無銘の湖光 ~ランスロットとして目覚めた俺は、名を失っても世界を紡ぐ~   作:カノープス・ギア

2 / 3
第2話 迎えた朝

 

机を、指先で叩く音がしていた。

 

苛立ちを押し込めているような、乾いた小刻みな音だった。

半分開いた扉の向こうで、言葉が途切れるたびに、それが挟まる。

 

いつのことだったのか、はっきりとは浮かばない。

何の用で、あの硬い長椅子に座らされていたのかも。

覚えているのは、論文の話でもするような口ぶりで、廊下まで漏れてきた何人かの声だけだった。

 

「海だったという語りがある。巨大な獣だったという語りもある。同じ災いの話のはずが、姿からして揃わない」

 

古い話だった。

災いが来て、一人の騎士がそれに向かっていった。

騎士の名は、どの語りにも残っていない。

ただ、天から地へ光が走ったこと。そのあと、夜空に花が咲いたこと。

語り手が変わっても、その二つだけは崩れずに伝わっているのだと、誰かが言った。

 

「痕跡ならある。あの一帯だけ、土の層の様子が違う。何かが起きたのは確かだ」

 

「何かは起きたんだろう。そこまでは認める。だが、伝承のとおりのことが起きた証明にはならない」

 

机を叩く音が止んだ。

 

「名前も残っていない騎士の話に、どうしてそこまで……?」

 

その先は、聞いていない。呼ばれて席を立ったのか、聞くのをやめたのか。それさえ、もう覚えていなかった。

 

◇

 

声が遠のいて、叩く音だけが残った。

硬いものが、軽く一度。間を置いて、もう一度。

 

机ではない、とぼんやり思った。

もっと軽い。

金属が、金属の縁に触れている。

 

匂いが、遅れて届いた。

玉ねぎを煮た、甘い匂いだった。

そこへ、塩気のある脂の匂いがかすかに混じっている。

 

目を開けた。

 

カーテンの隙間から落ちる光が、色を変えていた。夜明け前の青白さではない。薄く白い、冬の朝の光だった。天井の染みの輪郭が、昨夜よりもはっきり見える。

 

目を向けた先の椅子は、空だった。

 

右手が、毛布の縁を掴んだ。

その手の甲に、滑らかな布が触れる。胸の上には、上着がまだ掛かっていた。

 

意識を、目とは別のところへ向ける。昨夜ほど、額に汗は滲まなかった。

濃い気配は、すぐに見つかった。この部屋ではない。

開いたままの扉の向こう、廊下を下った先――台所のある方角だ。

遠くはない。

密度も、昨夜と変わらないように思えた。少なくとも、今の彼女に測れる範囲では。

 

硬い音が、また一度だけした。今度は、その方角からだと分かった。

 

息を吐いてから、彼女は自分の身体を確かめにかかった。

 

左の傷口では、鈍い熱がまだ脈を打っている。身体の芯へ居座るような重さは、昨夜のままだった。頭は、目を閉じる前よりいくらか軽い。そのぶん、喉の渇きがはっきりしていた。唇の皮が、舌に触れてざらつく。

 

右肘を座面に立てた。

昨夜のことは覚えている。一息に起きようとはせず、肘で身体を少しずつずらし、背中を肘掛けのほうへ寄せていく。

胸から上着が滑り落ちかけ、右手で膝の上へ引き留めた。

そのわずかな動きで、部屋の輪郭がぐらりと傾いた。

目を閉じて、待つ。

傾きが収まってから、また少しずらす。

 

背中が肘掛けに届いたところで、止めた。起き上がったとは言えない。

それでも、横たわったままよりは、扉も窓もよく見える。

 

視線を落とすと、ソファの脚のそばに鞄があった。

留め具は、彼女がいつも掛けておく向きのままだった。

それ以上は、確かめなかった。

 

胃のあたりが、きつく縮んだ。

空腹だと気づいたのは、あの匂いのせいだった。

最後にまともに食べたのがいつだったか、すぐには思い出せない。

 

廊下の床板が、軋んだ。

靴音が、急がない調子でこちらへ戻ってくる。

 

