無銘の湖光 ~ランスロットとして目覚めた俺は、名を失っても世界を紡ぐ~   作:カノープス・ギア

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第4話 不整合

 

カーテンの縁が、白んでいた。

 

昨夜、街灯の明かりが滲んでいたカーテンの隙間から、今は冬の朝の光が細く差し込んでいる。

枕元のスタンドは点いたままだったが、その黄色い灯りはもう薄かった。

 

目を開けても、バゼットは自分がどこにいるのかを探さなかった。

糊の匂いのするシーツも、白い天井も、眠る前と変わらなかった。

 

扉の脇へ、目を向ける。

 

彼は、椅子にいた。

昨夜と同じ場所、同じ向きで。扉と窓と寝台を視界に入れたまま、背もたれへ軽く背を預けている。

こちらが見ているのに気づいたのか、顔が向いた。

 

「おはよう」

 

「……おはようございます」

 

声は掠れていた。それでも、昨夜ほど頼りなくはなかった。

 

「夜の間に、何かありましたか?」

 

「何も」

 

短い答えだった。少し間を置いて、ランスロットは付け足した。

 

「外の道を、車が何台か通ったくらいかな。夜の間は、この部屋にも廊下にも誰も来てない」

 

「……そうですか」

 

息を吐いた。

一度も目を覚まさなかった。

扉のほうの気配を確かめることもなく、目を閉じたところから、そのまま朝へ続いていた。

 

身体の具合を、順に確かめていく。

痛みは、眠る前と同じ遠さにあった。

厚い布の向こうで鈍く脈を打つだけで、夜の間に近づいてきた様子はない。

右手の指先は、もう冷たくなかった。喉の渇きは、相変わらずだった。

枕の上で、頭を少し転がしてみる。視界の縁は、白まなかった。

 

寝返りを打とうとして、身体の左側へ重さを預けかけ、途中で止めた。

止めるのは、昨夜より早かった。

 

横になったままでは、話もしにくい。身体を起こしたかった。

ただ、一人でやれば、どこで部屋が傾くか分からない。

昨日の朝、肘掛けまで背中をずらすだけにかかった時間を、身体のほうが覚えていた。

 

「起きたいのですが」

 

言いかけたところで、ランスロットはもう椅子から立っていた。

 

「腕を、貸してもらえますか? 私がそれにつかまって起きます。背中は……傾いたときだけ、支えてください」

 

「分かった」

 

ランスロットは寝台の右側へ回り、枕の脇に立った。

右の前腕を、彼女の手が届く高さへ差し出す。

もう片方の手は、まだどこにも触れていなかった。彼女の肩の後ろ、枕の少し上で止まっている。

 

バゼットは、右手でその前腕を掴んだ。

 

引こうとした瞬間、腕のほうが先に持ち上がりかけた。

 

「引かなくて、いいです」

 

腕が、止まった。

 

「私が引きます。そこに、置いておいてください」

 

「うん」

 

今度は動かなかった。

掴んだ指に体重を掛けても、差し出された高さのまま、わずかも沈まない。

 

バゼットは息を吸い、腹に力を込めた。

掴んだ手を支点にして、背中をシーツから引き剥がしていく。

 

半分ほど起きたところで、部屋が斜めに滑った。

 

「……少し、待ってください」

 

肩甲骨の間に、掌が来た。

傾いていく背の重さが、そこで受け止められた。

 

目を閉じて、待つ。

背を支える掌は動かず、瞼の裏の揺れが、ゆっくり収まっていく。

揺れが引いてから、彼女は目を開けた。

 

「枕を、背中に入れてもらえますか?」

 

「片手、外すよ。こっちの腕はそのまま」

 

背中から掌が離れ、そのぶんの重さが、掴んだ前腕へ移った。

ランスロットは空いた手で寝台の端から枕を取り、彼女の背と寝台の頭の間へ、二つ重ねて立てた。

 

