父から母への最後のラブレターだと信じて再生したものの、聴こえてきたのはまさかのアダルト音声だった。
絶望しながら裏返したB面から流れてきたのは「引っかかったな」という亡き父のお茶目な声。
そこに録音されていたのは、くだらなくも愛おしい両親の青春の記録と、隠された真実だった。
父の四十九日の法要が終わり、線香の匂いがようやく薄れ始めた頃、私は意を決して父の部屋の片付けに着手した。
五十代半ば。癌だと分かってから息を引き取るまでは、驚くほどあっという間だった。十年前に母を病気で亡くした私にとって、父は世界にたった一人残された肉親だった。二十三歳。世間的には立派な大人かもしれないけれど、両親をどちらも失い、この広い実家にぽつんと残された私は、完璧な「天涯孤独」になってしまった。
父の部屋は、生きている時のまま時が止まっていた。生真面目で無口だった父の性格を表すように、デスクの上は整然としており、本棚には技術書やビジネス書が綺麗に並んでいる。遺品整理という作業は、父がもうこの世にいないという現実を一つ一つの物を通して叩きつけられるようで、胸が押し潰されそうになる。
押し入れの奥、ダンボール箱のすき間に、見覚えのない金属製の小さな箱が押し込まれているのを見つけた。引っ張り出してみると、それはずっしりと重い、銀色のポータブルカセットプレイヤーだった。表面には擦り傷が多く、かなり古いものだと分かる。
「カセットプレイヤー……ウォークマン、みたいなやつかな」
音楽はスマホのサブスクリプションで聴くのが当たり前の私にとって、そんなアナログな機械はニュースやレトロブームの特集の中でしか見ない存在だった。専用の機械に、物理的な媒体を入れて聴く。ただそれだけのことが、今の私にはとても新鮮で、ほんの少しだけ魅力的に思えた。
プレイヤーと一緒に、手のひらサイズのプラスチックケースに入ったカセットテープが四、五本転がっていた。プレイヤーの裏ぶたを開けてみると、電池が入っていない。本体の側面に「単3形乾電池2本」という表示を見つけ、私は一旦作業の手を止め、コンビニまで走って単三乾電池を買ってきた。
乾電池をセットし、適当に取った一本のテープをプレイヤーにセットする。テープの磁気部分が透けて見える小さな窓を眺めながら、上の「再生ボタン」を押し込んだ。
カチッ、という重い金属音が部屋に響く。一瞬の静寂の後、ジーというかすかなノイズとともに、スピーカーから音楽が流れ出してきた。
少し、くぐもった音。だけど、どこか温かみがある。流れてきたのは、軽快なカッティングギターと、洗練されたベースライン、どこか切ないメロディラインが特徴的な、80年代のシティポップだった。
「あ……これ、最近海外でも人気があるってネットで見たことある」
名前は知らないけれど、都会的で洗練された音楽。無口で、家では焼酎を飲みながらプロ野球中継ばかり見ていたあの父が、若い頃にこんなお洒落な音楽を聴いていたなんて。カセットテープが回転するカラカラという小さな音とともに、今まで知らなかった「青年時代の父」の姿が、少しだけ頭に浮かんだ。寂しさで冷え切っていた心が、温かい音楽で少しだけほぐれていくのを感じる。
「父さんも、若かった頃があったんだなぁ……」
曲が終わるのを待たずに一時停止ボタンを押し、私は箱の中から次のテープを取り出した。
そのテープのラベルには、ボールペンで丁寧に文字が書かれていた。
『真美子へ』
真美子――十年前に亡くなった、私の母の名前だ。
父が母のために作った、お気に入りの曲を集めた自作のベストテープだろうか? それとも、言葉にできなかった思いを吹き込んだ、声のラブレターだろうか?