戸口に、ランスロットが現れた。

両手で盆を持っている。シャツの袖は昨夜と同じように肘まで上げたままで、袖口の染みは乾いて、黒に近くなっていた。盆の上には、蓋をした小さな片手鍋と、お玉、空の器が一つ。匙と、水を入れたコップ。畳んだ布巾。

 

彼女を見て、ランスロットの足が一歩ぶんだけ止まった。

視線が顔色をなぞり、肘掛けに預けた背中へ移る。

 

「起きてたんだ」

 

「……少し前に」

 

声は、ひどく掠れていた。

 

「自分で起きた?」

 

「ゆっくりなら」

 

ランスロットは「そっか」とだけ言った。

部屋へ入ってくると、盆を片手に持ち替え、空いた手で椅子の背を掴む。

扉とソファを見渡す角度に置かれていた椅子が、床をわずかに擦って、ソファの傍らまで引き寄せられた。

盆はその座面に置かれた。コップの水面は、ほとんど揺れなかった。

 

彼はまず、水のコップを彼女の右手のそばへ寄せた。

 

受け取る。指先が冷えきっていて、コップのほうがかえってぬるく感じた。

持ち上げると、水面がかすかに震えた。こぼさないように、唇へ運ぶ。

一口目は、喉がうまく受け取らなかった。

二口目で、乾いたところへ染みていくのが分かった。

ランスロットはその間、手を出さなかった。

 

コップを返すと、彼は鍋の蓋を取った。

湯気が、ふわりと立った。

 

澄んだ薄い色のスープに、細かく刻んだ具が沈んでいる。

玉ねぎ、人参、じゃがいも。脂の粒が浮いているのは、ベーコンだろう。

どれも、匙の上に収まる程度の大きさに揃えてあった。

 

ランスロットはお玉を取り、器へ注いでいく。縁まで満たさず、半分より少し上で止めた。

 

「冷蔵庫のもの、少し借りた。勝手に悪い」

 

「……構いません」

 

言ってから、彼女は冷蔵庫の中身を思い浮かべようとした。

この館を拠点に定めたとき、当座のものを買い込んだ覚えはある。それきり、扉を開けた記憶がない。

 

「……使えるものが、ありましたか?」

 

「玉ねぎと人参と、ベーコンが少し。じゃがいもも使ったよ」

 

じゃがいもを買ったことは、覚えていなかった。

 

「……そうですか」

 

ランスロットは、器の縁に跳ねた汁を布巾で拭った。

 

「君が起きる前に、冷ましておくつもりだったんだけどね。先に起きられた。まだ熱いから、少し置いた方がいい」

 

君。

 

昨夜も、そう呼ばれていた。君、でなければ、そっち、と。

この男は、一度も彼女の名を訊いていない。

 

名前まで渡すつもりはなかった。昨夜、そう決めていた。

魔術師の名は、家の名でもある。知る者が聞けば、それだけで素性の半分は割れる。

 

この男は昨夜、真名を明かした。弱点を探る手掛かりにもなる名を。訊かれて、すぐに。

 

訊かれていたら、たぶん答えなかった。

 

彼女は、布巾を持った彼の手元から、顔へと視線を上げた。

 

「――バゼット」

 

ランスロットの手が、布巾を持ったまま止まった。

 

「バゼット・フラガ・マクレミッツ。私の名前です」

 

少しの間があった。

 

「バゼット・フラガ・マクレミッツ」

 

ランスロットは、一度だけ繰り返した。

区切りを一つずつ確かめるような、ゆっくりした言い方だった。

長い名を、取り違えずに受け取ろうとしているように聞こえた。

 

「うん。分かった」

 

ランスロットは布巾を盆の端に置いた。

名乗ったあとで、バゼットは何か言い足すべきかと考えた。

何も浮かばなかった。彼も聞き返さず、器へ目を戻した。

 

湯気が、少しずつ細くなっていく。

ランスロットは一度、器の側面に指の背を当てて、すぐに離した。

 

「そろそろ、食べてみる?」

 