掴んでいた手を少しずつ緩めて、背中を預ける。

首が、前へ押し出された。二つでは、高すぎる。

 

「……一つ、抜いてもらえますか? 首が起きすぎます」

 

ランスロットは上の枕を引き抜き、残した一つを少し手前へ直した。

 

もう一度、背中を預ける。今度は、首が枕の縁に収まった。

 

「これで、いいです」

 

右手の指を、前腕からほどいた。ランスロットは差し出していた腕を、ゆっくり引いた。

 

寝たまま見上げていた部屋が、目の高さに戻ってきた。

 

「具合は?」

 

「眩暈は、引きました」

 

少し考えてから、言い足した。

 

「昨日の朝よりは、ましです」

 

「ならよかった」

 

ランスロットは、窓際の小さな台へ目をやった。布を掛けた盆が載っている。

 

「朝ごはん、ここの人が置いていってくれた。明るくなってから、扉の前まで。……食べられそう?」

 

胃のあたりに意識を向ける。空っぽだった。ただ、昨日の朝ほどきつく縮んではいない。

 

「食べます」

 

ランスロットが窓際へ行った。布をめくると、湯気が細く立つ。陶器の触れ合う音がして、続いて、ポットから何かを注ぐ細い音がした。

 

盆を持って戻ってきた彼に、先に言った。

 

「膝の上に、お願いします。器は、右に寄せてください」

 

ランスロットは頷き、盆を毛布の上へ下ろした。深皿を右の手前へ、カップをその奥へずらす。匙の柄が、彼女の指の向く側へ回された。

 

深皿の中身は、麦の粥だった。とろりと煮崩れた粒の上で、湯気が揺れている。小皿には、くし形に切った林檎が四切れ。カップの紅茶は、縁の少し下まで注がれていた。

 

ランスロットは、椅子へ戻っていった。

 

一匙目を掬う。

薄い塩気と、麦の甘さ。熱すぎず、ぬるくもない。喉を下りて、胃の底へ落ちていく。

 

二匙、三匙と、ゆっくり続けた。

紅茶を飲むには、匙を置かなければならなかった。

匙を皿の縁に預け、カップを取り、飲み、戻して、また匙を取る。

どれも、一つずつだった。

急ぐ理由は、どこにもなかった。

 

半分ほど食べたところで、彼女は匙を止めた。

 

「……昨夜は、ありがとうございました」

 

ランスロットがこちらを見た。

 

「うん」

 

それだけ言ってから、少し首を傾げる。

 

「よく眠れた?」

 

「ええ。……一度も、目が覚めませんでした」

 

口にしてから、それが自分でも少し意外だったことに気づいた。

ランスロットの目元が、わずかに緩んだ。

 

「なら、座ってた甲斐があった」

 

もう一匙、掬う。飲み込んでから、訊いた。

 

「一晩、退屈ではありませんでしたか?」

 

「退屈」

 

ランスロットは、一拍おいた。

 

「……車を数えてた」

 

「車を?」

 

「十一台。バイクを入れると十三」

 

匙が、皿の上で止まった。

 

「それは、見張りの一環ですか?」

 

「半分はね」

 

ランスロットは、真面目な顔のまま言った。

 

「もう半分は、暇だった」

 

鼻から、短く息が抜けた。

笑ったのだと、少し遅れて気づいた。左の傷口に響くほどではなかった。

 

林檎を、指でつまんだ。

歯を立てると、固い音がした。

酸味が先に来て、あとから甘さが追いかけてくる。

冷たい果汁が、粥で温まった口の中を洗っていった。

 

粥は、底に少しだけ残した。林檎は、全部食べた。カップを盆へ戻すと、右手が少し重かった。

 

「ごちそうさまでした」

 

ランスロットが立ち、盆を膝の上から持ち上げた。窓際の台へ戻し、布を掛け直す。

それから、ついでのように枕元のスタンドへ手を伸ばして、灯りを消した。

部屋の明るさは、ほとんど変わらなかった。朝の光だけで、もう十分に明るかった。

 

