無銘の湖光 ~ランスロットとして目覚めた俺は、名を失っても世界を紡ぐ~ 作:カノープス・ギア
そんな彼女を救ったのは、正規の七騎に数えられていない謎のセイバー、ランスロットだった。
二人は新たな契約を結び、ランサーの行方を追う。
そして、ついに果たした再会。
しかし、ランサーは今も言峰の令呪に縛られており、共に戻ることはできなかった。
それでも、互いの意思を確かめることはできた。
そして、その夜――。
第8話『Waypoint』です。
川向こうの屋根の連なりは、もう何も動かなかった。
鉄塔の骨組みが夜空に黒く立ち、その先で街の灯が坂をのぼっている。青い背が消えたのがどの屋根の上だったのか、バゼットにはもう指させない。それでも、しばらく目を離せなかった。
生きていた。
主が替わっても、槍を預けた相手は替わっていないと、本人の口から聞いた。それだけで胸の内側がまだ温かい。けれど、その温かさのすぐ下には、令呪を握ったままの男の顔がある。切れた線は切れたままで、次に会う日取りの一つも決まっていない。
嬉しいのか、悔しいのか。今夜のうちに仕分けられるとは思えなかった。
風が吹き、左の袖が鳴った。肩口の張りが首の付け根まで上がってきている。足先の感覚が鈍い。立ち話のあいだ、身体のほうは正直に冷えていたらしい。
「戻りましょう」
バゼットは川から目を離した。
「これ以上ここにいても、身体が冷えるだけです」
「うん。そうしよう」
ランスロットは頷き、もう一度だけ川下の暗がりを見てから、彼女のほうへ歩いてきた。
階段の前で、バゼットは足を止めた。下りる時は右にあった手すりが、上りでは左に来る。掴む手のない側だ。
「ランスロット。左を歩いてもらえますか。一段下で構いません」
「分かった」
彼は訊き返さず、言われた位置についた。手は出さない。ただ、彼女が踏み外せば肩で受けられる近さにいる。
一段ずつ上がる。膝が重く、踏み込むたびに腿の裏が張った。途中で一度だけ足を止めて息を入れると、隣の足音も同じ段で止まり、彼女が動くまで待っていた。
堤防の上は、下よりも風が強かった。借り物の車は停めた時のまま、街灯の下で屋根を白く光らせている。バゼットは助手席のドアを自分で開け、右手で屋根の縁を掴んで腰を下ろした。座面に背を預けた途端、脚から力が抜ける。思っていたより、消耗していた。
運転席のドアが開き、ランスロットが乗り込んできた。エンジンがかかり、彼の指が空調のつまみを回す。吹き出し口から出てきた風は、まだ外と変わらない温度だった。
「暖まるまで少しかかるね」
彼はそう言って、バゼットのほうへ身体を向けた。
「身体のほうは、今どんな感じかな」
「冷えています。特に足先と、指が」
バゼットは右手を握って、開いた。
「脚は疲れていますが、歩けないほどではありません。肩は張っています。痛みというより、固まっている感じです。薬の時間まではまだありますから、そちらは問題ないかと」
「そっか。教えてくれてありがとう」
ランスロットは一つ頷くと、スーツの上着のボタンを外した。
何をしているのか、バゼットにはすぐに分からなかった。彼は狭い運転席で器用に袖を抜き、脱いだ上着を二つに畳むと、それを彼女の膝の上へ広げた。
「まだ冷えてるだろ。暖房が効くまで使って」
濃い色の布が、腿から膝の先までを覆った。裏地に、着ていた人間の体温が残っている。重さも手触りも、仕立てのいい普通の上着だった。
バゼットは膝の上のそれを見下ろした。
断る理由を探したわけではなかった。ただ、こういう時にどういう顔をすればいいのか、すぐには出てこなかった。協会の仕事で、同行者に上着を貸されたことなどない。
「……あなたが寒いでしょう」
「俺は平気だよ。シャツ一枚でも、君ほどは冷えないから」
言い方に無理がなかった。白いシャツの袖口を軽く整えて、彼はもうハンドルのほうを向いている。
バゼットは右手で上着の端を引き、膝の横まで寄せた。布の下で、こわばっていた腿がゆっくりとほどけていく。
「……ありがとうございます」
声が少し小さくなった。頬のあたりが温かいのは、暖房のせいではなさそうだった。
「どういたしまして」
ランスロットは笑って、それだけ言った。彼女の顔を覗き込むことも、何か付け足すこともしなかった。
バゼットは右手を左肩の上へ伸ばし、シートベルトを引き出した。身体の前を斜めに渡して、金具を腰の横へ差し込む。この数日で、片手での手順にも慣れてきた。隣でも同じ音がした。
「出すよ」
「お願いします」
車は堤防の道をゆっくりと下り、川沿いの通りへ出た。
対向車は少ない。街灯が一つ過ぎるたびに、フロントガラスを光が撫で、膝の上の上着の色が浮いては沈む。吹き出し口の風はいつのまにか温かくなっていて、低い送風の音が車内を埋めていた。
バゼットは窓の外を見ていた。川はもう建物の陰に隠れている。指先に血が戻ってくるのを待ちながら、頭の中で、今夜聞いたことを順に並べていった。
信号を二つ過ぎたところで、口を開いた。
「整理しておきます。聞いたままのことと、私の解釈が混ざらないうちに」
「うん。聞くよ」
「彼の現在のマスターは言峰綺礼。令呪もあの男の手にあります。私との契約は切れていて、私とあなたの契約ではそこに何の影響も与えられない。ここまでは、彼自身の言葉で確認できました」
「偵察と定時の報告を命じられてる、というのもね」
「ええ。それから、言峰に仕える気はない、と」
そこだけ、声の調子が少し変わったのが自分でも分かった。バゼットは一度息を継いだ。
「意思は彼のものです。ただ、令呪がある以上、こちらへ戻ることはできない。あの男に令呪を使われれば、彼の槍が私たちへ向けられかねない。これは彼の判断で、私も妥当だと考えます」
「俺もそう思う」
ランスロットはハンドルを軽く切り、広い通りへ車を入れた。
「それに、彼は自分で見極めると言ったからね。あの神父が何をさせる気なのか。俺は任せると返した。そこは守りたいかな」
「同感です。今夜のうちに後を追うような真似はしません」
言いながら、バゼットは膝の上の布を指で押さえた。
「ただ、次に会う手立ては考えておきたい。約束はしましたが、日時も場所も、連絡の方法もない。彼は街を回っていますから、こちらが見つけやすい場所にいれば、また寄ってくる可能性はあります。ですが、それは言峰の目にも留まりやすいということです」