鍋に蓋を戻し、お玉とコップも一緒に椅子の脇の床へ下ろした。

器と匙を残した盆を、座面から持ち上げる。

 

「膝に置こうか? それとも、ここに置いたままにする?」

 

椅子の座面は、ソファより低い。

肘掛けに背を預けたこの姿勢から、あそこまで匙を往復させるのは無理があった。

 

「膝に、お願いします」

 

ランスロットは頷いて、盆を毛布の上へ下ろした。

端に置いてあった布巾を器の下へ噛ませ、盆を少し手前へずらす。

傾きのない位置を探してから、手を離した。

 

盆の重みが、毛布越しに膝へ伝わってきた。

 

空いた椅子に、ランスロットが腰を下ろす。匙には、手を伸ばさなかった。

 

バゼットは、右手で匙を取った。

 

一杯目は、少なめに掬った。膝の上から口元までは、思っていたより遠い。背中を肘掛けから少し浮かせて、匙を運ぶ。

 

最初に来たのは、塩気だった。

それから、玉ねぎの甘さと、ベーコンの脂。人参は、噛む前に舌の上で崩れた。

温かいものが喉を下りて、空っぽの胃の底へ落ちていく。その道筋が、はっきりと分かった。

 

「味、薄くない?」

 

「いいえ。……これくらいが、ちょうどいいです」

 

もう一杯、掬う。今度は、じゃがいもの角切りが一つ乗った。

器の中身が減っていくにつれ、次の一口までに、少しずつ間が空くようになった。

 

匙を運ぼうと背中を肘掛けから浮かせると、左の傷口が引き攣れた。

口へ運び終えるまで、身体を起こしているのがつらい。

 

匙を器の縁に預けて、背中を戻した。息を整える。額が、汗で冷たい。

匙一本しか持っていないはずの右腕が、妙に重かった。

 

もう一度、背中を浮かせる。さっきより、時間がかかった。

 

ランスロットは、椅子の上で同じ姿勢のままだった。

窓へ一度視線を流し、戻す。

その視線が、匙ではなく、肘掛けから浮いた彼女の背中のあたりで止まった。

 

「少し、手伝おうか?」

 

匙が、器の上で止まった。

 

「自分で食べられます」

 

思ったより、硬い声になった。

 

「うん。それは見てた」

 

ランスロットは頷いた。

 

「ただ、身体を起こすのがきつそうだから。……残りだけ、任せてくれないかな?」

 

彼女は、器に目を落とした。

 

半分ほどは、もう減っている。時間をかければ、食べきれるだろう。

だが、この傷をどこでどう診せるのか、この館に留まっていていいのか。

食後には、まだ話さなければならないことがある。

 

分かっていても、すぐには口が動かなかった。

 

彼女は匙を器に戻し、柄を彼のほうへ向けた。

 

「……今回だけです」

 

「うん。今回だけ」

 

ランスロットは匙を受け取り、盆から器を持ち上げて、左の掌に載せた。

椅子の上で、少しだけ身を寄せる。

バゼットは、背中を肘掛けに戻した。今度は、戻したままでいい。

 

匙が、スープを掬う。彼女がさっきまで掬っていたより、少なかった。

 

「ほら。口、開けて」

 

「……子供ではありません」

 

「知ってる」

 

ランスロットは、それ以上は言わなかった。

匙を、彼女の顎より少し低いところで止めて、待つ。

首をわずかに傾ければ届く距離だった。

 

彼女のほうから、顔を寄せた。

 

次の一杯は、彼女が飲み込んでから差し出された。

背中を浮かせずに済むだけで、呼吸がずいぶん楽になった。

 

じゃがいもを掬う前に、ランスロットは匙の縁で、それを半分に割った。

 

何口目かで、彼女は小さく首を振った。

 

「……もう、十分です」

 

ランスロットは器の中を一度見た。底に、汁が少しだけ残っている。

 

「分かった」

 

匙が、器の中へ戻った。

彼は器を盆へ置き、盆ごと彼女の膝から持ち上げて、椅子の脇の床へ下ろした。

 

