衛宮士郎と遠坂凛、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンらは、サーヴァントを伴って円蔵山に向かった。運転手を務めるのはセラ。姿を現しているのがセイバーとアーチャー。バーサーカー、キャスター、ランサーは霊体化している。
戦場においては、可能なかぎり兵力を高速で移動させ、遊兵を作らないこと。そして、進軍と同等以上に重要なのは、退路の確保である。目的地に着いたら、セラは一旦間桐邸へ帰還すべし。十五分ごとに、キャスターからアサシンに心話で定時連絡。目的の達成に関わらず、一時間で現場より離脱する。
アーチャーは一同にそう説明した。
「我々が彼らより有利なのは、数で勝ることだ」
英雄王ギルガメッシュの力は、言ってみればイゼルローン要塞のようなもの。こちらのサーヴァントは言わば艦隊。そのままでは勝ち目がない。
「だが、力を振るうのはサーヴァントとマスターだからね」
そう言って、彼は長めの黒髪に覆われたこめかみを突いた。
「矢継ぎ早に対処を迫られれば、判断を誤ることもある。
それは我々も同じだ。
だが、複数の視点で見ることで、誤ちを減らすことができる」
失敗をしない人間はいないが、すべての人間が誤ることも多くはないのだ。
「そして、マスターとサーヴァントは、本来は文字どおり主と下僕なんだよ。
でも、言峰主従はそうではなさそうだ」
かぎりなく同格に近い共犯者。第四次聖杯戦争から今日に至る腐れ縁だ。幽霊を養うために子どもを生贄にする神父と、それを当たり前に受け入れる英雄王。聖杯汚染の可能性と無関係ではなさそうだが、互いに利があるからこそ続いたのだろう。
「だって、本来の聖杯戦争は五十年も先じゃないか」
「あっ!」
「どうしたのさ、遠坂?」
翡翠の瞳を瞠った凛に、士郎は目も目を丸くした。
「そうよ、うっかりしてた。今回がイレギュラーだってこと。
本来の時期だったら、綺礼は九十歳近いわ。
生きてたって、マスターとして戦うのは無理だと思う。
わたしもきっと、子どもか孫をバックアップしてたでしょうね」
サーヴァントの使役は体力勝負だ。魔術の研鑽を積み、魔力を蓄積しなくてはならない。マスターにふさわしい年齢は、三十代から五十代の働き盛りになる。いかに頑健な言峰綺礼といえど、五十年経てば相応に老いるだろう。五十年後では、日本人男性の平均寿命を十年も超過している。たとえ長寿に恵まれたとしても、英雄王と共に戦うほどの力はあるまい。
だが、それ以前に。
「わたしなら、それまで英雄王を養うなんて真っ平だわ。
どんなに強くても、そんな手間と犠牲を払う必要なんてない。
そのために令呪と触媒があるの。
戦争が終わればおさらばして、五十年後にまた呼べばいいのよ」
きっぱりと言い切る凛に、頷くイリヤとアーチャー、引き攣るセイバー主従が対照的だ。
「あ、ごめんね、士郎とセイバー。
でも、アーチャーを残すために、士郎たちを魔力タンクにするなら、
わたしはこいつに死んでもらう。そういうことよ」
直截的すぎる喩えだが、凛が言わんとすることは士郎にも呑み込めた。死者の尊厳を一番にするなら、聖杯戦争は異なる形をとっていたことだろう。英霊をサーヴァントとして召喚するのは、死人を二度殺しても何の罪にもならないからだ。罰当たりのかぎりではあるが。
