遺産相続に群がる一族の前で開示された怪文書のような遺言状を皮切りに、惨劇の幕が上がる。
全身から異様な毛を生やして井戸の底で絶命した男、空中へ足跡が消えた密室での逆さ吊り。
探偵・神代寺は、怪異に見立てられた30年前の「一族の罪」と、冷徹な物理トリックの裏に隠された真実を解き明かしていく。
※本作は犬神家の一族のオマージュです!
「遅いわね。弁護士はまだ来ないの?」
ヒステリックな女の声が、石造りのホールに響いた。暖炉の薪がパチパチとはぜる音だけが、重い沈黙を際立たせている。外では吹雪が窓を叩き、時折、家全体が軋むような音を立てた。古い木造建築が、まるで生き物のように悲鳴を上げている。
人里離れた深山の奥。稲神家は戦前からこの地に根を張る巨大な木造建築だ。降り積もる白雪の中で、息絶えてなお異様な存在感を放つ巨木のように佇んでいる。電気は通っているが、電話線は昨夜の嵐で切れたらしい。まさに陸の孤島だった。外部との連絡手段は、完全に断たれている。
「叔母さん、落ち着いてくださいよ。こんな猛吹雪だ。弁護士だって立ち往生してるかもしれません」
冷笑交じりに吐き捨てたのは、四十がらみの男、次男の慎吾だった。仕立ての良いスーツを着ているが、全身から安酒の匂いが漂う。彼は既に三杯目のウイスキーを傾けていた。その手は微かに震えている。酒のせいか、それとも何か別の理由か。
「……おじい様は、本当に病気で亡くなったのでしょうか?」
ぽつりと呟いたのは、宗玄の孫娘である美奈だった。二十歳前後の、透き通るような白い肌を持つ儚げな少女だ。彼女だけが黒い喪服に身を包み、ソファの端で震えるように縮こまっている。その瞳はどこか虚ろで、この場の空気に溶け込もうとしていないように見えた。
「当たり前でしょう。余計なことを言うんじゃないわよ!」
麗子が鋭く睨みつける。その視線には威嚇に近い警告が込められていた。彼女は宗玄の長女で、この館の実権を握っている。派手な真珠のネックレスが、暖炉の火を受けてギラギラと光っていた。その指には、いくつもの指輪がはめられている。すべて、宗玄の遺産を当てにして買ったものだろう。
親族たちの諍いから少し離れた場所に、私立探偵の神代寺が立っていた。くたびれたトレンチコートの男。その鋭い眼光は部屋の中のすべてを冷徹に観察している。彼は口を挟まず、ただ観察者に徹していた。この家族の空気は、彼にとっては異様なものではない。表面上は悲しみを装っているが、その目は遺産のことで頭がいっぱいなのは資産家の家ではよくあることだ。
神代寺は数日前、生前の宗玄から直接手紙を受け取っていた。『自分が死んだら、必ず館に来てほしい。一族の醜悪な争いと、そこに隠された真実を見届ける第三者となってくれ』という不穏な依頼だった。手紙には、遺産相続を巡って必ず争いが起きること、そして「あの日の罪」が明るみに出るだろうと書かれていた。神代寺はその手紙を、今も胸ポケットにしまっている。
この館には、怪しげな要素が多すぎる。
ホールの中央に鎮座する、黒い巨大な熊の剥製。その毛並みの一部は削り取られたように不自然に薄くなっている。よく見ると、剥製の腹の部分に、何か鋭利なもので切り取られた跡があった。
壁に掛けられたのは古びた家系図だ。その中で一人分の名前が、赤黒いインクで執拗に塗りつぶされている。塗りつぶされた箇所は塗料が何層にも重ねられており、どうやらその存在を消すことに執念を燃やしたかのようだ。そのため、今となっては誰の名前かは、判別できない。
