無銘の湖光 ~ランスロットとして目覚めた俺は、名を失っても世界を紡ぐ~ 作:カノープス・ギア
手帳の最初の行には「一昨夜」とある。
その下へ、バゼットは短い語を足していった。
昨日、朝、契約。昨夜、この部屋。
右手だけで書く字は普段より角張り、行の頭が少しずつ右へずれていく。
頁がめくれかけるたび、ランスロットが紙の端を押さえた。
手帳を覗き込まず、必要な時だけ指の位置を変えている。
次の行で、ペン先が止まった。
昨夜。セイバー、召喚確認。報告。
一行にしてしまえば短い。
だが、上の記録とは噛み合わない。
一昨夜からランスロットは現界していて、昨夜はこの部屋で扉と窓を見張っていた。
バゼット自身が見ている。
「並べても、合いませんね」
「そうだな」
彼は紙を見たまま答えた。
「そのまま読むと、俺じゃないセイバーの話になるな」
しばらく、どちらも口を開かなかった。
やがてランスロットが、頁を押さえていた指を少し浮かせる。
「さっきの確認の根拠って、記録にはどこまで残るものなんだ?」
「と言うと?」
「監督役が自分で確かめたのか、誰かが届けたのか。そういうところまで分かるものなのか?」
バゼットはペンを手帳の溝に置いた。
「記録次第です。そこまで窓口が持っているとは限りませんが、過去の分と一緒に確認します。訂正が入っていないかも」
「頼める?」
「ええ」
枕元に置いてあった電話を取り、今朝と同じ番号へかける。
呼び出し音が三度鳴り、聞き覚えのある声が出た。
「マクレミッツです。先ほどの件で、追加で確認したいことがあります」
訊くのは三つ。各クラスがいつ召喚済みとして扱われたか。
今回のセイバーを確認済みとした根拠が、記録上どこまで残っているか。
訂正や追加報告が来ていないか。
「マスターの名や所在は要りません。記録に残っている範囲で構いません」
受話器の向こうで紙をめくる音がした。
『了解した。古い分も当たるから、少し時間をもらえるか』
「構いません」
『そっちは、変わりないか』
「問題ありません」
通話を切ると、バゼットは最後の行の横へ小さく「照会中」と書き足した。
ペンを置いてから、指が思った以上に強く軸を握っていたことに気づく。
ランスロットも紙から手を離し、椅子の背にもたれた。
首を一度傾けて戻し、窓へ目をやる。
朝には毛布の端に落ちていた日差しが、いつの間にか向かいの壁まで移っていた。
「……結構いい時間だな」
時計を見る。短い針は、思っていたより先へ進んでいる。
「腹、減ってない?」
問われて、身体へ意識を向けた。胃は空だった。
だが空腹より、頭の奥の重さと瞼の熱のほうが強い。
「空腹より、眠気のほうが先に来ています」
「じゃあ寝よう」
即答だった。
「夕飯は起きてからでいい。返事も、すぐには来ないだろ」
「夕飯、ですか?」
「ああ、言ってなかったか?」
ランスロットは仕切りの向こうを顎で示した。小さな流しと冷蔵庫がある。
「君が寝てる間に、ここの人に聞いといた。冷蔵庫の中、使っていいってさ。使った分はあとで請求するって」
「請求はするのですね」
「するらしい。ちゃんとしてるよ」
「当然です」
自分でも少し可笑しくなった。ランスロットも口の端を上げる。
「あなたが作るのですか?」
「ほかにいないだろ。……スープだけってわけにもいかないし」
洋館で飲んだスープを思い出す。
味よりも、最初の一口が喉を下り、冷えていた身体の内側へ熱が広がった感覚のほうが残っていた。
「あのスープは、悪くありませんでした」
「そう?」
少し意外そうにしてから、彼は笑った。
「なら、今日も食べられるものにはするよ」
バゼットは手帳を閉じかけて、止めた。
「ペンを挟んでおいてください。電話が来たら、すぐ書けるように」
「了解」
ランスロットはペンを頁へ挟み、手帳と電話を枕元へ並べた。
背を倒すと、枕が首の下で沈む。
天井の染みを一つ数える前に瞼が重くなった。
椅子の脚が床を擦る音と、仕切りの向こうへ遠ざかる足音を、半分眠りながら聞いた。
◇
水の音で目が覚めた。
蛇口の音が止まり、代わりに、とん、とん、と硬いものを叩く音が続く。
少し速くなり、また戻る。
包丁がまな板に当たる音だと分かるまで、少しかかった。
