コンコン。戸を叩く音がした。イーサが返事をすると先生が入って来た。先生はにこやかに笑い挨拶をするとイーサもにこやかに返事をする。
最低限の家具に真っ白な質素な部屋をコツコツと歩いて先生はイーサの向かいに座る。
「気分はどう?」
「まあまあだね」
「ロリポップの事は?」
「それを考えない日はないよ。欲しいね」
先生はイーサの発言をメモする。
「ここに来てから君もそれなりに長い。少しは他の事にも関心は出て来たんじゃないか?」
「例えば?」
「ここにはテレビもある。新聞も。スポーツの事とか、地元のイベントとか。美味しい物とか、そんなのだよ」
イーサは静かに頷いた。相変わらず他の事には大して興味がないようだ。先生は小さくため息をついた。長らくロリポップにハマっていたので、すぐに改善されるとは思っていなかった様子だが、こうして治療を続けていてもあまり効果は見られない。
それでも先生はイーサの様な人でも社会に復帰させるべきだ、更生させられると信じたかった。彼は話には応じるが無口で中々会話が続かない。
ところが、今日のイーサは少し饒舌だった。
「先生はいつも質問ばかりだな。他の事に関心がある先生はどうなんだ?」
先生は少し嬉しくなった。これまで口数少なく円滑なコミュニケーションが中々できなかった彼が、ほんの少しでも自分に興味を持ってくれたのだ。
「僕?僕はね、朝から美味しいご飯を食べるんだ。休暇にはドライブに行く事もあるよ。たまに友達と遊んだり…。そうだな、時には恋人とデートに行ったりする」
先生が楽しそうに話すと、イーサも心なしか微笑んでいる様に見えた。
「イーサ、君だってもっと健全な幸せを享受できる様になるよ。今はロリポップの事が忘れられないかもしれないけど、この世界で最も素晴らしく尊い物は幻の中じゃなくリアルにあるんだよ」
「そうかもしれねえな」
イーサも少しずつ変化している。そんな手応えを感じた。その日は時間が来たのでそこで話を切り上げた。見送るイーサ。先生が手を振るとイーサも手を振り返した。
コンコン。返事が返ると先生が戸を叩いた。イーサが彼を中に入れる。先生はご機嫌そうだった。イーサもそんな先生に釣られてか少しご機嫌そうだった。椅子に座るなり、いつもの様な質問ではない話を切り出した。
「聞いたよイーサ、友達ができたんだって?」
先生は同僚からイーサが誰かと仲良くしている話を聞いていた。それまで塞ぎ込んて誰とも積極的に関わろうとしなかった彼がである。大きな進歩だった。
彼は小さく笑った。
「掃き溜めには同じロクデナシが集まるもんさ」
「良くないな、そう言う言い方。でも良かったよ、君の社会復帰への第一歩だ!」
「そうかもしれねえな」
「それで、どんな話をしたんだ?」
「好きなお菓子とか、応援してるスポーツの事だな。ちょいと頭が悪いが話の分かる奴だぜ」
友達の名前はマックスと言うらしい。彼もイーサと似た理由でここへ来る事になった様だ。それで話も合うのだそう。こんな感じの話に花を咲かせ、しばらくすると面会時間の終わりが迫って来る。
「…先生が嬉しそうなのは、俺の事の他に何かありそうだな。恋人と進展でもあったか?」
見抜かれて先生は照れ笑いをする。
「実はこの間のデートでプロポーズに成功したんだ。それで、式場はどこでとか、新婚旅行はどこへ行くかとか、そんな事を考えると幸せが溢れてね。今でも信じられないよ」
そんな先生をイーサはニッコリと笑って祝福する。
「おめでとう。あんたに祝福あれだ」
「ありがとう。君も幸せに向かって一歩進み出した。いつか、僕みたいに運命の人に巡り会える。愛する事も、愛される事もとても幸せだ。君にもその幸せを手にして欲しい」
イーサは苦笑した。
「きっとそうだといいな」
それから時間が来るまでイーサは先生の惚気話に付き合っていた。彼も満更ではなさそうだった。