そして、廊下の突き当たりにある地下室への分厚いドア。南京錠で固く閉ざされている。鍵は宗玄自身が持っていたはずだが、遺品の中には見当たらなかった。中には何があるのかは、屋敷にいる誰も知らない。
「お待たせいたしました」
ホールの扉が開き、老執事に導かれて宗玄の顧問弁護士が入ってきた。その手には、分厚い封筒が握られている。弁護士は雪で濡れたコートを脱ぎ、一礼した。彼の眼鏡には、暖炉の火が反射している。
「これより、故・稲神宗玄様の遺言状を開封いたします」
弁護士は紙を広げ、読み上げた。その声は、ホールに冷たく響いた。
『稲神家の遺産は、単に稲神の血を引く者へ譲るにあたらず。我ら一族の深き罪を背負う者がすべて消えた時、真実は犬の眠る場所から現れる――。遺言の執行は、罪を償いし者、あるいは最後まで生き残りし者に委ねる』
怒号がホールに響き渡った。
「何だって! そんな遺言があるか!」
「罪って何よ! あの人は正気だったの!?」
「まさか、俺たちを試しているのか?」
狂乱する一族をよそに、神代寺は壁際で眉をひそめていた。
「罪」とは何か。「犬の眠る場所」とはどこか。そして「最後まで生き残りし者」という言葉が、不気味に耳に残った。
その夜、吹雪はさらに激しさを増していった。窓の外では、何かが唸るような音が聞こえる。それは風の音か、それとも――。
「ひぃっ――! 助けてくれ!」
深夜午前二時。悲鳴が轟音を突き破って響いた。神代寺はベッドから飛び起き、懐中電灯を手に取ると、庭へと走る。背後からは恐怖に青ざめた麗子や美奈、執事たちがついてくる。足音が、古い廊下に響き渡る。
雪は既に膝の高さまで積もっていた。足を取られながら、声のした方へ進む。吹雪が顔を叩きつける。視界は悪く、懐中電灯の光だけが頼りだ。
庭の奥にある使われていない古井戸。周囲には膝丈まで雪が積もっているのに、井戸の周囲だけが高熱に晒されたかのように雪が溶け、激しい湯気が立ち上っていた。地面が露出し、そこだけ異様な熱気が漂っている。まるで、地獄の釜が開いたかのようだ。
「慎吾様! 慎吾様ですか!?」
神代寺は井戸の底へ光を向けた。
冷たい石の底に転がっていたのは慎吾だった。しかしその姿は異様だった。全身からぎっしりと「密生した黒い毛」が生え出しているように見えたのだ。服を突き破り、皮膚の内側から湧き出したかのような毛並み。顔は恐怖に硬直し、白目を剥いていた。まるで人間が熊に変異している途中のような、悍ましい姿だった。口は大きく開かれ、最後の悲鳴を叫んだまま固まっている。
井戸の内壁には、赤黒い塗料でこう書かれていた。
『一匹目』
「事故よ! すぐに警察を!」と叫ぶ麗子に、老執事は静かに答えた。
「電話線が切られております。おそらく、昨夜の吹雪で」
「何ですって!? じゃあ、どうやって連絡を取るのよ!」
「落ち着いてください。朝になれば、何とか手段を考えましょう」
麗子はヒステリックに叫び続けたが、老執事の冷静な対応に、次第に沈黙した。しかし、その目は依然として恐怖に満ちていた。
神代寺は手袋をはめ、井戸の周囲と慎吾の遺体に付着した「毛」を観察した。指先で摘むと、強烈な化学糊の匂いと、微かな熱反応、そして白濁した粉末の付着が確認された。
(毛が体から生えているのではない。剥製の毛だ。そしてこの湯気と不自然な熱……化学反応の熱だ。生石灰を使ったのか?)