彼は扉の脇の椅子へ戻った。

 

バゼットは、枕に頭を預けた。

腹の底に、温かさが残っている。身体は重い。

それでも、目を閉じたところで眠りへ引き込まれていく感じはしなかった。

 

片づけなければならないことが、順番を待っていた。

今なら、それを一つずつ口にできそうだった。

 

◇

 

窓から差す光が、床の上で少し位置を変えていた。

 

バゼットは、扉のほうを見ていた。

 

処置をした相手は、しばらく動くなと言った。

だが、寝ている間にも戦争は進んでいる。外の様子を知らずにはいられなかった。

自分の足で確かめに行けない以上、誰かから聞くしかなかった。

 

聖杯戦争の参加者が動けなくなったとき。

サーヴァントを失ったとき。本来なら、行き先は決まっている。

冬木の教会だ。

 

頭の中に並べかけた連絡先から、彼女はその名前を外した。

昨日も外した。外したまま、その理由は誰にも言っていない。

 

「……教会には、連絡しません」

 

口に出すと、ランスロットがこちらを見た。

 

「昨日、使えないって言ってた窓口は、教会のこと?」

 

「ええ」

 

ランスロットは少し黙った。それから、椅子ごと寝台のほうへ寄ってきた。

床を擦る音が、短く一度だけした。扉が視界の端に入る向きは、変えなかった。

 

「理由、聞いてもいい?」

 

「これから動くなら、何を避けるべきかは知っておきたい」

 

昨日、彼は訊かなかった。腕と契約を奪った相手がいる、と彼女が言ったときも。

今は、これから動くために必要な話だった。

 

毛布の上で、右手の指が布の縁を探って止まった。

 

「私は、魔術協会から派遣されて、この戦争に参加していました」

 

「教会は、戦争への参加を届け出る先です。サーヴァントを失ったマスターの保護も、本来はあそこが引き受けます」

 

「取り仕切る側、ってこと?」

 

「そうです。戦争を管理する役目を負っています。どの陣営にも肩入れしない、という建前で」

 

建前、と言った自分の声は、ひどく平らに聞こえた。

 

ランスロットは黙って、続きを待っていた。

 

名前は、喉のすぐ下まで来ていた。

聞き慣れた、穏やかな声。背を向けた一瞬。――その先を、今は追わない。追わなくても、名前は出せる。

 

「私を襲ったのは、言峰綺礼という男です」

 

「冬木の教会の神父です。……以前から、知っている相手でした」

 

ランスロットの表情が引き締まった。

 

「その神父さえ避ければ、教会そのものは――」

 

「教会にいるのは、彼です」

 

言葉を遮った。

 

「彼が、この戦争の監督役です」

 

ランスロットは、開きかけた口を閉じた。

膝の上で組んでいた指が、一度だけ組み直された。

 

「分かった。言ってくれて、助かった」

 

バゼットは頷いた。けれど、何か続けなければならない気がした。

 

「なぜ、彼がそうしたのかは――」

 

そこで、言葉が止まった。

 

何が起きたのかなら、話せる。誰が、どこで、何を持っていったのか。

けれど、なぜと問われると、考えはいつも同じところで止まる。

 

毛布の縁を掴んだ指に、力が入っていた。

意識して、ほどいた。

 

「……それは、分かりません」

 

「うん」

 

ランスロットは、それ以上そこへ触れず、別のことを訊いた。

 

「その人は、君が生きてることを知ってると思う?」

 

問いが「なぜ」ではなかったことに、彼女は小さく息をついた。

 

知っているのか、知らないのか。

あの男は、館を出ていった。とどめは刺さなかった。

放っておけば済むと見たのか、確かめるまでもないと思ったのか。

倒れた自分の脈を確かめたのかどうかさえ、彼女は覚えていない。覚えているのは、背を向けた一瞬までだ。

 

「分かりません」

 

言ってから、言い直した。

 