「今日と同じ手は、何度も使えないね」
「はい。安全な方法が見つかるまでは、保留にします。焦って彼の首を絞めることだけは避けたい」
「うん。それでいいと思う。考えるのは俺も付き合うよ」
短い返事だったが、流された感じはしなかった。バゼットは頷き、次の項目へ移った。
「もう一つ。衛宮士郎です」
「セイバーのマスター」
「そう証言されました。槍を合わせた本人の言葉ですから、確度は高い。ただ、こちらが持っているのは名前だけです。居場所も、どういう経緯で参加したのかも分かりません。協会に届いていた参加者の中に、その名はありませんでした」
「半人前の魔術師、って言ってたね。でも、あの神父は名指しで見張らせてる」
「理由は彼にも知らされていない。そこは事実ではなく、空白として扱います」
「了解。……セイバーのことも、結局ほとんど聞けなかったな」
ランスロットは前を見たまま、少し笑った。
「俺とは似ても似つかない、というのだけは分かった。どんな剣を使うのか、訊いておけばよかった」
「あなたが名乗ったので、話がそちらへ流れたんです」
「そうだった。あれは俺のせいだ」
悪びれない言い方だった。バゼットは小さく息を吐いた。責めるつもりで言ったのではない。あの名乗りがあったから、ランサーも自分の名を出した。それを彼女は隣で聞いていた。
「衛宮士郎については、私のほうで当たれる資料があります。落ち着いた場所で確認させてください」
「頼むよ。そっちは君の領分だ」
話はそこで一段落した。
赤信号で車が止まる。横断歩道を、買い物袋を提げた人が一人渡っていく。聖杯戦争のさなかの街でも、夜はこうして普通に過ぎていた。
並べるべきことは並べ終えた。事実と空白と、保留にしたもの。手帳に書けることは、それで全部だ。
書けないことが、一つ残っていた。
報告の形にはならない。言わなくても、調査には何の支障もない。それでも、口にしないまま今夜を終えるのは違う気がした。バゼットは膝の上着に目を落とし、それから運転席の横顔を見た。
「ランスロット」
「ん」
「……会えて、よかった」
赤信号は、まだ変わらなかった。
ランスロットがこちらを見ていた。街灯の光の中で、その目がやわらかく細くなる。
「うん」
彼は言った。
「よかったね。本当に」
やがて信号が青に変わり、彼は前を向いてゆっくりとアクセルを踏んだ。
「君が階段を下りていった時、彼がどんな顔をしてたか、俺のところからよく見えたんだ。あれを見られたのは、俺も嬉しかったよ」
バゼットは返事をしなかった。できなかった、というほうが近い。喉の奥が詰まって、窓のほうへ顔を向ける。ガラスに映った自分の口もとが、少しだけ緩んでいた。
探すと決めたのは自分だった。会って、訊いて、確かめた。その帰り道に、よかったと言える相手が隣にいる。
暖房の音だけが続いた。指先はもう冷たくない。
身体が暖まると、別のものが主張を始めた。昼に軽く口へ入れたきり、何も食べていない。胃のあたりが、思い出したように空いている。
「……それと」
「うん?」
「少し、お腹が空きました」
言ってしまってから、今の流れで口にすることだったかと思った。だが、ランスロットは声を立てて笑った。
「よかった。俺も言おうかどうか迷ってたんだ」
「あなたも?」
「かなり空いてる。河原にいる間は忘れてたんだけど、車に乗ったら急にね」
彼は片手をハンドルから離し、自分の腹のあたりを軽く叩いた。
「何か食べよう。温かいものがいいな。君は、食べたいものはある?」
「温かいものには賛成です。それと、量があるものを」
「いいね。気が合う」
ランスロットは嬉しそうに言って、通りの先へ目をやった。
「この時間でも開いてる店、どこかにあるだろう。見つけたら入るよ」
「お願いします」
バゼットは座席に背を預け直した。肩の張りは残っている。脚もまだ重い。それでも、次に何をするかが決まると、身体は少し軽くなった。
膝の上の上着は、まだ温かかった。
通りを少し走ると、角に明るい箱が見えた。
青と白の看板。ガラス張りの壁から、駐車場のアスファルトまで光がこぼれている。ランスロットは速度を落とし、ウインカーを出した。
「あそこでいいかな。温かいものも置いてるはずだ」
「ええ。十分です」
車は店の正面を避け、建物の端に近い枠へ入った。エンジンは切らず、暖房だけが回り続ける。ランスロットはシートベルトを外して、バゼットのほうへ向いた。
「何がいい? 見てきて、あるものの中から選ぶけど」
バゼットは少し考えた。こういう店の棚に何が並んでいるかは、冬木に入ってからの数日で覚えている。
「温かい紅茶を。甘くないもので。それから、肉まんがあれば一つ。あとは、おにぎりを二つお願いします」
「中身は?」
「鮭と、もう一つはあなたに任せます」
「任された。俺も肉まんは食べたいな。あとは、見てから決める」
棚の前で迷うのを、もう楽しみにしている顔だった。それから彼は、あ、と小さく声を出した。
「ごめん、一つ頼んでいいかな。俺、今使えるお金を持ってないんだ。貸してもらえる?」
「そうでしたね」
バゼットはコートの内側へ右手を入れ、財布を出した。膝の上着の上に置き、片手で留め具を外して、紙幣を一枚抜く。
「これで足りるはずです。あなたの分も、遠慮せずに買ってください」
「ありがとう。助かる」
ランスロットは紙幣を受け取り、シャツの胸ポケットへ入れた。それだけだった。言い訳も、妙な畏まり方もない。
バゼットは膝の上着の端に手をかけた。
「これは、着ていきますか。外は冷えます」
「ううん、持ってて。すぐ戻るから」
彼はドアを開け、冷えた空気と入れ替わりに降りていった。白いシャツの背が駐車場を横切り、自動ドアの向こうへ入る。
車内が静かになった。
バゼットは財布をしまい、同じ内ポケットから携帯端末を取り出した。膝の上に置けば、布が滑り止めの代わりになる。右手の親指だけで操作するのにも、もう手間取らない。
食事の次に必要なのは、今夜眠る場所だった。
あの洋館には戻れない。襲撃者が場所も間取りも知っている建物を、拠点とは呼べなかった。治療を受けた先には恩があるが、あそこは患者を置く場所で、戦争の当事者が腰を据える場所ではない。これ以上長く居れば、相手を巻き込む。
