無銘の湖光 ~ランスロットとして目覚めた俺は、名を失っても世界を紡ぐ~ 作:カノープス・ギア
第8話『Waypoint』で、次の目的地を決めたランスロットとバゼット。
一方、衛宮士郎たちの周囲でも、聖杯戦争は静かに動き始めていました。
第9話『Saber』、お楽しみください!
朝の坂道は、いつもと同じ顔ぶれで混んでいた。
自転車を押して上がる一年生、単語帳を片手に歩く三年生、後ろから追い抜いていく運動部の朝練組。衛宮士郎はその流れの中を、普段より少しだけ遅い足取りで上っていく。
腹の傷は塞がっている。昨日は一日、布団から出るのにも苦労したというのに、今朝は制服のボタンを留める手にも不自由はなかった。治った理由は自分でもよく分からない。分からないまま、こうして鞄を提げて学校へ来ている。
セイバーは家に残してきた。日のあるうちに戻ると告げたが、納得した顔ではなかった。とはいえ、授業中まで彼女を連れ歩くわけにもいかない。
校門をくぐる。
その一歩で、舌の奥に薄い甘さが広がった。
砂糖を煮詰めすぎた鍋のそばに立ったような、粘つく空気。数日前から時々感じていたものが、今朝ははっきり分かる。周りの生徒は誰も足を止めない。あくびをして、笑って、昇降口へ吸い込まれていく。
士郎は一度だけ校舎を見上げてから、その後に続いた。
「衛宮。もう出てきて平気なのか」
下駄箱の前で、柳洞一成が眼鏡の奥の目を細めた。
「ああ。一日寝たら治った」
「ならいいが、無理はするな。……それと、治って早々に済まんのだが、生徒会室のストーブがまた臍を曲げていてな」
「放課後に見るよ。芯が傷んでるだけなら、替えればすぐ直る」
「助かる」
一成は短く頭を下げ、先に階段を上がっていった。
教室では藤村大河が出席簿を振り回しながらホームルームを始め、一限目の途中で誰かの腹が鳴って笑いが起きた。黒板の字を写し、教科書をめくる。窓の外では、体育の授業のクラスがグラウンドを走っている。
二限目の後の休み時間、廊下で間桐慎二とすれ違った。女子を二人連れていて、士郎に気づくと片手だけ上げる。
「よう衛宮。休んでたんだって? まだ顔色悪いんじゃないの」
「もう平気だ」
「ふうん。ま、いいけど」
それだけ言って、慎二は笑い声と一緒に廊下の先へ歩いていった。
士郎は窓際へ寄った。
三階から見下ろす校舎裏に、見覚えのある赤い上着がある。遠坂凛が、植え込みの手前でしゃがんでいた。靴紐を結び直しているようにしか見えない。だが、右手は紐ではなく校舎の基礎のあたりに触れていて、しばらく動かなかった。
立ち上がった凛が、こちらを見上げる。
目が合った。凛は表情を変えずに、人差し指で一度だけ上を指し、そのまま何事もなかったように歩き去った。
屋上。たぶん、昼に。
士郎は窓から離れ、次の授業の教科書を出しに席へ戻った。
◇
昼休みの屋上は、風が強くて人がいない。
給水塔の陰に入ると少しはましになる。凛は先に来ていて、フェンスにもたれて校庭を見下ろしていた。士郎が弁当の包みを持って近づくと、振り返らずに口を開く。
「衛宮くん。校門を入った時、何か感じた?」
「甘ったるい。前からあったけど、今朝は濃くなってる気がした」
「そう。それ、気のせいじゃないから」
凛はようやくこちらを向いた。
「学校全体に結界が張られてる。敷地をまるごと囲む形でね。朝から起点を探して、見つけた分は弱めて回ってるんだけど、消せないのよ。少し経つと元に戻る」
「戻るって」
「私の手じゃ、遅らせるのが精一杯ってこと。並の魔術師の仕事じゃないわ。誰が張ったのかも、まだ言えない」
凛は悔しそうな顔もせず、分かっていることを順に並べていく。
「今はまだ未完成。だからあなたも『甘い』くらいで済んでる。でも完成して発動したら、中にいる人間はまとめて持っていかれる」
「持っていかれるって、何を」
「体力、魔力、その先の命まで。身体の弱い人から順に倒れるでしょうね。全校生徒と教師、その時間に敷地にいた全員が対象よ」
士郎は校庭を見た。