部屋は薄暗い。窓の外には、端のほうに夕焼けの赤が残っていた。
枕元の電話は鳴っていない。手帳もそのままだ。
右手を寝台について、ゆっくり身体を起こす。
途中で視界の端が揺れ、そこで止まった。
揺れが引いてから残りを起こす。朝より待つ時間は短い。
仕切りの向こうで油が弾けた。遅れて、焼けた油と玉ねぎの甘い匂いが届く。
その奥に、塩気のある、覚えのない香りが混じっていた。
胃が鳴った。
バゼットは少しだけ目を伏せる。
鍋の蓋が鳴り、足音が仕切りの手前で止まった。
「……あ、起きてた」
ランスロットが顔を出す。
上着は脱ぎ、シャツの袖を肘まで捲っていた。
手には布巾がある。
「ちょうどよかった。もうできる。そっちに運ぶか、机で食べるか。どうする?」
バゼットは窓際の小さな机を見た。寝台からは三歩ほどだ。
「机を、こちらへ寄せてもらえますか。寝台の縁に座って食べます」
「了解」
ランスロットは机を持ち上げ、寝台の右脇へ据えた。
水差しを奥へずらし、天板を拭いて戻りかける。
「ランスロット」
足が止まった。
「何か、手伝えることはありますか?」
彼は机を見て、次にバゼットの右手へ視線を落とした。
「……じゃあ、皿並べるのお願いしてもいい? 俺が持ってくるから」
「お皿くらいならできます」
「助かる」
彼が仕切りの向こうへ消える。バゼットは寝台の縁へ脚を下ろした。
床の冷たさが足裏から上がる。背を伸ばして座り直す。眩暈は来なかった。
ランスロットが平皿を二枚持って戻り、彼女の右手側へ置く。
一枚を机の中央へ。もう一枚を向かい側へ。
右手だけで持ち上げると、皿の縁が思ったより重い。
いったん机へ置き、押して位置を直した。
次は茶碗と汁椀だった。
湯気を立てる汁椀だけはランスロットが直接机へ置き、彼女の手元へ寄せる。
「汁物、ご飯の右に置いてくれる?」
「決まりがあるのですか?」
「一応な。まあ、食べやすいほうでいいよ」
右手を動かして確かめる。茶碗より、汁椀が右にあるほうが手を返す距離が短い。
「右のほうが取りやすいので、そうします」
「ならちょうどいい」
今度はフライパンが運ばれてきた。
彼が皿へ盛りつけていくのは、薄切りの豚肉と、しんなりした玉ねぎ。
照りのあるたれが皿の縁へ少し溜まり、脇には細く刻んだキャベツが添えられている。
「今日の献立は?」
「冷蔵庫にあったもの」
彼は菜箸でたれを肉へ回しかけた。
「豚肉と玉ねぎがあったから、生姜焼き。あとは味噌汁。豆腐と葱」
「ショウガヤキ」
「生姜と醤油で焼いたやつ。昨日の朝はスープだったけど、今朝は食べられてただろ。少し普通のものでも大丈夫そうだったから」
「見ていたのですか?」
「盆、下げたの俺だし」
肉は一口で食べられる大きさに切られていた。
茶碗の横には箸と、フォークとスプーンもある。
ランスロットは炊飯器の釜を持ってきて、二人分の飯をよそった。
彼女の分は少し少ない。
手順に迷いがなく、この台所を昨日今日で初めて使った人間には見えなかった。
バゼットは何も言わず、それを見ていた。
彼が向かいへ座る。二人分の皿と椀が、小さな机にちょうど収まった。
「あなたも食べるのですね」
「作ったら食べたくなった」
あっさりと言う。
「匂いに負けたってやつだ。……あ、それと」
彼女の皿を顎で示した。
「無理なら残していいから」
「食べる前から、残す前提にしないでください」
一拍置いて、ランスロットが笑う。
「はい」
彼は両手を合わせた。
「いただきます」
バゼットも右手を胸の前へ寄せ、少し遅れて同じ言葉を口にする。
最初に味噌汁を一口。
やわらかな塩気と豆の香りが喉を通り、腹の底へ温かさが落ちていく。
次に肉を一切れ。甘さのあとから生姜が鼻へ抜け、玉ねぎがほどけた。
「……おいしいです」
「そりゃよかった」
彼も一切れ口へ運び、少し首を傾げる。
「生姜、もうちょっと入れてもよかったな」
「私は、これでいいです」
「そう? じゃあこれで正解ってことにしとく」
キャベツをたれに絡める。
彼が肉をご飯に載せるのを見て、バゼットも真似た。
フォークでは崩れたので、途中からスプーンへ持ち替える。
「キャベツは、どうやってこんなに細く切るのですか?」
「どうやってって……包丁で」
