無銘の湖光 ~ランスロットとして目覚めた俺は、名を失っても世界を紡ぐ~ 作:カノープス・ギア
槍の男は、すぐには応えなかった。
堤防の上を見上げたまま、赤い穂先だけが地面のほうを向いている。川から吹き上げる風が青い装束の裾を叩き、枯れ草が足もとで鳴った。
「……バゼット?」
低い声だった。聞き慣れた調子より、ずっと静かな。
「ええ。生きています」
それだけ返すのに、思ったより息を使った。バゼットは車の屋根に置いていた右手を離し、背筋を伸ばす。
ランサーの口が、一度開いて閉じた。
「――そうか」
吐いた息が白い。肩がわずかに下がり、槍を握る手がゆるんだのが、この距離でも分かった。
「生きてたか。そうか……」
笑いかけたような顔が、途中で止まった。視線がバゼットの顔から肩へ落ち、風に揺れる左の袖で留まる。肘の上で折って留めた布は、中身がないぶん軽く動く。
ランサーは何も言わなかった。言わないまま、目だけが細くなる。
ここからでは、声を張らなければ話ができない。バゼットは堤防の縁へ歩き、コンクリートの階段に足をかけた。手すりは右側にある。一段ずつ、膝と相談しながら下りた。昼から溜まった疲れが脚にあり、肩口の張りは冷えた空気でいっそう固い。
空き地の中ほどにいたランスロットが、こちらを見て半歩だけ横へ動いた。階段の下とランサーを結ぶ線を空け、そのかわり、二人と川下の暗がりを一度に見られる位置に立つ。両手はコートの外に出たままだった。
ランサーのほうも歩いてきた。槍は下げたまま、急がない足で。階段を下りきったバゼットの数歩手前で止まる。
近くで見ると、変わっていなかった。赤い目も、束ねた髪も、退屈を嫌う口もとも。
「その腕」
「ええ」
「誰にやられた」
遠回しな訊き方をする男ではない。バゼットも飾らずに答えた。
「言峰綺礼です。あの夜、館で。令呪ごと持っていかれました」
ランサーの顔から表情が消えた。
槍の柄が軋む。石突きが土を噛み、片足が前へ出た。バゼットへではない。彼女の肩越し、川の向こう、街の灯が坂をのぼっていく方角へ。
一歩で、止まった。
止めたのか、止まったのか、バゼットには見分けがつかなかった。ただ、踏み出した足の下で枯れ草が潰れ、握り込んだ拳の関節が白くなっている。
「……あの野郎」
歯のあいだから出た声は、それきりだった。ランサーは足を引き、長く息を吐いて、もう一度バゼットを見た。
「腕を落とされて、そのまま放っておかれたんだな」
「はい」
「それでどうやって生きてる。お前、そのままじゃ朝までもたなかったろう」
「もちませんでした。一人なら」
バゼットは横へ目をやった。
「この人が見つけてくれたんです。館に入ってきて、血を止めて、身体を冷やさないようにして、朝まで見張っていた。そのあと、治療のできる相手のところまで運んでもらいました。今こうして立っているのは、その続きです」
ランサーの視線が、初めてまともにランスロットへ向いた。頭から靴の先まで、値踏みを隠さない目で。
「アンタが拾ったのか」
「うん。見つけた時、まだ息があったからね」
ランスロットは気負いなく答えた。
「できたのは応急の手当てまでだよ。腕は、俺が着いた時にはもうなかった」
「……そうか」
ランサーは短く黙り、それから顎を引いた。
「礼を言う。こいつは、俺が守るはずだった女だ」
「受け取っておくよ」
ランスロットは小さく笑った。
「間に合ってよかったと、俺も思ってる」
ランサーは鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。すぐにバゼットへ目を戻す。
「で、そいつに連れられて、ここまで来たってわけか」
「いいえ」
バゼットは首を振った。
「あなたを探すと言ったのは私です。会うと決めたのも。彼には、そのための足と目を借りました」
「怪我人が、わざわざ」
「怪我人でも、訊きたいことは自分で訊きます。あなたになら、なおさら」
ランサーの眉が上がった。呆れたようにも、懐かしむようにも見えた。
「変わらねえな、お前は」
「変わりましたよ。腕が一本減りました」
「笑えねえ冗談まで言うようになったか」
「この数日で、少し」