「あの館は、彼も知っています。戻ってきたなら、私がいないことは分かるはずです。床の跡も、たぶん残っていますから」

 

「でも、戻ったかどうかは?」

 

「分かりません。あのあと、彼が何を確かめて、何を確かめなかったのかも」

 

ランスロットは、ゆっくり頷いた。

 

「死んだと思ってくれてれば、助かるけどね」

 

「それを、当てにはできません」

 

「うん。俺もそう思う」

 

彼女は、頭の中の連絡先を、もう一度並べ直した。

教会を外すだけでは足りない。あの男の耳へ届く道が、教会の扉一つだけだとは限らない。

 

「知られていない、とは考えないことにします」

 

「ですが、こちらから知らせることもしません。生きていることも、ここにいることも。……あなたのことも」

 

ランスロットの眉が、わずかに動いた。

 

「俺のことも?」

 

「召喚者が分からず、契約もないまま現れたサーヴァントです。そういうものがいると知れば、理由を探しに来る人間はいくらでもいます」

 

「……面白がられるのは、あんまり嬉しくないな」

 

「私もです」

 

ランスロットの口元が、少しだけ緩んだ。すぐに戻った。

 

「ここの人には?」

 

「負傷したことと、処置が要ることだけです。誰にやられたのかは、言っていません」

 

「言わなかったんだ」

 

「言えば、相手を巻き込みます」

 

ランスロットは、それについて何も言わなかった。ただ、一度だけ扉へ目をやった。

 

「だから、外へ出す話は絞ります。誰に聞くのかも、何を渡すのかも」

 

ランスロットは、彼女の顔を見た。

 

「今、疲れてない?」

 

「まだ話せます」

 

答えてから、思い出した。多少でも、と言ったのは自分だった。

 

「……頭が、少し重いだけです」

 

「分かった。もっと重くなるようなら言って」

ランスロットは、椅子の背にもたれ直した。話を急かす様子はなかった。

 

次は、何を聞くかだった。

戦争がどこまで進んでいるのか。どの陣営が動いているのか。知りたいことはいくらでもある。けれど、一つだけが先に浮かんだ。

 

「……ランサーのことを、確かめたいのです」

 

ランスロットの視線が、こちらへ戻った。

 

「令呪は、左腕と一緒に、あの男が持っていきました。ランサーが今もこの街にいるなら、誰かと契約しているはずです。それが誰なのか。どういう扱いを受けているのか。……そもそも、まだ現界しているのかどうかも、分かりません」

 

言いながら、自分の声がさっきより早くなっているのに気づいた。息を一つ置く。

 

「戦力として当てにしているわけではありません。……いえ、当てにしていなかったと言えば、嘘になりますが」

 

「うん」

 

「今、知りたいのはそこではないんです」

 

「もし会えるなら、会って話したい」

 

「会えたら、何を訊きたい?」

 

すぐには答えられなかった。

 

「……分かりません」

 

少し考えてから、言い直す。

 

「ランサーは、気に入らない命令に黙って従うような男ではありません。文句を言いながら従うことは、ありましたけど。……今そこにいるのが、彼自身の意思なのか。令呪で縛られているだけなのか。まずは、それを知りたい」

 

ランスロットは頷いた。

 

「分かった。なら、まずは今どこでどうしてるか、だね」

 

「ええ」

 

「……今の私が、いきなり会いに行けないことは分かっています」

 

「分かってるなら、俺から言うことはないよ」

 

それに、あの男のこともある。ランサーに何が起きたのかを知らないまま、あの男の前に立つつもりはなかった。

 

彼女は、天井へ一度目をやってから、ランスロットへ戻した。

 

椅子の上で続きを待つ彼を見て、バゼットは、自分がまだ彼のことを何も尋ねていないと気づいた。

 

「あなたは?」

 

「うん?」

 

「私の話ばかりしています。……あなたは、何を知りたいのですか?」

 

ランスロットは、瞬きを一つした。

 

