強大無比な敵に対するには、心もとない味方の戦力。そんな手札を最大限効果的に運用するために、まず調査を行う。情報を重視した、アーチャーことヤン・ウェンリーらしい方針だった。
「で、やることが小学生と大差ないとはね……」
慎二は、テーブルに乗った本に、懐疑的な視線を向けた。召喚されたアーチャーが、まず向かったのは、役所に図書館だったという。冬木の断層や地質に関する書籍は、彼が図書館に行った時は、あいにく貸し出し中だった。
士郎とイリヤが借りに行った時には、タイミングよく返却されてきたところだった。なんでも、小学校の五年生だか六年生が、地域を調べる授業で借りていたようだ。図書館の女性司書は、イリヤが借りに来たと思ったらしい。
「失礼しちゃう。わたしは立派なレディなのに」
唇を尖らせるイリヤにアーチャーは苦笑していた。彼に言わせるなら、歳より若く見られて怒るうちはまだまだ子どもだ。
「いやいや、本物のレディなら若く見られたら喜ぶものだよ。
そうか、小学生が借りていたのか。……そういえば、彼も小学生だったな」
「へ、彼って?」
丸くなる琥珀に、漆黒が伏せられた。
「深山の一家殺人の被害者の一人は、小学生の男の子だった」
「え、まさか……」
「この本はなかなか面白いんだ。化石の採取スポットが載っている。
よく見つかるのは貝の化石だが、サメの歯なんかも出土するらしい」
アーチャーの一言に、慎二はあることを思い出した。
「それなら見たことあるよ。小学校の時、理科の先生が見せてくれた」
「む……。見た覚えがないぞ」
「それはクラスが違うせいだろうな。
僕の組、理科の授業は別の先生がやってたからね」
小学校は、学級担任がほとんどの授業を行なう。だが、専門教科の関係などで、別の先生が教える場合もある。
「六年の時の担任が、音楽の先生だったからさ。
他のクラスを教えてる時間に、理科の授業が入ってた」
慎二の補足にアーチャーは首を傾げた。
「日本ではそうなのかい?」
「アーチャーの国は違うんだ?」
「いやぁ、私は中学校まで通信教育だったんだよ。
それに音楽の授業なんかなかったからなぁ。
慎二君が教えてくれなくちゃ、分からなかったよ」
「ふうん、なるほどね。
その理科の先生が、自分で採ってきた化石を見せてくれたんだ。
それこそサメの歯の化石もあったな。
昔の人は、龍の牙だと思ってたって。それがなんなんだ?」
琥珀が見開かれた。士郎の脳裏で、いくつかの単語が繋がり、火花を散らす。死人を復活させるため、人の臓器を洞窟へ集めたという柳洞寺の怪談。日本の洞窟の多くは、石灰岩の侵食によってできていると言ったアーチャー。石灰岩は、海底が隆起した地層に多く含まれているとも。そして、冬木から海の生物の化石が出土すると書かれた本。
「龍のはらわたって……。
『牙』がそばで見つかったから、そういう名前になったのか!?」
アーチャーは曖昧に頷いた。
「蓋然性はかなり高いね。
実のところは不明だが、地名にはそれなりの理由があるんだ」
温暖で、冬も木が健やかに育つ『冬木』。暴れ川で、橋を架けるのもままならず、渡し舟が通うのも大変だった『未遠川』。
慎二は再び頷いた。
「いかにもありそうだよね。化石なんて、男子小学生が大好きじゃないか。
僕の時は夢中になったヤツが何人もいたよ」
「だがその割に、被害者が少ないように思うんだ。
だから仮説としてはちょいと弱い」
小中学校の頃のことを回想した士郎は、あることに思い当たった。
「じゃあ、アーチャーって、調べ学習なんかもやってないのか?」
「なんだい、それは?」
「こういう地域の調べ学習とかの行事はさ、学校だと班別でやるんだ。
慎二は理科の授業で、クラス全員が見たんだろうけど」
一学級は約四十人で、一班はだいたい五、六人だ。
「はあ、そうなのかい。その辺は、士官学校と大差がないものだね」
「班の中で特に興味を持った子が化石を探してさ、
大聖杯に行き着いちまったのかもしれない」
大洞窟発見! 子どもが大興奮するスペクタクルだろう。
「もし俺が見つけてたら、じいさんに話したと思う。夕飯の時に……」
士郎と慎二とアーチャーは顔を見合わせた。
「まずいなあ。英雄王が霊体化して監視することができたなら、
