「六十年は、人の一生にとって実に長く貴重な時間です。
今回のサーヴァントの多くは、その半分も生きていないでしょう」
アーチャーもまた、六十年の半分を少し越えた時間しか持たなかった。静かな声が、凛とサーヴァントたちの心に沁みていく。
「人間のマスターらにいたっては、その三分の一も生きていないんです。
私は、そんな兵士にも命令を下していたのだから、我ながら偽善だとは思います。
しかし、この子たちは、我が国の兵士でもなければ、私の部下でもない。
死ぬとわかっていることをさせられませんよ」
凛はアーチャーの腕を引いた。
「どうしてよ! 停戦はできたじゃないの。
まだ、怪しいのがいるかもしれないけど!」
アサシンは必死で表情と声を押し殺した。ランサーが、眉を潜めたのにも気づかずに。
「天の杯、杯はフィール。アイリスフィールとイリヤスフィール。
キャスターは、彼女たちをピュグマリオンの手になるものと教えてくれましたね」
凛ははっとした。
「そういえばあんた、そんなこと言ったわね。ライダー戦の前よ。
聖杯、いえ小聖杯は、英霊をエネルギーにした
核融合炉のようなものじゃないかって!」
「ああ、十億度に達するプラズマを封じ込めるためには、
強力な電磁場が必要だとも言ったよ。
ちょうど、魔術を使った時のイリヤ君のような、ね」
反応したのはランサーだった。
「あの公園の結界か!」
アーチャーがイリヤの魔術行使に立ち会ったのは、その時だけだ。キャスターが呆れたような表情で呟く。
「あの状況で、よくも見ていたものだこと」
聖杯戦争でアーチャーが体験したことへの考察は、一つ一つが聖杯探求の道しるべになっていた。
「あの時は、凛にはあれ以上の負担は掛けられなかった。
士郎君には不可能だ。だからイリヤ君に頼んだんです。
他意はありませんでしたよ、念のため」
「でしたよって、今は他意だらけってことか」
彼は悪びれもせずに頷いた。椅子の上で片膝を立て、頬杖も突く。
「杯の名を持つ者が、すなわち聖杯の器そのもの。
世界の壁を超えるほどのエネルギーを受け入れて、
イリヤ君が無事とは考えにくい」
かすれ声の問いが上がった。
「な、なぜ、あなたが知っている!?」
四対の瞳が、赤い外套の青年に集中した。
「いや、私は考えついただけだが、君は
あなたが教えたのかな、キャスター?」
「いいえ、この男はただの門番よ。
山門を触媒に、私が召喚したサーヴァントだわ」
アサシンは、曖昧に口を開閉させることしかできなかった。ヤン・ウェンリーに対して、取り返しのつかない失策だった。黒い視線が銀灰の瞳に注がれる。
「まあ、君の正体は今は問題ではない。
あの子の母が攫われて、出現したのは黄金の杯。
しかしね、杯を奪うのに持ち主を攫う必要はないんだ」
凛は震える唇を開いた。
「前回のキャスターの子どもの誘拐と同じね?」
「ああ。攫って殺して荷物を漁るより、最初の手間を省いたほうが手っ取り早い」
「あの子の母も器なら、その矛盾が解消できるというわけね」
キャスターの指摘に、黒い瞳が伏せられた。
「そうです。そう考えれば、衛宮切嗣がセイバーとの接触を避けたのも、
意味のないことではない。
妻を生贄に捧げ、亡霊の願いを叶える気など毛頭なかったはずだ。
絶対に、セイバーに感情移入するわけにはいかないからです」
あんなに清冽な美少女が、国を救いたいと必死に強敵に挑むのだ。普通なら多少なりとも絆されるだろう。しかし、聖杯を十全に使うためには、余計な感傷を混入させるわけにはいかない。
「妻を犠牲にするなら、もっと大きな見返りを得なくてはならない。
それが、聖杯戦争を含む、全ての争いの根絶ではないのでしょうか。
根幹にあるのが、娘に母と同じ道を辿らせないことだ。
私もその根幹には賛成します。あなたはいかがですか、キャスター?」
「あ、アーチャー……」
凛はアーチャーの袖を握り締めた。それは、イリヤを器にさせないという意志表明に他ならなかった。この瞬間にも、同盟が決裂しかねない問い。いや、凛とアーチャーの命さえ危うい。
キャスターは銀青の髪をかきあげた。現れた耳は魚の胸びれに似た形だ。母方の祖父、外洋の神オケアノスの血だろうか。船の王子に焦がれ、国を捨てた王女メディア。人魚姫と魔女、双方の原型だ。
「私もあの子を器にするのは反対よ」