昼休みのグラウンドでは、サッカーボールを蹴り合う一団がいる。渡り廊下を、パンの袋を抱えた女子が小走りに抜けていく。職員室の窓の向こうでは、藤ねえが今ごろ弁当を広げているはずだった。弓道場の屋根も、ここからなら端が見える。
さっき教室で笑っていた連中の顔が、一人ずつ浮かんだ。
「遠坂。俺は何をすればいい」
「止められないのか、とは訊かないのね」
「訊いても、遠坂が止められるならもうやってるだろ。だったら、手が足りないところを教えてくれ」
凛は少しの間、士郎の顔を見ていた。
「起点には触らないで」
最初に返ってきたのは、してはいけないことの方だった。
「あなたが心配なのは分かる。でも、術式を読めない人間が力任せに触れば、張った相手に気づかれるか、最悪そこから崩れて発動が早まる。それは私がやる仕事」
「分かった。触らない」
士郎は頷いてから、続けた。
「ただ、場所なら分かると思う。濃いところと薄いところがあるんだ。今朝も、昇降口より階段の踊り場の方がきつかった」
凛の眉がわずかに上がる。
「……場所の当たりがつくの?」
「何となくだけど。放課後、生徒会室のストーブを直しに行く約束がある。ほかにも、頼まれてる備品がいくつか残ってるんだ。俺が工具箱を持って校内をうろついてても、誰も変だとは思わない」
「なるほどね」
凛は顎に指を当て、短く考えた。
「じゃあ、こうしましょう。濃いと感じた場所は、見つけたら位置だけ覚えて私に教える。印もつけない、近づきすぎない。それがひとつ」
「ああ」
「もうひとつ。こっちの方が大事。人を見て」
「人?」
「弱めても元に戻るなら、仕掛けた相手が様子を見に来ている可能性もあるわ。用もないのに同じ場所で立ち止まる人。放課後、理由もなく残ってる人。普段と動きが違う人。私は起点にかかりきりになるから、そこまで目が回らない」
凛は校舎の方へ視線を流した。
「それに、この学校の人間の『普段』を知ってるのは、私よりあなたの方でしょう。誰がどの部活で、いつもどこにいるか」
「まあ、だいたいは」
「なら適任。怪しいと思っても、その場で問い詰めないこと。相手がマスターなら、あなた一人じゃ対処できない。今のあなたは、サーヴァントを連れてないんだから」
言い方はきついが、遠坂の言うことはもっともだった。今ここにセイバーはいない。
「分かった。見たことだけ持って帰る」
「よろしい」
「それと、遠坂。今日のことはセイバーにも話す。学校の話でも、あいつに黙ってていい話じゃない」
「当然でしょ。むしろ、帰ったら真っ先に伝えなさい。発動した時に動けるのは、結局サーヴァントなんだから」
凛はフェンスから背を離した。
「私は放課後、残りの起点を当たる。あなたは暗くなる前に帰ること。備品の修理で遅くなりました、は今日は無し」
「ストーブ一台なら、日が落ちる前に終わる」
「ならいいわ」
予鈴が鳴った。
凛は先に扉へ向かい、ノブに手をかけたところで一度だけ振り返る。
「衛宮くん。濃い場所、踊り場って言ったわよね。どこの階段?」
「東側。二階と三階の間」
「そこ、まだ見つけてなかった」
短くそう言って、凛は階段を下りていった。
士郎は開けそびれた弁当を包み直し、もう一度校庭を見下ろした。サッカーをしていた連中が、ボールを抱えて校舎へ駆け戻っていく。
甘い空気は、屋上にも薄く届いていた。
放課後はストーブを直して、校内を一回り見て、日が落ちる前に帰る。そしてセイバーに話す。
順番を頭の中で並べてから、士郎も扉へ向かった。
◇
生徒会室のストーブは、やはり芯だった。
替えを入れて火の回りを確かめ、工具箱を提げて校内を一回りする。東階段の踊り場、体育館へ続く渡り廊下の柱、それから弓道場の裏手。甘さが濃いと感じたのはその三か所で、どこにも足を止めている人間はいなかった。士郎は約束どおり何にも触れず、場所だけ頭に入れて校門を出た。
商店街でたい焼きを四つ買ったのは、朝のセイバーの顔を思い出したからだ。