色々と前提が狂ってしまう」
「そうとは限らないわ」
キャスターが黒いドレスの腕をしなやかに伸べ、指先から現れたのは黒と紫の蝶。まさに夢幻のような魔術だ。慎二が羨ましげな顔をした。
「そうだよ、こういうのがいいんだよ」
今は名目上の家庭教師だが、彼女が戦後に残留するなら、肩書を実現化するのも悪くない。アーチャーの言うとおり、桜が実技、慎二が研究をするのも一案ではないか。だったら美しい術のほうがいいに決まっている。
オオムラサキにも似た蝶は、ひらひらと舞うとおさまりの悪い黒髪に止まった。あの夜の記憶を喚起されて、アーチャーははたと手を打った。
「ああ、そうか、その手もありました!」
「この方がずっと効率がよいでしょう」
凛は固い表情で頷いた。
「綺礼は、お父様の弟子だったのよ。
宝石魔術で、使い魔を作る方法もあるの。
でも、べつに監視カメラでも何でもいいのよね。
見張ってて、秘密がばれた時に使い魔で追いかけるようにすれば」
いかにもプライドが高そうで、豪奢で享楽的な雰囲気の英雄王を、ずっと山中に留めておけないだろう。公園に来た時は、流行りの服装に身を包んでいた。凛の誕生日の度に、全く同じ服を贈ってくる言峰には不可能なコーディネートだ。英雄王には、行動と経済の自由があるに違いない。
ランサーがあの神父に従わざるを得なかった時には、無縁だったものである。
「アーチャーの言い草じゃねえが、
ガキが秘密を知っても親まで殺す必要はない。
効率うんぬんを言うなら、その場で口封じをすりゃあいい。
かくいう俺も、他人に見られたらそうしろと命じられていたんだが」
現在と未来。二人の衛宮士郎の明暗を分けたのは、アーチャーとランサーの一戦だったのだ。赤の弓兵は校庭で干戈を交え、黒の射手は食事に誘った。次からは後者に倣おう。エミヤシロウは心に誓った。
「剣を出さなくても、ガキ一人殺すなんざ造作もねえさ。
いくらでも事故に見せかけられる。
あれだけの人死にを出したのは、それができなかったんじゃねえか?」
大聖杯のそばに、誰もいなかったことで発生したかもしれないタイムラグ。英雄王を使ってまで、三人の犠牲を出したのは、重大な秘密が漏れそうになったからではないだろうか。聖堂教会の代行者にして監視役、前回のアサシンのマスターなら、情報の重要性を熟知していることだろう。
「証拠もなにもないし、決めつけるのは危険だがね。
だが、我々の作戦のヒントになるかもしれない」
ライダーの睫毛が、眼鏡の下で羽ばたいた。彼女のマスターも、隣でそっくりな表情をしている。
「どういうことでしょう?」
怒るな。慎二は自らに言い聞かせた。マスターは、自分に似たサーヴァントを召喚するのだから。髪や瞳の色と豊かな曲線美だけでなく、ちょっと天然なところまで似てしまったのだろう。わかる者が通訳してやればいいだけの話だ。
「つまりな、化石スポットのどこかから、
大聖杯に行き着く場所があるんじゃないかってことさ。
それを探しながら、結界を仕掛けたら一石二鳥だよな」
黒髪の青年は、穏やかな微笑みを浮かべて、慎二を讃えた。
「いや、凄い。慎二君は参謀向きだね。
ライダーの作戦に力を貸してあげてくれないか。
君なら、その先生に連絡を取っても不自然ではないし」
そして、さっさと面倒事を任せたのだった。
「あいつめ。サーヴァントのくせに、他のマスターをこき使うなんて。
……たしかに遠坂に似てるよな!?」
エミヤの目が曇天の色と化した。
「……慎二。折角の命を粗末にするのは勧められんぞ」
「お前が言うな! ……ところでそれは肯定だよな?」
「おしゃべりはこのぐらいにしておこう。彼の課題が片付かん」
「衛宮のくせに、大人の言い訳をしやがって。
ふん、わかってるよ」
この調査は重要だった。ライダーには作戦行動を完遂してもらわねばならない。大聖杯への魔力供給を断ち、できるなら自軍へと引き込む。こちらのサーヴァントの多くは、高火力で高燃費だから、魔力はいくらあってもいい。慎二たちが戦いの帰趨を左右するのだ。
ぶつくさ言いながらも、けっして悪い気分ではなかった。誰かに自分を認めてもらいたい。今までの慎二に、ついて回っていた劣等感。才能を認めてくれたのは、遥か未来の異世界の異星人の宇宙一の名将だった。少々信じがたいけれど。
