無銘の湖光 ~ランスロットとして目覚めた俺は、名を失っても世界を紡ぐ~   作:カノープス・ギア

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第3話_針のずれた夜

窓の外は、とうに暗くなっていた。

 

厚手のカーテンの縁から、街灯の明かりがわずかに滲んでいる。

部屋の灯りは、枕元の小さなスタンド一つに落としてあった。

 

シーツは乾いていて、糊の匂いがした。

その奥に、薬草を煎じたような匂いと、鼻の奥を刺す薬品の匂いが薄く混じっている。

昨夜の館の、黴と埃の匂いとは違った。

 

バゼットは仰向けのまま、天井を見ていた。染み一つない、白い天井だった。

 

朝、鞄を受け取ったバゼットは、以前からの伝手に連絡を入れた。

負傷していて、処置が要る。連れが一人いるが、その素性は訊かないでほしい。

それを呑めないなら、この話はなかったことにしてほしい、と。

誰にやられたのかは、言わなかった。

 

向こうが条件を呑み、落ち合う先を告げた。そこから先は、ランスロットの仕事だった。

 

彼は、約束したとおりに歩いた。

彼女の指示した道を辿り、一度も走らず、跳ぶこともしなかった。

彼の腕の中で、眩暈がひどくなったと告げたのは二度。

二度とも、彼はその場で足を止め、彼女が息を整えて合図するまで動かなかった。

 

処置の間は、部屋の外で待っていてください。そう頼むと、彼は廊下へ出ていった。

処置が終わり、眠りから浮かび上がったときも、扉の向こうにあの気配があった。

自分が思っていたより長く息を吐いたことを、彼女は覚えている。

 

処置をした相手は、多くを言わなかった。当面は保つ。ただし、しばらくは動かないこと。それだけを二度言って、部屋を出ていった。

 

傷口を覆う包帯は、新しかった。昨夜の布とは巻き方が違う。

きつく、正確で、どこにも緩みがない。

痛みは、遠くなっていた。消えたわけではない。

厚い布を何枚も隔てた向こうで、まだ鈍く脈を打っている。

 

寝返りを打とうとして、やめた。身体の左側に、支えるはずのものがない。

重さの釣り合いが、まだ身体に馴染んでいなかった。

 

毛布の下で、左手の指を握ろうとした。

握る指は、どこにもない。

それでも、握ろうとした感覚だけが、一瞬、確かにそこにあった。

 

頭を少し動かすだけで、視界の縁が白む。

右手の指先はまだ冷たく、喉が渇いた。

痛みが和らいでも、身体を起こすだけの力は戻っていなかった。

 

ランスロットは、扉の脇の椅子にいた。

扉と窓、それから寝台が一度に視界に入る角度に、椅子を置いている。

館にいたときと、同じ置き方だった。

 

彼女は、自分の内側の細い線へ意識を向けた。

線は、朝繋いだときのまま張っている。流れは細く、途切れていない。

向こうから引かれる重さも、変わっていないように思えた。

 

「……魔力は、足りていますか?」

 

ランスロットが、こちらへ顔を向けた。

 

「今は足りてるよ。昼に少し使ったけど、ここで座ってる間は減ってない。長く戦う余裕まではないけどね」

 

少し間を置いて、訊き返してくる。

 

「そっちは? 送るの、きつくない?」

 

「今の量なら」

 

言ってから、付け足した。

 

「眩暈は、送っているせいではないと思います。……たぶん」

 

「そっか。でも、ひどくなるようなら教えて」

 

バゼットは頷いた。

ここを知る者は、ごく限られている。それでも、誰にも追われていないとまでは言い切れなかった。

 

「今夜、この部屋と廊下を見ていてもらえますか?」

 

ランスロットは一度、扉のほうへ目をやった。

 

「うん。ここからでいい?」

 

「はい。外へは出ないでください。気配を探るのも、最低限で」

 

「それなら、ほとんど使わずに済むよ。任せて」

 

バゼットは頷きかけて、もう一つだけ付け足した。

 