神代寺は顔を上げ、ホールの剥製を思い出した。あの不自然に薄くなった毛並み。まさか、あれが使われたのか。そして、生石灰。あれは建築現場や、一部の化学実験で使われるものだ。この館のどこかに、保管されているはずだ。
「皆さん、部屋に戻ってください。これ以上、現場を荒らさないでいただきたい」
神代寺の冷静な声に、麗子は何か言いかけたが、老執事に促されて渋々引き返した。美奈だけは、井戸をじっと見つめたまま、動こうとしなかった。その瞳には、恐怖ではなく、むしろ何か別の感情が浮かんでいるように見える。
「美奈さん、あなたも戻りなさい」
「……はい」
彼女は小さく頷き、ゆっくりと歩き出した。その背中が、雪の中に消えていく。彼女の足跡は、すぐに吹雪でかき消された。
翌朝。吹雪は少し弱まったが、依然として外は白い世界だった。神代寺は生前宗玄が使っていた書斎の鍵を解錠し、内部を調べ始めた。机の引き出し、本棚の裏、床の隙間。丹念に探っていくと、一冊の傷んだ革表紙の日記を見つけた。表紙には「稲神家の記録」と書かれている。それは、長い間、誰にも見つからずに隠されていたようだ。
ページをめくると、三十年前の惨劇が記されていた。
――三十年前。
稲神家は土地を手に入れるため、長年仕えていた「使用人一家」を強盗の仕業に見せかけて殺害し、古井戸の底へ遺棄した。夫婦と二人の子供。四人の命が、一族の欲望のために奪われた。遺体は井戸の底に積み重ねられ、石灰で覆われたという。
『私、麗子、慎吾で一家を手にかけた。だが、幼い娘一人だけが行方不明となった。あの生き残りが、いつか復讐に来るかもしれない……』
手記を閉じた時、扉の隙間から喪服の美奈が覗いていた。その瞳は、昨日までとは違う、冷たい光を宿していた。まるで、すべてを知っているかのような目だ。
「探偵さん……何て書いてあったの?」
「三十年前の出来事だ。君は何か知っているのか?」
「知っているわ。だって……ずっと、井戸の底で語り継がれてきたことだもの」
美奈はくすりと笑い、廊下の奥へと消えていった。その笑顔には、少女らしさとはかけ離れた、底知れない暗さがあった。彼女の足音が、遠ざかっていく。
神代寺は日記を鞄にしまい、書斎を後にした。廊下を歩きながら、彼は考える。
(美奈は何かを知っている。いや、知っているだけではない。彼女はこの事件の鍵を握っている。そして、あの笑顔は――復讐を誓う者の笑顔だ)
その日の午後、第二の事件が起きた。場所は、敷地の外れにある古い礼拝堂だ。誰も使っていないはずのその場所から、物音が聞こえたと老執事が報告してきた。神代寺はすぐに駆けつけた。
礼拝堂の扉は、内側から施錠されていた。老執事が合鍵で開ける。中は薄暗く、ステンドグラスから差し込む光だけが、異様な光景を照らし出していた。
駆けつけた時、麗子は高い天井の梁から太いロープで『逆さ吊り』にされ、首を折られて絶命していた。彼女の高価な真珠のネックレスは、床に散らばっていた。まるで、無惨な装飾品のように。
床一面には無数の「巨大な犬の足跡」が刻まれていた。足跡は入口から始まり、麗子が吊るされている真下まで続き――そこで途切れていた。跳躍した跡も人間が歩いた痕跡もない。窓もドアもすべて内側から施錠された完全な密室。まるで、巨大な犬が現れて、彼女を吊るし、そして消え去ったかのようだ。
壁には、血でこう書かれていた。
『二匹目』
「畜生……またか」
神代寺は床の足跡を調べた。深さは均一で、明らかに人間の体重を支えている。しかし、足跡は入口から麗子の真下まで一直線に続き、そこで終わっている。戻った形跡はない。
(逆向きの足取りか? いや、それなら足跡の向きが逆になるはずだ。これは……後ろ向きに歩いたのか? 足跡の深さをよく見ると、かかと側が深い。つまり、後ろ向きに歩いた証拠だ)
さらにその日の深夜、第三の事件が起きる。顧問弁護士が地下書庫で巨大な本棚の下敷きとなり即死していた。壁には『三匹目』と書き残されていた。本棚は数百冊の本を収めた重厚なもので、一人で倒せる代物ではない。まるで、何かの力が本棚を押し倒したかのようだ。
神代寺は、生き残った美奈と老執事をホールに集めた。暖炉の火だけが、部屋を照らしている。三人の影が、壁に大きく揺れている。
「すべて、人間の手によるトリックです。種明かしをしましょう」
神代寺は静かに語り始めた。その声は、暖炉のパチパチという音に混じって、冷たく響いた。
「まず、慎吾さんの井戸の怪現象。あれは生石灰の水和反応を利用した化学実験です」
神代寺は摘み取った黒い毛を見せた。