「……とりあえず、あの先生に連絡だな。
いつ、あの化石を採ったのか。
十年以内なら、その場所は一応安全だ」
そうと決まれば、慎二の行動は早かった。納戸をかき回して、当時の連絡ファイルを引っ張り出す。
「よかった、捨ててなくって」
小学校の学級連絡網が残っていた。朝になったら、適当な理由をでっちあげて聞いてみよう。だが、それ以外にもできることはしておくべきだ。地図と化石スポットを見比べ、地図に書き込んでいく。
「ずいぶん手際がいいな」
エミヤの賛辞に、慎二は鼻を鳴らした。
「ふん、褒めたって何も出ないぜ。小学生にもできたことだろ」
「小学生は何週間もかけていると思うのだがね」
「あんなの、週に一度か二度の授業の中での話だろ。
高校生にもなって、ちんたらやってられないよ」
「……流石だな」
エミヤの感嘆は、旧友とアーチャーの双方に向けられたものだ。間桐慎二は、天才肌の人間である。頭の回転が速く、勘所を掴むのがうまく、ゆえに行動が速い。
紛れもない美点だが、自分が基準なので他者への要求が厳しい。出来ない者を見下したり、せっかちになる欠点と表裏一体だ。ヤンは、あえて慎二一人に任せた。それは彼の士気を高揚させ、自由に才能を揮うことになった。
「でも意外にあるんだよ。ほら、見ろよ」
慎二の指が、未遠川の支流を指差した。
「ここからも化石が出るんだって。
いくら小学生でも、冬に川で化石探しはしないと思うけどな」
「ふむ。だが、通路と考えるとわかりやすいな。
この上流の山は有望ではないかね?」
「そういえば、採石場があるよ。
でも、山一つ離れてる。これが繋がってるのか、おまえ知ってるか?」
慎二の問いに、偉丈夫は咳払いした。
「あー、その、な。
私が日本人でありながら召喚されたのは、主に中東で活動していたからだろう」
「それがどうした」
慎二は知らないが、これは宇宙最強の問いだ。
「非常に言いにくいのだが、私はアーチャーと違って若返ってはいない」
慎二の滑らかな額に、くっきりと縦皺が寄った。目の前にいるのは、衛宮士郎の未来形。変形して変色し、だが顔立ちには少年の面影を残している。だいたい二十代後半といったところか。
「じゃ、おまえ、そんなに若死にしたのか!?
で、守護者になるような活動してたって、一体何をやらかしたんだ!」
「その質問は時間があったら答えるとして、……わからんかね?」
「だから、それがどうした!?」
エミヤも誰かのように銀髪をかき回した。
「私は聖杯戦争の後、高校を卒業して、冬木を離れた。
それからほとんど戻っていない。つまり、その手の知識は……」
「ここの衛宮と大差ない?」
位置の高くなった頭が上下動した。
「この役立たず!」
「まさにな。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶというそうだ」
「……経験に学べたら、充分賢いと思うんだけど」
自嘲が混じった慎二の反論に、エミヤはほろ苦い笑みを浮かべた。
「まったくだ。それさえも容易くはないが、
この格言の肝は、愚者にとって、経験のないことには手も足も出んということさ」
自らが体験した聖杯戦争の知識。教会の地下の子どもたちの存在は、本来は言峰主従しか知りえぬことだ。だが、聖杯戦争を潜り抜けた未来の衛宮士郎は知っていた。
それが思いもかけぬ死角からの攻撃に繋がり、彼らの退路を一刀両断にした。しかし、これだけ展開が異なると、エミヤの知識ではいかんともしがたい。彼は養父同様、魔術使いであって魔術師ではないからだ。
様々な資料を駆使して、分析と思考で聖杯戦争の本質に迫ろうとするアーチャーは、まさしく賢者であった。それで給料を貰っていたとは本人の弁だ。こういう調査は慎二向きの仕事であったが、素人と玄人では差があって当然。癖のある髪を乱暴にかきあげてから、慎二は頭を切り替えた。
「そうか。じゃあ、考えるのは奴にさせればいいや。
僕をこき使ったぶん、僕もあいつをこき使ってやる」
「……大したものだ」
実現すれば、かの獅子帝にも成し得なかったことだ。そして、朝を迎え、彼はその快挙を達成した。慎二のまとめた情報にアーチャーは小躍りして喜び、少年の手をとって下手なダンスを踊りだしたほどである。
