無銘の湖光 ~ランスロットとして目覚めた俺は、名を失っても世界を紡ぐ~ 作:カノープス・ギア
『エースコンバット8』、素晴らしかったです。
私は目が回って酔ってしまうので視聴勢でしたが、
「Song of Wings -Rise Above-」が流れたとき……胸が熱くなり、泣きました。
諦めない。この空を飛び続ける。
そんな思いを感じさせる、いい曲でした。
一番機を守るバクスター……最高の2番だったよ。
そしてターシャの「終わるもんか!」。
あの音と重なった瞬間は、もう涙が……。
コスター、いいセンスだ(・ω・)bグッ!
……本当はもっと語りたいです。
ジョーカー隊やクィーン隊以外の隊もディーラーについても、
それぞれ語りたいことが山ほどあります。
ただ、ここは『無銘の湖光』の本編なので、今回はこのあたりで。
それくらい、ここでは語りきれないほど泣き、画面に向かって叫んでいたぐらい
胸を熱くさせてもらったゲームでした。
ありがとう、すべての翼へ(`・ω・´)ゞ
◇
さて、第6話です。
ようやく二人が動き出します。
ずれていた針は、これからどのように重なり合うのか。
それとも、さらに狂っていくのか。
お楽しみください。
カーテンの隙間が白んでいた。
バゼットは天井の木目をひとつ数えてから、右手を敷布について肘を伸ばした。
頭を枕から離す。視界が斜めに流れ、三つ呼吸するうちに戻った。
昨日の朝は、同じことにもっと長くかかった。
「おはよう」
扉の脇の椅子から声がした。ランスロットは昨夜と同じ場所に座っている。
シャツの袖を肘の手前まで折って、上着は背もたれに掛けてあった。
彼は腰を浮かせかけ、彼女が自分で起きたのを見て椅子へ戻った。
「おはようございます。夜の間は」
「廊下を二回、ここの人が通っただけ。外は静かだったよ」
バゼットは頷き、背中を壁へ預けた。訊かれる前に言っておく。
「眩暈は短くなりました。頭の重さも、昨夜よりは引いています。左の肩は張ったままですし、疲れも抜けきってはいませんが」
「動けそう?」
「部屋の外へ出る程度なら。走れと言われたら断ります」
「言わないよ」
彼は少し笑って、掌を一度握って開いた。
「こっちは変わらず。細いけど途切れてはいない。座ってる分には減らないし、長くやり合う余裕がないのも昨日のまま」
「分かりました」
それで足りた。
バゼットは寝台の脇の鞄へ手を伸ばし、手帳とペンを膝へ引き寄せる。
彼が椅子を寝台の横まで運んできたので、開いた頁を二人の間へ向けた。
昨夜、彼に書いてもらった七つの行が並んでいる。
区分と日付。いちばん下には「昨夜、セイバー」とある。
その上に、彼女自身が書いた「一昨夜、現界」の行がある。
七つの記録には、その日付に当たる行がない。
ランスロットは頁を上から下まで目で追い、最後の行の下の余白で止めた。
指で示すことはせず、しばらくそこを見ていた。
「バゼット。ひとつ提案していい?」
「どうぞ」
「先に、ランサーを探さないか」
バゼットはペンを持ち直した。彼の目はまだ余白にある。
「理由を聞かせてください」
「俺の方は、この紙の上で行き止まりなんだ。記録に行がない、ってところまでは分かった。でも、そこから先は何を調べればいいのか、今の俺には思いつかない。召喚した相手も陣も覚えてないから、辿る糸がない」
彼は顔を上げた。口元は柔らかいままで、声だけが少しゆっくりになる。
「知りたいのは変わらないよ。なんでここにいるのか分からないまま消えるのは、やっぱり嫌だ。ただ、ランサーには手掛かりがある。姿も、槍も、君が知ってる。この戦争を追っていけば、どこかで俺の方にも繋がるものが出てくるかもしれない。出てこないかもしれないけど、ここで余白を眺めてるよりは見込みがあると思う」
「だから、後回しに」
「うん。ひとまず、ね」
軽い言い方だった。けれど視線は一度、頁の下へ戻っている。
バゼットは余白の左端にペン先を置き、短く線を引いた。
行の頭に付ける印と同じものだ。その横には何も書かない。