端末の中には、冬木へ入る前に作った一覧がある。本拠が使えなくなった場合の、予備の候補。使わずに済めばいいと思いながら、それでも四件を押さえておいた。準備というのはそういうものだ。
一件ずつ、条件を当てていく。
新都の駅前のホテルは人目が多すぎる。出入りは紛れやすいが、片腕の外国人は記憶に残る。郊外の貸し倉庫は秘匿には向いても、暖房がない。今の身体で冬の夜を過ごす場所ではなかった。三件目は教会のある丘に近く、これは考えるまでもなく外した。
残ったのは、新都と深山町の境に近い低層マンションの一室だった。
橋まで遠くなく、どちらの側へも車で動ける。治療先へも無理のない距離で、教会からは川を挟んで離れている。家具付きの一般向け物件で、寝室のほかに居間があり、小さな台所がついている。二人が別々に休める。備えてあるのは簡単な人払いと、気配を薄める程度の処置だけ。工房と呼べるものではないが、今の彼女に、工房を回すだけの魔力の余裕はなかった。
これにする。
バゼットは、一覧の末尾に控えてあった連絡先を開いた。冬木入りの前に手配を任せた仲介の窓口だ。既存の秘匿手順を通し、控えの符丁を添えて短い文面を打つ。
予備候補の四件目を、今夜から使用したい。同行者一名。期間は未定。
送信して待つと、使用できるという返信が届いた。二階の奥の部屋。鍵は扉の横のメーターボックスの中、番号錠つきの小箱に入っている。番号は四桁。三日を超えて使う場合は、もう一度連絡を入れること。
バゼットは受領の返事を送り、やり取りを閉じた。
バゼットは番号と部屋の位置を頭の中で二度なぞり、端末のメモに残した。これで今夜の屋根は確保できた。
顔を上げると、ガラスの向こうにランスロットが見えた。
レジの横の保温ケースの前に立ち、少し屈んで中を覗いている。それから店員に何か言い、指を二本立てた。肉まんは無事にあったらしい。そのまま会計へ進むのかと思えば、彼は棚の列へ戻っていき、何かを手に取って眺め、戻し、隣のものを取った。
急いでいる様子はなかった。あれは、選ぶこと自体を楽しんでいる人間の動きだ。
バゼットは端末へ目を戻した。まだ時間はある。もう一つ、確かめておきたいことがあった。
衛宮士郎。
河川敷でその名を聞いた時、参加者として挙がっていた名前ではない、と思った。それは正しい。だが、姓のほうには覚えがあった。どこで見たのか、車に乗ってからずっと引っ掛かっていた。
端末には、参加が決まった際に協会から渡された事前調査の写しも入れてある。過去の聖杯戦争の参加者と、その関係者についての資料だ。量が多く、冬木へ入るまでに読み込んだのは今回の参加予定者に関わる部分が中心だった。
第四次の項を開き、参加者の一覧を送っていく。
あった。
衛宮切嗣。アインツベルンに雇われた外来の魔術師。協会の側では、別の呼び名のほうが通っている男だった。記録は経歴と手口についての記述が大半で、バゼットも名前と評判だけなら以前から知っている。
目を留めたのは、その末尾だった。関係拠点の欄に、冬木市内の所在地が一つ記されている。深山町にある、古い屋敷。
衛宮邸。
バゼットは画面を送る指を止め、その数行を読み直した。
この街の屋敷が、同じ姓の魔術師の関係拠点として記録されていた。そして今回、同じ姓の少年がセイバーのマスターになっている。
繋がる、と考えるのが自然だ。だが、資料がそう言っているわけではない。
記録は古い。切嗣についての記述は第四次の終結の前後で途切れていて、屋敷がその後どうなったかは書かれていなかった。士郎という名は、どこにも出てこない。二人が親子なのか、親族なのか、あるいは姓が同じだけの他人なのか。その屋敷に今、誰が住んでいるのか、そもそも人が住んでいるのか。この資料からは、どれも言えない。
言えるのは、当たる価値のある場所が一つ見つかった、ということだけだった。
それで十分だ。名前しかなかったものに、地図の上の点がついた。
バゼットは所在地をメモへ写し、資料を閉じた。事実と推測は分けて伝える。彼には、その順で話せばいい。
自動ドアが開く音が、ガラス越しにかすかに届いた。
ランスロットが出てくるところだった。白い袋を片手に一つずつ提げ、冷たい風の中を、来た時と変わらない足どりで歩いてくる。袋は思ったより膨らんでいた。
運転席のドアが開き、外の空気と一緒に、蒸した生地の匂いが入ってきた。
「お待たせ。こっちは買えたよ」
彼は袋を膝の上に抱えてドアを閉め、胸ポケットから釣り銭とレシートを出した。
「これ、お釣り。ちょっと買いすぎたかもしれない」
「構いません。量があるものを、と言ったのは私です」
バゼットは受け取った小銭を財布へ落とした。
「肉まんは、あったようですね」
「見えてた? 最後の二つだったんだ。運がいい」
「棚の前でずいぶん悩んでいるのも見えました」
「だって、種類が多いんだよ。どれも美味しそうでさ」
ランスロットは少しも悪びれずに笑った。袋の口から、湯気で内側の曇った包みが覗いている。
「こちらも、今夜の寝床が取れました」
バゼットは端末を軽く持ち上げて見せた。
「この先の、橋に近いマンションの一室です。家具付きで、部屋は分かれています。小さいですが台所もあります。鍵の受け取り方も確認しました」
ランスロットは袋を抱えたまま、目を丸くした。
「俺が肉まんを選んでる間に?」
「候補は冬木へ入る前に押さえてありました。今したのは、条件に合うものを選んで、連絡を一本入れただけです」
「それを『だけ』って言えるのがすごいんだよ」
彼は感心を隠さなかった。
「正直、今夜どこで休むかは食べながら相談しようと思ってた。助かった。ありがとう」
「私の仕事ですから」
そう答えながら、悪い気はしなかった。準備していたものが、準備したとおりに役に立つ。それを隣で、こうも素直に喜ぶ相手がいる。
「台所があるなら、明日の朝は何か作れるな」
「まずは今夜の分を食べてからにしてください」
「はい」
返事が軽くて、バゼットは口もとが緩むのを止めなかった。
「それから、もう一つあります」
彼女は端末を膝の上に置き直した。
「衛宮という姓について、手持ちの資料に当たりました。調べる先の候補が一つ見つかっています」
ランスロットの表情が、少しだけ引き締まった。袋の口を押さえていた手が止まる。
「もう?」
「詳しくは、食べながら話します。冷めないうちに、先にそちらを」