「ありがとう、慎二君! 素晴らしいよ」
「これがかぁ?」
賞賛された本人が、一番疑わしそうだったが。
「調べれば調べるほど、何が正しいのかわからなくなってきたんだけど」
アーチャーは、不器用に片目をつぶった。
「それだよ。よく調べてくれたのが素晴らしいんだ」
作戦を立てるには、複数の情報が必要だ。慎二たちの調査結果を基礎資料とし、魔術の専門家であるキャスターに諮る。有力そうな候補地に目星を付け、ライダーが移動や施術に必要な時間を計算する。ややあってから、ヤンは桜に顔を向けた。
「そうだ、この家には自転車はないかな?」
「え?」
桜はつぶらな瞳をさらに丸くした。
「自転車ですか? わたしのと兄さんのがありますけど」
「じゃあ、ライダーの移動用に一台貸してもらいたいんだ」
「ライダーが自転車に? ライダー、乗れるかしら……?」
首を傾げる桜に、美女は眼鏡をきらめかせて答えた。
「サクラ、問題ありません。この世に私が動かせぬ乗り物はないのです」
「そいつは頼もしいね。では、作戦を説明しよう」
キャスターの従妹というライダーの設定に、地質学専攻の留学生という項目が加わった。弔問は終わったが、一週間ほど冬木に逗留して、フィールドワークを行うというのが表向きの理由だ。行動は日中。目的地までは、人家のそばを自転車で通行する。
「えー、聖杯戦争は夜にやるんでしょ?」
「いや、これは戦争じゃないだろう、イリヤ君。
ライダーを守るためにも、人目を味方に付けたほうがいいんだよ」
人みな振り返る美貌と、陽光の下で一層輝きを増すアメジストの髪。こんな女性が自転車で往来したら、街中の注目の的になる。
「さすがに日中は、街の上空を黄金の舟で飛ぶのは難しいだろうからね。
まず、ほどほどに人目があり、だが人が来ないここに施術を行う」
ヤンが指さしたのは、慎二が疑問符をつけた河原だった。
「ここに小規模な結界を施術してもらいたいんです」
夏場ならともかく、冬の川辺に人はいない。だが、土手には道があり、近くには橋も人家もある。
「ここも霊脈なのですか?」
ライダーの問いに、キャスターが唇を開いた。
「ええ、霊脈といえば霊脈ね。大聖杯とは繋がっていないけれど」
「なのに結界を?」
ヤンは頷いた。
「ここは彼らの出方を占う、陽動の一手になります。
我々の企みに、すぐに気付かれては困る。
だが、無視されて、引っ込まれるのはもっと困る」
理想なのは、こちらに都合のいいタイミングで、相手に気づかせること。
「虚実を織り交ぜて仕掛けます。こちらは陽動」
地図に書き込まれたのは、いくつかの青い点とそこまでの経路を示す青い線。最終的な目的地は、慎二が小学校時代の恩師に聞いた、例の化石の発見場所だ。その先生(すでに定年退職していたが)によると、上流の採石場も同じ年代の地層に属するらしい。
「下流から上流を目指すのは、それほど不自然ではありません。
それを見せておいて、本命を狙う。これはキャスターにお願いします」
菫色の瞳が瞬いた。
「あら、私が?」
「はい。といっても、もう一箇所、いや二箇所は完了しているのかな?」
聖杯降臨の場所となりうる霊地は四つ。その霊脈は、大聖杯から繋がっているものだ。
「一つ目はキャスターがいた柳洞寺」
「ではもう一つはどこかしら?」
アーチャーは、人畜無害そうな笑みを浮かべ、すいと人差し指を立てた。
「後は、現在無人で警察が監視している教会」
「あっ!」
凛は慄いた。
「あ、あんた、まさかその為に……」
子どもを救助するのを、公権力に任せたのか。
「……そこまで腹黒いと思われるのは心外だなあ。
我々の力では、ミイラ取りがミイラになるだけだと思ったのさ」
第八の陣営の強さもさることながら、監禁されていた子どもたちは一人や二人ではなかった。魔術の秘匿に固執していたら、凛たちが彼らと交替するはめになったかもしれない。
「それ以上に、知りえぬ秘密を凛や士郎君が知っているのはまずいんだ」
「なんでさ?」
「いつ、どこで、どうやって知ったのか、ということになる。
言峰神父に、士郎君とエミヤ君の関係を悟られるのはぞっとしない」