いつもは精悍な蒼と赤の従者が間の抜けた顔をするのに、女主人は皮肉な笑みを浮かべた。それさえも気品に溢れて美しかったが。
「あら、意外? 私の願いを叶えるには、あの子の家が持つ力が必要なのよ。
アーチャーに言われて、私も少し調べてみたのだけれど、
今の世は、受肉してめでたしめでたしとはいかないものなのね」
美しい眉が寄り、菫の瞳に半ばまで銀の紗がかけられた。
「人を欺くのは容易いけれど、機械とやらには魔術では歯が立たないのですもの。
このままでは、私はいるはずのない人間にしかなれない。
隠れ潜んで暮らすなんて、受肉してもなんの意味もないわ」
現実は人魚姫のようにはいかない。身元不明の美女を、王子様も世間も受け入れないだろう。
「ならば、私は実を選ぶ。
あの子が器になり、命や意志を失っては駄目なのよ。
私への見返りも、たやすく反故にされてしまうでしょう。
地位にしがみつく老人のやることは、いつでもどこでも変わらないのだから」
「ははあ……」
大いに実感の篭った言葉であった。彼女の夫イアソンは、王位を得るためにアルゴー号で冒険をし、約束のとおりに金羊の毛皮を持ち帰ったが、王は譲位をしなかったのだ。
「私の功を恩に着てもらうには、あの子に無事に手柄を持ち帰ってもらわないと。
もっと言うなら、あの子が当主になるのが望ましいわね。
いいわ、薬を作りましょう」
「……毒殺は駄目ですよ」
念を押すアーチャーに、キャスターは意味ありげに微笑んだ。
「安心なさいな。神代の魔術師の誇りにかけて、腕によりをかけて作るわよ」
神秘が薄れた今、神の血を引かぬ者が飲んでも平気かどうかは保証しないけれど。むしろ効きすぎるかしら? でも、この国の格言には大は小を兼ねるとあるし、まあいいでしょう。心の副音声を伏せて、キャスターは請け負った。
「見様見真似の王女たちとは違うわ。
私がやるからには、ちゃんと若返らせるわよ。
あの山羊のように、老いぼれも子山羊のようになるでしょうよ」
黒髪の青年は、上目遣いで美しき魔女を見つめた。
「その一言で、逆にものすごく不安になってきましたよ」
メディアは、夫との約束を果たさぬ王に業を煮やし、その娘たちに若返りの魔術を伝授する。老いた山羊を釜茹でにし、山羊はみごとに若返った。王女たちは喜び勇んでその魔術を真似た。ただし、上っ面のみを。当然、成功するはずもなく、王は煮られて死んでしまった。
それを踏まえた喩えだが、とても引っかかるものがある。食肉用の動物なら若い方がいいが、人間はそうではない。年齢に培われた中身が大事なのだが……。
「ならば、アインツベルンの当主に告げなさいな。私はコルキスの王女だと」
キャスターの素性を知った上で、その薬をどうするのか。行動のいかんによって、現当主の器量を測る心算のようだ。
「なるほどね。そのあたりの交渉は、あなたにお任せします。
ただし、今後は過剰な報復はしないでください。
あなたが人として生きていくならね。現代では、人間の価値は平等ですから」
アーチャーはそう言うと、玩んでいたカップをテーブルに戻した。そして無言のアサシンに、晴れ渡った夜空の色の瞳を向ける。
「では、最後になって申し訳ないが、あなたにも伺いましょう。
アサシン、でいいのかな? あなたは聖杯に何を望みますか?」
虚を衝かれたアサシンの目が丸くなり、本来の形を明らかにする。凛がわずかに眉を顰めた。
「――何も。私には、聖杯に託す願いはない」
アサシンはそう答えた。彼の望みが別にあるのは、偽りのないことだったので。
「……ありがとう。助かります。
じゃあ、凛、私は士郎君のところに本を借りに行ってくるよ」
凛は、立ち上がりかけたヤンの黒い軍服の裾をはっしと握り締めた。
「ちょっと待ちなさい。よりによって、こんな話のあとで!?」
ヤンは困ったような顔で、凛を見下ろした。
「時間は貴重なんだ。あと一週間強しかないんだよ」
「そもそも、なんで士郎に本を頼んだのよ」
「だって、君の貸出冊数の上限まで借りているじゃないか」
凛は、椅子から転げ落ちないようにするのがやっとだった。アサシンも鉄面皮を保つのに必死であった。遥か未来の宇宙最高峰の智将が、なんて小市民的な……。実のところ、ヤンも他人様の幻想を壊して回っているのだった。
「そ、そんなことで……。本ぐらい買ってあげるわよ!