「順番は、それで構いません。ですが、外しはしません。あなたの件は、ここに置いたままにします。途中で何か引っ掛かったら、ランサーの話の最中でも言ってください」
彼は印を見て、それから彼女を見た。目元が緩む。
「ありがとう。じゃあ、遠慮なく言う」
「そうしてください」
バゼットは頁をめくり、新しい紙の上に「ランサー」と書いた。
その下へ続ける言葉は、すぐには出てこなかった。所在。契約の相手。
拘束。箇条書きにすれば三つか四つで済む。以前なら、そう書いていたと思う。
「……私が知りたいのは」
ペンを止めたまま言った。
「彼が今、自分の意思で動いているのかどうかです。誰と契約しているのかも、どこにいるのかも知りたい。ですが、それは人づてでも記録でも、いつかは分かるかもしれない。彼自身がどう思っているかは、本人に訊かなければ分かりません」
「連れ戻したい、とは違うんだね」
「戻るかどうかは、彼が決めることです。契約は切れています。私が取り戻すと言って済む話ではない」
言い終えてから、右手に力が入っていたことに気づいた。指を緩める。
「ただ、何も訊かないまま終わるのは嫌です」
「うん」
ランスロットはそれだけ返し、少し間を置いてから、頁の「ランサー」の字へ目を落とした。
「ひとつ、確認させて。ランサーの今の契約相手は、あの神父だと思う?」
「可能性は高いと考えています。私の腕ごと令呪を持っていったのは彼ですから。けれど、彼自身が使っているのか、誰かに渡したのかは見ていません。私は、その後のことを何も知らない」
「じゃあ、そこは仮のままにしておこう。神父かもしれないし、別の誰かかもしれない」
「ええ」
「どっちにしても、ランサーに行き着けば、その先に誰がいるかは見える。神父が何を考えてるのかも、少しは」
「手掛かりにはなるでしょう。教会へ直接行くよりは、ずっとましな道です」
「教会は行かない。それは昨日のままでいい?」
「そのままです。こちらから知らせることは何もありません」
バゼットは「ランサー」の下に一行だけ書いた。本人に訊く。その下に、契約の相手は未確認、と小さく添える。
ランスロットがそれを読んで頷き、膝に手を置いて立ち上がった。
「よし。どう探すかは、これから考えるとして」
椅子を元の壁際へ戻しながら、彼は肩越しに振り返った。
「その前に朝飯にしようか。俺、腹が減った」
あまりに生活じみた切り替えに、バゼットは一度瞬いてから手帳を閉じた。
「……ええ。私もです」
「昨日の味噌汁が残ってる。あと卵があったから、俺は焼いたのが食べたい。君は?」
「同じものを。ご飯は、少なめでお願いします」
「了解」
彼が台所へ向かう。バゼットは毛布を除け、足を床へ下ろした。
立ち上がる時に寝台の縁を一度握り、揺れが来ないのを確かめてから手を離す。
卓まで歩いて、棚から椀と皿を二組出した。片手で一枚ずつ運ぶので往復が増える。
箸を揃え、湯呑みを置いたところで、台所から油の音がした。
卵は、彼の皿に二つ、彼女の皿に一つ載ってきた。
「多くありませんか、そちらは」
「食べたかったから」
悪びれもしない。彼は向かいに座り、手を合わせて、真っ先に卵へ箸を入れた。
黄身が崩れるのを見て、満足そうに息をつく。
バゼットは箸を置き、右手で椀を持ち上げて味噌汁を飲んだ
一晩置いた分、昨夜より味が丸い。
米は言ったとおり少なめで、最後の一口まで箸が止まらなかった。
「食べられたね」
「昨日よりは」
彼は自分の茶碗の残りをさらえ、湯呑みを空けた。
バゼットも茶を飲み干し、箸を揃えて置く。
窓の外は、もうすっかり朝の色になっていた。
◇
その前夜、町外れの坂道。
斧剣が振り下ろされるたびに、アスファルトが割れた。
衛宮士郎には、セイバーの剣が見えない。
見えるのは、彼女の両手が何かを握って振り抜く軌道と、そこへぶつかった岩塊のような刃が、わずかに逸れて路面へ落ちる結果だけだった。
逸らしている。受け止めてはいない。
あの小さな体で、正面から受ければ潰される。