「俺は、君の傷がちゃんと――」

 

「それは、私のことです」

 

遮った。

 

「昨日、ここにいる理由が分からないまま消えたくないと、言っていましたね?」

 

ランスロットは、口を閉じた。

 

「傷は、もう診てもらいました。今は、あなたの話を聞かせてください」

 

少しの間、ランスロットは何も言わなかった。

それから、口の端がわずかに上がった。

 

「……よく覚えてるね」

 

「覚えています」

 

ランスロットは、組んでいた指をほどいた。こちらへ向けた目からは、笑いがもう引いていた。

 

「知りたいよ」

 

穏やかな声だった。

 

「呼ばれた覚えもないのに、ここにいる。気がついたら、夜の道に立ってた。どうしてそうなったのか、今も見当がつかない」

 

一度、言葉が切れた。

 

「このまま分からないうちに消えるのは、嫌なんだ。理由があるなら知りたいし、ないなら、ないって分かりたい。……これは、君とは別の、俺の話だけど」

 

バゼットは、しばらく彼を見ていた。

 

昨日、彼女が繋いだのは、魔力の通り道と、この世への留め具だけだ。彼がなぜここにいるのかは、何も分かっていない。

 

問い合わせるのは、ランサーのことだけのつもりだった。

けれど、この街で今何が起きているのかを聞くなら、彼の手がかりにもなるかもしれない。

 

「それも、調べます」

 

ランスロットが、こちらを見た。

 

「あなたが、なぜここにいるのか。ランサーのことと一緒に、調べる対象に入れます」

 

「現界の事情が分からないままでは、私も判断がしにくい。……それに」

 

言葉を探した。

 

「あなたが、知りたいと言ったことです。私の伝手を、私のことにしか使ってはいけない理由はありません」

 

ランスロットは、少しの間黙っていた。

断る言葉を探しているのかと思った。

 

「ありがとう」

 

「正直、一人じゃどこから手を付ければいいのかも分からなかった。……助かる」

 

「ランサーのことで分かったことがあったら、俺にも教えて。そこからどうするか、一緒に考えよう」

 

「……お願いします」

 

「……一つ、思ったんだけど」

 

「どのクラスが、いつ呼ばれたか。そういうのは調べられる? 分かったら、俺が出てきた夜と並べられないかな」

 

バゼットは、彼を見た。

 

「俺が気がついたのは、君を見つけた夜だ。どうやってここへ来たのかは、分からない。他の召喚がいつあったのか分かれば、その前後で、何か見えるかもしれない」

 

召喚の時期まで辿れれば、ランサーだけでなく、彼のことも確かめられるかもしれない。

 

「……それなら、聞けるかもしれません」

 

教会は外した。けれど、召喚の進み具合を知っているのは、教会だけではない。

派遣のときから使っている、協会側の窓口がある。監督役から届いた召喚の報告なら、手元に残っているかもしれない。

 

「協会の窓口に、聞いてみます。派遣のときから使っている相手です」

 

「その人は、教会とは?」

 

「別です。ただ……召喚の報告そのものは、監督役の側から回ってきたものです」

 

「元をたどると、その人か」

 

「ええ。ですから、返ってきたものをそのまま信じるわけにはいきません」

 

「それでも、何もないよりはいい、か」

 

「……比べる材料には、なります」

 

「俺のことは出さずに、他の召喚を訊ける?」

 

「ええ。ただ、セイバーのことだけを訊けば、そこを気にしていると伝わります」

 

「じゃあ、全体の進み具合から、かな」

 

「そうします。セイバーという言葉も、こちらからは出しません」

 

「その人が知ってるのって、いつの話なんだろう?」

 

「……それも、訊きます」

 

いつの時点の情報かも必要だった。昨日の報告と三日前の報告では、同じ中身でも意味が変わる。

 

「召喚がどこまで進んでいるか。それが、いつ時点の情報か。この二つだけにします。参加者が自分の把握と突き合わせたがっても、おかしくはない範囲です」

 