衛宮邸の門をくぐる頃には、日は西の屋根の少し上まで下りていた。
「ただいま」
玄関の戸を引くと、廊下の奥から足音が近づいてくる。白いブラウスに青いスカートのセイバーが、板の間の端で立ち止まった。
「おかえりなさい、シロウ。日が落ちる前に戻りましたね」
「約束したからな。これ、土産」
紙袋を差し出すと、セイバーの視線が袋へ落ち、それから士郎の顔へ戻った。
「……温かいものの匂いがします」
「たい焼き。魚の形をしてるけど、中身は餡子だ。お茶を淹れるから、居間で待っててくれ」
「はい」
返事は短かったが、居間へ向かう足は心なしか早かった。
台所で湯を沸かし、急須に茶葉を入れる。居間に戻ると、セイバーは卓の前に正座して、皿に移されるのを待つ紙袋をまっすぐ見ていた。士郎が二つずつ皿に分けて置くと、彼女は両手で一つを持ち上げ、頭の方から小さくかじった。
しばらく、噛む音だけがした。
「どうだ?」
「皮が香ばしい。餡は甘いのに、後に残りません。……尾の先まで入っているのですね」
「そこの店は、そういうところが律儀なんだ」
「良い仕事です」
真面目な顔でそう評して、セイバーは二口目に進んだ。士郎も自分の分を手に取る。湯呑みから上がる湯気が、障子越しの西日の中でゆっくりほどけていく。
一つ目を食べ終えたところで、セイバーが湯呑みを置いた。
「シロウ。学校で何がありましたか」
「顔に出てたか」
「門を入ってきた時から、何かを数えているような目をしていました。菓子を買ってくる余裕はあっても、それを忘れてはいない」
士郎は湯呑みを両手で包んだ。もとより話すつもりだった。
「学校に結界が張られてる。敷地全部を囲む大きさで、遠坂が朝から調べてた。まだ完成してないけど、完成して発動したら、中にいる人間は体力も命もまとめて吸い上げられる。誰が張ったのかは分かってない」
セイバーの背筋が、わずかに伸びた。
「凛はそれを解けないのですか」
「起点を弱めて、完成を遅らせるのが精一杯だって言ってた。弱めても、しばらくすると元に戻るらしい」
「では、術者が今も近くにいるか、通っている可能性はありますね」
「遠坂もそう見てる」
セイバーは卓の上の一点を見つめ、少し考えてから顔を上げた。
「シロウ。明日からは、学校へ行くべきではありません」
予想していた言葉だった。
「発動すれば、貴方も中にいる一人です。私は昼の間、貴方の傍にいない。その状況で、敵の用意した陣の中へ毎朝入っていくのは、護衛として認められない」
「セイバーの言ってることは分かる」
士郎は頷いてから、続けた。
「でも、行かないって選択はできない。あそこには藤ねえがいる。桜も、一成も、名前くらいしか知らない一年生もいる。あいつらは何も知らずに明日も来るんだ。俺だけ知ってて、俺だけ来ないっていうのは、できない」
「貴方がそこにいても、発動を止められるわけではないでしょう」
「止められない。だから、止める前の仕事をもらってきた」
セイバーの眉が動く。
「仕事、とは」
「遠坂が起点にかかりきりになる間、俺は人を見る。用もないのに同じ場所に立ってる奴、放課後に理由もなく残ってる奴。それと、結界が濃い場所を見つけたら、触らずに遠坂へ伝える。今日は三か所あった」
「貴方には、その濃淡が分かるのですか」
「何となくな。それに、あの学校の普段を知ってるのは遠坂より俺の方だ。誰がいつもどこにいるか、だいたい分かる」
セイバーは黙って聞いていた。反論を組み立てているというより、士郎の言葉を一つずつ置き場所へ収めているように見えた。
「怪しい者を見つけた場合は」
「その場では問い詰めない。見たことだけ持って帰る。遠坂にもそう釘を刺された」
「……凛の判断は妥当です」
セイバーは小さく息をついた。
「納得したわけではありません。ですが、貴方が退かない理由は理解しました。そして、ただ居合わせるのではなく、役目を持って行くのだということも」
「ああ」
「であれば、私からも条件があります」
碧い目が、まっすぐ士郎を捉える。