帰り道に言ってくれればよかったじゃない。マウント深山にも本屋はあるんだから」
しかし、敵もさる者、筋金入りの本の虫。
「私が必要だった本はデパートの本屋にはなかった。
あれより小さな本屋には、まず置いていないと思う」
「う……」
なんと、初日にチェック済みだった。
「だから、パソコンを導入してくれって頼んだのに」
アサシンは無表情を装いつつ、肘掛けを握りしめて身を支えた。さもなくば、床の深紅の絨毯に同化してしまったことだろう。インターネットで調べる気か、はたまたネット通販か。秘匿を旨とする魔術儀式のはずが、どうしてこうなったのか。
「ああ、もう、わかったわよ! パソコンでもファックスでも持って来いよ!
今から電気屋に注文するから! それでいいんでしょう!?」
ああ、ここは絶対に自分の過去の世界ではない。アサシンは衝撃とともに確信した。あの機械音痴の守銭奴が、サーヴァントの求めに身銭を切って応じるなんて、断じてない、ありえない。
「じゃあ、ファックスはプリンター複合のにしてほしいな」
「はいはい! なんだっけ、インターネット回線も引くのよね?」
「そうだよ。今から頼んでも、明日になってしまう。
だからちょっと行ってくるよ。
ランサー、すみませんが着替えてくれませんか? 一緒に行きましょう」
「俺もか? えらく急ぐじゃねえか」
「教会に依頼した停戦の取りまとめの締め切りが今日です。
第八の陣営が彼らなら、それにかこつけて訪問するかもしれない。
遠坂の工房や病院を攻めるより、私ならば衛宮家を狙う」
またしても言葉の爆弾が炸裂し、アサシンは肘掛けを握り締め、必死で叫びを飲み込んだ。
「なるほどな。途中でおまえが狙われるかも知れねえってわけか」
「それもありますが、あなたは冬木の地理に一番詳しいサーヴァントでしょう?
最短距離ではなく、一番人通りの多い道を行きたいんですよ」
アーチャーは髪をかき回し、決まり悪げに訴えた。
「私は方向音痴でして……」
ランサーはげんなりとした顔で立ち上がった。
「……仕方がねえな」
凛たちが呆気に取られているうちに、青年ふたりは身支度をして出かけてしまった。立春を過ぎ、長くなってきた日も薄暮に染まる時間だ。慎重なアーチャーは、これまで夜の外出を避けていたのに。
「そんなに急ぐのかしら……」
「霊体化して行けばよかったでしょうに」
「本を又借りしてくるつもりなのよ。帰りは実体化しないと本が運べない。
でも、来た形跡のない人間が、家から出てきたら変でしょう」
アーチャーと士郎は、墓参りの時に対面し、夕食にはランサーも加わっている。年齢の近い男同士、ちょっと立ち寄っても不自然ではない。
「アーチャーは私の遠縁ってことにしてあるの。
関東出身で京都在住の
大学二年生の二十歳、歴史学科に所属。
ランサーはその友人の留学生。建築士の卵で、江戸、明治の日本の建物を研究中。
そういう設定だから」
キャスターは呆れたように首を振った。
「また、随分と細かいことね」
しかし、これは人ごとではなかったのである。立ち上がった凛が、隣室へと姿を消し、再び客間に戻った時にはレポート用紙の束を手にしていた。
「キャスターは間桐臓硯の遠い親戚の、ロシア系東欧人がルーツのドイツ人。
あのジジイに頼まれて、住み込みで桜の家庭教師に来た。
愛称がキャスター、本名はクリスティーナ、名字はゾーリンゲンよ。
はい、頑張って覚えてちょうだい」
列挙された人物設定と、突きつけられた脚本にキャスターは目を白黒させた。
「ちょ、ちょっと待ちなさい、お嬢ちゃん。何なの、これは!?」
「架空の人間一人をでっち上げるのよ。
スパイ任務のつもりでやらないとボロが出るって、アーチャーがね。
熟読して頭に叩き込んで」
言うだけ言うと、凛は赤い外套の青年に向き直った。