「ランサーのことは?」

 

「今回は、訊きません」

 

少し間を置いてから、続けた。

 

「彼の動きだけを訊けば、私がそれを把握していないと気づかれかねません」

 

ランスロットは「うん」とだけ言った。

 

鞄は、寝台の左側の床に置いてあった。右手を伸ばしても、届かない位置だった。

 

「鞄を、こちら側へ置いてもらえますか?」

 

ランスロットは身を屈めて持ち手を掴み、毛布の上、彼女の右手のそばへ下ろした。

 

片手で留め具を外すのに、少し手間取った。

ランスロットは見ていたが、手は出さなかった。

 

連絡用の電話を取り出す。番号は、覚えていた。

 

呼び出し音が、三度鳴った。

 

『――はい』

 

少し疲れた、低い男の声だった。向こうで、紙をめくる音がしている。

 

「バゼットです」

 

短い沈黙があった。

 

『……ああ。どうした』

 

「確認させてください。そちらの手元にある、召喚の状況を。現時点で、どこまで確認されているか。それと、その情報がいつ時点のものか」

 

『状況? そっちの方が、よほど近くにいるだろう』

 

「こちらの把握と、突き合わせたいだけです」

 

『教会に訊けば早いだろうに』

 

「いえ。新しく問い合わせる必要はありません。そちらに届いているものだけで結構です」

 

また、紙の音がした。何か別の書類を、脇へ寄せたような音だった。

 

『……まあ、いい。手元のを見る。今すぐは無理だ。昼までには折り返す』

 

「お願いします」

 

『他には?』

 

毛布の上の、自分の右手を見た。

言うべきことは、他にいくつもあった。どれも、今は言わない。

 

「いえ。改めて連絡します」

 

『分かった』

 

通話が切れた。

 

電話を毛布の上へ置き、ランスロットへ向き直る。

 

「手元の記録を確認して、昼までに折り返すそうです。教会には何も問い合わせません。あちらにあるものだけです」

 

「こっちのことは?」

 

「何も話していません。私から連絡があったことは、向こうも分かっていますが」

 

「そこは、仕方ないね」

 

ランスロットは、窓のほうへ目をやった。カーテンの隙間から差す光が、さっきより白くなっている。

 

「返事が来るまで、少し外を見てこようかとも思ったんだけど」

 

彼女が口を開く前に、彼は自分で続けた。

 

「何を見ればいいかも決まってないうちに出ても、魔力を使うだけだね。ここを空けるのも嫌だし」

 

「ええ。……今は、待ちます」

 

バゼットは、電話を右手の届くところへ置き直した。鞄の留め具を掛け、枕に頭を預ける。話している間は気にならなかった重さが、首の後ろへゆっくり戻ってきていた。

 

「少し、休みます」

 

「うん。鳴ったら起こす」

 

ランスロットは椅子を、扉の脇の元の位置へ戻した。

 

目を閉じる。

カーテンの向こうを、車が一台通り過ぎていった。

 

彼が今も数えているのかどうかは、訊かなかった。

 

◇

 

電話が鳴ったのは、カーテンの隙間から差す光が、床の上でずいぶん短くなった頃だった。

 

「鳴ってる」

 

ランスロットの声で、目を開けた。眠っていたのか、目を閉じていただけなのか、自分でもはっきりしなかった。

 

右手で電話を取る。

 

『俺だ。手元のを見た』

 

午前と同じ声だった。向こうで、今度は湯の沸く音がしている。

 

『昨夜、セイバーの召喚が確認されている。それで七つのクラスが揃った、という報告だ。監督役から回ってきたものだ』

 

バゼットは、すぐには返事をしなかった。

 

昨夜。

 

「……昨夜、というのは」

 

自分の声が、少し低くなったのが分かった。

 

「報告が届いたのが、昨夜ですか? それとも、召喚が確認されたのが昨夜ですか?」

 

『待て』

 

紙の擦れる音がした。

 