だから彼女は半歩ずつ位置を変え、刃の腹を叩き、力の向きだけをずらしている。
士郎の目でも、それが並の技でないことは分かった。
一度でも読み違えれば終わる角度を、彼女は続けて四度、五度と通している。
それでも下がっていた。
一撃ごとに、彼女の踵が坂を削って後ろへ滑る。
鉛色の巨体は止まらない。咆哮とともに踏み込み、斧剣を横へ薙ぐ。
セイバーが跳んで避けた先へ、もう次の振り下ろしが来ている。
「衛宮くん、下がって! そこ、巻き込まれる!」
遠坂の声が横から飛んだ。彼女は士郎から半歩離れた位置で左手を突き出している。
指先から黒い礫のようなものが続けて走り、バーサーカーの顔へ当たって弾けた。
巨体は瞬きもしなかった。
「……っ、効いてない。目くらましにもならないなんて」
遠坂は舌打ちして、すぐに立ち位置を変えた。撃つ手は止めない。
狙いを顔から足元へ移し、踏み込む先の路面を砕く。
巨体の一歩がほんの少し浅くなり、その分だけセイバーが間合いを取り直した。
坂の上で、白い少女が笑っている。
「がんばるのね。でも無駄よ。やっちゃえ、バーサーカー」
斧剣が唸った。
セイバーは見えない剣を立てて迎えた。今度は逸らしきれなかった。
金属が潰れるような音がして、彼女の体が横へ飛ぶ。
ガードレールに背中からぶつかり、鉄の板がくの字に曲がった。
「セイバー!」
彼女は立った。立ったが、鎧の脇が裂け、青い衣に黒いものが広がっていく。
剣を握る手が一度下がりかけ、持ち直す。息が白く、荒い。
バーサーカーが歩いてくる。急がない。逃げ場のない相手へ向かう歩き方だった。
セイバーは構えた。足が動いていない。
さっきまで半歩ずつ刻んでいた足が、路面に貼りついたままだ。
斧剣が持ち上がる。
士郎は、遠坂が何か叫んだのを聞いた。
聞いたが、言葉として頭に入る前に、もう体が前へ出ていた。
考えていたわけじゃない。
間に合うとも、何ができるとも思っていなかった。
ただ、あの刃が落ちる先に彼女がいて、自分はその後ろで守られていて、それを見ているのがどうしても我慢できなかった。
肩からぶつかった。セイバーの体は驚くほど軽く、横へ押し出される。
「シロウ――!?」
彼女の声と同時に、腹の横を何かが通り抜けた。
痛みはなかった。熱いとも思わなかった。
体が勝手に回って、気づくと頬が路面についていた。
アスファルトが冷たい。その冷たさのすぐ下に、ぬるいものが広がっていく。
足の感覚がない。腹から下が、あるのかどうかも分からない。
音が遠くなった。
咆哮が止んでいる。斧剣が路面を割る音もしない。坂道が、急に静かになっていた。
「……なんで」
少女の声だった。さっきまでの弾んだ調子がない。小さく、途中で切れた。
士郎は目だけを動かした。視界の端で、鉛色の脚が止まっている。
斧剣を振り抜いた姿勢のまま、石像のように固まっている。
その向こうに白い髪が見えた。顔は暗くて分からない。
長い間があった。長く感じただけかもしれない。
「……つまんない」
吐き捨てるような声。靴音がひとつ、坂の上へ向く。
「もういいわ。帰るわよ、バーサーカー」
巨体が向きを変えた。地面が一歩ごとに揺れ、その揺れが遠ざかっていく。
誰かが肩を掴んでいる。セイバーの声と、遠坂の声が重なって聞こえた。
何を言っているのかは、もう拾えない。
ああ、止まったのか、と思った。
それを最後に、坂道の街灯が滲んで消えた。
◇
朝食の皿を洗い終えたランスロットが台所から戻ってきた時、バゼットは寝台の上に荷物を並べていた。
手帳。ペン。電話。財布。昨夜のうちに畳んでおいた替えの包帯。
部屋の主から渡された薬の紙袋は、口を二度折ってある。
持って出る物は多くない。鞄ひとつに収まる分だけにした。
洋館から持ち出した他の荷は、部屋の隅へ寄せておく。
今日のうちに何があるか分からない以上、身軽な方がいい。
「ランスロット。鞄の口を開いたまま持っていてもらえますか」
「こう?」
「もう少しこちらへ傾けて。……そのままで」