コンコン。返事がない。コンコン。今度こそ返事があった。イーサは歯磨きをしていたらしい。彼は口を濯いでから椅子に座る。先生はいつもの様に「調子はどう?」と尋ねる。しかしイーサは肩を竦めた。
「こっちのセリフだな。元気ないぜ。まるでお通夜みたいなムードじゃないか」
「僕の事はいいから」
「いいや。良くないね。あんたは俺に自分以外の事に関心を持つべきだと言っただろ?あんたがそうだ。つい最近の元気が嘘だった様にまるでない。何かあったんだろ?」
先生はため息をついた。イーサは先生が語るまで待っている。彼は少し躊躇ったが最近の出来事について話し出した。
「…浮気されてたんだ。ずっと前から」
「酷いな。でも、プロポーズは上手く行ったんたろ?浮気相手とは別れてもらえよ」
やや怒りを滲ませるイーサに対して首を横に振る先生。
「僕と結婚したかったのは浮気相手と遊ぶための金の欲しさからだったんだよ。僕はどうせ仕事で忙しくて家に殆どいない。僕の金を自由にできると思ってたんだろうね。本命は浮気相手だったんだよ」
いつもは穏やかで人を悪く言いそうになかった先生がこの時ばかりは怒りと悲しみを抑えられない様子だった。余程惚れ込んでいたのだろう。イーサは何かの勘違いじゃないかと疑ったが、会話の履歴から密会まで証拠を押さえてあるらしい。
破談を切り出した時は恋人も何とか先生を引き止めようとしたが、復縁の見込みがないと理解するや否や散々な人格否定をして去っていったらしい。
「…いい勉強になったよ。これから再スタートを切るためのね。成功もあれば失敗もあるのが人生なんだ」
イーサは首を横に振る。
「俺に気遣って無理にいい話にしなくていいぜ。あんたは深く傷付いた。辛い。それっぽい哲学で癒えるほど心は単純じゃないだろ」
「ごめん…」
うなだれる先生の背中をさするイーサ。彼はポケットから何か小さな箱をを取り出した。それを見せると先生はギョッとする。
「ロリポップじゃないか…。どこでこんな物を?」
「まあ一服やれよ」
先生は首を横に振った。
「いや、遠慮しとくよ」
イーサはロリポップを一本取り出すと火をつけて手渡そうとする。
「あんたはまともな人生を歩む事で得られる物はロリポップ以上の価値があると諭したよな。でもあんたはロリポップを吸った経験がない。これを吸った上で、それでもまともな人生で得られる物がロリポップ以上と言えたら、俺はこれを絶つ事ができるんだ。教えてくれよ、どうなのか」
ロリポップを経験した人間でなければまともな人生とは比較できない。それがイーサの考えだった。きっと間違えているとは先生も思ったが、彼の言葉にも一理あると思ってしまった。
イーサは無言で火のついたロリポップを差し出している。先生は震える手でそれを受け取り、口につけると大きく息を吸い込んだ。先生は思わず咳込んだ。イーサはゆっくり、少量から少しずつ吸うんだとコツを教える。
先生はゆっくり、少しずつ煙を吸う。
パチ…パチパチ。頭の中で小さな気泡が浮かんで弾けていく感覚がする。一つ一つの泡がまるで悩みの様で、それが弾けて体が楽になる気がした。体が軽い。まるで幼い頃の微睡みの中の様な穏やかな気分になる。
吸って、吐いて、吸って、吐く。何もかもどうでも良くなって行く。何もかもどうでも良くなって、ただただ気持ちがいい。
これ一本で自身を苛む全てから解放されて、こんなに穏やかな気持ちになれるなら、この平穏を求めて血反吐を吐きながらやって来た苦労は一体何だったというのか。先生は堰を切った様に泣き出す。
「う…うう…」
泣いている先生の隣でイーサも箱から一本のロリポップを取り出し、火をつけて吸う。
「…先生。俺はあんたの幸せは否定しねえよ。あんたは確かに幸せだった。あんたみたいに幸せを手にできる事もあるのかもしれねえ。でもな、俺にとってのリアルは全てここにあるんだ。この、吹けば飛ぶような煙の中にしかねえ」
ロリポップの煙が室内を満たして行く。2人の幸せは火のついたロリポップが消えるまで続いた。
今作は短め