「一つ。発動の兆しを感じたら、迷わず令呪で私を呼んでください。空気が変わる、人が倒れ始める、どの段階でも構いません。惜しんではいけない」
「分かった。呼ぶ」
「二つ。今日のように、日のあるうちに戻ること。三つ。貴方が見つけた三か所を、後で私にも教えてください。学校の造りを知らないままでは、呼ばれた時にどこへ向かうべきか判断できません」
「見取り図を描くよ。夕飯の後でいいか」
「お願いします」
そこでようやく、セイバーの肩から少し力が抜けた。彼女は皿に残った二つ目のたい焼きへ目を落とし、それから士郎の皿を見る。
「シロウ。貴方の分が冷めます」
「あ」
言われて、手つかずの二つ目を持ち上げた。皮はまだほんのり温かい。セイバーも自分の分を取り、今度は尾の方からかじった。
茶を淹れ直し、空いた皿を流しへ運ぶ。廊下へ出ると、庭に面した硝子戸から橙色の光が斜めに差し込んで、板の間に桟の影を長く伸ばしていた。土蔵の白壁が夕日に染まり、庭木の枝先だけがまだ明るい。
米を研いでおくか、と台所へ足を向けかけた時だった。
からん、と。
天井のどこかで、鈴に似た音が一度だけ鳴った。
士郎の足が止まる。切嗣が屋敷に残していった結界の音だ。誰かが、門の近くまで来ている。
居間の障子が開いた。セイバーはすでに立っていて、廊下へ出ると迷わず玄関の方角へ顔を向けた。
「シロウ、聞こえましたね」
「ああ。誰か来た」
「二人です。門の外に」
セイバーの声が低くなる。
「一人は人間。もう一人は……普通の人間ではありません。気配を抑えていますが、この近さなら分かる」
「サーヴァントか」
「その可能性が高い」
士郎は息を詰めた。あの夜、土蔵へ追い込まれた時の冷たさが背中に戻りかける。だが、鈴は一度きりで、塀を越える音も、門を破る音も続かなかった。
「入ってこないな」
「はい。門の前で止まっています。動く様子もない」
セイバーは玄関の方を見据えたまま言った。
「踏み込んでこないのは事実です。ですが、それは敵意がないという証明にはなりません。誘い出すために待つ者もいる」
「逆に、訪ねてきただけって可能性もあるんだろ」
「否定はしません。どちらとも、まだ判断できない」
「なら、確かめに行こう」
セイバーが振り向いた。
「私が一人で出ます。シロウは中に」
「いや、俺も行く。ここは俺の家だ。客なら俺が出るのが筋だし、客じゃないなら、なおさらセイバーだけに押しつけて奥で待ってるわけにはいかない」
「シロウ」
「セイバーの前には出ない。それは守る。ただ、相手が口を利くつもりなら、話すのは俺がやる」
短い間があった。セイバーは士郎の顔を見て、それから一度だけ頷いた。
「分かりました。私の左後ろ、二歩の位置に。門を開けるのは、私が合図をしてからです。何かあれば、すぐに母屋へ下がってください」
「了解」
二人は玄関へ向かった。
士郎が靴を履く間に、セイバーは先に土間へ下り、引き戸を静かに開ける。外の空気は昼より冷えていた。西の空は橙から茜へ変わりかけ、敷石の上には二人分の影が長く落ちる。
セイバーは鎧をまとっていなかった。それでも、ブラウスの背中は戦いの夜と同じ線を描いている。右手は下げたまま、指だけがわずかに開いていた。
庭を抜ける。砂利を踏む音が、やけに大きく聞こえた。
門扉の向こうは静かだった。話し声も、足を踏み替える音もしない。ただ、板一枚を隔てた先に誰かが立っている。士郎にも、それくらいは分かった。
セイバーが門の手前で足を止め、扉の合わせ目から半歩だけ左へずれた。開いた瞬間、士郎と外との間へ身体を入れられる位置だ。
彼女は扉を見たまま、小さく言った。
「シロウ」
「ああ」
士郎はセイバーを追い越さないよう、門扉の脇へ寄って閂に手をかけた。冷えた木の感触が掌に伝わる。
セイバーが頷く。
士郎は、閂を横へ引いた。
扉が内側へ開くと、門前の道に二つの人影があった。
手前に立っているのは、赤毛の女性だった。短く整えた髪、背筋の伸びた立ち姿。年は士郎よりいくつも上だろう。こちらを見る目は落ち着いていた。