彼が両手で鞄を支え、バゼットは右手で一つずつ中へ入れていった
手帳は取り出しやすい外側へ。薬は潰れないよう内側へ。
電話は上着のポケットにするか少し迷って、鞄の浅い仕切りへ差した。
留め金は自分で掛けた。片手でも、鞄を膝で押さえれば掛かる。
「上着は?」
「着ます。左の肩だけ、掛けるのを手伝ってください。袖は通しません」
「分かった」
右の袖へは自分で腕を入れた。彼が後ろへ回り、上着の左側を持ち上げて肩へ乗せる。張っている場所へ布の重みが触れ、バゼットは息を止めた。一拍置いて、吐く。
「重い?」
「いえ。大丈夫です、このくらいなら」
空の袖が体の脇に垂れている。バゼットはそれを一度見下ろしてから、鞄の持ち手を右手で握った。
ランスロットは椅子の背から自分の上着を取り、袖を通した。折っていたシャツの袖口を伸ばして、ボタンを留める。それだけで支度が済んだ。
「鞄、持とうか」
「歩けなくなったら頼みます。今は自分で」
「了解。じゃあ、扉は俺が」
廊下へ出ると、突き当たりの戸が開いていた。
ここの主が、奥の間で薬棚の前に立っている。
足音に気づいて振り返り、バゼットの上着と鞄を見て、片方の眉を上げた。
「出るのかい」
「はい。少し、外を回ってきます」
「まだ寝ていた方がいい体だがね。言っても聞かんだろう」
「無理はしません。動ける範囲で動くだけです」
主は鼻を鳴らしたが、止めはしなかった。バゼットは鞄を足元へ置き、右手を体の前に添えて頭を下げた。
「急な頼みを受けていただいて、ありがとうございました。何も訊かずに置いてくださったことも」
「そういう約束だったろう。薬は時間どおりに飲みなさい。肩が熱を持ったら、すぐ戻ること」
「そうします」
隣でランスロットも頭を下げた。
「俺からも。寝床も台所も、助かりました。受け入れてくれて、ありがとうございます」
主は彼の顔をしばらく眺め、素性を尋ねる代わりに、手をひらりと振った。
「食材を使った分、流しがきれいになっていた。それで結構だよ。部屋はそのままにしておく。戻るなら、先に電話を一本」
「ありがとうございます」
バゼットはもう一度礼を言い、鞄を持ち直した。
廊下の先に、玄関の磨り硝子が明るい。ランスロットが半歩前に出て、彼女の歩く速さに合わせた。
玄関の三和土で靴を履いたところで、バゼットは足を止めた。
「少し待っていてください。話をつけてきます」
「話?」
「歩いて回れる広さではありません。この街は」
ランスロットは頷き、鞄へ手を出した。今度は預ける。バゼットは廊下を戻り、奥の間の戸口から声を掛けた。
主は薬棚の引き出しを閉めて振り向いた。
「忘れ物かい」
「もう一つ、お願いがあります。裏に停めてある車を、しばらくお借りできませんか。燃料は入れて返します。傷をつけた場合の費用も、こちらで持ちます」
「あれか....」
主は少し考えるように目を細めた。
「当分使う予定もないから、構わないよ。何日か使うくらいなら好きにしな。長くなるようなら、一度連絡を入れておくれ」
「分かりました。ありがとうございます」
主は机の引き出しを開け、木札のついた鍵を取り出した。差し出す前に、バゼットの空の袖へ目をやる。
「あんたが握るんじゃないだろうね」
「連れが運転します」
「なら構わん。返す時も、一声かけてくれればいい」
「ありがとうございます。お借りします」
鍵は掌に冷たかった。バゼットは礼をして玄関へ戻り、靴を履き直して外へ出た。
朝の空気が頬に当たる。建物の脇を回ると、砂利敷きの空き地に車が一台停まっていた。濃紺の四ドアセダン。屋根に薄く埃が載っているが、タイヤの空気は抜けていない。
「これを?」
「ええ。しばらく借りられることになりました。長く使う場合は、改めて連絡を入れます」
ランスロットは車の周りを半周し、前輪の脇でしゃがんで下を覗いた。立ち上がって、ボンネットの埃を指で一筋ぬぐう。
「いい車だな。ちゃんと手を入れてある」
声が少し弾んでいた。バゼットは鍵を持ったまま、彼の横顔を見る。