『届いたのは今朝だ。中身は、昨夜の召喚の確認として書かれている』

 

「記載の上では、昨夜、新たにセイバーが召喚されたということですか?」

 

『そう書いてある』

 

「最後に確認されたのは、セイバーで間違いありませんか?」

 

『セイバーだ。これで七つ目、最後の一つだそうだ』

 

少し間があった。湯の音が止んだ。

 

『言っておくが、俺に言えるのは書いてあることだけだ。こっちは受け取ったものを見てるだけで、その場を見たわけじゃない』

 

「分かっています」

 

『何か、気になるのか?』

 

彼女は、扉の脇の椅子へ目をやった。

 

「いえ。助かりました」

 

『そうか。……気をつけろよ』

 

通話が切れた。

 

電話を毛布の上へ置いても、しばらく右手はそこから離れなかった。

 

ランスロットは、椅子の上からこちらを見ていた。

彼に聞こえたのは、彼女の側の言葉だけだ。それでも、「昨夜」と「セイバー」は聞こえている。

 

「昨夜、セイバーの召喚が確認されたそうです」

 

「それで、七つのクラスが揃った、と。窓口に届いたのは今朝ですが、記載では昨夜の新たな召喚です」

 

ランスロットは、すぐには何も言わなかった。膝の上の手が、動かなかった。

 

「……俺のこと、ってわけじゃないよね?」

 

バゼットは、頭の中で夜を数えた。

 

一昨夜、館で彼に救われた。昨日の朝、契約を結んだ。そして昨夜、彼はこの部屋で見張りをしていた。

 

報告にある「昨夜の新たな召喚」とは、時期が合わない。

 

「昨夜、あなたはそこにいました」

 

「うん」

 

ランスロットは、自分の座っている椅子へ一度目を落とした。

 

「車を数えてた」

 

冗談のような言葉だった。けれど、彼は笑っていなかった。彼女も笑わなかった。

 

「……報告が、間違っているのか?」

 

「監督役が一昨夜のうちにあなたを捉え損ねていて、昨夜になって初めて何かを見た。それを新しい召喚として書いた。そういうことも、考えられなくはありません」

 

「わざと違うことを書いた、ってことは?」

 

「……それも、ないとは言えません。出所は、あの男です」

 

「ですが、もし間違っていないのなら」

 

そこから先は、言葉にする前に一度、息を置いた。

 

「昨夜、あなたとは別のセイバーが召喚されたことになります。七つのクラスは、あなたを数に入れないまま揃った」

 

部屋が、静かになった。

 

「……その報告どおりなら、俺は七騎に入ってないってことか」

 

ランスロットは、自分の手を見下ろした。

 

「数に入ってなくても、ここにいるのは確かなんだけどね」

 

彼女は、自分の内側の細い線へ意識を向けた。

張っている。向こうから引かれる重さも、昨夜から変わらない。

 

「ええ。あなたは、ここにいます」

 

ランスロットは小さく頷いた。

 

バゼットは、毛布の上の電話へ目を落とした。

 

「出所があの男である以上、これだけで別のセイバーがいると決めることはできません」

 

「うん。でも、放っておきたくはないな」

 

彼女は、顔を上げた。

 

「本当にもう一人いるなら、確かめたい。どんな相手で、どうして今になって呼ばれたのか。間違いなら間違いで、どこで食い違ったのかを知りたい。……どっちにしても、俺がなんでここにいるのかと、どこかで繋がってる気がする」

 

「……ええ。確かめる必要があります」

 

「そのセイバーがどこにいるか分かれば、会って――」

 

「会う前に、報告の裏を取りましょう」

 

彼は口を閉じ、続きを待った。

 

「まず、この報告が何を根拠にしているのか。それから、他のクラスがそれぞれいつ確認されたのか。窓口の手元に、前の分の報告も残っているかもしれません。新しく問い合わせてもらわなくても、見られる範囲で」

 