口にしてから、バゼットは自分でも意外に思った。ランサーの前で、こういう返しができるとは考えていなかった。
ランサーはランスロットとバゼットを見比べ、槍を肩へ担ぎ直した。
「それで、そっちのはサーヴァントだろう。お前、令呪は取られたと言ったな。どういう繋がりだ」
「召喚したわけではありません。私が会った時、彼はもう現界していました。マスターも、供給もなしに」
「はぐれか」
「そう呼ぶのが近いかと。ですから、私のほうから提案しました。魔力の経路と、こちら側に留まるための足場を繋ぐ契約を。彼が承知して、二人で結んだものです」
バゼットは右手を上げ、甲を見せた。何の印もない、ただの手だ。
「令呪はありません。新しく宿ってもいない。私は彼に何も命じられませんし、彼も従う義務を負っていない」
「命令権なしで、英霊を繋いでるのか」
「ええ。頼むことと、断られることがあるだけです」
「……お前の魔力は。その身体で回せるのか」
「細いですよ。彼が静かにしていて、やっと保つ程度です。長く戦わせる余裕はありません」
ランサーはランスロットへ目をやった。さっきとは違う、戦う者の測り方で。
「道理で薄いわけだ。長くはやれねえな」
「そうだね」
ランスロットは肩をすくめた。
「でも、足りない分は二人で数えてる。今日ここに立つくらいなら問題ない」
「アンタはそれでいいのか。令呪もねえ、魔力も足りねえ主だぞ」
「俺もそれを選んだ。彼女だけが決めた話じゃないよ」
ランサーはしばらく、その顔を見ていた。川の音が、三人のあいだを流れていく。
「……要するに、そいつとはお互い納得ずくで繋いだ。で、今日はお前が自分で俺に会いに来た」
ランサーはバゼットへ向き直った。
「はい。そのとおりです」
「そうか」
ランサーは槍を担いだまま、空いた手で首の後ろを掻いた。伏せた顔が、ほんの少しだけ笑っている。
「なら、いい。――よく来たな、バゼット」
「ええ。来ました」
バゼットは頷き、それから足もとの土を一度踏み直した。訊くべきことは、ここからだった。
「ランサー。今のあなたのマスターは、誰ですか」
伏せていた顔が上がる。笑みはもう残っていなかった。
「言峰だ」
短い答えだった。
「お前との線が切れて、次に繋がった先があの神父だった。令呪もあっちの手にある」
「……やはり」
「さっきの、そいつとの契約な」
ランサーは槍の先でランスロットのほうを示し、すぐに下ろした。
「お前が新しく誰かと繋いだところで、俺とのあれは戻らねえんだろう」
「戻りません。あれは彼との間だけのものです。あなたと言峰の契約には触れられませんし、私とあなたの契約を呼び戻す力もない」
「だろうな。こっちは何も変わっちゃいねえ」
分かっていたことだった。協会の記録を待ち、手帳に線を引きながら、何度も同じ結論へ行き着いていた。それでも本人の口から聞くと、胸の底に置いていたものが、もう一段沈む。
バゼットは息を整えた。
「一つ、訊かせてください」
「何だ」
「私が生きていると、知っていましたか」
ランサーは、すぐには答えなかった。逸らしもしなかった。
「知らなかった」
赤い目が、まっすぐにこちらを見ている。
「俺に分かったのは、お前との繋がりがいきなり切れたことと、気づいた時にはあいつが主になってたことだけだ。お前がどうなったかは、誰の口からも聞いてねえ。聞こうにも、切れちまえば前みてえには辿れなかった」
「では、今日まで」
「死んだか、死にかけてるか。どっちかだと思ってた」
言い捨てる調子ではなかった。ランサーの視線が、もう一度だけ左の袖へ落ちる。
「半分は当たってたわけだ。胸糞の悪い話だがな」
バゼットは右手を握り、開いた。
館の床で、応えのない経路へ呼びかけ続けた夜を覚えている。届かなかったのか、聞いて来なかったのか。熱に浮いた頭で、どちらとも決められずにいた。
「……そうですか」
声が思ったより掠れたので、言い直す。
「知っていて来なかったのではない。それを、あなたから聞きたかったのです」
「当たり前だ。知ってりゃ――」
ランサーは言いかけて、口を閉じた。続きは出なかった。舌打ちが一つ、風に流れた。
「腕は戻りませんし、あの男があなたを握っていることも変わりません」
バゼットは続けた。