膝が軽くなった。代わりに、腹の底に、じんわりとした温かさが残っていた。

 

「……美味しかったです」

 

ランスロットの目元が、ふっと緩んだ。

 

「よかった」

 

彼女は肘掛けに預けていた背中を少しずらし、頭を背もたれとの角へ沈めた。

膝の上に残っていた上着を、右手で胸のほうへ引き上げる。

左の傷口の熱は、何も変わっていなかった。

ただ、毛布の中で握った指先に、少しだけ温度が戻っていた。

 

◇

 

少し休んでいると、ランスロットが椅子から身を起こした。

 

「傷のこと、少し確かめてもいいかな? 見るのは、包帯の外側だけ」

 

「……どうぞ」

 

バゼットは右手で、毛布を肩口から少し引き下げた。

上着の襟がずれて、巻かれた布の端がのぞく。

ランスロットは椅子から身を乗り出したが、手は伸ばさなかった。

包帯の縁と、その際の肌の色を、角度を変えて二度ほど見る。

 

「滲んではいないね。痛みは、昨夜と比べてどう?」

 

「鋭さは引きました。重いのは、変わりません」

 

「熱っぽさは?」

 

彼女は少し考えた。傷口が熱を持っているのは分かる。

それが身体全体へ広がっているのかどうかは、自分では判別がつかなかった。

 

「……分かりません」

 

「そうか」

 

ランスロットは椅子の背にもたれ直した。

 

「俺にできたのは、血を止めて、冷えないように支えるところまでだ。傷の奥までは診られないし、俺の力もいつまでも保つわけじゃない。……ちゃんと治療できる人に繋ぎたい。心当たりはある?」

 

彼女は天井の染みへ目を向けた。

 

保護を求める先として、まず教会が頭に浮かんだ。

そこまで考えて、思考が止まる。

あの声の主がいる場所だ。

 

「……本来なら、頼れる窓口があります。ただ……」

 

そこから先が、すぐには出なかった。

 

「今は、使えません」

 

ランスロットは「分かった」とだけ言った。理由は訊かなかった。

 

彼女は、続きを一つずつ組み立てた。声に出しながら。

 

「治療を頼めるか、連絡して確かめたい先はあります。ただ、こちらから行くにしても、来てもらうにしても、時間がかかります」

 

「うん」

 

「魔力が戻れば、自分のルーンで補助もできます。……今は、先に診てもらう方を考えます」

 

毛布の中で、右手の指を一度握る。昨夜、床に描きかけて崩れた形のことを思い出した。

 

「それから、この館です」

 

「ここは、知られてる?」

 

「ええ」

 

誰に、とは言わなかった。

 

「長く留まるべきではありません。ですが、今の私を動かすなら――」

 

歩いて移るのは、まだ無理だ。肘掛けまで背をずらすだけで、あれだけの時間がかかった。

 

「運ぶのは、俺がやれる」

 

ランスロットが、あっさりと言った。

床から抱え上げられたときの揺れのなさを、彼女は覚えていた。それでも、首を縦には振らなかった。

 

「それは、あなたがそのときまで保っていれば、の話です」

 

ランスロットは口を閉じた。否定はしなかった。

 

治療の当てを探すにも、館を移るにも、時間がかかる。その途中でこの男がいなくなるのなら、組み立てそのものが変わってくる。

彼を当てにした計画を、数に入れるかどうか。それを決めるための材料が、まだ足りなかった。

 

「昨夜の話を、もう少し詳しく聞かせてください」

 

「いいよ。話せることは、そう多くないけど」

 

「現界したとき、召喚の陣や触媒、呼びかける声に覚えはありますか?」

 

「ない。気づいたら、夜の道に一人で立ってた。周りに人はいなかったし、陣みたいなものも見てない」

 

「今、どこかと繋がっている感触は?」

 

「それも、ない」

 

ランスロットは少し言葉を探した。

 

「繋がってない、っていうより……本来あるはずのものが、どこにもない感じかな。引っ張られる先がない」

 