「昨夜の分だけじゃなくて、前の分も並べるわけか」

 

「ええ。一昨夜のあたりに、何か書かれていないかも」

 

ランスロットは少し考えた。

 

「召喚があったなら、昨夜のうちに、この街のどこかで何か起きてるかもしれない。こっちで拾えることはないかな?」

 

「ここの人に、新聞を頼みます。何も載っていないかもしれませんが、まずは見てみましょう」

 

「分かった」

 

「行き先と、行っていい条件が決まったら、そのときは俺が動く」

 

「……私を、ここに置いて?」

 

「それも含めて決めよう。俺が出てる間、君が一人になる時間をどうするかを、先に考える」

 

彼女は、少しの間彼を見ていた。

 

「……ええ。そうしてください」

 

ランサーのことも、あの男のことも、何ひとつ片づいてはいない。

それでも、ここから確かめられることはある。

 

バゼットは、毛布の上の鞄を引き寄せた。

片手で留め具を外す。午前より、少しだけ早く外れた。

内側の物入れから手帳とペンを取り出し、膝の上で開く。

 

ペンを当てると、紙が毛布の上で滑った。

 

「端を、押さえていてもらえますか?」

 

ランスロットが椅子を寄せ、手帳の上の端に指を置いた。紙が、動かなくなった。

 

バゼットはペンの先を紙に当て、最初の行に、一昨夜、と書いた。





【円卓ミニ劇場】:円卓のある日


「一本、足りない」

その一言で、訓練場の空気が止まった。

アグラヴェインの手には、備品の記録板。
その視線の先には、壁際に並べられた訓練用の剣。

そして、その横にはランスロット、ガウェイン、ガレスの三人がいた。

「……もう一度数えたのか?」

ランスロットが尋ねる。

「三度数えた」

「なら、数え間違いではないな」

「貴卿に確認されるまでもない」

返答が早い。

ガレスが剣の列を覗き込みながら、首を傾げた。

「誰かが別の訓練場へ持っていった、とかでしょうか?」

「移動記録はない」

「壊れた剣は?」

ガウェインが問う。

「昨日の破損は二本。どちらも回収済みだ」

そこで、アグラヴェインの視線がゆっくりとランスロットへ向いた。

「……ランスロット」

「待て。なぜ俺を見る」

「心当たりは?」

「昨日は壊してないぞ」

沈黙。

ガウェインが横を向いた。

ガレスが口元を押さえた。

アグラヴェインの眉間に皺が寄る。

「私は、壊したかとは聞いていない」

「あ」

ランスロットが何かを思い出した顔をした。

三人の視線が集まる。

「昨日、若い騎士に一本貸したな」

「記録は?」

「……書いてない」

「返却は?」

「まだだな」

アグラヴェインは目を閉じた。

怒鳴らない。

それがかえって怖い。

「貸すなとは言わん」

低い声が落ちる。

「困っている者に手を貸すなとも言わん。だが――」

記録板の端が、みし、と鳴った。

「記録を残せ」

「悪かった。次から気をつける」

ランスロットは素直に頭を下げた。

その横で、ガウェインが小さく頷く。

「まったくです。備品の管理は正確でなければ」

アグラヴェインが顔を上げる。

「そういえば、ガウェイン」

「はい?」

「先週持ち出した訓練槍が一本、まだ返却処理されていない」

「…………」

今度はランスロットが横を向いた。

ガレスは、もう耐えられなかった。

「ふ、ふふっ……」

「ガレス」

「す、すみません……!」

肩を震わせる後輩を見ながら、ランスロットはガウェインの肩を軽く叩いた。

「まあ、後で一緒に怒られよう」

「なぜ貴公は少し楽しそうなのです」

「一人より二人の方が気が楽だろ?」

「貴卿ら」

アグラヴェインの声が落ちた。

二人は同時に背筋を伸ばす。

その日の円卓では、戦でも国政でもない理由で。

二人の騎士が、しばらく備品台帳と向き合うことになった。
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