「それは分かっています」
「だよな」
困ったように笑う。
「こう、端から、とんとんって。あとは慣れ、かな」
窓の外はもう暗い。
硝子に部屋の明かりと、机の上の湯気が映っていた。
枕元の電話は、まだ鳴らない。
バゼットは汁椀を持ち直し、その温かさを右の掌で受けた。
◇
同じ頃、町外れの坂道には冬の夜気が溜まっていた。
士郎は、前を歩く二人の背中を見ていた。
遠坂は教会を出てから一度も振り返らない。
セイバーは士郎の半歩前、車道側を歩いている。
頭の中には、さっき聞かされたことが片づかないまま積もっていた。
聖杯。七人のマスター。七騎のサーヴァント。
自分がその一人に数えられているという話。左手の甲は、今もかすかに熱い。
セイバーが足を止めた。
一拍遅れて遠坂も止まり、坂の上を見る。
士郎も顔を上げた。
坂を上りきった街灯の下に、小さな人影がある。
白い髪が明かりを受けていた。子供だ、と最初に思った。
こんな時間に、と。
その背後の暗がりが動いた。
壁の影だと思っていたものが、ゆっくり立ち上がる。
人の形をしている。だが、人の背丈をはるかに越えていた。
岩を削ったような腕の先に、刃とも鈍器ともつかない塊が下がっている。
「やっと見つけた、お兄ちゃん」
少女がスカートの裾をつまみ、小さく頭を下げた。
場違いなほど行儀のいい仕草だった。
名乗った名前は長く、士郎の耳には半分しか残らない。
「……アインツベルン」
遠坂が息だけで言った。
「シロウ、下がってください」
セイバーは、もう士郎の前へ出ていた。
両手は腰の横で、何かを握る形に構えられている。
握っているものは見えない。
それでも、そこに刃があると分かった。
「衛宮くん、私の後ろ。何があっても前に出ないで」
遠坂は士郎の袖を引いて位置をずらし、自分は半歩横へ開く。
右手はコートのポケットの中。
視線は巨体だけでなく、少女と左右の塀へ走っていた。
少女が楽しそうに首を傾げる。
「行って、バーサーカー」
巨体が跳んだ。
あの重さのものが、坂の上から一息に落ちてくる。
着地の瞬間、アスファルトにひびが走った。
振り下ろされた塊を、セイバーが受ける。
巨大な鐘を内側から殴ったような音が響いた。
空気が士郎の胸を叩き、息が詰まる。
セイバーの踵が路面を削り、二本の線を引いて滑った。
止まる。
膝は折れていない。
受けた刃を斜めへ逸らし、巨体の腕が流れた隙へ踏み込む。
見えない剣が下から跳ね上がり、巨体が腕で受けた。
火花のようなものが夜へ散る。
二撃目が、もう来ていた。
セイバーは退かない。自分の何倍もある影へ、低く前へ出る。
遠坂のポケットで、硬いものが擦れ合った。
士郎は拳を強く握っていた。
握ったところで、何ができるわけでもない。
◇
「ごちそうさまでした」
バゼットは右手を胸の前に立てた。
いただきます、の時より少し滑らかに言えた。
「お粗末さまでした」
ランスロットは空いた皿を重ね、茶碗と椀を載せる。
バゼットもフォークとスプーンを揃えて皿へ置いた。
仕切りの向こうで水が流れ、食器の触れ合う音が続く。
やがて水音が止み、今度はやかんが火にかかった。
しばらくして、香ばしい匂いが漂ってくる。
戻ってきた彼の手には、湯呑みが二つあった。
「ほうじ茶。棚にあった」
一つを彼女の右手側へ置く。
一口含むと味は淡く、喉を通ったあとに香ばしさだけが残った。
ランスロットも向かいへ座り、自分の湯呑みを手に取る。
「足りた?」
「十分です。昨日より、ずっと食べられました」
「それならよかった」
二人とも、しばらく手帳にも電話にも触れなかった。
バゼットは、眠りから覚めた時の包丁の音を思い出す。
フライパンへ具材を入れる間。炊飯器を迷わず扱う手つき。
どれも、この国の台所ならありふれた動きだ。
だからこそ、引っかかった。
「一つ、聞いても?」
「どうぞ」
「あなたは、どこで料理を覚えたのですか?」
ランスロットの湯呑みが口元で止まる。
「……料理?」
「現代の道具の名前を知っていることと、使い慣れていることは違います」
少し言葉を選んだ。
「醤油も、炊飯器も。この国の台所を、前から使っていた人みたいでした」
彼は湯呑みを机へ置き、自分の右手を見下ろした。