「そうだね。そうしよう」
彼は頷き、膝の上の袋を開いた。
最初に出てきたのは、小さな紙袋が二つだった。口を折って閉じてあり、底のほうが湯気で湿っている。
「はい、肉まん。熱いから気をつけて」
バゼットは右手で受け取った。指先に、紙越しの熱がじんと来る。膝の上着に染みをつけたくなかったので、空いたレジ袋を一枚もらって布の上に広げ、その上に紙袋を置いた。
ランスロットは続けて、袋の中身を二人の間に並べていった。おにぎりが四つ。ペットボトルの紅茶と緑茶。蓋つきの丸い容器からは、出汁の匂いがしている。最後に、小さなプラスチックのカップが二つ出てきた。
「それは」
「プリン。レジの手前にあって、目が合ったんだ」
「目が」
「合ったんだよ。二つあるから、よかったら食後に」
買いすぎたかもしれない、というのはこのあたりのことらしい。バゼットは何も言わず、紅茶のボトルを手に取った。温かい。握っているだけで、掌がほぐれていく。
ただ、蓋は片手では回らなかった。膝に挟めば開けられないことはないが、熱い中身をこの布の上でこぼす危険を冒す理由もない。
「ランスロット。これを開けてもらえますか」
「うん」
彼は自分の肉まんを膝に置き、ボトルを受け取って蓋をひねった。軽く閉め直してから、彼女の手に返す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
それだけのやり取りだった。数日前なら、頼む前に一度、自分で何とかならないかを試していただろう。今は、そのほうが早いから頼む。彼のほうも、手を止めたのはほんの数秒だった。
親指で蓋を外し、一口飲んだ。渋みのある熱が喉を落ちていき、胃の底に届く。思わず息が漏れた。
「生き返りますね」
「分かる。じゃあ、俺もいただきます」
ランスロットは紙袋を開き、肉まんを半分まで出してかぶりついた。直後に、肩が跳ねる。
「あつっ」
「気をつけてと言ったのは、あなたですよ」
「言った。言ったのに自分でやった」
彼は口を半分開けて熱を逃がしながら、それでも噛むのをやめなかった。飲み込んで、目を細める。
「……うまい。寒いところに立ってた後のこれは、反則だな」
本当に美味しそうに食べる人だ、とバゼットは思った。自分の紙袋を開き、彼の失敗を踏まえて、端のほうを小さく齧る。ふかした皮は甘く、中の餡は汁気が多くて、胡椒がよく効いていた。二口目はもう少し大きくした。
しばらく、二人とも黙って食べた。
暖房の音と、紙袋の擦れる音だけがしている。フロントガラスの向こうでは、店の明かりの下を、仕事帰りらしい男が一人通っていった。こちらを見もしない。車の中で遅い夕食を取っている二人連れなど、珍しくもないのだろう。
肉まんは、あっという間になくなった。
バゼットは紙袋を畳み、おにぎりを一つ取った。鮭の表示がある。包みには番号を振った矢印が印刷されていて、手順は知っていた。真ん中の帯を引き、左右を抜く。
帯は引けた。おにぎりを膝の袋の上に置き、右手で頂点のつまみを下まで引き切る。問題は次だった。左右のフィルムを抜くには、本体を押さえる手が要る。膝に押しつけて片側を引くと、フィルムと一緒に海苔が半分ついてきて、ぱりりと裂けた。
「……」
手もとに、海苔のはがれた白い三角形が残った。
隣で、ランスロットが笑いを噛んでいる気配がした。目を向けると、彼は隠すのをやめて素直に笑った。
「ごめん。でも、それは両手があってもよくやるんだ。俺もやる」
「そうなのですか」
「うん。あれ、引く角度があるんだよ。失敗しても味は同じだから大丈夫」
「味の問題では……いえ、味は同じですね」
バゼットは裂けた海苔を拾い、飯の上に載せ直して口へ運んだ。塩気のある鮭と、まだ歯切れのいい海苔。見た目はともかく、確かに美味しかった。
食べ終えてから、もう一つを彼のほうへ差し出す。
「こちらは、お願いします」
「はい、任されました」
ランスロットは受け取り、迷いのない手つきで三方を抜いた。海苔が綺麗に巻かれた三角形が、包みを皿の代わりにして戻ってくる。
「中身はツナマヨにした。迷ったら一番売れてそうなのがいいかなって」
「ツナマヨ」
「食べたことない?」
「ありません。協会の食堂には置いていませんでした」
一口齧った。魚の脂と、酸味のあるまろやかなソースが飯に絡んでいる。握り飯の具としては妙な取り合わせのはずなのに、不思議と収まりがよかった。
「……これは、なかなか」
「でしょ。よかった、外さなくて」
ランスロットは嬉しそうに言い、自分は丸い容器の蓋を開けた。湯気が立ちのぼり、フロントガラスの下のほうが白く曇る。大根と卵と、三角の白いもの、それに串に刺さった何か。出汁の匂いが車内に広がった。
「それは何ですか」
「おでん。出汁で煮込んだやつだよ。レジの横で湯気を立てられると、どうしてもね」
彼は割り箸を割り、大根を二つに切って口へ入れた。目を閉じ、ゆっくり息を吐く。
「ああ……染みてる」
バゼットはおにぎりを食べながら、その横顔を見ていた。
彼が何を選ぶのかを、自分は知らなかった。治療先で作ってもらった食事は、彼女の体調に合わせたものだった。こうして棚の前に立って、好きに選んだ結果を見るのは初めてだ。
「あなたは、そういうものが好きなのですか」
「ん?」
「温かくて、汁気のあるものを。肉まんも、それも」
ランスロットは箸を止め、少し考える顔をした。
「言われてみればそうかも。湯気が出てるものには、だいたい弱いな。あと、出汁の味が好きだ。飲んだ時にほっとするやつ」
「甘いものも、ですね」
バゼットはプリンのカップへ目をやった。彼は笑って頷く。
「それも好き。君は? 紅茶は甘くないのがいいって言ってたけど」
「飲み物は甘くないほうが好みです。食べ物の甘さは嫌いではありません。任務中は、あまり気にして食べてきませんでしたが」
「じゃあ、今日は気にして食べてみて。感想を聞きたい」
彼は容器を少し持ち上げた。
「これも、味見する? 卵がおすすめだけど、片手だと割りにくいかな。半分にしておくよ」
「……いただきます」
ランスロットは箸で卵を二つに割り、容器の蓋に載せて、串を一本添えてよこした。串で刺せば、片手でも食べられる。黄身に出汁が染みていて、ほろりと崩れた。
「美味しいです」
「よかった」