アーチャーの静かな口調が、士郎に息を呑み込ませた。
「彼は切嗣氏に強い執着心を持っている。
第四次聖杯戦争の、切嗣氏の動向を知っているのがその証拠だ。
そんな彼が、君が守護者になりうるのだと知ったら、
喜んでそうなるように仕向けるだろう。
それだけは避けなくてはならない。今後もだよ」
これを聞いたランサーは、不機嫌な表情になった。
「だから俺に小芝居を打たせやがったな」
「ええ、まあ。あなたならば、知りうる機会がありますからね。
私と組んで、警察に注進するのは不自然ではないでしょう。
あれが明るみに出れば、教会の庇護はなくなります。
そうすれば、警察と市役所は丸め込めない。前回と違ってね。
今回は働いてもらいますよ」
決して激してはいないのに、どこか鬼気迫るものを感じ、ランサーは口を噤んだ。
アーチャーに仕事を割り当てられた警察と市役所は、これまでの放置のツケを払わされている。目玉の飛び出るような利子つきだ。両者には世間の非難が浴びせられた。
それ以上に叩かれたのは、聖堂教会である。神は罪人にも門戸を開くと言うが、無辜の孤児の苦しみに目を向けないのか。無論、これは神のせいではなく、人間のやったことだ。
しかるべき管理体制を取っていたら、教会上層部は言峰の犯罪を見抜けただろう。聖職者の元締めが、なにをやっているのか! これでは後任者を送り込むことはできない。
「遅きに失した感はありますが、最悪の手遅れにはならずに済みました。
せっかく席が空いたのだから、座らない手はないだろう、凛?」
敵のいないときに、その場所を使わせてもらう。これも宙域管理の応用である。
「まあ、相手もやっていることだがね。
アインツベルンの城は水を断ったから、動かざるを得ないだろうけど」
軍事上、水の確保は最重要といっても過言ではない。人間、水さえあれば一か月は生きられるが、水がなければ一週間で死ぬ。
「あの洞窟なら、お寺から水を拝借できる。
残りの候補は遠坂家だが、拠点にするには労多くして実りは少ない。
ここと衛宮家と並んで、襲撃には注意が必要だがね」
冷静を通り越して冷酷な分析に、凛は圧倒された。鋭く苦い。このサーヴァントの提言を受け入れるのは、結構骨が折れることなのである。
「え、ええ。あと、他にどこか思い当た場所があるの?」
「あとは、外来のマスターが拠点にしようとした場所かな。
そちらの探索は、時計塔からの情報次第になるね。
我々には、闇雲に手を広げる時間はない」
黒い瞳が菫色にちらりと向けられ、キャスターはわずかに顎を引く。彼女のマスターが言峰らを見かけても、見て見ぬふりをするようにという言外の忠告だった。
「こちらは英雄王たちより人数で勝るが、彼らを籠城させては不利になる。
弱い方につけこむしかない。彼らを引きずり回し、マスターを疲弊させる。
一番いいのは、彼を警察に捕まえてもらうことだけどねえ」
日中にライダーが自転車で行動すると、彼らの移動手段を狭めることになる。世界最高のマラソンランナーでも、自転車に勝つのは難しいものだ。自動車なら追いつけるし、ぶつけることもできるが、ライダーはサーヴァント。単なる物理攻撃では傷一つ付けられない。
「考えたな……」
慎二は唸った。
「でも、相手も自転車を持ちだしたらどうするんだよ。
英雄王が自転車で追っかけて、剣の矢を射ってきたら」
それを想像した士郎は、表情の選択に困ってしまった。
「……シュールすぎるぞ」
王の財宝の威厳もへったくれもない。ついでに秘匿もあったもんじゃない。アーチャーは苦笑いをした。
「だからこそ、アサシンに同行を願うのさ。
ついてはね、桜君。後ろに荷台が付いている方を貸して欲しいんだ」
かくして、ライダーの霊脈枯渇作戦は始まった。長い髪が絡まないようにまとめ、前の籠には地図と弁当、後ろの荷台に霊体化したエミヤシロウ。
赤い外套の偉丈夫は文句を言った。
「……いや、これはあんまりでしょう」
「昨夜の森と、ちょっと乗り物が違うだけじゃないか」
「いいじゃねえか。どえらい別嬪の後ろに乗れるんだからよ」
この場に白い騎士がいたなら、青い槍兵に同意したことだろう。
「ならば君が代わってくれ! 喜んで交代するとも」