その上着の左袖が、肘の上あたりから平たく垂れていた。風が吹くと、中身のない布だけが揺れる。
士郎の目は、そこからもう一人へ移った。
女性の左後ろ、三歩ほど離れた位置に、背の高い男が立っている。象牙色に近い白の長衣に、細い金の縁取り。襟元からは黒い内衣が覗き、手には黒い手袋、足元は長靴。夕日を受けた白が、暮れかけた道の中でそこだけ明るかった。
武器は持っていない。両手は身体の脇で軽く開かれ、掌がこちらから見える。
門が開ききった時、男の目がセイバーの上で一度止まったように見えた。けれど男は動かず、口も開かなかった。
「そこで止まってください」
セイバーの声が、門の内側から道へ通った。
「それ以上近づくなら、敵と見なします」
「承知しました。ここから動きません」
答えたのは女性の方だった。声は低めで、言葉の区切りがはっきりしている。
「突然の訪問をお詫びします。私はバゼット・フラガ・マクレミッツ。魔術協会に籍を置く魔術師です。戦いに来たのではありません。お尋ねしたいことがあって来ました」
「魔術協会の魔術師が、サーヴァントを伴って何を尋ねると言うのです」
セイバーは一歩も退かない。
「後ろの男が人間でないことは分かっています。戦う意思がないという言葉だけで、ここを通すことはできない」
「当然の判断です。ですから、門の外でお話しします」
バゼットは残った右手を、ゆっくりと身体の横へ開いた。
「彼は剣を出しませんし、私の後ろから前へは出ません。そちらが去れと言うなら、今日は引き上げます」
士郎は二人を見比べた。
セイバーの言うとおり、口では何とでも言える。ただ、男は本当に動かない。こちらへ踏み出せば届く距離の、一歩外に立っている。偶然そこにいるのではなく、そこを選んでいるように見えた。
士郎はセイバーの左後ろから、声を出した。
「一つ訊いていいか」
バゼットの目が士郎へ向く。
「どうぞ」
「あんたは、ここが誰の家か分かってて来たのか」
「半分だけ、です」
妙な答えだった。バゼットは言葉を選ぶ間を置かずに続けた。
「セイバーのマスターは衛宮士郎だと、今回の戦いに関わる人物から聞きました。ただ、どこに住んでいるかまでは聞いていません。貴方が、衛宮士郎ですか?」
「そうだ。じゃあ、どうやってここを」
「十年前の聖杯戦争の記録です。参加者の一人に衛宮切嗣という名があり、古い住所が残っていました。確度は高くない。今も衛宮の姓を持つ者が住んでいるか、確かめに来ました」
切嗣の名前が、知らない人間の口から出てくる。士郎は喉の奥に硬いものを感じた。
「……親父だ。五年前に死んだ」
「そうでしたか」
バゼットは短く目を伏せた。
「お悔やみを。そして、不躾な辿り方をしたことも、併せてお詫びします」
「俺の名前を出したのは誰なんだ」
「それは、今はお答えできません」
きっぱりした声だった。
「隠すことで貴方を欺くつもりはない。ただ、名前を明かせば、その者の立場が危うくなる。そこはご理解いただきたい」
名は教えない。少なくとも、明かせない理由は聞けた。納得したわけではないが、士郎は次の問いを口にした。
「分かった。じゃあ、尋ねたいことっていうのは」
「貴方がセイバーを召喚した時のことです。いつ、どのような状況で、何が起きたか。差し支えない範囲で構いません」
「なんで、それをあんたが知りたがる」
「私たちの側に、説明のつかないことがあるからです」
バゼットの視線が、一瞬だけ自分の左後ろへ流れた。
士郎もつられて、白い男を見る。
「後ろの人は、あんたのサーヴァントなんだよな」
「私の契約相手です」
バゼットは言い直すように答え、それから告げた。
「クラスは、セイバー」
士郎は、すぐには意味を取れなかった。
セイバー。その名前で呼ぶ相手は、今、自分の右前に立っている。
「待ってくれ。セイバーなら、ここにいる」
「ええ。貴方のサーヴァントが正規のセイバーであることを、私は疑っていません。協会を通じて届いた監督役の報告でも、召喚が確認されています」