「さあ……どこだろうな」
しばらく考える。
「やろうと思ったら、手順が出てくるんだよ。これを先に切って、これは後から入れて、って。どこで誰に習ったのかって言われると……難しいな~」
指を一度開き、また閉じた。
「体が覚えてる、っていうのかな」
本人も今になって気づいたような声だった。
バゼットはそれ以上、追わなかった。
「不思議ですね」
「俺もそう思う」
彼は少し笑い、湯呑みを取り直す。
「まあ、食べられるものが出てくるなら、困らないし」
「それは、そうです」
枕元で電話が鳴った。
二人とも顔を上げる。
「来たかな」
バゼットは電話を取り、ランスロットが手帳を開く。
挟んであったペンを彼女へ差し出しかけ、途中で止めた。
「書こうか?」
一瞬考えて、頷く。
「お願いします」
電話を耳に当てる。
『調べた。記録にある分だけだが、順番に言うぞ』
ランスロットが新しい行へペン先を置いた。
窓口の声が、記録を一件ずつ、日付と区分だけで読み上げていく。
バゼットは要点だけを復唱した。
ランスロットの字は彼女のものより丸く、行頭がきちんと揃っている。
途中で一度だけ顔を上げ、書いた日付を目で示す。
バゼットが頷くと、またペンが走った。
最後まで聞き終えると、頁の半分が埋まっていた。
「確認させてください」
受話器を持ち直す。
「一昨夜の日付で、セイバーに限らず召喚の記録はありますか。あるいは、後から追加や訂正が入った分は」
『ない』
返事は短かった。
『少なくとも、こっちに届いてる記録にはない。最後の確認が昨夜のセイバーで、それで七つ埋まったことになってる。訂正も追加も来てない』
「確認の根拠については」
『確認した、と書いてあるだけだ。向こうが何を見てそう判断したかまでは、こっちじゃ分からない。監督役の手元を覗いたわけじゃないからな』
「分かりました」
『何かあったら連絡しろ』
「ええ。助かりました」
電話を切る。
ランスロットは手帳を彼女へ向けた。
七つの行がある。それぞれに日付。
最後が昨夜のセイバーで、その横には彼の字で小さく「最新」。
そして別に、昼に書いた「一昨夜、現界」がある。
その日付に対応する召喚記録は、七つの中にはなかった。
報告の出どころは監督役のまま。
この一頁だけでは、昨夜のセイバーが本当に存在するとまでは断定できない。
「召喚された覚えはない」
ランスロットが、自分のものでもない手帳の行を指で辿る。
「呼んだ相手もいなかった。
最初はマスターもいなかったし、俺に対応する令呪もなかった。
で、七つの記録にも入ってない」
指が「一昨夜」の行で止まった。
「……俺、やっぱりはぐれだったのかな?」
軽く言ってから、少し笑う。言葉の据わりを自分で確かめているようだった。
バゼットは頁から目を上げた。
「呼び方はともかく、この記録が正しければ、正規の七騎とは別に現界していると考えるのが自然でしょう」
「別口か」
彼は椅子の背にもたれ、天井を見た。
「呼ばれた覚えはない。七騎の記録にもない」
少し間を置く。
「じゃあ、俺は何でここにいるんだろうな」
バゼットは答えなかった。
答えは、まだない。
机の上では、二つの湯呑みがもう湯気を立てていない。
ランスロットは天井から視線を戻した。
「……ここで考えてても、これ以上は出てこなさそうだな」
「ええ。少なくとも、昼よりは前に進みました」
「うん。なら次だな」
彼はペンの尻で頁の余白を軽く叩く。
バゼットの目は、ランサーの行で止まった。日付と区分だけの一行。
「ランサーのことも、この記録からは分かりません。今どこにいて、誰と契約して、何を考えているのか」
「それも、確かめに行かないとな」
ランスロットは手帳を閉じかけ、ペンを頁へ挟んでから閉じた。
昼に彼女が頼んだのと同じやり方だった。
「次は、動こう」
「ええ」
バゼットは手帳を受け取り、膝へ置く。
「どう動くかは、明日決めましょう。今夜決めるには、私の頭が少し重いので」
「正直でよろしい」
「合意ですから」
彼は笑って立ち上がり、冷めた湯呑みを二つ取った。
「淹れ直す?」
「半分だけ」
「了解」
仕切りの向こうで、やかんがもう一度火にかかる。
バゼットは手帳を枕元へ戻し、電話の隣に置いた。