礼を言う前に、彼はもう自分の大根へ戻っていた。
おにぎりを食べ、出汁を分けてもらい、紅茶を飲んだ。ランスロットは自分のおにぎりを二つとも平らげ、容器の汁まで飲み干して、満足そうに背もたれへ沈んだ。食べる量だけ見れば、彼のほうが怪我人よりよほど腹を空かせていたことになる。
最後に、プリンが残った。
蓋のフィルムは、縁のつまみを引くだけで剥がせた。これは片手で足りる。カップを膝の間に軽く挟み、小さな匙ですくって口に入れる。卵の味のする、やわらかな甘さだった。底のほうの焦がした蜜が、少し苦い。
「どう?」
「……目が合った、というのは、分かる気がします」
ランスロットが声を出して笑った。バゼットも、つられて息だけで笑った。
胃が満たされると、指先の冷えはすっかり引いていた。肩の張りは相変わらずで、脚の重さも抜けてはいない。それでも、河川敷を上がってきた時とは、身体の中の景色が違っている。
バゼットは空になったカップを袋へ入れ、端末を手に取った。
「先ほどの話をします」
「うん。お願い」
ランスロットは身体を起こし、こちらへ向き直った。
バゼットは資料の該当箇所を開き、画面を彼のほうへ傾けた。
「協会から渡されていた事前調査の写しです。第四次聖杯戦争の参加者の中に、衛宮切嗣という名があります。アインツベルンに雇われた魔術師で、協会でも名の知られた人物でした」
「衛宮……」
「ええ。同じ姓です。そして、ここを」
親指で画面を送り、末尾の欄を示す。
「関係拠点として、深山町の屋敷が記録されています。資料では衛宮邸と呼ばれています」
ランスロットは画面に顔を寄せ、その数行を黙って読んだ。
「ここまでが、資料に書いてあることです。ここからは、書かれていないことを言います」
バゼットは端末を膝に戻した。
「この記録は十年前のものです。屋敷が今どうなっているかは分かりません。衛宮士郎という名前は、資料のどこにも出てきません。切嗣とどういう関係なのか、そもそも関係があるのかも、私は知りません。同じ姓で、同じ街にいる。確かなのはそれだけです」
「でも、当たってみる価値はある」
「私はそう判断しました。名前しかなかった相手に、訪ねる先の候補が一つできた。今はその程度の話です」
ランスロットはしばらく、何も映っていないフロントガラスのほうを見ていた。それから、ゆっくり頷いた。
「分かった。君がそこまで分けてくれるなら、俺もその線で考える。候補は候補として」
彼は少し笑った。
「さっき肉まんを選んでた間に、そこまで進んでたんだな。頭が上がらないよ」
「あなたがいなければ、私は今ごろ空腹のまま資料を睨んでいました」
「それはそれで、君はやり遂げそうだけど」
「効率は落ちます」
真顔で返すと、彼はまた笑った。それから、少し声の調子を落とした。
「正直に言うと、今すぐ見に行きたい気持ちはあるんだ。もう一人のセイバーがどんな相手か、ずっと気になってるから」
「ええ。どう接触するかは、落ち着いた場所で決めましょう。まずは拠点へ」
「了解。運転は俺がやるから、道を教えてくれる?」
「任せてください」
ランスロットは空の容器と包みを一つの袋にまとめ、口を縛った。
「これ、捨ててくる」
彼は車を降り、店の入口の脇にある屑入れまで小走りに行って、すぐに戻ってきた。ドアが閉まると、外の冷気がひと筋だけ残って、暖房に溶けた。
バゼットは端末のメモを開き、所在地と、扉の横の小箱の番号をもう一度確かめた。それからシートベルトを引き、金具を差し込む。膝の上着は、広げたレジ袋のおかげで汚れていなかった。袋を畳み、布の皺を右手で伸ばしておく。
「駐車場を出たら左へ。橋の手前の信号まで、道なりです」
「左だね」
ランスロットがベルトを留め、後ろを確かめてから車を動かした。
店の明かりが窓の外を流れ、後ろへ遠ざかっていく。車は夜の通りへ出て、橋のあるほうへ走り出した。
◇
橋の手前で一度曲がり、住宅地の中の細い道を二本入ったところに、その建物はあった。
三階建ての、ありふれた集合住宅だった。外壁は薄い灰色で、各階の通路に同じ形の扉が並んでいる。灯りのついた窓がいくつかあり、どこかの部屋から、テレビの音がかすかに漏れていた。周囲も似たような高さの建物ばかりで、ここだけが目を引く理由は何もない。
「裏に駐車場があります。奥から二つ目の枠を」
「了解」
ランスロットは建物を回り込み、言われた枠へ車を収めた。エンジンが止まると、暖房の音が消え、急に静かになる。
バゼットはシートベルトを外し、膝の上着を右手で持ち上げた。片手で畳むのは形が崩れそうだったので、襟のところを持って、そのまま差し出す。
「お返しします。おかげで、冷えずに済みました」
「どういたしまして。役に立ったならよかった」
ランスロットは受け取り、車を降りてから袖を通した。ボタンを一つ留め、肩の位置を軽く直す。それで彼は、河川敷に立っていた時と同じ姿に戻った。
膝の上が少し軽い。バゼットはそのことを一拍だけ意識して、ドアを開けた。
夜気は冷たかったが、風は川べりほど強くない。階段は建物の端にあり、手すりは両側についていた。右手で掴んで二階まで上がる。ランスロットは一段後ろを、足音を抑えてついてきた。
通路の奥、突き当たりの一つ手前が目的の部屋だった。
バゼットは扉の前で足を止め、すぐには鍵に手を伸ばさなかった。右手を扉の枠に近づけ、触れる寸前で止める。枠の上と下に、ごく薄い処置の手応えがあった。人の注意を逸らし、気配を散らす程度のもの。手配の時に聞いていたとおりの組み方で、線は切れていない。上から別の手が加わった跡もなかった。
鍵穴と蝶番にも目を走らせる。こじ開けた傷はない。メーターボックスの扉の縁には、薄く埃が積もったままだった。
その間、ランスロットは扉を見ていなかった。通路の端から端までを眺め、階段の位置を確かめ、手すり越しに下の駐車場と向かいの建物を見ている。灯りのついた窓と消えた窓を、順に数えているようだった。
「こちらは異常ありません。処置は生きていて、触られた形跡もない」
「外も静かだよ。向かいの三階に一部屋、起きてる人がいるくらい。こっちを見てる感じはしない」
「では、入ります」
メーターボックスを開けると、配管の陰に、番号錠のついた小箱が取りつけてあった。箱は金具で固定されているので、押さえる手は要らない。親指で四つの数字を合わせると、蓋が開き、鍵が一本出てきた。