「まあ、そりゃそうだ。私だって自分が彼のマスターならそうするよ。
それをしないってことは、凛、君はどう思う?」
凛は兄弟子のことを思い返した。
「綺礼にとって、そばに置いとく価値があるんじゃないかしら。
わかるような気がするわ。根性曲がり同士、気が合うんでしょ!」
凛は、理性より感情のままに言い放ったが、実のところ正鵠を射ていた。しかし、今の彼らには知るよしもない。
「そうだね。
彼らはこれまで、それなりに利害が一致したから続いた主従だと思う。
主従というほどには、英雄王はマスターを尊重していないようだがね。
それが、私たちが付け入る可能性のある点なんだ。
一軍を同格の名将二人が率いるよりも、凡将一人のほうが勝る」
アーチャー率いるサーヴァントにしてやられたギルガメッシュ。最強を誇った四次アーチャーが、最弱の五次アーチャーに陥れられ、令呪を使う羽目になった。いかにもプライドの高そうな美青年がそれを良しとするだろうか。屈辱を与えた五次サーヴァントどもに、復仇の念を抱かないか。
だが、彼のマスターはもはや楽観するまい。下手に戦うより、時間切れを待てばいい。労せずに強敵は消える。そう言って、アーチャーは指を折った。
「この点で両者のぶつかり合いを起こせないか。それがまず一つ目」
「ひ、一つ目……」
士郎は裏返りそうな声を押し出した。
「ま、まだあるのか……?」
黒いベレーが上下した。
「もっとも、言峰綺礼は社会的に死んだも同然だ。
これを覆すには、それこそ聖杯に縋るしかないんじゃないのかな?」
凛が驚きの声を上げた。
「あいつが聖杯を!?」
「そこでもう一つの齟齬のチャンスができる。
英雄王は、蔵から盗まれた聖杯を取り戻すと言ったそうだが」
セイバーは小首を傾げた。
「はい、たしかにそうですが……」
「例えば聖杯を手に入れ、自分の悪事をなかったことにする方法がある」
時の遡行による、この世界線の抹殺。
「実際のところは難しいだろう。
あの子たちをなかったことにするなら、冬木の大災害、
つまり、第四次聖杯戦争の結末を取り消さなくてはならない。
英雄王の存在とも衝突を起こすだろうね」
セイバーの願いと規模の差こそあれ同じだ。士郎は顔を上げた。
「でも、そうすると、俺は『衛宮士郎』じゃなくなるんだな……」
あの大災害は起こらず、実の両親がいて、魔術を知らずに生きていただろう。正義の味方への希求を抱かず、今回の聖杯戦争とも無縁だっただろう。
「……たしかにその方が、今より幸せなのかもしれない。
でも俺、じいさんや藤ねえ、イリヤや遠坂に桜、セイバーたちを、
なかったことにしちまうなんて、そんなのは嫌だ!」
衛宮士郎が衛宮士郎でなくなり、この想いも記憶もこの世からなくなってしまう。世界中がそうなる。じいさんも、イリヤも、藤ねえに遠坂、桜と慎二。みんなみんな変わってしまう。
「――時は戻らない。もし時を戻したら、今の俺たちは『死ぬ』んだ」
琥珀が漆黒を見つめた。
「あの時、俺、アーチャーの言ってたことがよく解らなかった。
でも、そういうことなんだな。
俺たちがそっくりいなくなって、別の俺たちはそれすら知らないんだ」
士郎は拳を握り締めた。
「教会の子たちもそうだろ?