「だったら」
「ですが、彼の現界は、私たちが確認できた記録にありません」
バゼットは淡々と言った。
「七騎の枠は貴方のセイバーで埋まった。彼はその外にいる。誰に呼ばれたのか、なぜ現界できたのか、彼自身にも私にも分かっていません。分かっているのは、同じ戦いにセイバーが二騎いる、という事実だけです」
士郎は頭の中で、言われたことを並べ直した。
聖杯戦争のサーヴァントは七騎。クラスは一つずつ。それは遠坂と教会で聞いた。その決まりからはみ出したものが、今、門の前に立っている。
「つまり、どっちかが偽物だって話をしに来たわけじゃないんだな」
「違います」
「本物が二人いる。その理由を知りたいから、もう一人の方がどう呼ばれたのかを確かめに来た」
「その理解で合っています」
バゼットの口元が、わずかに緩んだ。
「貴方の召喚に不審があると言いたいのではない。比べる材料が欲しいのです。正しい召喚と、彼の現界と、何が違うのか」
「あんたもマスターなのか。令呪は」
「持っていません。彼との契約は、通常のマスターとサーヴァントのものとは別の形です。詳しい事情は、話を聞いていただける状況になってからお伝えしたい。一度で全てを信じてもらえるとは思っていませんから」
士郎は息をついた。
嘘をついているようには聞こえない。けれど、それを決めるのは自分一人ではない。相手はサーヴァントを連れている。通すか、追い返すか、門の外でもう少し話すか。その判断には、隣の騎士の目が要る。
「セイバー。どう思う」
返事がなかった。
「セイバー?」
士郎は横を見た。
セイバーはバゼットを見ていなかった。
いつからそうだったのか、分からない。最初は確かに、手前の魔術師と後ろの男の両方へ気を配っていたはずだ。今は違う。碧い目は白い長衣の男だけに向けられ、そこから動かない。
軽く開いていた右手の指が、途中で止まっていた。握るでも、下ろすでもなく。門の合わせ目から半歩ずらした足の位置はそのままなのに、肩の線だけが、さっきまでとどこか違う。
唇が、わずかに開いている。
士郎がこの数日で見てきたセイバーは、敵の前で言葉を探して黙るような相手ではなかった。
男の方も、彼女を見ていた。
開いた両手はそのままだった。足も動かない。ただ、門が開いた時にこちらの立ち位置や足元を静かに測っていた目が、今はセイバーの顔だけに留まっている。
バゼットも士郎の視線を追い、セイバーを見て、それから肩越しに自分の後ろを振り返った。彼女の眉が小さく寄った。予定になかったものを見た顔だった。
誰も、口を開かない。
茜色の光が門柱の影を道の上に長く引き、その影の向こうで、白い男とセイバーは互いを見たまま立っていた。
◇
最初は、ただの警戒だった。
門の外に立つ白い装束の男はサーヴァントで、しかも自分と同じセイバーだという。剣を持たず、掌を見せ、魔術師の後ろから一歩も出ない。敵意がないことを示す立ち方としては申し分ない。だからこそ、アルトリアはその男から目を離さなかった。害意のない構えを知っている者は、害意のある構えも知っている。
そのつもりで見ていた。
それが、いつの間にか別のものを見ていた。
男の立っている場所。こちらが踏み込んで剣を振れば、切っ先がわずかに届かない距離。一歩ではなく半歩だけ外。相手を侮らず、けれど怯えてもいない者が選ぶ間合いだ。
その半歩の置き方を、アルトリアは知っていた。
体重は両足に均しく乗り、膝だけがほんの少し緩んでいる。肩に力はない。開いた両手は腰の高さで、指先まで静かだった。前に立つ者の左側、失われた腕の側へ、いつでも身体を入れられる角度。
軍議の卓の端で、皆の言葉が出尽くすまで待っていた男が、同じように立っていた。
戦場で振り返れば、必ず目の届くところにいた背中が、同じ軸を持っていた。
紫がかった髪が、夕風に揺れる。額へ落ちた前髪の下の目元は鋭いのに、口の端にはどこか力の抜けたところがある。かつて円卓の席で見た、あの男の顔だ。
