無銘の湖光 ~ランスロットとして目覚めた俺は、名を失っても世界を紡ぐ~ 作:カノープス・ギア
遠坂凛とともに、学校を覆う不穏な結界を調べていた衛宮士郎。
一方、正規の七騎に数えられないランスロットの現界について調査を続けるバゼットは、もう一人のセイバーを召喚したという士郎のもとを訪れる。
夕暮れの衛宮邸。
突然の訪問者を警戒する士郎とセイバー。
しかし、白い衣をまとった騎士を目にした瞬間、セイバーの様子が一変する。
「……我が王」
その呼びかけに、彼女は確信した。
目の前にいるのは、かつてブリテンで共に戦い、帰らぬ人となった湖の騎士――ランスロット。
長い時を越え、再び巡り合った王と騎士。
第10話『帰らなかった騎士』、お楽しみください!
「――ランスロット」
もう一度、彼女はその名を呼んだ。今度は、確かめるための呼び方ではなかった。
「なぜ、あなたがここにいるのですか?」
声はさっきより落ち着いていた。それでも、語尾がわずかに硬い。
「この時代の、この町に。……誰が、あなたを呼んだのです?」
ランスロットはすぐには答えなかった。
男は一度だけ視線を落とし、それからセイバーへ戻した。
「分かりません」
少し間を置いて、ランスロットは続けた。
「……すみません。なぜここなのかも、誰に呼ばれたのかも、まだ分かっていません。気づいた時には、もう夜のこの町にいました」
セイバーの眉が、かすかに寄った。
「呼ばれた覚えがない、ということですか?」
「ええ。召喚の陣も、呼んだ誰かの顔も見ていない」
「マスターがいないまま、ですか?」
「ええ。最初は」
士郎は、あの夜の土蔵を思い出した。床を満たした光の中に、セイバーが立っていた。自分は確かに、そこにいた。
「……呼んだやつがいないのに、出てくることなんてあるのか?」
口に出してから、自分が割り込んだことに気づいた。セイバーは振り返らなかったが、ランスロットの目がこちらへ動いた。
「普通はない、らしい。俺も、そう教わった側なんだ」
ランスロットの視線が、セイバーへ戻った。
「理由も分からないまま消えるのは、嫌なので」
セイバーの顎が、わずかに引かれた。何か言いかけたように見えたが、声にはならなかった。
士郎は、門の外の二人を順に見た。
バゼットの顔は、さっきより少し白く見えた。日が弱まったせいかもしれない。けれど、名乗った時からずっと立ち通しだ。空の袖が風に揺れ、彼女は右足へ体重を預け直した。
ランスロットも、バゼットの左後ろから動かずにいる。
士郎はセイバーの横顔を見た。まだ、訊きたいことがあるのだろう。
「セイバー」
士郎は呼んだ。
「その人が、セイバーの知ってるランスロットなんだな?」
セイバーは、今度は少しだけ顔をこちらへ傾けた。
「はい」
迷いのない返事だった。
「彼は、私の知るランスロットです。それは保証します。ただ、今の彼らの事情までは、まだ」
「……うん」
頷いて、士郎は一歩、前へ出た。セイバーの前までは出ない。彼女の肩の横、門の内側から外の二人がよく見える位置まで。
「上がってください」
バゼットの目が、わずかに見開かれた。
「立ち話で済む話じゃなさそうだし、もう冷えてきた。……それに、ずっと立ってるのはきついでしょう」
最後の一言は、言うかどうか迷ってから言った。バゼットは一瞬、自分の左袖へ目を落とした。
「シロウ」
セイバーが士郎を見た。
「分かってる。まだ訊きたいことはある。でも、この寒い中で話し続けるより、中の方がいい」
士郎はその目を見返した。
「傍にいてくれ、セイバー」
セイバーはしばらく士郎を見ていた。やがて、小さく頷いた。
「……分かりました。あなたの傍にいます」
「ああ。頼む」
士郎は門の外へ向き直った。
「どうですか?」
バゼットはすぐには答えなかった。右手の指先がスーツの裾に一度触れ、離れる。彼女の目が、士郎と、セイバーと、開いた門の奥の家へと動いた。
ランスロットは、彼女が答えるのを待っていた。
「……では、お邪魔します」
バゼットが言った。
「招いてくださったことに、感謝します」
彼女は姿勢を正し、右足から敷居を跨いだ。ランスロットが半歩後ろに続く。敷居の手前で彼は一度だけ足を止め、士郎へ軽く頭を下げた。