監禁がなかったことになったら、それはもう今のあの子たちじゃない。
あいつは、なんにも償わずに逃げるってことになる」
傍らのセイバーは、いたたまれなくて顔を伏せた。歴史書を読み、母国の歩みを知って、自分の心と対峙した。自分の治世をなかったことにしたかった、その根底にあったものに気付いたのだ。治世の誤りを正すなら、他にも方法はあった。時を遡るのではなく、優れた者に譲位をする方法が……。
未来に向けてやり直す機会は、自らが潰していた。それを認めたくなくて、愚かな願いに差し出された手を掴もうとした。人は誰しも過ちを犯す。その後に、どうするかが大事だったのに。
セイバーは顔を上げた。
「ええ、私の願いと一緒です。だから解ります。
やり直しを望むのは、今を悔いているからです。
ですが、間違いもあったけれど、私はああすることしかできなかった」
理想に向けて、戦乱の中をひたすらに走った。 勝利を重ねても国は荒れた。滅びから逃れることは叶わなかったと書にはある。
だが、その一方で、書にはこんな記述がある。
『国難が訪れた時、彼は蘇り、聖剣を以って国を救う。
いつか蘇る王、アーサー。ペンドラゴン』
敵だった者の遠い子孫が、彼女を讃えていた。
『聖剣を持たぬ我々は、理性を以て国難を防ごう。
彼の眠りの安からんことを』
みんなが笑顔で暮らせる国を。セイバーの願いは、自分一人の生涯では果たせなかった。しかし、人と時を重ね、現実のものとなっている。世界のすべてまで広がってはいないけれど、一とゼロには巨大な差がある。
セイバーは、ゼロから最初の一歩を踏み出した者だったのだ。ゴールに到達できないからといって、道程のすべてを否定するのは誤りだった。次に続いた者は、彼女の斃れたところから歩み出したのだから。
アーチャーの故国の建国譚のように、長い永い旅路を迷いながらも、人の世が続く限り進むのだろう。この星の隅から、海を渡り、空を越え、遥か星空の彼方まで。人は歩み続けている。短い生の間をひたすらに。
それは、生贄の子たちにも等しく与えられるべきものだった。十年もの歳月と、彼らの心身の健康を奪った、言峰主従の罪は重い。第四次聖杯戦争さえなければ、普通の子どもと同じように過ごしたことだろう。父母やきょうだい、友と一緒に、喜怒哀楽の中で成長しただろう。
彼らだけでない。士郎、凛、イリヤに桜。慎二だってそうだ。なんと惨いことだろうか。第四次聖杯戦争は、誰も幸せにせず、何らの栄光も齎していない。
それを目の当たりにするのは辛かった。だが、前回参加したセイバーだからこそ、見えてくるものもある。
「ですが、あの男たちは、私と違い、『今』を生きています。
子どもの監禁はいつでも止められたでしょう。
あの男を座に還せば、生贄など必要なかったのですから」
「じゃ、セイバーは、綺礼がやり直しは選ばないっていうのね?」
凛の問いに、金沙の髪が頷いた。
「はい。そも、教会が監視役なのは、聖杯を悪用されぬためと凛は言いましたね?
この聖杯戦争は、一度も成功していないのに、わざわざ監視している。
つまりは、教会も聖杯を欲しているということでしょう」
アーチャーは、満点のテストを返却する教師のような顔をした。
「そうだ、私もそれが言いたかったんだよ。
聖杯を手土産に、教会に帰順したほうが楽だ」
セイバーの瞳に、厳しい光が宿った。
「前回、彼らは裏切りと陰謀で聖杯を入手し、味を占めているのでしょう。
もう二度と、あんなことはさせない」
セイバーはイリヤに向き直った。
「イリヤスフィール、あなたに重ねて謝罪を。
私は、あなたの父上と共に戦えず、母上を守れなかった。
今度こそは、その恥を雪がせていただきたい」
白いブラウスと青いスカートのままで、レンタカーの座席に座っていても、堂々たる騎士王の一礼であった。
そして士郎にもセイバーは一礼した。
「そして、シロウにも感謝を。
あなたと学んだことで、私は自分の誤ちに気付けたのです。
私の生は、すべてが正しくはありませんでしたが、
全部が間違いではなかった。私のしたことは無駄ではなかった。
それを無にしてしまっては、やはり世界が変わってしまうのではないでしょうか?」
アーサー王を囲む円卓の騎士。彼らは対等の立場で、意見を交わし、国を治めていた。
「私たちの円卓が、今の政の在り方に似ていると思うのは自惚れかもしれません。
しかし、発祥の地がイギリスというのは、偶然ではないように思うのです」
セイバーは、今度はアーチャーに向き直った。
「私の存在をなかったことにすると、年月を経るうちに、
世界が滅びるほどの変事に繋がるのかも知れません。
アーチャーの世界の過去が、この世界となるほどに……」
アーチャーは、黒い瞳をきょとんと見開いた。
「あ、そりゃ考えつかなかった。しかし、待てよ。
無限に近いエネルギーの釜が暴走したら、
核ミサイルの着弾に似た現象が起きないとも限らないよなあ……」
呟かれる剣呑な言葉に、ぎょっとしたのは二人の高校生である。
「へっ!?」
「ちょ、ちょっと待って、どういうことよ!?」
「大爆発して、原子雲、キノコ雲が立つような……。
私の世界の過去の第三次世界対戦は、
冷戦中に発射された一発の核ミサイルが発端だったと伝えられてるんだ」
「まずいじゃない!」
凛は思わず立ち上がり、車の天井に頭をぶつけた。
「あいた!」
「大丈夫かい? なにもそんなに慌てなくても……」
呑気な従者に、凛は頭を押さえながら怒鳴った。
「あいつが本物の性格破綻者だってこと、あんた知らないでしょう!