似ている、という言葉は浮かばなかった。
似ているのではない。あれは、彼だ。
そう思った瞬間、胸の奥で別の声が否と言った。いるはずがない。あの日、城門を出ていったきり戻らなかった騎士だ。待って、報せを待って、それでも帰らなかった。ここは彼の死から遠く離れた時代の、遠い国の、小さな屋敷の門前に過ぎない。
魔術師の声が途中から耳に入らなくなっていた。シロウが自分を呼んだことにも、遅れて気づいた。答えなければならない。マスターが判断を求めている。
それなのに、目が離れなかった。
男も、こちらを見ていた。
量るような視線は、とうに消えていた。足元も、手も、肩も見ていない。ただ顔を、目を見ている。信じがたいものを前にして、それでも目を逸らすまいとしている顔だった。
男の唇が、小さく動いた。
「……我が王」
大きな声ではなかった。
門前の道に落ちて、そこで止まるほどの声。儀礼の席で聞く、よく通る呼びかけとも違う。息を吸い損ねたまま、それでも他に呼びようがなくて出てきた、というような声だった。
その響きを、アルトリアは聞き間違えなかった。
玉座の間で。軍議の後の廊下で。戦の前の夜、焚き火の向こうから。何度その声に呼ばれたか、数えたことはない。数える必要のないほど、当たり前にそこにあった声だ。
男は右手を胸の前へ運び、わずかに頭を下げた。魔術師の後ろという位置は変えない。顔を上げた時、その目元が緩んでいた。
喉が、思うように開かなかった。
左後ろにシロウがいる。マスターと門の外との間に立つ位置は変えていない。それでも、確かめずにはいられなかった。
「……ランスロット」
自分の声が、思っていたより細い。
「――本当に、貴方なのですか?」
男はアルトリアから目を逸らさなかった。
「はい。ランスロットです」
今度は、はっきりした声だった。
「……参ったな。こんなところでお会いできるとは、思っていませんでした」
その言い方にも覚えがあった。気負わずに話す時の、少し力の抜けた声。
問いたいことは、いくつもある。あの日、城門を出た後に何があったのか。なぜこの時代にいるのか。何から口にしてよいのか、まだ決められない。
ランスロットは急かさずに待っていた。それから、まっすぐに言った。
「またお会いできて、嬉しいです。本当に」
目の奥が熱くなった。アルトリアは一度瞬きをして、彼を見返した。
「……私もです、ランスロット」
声は、今度は細くならなかった。
「貴方に、もう一度会えた。それを嬉しく思います」
ランスロットは静かに頷いた。茜色の光の中で、白い長衣の肩から少しだけ力が抜けた。
◇
士郎は、門の縁に手を添えたまま立っていた。
目の前で起きたことは、順に追えば難しくない。白い男がセイバーを「我が王」と呼んだ。セイバーが名前を確かめ、男はランスロットだと答えた。二人は互いを知っていて、ここで会えるとは思っていなかった。
難しいのは、その声の方だった。
士郎が知っているセイバーは、いつも言葉の端まで芯が通っている。敵の前でも、食卓でも、さっき居間で条件を三つ並べた時でも。その声が、名前を呼ぶところで細くなった。最後の一言は、細くならなかった代わりに、聞いたことのない温度をしていた。
嬉しく思います、と彼女は言った。
セイバーがそんなふうに、自分の気持ちをそのまま口にするのを、士郎は初めて聞いた。
ランスロット。
その名前なら知っている。詳しくはないが、子どもの頃に読んだ本にも出てきた。円卓の騎士。湖の騎士。王に仕えた、いちばん名の通った騎士の一人。
その騎士が王と呼ぶ相手なら。
そこまで考えて、士郎は先を言葉にするのをやめた。
物語の王は男だったはずだ、という引っかかりもある。けれど、それより手前の理由があった。セイバーは自分の名を明かしていない。明かさないと決めているのは彼女だ。門前で偶然耳にした呼び名から、勝手に答えを組み立てて突きつけるのは、違う気がした。
訊きたいことは、いくらでもある。