彼女は、薄れかけた感覚をもう一度彼へ向けた。今度は、密度ではなく、その先を探す。

ランサーとの間にあったものを覚えている。離れていても、意識を向ければ感じ取れた繋がり。

 

この男からは、何も伸びていなかった。

濃い気配は、そこにある。ただ、どこへも繋がっていない。何にも留められていない。

 

「それでも、今こうしていられる力は?」

 

「元から持ってた分だと思う。それが、少しずつ減ってる」

 

「減り方は?」

 

「正確には分からない。何もしてないときはゆっくりで、動くと、はっきり減る。……昨夜は、少し使ったから」

 

少し使った。床から抱え上げたこと。胸の奥を巡っていった、あの流れ。

 

「……あの流れも、ですか?」

 

「うん。あれも、そこから出した」

 

バゼットは唇を開きかけた。今、ここで礼を言っても、彼の残りが分かるわけではない。

 

「あと、どのくらい保つと考えていますか?」

 

「……分からない。すぐに消える感じはしないけど、このままずっとは無理だと思う」

 

「こうなった理由も?」

 

「それも分からない」

 

ランスロットは小さく息を吐いて、苦笑に近い顔をした。

 

「分からないことばっかりだな」

 

「無理に見積もられるよりは、助かります」

 

返しながら、バゼットは考えていた。

原因は分からない。だが、彼が今必要としているのは、現界を支える経路と、この世に繋ぎ留める先だ。

令呪を取り戻せなくても、その二つを結ぶ方法なら――。

 

右手を、毛布の上へ出した。

甲には何もない。令呪があったのは、もうない左腕だった。

それでも、魔術回路はこの身体に残っている。今は細く、頼りないが、途切れてはいない。

 

バゼットは、自分の右手をしばらく見ていた。

ランスロットは何も言わず、彼女が考え終えるのを待っていた。

 

「一つ、方法があります」

 

口にしてから、彼女は言葉の順番を組み直した。

 

「あなたに足りないのは、力を送る経路と、この世へ繋ぎ留める先です。その二つを、私の側から繋ぎます」

 

ランスロットは、すぐには返事をしなかった。膝の上で組んでいた指を、一度ほどく。

 

「召喚し直す、ってこと?」

 

「いいえ。あなたはもう、ここにいます。新しく呼ぶのではありません。すでに現界しているあなたに、魔力の通り道を繋いで、現世の側に係留する。……現世係留契約、と呼ぶのが近いと思います」

 

「係留」

 

ランスロットは、その言葉を一度だけ繰り返した。

 

「そういうの、やったことはある?」

 

「この形では、ありません」

 

ごまかしても仕方がなかった。

 

「ただ、契約の組み方は知っています。ルーンで経路を結び、あなたをこちらへ留められるか確かめます。聖杯の仕組みそのものに手を入れるわけではありません」

 

「それ、君の身体にはどのくらい響く?」

 

問いは、すぐに来た。

 

「繋ぐときに、少し使います。今の私でも、足りるはずです」

 

「はず、か」

 

「はずです」

 

ランスロットは、それ以上は突かなかった。

 

「繋いだあとは? 俺が今、手持ちから削ってる分を、君からもらうことになるんだよね?」

 

「ええ。ですから、流す量は絞ります。今の私から送れるのは、あなたを繋ぎ留めて、消えないようにしておく程度です。それ以上は出せません」

 

「分かった。なら、こっちも使う量を絞る。昨夜みたいに力を回し続けるのは難しいね。……令呪は、どうなる?」

 

「出ません。令呪は、聖杯がマスターに与えるものです。これは聖杯を通さない契約ですから。……私が、正規のマスターに戻るわけでもありません」

 

「命令する権利みたいなものも?」

 

「ありません。この契約に、命令を強制する力はありません」

 

ランスロットは小さく頷いた。

彼女は、訊かれる前に付け足した。

 

「前の契約も、戻りません。奪われた令呪も、ランサーとの繋がりも……この接続では、取り戻せません。向こうにある契約や令呪を消すこともできません」

 

「うん」

 