「念のために確かめますが、運転はできますか。私は、この腕では握れません」
「できるよ」
間がなかった。料理はできるかと訊いた時と、同じ速さだった。
「免許は」
今度は間があった。
ランスロットは指についた埃を払い、空を見て、それからバゼットを見た。
「……ない、ね。少なくとも今の俺は持ってない。身分証もないし」
「でしょうね」
「本当なら、ちゃんと取りたいんだけどな。教習所に通って、試験を受けて。順番を踏んで乗る方が、気分がいいだろ」
彼は濃紺の屋根へ目を戻し、心底惜しそうに息をついた。
「でも今から申し込んでも、卒業する頃には戦争が終わってる」
バゼットは鍵を握ったまま、しばらく彼を見ていた。
「あなたは、召喚の記録にも載っていないサーヴァントです」
「そうだね」
「それで今、気に病むのは教習所の日程なのですか」
「大事だよ。学科もあるんだ、あれ」
「そこを残念そうに言わないでください」
ランスロットが、堪えきれずに短く笑った。
「いや、ごめん。言われてみれば、順番がおかしいな」
「おかしいです、かなり」
言いながら、バゼットにも小さく笑いが漏れた。
左肩にわずかに響いて、それ以上は続けなかった。
彼は笑いの名残を目元に残したまま、掌を上に向けて差し出した。
「じゃあ、行こうか」
バゼットは鍵をそこへ置いた。
「ええ。行きましょう」
彼が助手席の扉を開けて、押さえる。
バゼットは屋根の縁に右手を掛け、腰から先に座席へ入った。
足を引き入れ、背を預ける。そこまでは一人でできた。
「ベルトを引き出してもらえますか。左へ手を回すと、肩に響くので」
「金具は、ここでいい?」
「ええ。あとは自分で留めます」
彼が帯を引いて渡し、バゼットは右手で金具を差し込んだ。帯のねじれを指で直した。
後ろの扉が開き、鞄が後部座席へ置かれる。それから運転席側の扉が開いた。
ランスロットは乗り込むなり、座席の下へ手を入れて椅子を後ろへ下げた。脚が無理なく収まる位置で止め、背もたれの角度を一段起こす。ルームミラーを直し、左右のドアミラーを順に見て、窓を少し下ろして右の一枚を指で押した。
どの動作にも迷いがなかった。
レバーも鏡も、手が先に場所を知っているように動く。昨夜、釜からご飯をよそい、食事を整えていた時と同じだ、とバゼットは思った。覚えた知識を呼び出すというより、長く繰り返した手順に見えた。
彼は自分のベルトを留め、こちらの金具へ目をやって、掛かっているのを確かめた。
「気分が悪くなったら言って。すぐ停める」
「言います」
鍵が回る。エンジンは一度で掛かった。彼は音を聞くように少し首を傾け、計器へ目を走らせてから、後ろを振り返った。
車が砂利を踏んで動き出す。空き地の出口で一度きちんと止まり、左右を見て、通りへ出た。加速は緩く、揺れが少ない。
バゼットは窓の外へ流れる塀を見てから、ハンドルに置かれた彼の手を見た。
「よく乗っていたように見えます」
「そうみたいだな。どこを走ってたのかは、出てこないけど」
彼は前を向いたまま答えた。
それ以上は続かなかった。バゼットも訊かなかった。濃紺の車は、朝の通りを川の方へ下っていく。
坂を下りきった交差点で、信号が赤に変わった。車が止まる。
「最初はどこへ向ける?」
ランスロットが訊いた。バゼットは窓の外の標識を読み、頭の中の地図と重ねた。
「まず、私のいた洋館の方角へ。ただし、前までは行きません」
「理由を聞いていい?」
「彼が最後に私と一緒にいた場所です。契約を移された後、あそこを確かめに戻ることがあるかもしれない。あるいは、戻るよう命じられることが。どちらも推測です。今の彼がどこを回っているのか、私は知りません」
「前まで行かないのは、神父が見てるかもしれないから」
「ええ。私の死体がないことに気づいていれば、見張りを置くでしょう。気づいていなくても、近づいて得るものは少ない」
信号が変わり、車が動いた。ランスロットは少し考えてから言った。