「……何かあれば、私を起こしてください」

 

「分かった。何もなければ、そのまま休んでて」

 

「お願いします」

 

目を閉じる。

瞼の裏が暗くなると、部屋の音がはっきりした。

カーテンの向こうを、遠く車が一台通り過ぎていく。

自分の呼吸。

スタンドの電球が立てる、かすかな唸り。

 

扉の脇からは、何の音もしなかった。椅子が軋むことも、衣擦れもない。

それでも、そこにいるのは分かった。細い線の先の重さは、少しも動いていなかった。

 

身体の奥で張っていたものが、ひとつ緩んだ。

今夜の見張りは、自分の仕事ではない。

 

バゼットは枕に頬を沈め、眠りへ身体を明け渡した。

 

◇

 

――数時間前。

 

硬い音が、立て続けに三度、夜の校庭に響いた。

 

遠坂凛の目が追えたのは、そのうちの最後の一度だけだった。

赤い槍の穂先がアーチャーの左の剣に弾かれ、斜め上へ逸れる。

逸れた先を見届けるより早く、槍はもう引き戻されていた。

 

穂群原学園の校舎の窓はどれも暗く、照明の消えた校庭を照らしているのは、薄い月と、遠い街明かりの照り返しだけだ。

その暗がりの中で、青い影と赤い影が、一定の距離を保って動いていた。

 

槍の穂先はアーチャーの胸に届き、アーチャーの剣はランサーに届かない。

槍兵は、その距離を崩さなかった。アーチャーが半歩踏み込めば、同じだけ退がりながら突く。横へ回り込もうとすれば、穂先がもうそちらへ先回りしている。

アーチャーが足を止める場所は、ことごとく槍の先に決められていた。

 

凛は校庭の端で、背をフェンスに寄せて立っていた。

アーチャーが動けば、彼女も動く。

槍の穂先と自分とを結ぶ線の上に、必ずアーチャーの背中があるように。

それでいて、あいつが退がってきたときにぶつからないだけの距離は空けておく。

 

右手の指の間には、宝石を一つ挟んでいた。

撃つことは、何度か考えた。そのたびにやめた。

あの速さの相手に撃ち込むなら、今いる場所ではなく、次にいる場所を狙わなければならない。外せば、当たらないだけでは済まない。

アーチャーの次の一歩を、こちらの魔術で縛ることになる。

 

視線を、戦いの外へ流す。

屋上の縁。校舎の角。体育館へ続く渡り廊下の暗がり。

槍兵を使っている魔術師が、どこかで見ていてもおかしくない。

どこにも、それらしい影はなかった。見当たらないことが、かえって気に入らなかった。

 

槍が、また来た。

 

今度の突きは、正面からアーチャーの胸を狙っていた。

アーチャーは受け止めなかった。右の剣を、槍の柄へ斜めに添えただけだった。

同時に、左足が外へ半歩ずれる。穂先は剣の腹を滑り、赤い外套の脇を抜けていった。

 

外へずれた足が、そのまま前へ出る。

槍の柄に剣を沿わせたまま、アーチャーの身体が柄を辿るように間合いの内側へ滑り込んだ。今度は、左の剣がランサーの首の高さを横に払う。

 

距離が、一息に縮んだ。

短い金属音。次に凛が捉えたのは、石突きに近い部分で刃を受けたランサーが、二歩ぶん後ろへ跳ぶ姿だった。柄をどう回したのか、その手元までは追い切れなかった。

 

ランサーが、口の端を吊り上げた。

 

「へえ。ずいぶん剣に慣れてるじゃねえか。本当に弓兵か?」

 

「弓を引かせてくれる相手なら、こちらもその方が楽なんだがね」

 

アーチャーの声は、息一つ乱れていなかった。

 

ランサーは笑った。愉快そうに、短く。

そして、突くのをやめた。

 

穂先が、ゆっくりと下がる。

さっきまでの速さが嘘のように、槍兵は構えたまま、半歩ずつ横へ歩き始めた。

アーチャーも同じだけ、反対へ回る。

凛は息を詰めた。速さで押していた相手が、急に間を変えた。

次が、さっきまでと同じ拍で来るとは思えなかった。

 