彼はその先を待った。

バゼットも、まだ彼から聞いていない答えを待っていた。

 

「あなたは、どうしたいのですか?」

 

ランスロットの目が、わずかに動いた。

 

「この世に、残りたいのですか?」

 

少しの間があった。

ランスロットは窓のほうへ視線を流しかけて、途中でやめた。こちらへ戻ってくる。

 

「……残りたいよ」

 

穏やかな声だった。けれど、迷っている声ではなかった。

 

「なんでここにいるのかも分からないまま消えるのは、嫌だ。分からないなら、せめて確かめてからにしたい。それに――君の傷がちゃんと診てもらえるところまでは、見ていたい。これは、俺の都合だけど」

 

彼女は頷いた。

 

「私にも、あなたの手が要ります」

 

口にしてみると、思っていたより抵抗なく言えた。

 

「治療の当てをつけるまで、この身体を守る手。ここを移るにも、外の様子を知るにも。……それに、私の腕と契約を奪った相手がいます。このまま終わらせるつもりはありません。そのためにも、今の私一人では足りない」

 

誰なのか、ランスロットは訊かなかった。

 

「繋いだら、君の傷の方は?」

 

「何も変わりません。負担が増える分、治療は急がなければならなくなります」

 

「じゃあ、治療の当ては、繋いだあとも探し続ける。そこは変えない」

 

「ええ」

 

「それと、もう一つ」

 

彼女は、肘掛けに預けていた頭を少し起こした。

 

「異常があれば、言ってください。力が足りなくなったとき、身体のどこかがおかしいとき。私も、送るのがきつくなったら伝えます」

 

「俺のは、多少なら――」

 

「多少でも、です」

 

言葉を遮った。自分でも、声が硬くなったのが分かった。

 

「黙っていられると、こちらで量を合わせられません。私の判断が狂います」

 

ランスロットは、何か言いかけた口を閉じた。

しばらく彼女を見てから、短く息を吐いた。

 

「……分かった。言う」

 

それで、並べるべきものは並んだはずだった。

ランスロットは、それでもすぐには頷かなかった。膝の上で指を組み直し、視線をいったん床の盆へ落としてから、上げる。

 

「一つだけ、確かめさせてほしい」

 

さっきまでより、声が低かった。

 

「昨夜助けたから、繋がなきゃいけないって……そう思ってはいない? もし、借りを返すつもりなら――」

 

「思っていません」

 

彼女は、彼の目を見て言った。

 

「感謝はしています。それは本当です。ですが、それとこれとは別の話です」

 

一度、息を継ぐ。

 

「私に必要だから、この方法を持ちかけています。あなたにも必要だと、今、確かめました。……恩をどう返すかは、私が決めます。あなたに先回りして決めてもらうことではありません」

 

ランスロットは、黙って聞いていた。

 

「……そうか」

 

組んでいた指がほどけた。

 

「なら、俺からも頼む」

 

ランスロットは、椅子の上で背筋を伸ばした。

 

「バゼット。繋いでくれ」

 

その名で呼びかけられたのは、初めてだった。

 

「――引き受けます」

 

◇

 

バゼットは毛布の上で、右手の指を一度伸ばした。

 

「手を、貸してください」

 

ランスロットは椅子ごと少し身を寄せ、右手を差し出した。掌を上に向け、毛布の上、彼女の右手が届くところで止める。

 

バゼットは人差し指を、その掌へ下ろした。

 

乾いた、温度のある皮膚だった。昨夜、首筋の脈を探っていたのと同じ手だ。

 

目を閉じ、自分の内側へ意識を落とす。

魔術回路は、そこにあった。細い。

呼び起こすと、疲れきった身体の底から、少しずつ応えが返ってくる。

汲み上げられる量は、普段の何分の一もない。

それでも、繋ぐぶんには足りる。――足りるはずだった。

 

汲み上げたものを、指先に乗せる。

 

最初の一画を引いた。

手首を毛布に預け、指先を進める。一画ずつ、形を確かめながら結んでいく。

指の通った跡が、ほんのかすかに温かくなった。

 

形が閉じたところで指を止め、目を開けた。

 