母が生きている頃、二人は決して大恋愛のバカップルという風には見えなかったけれど、静かに深くお互いを信頼し合っている夫婦だった。亡き父から、亡き母へ向けられたメッセージ。それを娘である私が聴くのは、なんだか盗み聞きをするような背徳感と、少しの甘酸っぱいドキドキ感があった。
私は息を呑み、シティポップのテープを取り出して、『真美子へ』と書かれたテープをセットした。
再生ボタンを押し込む。
カチッ。
ジー……というテープ特有のノイズ。身を乗り出すようにして耳を澄ます。
「テッテレー♪ シャキーン!」
突然、スピーカーから安っぽく軽快なジングルが流れた。
「えっ……?」
思わず声が出た。甘い雰囲気を想像していた私は、完全に拍子抜けした。続いて聞こえてきたのは、やけにハイテンションで、アニメのキャラクターのような高い女の子の声だった。
「はーい! 山村あずみくんだよ! みんな、元気にしてたかな〜っ!?」
「……は? 何?」
声優っぽい、可憐でテンションの高い声。何が始まるのだろうか? 母へのラブレターではなかったのだろうか? 困惑する私を置き去りにして、テープの中の「あずみくん」は喋り続ける。
「今夜もやってまいりました、あずみとみんなの『ひみつの部屋』! 今日の最初のコーナーは、あずみくんのドタバタ一人コントだよ〜! タイトルは……『放課後、誰もいない保健室で……』! それじゃあ、張り切っていってみよう〜!」
学園もののコントが始まった。「あずみくん」が一人二役で、ドジな女子生徒と、ちょっと意地悪な保健医の先生を演じている。だが、正直言ってさほど面白くはない。間も独特だし、ギャグのセンスもどこか古臭い。
私は呆然としながら、ぐるぐる回るカセットテープを見つめた。
「……何これ。父さん、なんでこんなカセット持ってるの……?」
母の名前が書かれたテープの中身が、なぜか素人っぽい声優(?)の怪しい一人ラジオ番組。父は実はアニメオタクだったのだろうか? それとも、こういう投稿テープみたいなものを買うマニアだったのか? 予想外すぎる展開に、両親へのしんみりした感傷はどこかへ吹き飛んでしまった。
しかし、そのまま止めるタイミングを失って聴いているうちに、コントの雰囲気が急激に怪しくなってきた。
「せ、先生……ダメですよ、こんなところで……誰か来ちゃいます……っ」
「ふふふ、誰も来やしないよ、あずみくん。ほら、ここが痛いんだろう?」
「あッ……ん、あ……っ、そこは……ぁ……っ」
ベッドがギシギシとキシむ効果音。そして、先ほどまでハイテンションで喋っていた「あずみくん」が、何故か艶めかしい喘ぎ声を出し始めた。
「……え?」
私の思考が完全にフリーズした。
「や、やだ……先生、そんな……あっ……はぁっ……んんっ……!」
過激になっていく喘ぎ声と、妙にリアルな衣擦れの音。演出効果の吐息が、古いカセットのノイズに乗って部屋中に響き渡る。
「…………これって」
顔が一気に熱くなるのが分かった。
「……どう考えても、アダルトテープじゃん!!!!」
私は叫びながら、慌てて停止ボタンをバシィン!と叩き叩いた。
静寂が部屋に戻ってくる。私の心臓は、先ほどとは全く違う意味でバクバクと激しく打っていた。
「な、なにこれ……なにこれ!? アダルトビデオならぬ、アダルトテープ!?」
ウェブで何でも動画が見られる今の時代しか知らない私にとって、「声だけの官能コンテンツがカセットテープで売られていた」という事実は衝撃的すぎた。昭和か平成初期か知らないけれど、昔はこんなマニアックな音声商品が存在していたのか。
そして、何よりも重大な問題がある。
「なんで……なんでこんなもん、死ぬ前に処分しておかないわけ!?」
部屋の中で、一人で天井に向かってブチ切れた。
「百歩譲って持ってるのはいいよ! 男だし! 若気の至りだし! でも、なんでラベルに『真美子へ』って書いてんの!? お母さんの名前でカセット偽装するとか、悪質すぎるでしょ!!」
普通、親の遺品整理をしていて「母の名前」が書かれたテープを見つけたら、娘なら絶対に大切な思い出だと思って再生するに決まっている。「母の名前を書いておけば、恥ずかしいテープだとバレずに隠し通せる」と父は思ったのだろうか?
「逆! 完全に逆だから!! 一番聞かれやすいタイトルだからそれ!! 娘に何のトラウマ植え付けようとしてんのあの親父はー!!」
頭を抱えて畳の上に転がった。さっきまでの「天涯孤独で寂しい」「父さんの知らない一面に涙が出そう」という感動的な空気は完全に台無しだ。怒りと呆れと、猛烈な恥ずかしさでパニックになりそうだった。
しかし――。
転がったまま天井を見上げていると、ふと疑問が湧いてきた。
……本当に、父は母の名前を使ってアダルトテープを隠していただけなのだろうか?
生前の父は、どちらかというと不器用で、嘘をつくのが下手な人だった。母に対してはいつも頭が上がらず、母が亡くなった後は、仏壇の前で毎晩静かに手を合わせていた。そんな父が、こんなくだらない偽装工作をするだろうか?