扉を開ける。乾いた、長く人のいなかった部屋の匂いがした。
灯りをつけると、短い廊下の先に居間が見えた。二人掛けのソファと低いテーブル、小さな食卓に椅子が二脚。壁際の台所には、一口の焜炉と流し、腰までの高さの冷蔵庫がある。居間の奥は引き戸で仕切られていて、開けてみると、寝台が一つ置かれた寝室だった。廊下の途中には浴室と手洗い。
家具はどれも飾り気がなく、誰の趣味も感じさせない。借りて、使って、出ていくための部屋だ。
「私は中を見ます」
「じゃあ、俺は窓と出入口を。終わったら声をかけるよ」
打ち合わせはそれで済んだ。
バゼットは居間の中央に立ち、四隅へ順に意識を向けた。扉と同じ系統の処置が、部屋の角ごとに置かれている。弱いが、均等に働いていた。それ以外に、魔術の気配はない。仕込まれた目も、耳も、残された術式の滓も。寝室と浴室も同じように確かめ、寝台の下と収納の中は目で見た。
工房の守りに比べれば、紙を一枚立てた程度のものだ。通りすがりの注意は逸らせる。こちらを探している魔術師の目を、長く誤魔化せるものではない。
ランスロットのほうは、居間の窓の脇に立って、カーテンの隙間から外を見ていた。それから窓の鍵を確かめ、寝室へ入り、戻ってくると、一度玄関から外へ出ていった。通路の奥のほうで足音が止まり、少しして帰ってくる。
「終わったよ」
「聞かせてください」
「窓は居間と寝室に一つずつ。どっちも駐車場側で、車がここから見える。向かいの建物からは居間が少し覗けるから、カーテンは閉めておいたほうがいい。寝室は角度がついてて、外からは見えにくい」
彼は玄関のほうを指した。
「出入口は玄関だけ。ただ、通路の突き当たりに非常階段があって、そっちからも下へ降りられる。扉から階段まで五歩くらいかな。いざという時は、表の階段より近い」
「車までは」
「非常階段を降りて、すぐ裏。走れば十秒かからないよ」
バゼットは頷いた。自分が見たものと、彼が見たものが、重ならずに並んでいる。
「魔術的には、聞いていたとおりの部屋です。処置は正常に働いていますが、強いものではありません。偶然見つかることはまずない。本気で探されれば、いずれ見つかります」
「一晩休むには?」
「十分です。数日なら使えるでしょう。それ以上をここに頼るつもりはありません」
「うん。俺もそのくらいの見立てだ」
ランスロットは居間のカーテンをきちんと引き、ようやくソファの端に腰を下ろした。
バゼットは食卓の椅子を引いて座った。座面に体重を預けると、腿の裏が鈍く痛む。コートの内側から薬の包みを出し、卓の上に置いて、親指で錠剤を押し出した。水を取りに立とうとしたところで、流しのほうから音がした。
ランスロットが、戸棚にあったグラスをすすいでいた。水を注ぎ、卓の上の、彼女の右手の届く位置に置く。
「はい」
「ありがとうございます」
薬を口に入れ、水で流し込んだ。グラスを置いて、息を吐く。
「今の状態を言っておきます」
「うん」
「肩は張ったままです。薬が効けば、鈍くはなるでしょう。脚は、今日の分の疲れが出ています。一晩休めば、明日歩くことに支障はありません」
バゼットは右手を卓の上で開いた。
「ただ、動けることと、余裕があることは別です。明日、歩いて、立って、話をすることはできます。走り続けることと、戦うことは、勘定に入れないでください」
「分かった。入れない」
ランスロットは頷き、自分のほうの話を続けた。
「俺は、供給は安定してる。君が食べて暖まってから、流れが少し滑らかになった。歩くのも運転するのも、普通に過ごす分には何も問題ないよ」
「剣を抜いた場合は」
「短いやり取りなら受けられる。相手がサーヴァントでも、何合か受けて、君を連れて下がるところまでは持つと思う。そこから先、腰を据えて打ち合うのは無理だ。そうなる前に切り上げなきゃいけない」
言いにくそうな様子はなかった。河川敷で、ランサーに同じことを認めた時と変わらない声だ。できることと、できないことを、彼は同じ重さで口にする。
「では、その前提で明日の話をします」
バゼットは端末を卓の上に置いた。画面には、写しておいた所在地が出ている。
「衛宮邸の位置は分かっています。ここから車で、そう遠くありません」
「近いんだね」
ランスロットの目が、一度だけ窓のほうへ向いた。カーテンの向こう、深山町の坂のある方角へ。
「今夜のうちに、遠くから屋敷だけでも見ておく手はあります」
バゼットは言った。彼が車の中で口にした気持ちを、もう一度きちんと秤に載せておきたかった。
「人が住んでいるかどうか。灯りがあるか。それだけでも分かれば、明日の動き方は決めやすくなります」
「うん。それは俺も考えた」
ランスロットは膝の上で指を組んだ。
「でも、相手にセイバーがいるなら、遠くからでも気づかれると思ったほうがいい。俺なら気づく。夜中に、姿を見せないサーヴァントの気配が屋敷を窺ってる。それを後から『話がしたかった』と言っても、信じてもらうのは難しいよ」
「同感です。見るだけのつもりが、最初の印象を決めてしまう」
「それに、もし向こうが出てきたら、この時間で、君は今日の疲れを抱えたままだ。俺も、切り上げる余裕が昼間より少ない」
「ええ。得るものに対して、失うかもしれないものが多すぎます」
バゼットは画面の所在地を指で軽く叩いた。
「ですから、明日。隠れずに、正面から訪ねます。こちらは話をしに行く。それなら、話のできる条件をこちらで選ぶべきです」
「賛成。玄関から行こう」
彼の返事に、ためらいはなかった。
「目的を確かめておきます」
バゼットは右手の指を一本立てた。
「一つ。衛宮士郎が、本当にセイバーのマスターなのか。ランサーの証言を疑う理由はありませんが、自分たちの目で確認します」
「うん」
「二つ。そのセイバー本人に会い、いつ、どのように召喚されたのかを訊きます。答えてもらえる範囲で」
三本目の指を立てる。
「三つ。それを、あなたの現界と比べます。同じクラスが二騎いる理由に、少しでも近づけるかもしれない」
「それは、俺が一番知りたいところだ」
ランスロットは静かに言った。
「自分がどうしてここにいるのか、分からないままなのは落ち着かないからね。向こうのセイバーに会えば、何か手掛かりがあるかもしれない。俺にとっては、それが明日の一番の用事だよ」
