけが残った。
胸の上の、上着の重み。最初はひやりとしていた裏地が、いつの間にか自分の体温で温まっている。
窓硝子を鳴らす風。古い館のどこかが、寒さに軋む音。
椅子がかすかに鳴って、衣擦れが一度だけした。立ち上がる気配ではない。座ったまま、向きを少し変えたのだろう。窓のほうか、扉のほうか。
あの濃い気配は、少し離れた場所に、変わらずあった。
礼を言いそびれた、と思った。
それも、起きてからでいい。
夜明けまでは、まだ少しあった。