「お邪魔します」
セイバーは、二人と士郎の間に立つ位置を崩さなかった。
士郎は門を閉め、閂を戻した。
開けたままだった玄関の引き戸から、廊下の冷えた空気が流れてくる。
士郎が先に上がり、来客用のスリッパを二組並べた。振り返ると、バゼットが上がり框の前で立ち止まっていた。靴を脱ぐのに手をつく場所を探しているのだと、少し遅れて気づく。
士郎が手を出すより先に、バゼットが言った。
「ランスロット。腕を」
「ああ」
ランスロットが横へ寄り、肘を曲げて差し出した。バゼットはその腕に右手を預け、片足ずつ靴を脱いで框を上がる。上がりきったところで、手はすぐに離れた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ランスロットは自分の靴を脱いで揃え、ついでのようにバゼットの靴の向きも直した。
セイバーは廊下の端に立ち、その様子を黙って見ていた。
置きっぱなしの鞄を、士郎は足で壁際へ寄せた。
「居間はこっちです」
廊下の奥へ歩き出す。夕日はもう、床板まで届いていなかった。セイバーが士郎のすぐ後ろにつき、その後ろにバゼットと、ランスロットの足音が続く。
士郎は半分開いた居間の障子へ手をかけた。湯を沸かし直さないとな、と思った。
◇
居間には、まだ少しだけ茶の匂いが残っていた。
ランスロットは敷居の手前で足を止めた。低い卓の周りに座布団が敷かれ、壁際には畳んだ新聞と、読みかけらしい雑誌が積まれている。
卓の上に、湯呑みが二つと急須が一つ。急須の蓋が少し斜めに載っていた。
「適当に座ってください。今、明かりつけます」
士郎が壁のスイッチを押すと、天井の灯りが一度瞬いてから点いた。少年はそのまま卓の上の湯呑みを二つとも取り上げ、片方をのぞき込む。
「セイバー、淹れ直すよ。さっきのより薄めでいいな?」
「……ええ。お願いします」
王は真面目な顔でそう答え、士郎が台所へ向かうのを目で追った。それから卓の、廊下に近い側の座布団へ膝をつく。
王が、こんな家で茶を飲んでいる。
ランスロットは、その横顔からしばらく目を離せなかった。
「ランスロット」
バゼットが、卓の向かい側の座布団を右手で示した。
「あなたも座ってください。立っていると、話しづらい」
「ああ」
彼女が先に腰を下ろすのを待ってから、ランスロットはその左隣に座った。バゼットは脚を崩しかけて一度止め、それからもう一度、楽な形に組み直した。右手は卓の縁に置かれている。
台所で薬缶が鳴り始め、ほどなく士郎が盆を持って戻ってきた。湯呑みが四つ。一つ目を王の前へ、次に客の二人へ置き、自分の分を手に王の隣へ座る。
「熱いから気をつけて」
「ありがとうございます」
バゼットが湯呑みを右手で引き寄せた。
「さっきの記録の話だけど、書き漏らしただけって可能性はないのか?」
士郎の問いに、バゼットは頷いた。
「その可能性もあります。記録が正しいか、私には確かめきれていません。衛宮くん、あなたがセイバーを呼んだ時のことを、聞かせてください」
士郎は湯呑みを置いた。
あの夜を辿り直すように、士郎は少し間を置いた。
「……学校で、ランサーに襲われた日の夜だ。いったん家に帰ったけど、あいつがまた来て……」
卓の上の自分の手へ目を落とした。
「土蔵に逃げ込んだ時に、床が光った。俺は何かを呼ぼうとしたわけじゃない。気づいたら、セイバーがそこにいた」
ランスロットは、隣のバゼットの右手が湯呑みの縁で一瞬止まったのを見た。
彼女はそのまま話を聞き、あの夜の日付も確かめてから頷いた。
「聞いていた日と合っています。……意図した召喚ではなかったのですね」
「ああ。触媒なんて、何も知らなかったし」
「ですが、私は呼ばれて応じました」
王が言った。静かな声だった。
「あの夜、呼び声がありました。私はそれに応えて、シロウのサーヴァントとして現界した。その繋がりは、今もあります」
バゼットがランスロットへ目を移した。
「あなたには、その呼び声がなかったのですね?」
「ああ。目が覚めたら、もう立っていた。それしか思い出せない」
ランスロットは王を見た。