「じゃあ、館が遠くに見える道を一本だけ通ろう。停まらずに抜ける。そこまでの案内、頼める?」
「次を左です。その先は道なりに」
「分かった」
通りは住宅地へ入った。朝の遅い時間で、歩いているのは犬を連れた老人と、自転車の主婦くらいだった。
「ランサーのこと、教えてくれる? 俺は顔も知らないんだ」
「青い装束です。体に沿った、鎧というより戦装束に近いもの。髪も青く、後ろで束ねています。槍は赤い。長さは彼の背丈を超えます」
「目立つね」
「実体でいれば。霊体のままなら、私の目では追えません」
「近くまで来て動けば、俺も気づけると思う。ただ、遠くから街じゅうを探れるわけじゃないし、今はそんな余裕もない」
「承知しています。無理に広げないでください」
バゼットは膝の上の右手を見て、続けた。
「速い、というのが一番の特徴です。足も、槍も。正面から打ち合って目で追える相手ではありません。性格は……回りくどいことを好みません。偵察を命じられても、物陰から覗くより、見晴らしのいい場所に立って眺める方を選ぶ男です」
「高い所か」
「私の知る限りでは。今も同じかどうかは、分かりません」
ランスロットは頷き、前方の坂の上へ目をやった。木立の向こうに、洋館の屋根が小さく見えてくる。彼は速度を変えなかった。バゼットは助手席の窓から、門の前と塀の角を見た。人影はない。車は一台も停まっていない。屋根の上にも、何もいなかった。
通り過ぎるまで、どちらも口を開かなかった。
「気配は?」
「なかった。少なくとも、俺に分かる距離には」
「では次へ。川へ出て、橋を渡ります」
大橋の手前で、車の流れが増えた。歩道には人が絶えない。ランスロットは橋の鉄骨を見上げ、渡りながら左右の川面へ目を配った。
「見晴らしはいい。上に立てば両岸が全部見える。でも」
「ここで誰かと向き合うことはできませんね」
「うん。人が多すぎる。車も途中で止められないし、向きも変えられない。見つけても、こっちが動けない」
「橋は外しましょう。渡った先の、駅の周りも同じです」
新都の中心は、車の窓から眺めるだけにした。高い建物が並び、屋上はいくつもある。ランスロットは信号で止まるたびに上を見たが、やがて小さく首を振った。
「上に立つのが好きな相手を、下から探すのは分が悪いな。向こうからは丸見えで、こっちは首が疲れるだけだ」
「同感です」
バゼットは背もたれへ頭を預けた。朝から座っているだけなのに、肩の張りが首の付け根まで上がってきている。
「ランスロット。少し休みます。どこか停められる場所へ」
「了解。腹にも何か入れよう。さっき、パン屋があった」
◇
公園脇の駐車場は、昼を過ぎても半分以上空いていた。
紙袋の中身は、卵を挟んだパンが二つと、甘い菓子パンがひとつ。菓子パンは彼が自分のために選んだものだった。バゼットは卵の方を半分食べ、薬を水で流し込んで、座席を少し倒した。
「疲れが出ています。肩も、朝より張ってきました。熱は持っていません」
「じゃあ、少し目を閉じてて。周りは見てる」
「あなたは」
「半日ずっと気を張ってた分、少し重いかな。削れたってほどじゃない。ただ、このまま夜まで街を流しても、見つかる前に俺の方が先に鈍ると思う」
隠さない言い方だった。バゼットは頷いて、目を閉じた。
ひと眠りして目を開けると、彼は菓子パンの最後のひと欠けを口へ入れるところだった。ハンドルに片腕を載せ、フロントガラスの向こうの木立を眺めている。
「起きた? 気分は」
「頭は軽くなりました。肩は変わりません」
座席を起こす。彼は紙袋を畳み、こちらへ体を向けた。
「寝てる間に、考えてたことがあるんだ。聞いてくれる?」
「どうぞ」
「探して回るのは、もうやめた方がいいと思う。代わりに、向こうに見つけてもらう」
バゼットは黙って続きを待った。
「ランサーが今、誰のために何をしてるのかは分からない。でも、もし他の陣営を見て回ってるなら、人のいない所に見慣れないサーヴァントが一騎立っていたら、確認しに来る理由にはなるんじゃないかな」
「誘い出す、と」