来た。

地を這うような低い位置から、石突きがアーチャーの足首を払いにいく。

アーチャーが跳んでそれを越える。その跳んだ先へ、今度は穂先が上から落ちてきた。

 

金属の音が、一息のうちに二つ重なった。

凛に見えたのは、双剣を頭上で交差させたアーチャーが、着地と同時に一歩退がっていたことだけだった。どちらの剣が何を受けたのかまでは、追えなかった。

 

再び、距離が開く。

ランサーが、腰を落とした。アーチャーの重心が、わずかに前へ移る。

 

次の攻防に入る。凛がそう思った、その瞬間だった。

 

槍の穂先が、わずかにアーチャーから逸れた。

 

構えは崩れていない。狙いが外れたのではなかった。

ランサーの顔が、アーチャーではなく、校舎のほうへ向いていた。

 

一拍遅れて、凛の耳にも届いた。

砂利を蹴る音。誰かが、走っている。

 

校舎の角の暗がりで、影が一つ動いた。人の形をしている。

こちらに背を向けて、校舎の入口のほうへ、転がるように駆けていく。

顔は、見えなかった。

 

――人がいた。こんな時間に。

 

「チッ」

 

舌打ちとともに、ランサーが地を蹴った。

 

「待ちなさい!」

 

凛が叫んだときには、青い影はもう校舎の角へ消えていた。

 

◇

 

赤と青が、まだ目の裏に残っていた。

 

暗い校庭で、人の形をした何かが二つ、ぶつかり合っていた。

火花が散っていた。金属の音が耳に残っているうちに、次の音が重なっていた。

あれは、見てはいけないものだった。なぜなのかは分からない。

分からないまま、身体の方が先にそう決めていた。

 

衛宮士郎は、校舎の中を走っていた。

 

外は駄目だ。校庭から校門まで、遮るものが何もない。

校舎の中なら、廊下も階段も曲がり角もある。

見えなくなれば、それでいい。

見失ってくれれば――

 

昇降口を抜け、廊下を曲がる。靴を履き替える暇などなかった。

靴底が床を叩く音が、誰もいない校舎にやけに大きく響く。

息が上がっていた。心臓が、喉のすぐ下で暴れている。

 

後ろから、足音はしなかった。

 

それが、何より怖かった。

あの速さで動くものが追ってきているのなら、音がしないはずがない。

追ってきていないのなら、それでいい。

どちらなのかは、振り返らなければ分からなかった。

 

二つ目の角を曲がったところで、振り返った。

廊下は暗く、空っぽだった。非常灯の緑が、床にぼんやり落ちているだけだ。

 

撒いた。

そう思った。膝に手をつき、肺へ空気を押し込む。

それから、前へ向き直った。

 

廊下の先に、男が立っていた。

 

青い装束。手には、赤い長物。

さっきまで校庭の真ん中にいたはずの男が、士郎がこれから駆け抜けるはずだった廊下の先に、ただ立っていた。

 

どうして、とは思わなかった。

思う前に、分かってしまった。

自分が息を切らして角を二つ曲がる間に、この男には、ここへ先回りして待つだけの時間があったのだ。

 

「悪いな、坊主」

 

男の声は、驚くほど普通だった。

 

「見られちまった以上、生かしとくわけにはいかねえんだ」

 

士郎の足が、後ろへ下がった。

身体をひねる。来た道へ。一歩でいい。

角まで戻れば、階段が――

 

振り向ききる前に、胸に何かが当たった。

 

痛みより先に、熱が来た。

見下ろすと、赤い槍の柄が、自分の胸へまっすぐ繋がっていた。

 

槍が抜かれた。

支えを失ったように、膝が折れる。床が、頬に冷たかった。

身体の下に、何か温かいものが広がっていく。

それが自分の血だと分かるまで、少しかかった。

 

足音が、遠ざかっていく。今度は、ちゃんと聞こえた。

 