「あなたが呼ばれた時、何か妨げになるものはありませんでしたか?」
「いいえ。呼び声は、途切れずに届きました」
「その時には、彼はもうこちらにいました」
バゼットが言った。
「少なくとも、ランスロットが現れた後に、こちらのセイバーが召喚されたことは、これで確かめられました」
士郎がバゼットを見た。
「じゃあ、今はバゼットさんがマスターなのか?」
「実務の上では、そう呼んでも構いません」
バゼットは答えた。
「ただ、私が彼を召喚したのではありません。出会った後に契約を結びました。令呪もありません」
「令呪がない?」
「ええ。強制して命令に従わせることはできません」
バゼットは湯呑みから手を離した。
「私が魔力を渡して、彼を現世につなぎ留める。そのための契約です」
王はバゼットの顔を見て、それからランスロットへ視線を移した。
「ランスロット。あなた自身も、それを望んだのですか?」
「ええ」
ランスロットは湯呑みから手を離した。
「方法を出したのは彼女です。でも、最後に繋いでほしいと頼んだのは俺です。あのままだと長くは保たなかったし、まだ消えたくはなかった」
「私にも、彼の助けが必要でした」
バゼットが言った。
「一方的な契約ではありません。互いに必要があって結んだものです」
王は二人を順に見て、頷いた。
「分かりました。……不躾な問いでした」
「当然の確認だと思います」
バゼットは湯呑みに口をつけた。一口飲み、熱さに眉を寄せて卓へ戻す。
灯りの下で、湯気が四つの湯呑みから細く立ちのぼっていた。
王は、ランスロットを見ていた。
その目が湯呑みへ落ち、またランスロットへ戻った。
「我が王?」
ランスロットが呼ぶと、王は湯呑みから手を離し、膝の上に置いた。
「……一つ、話しておかなければならないことがあります」
士郎が、隣の王を見た。
「この町の聖杯戦争に私が呼ばれたのは、今回が初めてではありません」
ランスロットは、王の顔を見返した。
「十年前の戦争にも、ですか?」
「ええ。同じセイバーとして」
王はランスロットを見た。
「そこに、あなたがいました」
ランスロットの指が、湯呑みの縁で止まった。
顔を上げる。
「……俺が?」
「あなたと同じ、ランスロットの名を持つ騎士が、バーサーカーとして召喚されていました」
王の声は平らだった。だが、平らにしている声だと、ランスロットには分かった。
「黒い鎧を着ていました。まともに言葉は交わせなかった。けれど、彼は私を知っていた。私に剣を向けてきたのです」
そこで王は一度、視線を落とした。膝の上で、指が静かに組み直される。
「……あの剣が私へ向けていたものが、ただの狂気ではなかったことくらいは分かります」
黒い鎧の自分が、王に剣を向けている。思い描こうとして、うまくいかなかった。
ランスロットは、しばらく黙っていた。
「その騎士は、本当にあなたを知っていたんですね?」
王は、目を逸らさなかった。
「疑いようがありませんでした」
即答だった。
「剣を合わせれば、分かります。最後には、兜の下の顔も見ました」
ランスロットは息を吐いた。
「俺は、前回の戦争には来ていません。……でも、あなたがそこまで言うなら、その騎士もランスロットだったんでしょう。ただ、俺が覚えている生き方とは違う。あなたに、そんな剣を向けたことはありませんから」
言ってから、少し言葉を継いだ。
「俺がいなくなった後の円卓は……まだ、何も聞いていませんが」
「ええ」
王は頷いた。
「私も、あなたをあの騎士と同じだとは思っていません」
「顔が同じなのに?」
「顔だけで、人を見てはいません」
王の口調に、少しだけ昔の響きが戻った。
「それに……先ほども、そうでした」
「先ほど?」
「知らないことまで、知っているようには言わなかった。昔から、あなたはそうでした」
「……格好はつきませんけどね」
「軍議では、その方が助かりました」
地図の上に置かれた駒と、灯りの下で意見を戦わせる騎士たちが浮かぶ。
ランスロットは、少しだけ笑った。
「それなら、よかった」
「……同じ英霊なのに」
士郎が、卓に置いた自分の手を見ながら言った。
「そこまで違うことって、あるのか?」
ランスロットには、答えがなかった。王も士郎へ目を向けた。