冬木が、ううん、世界が壊滅すれば、教会の事件どころじゃないわ。
そういう使い方をされたら……」
言いさして息を呑む。
「まさか、それが前回の……」
冬木の大災害。マスターたちの死も、児童の連続誘拐殺人も、みんなうやむやになってしまった。言峰綺礼の父の死も。
アーチャーは、難しい顔で髪をかき回した。
「なるほど、その手もあったか」
表情に反して語調は冷静だ。軍人ではなく、意外な手を指された棋士のようである。士郎は思わず声を上げた。
「どうすんのさ!」
アーチャーは不器用に片目をつぶった。
「方針は一つだよ。英雄王に最大戦力を叩きつけて斃す。
彼さえいなくなれば、言峰綺礼はそれほど脅威ではないんだ」
サーヴァントがいなければ、聖杯は入手できない。聖堂教会にとっては、庇う価値がなくなる。魔術協会は敵になる。ランサーのマスターは、時計塔の封印執行者だった。貴重な魔術師、それも宝具を再現できる血脈を断絶させた者を許しはすまい。協会が手を下す必要はない。聖堂教会に抗議し、冬木の監視役を辞せよと主張するだけでいい。
「聖堂教会は、自らの権益を守るように動くだろう。
一頭の迷える子羊のために、群れを残して探しにはいけないものさ。
教えとは逆でね」
神秘は神秘で打倒しても、犯罪は人の法で裁くべきだ。あるいは、言峰が属する教えによって。
「孤児の虐待なんて、教会にとっては背教の最たるものじゃないのかい?
自首しないなら、彼の元同僚が神の代行をしたりしないだろうか」
「え、代行って……。な、なあ、遠坂。 代行者って、そのさ……。
吸血鬼とかゾンビを狩るんだよな?」
「まあ、普通はね。でも、きっと、背教者だって狩るでしょうよ。
金ぴかサーヴァントがいる間は無理でしょうけど」
「そう。だから、英雄王は我々で斃すんだ。
幽霊を裁くのは無理だが、言峰綺礼は人間だ。
我々がこれ以上難儀をする必要はないのさ」
アーチャーは辛辣であった。
「戦って勝つのが難しいなら、戦わせなければいいんだよ。
聖堂教会という後ろ盾がなくなれば、
いくら最強のサーヴァントがいたって、一個人にできることはたかが知れている」
霊体化して同乗しているキャスターは身震いした。講和に応じなければ、この牙がマスターに向けられたのだろう。権謀術数で鳴らした王女メディアだが、上には上がいると思わざるを得なかった。
『よかったわ。敵に回さなくて……』
アーチャーは、聖杯戦争を公序良俗というテーブルに載せたのだった。例えるなら、裏カジノのようなものだ。当事者同士は納得していても、現行法では許されない不法行為として摘発される。マスターの罪は法で裁けるのだと。
だが、幽霊を殺しても罪にはならないから斃す。そういう意味でもあった。静まり返った車内を見回し、アーチャーは肩を落とした。
「まったく、私も大概ひどいことをやっているな。
魔術のために、子どもを虐待するなんて許しがたいが、
その被害者を利用して、言峰主従を陥れている。
正義の名の下にね」
士郎は声もなかった。目的を持ち、手段を選び、大義を得て、敵を容赦なく叩き潰す。教科書に載っていた、マキャベリズムというものの生きた見本だった。これもまた、『正義の味方』の一つの在り方なのだろうか?