息を吸おうとして、吸えなかった。

暗い廊下が、さらに暗くなっていく。

非常灯の緑が、にじんで、ほどけて――

 

◇

 

血の匂いが、角の向こうから届いていた。

 

凛は、そこで一度足を止めた。

 

ランサーの気配は、すでに校舎から遠ざかっていた。

追うよりも先に、血の匂いのするほうへ足が向いた。

 

「アーチャー、外を見ていて。戻ってくるようなら知らせて」

 

「了解した」

 

短い返答を背に、凛は角を曲がった。

 

廊下の真ん中に、人が倒れていた。

うつ伏せで、片腕が投げ出されている。

その身体の下から黒い水たまりが広がり、非常灯の緑を映していた。

 

凛は駆け寄って屈み込み、肩を掴んで仰向けに返した。

重い。力の抜けきった身体の重さだった。

 

顔が、緑の光の中に浮かんだ。

 

「――衛宮、くん」

 

自分でも驚くほど、掠れた声が出た。

 

同じ学校の、同じ学年の男子。まともに話したことはほとんどない。

それでも、見間違えようがなかった。

 

胸の真ん中に、穴が開いていた。

首筋に指を当てる。

脈は、まだあった。

弱く、途切れがちで、次の一拍が来るかどうかも分からない。

けれど、まだ。

 

この争いを見た者は、始末される。ランサーはそれを実行した。

自分まで関われば、余計な危険を抱え込むことになる。

 

それでも、助ける手段はあった。

 

胸元の、ペンダント。

父から受け継いだ宝石だった。

長い年月をかけて魔力を溜め込んできた、手持ちの中でいちばん大きな切り札。

この戦争のために取っておいたものだ。

ここで使えば、その蓄えは失われる。

 

凛は、奥歯を噛んだ。

 

「……冗談じゃないわよ」

 

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

指はもう、首の後ろの留め金を外していた。

 

鎖ごとペンダントを掴み、宝石を胸の穴の上へ押し当てる。

血で、指が滑った。構わずに押さえつける。

目を閉じて、息を吸った。

 

溜め込まれていたものを、一息に解く。

掌の下で、宝石が熱を持った。

膨大な魔力が、指の間から溢れ出していく。

はそれを、壊れた心臓の形へ流し込んだ。

欠けたところを埋め、裂けたところを繋ぎ、止まりかけた拍をもう一度打たせる。

細かな手順は、考えるより先に手が知っていた。

考えていたのは、一つだけだった。

 

――止まるな。

 

どれほどの時間だったのか、分からない。

掌の下の熱が、引いていった。

宝石の中にもう何も残っていないことが、指先から伝わってきた。

 

凛は目を開けた。

 

胸の穴は、塞がっていた。破れたシャツの下に、血に汚れた肌がある。

それだけだった。

首筋へ、もう一度指を当てる。

脈があった。さっきとは違う。遅く、けれど一定の間隔で、確かに打っている。

胸が、小さく上下した。一度。もう一度。

 

凛は、その場に座り込んだ。

膝から力が抜けていた。手が震えている。血に濡れた指先が、ひどく冷たかった。

 

「……馬鹿みたい」

 

いつ目を覚ますかは分からない。何をしたのか、なぜここにいたのか。

問いかけられる前に、離れておきたかった。

 

凛は壁に手をついて、立ち上がった。

最後に一度だけ、倒れた顔を見下ろす。

土気色だった頬に、ほんのわずか、血の色が戻っていた。

 

それを確かめてから、彼女は廊下の角を曲がった。

 

◇

 

冷たかった。

 

背中の下の床が冷たい。そ

れから、濡れている。鉄の匂いが、鼻の奥にこびりついていた。

 

士郎は、目を開けた。

緑色の光。非常灯だ。学校の、廊下の。

 

――刺された。

 

跳ね起きようとして、肘が滑った。床に広がった、赤黒いものの上だった。

胸へ手をやる。シャツが、真ん中から裂けている。

布地は血を吸って重く、肌に張りついていた。

その下を、指で探った。

 