バゼットが、湯呑みを卓へ戻した。
「クラスによって、英霊の別の面が強く現れることはあり得ます。バーサーカーなら、狂化の影響はあります。ただ、それで生前の出来事まで違ってしまうのかというと……」
「別の人生を生きたのか、呼ばれ方で変わったのか。そこまでは分からない?」
士郎が訊くと、バゼットは頷いた。
「ええ。今ある話だけでは、どちらとも言えません」
ランスロットは、隣の彼女の横顔を一度だけ見た。それから、また王へ目を戻した。
二人目のセイバー。記録にない現界。十年前には、王に剣を向けたランスロット。
呼ぶ仕組みの方に、何かあるのか。
理由もなく、胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。何に引っかかっているのか、自分でもまだ分からない。
「我が王」
ランスロットは一度、言葉を切った。
「……十年前の戦争で、そのバーサーカー以外に、何か妙なことはありませんでしたか?」
王の目が、わずかに細くなった。
「妙なこと、とは?」
「分かりません。ただ……何か引っかかる。召喚でも、戦いでも。聖杯そのものでも」
王はすぐには答えなかった。膝の上で組んだ指に力が入る。
王は、長く息を吸った。
「前の戦争の終わりに、私は聖杯の前に立ちました」
王は、そう切り出した。
「願いに手が届くところまで来ていました。……そこで、私のマスターが令呪を使ったのです」
「令呪を」
バゼットが低く繰り返した。王は頷いた。
「聖杯を破壊しろ、と。理由は告げられませんでした。私は拒みましたが、令呪には抗えず、聖杯を破壊しました」
ランスロットは、黙って聞いていた。
目の前まで来た願いを、自分の手で斬らされる。その時この人がどんな顔をしていたのか、想像しようとして、やめた。
「そのマスターの名は?」
バゼットが尋ねた。王は一度だけ、隣の士郎を見た。
「衛宮切嗣」
士郎の手が、卓の上で止まった。
「……切嗣?」
「ええ」
「爺さんが……俺の親父が、セイバーのマスターだったのか」
王は士郎へ向き直った。
「……ええ。彼が、私のマスターでした」
士郎はすぐには答えなかった。膝の上で片手を握り、ゆっくりと開いた。
「……そうか」
少年は短く首を振った。
「それで、聖杯を斬って、どうなったんだ?」
「聖杯が壊れた時、黒いものがあふれるのを見ました」
王の声が、ほんのわずかに低くなった。
一瞬、遠い戦場の影がランスロットの脳裏を掠めた。
――まさか。
「泥のようなものでした。ですが、その後を確かめる前に私は現界を失った。町がどうなったかは、見ていません」
「その黒いものが何だったかも、分からないのですね?」
バゼットが訊いた。
「ええ。とても願いを叶える力には見えなかった。それ以上は、私にも……」
ランスロットは湯呑みを置いた。顎へ指を当てたまま、卓の一点を見つめる。
黒い。泥。聖杯。
似ている。
いや――まさか。
視界の端で、バゼットの顔がこちらへ向いた。ランスロットは卓から目を上げなかった。
「……十年前の、その夜って」
士郎の声で、ランスロットは顔だけをそちらへ向けた。
「新都の方で、でかい火事があった夜か」
王が、士郎を見た。
「大火災って呼ばれてる。何百人も死んだ。……俺は、あの火事の中にいた。火の中を歩いて、歩けなくなって、そこで切嗣に見つけてもらった。……それから、俺はこの家で育った」
王の手が、膝の上で強く握られた。
「……私が、聖杯を斬った夜に」
「セイバーは、命令されたんだろ」
士郎が顔を上げた。
「令呪で。やりたくなかったのに、やらされた。なら――」
「それでも、剣を振るったのは私です」
王の声は静かだった。静かで、揺るがなかった。
「命じたのが誰であっても。あの剣は、私の手にありました」
士郎は何か言い返そうとして、口を閉じた。
ランスロットは、二人の間に言葉を挟まなかった。
聞いてはいる。だが、思考はまだ、黒い泥と遠い記憶の間を行き来していた。
胸の奥で、何かが落ち着かない。痛みではない。
古い傷痕を、服の上からなぞられているような感覚だった。
――似ている。だが、同じなのか?