「そこまで上等なものじゃないよ。俺が気配を消そうとしないで、しばらく立ってるだけ。魔力を撒くわけでもない。近くを通った相手が気づくかもしれない、っていう程度の話だ。誰も来ないかもしれない」
「来るのがランサーとも限りません」
「うん。別の誰かかもしれない」
バゼットは膝の上で右手の指を曲げかけた。両手を組むはずだった癖だけが途中まで出て、右手をそのまま腿へ置く。
「問題を挙げます。まず、あなたの存在が外へ出ます。記録にないサーヴァントがいると、少なくとも一つの陣営に知られる。次に、来た相手が私を見れば、私が生きていることが知られます。その相手がランサーで、契約者が綺礼なら、報告はそのまま綺礼へ届く」
「そうだね」
「そうだね、ではなく。あなたはそれをどう見積もっているのですか」
ランスロットは少しの間、ハンドルの縁を親指でなぞっていた。
「俺が知られるのは、いずれ避けられないと思ってる。隠れたまま調べられることは、昨日でほとんど尽きた。だから、そこは取っていい危険だと思う。君の方は、俺が決めていいことじゃない。君が生きてると神父に伝わったら、狙われるのは君だ」
「……ええ」
「だから、分けたい。最初に姿を見せるのは俺だけ。君は車にいて、相手が誰か分かるまで顔を出さない。ランサーじゃなかったら、俺はそのまま引いて、君のことは一言も言わない」
バゼットは窓の外を見た。子供がひとり、母親に手を引かれて公園の出口を歩いていく。
綺礼に知られる。その言葉を頭の中で一度、最後まで転がした。あの男が、仕留め損ねたと知る。もう一度来る。今の身体で、正面から迎え撃つのは無理がある。
それでも、ランサーに訊かないまま終わる方が、嫌だった。
「条件を足します」
「聞くよ」
「相手がランサーだと分かったら、車を出るかどうかは私が決めます。あなたが呼ぶのでも、止めるのでもなく」
「分かった。そこは君が決める」
「車は、すぐ出せる向きで停めてください。私のいる場所から、あなたの立つ位置が見えること。あなたからも、車が見えること」
「うん。離れすぎない。何かあれば俺が戻る方が早い距離にする」
「それから。教会にも、治療先にも、こちらからは触れません。訊かれても答えない」
「言わない。治療先も、君のことも。話すとしても、俺自身のことだけだ」
バゼットは息を吐いた。
「一つだけ、あなたに預けます。本当に危ないと判断したら、『下がれ』と言ってください。その時は、一度は従います。理由は後で聞きます」
ランスロットは、すぐには返事をしなかった。彼女の顔を見て、それから頷いた。
「預かる。軽くは使わない」
「では、場所です。人が来ず、車を入れられて、すぐ出られる所。見通しが利くこと」
「高い建物が近くにない方がいいな。上から先に見られるのは構わないけど、降りてくる道筋がこっちから見えないのは困る」
「川沿いはどうですか。新都の外れまで下れば、堤防の内側に空き地が続いています。この時期、日が傾けば人は通りません」
「道は?」
「堤防の上に一本。車で入れる切れ目が何か所かあったはずです。確かではありません。見て決めましょう」
「了解。じゃあ、それでいこう」
エンジンが掛かる。車は駐車場を出て、川の方へ折れた。
堤防の道へ上がったのは、日が西へ寄り始めた頃だった。左手に川、右手に低い倉庫と資材置き場が続く。最初の切れ目は、降りた先が行き止まりだった。ランスロットは入らずに通り過ぎた。
「あそこは駄目だ。入ったら、出るのに切り返しがいる」
「次は、もう少し先です」
二つ目は、堤防の下が砂利の広場になっていた。川べりの枯れ草まで、遮るものがない。対岸は遠く、こちら側の建物は背の低い倉庫が一棟だけ。広場の端からは、堤防へ戻る坂がもう一本、下流側にも付いている。
ランスロットは車を一度広場へ下ろし、ゆっくり一周した。それから上流側の坂の下で向きを変え、鼻先を堤防の道へ向けて停めた。
「ここなら、前へ踏むだけで上に出られる。下流の坂は、塞がれた時の二本目」
「あなたは、どこに」