穴は、なかった。

血でぬるついた肌があるだけだ。押しても痛まない。

掌の下で、心臓が打っている。速く、けれど規則正しく。

 

「……なんで?」

 

声が、ひどく掠れた。

 

あの男の槍は、確かにここを通った。熱も、床の冷たさも、遠ざかる足音も覚えている。あれが夢だったのなら、この血は何だ? この裂けたシャツは……。

 

廊下を見回した。誰もいない。窓の外も、校庭も、しんと静まり返っている。

誰かが、何かをした。そうとしか考えられなかった。

けれど、誰が何をしたのかまでは分からなかった。

 

士郎は裂けたシャツを上着で隠し、校舎を出た。

家までの道は、人通りの少ないほうを選んだ。何度も、振り返った。

 

◇

 

帰り着いた衛宮邸は、暗かった。

 

居間の灯りを一つだけ点けて、士郎は畳の上に座り込んでいた。

着替えたシャツの下で、心臓はまだ打っている。

そのことを、さっきから何度も確かめていた。

 

見てはいけないものを見た。あの男は、そう言っていた。

見た者は、生かしておかない。

 

――だとしたら。

 

からん、と。

どこかで、鐘に似た音が鳴った。

 

士郎は顔を上げた。

この家には、昔、切嗣が張った結界がある。

悪意を持ったものが敷地へ入り込めば、それを報せる。

その音を実際に聞いたのは、初めてだった。

 

音は一度きりで止んだ。

家の中は、また静かになった。静かすぎた。

 

――来た。

 

武器になるものを探して、目が居間を走った。

包丁は台所だ。遠い。竹刀の一本もない。

手の届くところにあったのは、部屋の隅に立てかけた、丸めたままのポスターだけだった。

 

それを掴んだ。

ただの紙の筒だ。こんなもので、どうにかなるはずがない。

 

それでも、この場で頼れる魔術が一つだけあった。

毎晩、土蔵で繰り返してきた強化。ほとんど成功したことはない。

 

目を閉じ、紙の筒へ意識を通す。

構造を探る。繊維の目。巻かれた層の重なり。

そこへ自分の中の熱を流し込み、隙間を埋めていく。

いつもなら、どこかで弾かれる。流したものが逃げて、何も変わらずに終わる。

 

今夜は、逃げなかった。

手の中で、紙の筒が硬く張った。握った指に、木刀のような手応えが返ってくる。

 

縁側の障子が、音もなく開いた。

 

月明かりを背に、青い男が立っていた。

 

心臓が、一度大きく跳ねた。学校の廊下で見たのと同じ顔。同じ、赤い槍。

 

男は士郎を見て、わずかに眉を上げた。

それから、面倒くさそうに長く息を吐いた。

 

「……確かに、止めたはずなんだがな」

 

独り言のような声だった。

 

「まあいい。今度こそ、きっちり終わらせる」

 

槍が来た。

 

見えたわけではなかった。男の肩が、わずかに沈んだ。

その瞬間、身体が勝手に紙の筒を前へ出していた。

硬い音がした。

両腕が、肘まで痺れる。穂先は筒の表面を削って、脇腹のすぐ横を抜けていった。

 

受け止めたのではない。突き出した筒に触れて、穂先が逸れただけだ。

両腕の痺れが、次も同じようにできるとは限らないと教えていた。

 

男の目が、筒へ落ちた。

 

「へえ。坊主も、魔術師の端くれか?」

 

次は、薙ぎだった。

 

筒を立てて受けた。受けた、と思った瞬間には、足が畳を離れていた。

背中に障子の桟が当たる。紙と木が裂け、続いて硝子の砕ける音。冷たい夜気が頬を打った。

士郎は、庭へ転がり出ていた。

 

土の上を、肩から転がる。息が詰まった。

起き上がる。膝が笑っている。

庭の向こうに、土蔵の影が見えた。

 

狭いところなら。

あの長い槍を、振り回せないところなら。それが正しいのかどうか、考えている暇はなかった。士郎は走った。

 

背後で、砂利を踏む音がした。

 