エミヤはすかさずランサーの言葉に飛びついた。すり減りかけた記憶層のどこかから、警鐘がフルボリュームで鳴り響いていたからだ。
「それはイヤです」
だが、ナビゲーターの交代希望は、ドライバーに一蹴された。
「私は、神の血を引く男にいい思い出がありませんので。
その点、あなたはサクラのセンパイですからね」
ライダーはアサシンの首根っこを掴むと、軽々と荷台に載せた。悲しいかな、エミヤシロウの筋力はあくまで普通の人間基準。神の血を引き、怪力スキルまで所持する神代の美女には敵わないのである。
「さあ、行きましょう」
言うが早いかペダルを踏んで、ライダーは矢のように飛び出していった。ママチャリの常識を超えるスピードで。
「じゃあ、気をつけてねーー」
声を掛ける桜に、ライダーが右手を上げて応じた。霊体化したエミヤの反応はわからずじまいだった。だが、喜んではいなかったと思われる。日の傾く少し前、二人は無事に戻ってきたが、アサシンのほうが消耗していた。
「アーチャー、この地図の箇所は、すべて施術が終わりました」
アーチャーは黒い目を瞬いた。
「え!? ず、随分早かったですね」
彼としては、一両日中に余裕をもって終了する作戦を立てたのだが。床に座り込んだエミヤが、呻くように告げる。
「制限速度の倍近い早さで走れば当然だ……」
アサシンの告げ口などお構いなしに、ライダーは目を宝石のように輝かせていた。
「あの仔に不満などありませんが、自転車というのは素晴らしいですね。
自分の思うがまま、自らの足で操れるのですから」
アーチャーは、アサシンから視線を外すと髪をかき回した。
「ええと、交通安全にはくれぐれも気をつけてください。
では、明日からの作戦は、施術箇所を増やしてもいいかな?」
その夜には、キャスターがランサーを連れて、教会の霊脈を掌握。翌朝からは、機動力に物を言わせたライダーの施術が再開された。霊脈に繋がるポイントと、そうではない場所。せいぜい数メートル範囲だから、術もすぐに終わる。絶命する小動物の魂は、少ないながらもライダーの糧となった。糧といえば、桜が用意してくれる弁当はたいそう美味である。
「私の力が、こんな形で役立つのも悪くはありませんね……」
ライダーの呟きを、後ろに座るアサシンは聞いた。魔物に変じてから、二人の姉と洞窟に隠れ潜み、サーヴァントになっても夜に活動するしかなかったメドゥーサ。かつての姿を取り戻し、青空の下を自由に歩ける。思いもかけぬ幸せだった。
そして、マスターにもこの幸せを享受してほしい。臓硯という庇護者がいなくなっても、桜の類まれな資質はなくならない。それを狙う有象無象に立ち向かうために、魔術師となるしかないのだとしても。
「それでも、この世界には、サクラがどんなに美しくても、
理不尽に嫉妬する神はいませんし」
ライダーたちに残された砂時計の砂粒は、刻々と減っていく。なのに今になって、ライダーに願いが生まれた。
「だから、幸せになってください。敵は私たちが斃しますから」
姉を巻き添えにした自分だが、誰かを幸せにしてあげたい。それもまた一つの正義の形だった。
エミヤシロウの薄らいだ記憶の底から、黄金の輝きが立ち上ってくる。ヒーローが、くたびれた笑みで傍らにいた少年の頃。正義の味方を目指したのは、最愛の人を喜ばせたかったから。夢を継ぐと誓い、正義を求めて戦った。
だが、戦いが衛宮切嗣の願いだったのだろうか。『誰をも切り捨てず、みんなを救う』手段は、衛宮士郎の魔術では戦うことしかなかった。
そう、自分だけの力で叶えたかった。誰かと、皆と協力すれば、可能だったかもしれなかったのに。
『……そうだな。この世界の桜が幸せになれば、
衛宮士郎も違う道を歩むかもしれん』
そして自分にはならない。この世界での『衛宮士郎殺し』は成功といえる。この記憶も、座に戻れば記録となってしまう。しかし、再び記憶になるまで、何度となく刻みつければいい。
再び聖杯戦争に召喚された時に、最善を尽くせるように。ランサーの槍も、キャスターの短剣も、エミヤには投影できる。
この世界のアーチャー主従が複数の手を借りて行ったことも、エミヤと凛には可能なのだ。
『そうとなれば、この戦いに勝たなくてはな。
さて、言峰にギルガメッシュはどう出てくるか……』