「……まさか、お母さんに見つかって、お仕置きされた結果のテープだったりして」
気になり出したら、止まらない。私は恐る恐る起き上がり、再びカセットプレイヤーに手を伸ばした。
もう一度、再生ボタンを押す。
「あぁっ……あん……はぁ……っ」
部屋に流れる過激な喘ぎ声。恥ずかしさに耐えながら、私は早送りボタンを押した。キュルキュルキュル……とテープが高速回転する音が響く。
少し進めて再生。まだ喘いでいる。また早送り。やがて、トラックの終わりらしき「カチッ」という音がして、テープが止まった。
オートリバース機能はついていないプレイヤーだったので、私は一度テープを取り出し、ひっくり返してB面をセットした。
B面にも何か入っているのだろうか。期待と恐怖が入り混じる中、再生ボタンを押す。
ジー……というノイズ。
流れてきたのは、「あずみくん」の声ではなかった。
『あー……コホン。テスト、テスト』
少し若く、どこか緊張して上ずった、男の人の声。
「……父さん?」
間違いない。まだ三十代前半くらいの、若い頃の父の声だった。背景には、ジリジリと夏のアブラゼミの鳴き声が聞こえている。
『えー、真美子。これを聞いているということは、お前、また人の棚を勝手にガサゴソ漁ったな?』
テープの中の父が、少し呆れたような、でも嬉しそうな声で語りかけていた。
『これはな、会社の同期の佐藤が「絶対に面白いから」って無理やり押し付けてきたやつだ。俺がこんなスケベなテープを自分で買うわけないだろ。……本当だぞ? 疑うなよ』
必死に弁明する若い父の声に、思わずプッ、と吹き出してしまう。
『お前が「何か面白いテープない?」って言ってたから、一応これを置いておくけど……まさか本当に一番最初にこれを開けるとは思わなかったよ。お前、勘が良すぎるっていうか、好奇心旺盛すぎるんだよ』
テープから、遠い昔の父と母のやり取りが目に浮かぶようだった。母は昔からお茶目で、父の隠し事や秘密をすぐに見つけ出す名人だった。父はいつもそれに降参して、苦笑いしていたのだ。
『……ハァ。まあいいや。本命のやつは、ちゃんと別の引き出しに隠してあるから。これはただのイタズラだ。引っかかったな、真美子』
少し誇らしげに言う父の声。しかし、その後に続く声は、少しトーンが下がり、優しく柔らかいものに変わった。
『来週の旅行、楽しみにしてるよ。仕事、早く終わらせるからな。……じゃあな』
カチッ。
そこで録音は途切れた。部屋の中に、再び静寂が戻ってくる。
私はカセットプレイヤーを抱えたまま、ぽかんとしてしまった。
「……なんだよ、それ」
母の名前が書かれたテープは、父がアダルトテープを隠すためのものではなかった。母の鋭い勘を見抜いていた父が、母をちょっとからかって驚かせるために仕掛けた、タイムカプセルのような「イタズラ」だったのだ。
父は、母がこのテープを見つけて「ちょっと、あなた! なによこれ!」と怒り、その後にこのB面を聞いて二人で大笑いする未来を想像して、この録音を残したのだ。
二人の仲睦まじい、だけど少しくだらないやり取り。ネットもスマホもなかった時代、カセットテープ一枚を使って、お互いに仕掛け合い、笑い合っていた若い頃の両親の姿。
「……お母さんじゃなくて、娘が引っかかってどうすんのよ、馬鹿親父」
私は目元が熱くなるのを感じながら、ポロポロと涙をこぼした。だけど、その涙はさっきまでの孤独で冷たい涙ではなかった。
父も母も、もうこの世にはいない。私は本当に一人になってしまったと思っていた。けれど、この古いカセットテープの中に、二人があふれるほどの愛情とお茶目さを持って生きていた証拠が、はっきりと残っていた。
私は涙を袖でゴシゴシと拭うと、プレイヤーから『真美子へ』のテープを取り出した。
「本命のやつは、別の引き出し……か」
父が言っていた「本命のテープ」。きっとそこには、本当に母のために作った自作のプレイリストか、照れくさそうなラブソングが入っているのだろう。
「探さなきゃじゃん」
私はクスッと笑い、立ち上がった。埃っぽい父の部屋。まだ片付けなければならない段ボールは山積みだ。
だけど、さっきまでの重苦しい空気はすっかり消えていた。
「まったく……娘に変な知識とトラウマ植え付けやがって」
私は独り言をつぶやきながら、父のデスクの引き出しを、謎解きをするようなワクワクした気持ちで次々と開き始めた。
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