追いつかれる。分かっていた。

土蔵の扉まで、あと数歩。その数歩のうちに、背中へ風が来た。

 

振り向きざまに、筒を振った。

槍の柄と、正面からぶつかった。

 

筒が、真ん中から折れた。

 

衝撃が、そのまま胸へ抜ける。身体が後ろへ飛んだ。背中で土蔵の扉を押し開け、暗い床へ叩きつけられる。

 

埃と、油の匂い。

散らかったがらくたの影。直しかけのストーブ。壊れたラジオ。毎晩ここに座って、手を動かしてきた場所だった。

 

入口に、青い男が立った。

月明かりが、その輪郭だけを切り取っている。

槍の穂先が、まっすぐこちらを向いていた。

 

「狭いところに逃げ込んだのは、悪くねえ」

 

男は一歩、中へ入った。

 

「だがな。突くだけなら、ここでも十分だ」

 

士郎は、床を這うように後ずさった。

背中が何かにぶつかる。もう、下がれなかった。

左手が、床に触れた。

 

冷たい床。そこに刻まれた、古い線。

毎晩ここにいても、何のためのものなのか分からないままだった紋様。

 

左手の甲が、焼けるように熱くなった。

 

穂先が、引かれた。

突く前の、一瞬の溜め。

 

――また、か。

 

また、何もできずに。

 

「ふざけるな……!」

 

声が喉を擦った。

誰なのかも分からない相手に、一度は助けられたのだ。

それを、こんなところで。

 

床が、光った。

 

足元の線を伝って、光が走る。一本ではない。刻まれていた紋様のすべてが、一斉に。

風が起きた。土蔵の中で起きるはずのない風だった。

埃が舞い上がり、がらくたが鳴り、士郎の前髪が後ろへ吹き払われる。

 

光の中に、誰かがいた。

 

いつ現れたのか、分からなかった。

気づいたときには、士郎と入口との間に、小さな背中があった。

 

槍が、突き出された。

その穂先を、何かが弾いた。

 

金属同士の、硬い音。けれど士郎の目には、少女の手の中に何も見えなかった。

何も持っていないはずの両手が、何かを握る形で振り抜かれ、赤い槍が大きく横へ逸れていた。

 

少女が、一歩踏み込んだ。

 

青い男の身体が、後ろへ押し戻される。入口の外、庭の砂利の上まで。

男は踏みとどまり、槍を構え直した。その顔から、さっきまでの面倒くさそうな色が消えていた。

 

光が、ゆっくりと収まっていく。

 

少女は、土蔵の入口に立っていた。士郎に背を向け、庭の男と正面から向き合って。

青い衣。その上から、月の光を撥ね返す銀の防具。まとめ上げた、金色の髪。

小さな背中だった。士郎よりも、ずっと。

それでもその背中は、槍の穂先と士郎との間から、一歩も退かなかった。

 

騎士、という言葉が頭に浮かんだ。

 

「私をこの場に呼んだのは、あなたですか?」

 

少女は庭の男から目を離さず、声だけをこちらへ向けた。

澄んだ、まっすぐな声だった。

 

「……呼んだ?」

 

士郎には、何のことか分からなかった。呼んだ覚えなどない。床が光って、風が起きて、気づいたらこの背中があった。

 

左手の甲が、まだ焼けるように熱い。

目を落とすと、赤い紋様が浮かんでいた。見たことのない形だった。皮膚の内側から、滲み出してきたように見える。

 

少女の視線が、一瞬だけ士郎の左手へ流れ、すぐに庭へ戻った。

 

「その手の徴が、私を呼んだ証です。あなたが、私のマスターです」

 

「分からない。何がなんだか、全然……」

 

士郎は少女の背中を見上げた。

 

「……でも、お前が助けてくれたんだよな?」

 

「ええ。私はセイバー」

 

少女の肩が、わずかに沈んだ。

 

「今は、そこにいてください。話は、あとで」

 

セイバー。

士郎は、その響きを口の中で繰り返した。それが名前なのかどうかも、分からないまま。

 