あの男は本当に味方なのか。セイバーとどういう間柄だったのか。会えて嬉しいと言い合う相手と、どうして今まで離れていたのか。それに、自分の知らないところで彼女が何を背負ってきたのか。
知りたい。知らないままセイバーの隣に立っているのは、落ち着かない。
それでも今、割って入って訊くことではなかった。
セイバーの背中は、まだ門の内側にある。再会のあいだも、彼女は一歩も外へ出なかった。士郎と道との間に立つ位置を、最後まで動かしていない。あの声を出しながら、それでも自分のマスターを守る場所を譲らなかった。
だったら、こっちも自分の場所にいればいい。
士郎は門の縁から手を離し、言われたとおりの左後ろ二歩まで下がって、足を据えた。
道の側で、赤毛の魔術師が動いた。
バゼットは白い男を振り返っていた顔を、ゆっくりと前へ戻した。男がランスロットと名乗った時、彼女は驚かなかった。眉が動いたのは、その前だ。「我が王」の一言の方に、彼女は予定外のものを見た顔をしていた。
その顔は、もう落ち着いている。何かを計り直し、順番を組み替えた後の目だった。
彼女は右へ半歩、身体をずらした。ランスロットとセイバーの間を遮らない位置だ。左の袖が遅れて揺れた。
「衛宮士郎」
呼ばれて、士郎はバゼットを見た。
「私たちの用件は、先ほどお伝えしたとおりです。取り下げるつもりはありません。ですが、急ぐものでもない」
「……待ってくれる、ってことか」
「ええ。こちらの確認は、後に回せます。今はあちらが先でしょう」
彼女は二人の方を見なかった。誰と誰のことかは、言わなくても通じる。
士郎は頷いた。
「俺もそう思う。こっちも、訊きたいことは後にする」
「感謝します」
バゼットは短く言って、口を閉じた。ずらした位置から動かず、右手は身体の横に下ろしたまま。
士郎は、前に立つ背中へ声をかけた。
「セイバー」
金の髪がわずかに揺れ、彼女が肩越しに振り向いた。碧い目の縁が、夕日のせいだけではなく赤い。
「シロウ。申し訳ありません。護衛の最中に、私は」
「いいんだ。位置は動いてなかった」
セイバーは瞬きをした。
「話、続けてくれ。俺はここにいる。何かあったら呼ぶし、セイバーの方で何かあっても、すぐ分かるところにいるから」
「……貴方には、説明しなければならないことがあります」
「後でいい。セイバーが話せる時に、話せるところから聞く」
少しの間、彼女は士郎の顔を見ていた。それから、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「必ず、お話しします」
「ああ。待ってる」
セイバーは前へ向き直った。
ランスロットは、そのやり取りの間じゅう黙っていた。促すことも、口を挟むこともしない。ただ、セイバーが振り向いている間は士郎の方へ目を向け、目が合うと、ほんの少しだけ頭を下げた。礼とも、挨拶ともつかない。けれど、こちらを数に入れている人間の仕草だった。
今、その目は王へ戻っている。
西の空は茜から、少しずつ紫を混ぜ始めていた。門柱の影が道を越えて、向かいの塀まで届いている。どこかの家から、夕飯の出汁の匂いが流れてきた。
白い長衣の男は、門の外に立ったまま、待っていた。
セイバーの肩が、一度上がって、下りる。
息を吸う音が、士郎のところまで聞こえた。
彼女は顔を上げ、ランスロットをまっすぐに見て、唇を開いた。
今回は前半で、士郎と凛の側から第五次聖杯戦争の進行を描き、後半ではランスロットたちの物語が交わる構成となっています。
さて、先日の劇場版IF予告もお楽しみいただけたでしょうか?
予告編ではランスロットの戦いをお見せしましたが、本編の彼については、まだまだ謎が残されています。
アルトリアが確かに知っている『ランスロット』。
では、彼は私たちが知る伝承と同じ道を歩んできたのでしょうか。
それとも、どこかで違う選択をしてきたのでしょうか。
謎はまだまだ残っていますが、そのあたりのお話は、また後日。
引き続き、本作を楽しんでいただければ嬉しいです!
また来週~さらだばー