「ですが、一つは片づきました。ありがとう、ランサー」
「礼を言われる筋じゃねえよ」
「言いたいから言うんです」
ランサーは口の端を歪め、それ以上は返さなかった。
堤防の上を、遠くで車が一台通り過ぎる。ランスロットの目がその灯りを追い、音が消えるのを待ってから戻った。
「では、今の話を」
バゼットは顔を上げた。
「今夜あなたがここへ来たのは、言峰の命令ですか」
「ここへ、ってわけじゃねえ。街を回るのが今の仕事だ」
ランサーは槍を肩から下ろし、石突きを土に立てた。
「他の連中がどこで何をしてるか、見てこい。必要なら一当てして、腕と手の内を確かめろ。それを決まった刻限に戻って話せ。そういう言いつけだ。河っぺりに見慣れねえのが立ってたから寄った。そうしたら、お前がいた」
「偵察と、威力偵察。それに定時の報告」
「そんなところだ。槍兵に斥候をやらせるんだから、人使いの分かった主だぜ」
軽く言ったが、目は笑っていない。
「話していいのですか。私たちに」
「喋るなとは言われてねえ。言われてねえことまで、あいつに義理立てする気もねえよ」
「報告は、決まった時刻に戻るんだね」
ランスロットが訊いた。
「今夜の分は、もう近いのかい」
「夜のうちに一度だ。まだ間はある」
ランサーは空を見上げ、すぐに目を戻した。
「心配しなくても、話の途中で消えたりはしねえよ」
「それは助かる。彼女の訊きたいことは、まだ残ってるはずだから」
「アンタのもだろう」
「そうだね。俺のも」
ランスロットはあっさり認めた。ランサーは片眉を上げ、それからバゼットへ顎をしゃくった。
「見て回る中で、一人だけ名指しがある。衛宮士郎って小僧だ」
「衛宮、士郎」
バゼットは音を確かめるように繰り返した。参加者として挙がっていた名前ではない。
「こいつからは特に目を離すな、だとよ。理由は聞かされてねえ。見たところは半人前の魔術師だ。ただ、連れてるのが厄介でな」
「サーヴァントを?」
「セイバーだ。ついこの前、呼ばれたばかりのな」
バゼットの息が止まった。
協会の窓口が読み上げた七行。その最後の一行に、人の名前がついた。
横で、ランスロットが静かにランサーを見ていた。
「そのセイバーを、君は自分の目で見たのかい」
「見たも何も、槍を合わせた。呼ばれたその場に居合わせたんでな」
ランサーは不思議そうに目を細めた。
「何だ。そんなに気になるか」
「かなりね」
ランスロットは短く答え、一度バゼットへ視線を寄こした。
記録ではなく、刃を交えた当人の証言。昼の間ずっと欲しかったものが、目の前にある。
それでも、先に訊くことがあった。バゼットは小さく首を振る。ランスロットは頷き、それ以上追わなかった。
「それは後で、彼から話します」
バゼットは言った。
「衛宮士郎という少年が、そのセイバーのマスターなのですね」
「ああ。間違いねえ」
ランサーは槍の柄に手を重ね、バゼットを見た。
「言峰の命令は分かりました」
バゼットは、その顔から目を離さずに言った。
「では、あなた自身はどうしたいのですか」
ランサーは少し黙った。槍の柄に重ねた指が、一度だけ組み替わる。
「どうしたい、か」
「ええ。主が誰で、何を命じられているか。それはもう聞きました。私が知りたいのは、その中にいるあなたのことです」
「相変わらず、まっすぐ訊きやがる」
ランサーは笑い、すぐに笑みを引いた。
「主は言峰だ。そこは誤魔化さねえ。見てこいと言われりゃ見に行くし、戻れと言われた刻限には戻る。繋がれてる以上、やることはやる」
「はい」
「だがな、あいつに尽くす気はねえよ。これっぽっちもだ」
声が低くなった。
「俺が槍を預けたのはお前だ。あいつは、それを後ろから掠め取っただけの男だろうが。仕事をしてやるのと、主と認めるのは別の話だ。俺の中じゃ一度も混ざっちゃいねえ」
バゼットは、右手が震えかけているのに気づいた。コートの裾を握って押さえる。
その言葉を、聞きたかった。聞けるとは思っていなかった。
「……そう、ですか」
「何だ、その顔は。疑ってたのか」
「疑ってはいません。ただ、確かめるまでは分からなかった。あなたは、主が替われば替わった先で筋を通す人でもあるでしょう」
「筋を通すに足る主ならな」