社会を味方にするのが、アーチャーの最大最強の武器であるのかもしれない。
「正義というなら、言峰綺礼を殺したところでどうにもならない。
彼が果たすべき責任、償うべき罪を、我々が手を汚して肩代わりすることになる。
あの主従にそんな価値はない。
凛や士郎君、イリヤ君のご両親だって、君たちに人殺しをしてほしくはないだろう」
「……でも!」
反論しようとした凛に、アーチャーはほろ苦い笑みを浮かべた。
「私は、してほしくなかったよ」
一気に十数歳も年を重ねたような顔に、凛は口を噤むしかなかった。夢で見たアーチャーの最期は壮絶だった。左足の急所を撃ち抜かれ、血の海に座り込み、遺す人々に詫びながら息を引き取った。たった独りで、看取る人もなく。
アーチャーことヤン・ウェンリーの記憶はそこまでだったが、続きを知る者がここにはいる。宝具として召喚されたヤンの部下たちだ。彼らに教えられて、ヤンを一番打ちのめしたのはそのことだった。よりによって、あの子が自分の死体の第一発見者となり、地球教徒の屍の山を築いただなんて。
沈黙に沈んだ凛に、アーチャーは静かに語りかけた。
「とはいえ、これは戦争だからね。
原理原則といえど、君たちの命に優先すべきものではない。
だが、君たちが手を汚す事のないように、私は全力を尽くすよ。
まあ、首から下は役に立たないけれど」
車が静かに停車した。
「到着いたしました」
そこは、柳洞寺を見上げる山道の麓だった。アーチャーはひょこりと頭を下げた。
「ありがとうございます、セラさん」
「皆様、くれぐれもお気をつけて……」
そして、彼らは少々の行程を経て、洞窟の前に辿りついたのである。呆気なくなるほどの至近距離だった。柳洞寺の参道から、簡単に入ることができる脇道がそこまで続いていた。認識を鈍らせる魔術が掛けてあり、キャスターが解除したが、それもさほどに強力なものではないという。
「こんなところに道があったんだ……」
士郎の言葉は、冬木の住民の総意であったろう。凛も不承不承に頷く。設置者の末裔として、複雑な気分だった。世代交代が早い遠坂家は、次代への知識伝達が不十分ではないかという従者の弁が身にしみる。せっかく資料が揃ってきても、次々にアクシデントが発生し、調査に充てる時間はなかったのだ。
「いや、むしろ当然だと思うね。
大聖杯は、御三家の聖地だと言ってもいい。
教会でも寺院でも、大体は交通の便のよいところに作るものだ」
闇の中に続く道は、幅こそ狭いが、思ったよりも歩きやすかった。運動神経に難のあるアーチャーでも、つまずいたり、藪に突っ込んだりせずに済む程度には。これが日中なら、ちょっとした散策程度だろう。
「でも、認識を鈍らせるだけで、よく今まで隠せたよな。
俺も全然気がつかなかった」
「キリツグのお墓のそばなのに?」
「うー、ゴメン……。でも、寺に行くのに、寄り道しようなんて思わないぞ」
「そうね、坊やの言うことはもっともよ。
こんな単純な術が効くのは、主にこの場所のせいね」
ここは天然の結界があり、山道を往来するものは自然に寺を目指し、また下へと下る。
「弱点はあるけれど、それもうまく折り合いをつけているわ」
「なんなのさ」
実はキャスター、小さくて愛らしいものが大好きであった。セイバーやイリヤは、実に彼女の好みだ。将を射んと欲すればということで、士郎への態度もわりに柔らかい。
「認識が固まっていない子どもには効きづらいのよ。
でも、ここに子どもだけで来るかしら?」
寺への用事といえば、葬式、法事、墓参りだ。親に連れられたならともかく、子どもが単独で来るところではない。そして親が一緒なら、寺のお山で冒険ができるはずもなかった。