「分かりました。そこは、あなたが訊いてください」
「いいのかい」
「あなた自身のことです。私が代わりに訊くことではないでしょう」
彼は少し目を見開き、それから笑って頷いた。
「ありがとう。そうさせてもらう」
「ただし、最初の説明は私がします」
バゼットは続けた。
「相手から見れば、私たちは正体の分からないマスターとサーヴァントです。しかも、数に入っていないセイバーを連れている。誰が、何のために来たのかを、まず言葉で示さなければなりません」
「協会の人間だってことは、言うの?」
「相手を見て決めます。聖杯戦争に関わる魔術師にとって、協会の名は安心にも警戒にもなりますから。言峰のことと、ランサーのことも同じです」
そこで、バゼットは少し言葉を選んだ。
「ランサーは、衛宮士郎のセイバーと槍を交えています。私がその元のマスターだと名乗れば、相手は身構えるでしょう。隠し通すつもりはありませんが、出す順序は考えます。最初から同盟を求めることもしません。こちらが何者かを伝えて、向こうがどう出るかを見る。そこまでが第一歩です」
「全部を一度に並べない、ってことだね」
「はい。嘘はつきません。ですが、何をいつ話すかは、私に預けてもらえますか」
「預けるよ。そこは君のほうがずっと上手い」
ランスロットはあっさりと言った。
「じゃあ、俺は何をしてればいい?」
「敵意がないことを、姿で示してください。剣は出さない。手は見える位置に。河川敷でしていたように」
「得意なほうだ」
「それから、セイバーを見ていてください。私は衛宮士郎と話すことに集中します。向こうのサーヴァントがこちらをどう見ているか、どう動こうとしているかは、あなたのほうがよく分かる」
「分かった。立ち方と、目と、間合いだね。おかしな気配があれば知らせる」
彼は組んでいた指をほどき、少し身を乗り出した。
「一つ、先に言っておいていいかな」
「どうぞ」
「もし向こうが斬りかかってきたら、俺は受けて、君と一緒に下がる。反撃して押し返すんじゃなくて、離れるのを優先する。それでいい?」
「ええ。それが正しいと思います」
「その時だけは、相談する前に身体が動くと思う。君の交渉を途中で切ることになるかもしれない。そこは、先に謝っておく」
バゼットは首を振った。
「謝ることではありません。剣が届く距離のことは、あなたの判断です。私もそのつもりで立ちます。退く時は、自分の足で退きます。あなたの腕を塞がないように」
「……頼もしいな」
ランスロットは笑った。からかう調子ではなかった。
「でも、そうならないように立つよ。話をしに行くんだからね」
「はい。話をしに行きます」
バゼットは端末の画面を消した。
決めるべきことは決まった。誰が話し、誰が見るか。何を確かめ、何を急がないか。あの屋敷に今、誰がいるのかは分からない。セイバーがどんな相手なのかも。分からないものを、分からないまま訪ねる。そのための準備は、今夜できる分だけ済んだ。
「明日、衛宮邸へ行きます」
「うん。明日、行こう」
ランスロットが頷くと、話が途切れた。
バゼットはグラスに残った水を飲み、卓へ戻した。薬はまだ効いてこないが、決めることを決めた分だけ、頭の中は軽い。
ランスロットは、ソファに座ったまま自分の袖口を見ていた。上着の布を指でつまみ、軽く引いて、離す。何かを確かめているような手つきだった。
「どうかしましたか」
「うん。一つ、変えておきたいものがあって」
彼は顔を上げた。
「この服なんだ。明日からは、違う格好で動こうと思う」
「服を」
「これ、店で買ったものじゃないんだよ。俺の魔力で形になってる。俺の外側の一部みたいなものかな」
バゼットは彼の上着を見た。つい先ほどまで、自分の膝に載っていた布だ。重さも、裏地の滑りも、残っていた体温も、仕立てのいい普通の上着のものだった。
サーヴァントの装束が魔力で編まれていること自体は、知識として知っている。金銭を持たない彼が背広を着ていた以上、そういうことなのだろうとも思っていた。ただ、本人の口から聞くのは初めてだった。
「では、車で借りたあれも」
「そう。でも、温かかったのは本当だよ。着てる間は、ちゃんと服だから」
「それは、身をもって確認しました」
ランスロットは笑い、袖口から手を離した。
「気がついたら、この格好で夜道に立ってたんだ。たぶん、この時代の街に紛れる服を、自分で勝手に選んでたんだと思う。こういうのを着て歩く感覚が、どこかに残ってるんだろうね」
「それを、なぜ今」
「今日、彼に会ったから」
誰のことかは、訊くまでもなかった。
「槍を持ったサーヴァントが目の前に立って、もう始まってるんだって、身体で分かった。それで明日は、俺たちのほうから人に会いに行く。待つんじゃなくてね」
彼は膝の上で手を組んだ。
「戦いたいわけじゃないよ。話で済むなら、それが一番いい。でも、済まなかった時のことは考えておかなきゃいけない。その時に、街に紛れるための格好のままでいるのは、少し違う気がするんだ」
「動きやすさの問題ですか」
「それもある。あとは、気持ちの置き場所かな。自分が何をしに行くのか、着てるもので決めておきたい」
バゼットは少し考えた。任務の前に手袋を嵌める。あれと同じ種類の話だと思えば、よく分かった。
「分かりました。作れるのは、あなた自身が着るものだけですか」
「うん。物を作ってるわけじゃなくて、俺の外側の形を変えるだけだから。それ以上のことはできないよ」
「では、どうぞ」
ランスロットは立ち上がり、ソファから一歩離れた。
何かを唱えたわけではなかった。彼が一つ息を吐くと、背広の輪郭が、水面に落ちた影のように揺らいだ。濃い色が襟のあたりからほどけ、細かな光の粒になって、布の線に沿って流れていく。眩しくはない。月の出ている湖を、遠くから見ているような明るさだった。
経路の向こうで、流れがわずかに動いた。水路の底の砂が、一度だけ舞い上がって沈むような感覚。それだけで、すぐに元の細さへ落ち着く。
光が収まった時、そこに立っていたのは、白い男だった。
最初に目に入ったのは、コートだった。白というより、象牙に近い。膝の下まで届く長い丈で、襟と前の合わせに、金の細い線が一本通っている。裾のほうには、布と同じ色合いの糸で、流れるような模様が入っていた。光の加減でようやく見える程度の、さざ波に似た線だ。