庭の男が、低く笑った。

 

「セイバー、ね。……よりによって、一番厄介なのが出てきやがった」

 

言い終わる前に、槍が走った。

 

少女が、土蔵の入口から一歩外へ出た。扉を背にしたまま、その正面に立つ。

突きが来る。少女の両手が、見えない何かを振り抜いた。硬い音がして、穂先が逸れる。

 

男は、逸れた勢いを殺さなかった。そのまま横へ回り込む。少女の脇をすり抜ける角度で、槍が再び突き出された。

狙いは、少女ではなかった。開いたままの扉の奥、暗い土蔵の中。士郎のいる場所だった。

 

士郎の身体が強張った。

 

穂先が扉の内側へ届く前に、少女がその線上へ踏み込んでいた。見えない何かが、槍を上から叩き落とす。砂利が弾けた。

男は跳び退って、距離を取り直した。

 

「……なるほどな。坊主から離れる気はねえってわけか」

 

少女は答えなかった。扉の前に戻り、見えない何かを構え直す。

男の目が、その手元に留まっていた。

 

「得物も見せねえとは、行儀の悪い剣士だ」

 

言いながら、男は半歩ずつ横へ歩き始めた。その目が、少女の手元と足元を行き来する。

セイバーはそれに合わせて身体の向きを変えた。土蔵へ入らせない位置は、譲らなかった。

 

士郎は、そばの棚に手をかけて立ち上がった。

膝が震えている。二人の動きの速さは、とても目で追えなかった。それでも、一つだけは分かった。

あの背中は、さっきから一度も、この扉の前を空けていない。

 

月明かりの下で、赤い穂先と、見えない何かが、互いの間合いを測っている。

どちらも、構えを解いていなかった。

 

◇

 

その夜、教会の奥はしんとしていた。

 

燭台の火が一つ、揺れもせずに立っている。石の壁が、夜の冷えをそのまま溜め込んでいた。

言峰綺礼は、霊器盤の前に立っていた。

 

新たな反応が一つ加わったのは、少し前のことだ。

セイバー。

最後まで空いていた席が、今夜埋まった。これで、七つのクラスはすべて揃ったことになる。戦争は、ようやく形を得た。

 

盤は、それを正しく示していた。そこまでは、何も問題はない。

 

綺礼の目は、別のところで止まっていた。

 

盤の上に、何かが残っている。

反応と呼ぶには、あまりに輪郭がない。どのクラスの徴としても読めない。けれど、何もないと言い切るには、はっきりしすぎていた。

いつからそこにあったのかも、分からなかった。

 

綺礼は、一度盤から目を離した。

燭台の火を見る。呼吸を一つ置いてから、改めて盤へ向き直った。

 

同じだった。

セイバーの反応は、正しくそこにある。そして、どの席にも属さない場所に、ぼやけたものが残っている。

 

盤の狂いか? 今夜の召喚が、何かを揺らしたのか?

それとも……。

 

いずれとも決められない。原因を絞るには、材料が足りなかった。

 

「……噛み合わんな」

 

独り言は、石の壁に吸われて消えた。

 

綺礼は燭台を手に取った。部屋を出る前に、もう一度だけ盤を振り返る。

ぼやけたものは、変わらずそこにあった。

 

調べるべきことが、一つ増えた。

 




来週も不定期ですが、出来上がったら投稿しようと思います。
だいたい週2で投稿できればと考えています。

因みに全く関係ありませんが、私のFGOの押しはーー邪ンヌです!
光コヤンとバスターでゴリ押ししていたのは懐かしいですw

あと、記憶に懐かしいですが、まだ動きが今みたいにぬるぬる動かなった時代
第一章のゴリラ戦は苦難でしたね。
ギフトとは?太陽?はぁ?硬すぎ!!?って嘆いたのも覚えています。
令呪やゴリ押しでも勝てないし、仕方がなく攻略wikiみて、、、、
エウリュアレの余りにも刺さる男性特攻。
攻略できたとき、脳汁ドバったのも今でも覚えていますw

それではまた、来週~。
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