ランサーは鼻を鳴らした。
「あれは違う。何を考えてるのか、傍にいてもさっぱり見えねえ。見て回れと言うくせに、勝つ気があるのかどうかも分からん。小僧一人をやけに気にしてる理由もだ」
「あなたにも、目的を明かしていない」
「ああ。だから見てる。命じられた分は命じられたとおりにやって、その先は俺の目で確かめる。何を見てどう思うかまで、あいつに預けた覚えはねえ」
諦めた男の口ぶりではなかった。獲物の足跡を追っている時の、あの目をしている。
「正直に言やあ」
ランサーは槍を握り直し、バゼットを見た。
「お前が生きてたのは、効いた。さっきから、どうにも落ち着かねえ。このまま槍を担いでお前の横に立てたら、どんなにか話が早い」
「ランサー」
「だが、できねえ」
きっぱりと言った。
「今ここで俺がお前の側についたら、あいつなら令呪を切りかねねえ。それで何をさせるか、お前なら想像がつくだろう」
つく。バゼット自身、一度はあの印を手に宿していた。あれが何を強いられるものか、使う側として知っている。
「……あなたの槍が、私に向く」
「お前か、そこの恩人にな。俺の意思と関係なく身体を動かされる。そいつだけは御免だ」
ランサーの目がランスロットへ流れた。試すような色が混じる。
「それともアンタ、あれをどうにかできる口か」
「できないよ」
ランスロットは首を振った。
「そう言えたらよかったんだけどね。今の俺に、他人の令呪を外す手はない。槍が向けば受けるつもりだけど、それは君の望む形じゃないだろう」
「違いねえ」
「一つだけ訊いていいかな。今夜ここで俺たちと話したこと自体は、君の首を絞めないのかい」
「それは俺が考える」
ランサーは即座に返した。
「アンタらが気を回すことじゃねえよ」
「分かった。なら任せる」
ランスロットはそれ以上踏み込まなかった。ランサーも、もう一度バゼットへ向き直る。
「そういうわけだ。今は動かねえ。あいつの下で槍を振りながら、あいつが俺に何をさせる気なのかを見極める。腹を決めるのは、それからだ」
川風が、三人の間を抜けた。
バゼットは、握っていた裾を離した。
戻ってきてほしい。その一言が、喉のすぐ下にある。けれど今それを口にすれば、自分が彼の首にかかった縄を、もう一方から引くことになる。
「分かりました」
声は、思ったより落ち着いていた。
「戻れとは言いません。今のあなたを、そんな賭けに乗せたくない」
「ああ」
「ただ」
バゼットは一歩、前へ出た。
「これで終わりにするつもりもありません。あの夜のことも、あなたが見てきたものも、まだ半分も聞いていない。私は、あなたと話がしたくて来たんです。用件を片づけに来たのではなく」
ランサーは目を瞬いた。それから、喉の奥で短く笑った。
「言うようになったな、お前」
「いけませんか」
「いいや。前よりいい」
肩から力が抜けた。失ったものは失ったままで、目の前の男は敵の手の内にいる。それでも、呼吸が一つ深く入った。
「あなたが、あなたのままでよかった」
「人を何だと思ってやがる。主が替わったくらいで中身まで替わるかよ」
ランサーは槍を肩へ戻し、いつもの調子で顎を上げた。
「さて。こっちは洗いざらい喋ったぜ」
その目が、バゼットの隣へ移る。
今度は長かった。立ち方、手の位置、足の置き場。順に確かめるような視線を、ランスロットは黙って受けていた。
「で、アンタは何者だ」
ランサーが言った。
「バゼットを拾って、令呪もなしに繋がれて、それで構わねえと言う。物好きにも程がある。どこの誰だか、聞いておきたくなった」
「そうだろうね。俺が君の立場でも訊くと思う」
ランスロットは体の向きを変え、ランサーと正面から向き合った。両手は下げたまま、声の高さも変えない。
「セイバー。ランスロットだ」
ランサーの眉が跳ねた。
驚いたのは、バゼットも同じだった。クラスだけで済ませることもできたはずだ。相談もなかった。だが、口を挟む場面ではないとも思った。これは彼の名で、彼が出すと決めたのだ。
「……待て。セイバーだと?」
「そうだよ」
「湖の騎士が出てきたのにも言いたいことはあるが、そっちは後だ」
ランサーは槍を肩から下ろした。構えたのではない。ただ、手の中に置き直した。