「犯人は前もって井戸の中に大量の乾燥生石灰を投げ込んでおいた。そこへ水を流し込めば、200度近い高熱と激しい水蒸気が発生します。犯人は麻痺させる毒を盛った慎吾さんに、ホールの剥製から削り取った毛と、熱収縮性の高いゼラチン系強力接着剤を塗りたくって井戸に落とした。生石灰の熱と湯気によって接着剤が瞬時に強力に収縮・乾燥し、皮膚と衣服を引っ張り上げたことで、まるで『体内から毛が生え出た』かのような立体的な視覚錯覚を作り出したのです」
老執事が息を呑む。美奈は無表情で聞いている。その瞳は、暖炉の火を反射して、不気味に光っている。
神代寺は続ける。
「礼拝堂の『空中へ消えた足跡』は、人間の心理を利用した逆向きの足取りです。犯人は犬の足型を付けた履物を履き、逆さ吊りの位置から入口に向かって、後ろ向きに歩いて足跡をつけました。つまり、足跡は奥へ向かったのではなく、奥から入口へ向かって足跡を消しながら戻ってきたのです。足跡の深さを見れば、踵側に強く体重がかかっていた。逆さ吊りは梁にロープを通し、屋外から窓の隙間を通して牽引して吊り上げた後、糸を使った古典的なカギ落としで内側から施錠した」
「では……地下書庫の本棚は!?」
「あれは氷の融解による重心破壊です。本棚の前脚の下に、緻密に長さを計算した氷のブロックを噛ませて前傾姿勢で固定しておいた。部屋の暖房を入れて氷が溶けた瞬間、本棚は自重で倒壊する。犯人はその時間にアリバイを作ることができた」
神代寺の鋭い視線が注がれる。
「三十年前の復讐を実行できたのは……美奈さん、あなたですね?」
美奈は俯いたままくすくすと笑い出した。その笑い声は、次第に大きくなり、ホールに響き渡った。それは、狂気の笑い声だった。
「……さすがね、探偵さん。そうよ、私は三十年前の井戸から逃げ延びた使用人の娘。本物の美奈が事故死したことを知り、すり替わった。両親を殺した稲神の一族を一人残らず排除するために」
美奈は懐から小さな薬瓶を取り出した。中には無色透明の液体が入っている。それは、暖炉の火を受けて、キラキラと光っていた。
「稲神の血は、これで途絶えるわ」
神代寺が制止する間もなく、美奈は劇薬を仰いだ。彼女の体が激しく痙攣し、口から泡が溢れる。それでも、彼女は満足気な笑みを浮かべて床に倒れ伏した。
「これで……私の復讐は……終わった……」
彼女の瞳から、ゆっくりと光が消えた。その顔には、安堵の表情が浮かんでいた。
翌々日。吹雪がようやく止み、警察が到着した。解錠された地下室の最奥から、三十年前に殺害された使用人一家の遺骨が発見された。遺言状にあった『犬の眠る場所』とは、剥製ではなく、かつてこの館で「犬のように扱われ殺された使用人たち」が眠る地下墓地のことだったのだ。遺骨は、丁寧に布に包まれていた。まるで、誰かに弔われるのを待っていたかのように。
事件は解決したかに思われた。しかし、神代寺は警察の調書に署名しながら、老執事に向き直った。
「……執事さん。ひとつだけ、説明がつかない点があります」
老執事は静かに耳を傾ける。その表情は、まるで能面のように動かない。彼の手は、微かに震えていた。
「美奈さんは華奢な若い女性です。いくら滑車を使おうと、大柄な麗子さんを天井高く吊り上げるだけの腕力は単独では出せない。また、慎吾さんを麻痺させ、井戸まで運ぶのも一人では不可能だ。そして何より――館の薬品保管庫の鍵と、生石灰の大量調達、礼拝堂の糸の仕掛けを事前に設置できたのは、館の全鍵を管理し、何十年もこの構造を知り尽くしている人物しかいない」
神代寺は静かに告げた。
「三十年前、幼い美奈さんを逃がし、今回の一連の殺人を陰で物理的に補助した『共犯者』がいた。……違いますか?」
老執事は表情ひとつ変えず、深く、深く一礼した。
「さあ……わたくしには何のことか。ただ、この静寂こそが、この館に相応しい結末かと存じます」
神代寺はそれ以上追及しなかった。確たる証拠は、吹雪と共に消え去ったからだ。老執事の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだように見えたのは、気のせいだろうか。彼の目は、遠くを見つめていた。
白銀の山道を下りながら、神代寺は振り返る。雪に覆われた館は、まるで何もかもを飲み込んだかのように静かに佇んでいた。
そこに怪異やオカルトなど存在しない。ただ人間の醜い執着と、綿密に組み上げられた冷徹な物理トリックだけが、雪の中に静かに眠っていた。
そして、もう一人。真実を知る者が、あの館に残されている。
神代寺は、トレンチコートの襟を立て、山道を下り始めた。彼の足跡は、雪の中に長く続いていた。
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