ようやく顔を上げる。
「我が王。その泥に、誰かが触れるところは見ましたか?」
「いいえ」
「触れた人が、その後どうなったのかも?」
「知りません」
王は首を振った。
「そこまでは、見ていません」
ランスロットは、また黙り込んだ。腕を組み、親指で自分の腕を一度なぞる。
「ランスロット」
隣から呼ばれて、ようやくバゼットへ顔を向けた。
「……何です?」
「さっきから、ずっと考え込んでいますね」
バゼットは彼の顔を見ていた。
「何か、心当たりがあるんですか?」
ランスロットは、少しだけ息を吐いた。
「昔、俺が戦ったものに似てる気がした」
組んだ腕をほどかないまま、言葉を探す。
「あれは、触れたものをただ壊すんじゃない。内側から歪めていく。人も、土地も、元のままではいられなくなる」
王の目が、わずかに動いた。
「ブリテンも、それに侵されかけた。だから……もし聖杯も、何かに侵されてるならと思ったんだ」
「だから、泥に触れた人を?」
「ああ。泥が人を変えるかどうかは、まだ分からない。だから確かめたかった」
王がこちらを見ていた。ランスロットは一度その目を受け止め、それから胸元へ手を当てた。
「あれに触れた痕が、今も残ってる。さっきから……少し、ざわついてた気がした」
バゼットの目が細くなる。
「その痕が反応したんですか?」
「……断言はできない」
ランスロットは首を振った。
「話を聞いて、昔のことを思い出したせいかもしれない。気のせいかもしれない」
「今も続いていますか?」
「いや。今は何ともない」
バゼットは、少しだけ考えてから頷いた。
「なら、まず確かめます。泥に触れた者の記録がないか。似ているかどうかを決めるのは、それからです」
「頼む。俺の思い込みなら、そう言ってくれ」
「その時は言います」
そこでランスロットは、一度だけ視線を落とした。
「……ただ、その泥については俺も調べさせてほしい」
「理由を聞いても?」
顔を上げた。
「似ているだけなら、それでいい。でも――もし同じ類のものなら、見過ごしたくない」
バゼットは、すぐには答えなかった。ほんの一瞬、彼の目を見た。
ランスロットは目を逸らさず、彼女の返事を待った。顎に力が入ったままだった。
「分かりました」
バゼットは短く答えた。
「一緒に調べましょう。ただし、同じものだとはまだ決めません」
「ああ。それでいい」
バゼットは王へ目を向けた。
「今のところ、その泥が残っているか確かめる手掛かりは?」
「ありません」
王は静かに首を振った。
湯呑みの湯気は、もうほとんど立っていなかった。
「……遠坂なら」
士郎が言った。
「遠坂なら、何か知ってるかもしれない」
バゼットが士郎を見た。
「遠坂?」
「同じ学校の、遠坂凛。魔術師だ。……マスターでもある。今、学校で起きてることを一緒に調べてる」
「学校で?」
「ちょっと、厄介なものが仕掛けられてて。それはまた別の話なんだけど」
士郎は言葉を選びながら続けた。
「聖杯戦争のことも、魔術のことも、俺よりずっと詳しい。前の戦争のことも、何か聞いてるかもしれない。……全部分かるとは言わないけど」
「遠坂」
バゼットは、その名を小さく繰り返した。
「この土地の管理を任されている家の名です。前回の聖杯戦争にも、遠坂の当主が参加していたはずです」
「そうなのか?」
「協会の記録に残っている範囲では」
バゼットは湯呑みに手を添えたが、持ち上げはしなかった。
「……衛宮くん。その人は、信用できますか?」
士郎はすぐに答えようとして、少しだけ考えた。
「今は協力してる。……俺は信じてるよ。学校の連中を助けるために、動いてくれてるから」
「セイバー。あなたから見て、どうですか?」
バゼットが王へ問いを向けた。王は頷いた。
「凛は、敵として手強い魔術師です。ですが、交わした約束を軽く扱う人ではありません。シロウの判断に、私も異論はありません」