「悪いけど、アサシンの分までは作っていないんですって」
彼は眉を寄せ瞼を閉じると、眉間を揉みしだいた。苦々しげに反論する。
「それは幸いだな。戦いならまだしも、詐欺の片棒を担ぐのはごめんこうむる」
「でも、あなたの淹れた紅茶はとても美味しかったわ。
これなら、イリヤを連れ戻しにきた執事役もいいかもね」
「とんだ三文芝居だ」
波打つ黒髪の美少女は、仄かな笑みを浮かべた。
「だってあなた、イリヤを知っているんでしょう?」
冴え冴えとした瞳が宝石の剣と化し、鋼に一撃で切り込みを入れる。
「いいえ、質問を変えましょうか。ねえ、アサシン。……あなたは、誰?」
*****
夕暮れに背中を追いかけられながら、坂道を下る青年が二人。背の高い方が、頭半分下にある黒髪に問い掛けた。
「よかったのかよ。嬢ちゃんを置いてきて。あの野郎もとっちめずに」
「とっちめる必要はありませんよ。該当者は一人しかいない。
凛ならそれに気付くはずだ」
ランサーは顎をさすった。
「はーん、そういうわけか」
ランサーの反応に、ヤンは首を傾げた。
「どういうわけですか?」
「俺はアサシンと一戦交えたんだがな、おかしな戦い方をする奴だった。
得物は黒白一対の短刀のはずなんだが……」
「はず?」
「何本も出してきやがる。十七ばかりもはたき落としてやったんだがな。
言っておくが、手元に戻ってくる宝具ってわけじゃねえ。
そこらに落っこちたまま、次の瞬間には剣を手にしている」
「それはおかしい。宝具が何本もあるのも変ですが、人間の体力には限りがある」
ヤンの時代の武器は大量生産品だが、白兵戦員の装備は、戦斧とナイフ各一丁ずつが基本だ。
「ああ、山と剣を持ち歩いても、重くて邪魔なばかりだからな。
剣を替える前に殺られるだろうよ。――普通の剣なら」
クー・フーリンの武器で最も有名なのは槍だが、光の剣の使い手でもある。戦場を駆けた者の言葉には重みがあった。
「だが、重さのない剣ならばどうだ?
サーヴァントでもなしに、魔力で剣を作れるのなら」
「一般の物理法則を外れることです。……まさに魔法だ」
「ああ、飛びきりの変わり種の魔術師だ。この世に二人とはいまい」
「では、あなたは一人は知っているわけだ。アサシン以外に」
打てば響くようなアーチャーの切り返しに、ランサーはにやりと笑った。
「ああ、そういうわけだ。おまえはどうして気がついた?」
「彼は、イリヤ君が器だということを知っていました」
黒い睫毛が伏せられる。
「アインツベルンは、孤高の魔術の大家です。
イリヤ君が家の外に出たのは、十八年の人生でこれが初めてだそうです」
ランサーの瞳が瞠られた。
「は? ちっこい嬢ちゃんは、坊主たちより年上なのかよ」
アーチャーは頷いた。
「十年前に別れた父を覚えているには、ある程度の年齢でないと無理です。
私は五歳の時に母を亡くしましたが、ほとんど覚えていません。
最初に会った時から、あの子が外見より年上だというのは気付いていたし、
彼女自身に教えてもらっていました」
「それで?」
「イリヤ君は家人以外と接触がない。
彼女の体のことを知りうる異性は、ごく限られるのです。
彼女の父と、アインツベルンの当主と、もうひとりだけに可能性がある。
アサシンは彼女の父とは別人だ」
ランサーは頷いた。凛が言うには、衛宮切嗣のパスポート写真は、黒髪に黒目、アーチャーに似ていなくもない風貌だったそうだ。
「そして、女で子どもを戦地に追いやるジジイが、英霊の座に登れるはずもねえ」
「ならば一人しかいない」
「……だな」
アーチャーは思考によって、ランサーは情報によって、アサシンの正体に思い至ったのである。
――そして、双方の一部と、女の勘を持つ遠坂凛が気付かぬはずはないのだ。