「セイバーなら、俺はもう会ってる。さっき話した小僧のところのがそうだ。アンタとは似ても似つかねえ。一つの戦に、同じクラスが二騎も立つかよ」
「立たないはずだと、俺たちも聞いてる」
ランスロットは頷いた。
「だから、さっき君の話に食いついたんだ。順に話すよ。分かってることは多くないけど」
「聞こう」
「俺がこの街に立ったのは、バゼットが襲われた夜だ。気づいたら夜道に一人でいた。召喚の陣も、呼んだ誰かも覚えがない。そのまま歩いて、あの館で彼女を見つけた」
「俺の線が切れた晩か」
ランサーが低く言った。
「あの小僧がセイバーを呼んだのは、その後だ」
「うん。そこは君の話と合う。俺のほうが先にいたことになる」
ランサーの目が、バゼットへ向いた。確かめる目だった。
「記録は私が調べました」
バゼットは答えた。
「協会の窓口に届いている召喚の記録は七件。七つのクラスがすべて埋まっていて、最後の一件がセイバーです。その前に別のセイバーが現界したという記載は、どこにもありませんでした。訂正も、追加も」
「つまり、こいつは数に入ってねえ」
「記録の上では、そうなります。ただ、別のセイバーがいるという話は、今日のあなたの証言とも一致します」
「正規の七騎は揃っていて、俺はその外にいるらしい。言えるのはそこまでだよ」
ランスロットが引き取った。
「どうしてそうなったのかは、俺にも分からない。それを調べてる最中なんだ」
「分からねえまま、名乗ったのか」
「隠したところで、説明のつかないのは同じだからね。それに、君は彼女の問いに全部答えてくれた。こっちだけ伏せておくのは、あまり気分がよくない」
ランサーはしばらく、何も言わなかった。
川の音だけがある。バゼットは二人の間の距離を目で測っていた。槍なら一息で届く。届かせるつもりなら、とうに届いている。
「……俺はランサーだ」
ようやく、ランサーが口を開いた。
「と、それで済ませるつもりだったんだがな」
舌打ちとも笑いともつかない息が漏れる。
「先に看板を出されて、こっちだけ頬被りってのは座りが悪い。クー・フーリンだ」
バゼットは息を呑んだ。
その名を、彼が自分から口にするのを聞いたのは、契約を結んだ日以来だった。
「クー・フーリン」
ランスロットは、ゆっくりと繰り返した。
「名前は知ってるよ。まさか本人から聞けるとは思わなかった」
「へえ。どう届いてた」
「アルスターの英雄として、名は知ってるよ。それ以上は噂と伝承だ。今日からは、こうして話した相手のほうを覚えておく」
「口のうまい騎士だ」
「本心だよ。ありがとう。名乗ってくれて嬉しい」
ランサーは鼻で笑った。口元には、まだ笑みが残っていた。
その目が、ふいに細くなる。
槍の穂先がわずかに持ち上がり、足が肩幅に開いた。それだけで、空気の重さが変わった。バゼットの背筋に、覚えのある冷たさが走る。
「本当ならな」
ランサーは言った。
「数に入ってねえセイバーなんてのを見つけたら、一当てして確かめるのが俺の仕事だ。湖の騎士の剣がどれほどのもんか、俺自身も見てみてえ」
ランスロットは動かなかった。右手は空のまま、重心だけがわずかに落ちる。右足が、バゼットとの間を空ける方向へ半歩ずれた。
「来るなら受けるよ」
静かな声だった。
「でも、俺からは抜かない。今夜は、そのために来たんじゃないから」
「だろうな」
ランサーは、その足の位置を見ていた。それからバゼットを見た。左の袖と、冷えて色の薄くなった顔を。
穂先が下がった。
「やめだ」
槍が肩へ戻る。張りつめていたものが、嘘のようにほどけた。
「こいつの命を拾った男を、こいつの目の前で突くほど野暮じゃねえ。だいたい、今の供給じゃ長くやれねえって、さっき聞いたばかりだ」
「助かるよ。正直、今やると後が続かない」
「そこは見栄を張れよ、騎士だろう」
「張って彼女に倒れられたら、俺が怒られるんだ」
「怒りますよ」
バゼットは言った。思わず出た声だった。
「あなたにも、ランサーにも」
ランサーが声を上げて笑った。今夜、初めて聞く笑い方だった。
「おっかねえ。なら、なおさらやめとくか」
笑いを収め、彼はランスロットへ顎をしゃくる。
「万全になったら、その時は付き合え。今日のところは、これで終いだ」