その内側は黒だった。首もとまである高い襟。細身の下衣と、脛を覆う長靴。両手には、いつのまにか黒い手袋が嵌まっている。胸のあたりに、小さな剣を象った意匠が一つ。目立たせるつもりのない大きさだった。
甲冑ではない。金属はどこにも使われていなかった。それでも、背広を着ていた時とは、立っている場所が違って見えた。
ランスロットは自分の腕を持ち上げ、袖を眺め、手袋の指を握って開いた。
「うん。これだ」
満足そうに言ってから、ふと足もとへ目を落とす。
「……あ。これ、土足になるかな」
「外を歩いていない靴でしょう。床は汚れません」
「でも、気分的にね」
彼が足を軽く踏み直すと、長靴だけが音もなくほどけて、黒い靴下の足に戻った。
「靴は明日、玄関で履くことにする」
着ているものが変わっても、中身は変わらない人だった。バゼットは、驚きで止めていた息を、そこでようやく吐いた。
「……随分、目立ちますね」
「やっぱり?」
「夜の街で白は浮きます。物陰に立っても、輪郭が残る。身を隠して動くには、向いていません」
「そうだよね。俺もそう思う」
ランスロットは、指摘されたことを楽しんでいるような顔で頷いた。
「でも、明日は隠れに行くんじゃないから」
「ええ」
バゼットも頷いた。
「正面から訪ねて、話を求める。それなら、暗がりに溶ける色である必要はありません。むしろ、遠くから見えていたほうがいい」
「そう言ってもらえると助かる。半分は、ただ俺がこれを着たかっただけなんだけどね」
彼は笑い、窓のほうへ歩いた。カーテンの合わせ目を確かめるために、こちらへ背を向ける。
バゼットの目が、そこで止まった。
コートの背に、大きな紋章があった。
肩甲骨のあいだから腰の上までを占める円環。その中心に十字が置かれ、十字から外の環へ向かって、いくつもの線が放射状に伸びている。線は環を等しく区切っていて、区切られた一つひとつが、何かの席のように見えた。金と、布よりわずかに濃い象牙色。装飾というには、形に迷いがなさすぎる。
「その、背中のものは」
ランスロットが振り返った。
「これ?」
「ええ。何かの印に見えます」
「円卓だよ」
彼は肩越しに自分の背を見ようとして、当然見えずに、苦笑した。
「俺がいた場所の印。丸い卓があって、席があって、そこに座る人たちがいた。よく揉めたし、よく笑ったよ。食事の時は特にうるさかった」
声はいつもと同じ高さだった。ただ、言葉を置く速さが、少しだけゆっくりになっていた。
「君たちの時代には、物語として伝わってるんだろうね。でも俺にとっては、本で読んだ話じゃないんだ。実際にそこにいて、あの人たちと過ごした。だから、背負うならこれがいいと思った」
バゼットは、すぐには返事をしなかった。
湖の騎士。その名が指すものを、彼女は伝承として知っている。武勲も、結末も。だが、今の言い方は、伝承をなぞるものではなかった。食卓のうるささを覚えている人間の口ぶりだった。
この人には、自分の知らない時間がある。数日ではなく、一つの人生の長さで。
訊けば、彼は答えるのかもしれない。けれど、それは今夜、寝る前に片手間で訊くことではないと思った。
「……そうですか」
バゼットはそれだけ言った。ランスロットも、それ以上は続けなかった。
彼がこちらへ向き直る。
色や、目立ち方や、背中の意匠。そういうものを一つずつ見ていた目で、バゼットは改めて、立っている本人を見た。
白い布は、彼の肩の線をまっすぐに落としていた。黒い襟が首もとを締め、金の縁取りが、動くたびに細く光る。背広の時の、街に馴染んだ柔らかさとは違う。けれど、借りてきた格好にも見えなかった。力の抜けた立ち方も、穏やかな目も、そのままそこに収まっている。
思ったことは、口にしなくても済む類のものだった。調査にも、明日の交渉にも関わらない。
それでも、今夜は一度、そういうことを言ったばかりだった。
「……似合っています」
ランスロットの目が、少し大きくなった。
冗談が返ってくるかと思った。そうではなかった。彼は一度口を閉じ、それから、ゆっくりと表情を崩した。
「……ありがとう」
静かな声だった。
「そう言ってもらえると、嬉しい。自分で選んだものだから、なおさらね」
「思ったことを言っただけです」
「うん。だから嬉しいんだ」
彼はそう言って、照れたように首の後ろへ手をやった。黒い手袋が、白い襟の上で目立った。
バゼットは視線を卓の上のグラスへ落とした。頬が少し温かい。けれど、取り消すつもりはなかった。似合っているものを、似合っていると言った。それだけのことだ。
部屋の中が、さっきより少しだけやわらかい。
「念のために確認します」
バゼットは顔を上げた。
「姿が変わっても、供給は変わりません。先ほど、変える時に流れが少し動きましたが、今は元の細さです」
「うん。こっちも同じ感じだ。見た目が変わっただけで、できることはさっき話したとおりだよ」
ランスロットはコートの裾を軽く払った。
「明日も、受けて下がるまで。それは変わらない」
「結構です。それなら、言うことはありません」
バゼットは椅子の背に手をかけ、立ち上がった。腿の裏が張り、肩の重さが首まで来ている。薬が効き始めたのか、瞼の奥も鈍い。今夜の自分にできることは、もう残っていなかった。
「私は休みます。あなたは」
「俺はここを借りるよ」
ランスロットはソファの背を軽く叩いた。
「横になって、静かにしてる。そのほうが君の負担も少ないし。何かあったら、戸を叩いて。すぐ起きるから」
「分かりました。あなたも、変化があれば遠慮なく起こしてください」
「うん。そうする」
バゼットはグラスを流しへ運び、寝室の引き戸に手をかけた。
「おやすみなさい、ランスロット」
「おやすみ、バゼット。今日はお疲れさま」
戸を引いて、寝室へ入る。寝台の白い敷布が、居間からの灯りで薄く浮かんでいた。
閉める前に、バゼットは一度だけ振り返った。
ランスロットは玄関のほうへ歩いていくところだった。鍵を確かめに行くのだろう。白いコートの裾が、歩みに合わせて静かに揺れる。その背に、大きな円環と十字が、灯りを受けていた。
あの印の下にどれだけの時間があるのか、彼女はまだ知らない。
知らないまま、同じ屋根の下で、同じ明日に備えている。
バゼットは、引き戸を閉めた。