「広場の真ん中より、少し川寄り。君の席から見える。走れば、すぐ戻れる距離だ」
バゼットは窓越しに、その場所を目で測った。枯れ草の手前。車との間に、隠れられる物は何もない。
「いいでしょう」
彼がエンジンを切った。鍵は差したままにしてある。
川面が、傾いた日を受けて赤く光り始めていた。
「窓を下ろしておいてください。声が届くように」
「うん」
ランスロットは助手席側の硝子を半分まで下げ、それから自分の扉を開けた。川の匂いのする冷えた空気が、車の中へ入ってくる。
「どのくらい待つ?」
「日が落ちきって、肩に冷えが来たら切り上げます。その時は言います」
「分かった。俺の方が先に怪しいと思ったら、戻ってくる」
扉が閉まった。彼は砂利を踏んで、広場の中ほどへ歩いていく。上着の裾が風に少し煽られた。枯れ草の手前で止まり、川を背にして、こちらへ半身を向ける。
言っていたとおりの位置だった。助手席の窓から見える。
彼は何もしなかった。剣を出すわけでも、構えるわけでもない。両手を体の脇へ下ろし、時々、堤防の上と倉庫の屋根と下流の坂へ目をやる。散歩の途中で足を止めた男にも見える。ただ、身を隠すつもりがないことだけは、車内からでも分かった。
バゼットは座席に背を預けたまま、彼の向こうの空を見た。
赤が薄れていく。対岸の工場の煙突に灯りが点き、橋の方角から列車の音が渡ってきて、消えた。堤防の道を車が一台通る。速度を落とさずに行ってしまう。
倉庫の屋根。誰もいない。上流の坂。誰もいない。
自分でも順に確かめていた。彼が見ていない間は、彼の背中側を。
川面の光が鈍くなり、足元から冷えが上がってくる。右手で上着の前を寄せた。左の肩はまだ熱を持っていない。あと少しは待てる。
広場の真ん中で、ランスロットが一度こちらを見た。バゼットは小さく頷いた。まだいい。彼も頷き、また川下へ目を戻した。
堤防の上に、街灯がひとつ点いた。
空の色がほとんど抜けた頃だった。
ランスロットの首が動いた。
それまでの、順番に見回す動きとは違った。下流の坂の上、一点へ向いて、止まる。肩の線が変わった。力が入ったのではない。下ろしていた両手の、指だけがわずかに開いた。足の幅が、砂利の上で半歩分ずれる。
顔は見えた。目元から、さっきまでの柔らかさが引いている。怒っているのでも、硬くなっているのでもない。目の前の一点へ、注意がすべて揃った顔だった。
「バゼット」
声は低く、短かった。
「来た」
バゼットは窓枠に右手を掛け、彼の視線の先を追った。
下流側の坂の上。堤防の縁に、さっきまでなかった影が立っている。
人の形だった。背が高い。片手に、身の丈より長い棒のようなものを提げている。街灯の光は届いておらず、暮れ残りの空を背にして、輪郭しか分からない。
影は動かなかった。広場を見下ろしている。ランスロットを見ている。
それから、坂を下り始めた。歩いている。急がない。砂利を踏む音が、ここまで届かないほど軽い。
一歩ごとに、輪郭の中へ色が入ってくる。
体に沿った、青い装束。後ろで束ねた髪が、歩みに合わせて揺れる。肩に担ぎ直した長柄の、穂先から柄までが、残り火のような赤。
息が止まっていた。
あの歩き方を知っている。槍を肩へ載せる時の、手首の返し方を知っている。面白いものを見つけた時に、顎を少し上げる癖も。
右手が扉の把手を探して、引いていた。
足を下ろす。砂利が靴の下で鳴った。屋根の縁を掴んで体を起こし、扉の横に立つ。視界は揺れなかった。左の肩の張りだけが、まだそこにあった。
ランスロットが、一瞬だけこちらを振り返った。
何も言わなかった。目が合って、彼はまた前を向いた。
青い影が、広場の端で足を止める。
喉が乾いていた。声は、思っていたより小さく出た。
「――ランサー」
ようやく動き出した二人。
まず最初に確かめるのは――ランサーが今どこにいて、何をして、何を思っているのか。
次回――
「ランサー死す」
デュエルスタンバイ!
ランサー「勝手に殺すな」
……嘘です。死にません。