「覚えておくよ。約束まではできないけどね」
「それでいい」
ランサーは肩の槍を軽く揺すり、空を仰いだ。西の赤みはもう消え、堤防の上に最初の星が出ていた。
「そろそろ刻限だ」
星を見上げたまま、ランサーが言った。
「戻って、今夜の分を話さなきゃならねえ。遅れりゃ遅れたで、理由を訊かれる」
「ええ」
バゼットは頷いた。引き止める言葉は持っていない。持っていたとしても、使ってはいけない夜だった。
それでも、このまま背を向けさせる気にはなれなかった。
「ランサー」
「ん」
「……次に会った時、続きを話しましょう」
ランサーが顔を下ろした。
「訊けていないことが、まだあります。あなたに話していないことも。今夜だけでは足りませんでした」
いつ、どこで、どうやって。次に会うあてはまだなかった。それでも、今のうちに伝えておきたかった。
ランサーは、にやりと笑った。
「おう。今度は、もう少しマシな場所でな。吹きっさらしの河原で立ち話ってのは、怪我人に付き合わせるもんじゃねえ」
「私一人で選んだ場所ではありませんよ」
「俺も選んだな」
ランスロットが片手を上げた。
「見つけてもらいやすい所を探したら、こうなったんだ。次はもっと気の利いた所を考えておくよ」
「頼むぜ。酒の一つも出る所がいい」
「探しておく。彼女が薬を飲まなくて済む頃に」
ランサーは短く笑い、バゼットへ向き直った。笑みが少しだけ浅くなる。
「死ぬなよ、バゼット」
「あなたもです」
「俺は死なねえよ。簡単にはな」
それからランスロットへ向き、顎を一度引く。ランスロットも同じだけ頷き返した。
「またな、クー・フーリン」
「その名は、でかい声で呼ぶなよ。ランスロット」
青い背が、こちらへ向いた。
地面を蹴る音は一度きりだった。堤防の斜面を駆け上がった影が、鉄塔の骨組みを踏み、川向こうの屋根の連なりへ消える。追おうとしても、目が間に合わなかった。
バゼットは、その方角を見ていた。
風が左の袖を揺らす。肩口の張りは変わらず、脚は重い。立ち尽くしていた時間のぶんだけ、身体は冷えている。
それなのに、ここへ下りてきた時より、息が楽だった。
「行ったね」
隣で、ランスロットが言った。
「ええ」
バゼットは答えた。目はまだ、川向こうの暗がりにある。
「行きました」
◇
礼拝堂には、灯りが二つしかなかった。
祭壇の脇の燭台と、奥の扉から漏れる細い光。長椅子の列は闇に沈み、石の床が足音を硬く返す。ランサーは実体を結んだまま、通路の半ばで足を止めた。これ以上近づく気にはなれない。
言峰綺礼は、祭壇の前に立っていた。
「戻ったか」
「刻限どおりだ。文句はねえだろう」
「聞こう」
ランサーは、回った道筋と見てきたものを短く並べた。橋と新都、深山の坂。あの小僧の屋敷は外から眺めた分だけ。槍を抜く場面はなかった。語ることは多くない。言峰は一度も口を挟まず、最後まで同じ姿勢で聞いていた。
「以上だ」
「そうか」
神父は、ゆっくりとこちらを向いた。燭台の火が、その顔の半分だけを照らしている。
「ほかに、変わったことは」
川風の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
片方だけ空になった袖。生きています、と言った声。令呪のない契約を、自分も選んだと答えた男。数に入っていない、二人目のセイバー。
言うべきことなら、山ほどあった。言峰が聞きたいのは、まさにそういう話だろう。
ランサーは、槍を肩に担ぎ直した。
「別に。報告するほどのもんはねえよ」
言峰の目が、ランサーの上に留まった。
長い時間ではなかった。蝋が一滴、燭台の受け皿に落ちるまでの間だ。その目から、何かを読み取れたためしはない。今夜も同じだった。
「そうか」
神父はそれだけ言い、祭壇へ向き直った。
評価・お気に入り登録、ありがとうございます。
読んでくださっている皆さまの反応、とても励みになっています。
さて、次回はすぐに第8話へ進まず、少しだけ幕間へ。
ランスロットがこれまでどんな時間を生きてきたのか。
戦う騎士としてだけではない、彼の人生の一端を描ければと思います。
本編では立ち止まって描きにくい時間を、少しだけ。