「監督役とは、どの程度の付き合いがあるか分かりますか?」
ランスロットは、隣の彼女の声が、ほんのわずかに平らになったのを聞いた。
ランスロットは湯呑みへ目を落とした。彼女が何を気にしているかは分かる。
「……詳しくは知らない」
士郎が答えた。
「そこまでは、本人に聞かないと」
「分かりました」
バゼットは、しばらく黙って卓の縁を見ていた。
「一度、会って話を照らし合わせる価値はあると思います」
顔を上げて、そう言った。
「十年前の聖杯について、家に資料が残っているかもしれません。記録を確かめるなら、力を借りたい」
「前回のバーサーカーが呼ばれた時のことも、調べられるかな?」
ランスロットが訊くと、バゼットは頷いた。
「記録が残っていれば。ただ、あなたの事情をどこまで話すかは、会ってから相談しましょう」
「分かった。必要なら、俺からも話すよ」
バゼットは士郎へ向き直った。
「まず一度、話す機会を作ってもらえますか?」
「ああ。遠坂には、俺から話してみる。学校で会うから」
「お願いします」
士郎が頷き、バゼットも小さく頷き返した。
ランスロットは、自分の湯呑みに手を伸ばした。茶はすっかり冷めていた。一口飲むと、渋みだけが舌に残った。
障子の向こうは、もう暗くなっていた。庭の塀の輪郭も、夜に溶けかけている。
バゼットが、ゆっくりと姿勢を変えた。右手を卓について、組んでいた脚をもう一度組み直す。肩のあたりを気にするように、首をわずかに傾けた。
「……茶、淹れ直すよ」
士郎が腰を浮かせた。
「それと、飯も。もう、こんな時間だし――」
「――ランスロット」
王の声がした。
士郎が、中腰のまま止まった。
王は膝の上に両手を揃え、ランスロットを見ていた。
「一つ、聞かせてください」
「はい」
士郎が、静かにもとの座布団へ腰を下ろした。音を立てないように、湯呑みを脇へ寄せる。
王は、すぐには続けなかった。
一度だけ視線を落とし、それからまたランスロットへ戻す。
「あなたが出立した時、私は、戻ってくると思っていました」
声は穏やかだった。
「だから、待っていました」
ランスロットは、息を詰めた。
「ずっと、聞きたかった」
王は言った。
「なぜ、
隣で、バゼットが湯呑みから手を離した。彼女は何も言わなかった。
ランスロットは、王から目を逸らさなかった。
眉間に、浅く皺が寄る。すぐに答えようとして、口が一度止まった。
「帰る、つもりでした」
ようやく出た声は、少し低かった。
「死ぬつもりで、出たんじゃありません。勝って、帰るつもりだった。あなたのところへ。円卓へ」
一度、息を吐く。
「片づけてない仕事も、話してないことも、まだいくらでもあった。……全部、帰ってからだと思ってた」
王の指が、膝の上でわずかに動いた。
「……帰りたかった」
息を吸う。
「――帰りたかった。最後の最後まで」
灯りの下で、王は真っ直ぐこちらを見ていた。
「でも、帰れなかった」
ランスロットの眉間の皺が、少しだけ深くなった。
「……あの戦いで、俺は、死にました」《/blink》
第10話『帰らなかった騎士』、いかがでしたでしょうか?
第9話で、ついに再会を果たしたアルトリアとランスロット。
しかし、再会の喜びだけでは終わりません。
十年前の聖杯戦争に現れた、もう一人のランスロット。
聖杯からあふれた謎の黒い泥。
そして、アルトリアがずっと胸に抱えていた問い。
「なぜ、帰らなかったのですか?」
同じ名前を持ちながら、異なる道を歩んだ二人の騎士。
その違いは何なのか。そして、本作のランスロットは、かつて何を経験してきたのか。
まだまだ謎は残っていますが、それはこれからのお話で。
次回もお楽しみに!
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