「ここんちに子どもがいたら、っていうかいるんだけどさ。
一成に山で遊ぼうっていったら、仏罰がーーとか絶対にいうな……」
「そういうことよ。信仰に生きる者には、幼い頃から自然に禁忌となる。
分別の固まった大人ならば、なおさら山には入らないでしょう。
住人も来訪者も問わずにね」
実体化したランサーが、槍で肩を叩きながら言った。
「まあな。今は狩りをせずとも、いくらでも食い物が手に入るからな。
もっとも、俺の時代だって、墓場のそばで獣や草木を取って食いはしねえが」
「あんたねえ……」
呆れ顔になった凛の隣で、アーチャーが髪をかき回してから腕組みをした。
「卵が先か、鶏が先か、か。
柳洞寺の建立と、大聖杯設置の時期の因果関係ね。
実に興味深いが……」
「それは後だな」
ランサーが形の良い顎を上げた。
「ほれ、ここだろう」
闇の中に、さらに昏く洞窟が口を開けていた。アーチャーは眉を寄せた。
「有毒ガスとか大丈夫かなぁ……」
「はあ? なにつべこべ言ってやがる。おら、行くぞ」
山、それも火山のない国の住人としては仕方がないが、到底頷けない意見であった。身体能力が生前の何十倍になっても、空気が見えるようになるわけではないのだ。サーヴァントに毒は効かない。有毒ガスも同じだ。だから質が悪い。アーチャーたちには、炭鉱のカナリヤ役はできない。
「いや、我々は平気でも、マスターたちが良くないんですよ」
「そのとおり。いや、人生の最盛期の知識というのも嘘ではありませんな。
戦艦乗りの閣下が、野戦演習の授業内容を思い出すとは上出来だ」
響く声は深みのあるバリトン。アーチャーは嫌そうな顔になった。
「まだいたのかい、中将。戻れと言ったのに」
白い装甲に身を固めた騎士が立っていた。
「おやおや、お忘れですか。小官の役職は閣下に任命していただいたものですが」
イゼルローン要塞防御指揮官、中将ワルター・フォン・シェーンコップ。
「要塞なき今、守るべきは場所ではなく人、つまり閣下とマスターたちでしょう。
それに、先陣は小官が最も適任なはずですよ」
アーチャーは考え込んだ。凛への負担は避けたいところだが、普通のサーヴァントに不可能でも、今のシェーンコップにはできることがある。彼の装甲服は宇宙服でもあり、生命維持機能は無論のこと、環境測定装置も完備している。有毒ガスの有無の判別ができる。だからこの格好なわけか。
アーチャーは溜息を吐くと頷いた。
「言われてみればそうだね。では、頼むよ」
「安んじてお任せあれ」
言うが早いか、素早く無駄のない身のこなしで洞窟に潜入していく。シェーンコップは、アーチャーの宝具の一部で、サーヴァントでもある。心話でのやりとりも可能だ。中将を斥候に使うのは、いささか以上に勿体ないが、薔薇の騎士歴代最強の戦闘員の、そのまた最盛期の技量を死蔵するのも愚かである。
シェーンコップが先行してから、秒針が五周ほどもしたろうか。
「……コンディション、オールグリーンだとさ。
幸い、待ち伏せもないようだが、やれやれ……」
アーチャーは座っていた岩から立ち上がると、ベレーをもみくちゃにした。
「なにやら問題発生のようだ。こればっかりは、我々門外漢にはどうしようもない。
魔術師の出番だね。よろしくお願いします」
頼りない足取りで、それでもアーチャーが一同を先導する。先行したシェーンコップが、的確な指示をしてくれるおかげだ。士郎や凛が持ち込んだ懐中電灯だけでは、到底照らしきれない規模の洞窟だったのに、豪語するだけのことはある。
その道中、ランサーは目を眇め、乱雑に前髪ごとこめかみを揉んだ。
「嫌な気配が漂ってやがる」