「今から、こちらの経路をそちらへ伸ばします。弾かないでください」

 

「弾く?」

 

「あなたの霊基が抵抗すると、繋ぎにくくなります。……こちらからの魔力を、受け入れてください」

 

ランスロットは少し黙った。それから、短く息を吐いた。

 

「分かった。……今、少し緩めた」

 

彼女は、薄れかけた感覚を彼へ向けた。

濃い気配の、その表面。昨夜から、どこへも向かっていなかったもの。

そこに、さっきまではなかった綻びがあった。

指先を置いた掌の真ん中から、内側へ続く細い隙間だ。

 

そこへ、自分の経路の端を伸ばした。

 

掛かった。

 

身体の内側で、何かが一本、張った。

細い糸を、どこかへ結びつけたような感触だった。

結び目の先に重さがあって、その重さが、糸を伝ってこちらをわずかに引いてくる。

 

ランサーと結んでいたものとは、流れの手応えが違う。

彼女は今繋いだばかりの経路へ、慎重に意識を沿わせた。

 

引く力が、少し強くなった。

 

胸の奥から、何かが流れ出していく。視界の端が、じわりと暗くなった。額に汗が滲む。

――多い。

 

そう判断して魔力の流れを絞り始めたのと、ランスロットが口を開いたのは、ほとんど同時だった。

 

「今、ちょっと多い。こっちで絞る」

 

引く力が、すっと弱まった。

彼女も、自分の側から送る量をさらに落とす。流れが細くなり、暗くなりかけた視界が少しずつ戻ってきた。

 

「……どうですか?」

 

「足りてる。繋ぎ留めてもらうだけなら、このくらいでいい」

 

「こちらも、今の量なら保てます」

 

彼女は、そのまましばらく待った。

糸は切れなかった。細く張ったまま、流れは同じ量を保っている。掌から指を離しても、変わらなかった。

 

留め具が、掛かった。

 

「……繋がりました」

 

ランスロットは、差し出していた手をゆっくり引いた。掌を一度見下ろして、軽く握る。

 

「うん。引っ張られる先が、できた」

 

彼女は、もう一度だけ感覚を彼へ向けた。

濃い気配は、変わらずそこにある。昨夜のような揺らぎは、今は感じられない。その気配から細い線が一本、こちらへ伸びていた。

 

「助かった。ありがとう」

 

「……まだ、繋いだだけです」

 

ランスロットは、それ以上は重ねなかった。

 

彼女は、肘掛けに頭を戻した。

身体は、繋ぐ前より重かった。左の傷口の熱も痛みも、何ひとつ変わっていない。

そのうえ、細い糸一本ぶんを、今も少しずつ持っていかれ続けている。

 

「そっちは、大丈夫?」

 

「疲れました。それだけです」

 

言ってから、自分が求めた条件を思い出した。多少でも、と言ったのは自分だった。

 

「……少し、眩暈があります。流れを絞ってからは、治まってきています」

 

ランスロットは頷いた。

 

「俺の方は、消えずに済みそうだ。ただ、余裕があるわけじゃない。しばらくは、使う力を抑えるよ」

 

「分かっています。そういう量しか、送っていません」

 

バゼットは、毛布から覗く包帯へ一度目を落とした。長くこの館に留まれないことは、変わらない。

 

「運ぶ、と言いましたね?」

 

「言った」

 

「今の量で、私を抱えて、どのくらい動けますか?」

 

ランスロットは少し考えた。

 

「急がなければ、しばらくは。歩いて運ぶくらいなら、今の供給と残ってる力でやれる。走ったり跳んだりは、今はやめておきたい」

 

「それで十分です」

 

彼女は、ソファの脚のほうへ目をやった。

 

「なら、連絡を取って、行き先を決めます。……鞄を、取ってもらえますか? 連絡の手段が入っています」

 

ランスロットは椅子から身を屈め、鞄の持ち手を掴んだ。留め具には触れないまま持ち上げ、毛布の上、彼女の右手のそばへ置く。

 

「これでいい?」

 

「ええ」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。